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吉之助の雑談47(令和7年1月〜6月)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Bプロ・昼の部・その3

史実の浅野内匠頭は生来短慮な性格であったと伝えられます。しかし、辞世の歌を読むと・つい先ほど殿中で脇差を振り回して暴れた男の歌と思えない静かさでありますねえ。

風さそう はなよりもなお われはまた 春の名残りを いかにとやせん

これは吉之助の推測ですが、刃傷事件について世間の浅野に対する同情にこの歌が果たした役割は結構大きいものがあったように思われます。この歌からは、自分が犯した事の重大さに今更ながら気付いて裁きを神妙に受け止める気持ちが感じられます。死してなお恨みを晴らさんという雰囲気はここには微塵も見えません。しかし、理由は何だか分からないが、内匠頭が激しく怒ったことは事実です。このギャップが人々にどことなく「荒ぶる神(怒れる神)」を想起させます。これは辞世の歌の内匠頭のイメージが無力・無垢であるからそうなるのです。例えば天神様・菅丞相(菅原道真)もそうです。歌舞伎の荒事に出て来る主人公たち(御霊)はみんな、政治だか世の中だか、理不尽なことに強く怒っているのです。

文楽の四段目を見ると、判官は死ぬ間際まで「無念」の感情を持ち続けており、最後に「由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が欝憤を晴らさせよ」と明確に命令をしています。しかし、歌舞伎の四段目では、大筋のところは踏襲していますが、意志伝達のプロセスが極力曖昧にされています。それは判官と由良助との無言の対話で描かれます。その分、判官のイメージが清らかで無力なものになっています。つまり判官を辞世の歌のイメージに近づけているのです。これが長い歳月を掛けて歌舞伎が行ってきたことです。

喧嘩場(三段目)で判官が怒り出すのは鮒侍の件ですが、それは芝居のきっかけに過ぎないのであって、判官が怒るのは何かもっと大きいことです。それはこの世に蔓延る悪意・理不尽さに対する強い怒りでなければなりません。判官をそのような印象に見せるために、おっとりして滅多に怒らなそうな温厚な男が何か突如として激しく怒り出す驚き(ギャップ)が必要です。そこから清らかで無力な判官の印象が浮かび上がります。この点で吉之助が思い出す理想的な判官役者は、やはり七代目梅幸です。

今回(令和7年3月歌舞伎座)の「仮名手本」通し上演ではAプロの勘九郎の判官が見事なものでしたが、Bプロの菊之助の判官もこれに負けず劣らず見事なものでした。この両人の判官を、今回通し上演の一番の成果としたいと思いますね。勘九郎の判官は「あはれさ」をベースに殿中で抜刀せざるを得なかった我慢のプロセスをしっかり描いて見せました。これに対し菊之助の判官は、「清らかさ」がまず先に在って・つまり師直は「この男ならこのくらい甚振っても怒りはしない」と安心して判官を虐めるわけですが、判官が突如ブチッと切れて怒り出す。菊之助の判官には、そのような怒りの唐突さが見えます。だから判官の「清らかさ」の印象がますます引き立つのです。四段目の判官も当然良い出来です。菊之助の持ち味の「かつきり」した印象が、判官の「清らかさ」を写実に見せながらも、それがきっちり様式に落とし込まれていく感じです。(これは同じくAプロでの菊之助の勘平もまったく同じような印象です。)これはまさに祖父・七代目梅幸の判官の感触を思い出させるものでした。

芝翫の師直は持ち味の風格の大きさを生かして・このくらい出来て当然だと思いますが、欲を云えば滑稽味を出そうとして・やや重量感を損ねているのではないかな。芝翫ならば二代目松緑の師直を覚えているはずです。どす黒い・この世の悪意を体現した人物、そんなずっしりした質感が欲しいところではあります。(この稿つづく)

(R7・8・2)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Bプロ・昼の部・その2

顔世御前は切腹して果てる判官の奥方と云うことだけで悲劇のヒロインの資格十分ですが、師直と判官との諍いの原因がそもそも自分にあると云うことで、その悲劇性が一段と濃いものになるはずです。しかし、判官は何故これほど師直に虐められねばならぬか事情が分からないまま怒り狂って刃傷に及んでしまいました。当然由良助もそこのところの事情を知る由もありません。以後は由良助が主人の怨念を引き受けて・討ち入りへと筋が進みますから、「仮名手本」後半(五段目以降)では「恋歌の意趣」の件が忘れ去られたかの如くです。こうして顔世は事情を誰にも打ち明けられず、長い悔悟の日々をこれから過ごさねばなりません。

そう云うわけで「仮名手本」では「恋歌の意趣」の趣向が尻切れトンボの感がせぬこともない。この点は「仮名手本」作者も気になったのではないでしょうか。まあその後の筋の展開のアイデアは沢山あったであろうし、筋の整理は避けられないことです。その過程で捨てられてしまったのでしょうが、顔世の件で「仮名手本」に筋を通すと云う選択肢も有り得たかも知れませんね。

ところで昨年(令和6年)10月に東京バレエ団による「ザ・カブキ」(モーリス・ベジャール振付・演出)を見ました。本作は「仮名手本」を要領よくアレンジして約90分のバレエに仕上げたものです。その場割りを見ますと、

第1場(兜改め)、第2場(おかる・勘平)、第3場(殿中松の廊下)、第4場(判官切腹)、第5場(城明け渡し)、第6場(山崎街道・勘平切腹)、第7場(一力茶屋)、第8場(雪の別れ)、第9場(討ち入り・切腹)

となっています。一見してお分かりの通り、加古川本蔵絡みの件(二・八・九段目)が省かれて、代わりに「南部坂雪の別れ」が挿入されています。(もう一つ最後に四十七士の切腹シーンが挿入されているのが大きな変更点ですが、これについては「ザ・カブキ」観劇随想を参照ください。)「南部坂雪の別れ」は、講談・あるいは黙阿弥の「四十七刻忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)」として有名なエピソードです。ただし討ち入り前夜に内蔵助が瑤泉院の元を訪ねたという史実はなくて、これは作り話です。

ベジャールの「ザ・カブキ」(雪の別れ)では、発覚を恐れて由良助は最後まで顔世に討ち入りの意思を明かしません。顔世は失望し、背後に判官の霊が現れて由良助に仇討ちの命令の遂行を求めます。討ち入りの直前に「雪の別れ」を挿入することで、「ザ・カブキ」は情念のドラマとしての筋を一本通すことが出来ました。これはベジャールの発案でないのは明らかですが、誰がベジャールにアドバイスをしたか、黛敏郎か花柳寿輔かは分かりませんが、慧眼であると思いますね。

上記考察は「仮名手本」通しに「南部坂雪の別れ」を加えるべしと書いているのではありませんので、そこのところはご注意ください。ただ「仮名手本」(と云うよりも「忠臣蔵」と云うべきですが)を読む時に顔世(=瑤泉院)の悲しみを思いやる気持ちを持っていたいと思うのみです。それが仇討ちに懸ける内蔵助たちの思いを清らかなものにします。

芝居を見ながらそんなことを考えたのは、多分、四段目での時蔵の顔世の出来がとても良かったからでしょう。昨年(令和6年3月歌舞伎座)の「寺子屋」の千代のことを思い出します。この顏世に於いても、顔世の悲しみがこの薄幸な女性の「人生」或いは「宿命」そのものに見えました。吉之助がこれまで見たなかでも出色の顔世でありましたね。(この稿つづく)

(R7・3・30)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Bプロ・昼の部・その1

本稿は令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Bプロ・昼の部の観劇随想です。歌舞伎座での通し上演は平成25年・2013・11〜12月(二か月連続)以来のことになります。

舞台について触れる前に、例によって作品周辺を逍遥したいと思います。「仮名手本」が赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(元禄赤穂事件)を材料としていることは周知の通りです。当時はこうした事件をそのまま劇化することは許されませんでしたから、便法として室町期の架空の出来事として・「太平記」を下敷きにして「仮名手本」が成立しているわけです。史実の浅野内匠頭は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んで吉良上野介に斬りかかったと伝えられています。刃傷の原因が何であったかについては諸説あり、現在も定説がありません。しかし、何が原因だか分からぬと云うことは、芝居では何を原因にしても「それもあり得る」と云うことでもある。だから「仮名手本」では塩治判官の美しい奥方に高師直が懸想して・それで判官に嫌がらせをしたのが刃傷の原因だと云うことにされています。

これについては「太平記」巻21・塩冶判官讒死の事に典拠があります。「太平記」が描く高師直(足利尊氏の執事)は、神仏をも畏れぬ悪逆非道の人物です。その師直が塩冶判官の奥方(名前は記されていない)に懸想して、判官が陰謀の企てをしていると讒言し、遂に塩治一族を皆殺しにしてしまう話が出てきます。塩冶家の滅亡は史実ですが、師直の恋についてはこれを裏付ける同時代史料が見当たらず・作り話の可能性が高いそうです。実際には判官と吉野南朝との繋がりが深かったことが謀反の噂の遠因であったようです。まあそれは兎も角、江戸期には「太平記」の話がホントのことだと信じられていました。当時は「太平記読み」と云うことが盛んに行われており、武士のみならず庶民にとっても歴史観・倫理観の基礎になっていたのが「太平記」でした。だから観客は「太平記」の世界定めの大まかなところを心得ていたわけで、「仮名手本」で恋歌の意趣を刃傷の原因とすること自体は、ごく自然な成り行きだったのですね。

それにしても師直が恋の意趣返しで塩冶家を滅ぼしてしまった件は、「太平記」の記述がホントであるならばの話ですが、まったく理不尽なことで・ヒドい話ではありますねえ。こうした事情も重なって歌舞伎の「仮名手本」の方の師直のイメージも(つまり吉良上野介のことですが)この世の悪意を体現したかのような人物に仕立てられていくわけです。(この稿つづく)

(R7・3・29)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その6

愛之助の由良助は初役ですが、当然ながら仁左衛門の型をその通り踏襲しています。仁左衛門型の性根は、「計略のための見せ掛けの遊興」と云うところにあります。「俺は遊びたくて遊んでいるのではなく、実は俺には深い考えがあるのだよ」という面をはっきり押し出した割り切れた由良助なのです。例えば力弥から手紙を花道七三で受け取る場面などでは、仁左衛門の由良助は完全に酔いが醒めて・ギラリとした目付きに変わります。だから或る意味・始めから底を割ったようなきらいもありますが、「口ではああは言っても、本心はそうではないんだよ」と云うのがよく分かるので、初見の観客にも理解がしやすい由良助だと思います。そこが仁左衛門型の特長と云えましょうか。

ただし同じ手順であっても、役者の持ち味によって型の色合いが違って見えるものです。仁左衛門ならばその持ち味である優美な特性が、着物の裾からギラリと覗く刃の煌めきを適当に覆い隠してくれます。高調子の台詞廻しが遊郭の華美な印象を裏打ちすることにもなるでしょう。他方、愛之助は仁左衛門型をよく咀嚼し・丁寧に演じていると感心しますが、愛之助の持ち味としては、これは仁左衛門と比べた場合の話ですけれど、色調がいくらか渋い印象になるかも知れません。(酔態が弱いということを云っているのではありません。それはまた別次元のこと。)だから同じ仁左衛門型であっても、愛之助の由良助の方が実(じつ)の要素がより強く出ることになる。よりオーソドックスになるとも云えます。つまり「俺は遊びたくて遊んでいるのではなく、実は俺には深い考えがあるのだよ」と云う仁左衛門型の本質が、愛之助の方により強く現れることになる、これが愛之助の由良助の特長であったかと思います。

別稿「誠から出た・みんな嘘」・「七段目の虚と実」で論じた通り、七段目はぐるぐる廻る万華鏡のような乖離した感覚に読むことも出来ます。そのような読み方もありますが、しかし、仇討ち狂言(=返り討ち狂言)としての「仮名手本」の根本はもちろん実の要素にあるわけですから、由良助の実を踏まえなければ・いずれにせよ七段目は始まりません。愛之助の由良助は、初役にして立派な成果を挙げたと思います。嘘を実に紛らせる「やつし」の技巧は、今後役を繰り返し演じるなかで自然と身に付いて行くものです。

今回(令和7年3月歌舞伎座)の七段目の実の印象は、もう一人・巳之助の平右衛門から来るものでもあります。肝心なことは、嘘と虚飾に塗り固められた遊郭の世界(七段目)に在って、平右衛門だけが唯一まともな人間であると云うことです。そのような平右衛門の実の性格は

「・・髪の飾りに化粧して、その日その日は送れども、可愛や妹、わりゃ何にも知らねえな」

というお軽への嘆きの台詞によく出ていますが、例えば冒頭の三人侍に付いての登場でも、由良助の遊興三昧に業を煮やして・事によったら手討ちにせんといきり立つ三人侍(つまり彼らは状況の返り討ちに陥る瀬戸際なのです)に対して平右衛門の方がずっと冷静であって、事の真偽をしっかり見極めようとする心がある、そんなところを考えれば、平右衛門が唯一の真人間であることはすぐ分かることだと思います。巳之助は、そのような平右衛門の実の要素を手堅く表現して好演です。

だからお軽も本来ならば実に根差すべきことになりますが、廓での生活に染まってしまってお軽は実の性格を一時的に忘れてしまっていました。だから兄妹の会話はすれ違いを繰り返し、無意味なジャラジャラにならざるを得ません。そのような遊女の哀しみを時蔵のお軽はとても上手に表現しました。時蔵は五段目のお軽も良かったですが、七段目のお軽はさらに良い。横顔にちょっと陰の差すような女性がホントに似合いますねえ。

平右衛門・お軽兄妹の協力も相まって、七段目の実の要素が色濃く反映した舞台に仕上がったと思います。通し狂言として、菊之助の五・六段目に・この愛之助の七段目を繋げると、仇討ちに参加出来ぬまま死んだ勘平の無念の思いがいくらか晴らされ、お軽は苦界から救い出されて、平右衛門は四十七士に加えられることとなる。六段目では未解決のまま置かれた筋が七段目で回収されて(まあ完全にと云うわけでもないのだが、それについてはこちらをご覧ください)、通し狂言としての充実感が高まった感じがしますね。

(R7・3・28)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その5

このように菊之助の勘平は論理的な段階をしっかり踏んで演技していますが、ただ一ヶ所だけ疑問の箇所があります。しかもそこが大事な箇所なのでちょっと触れて置きますが、それは「自分が殺したのは舅だ」といつの時点で勘平は思い込んだのかと云う問題です。

菊之助の勘平は、お才が「縞の財布」の話をしている最中は目線をスルーして、ほとんど目立った反応を見せませんでしたねえ。この時点で自身に舅殺害の疑いが生じたわけではなかったようです。疑念が生じるのは、1)お才が「与市兵衛が祇園町を出たのは四つ半か九つ頃」と言うので・そう云えば「あの場所・あの時刻」にほぼ符合するとフト思い、2)「その財布をちょっと拝見を」と言って現物を手にして見てからの事です。そして3)二つの財布の柄を見比べて見て・まったく同じ縞の模様であることを確認する、以上の三段階を経て、これで「昨夜鉄砲で撃ち殺したは舅であった」とはっきり認識する(ただし思い込みである)のはこの時点だと云う解釈であったかと思います。

そういう解釈もあり得ると思います。しかし、長年歌舞伎で培われて来た音羽屋型の段取りでは、お才が話をしている最中に何気なく財布に目をやる、その瞬間に勘平は「自分が殺したのは舅だったのかも」と疑念を強く抱いたと云う解釈であると吉之助には思えるのですがね。その瞬間、勘平は身が凍り付いて・身体の色が変わったかと思うほどの反応を見せるのです。それでも勘平はまだ「そんなはずはない、自分が殺したのは舅ではない」と思いたい。しかし、「舅の祇園出立が四つ半か九つ頃」・「二つの財布の柄がまったく同じ」という状況証拠が、すがる思いの勘平の希望を無惨に打ち砕いてしまう、こうして疑念は疑念でなくなって・「俺が殺したのは舅であった」という認識に変わる。つまり論理プロセスとしては反対の経路を辿ることになりますが、音羽屋型の段取りは勘平の心理の綾を深く読み込んで・実に巧妙に作られていることに感嘆してしまいますね。まるでヒッチコックの心理サスペンス・ドラマを見るようです。

ですから菊之助の勘平は「縞の財布」に目をやった瞬間身震いするくらいの強い反応を見せて欲しかったと思います。菊之助に対する注文はそれくらいですねえ。今回(令和7年3月歌舞伎座)の五・六段目は、勘平だけでなく・共演者にも良い人材を得て、引き締まった舞台に仕上がりました。菊之助の勘平は「桜花のように散っていく若者の運命の儚さ」を見せて、単独幕のドラマとして高い完成度を見せながら、しかも通し狂言のなかの一幕としての位置付けも見失っていません。世話と時代のバランスが良いと云うことです。主君判官が桜花のように散っていった(四段目)、その後を追いように勘平も儚く散っていった(六段目)、この二人の無念の思いを受け取って由良助はどのような道を行こうとしているのか、これが返り討ち狂言としての「仮名手本」の読み方であると思います。(この稿つづく)

(R7・3・27)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その4

今回(令和7年3月歌舞伎座)の「仮名手本」・Aプロ・夜の部では、まず菊之助の勘平の「かつきり」した印象が心に強く残りました。勘平役者は誰だって「桜花のように散っていく若者の運命の儚さ」を描くことに如才はありません。菊之助の勘平もそこのところはしっかり押さえています。これはニンとでも云うか・視覚的な印象から来ると思いますが、菊之助の勘平はとても優美で美しい。ちょっと優美に過ぎるかもと思えるくらいで、そうなると芝居がムーディー(情緒過多)に流れそうなところですが、菊之助の場合そうならないのです。それは菊之助の勘平の「かつきり」した印象から来ます。論理的にしっかり詰められたところでドラマが動いている。だから芝居が浮つかないのです。菊之助の勘平は「儚い美しさ」がそこに在って、しかもそれが通し狂言のなかでぴたりと嵌まっている印象です。なるほどこれこそ音羽屋の勘平であるなと納得させられます。理知的であって・しかも美しいということです。

菊之助は脚本をよく研究していると感じますね。例えば六段目のドラマは四つくらいに場面を分けることが出来るでしょうが、さらに事細かに心理局面が描写されています。局面は押したり引いたりを繰り返しながら更に次の大きな局面を用意します。その押し引きは、芝居での台詞の微妙な色合いの変化として現れるものです。例えば、勘平が家に戻ると、どうやら内に取り込みのある様子、

「母者じゃ人、ここにおいでのお方は、ありゃあ、どこのお方でごさりまするか」

何気ない日常会話のなかで、これはもう「縞の財布」の発覚に向けての段取りを用意し始めているのです。勘平は昨晩誰だか分からない人を殺して金を奪って、「やったゼ、これで俺は武士に戻れるぞ」と思っています。これから舞台で何が起ころうとしているか、勘平本人にも分かりません。しかし、勘平はどうも気になるのです。形にならない不安とでも云いましょうか。或いは罪の意識がそうさせるのかも知れません。上記の台詞を菊之助はほんのちょっとですがトーンを落として・やや時代に重い感じで言っています。

「コレ着替えを持ってくるならば、ご紋服を持って来てくりゃれ。ついでに、大小も、持って来てくりゃれ。」

客人が誰なのか分からないが、俺は猟師じゃない・元は武士なんだぞ、いざとなったら容赦はしないぞと、多少威嚇を込めた気分が伺えます。「大小も・・」では語調がさらに時代に強くなる。おかやもお軽も何か隠している様子なので、勘平のなかで不安が高まっているのです。「昨夜の雷がナ、五作の納屋に落ちました」などと軽い調子で世間話を交えながら、勘平の心はそこにありません。

「これには何ぞ深い様子が、母者人女房共、その様子聞こうかエ。」

着替えを済ませて心の準備が整った勘平がおもむろに話を切り出します。この台詞は明らかに武士の性根で・つまりトーンを落として時代に強く言うものです。このように勘平が家に戻って着て・着替えをするまでに、世話と時代の小さな揺れ動きがあり、揺れを繰り返しながら勘平の不安が次第に高まっていきます。六段目にはそのような箇所が他にもあります。

このように世話と時代の揺れ動きを意識的に強めに取った勘平を吉之助はよく記憶しています。それは十七代目勘三郎の勘平でした。もちろん岳父・六代目菊五郎の系譜を引くものです。だから吉之助は、音羽屋の勘平は理知的な印象で、局面々々を論理的に積み上げてドラマを構築していく芸であると理解しています。それが「かつきり」した芸の印象を生むのです。同じように「かつきり」した・折り目正しい芸の印象が菊之助の勘平にも見えます。だからなるほどこれは音羽屋の勘平だと感じるのです。(この稿つづく)

(R7・3・26)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その3

七段目もまた返り討ち物のドラマとして読むことができます。祇園一力茶屋での由良助の遊興三昧に、周囲の誰もが疑心暗鬼に駆られています。敵を欺くための計略か・それとも真(まこと)の放埓か、敵方や世間だけでなく、討ち入りの仲間にも分かりません。

史実でも、煮え切らぬ内蔵助の態度に愛想を尽かし、何人もの仲間が内蔵助の元を去っていきました。彼らもまた「状況の返り討ち」の犠牲者です。周囲の者たちはみな「由良助の本心は何か、由良助の判断は如何に」と考え、イライラしながら答えを待ち続け、由良助の本心を推し量って、勝手に各々怒ったり・落胆したり、また思い直したり・喜んだりしています。こうしたなかで各々の人間性が次第に露わになって行くことになる。これが由良助の意図したものかは別として、結果として、こうして討ち入りの仲間は総勢四十七人の精鋭に絞られて行くことになるのです。中心に居て・ジッとして動かず・態度を曖昧にしているかのように見えた由良助の存在が、実はブラック・ホールの如く・強烈な力で周囲の空間を歪ませていたことがこれではっきり分かります。

これは「仮名手本」に限ったことではなく、講談でも小説でも映画に於いても、「忠臣蔵」のドラマの最も面白く・かつ核心となる場面は、由良助の遊郭での遊興シーンです。七段目では手紙を偶然盗み見てしまった遊女お軽が由良助に殺されそうになって・既の所(すんでのところ)で助けられました。お軽が勘平の女房でなければ・平右衛門の妹でなければ、疑いもなくお軽は殺されていました。そうなれば七段目は返り討ち物として、平右衛門・お軽兄妹の悲劇のドラマになるところでした。このようにニッコリ笑って軽口を叩きながら、衣装の裾からギラりと光る刃を見せる、もちろん目に涙を浮かべてはいますが、この由良助の倒錯した感覚を華やかな廓で見せるのが七段目です。嘘から出た誠もすぐに嘘に返してしまう、そしてそのことの虚しさに最も苦しんでいるのが、七段目の由良助なのです。(別稿「七段目の虚と実」をご参照ください。)(この稿つづく)

(R7・3・24)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その2

音羽屋型の六段目は、「舅与市兵衛を殺したのは誰か」と云うドラマです。だから舅を殺した真犯人が明らかになると観客は、もう少し早く真相が分かっていれば勘平は腹切らずに済んで・仇討ちに参加出来たのに「あはれ」なことだなあと云う気分になるでしょう。これは六段目の解釈として全然間違ってはいません。単発幕としてはこれで十分なのです。しかし、「仮名手本」を返り討ち狂言として読むならば、勘平の悲劇にさらに陰影が必要になります。つまり「舅を殺してしまったのはこの俺だ」と勘平自身が思い込んでしまったところに悲劇があるのです。なぜそうなってしまったかと云えば、勘平が誰だか分らぬ死体から縞の財布を奪って逃げたところから始まっています。勘平の真の罪がここにあります。これがなければ勘平の悲劇は起きませんでした。

別稿四段目の儀式性を考える」で「四段目での由良助は、単発幕の人物だけを演じているわけではなく、「仮名手本」全体のなかで由良助の存在が一貫して「世界」を支配することになる」と申し上げました。五・六段目には由良助は登場しませんが、実はこの場においても由良助の存在が重く圧し掛かっています。「由良助の本心は何か、由良助の判断は如何に」という疑問が五・六段目を支配するのです。勘平は勤務中にお軽とのデートにかまけて主君の大事に間に合わないという失態を犯しました。(三段目・裏門の場)しかし、勘平は忠心厚く・何としても仇討ちの仲間に加わりたい。この願いを由良助に受諾してもらう為に、何かの貢献をせねばならぬ。討ち入りの資金を用立てたならば由良助も喜んで仲間に入れてくれるであろう。勘平はそのように考えており、勘平のことを応援したい千崎がこの相談に乗ってくれました。これが五段目のドラマですね。

ところが差し出された五十両の金子を由良助は受け取りませんでした。今は猟師として暮らす勘平には分不相応な大金だと思ったのか。何かしら良からぬものを由良助は感じ取ったのです。事の真相を詮議するため由良助は原・千崎の両名を派遣しました。(歌舞伎では不破・千崎となる。)その判断は両名に委ね、もし問題なしと二人が判断するならばその場で勘平を連判に加えても良いと云うことで、連判状を持参させたのかも知れません。しかし、聞けば五十両は舅を殺して取った金だと云う。このため原は怒って

「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者の戒め。舅を殺し取つたる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あつて、突き戻されたる由良助殿の眼力、ハヽ天晴れ天晴れ。さりながら、ハア情けなきはこの事世上に流布あつて、塩谷判官の家来早野勘平、非義非道を行ひしといはば、汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるか。こなこな、うつけ者めが。勘平、コレサ勘平、御身はどうしたものだ。左程の事の弁へなき、汝にてはなかりしが、いかなる天魔が魅入りし」

と勘平を叱るわけですが、この台詞がそのまま由良助のものと考えて良いと思います。この台詞に「渇しても盗泉の水を飲まずとは義者の戒め」とある通り、人を殺して奪った金であることこそ由良助が問題とするところです。そうであるならば勘平ばかりの恥ではありません。六段目では、結果的にはそれが、勘平が殺したのが裏切り者の定九郎で、舅を殺した定九郎を討ったのだから勘平は正しい行為をしたのだと云う別の論理にすり替わりますから観客の目が眩まされてしまいますが、もう一度繰り返しますが、勘平が誰だか分らぬ死体から縞の財布を奪って逃げたところに勘平の真の罪があるのです。だから勘平は「舅を殺してしまったのはこの俺だ」と思い込んで自ら墓穴を掘ったのです。

勘平は三段目で言い訳出来ない失態を犯してしまいました。この失態を取り返して・何とか由良助に認めてもらおうと勘平は必死にあがきました。あがいたあげくに更に大きな深みに嵌まって、腹を切るところまで追い詰められて行く。これこそ典型的な「状況の返り討ち」のドラマです。こうして仲間が、各人に各々の事情がどうあれ、一人また一人と消えていく・・・由良助にはこの有様を悲しく眺めるしか手がありません。これが「仮名手本」を返り討ち狂言として読んだ時の五・六段目のドラマの様相です。この場に登場しない由良助の慟哭が聞こえて来るではありませんか。(この稿つづく)

(R7・3・22)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部・その1

本稿は令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・夜の部の観劇随想です。「仮名手本」を昼・夜を通して一日に見たのは久しぶりのことでしたが、Aプロ・昼の部がなかなか気合いの入った出来であったので夜の部の方も期待しましたが、こちらも引き締まった仕上がりで安心しました。歌舞伎の伝統はこれからも続いていくなあと感じましたよ。

まず例によって作品周辺を逍遥しますが、先日(1月新国立劇場)の「彦山権現誓仇討」通し上演の時、「仇討ち狂言と云うものは、つねに返り討ち狂言なのである」と云うことを申し上げました。現代ではこのことはすっかり忘れ去られてしまいました。「彦山」の仇討ちでもお園の妹のお菊が微塵弾正の返り討ちに遭って死にました。もし「仮名手本」が返り討ち狂言であるならば・それはどんなところに表れるか、そう云うことも考えてみて欲しいと思うのです。

例えば勘平がそうです。返り討ちは仇(かたき)が行うものとは限りません。勘平は忠心を誰もが認める人物ですが、或る言い訳が出来ない事情により仇討ちの連判に加わることが出来ず、焦ったあげくに更なる罪を犯してしまい、遂に腹を切るに至った人物でした。これは「状況の返り討ち」であると云えないでしょうか。これは仇討ちする者に対して天が与えた試練みたいなものです。この試練の果てに大願成就があるのです。返り討ち狂言では、仲間の者が返り討ちされたら、その者の怨念を別の者が引き継いで、さらに仇の行方を追うのです。仇討ちの道程は苦難の連続です。仇を追う者はそれまでの地位を打ち捨て、病気になっても乞食になっても、それでも仇の行方を追います。それを下らぬことだ・詰まらぬことだと赤の他人が笑うことは簡単なことです。それにしても、そのような難行苦行を強られても・それでも彼らに仇討行を続けさせる・その思いとは一体何なのでしょうか。四段目幕切れの・あの由良助の花道引っ込みを見れば、誰だって背筋がピンとするはずです。そこの思いの正体をしっかり受け止めることが、「古典」を読むと云うことだと思います。(別稿「吉之助流・仇討ち論」をご参照ください。)

視点を変えれば、九太夫や定九郎だって状況の返り討ちの被害者なのです。主人があんなことさえしなければ塩治家は安泰で、九太夫は相変わらず家老でいられたはず、定九郎だってお坊ちゃまでいられたはずです。まあピンハネ・賄賂・裏金作りなどの悪事は日常的にしたかも知れませんが、末代までも「不義士」と誹られることはなかったと思います。ですから仇討ちに参加しなかったり・或いは途中で脱落して不義士と呼ばれることになった人たちが大勢いたのです。思いもよらぬ主人の刃傷沙汰のおかげで、多くの人たちの運命が・生活が狂わされてしまいました。主人がもう少し我慢していれば、みんな普通の人たちとして生涯を終えたことでしょう。だから広義には彼らはみんな状況の返り討ちの被害者なのです。さらに塩治家中の人だけではなく、それは桃井家家臣の加古川本蔵も・その娘小浪(力弥の許婚)も、大坂商人・天川屋義平らも巻き込んで彼らの人生を狂わせてしまいました。

「仮名手本」後半(五・六段目、七段目、九段目、十段目)は、不安・疑念・不信・裏切りなどの感情が渦巻く状況の返り討ちのドラマであると見ることが出来ます。そんななかからかろうじて救い上げられた人もいるし(お軽・義平)、死なねばならなかった人も出るし(本蔵)、悲しい犠牲を強いられた人もある(小浪)と云うことです。そのような試練のドラマを踏み越えたなかから由良助を頭とする四十七士が現れるのです。(この稿つづく)

(R7・3・21)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部・その4

「仮名手本」を昼・夜通して一日で見ると、四段目の儀式性が「仮名手本」全体にまで及んでいることが実感されると思います。つまり四段目こそ「仮名手本」の要(かなめ)なのです。「仮名手本」では、前半の大序・三段目のドラマは発端として四段目へ流れ込んで行きます。後半の展開部としての五・六段目そして七段目のドラマは、四段目からすべてが発します。そして儀式は十一段目の永代橋引き揚げの言祝(ことほ)ぎで終わる。歌舞伎ではこの基本構造が令和の現代まで崩れることなく、しっかり守られて来ました。ですから四段目(切腹場)での由良助は、単発幕の人物だけを演じているわけではないのです。「仮名手本」全体のなかで由良助の存在が一貫して「世界」を支配する、このことが観客に実感されて初めて「仮名手本」の儀式が完成します。

しかし芝居が由良助一人で出来るものではないのは当たり前のことで、「仮名手本」の儀式性は役者全員が心を一つにせねば決して成らぬものです。今回(令和7年3月歌舞伎座)の「仮名手本」は、歌舞伎座でも久しぶりの上演ですが、さすがに「仮名手本」となると役者の気の入れ具合がいつもと違う。そこが歌舞伎の「独参湯」の所以であるなあと思いますねえ。おかげで通しを見終わって気分良く劇場を後にすることが出来ました。

Aプロ・昼の部では、勘九郎の判官の好演をまず挙げて置きたいと思います。前節に於いて「判官が感情を生(なま)っぽくストレートに出してしまってはダメです、判官は様式的に美しく怒らなければなりません」と書きましたが、まさにその通り・様式的に美しい判官でした。喧嘩場での勘九郎の判官は、「あはれさ」さえ感じさせました。師直の虐めは理不尽そのものである・そこまで嘲られる理由は判官にない、そこのところが大事なのです。その憤りが次の切腹場で効いて来ます。この場での勘九郎の判官はさらに良い。この場での判官は自分がしてしまった事の重大さを重々認識しており、すでに死ぬ覚悟が出来ています。したがって表面上は怨念のパワーが後ろへ引いて・生きることを諦めてしまったと見えるほど判官は静かです。ここでの判官の心残りは「由良助に我が恨みを受け継いで師直を討って貰いたい」、ただそれだけなのです。そして由良助に仇討ちを引き受けてもらった後、微笑んで死んで行きます。死にゆく判官を勘九郎は生っぽいところを腹のなかに納めて、様式的に儚く美しく演じて見せました。吉之助もいろいろな役者で判官を見ましたが、親父さん(十八代目勘三郎)より良かった。

喧嘩場での松緑の師直は、スケール大きく・ドス黒い巨悪に仕立てることはしないで(二代目松緑の師直はそんな印象であったけれども)、身丈に合わせて愛嬌もちょっと加えて・意地悪な小悪党の感じに仕立てたところで成功していたようです。松也の若狭助は決して悪くないですが、感情の出し方がちょっと生っぽいかな。様式的に美しく在らねばならぬのは若狭助も同じことです。

しかし、Aプロ・昼の部の白眉が、仁左衛門の由良助であることは衆目の一致するところです。まず見事だったのは、切腹場での勘九郎の判官との心の交流を肚芸でたっぷり見せたことです。肚芸とは様式的に写実することだと云うのが良く分かる演技でした。大事なことは、やはり息の詰め方ですね。もうひとつ素晴らしかったのは、城明け渡しの後・幕外での花道の由良助の引っ込みです。腹のなかに万感をグッと押し込むと同時に、腹の底から憤りの感情がムクムク湧き上がってくる。それは「我ら一家中の生活の安穏を奪い取った悪しきもの・不実なものをこのままにして置いてなるものか」という感情です。こうして由良助の憤りは普遍化されて観客と共有されることになる。由良助の愁い三重の花道引っ込みは、そのための儀式なのですね。

ところで四段目に続くお軽勘平道行(落人)の件ですが、この場は元々「仮名手本」になかったもので・三段目裏門をアレンジして舞踊に仕立てたものでした。しかし、四段目が終わった後に道行を入れると一日掛かりの長い芝居のなかでの気分転換になって塩梅が良い。そこで重宝されるわけですが、いつぞや「芝居に付き過ぎて道行が深刻ムードになっては困る」と書きましたけれど、通し狂言のなかであまり色調が違い過ぎるのもまた困ります。今回の道行が何だかそんなような印象で、七之助のお軽・隼人の勘平が劇中の人物になっておらぬもどかしさを感じますねえ。清元の高音が伸びず冴えぬ印象であったことにも原因がありそうです。

隼人はイケメンで人気急上昇中ですが、表情の作り方をもう少し研究した方が良さそうです。何をやっても「隼人」に見えます。イケメン役者によくある落とし穴です。先日(1月歌舞伎座)の新作「大富豪同心」でも若殿様と同心と二役がそっくりで見分けが付かない設定だからそうなのだと云えばそれまでのことだが、目線の置き方くらい少しは違いを出せよと言いたくなりました。勘平も憂いがあまり強過ぎてはイケませんが、そこはかとなく散りゆく若者の運命の儚さを漂わせてもらいたいと思いますね。

(R7・3・20)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部・その3

文楽床本を参照すると、四段目・判官切腹の場面は以下のように描写されます。(なお実際の上演では多少の異同がある場合があります。)

『「ヤレ由良助、待ちかねたわいやい」「ハヽア。御存生の御尊顔を拝し、身にとつて何ほどか」「オヽ我も満足々々。定めて子細聞いたであらう。聞いたか。聞いたか。エヽ無念。口惜しいわやい」「ハヽア委細承知仕る。この期に及び申上ぐる詞もなし。たゞ御最期の尋常を願はしう存じまする」「オヽ言ふにや及ぶ」ともろ手をかけ、ぐつ/\と引廻し、苦しき息をほつとつぎ「由良助。この九寸五分は汝へ形見。我が欝憤を晴らさせよ」と切先にてふえはね切り、血刀投出しうつぶせに、どうと転び、息絶ゆれば・・』

「無念。口惜しいわやい」を受けて、由良助は判官の傍へにじり寄り・耳元で「委細」とのみ言い・後ろへ退いてから「・・承知仕る」と低く重く言います。その心は、「主君の無念はこの由良助が全部引き受けた。だからこの期に及んではただ尋常のご最後を」と云うことです。由良助の決心はこの時点で固まるのです。これに対し歌舞伎では大筋では変わりありませんが、細かいところでいくつか注目すべき相違が見られます。

「由良助か、待ちかねたわやい」「御存生に御尊顔の拝し奉り、身にとりまして何ほどか」「我も満足。定めて様子は聞いたであらう。聞いたか。聞いたか。・・無念。」「アイヤこの期に及び申上ぐる言葉とてござりませぬ。たゞ御最期の尋常をこそ願はしう存じまする」「言ふにや及ぶ」ともろ手をかけ、ぐつ/\と引廻し、苦しき息をほつとつぎ「由良助。近う近う。・・・由良助、この九寸五分は汝へ形見。形見じゃよ。」・・「委細。(と我が胸を叩いて見せ)・・・ハハア(平伏する)」・・「ハハハ・・(低く笑う)」

歌舞伎の判官は「無念・・」とは言いますが、「口惜しいわやい」は言いません。「この九寸五分は汝へ形見」とは言いますが、「我が欝憤を晴らさせよ」とまでは言わない。これらの台詞を判官は呑んでしまって多くは言わぬ・腹のなかで言うとも考えられますし、或いは腹に刀を突き立てている判官にはもはやそれを言う力は残されておらぬのかも知れません。いずれにせよ歌舞伎の判官は怨念をストレートに生(なま)っぽく迸らせることをしません。一見すると怨念のパワーが後ろへ引いたかに見える、表面上はと云うことですが、ここが大事なポイントだろうと思います。

もうひとつ注目される相違は、歌舞伎では由良助の「委細」という台詞を、「この九寸五分は汝へ形見」の後に持って来たことです。歌舞伎では九寸五分を「汝へ形見」と云う主君の目のなかの気持ち(我が恨みを受け継いで師直を討ってくれとのメッセージ)を読み取って、由良助は「委細(承知)」と我が胸を叩いて見せる、由良助の決心はこの時点で固まるのです。判官と由良助とのやり取りは、対話で進むのではなくで・「心」のやり取りで進むと云うことです。

文楽と歌舞伎とどちらが良いかは置くとして、本行(文楽)の方が主人から家臣への怨念の受け渡しの構図が明確であるとは云えます。仇討ちは主人からの命令であり、これを遂行することが家臣としての責務である。その根本は歌舞伎でも同じことですが、命令はあからさまには行われません。歌舞伎ではそこは意識的にボカされていると云えましょうか。これが大事なポイントの二つ目です。

こうして四段目のドラマは主君鎮魂の趣で厳かに始まり、我ら一家中の生活の安穏を奪い取った悪しきもの・不実なものに対して、やがて静かに・しかし着実に憤(いきどお)りの心情を増幅させて行くのです。歌舞伎はこの四段目の儀式を作り上げるために、長い歳月を費やして来たわけですね。(この稿つづく)

(R7・3・17)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部・その2

「仮名手本」全体の儀式性についてはいずれ別の機会を見て論じることにして、本稿では視点を変えてちょっとだけ書きます。特に三段目の刃傷シーン・四段目の切腹シーンなどは、観客が史実でもこんな感じの場面であっただろうかと想像を重ね合わせながら芝居を見ることは、これは多分避けられないことです。本作が元禄15年(1702)赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を基にしているのだから、これは当然です。しかし、吉之助が長年「仮名手本」を見て来た経験からすると、師直にイビられた判官が怒りをあまり生(なま)っぽくストレートに出してしまうと、それは確かに写実であって実説のリアルさにも通じるものですが、それでは判官が美しくなくなってしまうのです。様式的(=儀式的に通じる)でなくなってしまいます。判官は様式的に美しく怒らなければなりません。リアルに怒っては駄目なのです。このように様式と写実のバランスを取るのはとても難しいことですが、そこが「仮名手本」の儀式性を考える上で大事なポイントになります。

実説でも浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由は分かっていません。「この間の遺恨覚えたるか」って一体何なんだ。誰にも分りません。しかし、この「何だか分からないが兎に角コイツは怒っている」と云うことが、江戸の民衆に「荒ぶる神(怒れる神)」を想起させたのです。歌舞伎の荒事に出て来る主人公たち(御霊)はみんな、政治だかこの世の中だかに強く怒っています。だから歌舞伎では内匠頭(=判官)も、そのようになるのです。芝居では奥方のことで虐められたとか・鮒侍と嘲られたとか、判官が怒り出すきっかけはそんなことになっていますが、師直は誰にとっても嫌な奴・悪い奴です。だから判官はこの世の理不尽さ・この世の不正さ・きたなさ、何だかよく分からないが、この世のもっとデッカイ不実なものに対して強く怒っているのです。

と云うことは、主君の怒りを引き継いで由良助が仇(かたき)として討とうとする師直も、単なる個人を超えて何か悪しきもの・不実なものの象徴にまで高められていると云うことです。これが「仮名手本」の儀式が引き出したものです。歌舞伎の「仮名手本」前半(大序・三段目・四段目)は、目に見えないようであっても・儀式性の縛りがとても強いものです。前半はあたかも「忠臣蔵」の世界定めの儀式であるかの如く機能しています。後半(五段目以降)になると様式の縛りがずっと弱くなり、写実に近いものになって行きますが、前半の感触はまるで異なります。

吉之助もいろいろな「仮名手本」通し上演を見てきましたが、前半に関しては、歌舞伎役者はみんな様式と写実とのバランスを取るのに苦心しているようです。あくまで一般論ですが、若いうちはどうしても演技が生(なま)に傾きやすいものです。年季を重ねれば、様式と写実の折り合いが次第に身に付いてくるものです。令和の幹部役者もそのような過程を経て今があるわけです。その変遷の過程をずっと見てきました。儀式性に傾き過ぎれば、感触は重ったるくなり、演技が嘘クサくなる。実説のリアルさにこだわれば、演技は熱を帯びてくるかもしれないが、様式的な美しさは出せません。しかし、様式的な美しさは「仮名手本」前半に関しては必須のものです。(この稿つづく)

(R7・3・16)


〇令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部・その1

本稿は令和7年3月歌舞伎座:通し狂言「仮名手本忠臣蔵」・Aプロ・昼の部の観劇随想です。歌舞伎座での通し上演は平成25年・2013・11〜12月(二か月連続)以来のことになります。

「仮名手本」通しは何度も見ましたが、昼・夜を通して一日に見たのは久しぶりのことです。これは何度も都心に出掛けたくないだけの理由に過ぎなかったのですが、やはり何某かの徳はあるものです。理屈では分かっているものの・今回は四段目の「儀式性」のことを改めて思いました。歌舞伎役者がこのことをホントに大切にしていることにも改めて感じ入りました。夜の部を見終えた後、四段目の場面を思い返すならば、このことは痛感させられます。五・六段目と七段目は見取りでも頻繁に出ますし、作劇的にも良く出来たものです。近代戯曲として単独で見ても「生きています」。これに対し「四段目が生きていない」と云うことではなく、四段目のドラマは「仮名手本」通しの全体のなかで位置付けられてこそ「生きる」のです。発端としての三段目の「無念」を踏まえて十一段目の「大願成就」の結末へと至るまでの連続した風景が見通されてこそ四段目は「生きる」。三段目の方はついさっき見たばかりだから当然だが、四段目以降の先の筋のことは・本来見えるはずがありません。これがありありと見えてくるのは、歌舞伎が二百数十年掛けて作り上げて来たからこそ、このような形になったのです。これが「四段目の格式」と云うものです。

昨今では赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(いわゆる「忠臣蔵」)を知らない方が巷間増えてきているそうです。ところで松竹のサイト「歌舞伎美人」の当月興行に以下のような文が掲載されていますね。

『昼の部では、古式に則り、『仮名手本忠臣蔵』ならではの演出がございます。「四段目・扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」は、古くから「通さん場」と呼ばれ、演出の都合上、客席内へのお出入りを一部ご遠慮いただいております。なにとぞ、お早めにご着席くださいますようお願い申し上げますとともに、ご諒承を賜りますようお願い申し上げます。』歌舞伎美人・令和7年3月興行の頁

昔はこのようなことを告知するまでもなかったでしょうが、これがサイトに初めて告知されたことは意味あることです。(チラシには記載はありませんね。)それは歌舞伎と一般大衆が「仮名手本」という芝居をどれほど大切にして来たか・「仮名手本」はホントに別格の芝居であると云うことなのです。初めて「仮名手本」通しを見る若い観客もそこに伝統の重みを感じ取ってもらいたいですね。(この稿つづく)

(R7・3・14)


〇令和7年3月京都南座:「於染久松色読販・お染の五役」

本稿は令和7年3月京都南座での、壱太郎のお染他五役による「お染の五役」の観劇随想です。「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり・通称「お染の七役」)は文化10年・1813・3月・江戸森田座初演で、四代目南北が名女形・五代目半四郎のために書き下ろした早替り芝居です。このなかから大切の道行の場を抜き出して上演するのが「お染の五役」で、五役が目まぐるしく入れ替わる・いわばこの早替り芝居のエッセンスみたいなものです。舞踊と云えば舞踊、芝居と云えば芝居なんだろうが、別に大した筋があるわけではありません。

今回の南座の花形歌舞伎では、五役をお染(町娘)・久松(若衆)・お光(田舎娘)・雷(道化)・土手のお六(悪婆)で勤めるヴァージョン(桜プロ)に、雷を鬼門の喜兵衛(敵役)に変えて段取りをアレンジし直したヴァージョン(松プロ)が用意されています。もちろん段取りが異なれば下座(常磐津)の曲も異なります。ちなみに雷は四代目藤十郎のやり方、喜兵衛は二代目猿翁のやり方であるそうです。

4年前(令和3年2月)歌舞伎座で土手のお六の件だけを抜き出して一幕三場の芝居に仕立てて上演した時、これはこれでやむを得ない事情があっての処置ではあったけれど、「お饅頭から皮を取って餡子だけにしたらお菓子になりません」と書きました。「お染の五役」はちょうどこれとは真逆のプロセスで、「お饅頭から餡子を抜いて皮だけをお客に出した」ようなものなので、やはりお菓子にはなりません。まあ見た目の変化を愉しめば良いだけのことなのですがね。

ところで、このような早替り芝居で大事なことは、「五役を適格に演じ分ける」と云うことでは必ずしもなく(もちろんそれも大事なことに違いないですが)、「アアまた壱太郎が出て来たぞ、あちらからも・こちらからも壱太郎、次はどうなる・・」という混乱の感覚にあるのです。それは「今舞台に見える姿は、私という人格が纏う仮の姿でしかない」という哲学的観念にも相通じるものです。又さらにこのことは上方和事の本質である「今私がしていることは、私が本当にしたいことではない。本当の私は別のところに在って、今の私は本当の私ではない」という考え方とも自然に重なり合って行くものです。(別稿「和事芸の起源」を参照ください。)だからこれはとても興味深い現象だと思いますが、それ故に伝統的に上方歌舞伎は早替り芝居とどこか感覚的な親和性を持っているのですねえ。あの四代目藤十郎が「お染の五役」をやったと云うことはそう云うことなのであり、壱太郎も多分そう云うことを愉しむセンスを持っているのだなあと、今回の舞台を見ながら強く感じたことでした。

(R7・3・11)


〇八代目菊五郎への期待

本年(令和7年・2025)5月・6月歌舞伎座で行われる八代目菊五郎・六代目菊之助襲名披露興行の全容(上演演目と出演者顔触れ)が先日(4日)明らかになりました。来る3月31日には神田明神での襲名お練りも予定されています。2か月先の襲名に向けて、そろそろムードが高まって来ると思います。

令和2年(2020)から始まったコロナ禍は一応収まりました。しかし、コロナから歌舞伎が受けた打撃は大きなもので、観客動員など・未だ回復したと云えない現状です。しかし、その間にも歌舞伎の世代交代が確実に進行しています。令和4年(2022)11月歌舞伎座での十三代目団十郎襲名披露興行は云わば「歌舞伎の巻き返し」宣言であったわけですが、今回の八代目菊五郎襲名披露興行でこの回復への流れを更に確かなものにして貰いたいと思います。

  

ところで新・菊五郎はここ数年、これまでの音羽屋のイメージになかった・いささか驚きの大役の初役に次々と挑戦して、しかも見事にそれなりの成果を挙げて来たことはご存じの通りです。結果として、これらの経験が新・菊五郎の役者としての芸格を大きなものにしてきたことを誰しも認めると思います。そう云うことなので今度の襲名披露興行でも、新・菊五郎の方向性を示唆する、(「ナウシカ」や「ファイナル・ファンタジー」は勘弁して欲しいけど) 例えば「新たな初役にまた挑戦」とか、アッと驚く新機軸があるかもと密かに期待していましたが、出てきたラインアップは思ったよりも安定志向と云うか・保守的な印象がしますねえ。まあ新・菊之助との兼ね合いもあるし、襲名披露興行と云うと・居並ぶ出演者のバランスを調整するだけでも難儀なことだと想像します。

音羽屋の芸のイメージは、六代目菊五郎がその典型ですが、理知的であり・筋目を重んじるものだと思っています。新・菊五郎の芸も概ねそう云うところにあって、どんな役であっても、基本を踏まえた・しっかりした演技が出来る、役の規格を大きく逸脱したりすることはない、そこが新・菊五郎の良い点であろうと思います。新・菊五郎がその線で芸を突き詰めて行ったとしても恐らくそれなりの立派な「菊五郎」になることと思います。

新・菊五郎に感心することは、そのような場所に安住することなく、「菊五郎」の新たな芸域へのリスクを取ろうとしていることです。これが実現すれば、理知的な音羽屋の芸に・播磨屋の芸の「熱さ・クサさ・シリアスさ」を併せ持った、代々の「菊五郎」とは異なる・ユニークな新・菊五郎が出来上がることになるでしょう。新・菊五郎が日頃から公言して憚らない岳父・二代目吉右衛門の芸への憧れとは、そう云うことと理解しています。もしそう云うことであるならば、新・菊五郎はまだ「まとまり過ぎている」感が強いかも知れません。優等生的な印象をまだ突き破れていないかも知れませんが、それでも初役挑戦の繰り返しのおかげで、芸格は着実に大きなものになって来ました。(詳しくは別稿「五代目菊之助・初役の梶原平三」などご参照ください。)

ともあれ行く先の旗は見えて来たのではないでしょうかね。新・菊五郎は現(令和7年3月)時点で47歳だそうですから、あと10年くらいがホントに大事な期間になると思います。同様に歌舞伎にとっても今後10年が正念場だと思います。吉之助も大きな期待を込めて見守りたいと思います。

(R7・3・6)


〇令和7年2月歌舞伎座:「きらら浮世伝」・その2

吉之助は最初の内は、初演時(昭和63年)の親父さん(十八代目勘三郎・当時は五代目勘九郎)の重三郎はどんなだったろう?当時の横内氏は勘三郎にどんな重三郎像を求めたのだろう?とか考えながら勘九郎の舞台を見ていたのですが、実はあまり親父さんの姿が浮かんで来なかったのです。そのうち親父さんのことは考えなくなって、勘九郎が演じる重三郎だけ見ていました。と云うか・親父さんのことを考える必要が全然なかったようでした。勘九郎は勘九郎でしっかりと自分なりの重三郎を作れていたと思います。

同じことを同月(2月)・夜の部の勘九郎・初役の左官長兵衛(「文七元結」)にも感じましたねえ。ちょっと前までの勘九郎ならば、「アアそこんとこ親父さんの写しだね」と云う感じがしたものです。勘三郎の長兵衛は見ましたし、今回だってもちろん声でも雰囲気でも似たところはいくらも見付かるのだけど、親父さんのことは思い出さず、ちゃんと勘九郎の長兵衛として見ることが出来たと思います。もう13回忌も過ぎたわけ(それは昨年のこと)で、勘九郎もようやく親父さんの呪縛から脱して、自分なりの役作りが出来る段階に入って来ましたね。そのことは昨年(令和6年)の佐野次郎左門佐々木高綱にも現われていましたが、今月(2月歌舞伎座)のニ役ではその確信がはっきり持てた舞台であったと思います。

ところで「きらら浮世伝」の最初のクライマックスは、第2幕で吉原大門の屋根の上で重三郎が叫ぶ場面だと思います。お上の弾圧によって財産を没収された重三郎が、「欲しけりゃ全部くれてやるぜ、それでも俺はまた新しいものを見つけ出してやるからな」などと叫びます。初演の・この場面の勘三郎は憑かれたように熱かったと想像をします。この場面で描かれるものは、表現の限りない自由を主張する者(重三郎)と強硬にそれを規制しようとする為政者(幕府)との対立と反発・抵抗と云うことです。作者の横内氏もそれ以外のものを意図していないと思います。しかし、これとはまったく異なるフェーズになりますけれど、「何かを強制して・指し示し・或いはこれに従わせようとする圧倒的な存在」と云うイメージに於いて、勘三郎にとって、これは「父」とどこか重なるものに見えたのではないかと感じるのです。そのことが勘三郎の心情を熱くするのです。「父」とは、人が成長の過程でいつかは乗り越えなければならない(精神的に殺さなければならない)象徴的存在として在るものです。

勘三郎にとって「父」(云うまでもないことだが名優十七代目勘三郎)の呪縛がどれほど強いものであったかは、吉之助の勘三郎の思い出話(十八代目勘三郎・没後十年)などお読みいただければお分かりいただけます。彼の内面に沸々と煮えたぎる表現意欲と、守らなければならない伝統の規範・制約との激しい葛藤のなかで当時の勘三郎は苦しんでいたし、フェーズは全然異なるけれども、重三郎の叫びは勘三郎の心に別の意味を以て熱く響いたであろう。勘三郎33歳当時の状況を重ね合わせれば、同世代の吉之助にはこの場面はそのように見えて来るのです。ここで「きらら浮世伝」初演の「昭和63年3月」というタイミングが重要になって来ます。勘三郎の父(十七代目)が亡くなったのは、この翌月・昭和63年4月16日のことでした。いろんな巡り合わせのなかで、全然意図しないところで、或る作品との偶然の出会いがまるで「必然」の出会いであるかの如く感じられることがあるものです。もしかしたら勘三郎にとっての「きらら浮世伝」はそのような芝居であったかも知れないなと思います。

今回(令和7年2月歌舞伎座)「きらら浮世伝」再演は・別にそう云う意図はなかったでしょうが、吉原大門の屋根のシーンで勘九郎が「父」(十八代目)と喧嘩しているかの如く熱く見えたのは、確かにこの舞台が成功したと云うことだと思います。やはり必然の「巡り合わせ」と云うことはあるものです。

(R7・3・3)


〇令和7年2月歌舞伎座:「きらら浮世伝」・その1

本稿は令和7年2月歌舞伎座での、勘九郎の蔦屋重三郎・七之助の遊女お篠他による「きらら浮世伝」の観劇随想です。本作は昭和63年(1988)3月に今はなき銀座セゾン劇場(後にル テアトル銀座と改称し・2013年5月に閉場)で五代目勘九郎(後の十八代目勘三郎・当時33歳)・美保純らにより初演されたものですが、この舞台は吉之助は見ていません。今回歌舞伎座上演は、その37年後の再演と云うことになります。今年のNHK大河ドラマの主人公が蔦屋重三郎であることの便乗企画ではあるけれども、新派や新劇・現代劇でも・ジャンルは兎も角、もともと歌舞伎のために書かれたものでない芝居を歌舞伎として取り上げることはこれから増えてくると思います。

新作と云うと二の足を踏む吉之助ですが、今回の新作同然の「きらら浮世伝」の舞台は、なかなか面白く見ました。脚本の横内謙介氏は現在はスーパー歌舞伎執筆でご活躍ですが、当時26歳の新進作家であったそうです。若書きの青臭さと熱気が感じられて、当時(昭和63年頃)の雰囲気が何となく思い出されます。なにしろ当時はバブル景気の絶頂期で、「現在よりも未来はもっと良くなる・良く出来る」ということがまだまだ信じられた時代でした。

「若書きの青臭さ」と書きましたが、第1幕(主人公重三郎が出版プロデューサーとして成功するまでを描く)は次々と登場するバイキャラクター(これがまた誰でも名前を知ってる歴史上の有名人ばかり)を羅列するのに忙しくて、筋を十分に膨らませ切れていないようです。芝居がどこへ向かおうとしているか、方向性が見えて来ない。早いテンポの芝居が気忙しくて、吉之助には少々付いて行けないところがありました。そこは脚本に手直しが必要かなと思いましたが、第2幕になると、戯作者や浮世絵師たちが次々と打ち出す新趣向・新機軸がお上の癪に障り始めて、言論と政治の対立構図が鮮明になって来て、これが軸になって芝居が引き締まって来る。すると今度は「若書きの熱気」の方が勝って来て、第1幕が舌足らずに感じられたことまで何だか「勢いがあって良かった」みたいに思えてくるのが不思議なもので、やはり芝居と云うものは「終わり良ければすべて良し」だと思いますねえ。

実は吉之助は今回の「きらら浮世伝」の舞台が歌舞伎になっているかなんてことに興味はないのです。もともと歌舞伎のために書かれたものではないのですから、そのような歌舞伎でない所をむしろはっきり打ち出した方が良い位に思っています。そう云う慣れてないところをどのように処理するか、それが歌舞伎役者にとって刺激になり、芸の引き出しにもなる。と云うか、「歌舞伎になりそうでないものでも、結局、歌舞伎役者は歌舞伎として・そこそこ見られるものにしちゃう」のですから、そこのところは歌舞伎役者の感性を信じなきゃ始まりませんね。しかしまあ、新作よりは、「忘れられた古典」の掘り起こしの方がアタル確率が高いのじゃないかと思ってはいますが、今度はそちらの方にも取り組んでもらいたいものです。(この稿つづく)

(R7・3・1)


〇令和7年1月浅草公会堂:「棒しばり」

本稿は令和7年1月浅草公会堂での新春浅草歌舞伎の第2部、鷹之資の次郎冠者・染五郎の太郎冠者・橋之助の松兵衛による「棒しばり」の観劇随想です。鷹之資・染五郎は共に初役であると思います。

「棒しばり」と云うと、吉之助にとっては五代目富十郎(次郎冠者)と十八代目勘三郎(太郎冠者・当時は五代目勘九郎)とのコンビによる舞台が思い出されます。富十郎の次郎冠者が良かったのは、踊りが上手いのは今更言うまでもないことですが、かつきりと折り目正しい芸で・観客をくすぐるようなところが全然ないのに・狂言ダネのユーモアが自然と滲み出てくることでした。狂言のおかしみと云うものは、演者の方から笑いを仕掛けて行くものではなく、舞台を見る観客の口元が思わずほころぶという類の笑いです。富十郎の次郎冠者には「本行に対するリスペクト」があったと思います。

しかし、近頃の松羽目舞踊では観客に受けようとする下心がミエミエの舞台をしばしば見受けます。そのような風潮がはびこるなか、今回(令和7年1月浅草公会堂)の「棒しばり」は、舞台にかける三人の若者の一生懸命さが伝わって、清々しい思いがしますね。役を演じることが楽しくって仕方ないという気分が、「本行のおおらかな笑い」とどこかで重なっていたと云うことでしょうか。この初心をいつまでも忘れないで欲しいと思いますね。おかげで久しぶりにいい気分で劇場を後にすることが出来ました。

ところで狂言「棒縛」を見ると、歌舞伎の「棒しばり」にはない場面があるようです。主人(狂言では名前がありません)が帰ってきて・二人が盗んだ酒に酔ってうかれ騒いでいるのを見付けますが、この時に酒の盃に主人の顔が映るのです。これを見て次郎冠者(シテ)が、

シテ 「やい、あれを見よ。頼うだ人の影が盃の中へ映る。不思議な事の。身共の存るは、しわい人じゃによつて、此やうに縛っておいてもまだ酒を盗んで飲むかと思はるゝ執心が是へ映る物であろ。」
太 「そうであろ。」
シテ 「いざ此様子を謡に謡はう。」

太 「一段よかろ。」

と言って・また騒ぎ出すので、これが主人をますます怒らせることになります。「しわい人」とは、しみったれな人・ケチな人という意味。ここに見えるのは、勝手気儘に振る舞う家来と・これに手を焼く主人との関係です。この時代(中世)はまだ後の世のように厳格な主従関係ではなかったようです。「棒しばり」は酒絡みの大らかな笑劇という感じになりやすいものだけれども(まあそれもひとつの側面であるに違いないが)、そのような社会的視点をちょっと加えて考えてみるのも面白そうな気がします。

鷹之資(次郎冠者)の踊りの才は承知していますが、キレの良い動きは父・富十郎を彷彿とさせます。染五郎(太郎冠者)は長身小顔のバランスなので、見る前には鷹之資を横にするとどんな感じに見えるかなと思いましたが、肩が揺れない・軸がブレない踊りで、鷹之資に十分拮抗していたと思います。この二人の組み合わせは意外と良いかも知れません。いつか二人の「三社祭」でも見てみたいものです。

(R7・2・24)


〇令和7年1月歌舞伎座:「寿曽我対面」

本稿は令和7年1月歌舞伎座での、巳之助の五郎・米吉の十郎による「曽我対面」の観劇随想です。巳之助の五郎は令和3年11月歌舞伎座の時が初役で、今回が2度目になるかと思います。

初役から3年ちょっと経ったわけですが、前回はカドカドの決まりの形は良いのだが、次の形に移行していく流れで息が詰められていないと云うか、それが感情のうねりとなって所作に表われて来ないもどかしさがありましたが、今回の巳之助の五郎はとても良くなりました。久しぶりに動きの良い五郎を見た気がしますね。「今日は如何なる吉日にて・・」で腰をグッと落として詰め寄る動きもよく出来ました。我慢に我慢を重ねた怒りの感情が堪え切れなくなってウワッと迸る、そこに波のようなうねり・言い換えればリズム感があるわけで、これが荒事芸の荒々しさです。

ということは五郎が我慢に我慢を重ねている時は、もちろん五郎が感情を抑えているのですが、それは兄十郎が止めるから五郎はそうするわけです。十郎だってもちろん怒っています。しかし、十郎の場合は理性がちょっと勝ります。今この場に及んで血気に逸っては事を仕損じる、これを抑える理性が十郎にはある。だから十郎は五郎を制止しようと、前に進もうとする弟を常に後ろへ押し返す。弟がウワッと前に出て相手につかみかからんとする時は、兄は更に強い力を込めて弟を押し返す。そういう感情のうねりと連動した形で兄弟の押し引きの動きがあるわけです。

しかし、現行のすっかり様式化しちゃった動きでは、十郎はおっとりした表情で落ち着いて・右手を儀礼的に構えて弟を「通せんぼ」・そんな風にしか見えないと思いますが、十郎の本来の気構えからすれば、十郎は常に弟を後ろに押し返す形になると思います。下の写真は明治36年(1903)3月歌舞伎座での、六代目菊五郎(五郎)と六代目梅幸(十郎)の襲名披露の「対面」です。この時に工藤を勤めた九代目団十郎の指導による舞台が、現行の「対面」の規範となったものです。この写真を見ると、この十郎の形はちょっと腰を浮かせ気味に構えて五郎を後ろに押し返す心持ちであると吉之助は思いますが、このような十郎の形を近年滅多に見ませんね。

米吉初役の十郎は、普段は娘方を勤めることが多い米吉らしいキレイな十郎で悪くはないが、そのイメージの範疇に留まっている感じですねえ。「オッ米吉はこういう役も出来るんだねえ」という驚きが欲しいのです。声がキンキン高いのがちょっとねえ。これが地声であることは分かりますが、十郎はもっと低調子でなければ、五郎の高調子との対照が付きません。声を低調子に置くということは「声色を暗く太く作る」と云うことではなく(そう思っている人は多いけれども)、「調性(キー)を下げる」ということです。このような台詞の工夫が今後米吉が役どころを拡げていく上で必要なことになると思います。芝翫の工藤はこういう「らしさ」が大事な役では、さすがの貫禄を見せますね。

(R7・2・21)


〇令和7年1月歌舞伎座:「封印切」

本稿は令和7年1月歌舞伎座での「封印切」の観劇随想です。初春興行の「封印切」は、前半(初日〜14日)が鴈治郎の忠兵衛・扇雀の八右衛門、後半(15日〜千穐楽)は役を交換して扇雀の忠兵衛・鴈治郎の八右衛門というダブルキャストが組まれました。同じ成駒家ということなので・役の性根では変わるところは大してなかろうが、役者の個性が変われば・ニュアンスの細かいところで違いが出てくるだろう、そこを見るのがお愉しみということです。

鴈治郎の忠兵衛は昨年(令和6年7月国立劇場公演)にも見ましたが、このところ持前の福々しさが柔らかい印象を醸し出し・役が持つシリアスな熱さを「いなして」・なかなかええ上方和事の塩梅になってきたと思います。上方和事の大事なところは「今私がしていることは、本当の私がしたいことではない」ということだと吉之助は常々申し上げています。主人公の意識と感情が重なる場面と乖離する場面が交錯する、そのような様式的な揺れの感覚を表出するところで、当代鴈治郎はいよいよ先代・先々代の芸の系譜に乗って来た感じがしますねえ。吉之助はほぼ同世代でもあり、当代の苦労はずっとリアルタイムで眺めて来ましたからよく分かっています。だんだん上方和事の味わいのする忠兵衛になって来たと思います。

一方、扇雀の八右衛門は写実の風が強い感じで・役が持つ嫌味な性格をシリアスに表現して、これが鴈治郎の忠兵衛と好対照の感触になっています。金包みをめぐっての二人の掛け合いがテンポがあって面白くなったのは、八右衛門のおかげだと言って宜しいでしょう。

二人が役を取り換えると、両者の印象が逆転するわけだからどんなものかと思いましたが、役を取り換えたら取り替えたで・またそれなりに見えるものだから、芝居と云うのは面白いものですね。(そこで役の解釈は幾通りもあり得るのだという当たり前のことにハタッと気が付くわけです。)扇雀の忠兵衛であると、やはりシリアスな感触で、カーッと熱くなって封印切りへと突っ走る印象が強くなって来ます。これだと揺れる様式感覚からは遠くなってしまうわけだが、代わりに上方世話のリアルな肌触りが際立って来るようです。こう云うのも芝居としてはアリだなと思いますね。一方、鴈治郎の八右衛門は、嫌味を真綿でくるんで・忠兵衛をネチネチ虐めるしつこさに様式的な感触があるようで、これはまた別の意味で好対照で興味深く感じました。

そう云うわけで忠兵衛と八右衛門の口論を面白く見ましたけれど、これは役者と云うことではなくて・「恋飛脚大和往来」脚本自体に問題があると云うことなのだが、満座のなかで罵倒されてカーッとなって金包みの封印を切る場面があまりにインパクトが強いので、忠兵衛が男の意地で封を切った(成駒家型では「切れちゃった」だが)ことの意味はよく分かるのだが、封印切ばかりに関心が行き過ぎて、そもそも忠兵衛が何のためそこまでせねばならなかったか・その理由が忘れられてしまう、そのような弱点がこの芝居にはありそうです。

槌屋治右衛門は梅川が忠兵衛に請け出されたい願いを承知していますが・百両の金の工面に窮しており、梅川の願いを果たすためには忠兵衛が今すぐ金を持って来てくれないと困るわけです。そのような切迫した事情があるから忠兵衛は封を切って公金を身請けの金に使ってしまうのです。「封印を切らなかったら・何事も起こらなかった」と云うことではなく、忠兵衛がここで封印を切らなかったら梅川は他人に請け出されることになるのです。八右衛門ではなくても、奥にいるお大尽に請け出されることでしょう。だから忠兵衛は今この場で封を切らねばならなかったのです。その切迫したところが忘れられてしまって、最後は「忠兵衛は封印が切れちゃって可哀そう」という感じで芝居が幕になってしまうので、そこのところ脚本をどうにか出来ないものかと思うことはありますね。どうも近松はんには「そないなことは一々説明せんかて分かり切っているやろ」と云うところがあるようです。「曽根崎心中」・「心中天網島」、本作も然り。芝居が始まった時には、既に主人公はのっぴきならない状況に置かれています。だからドラマの仕立てが太くてシンプルになって来るわけですが、時代が三百年も離れてしまうと・事情が若干分かり難いところが出てくるようですね。

孝太郎の梅川は手堅いところを見せていますが、忠兵衛から封印切の真相を聞いて「死んでくれとは勿体ない、わしゃ礼言うて死にますワイナァ・・」以下の台詞はもうちょっと哀しみを込めて言った方が良いかも知れませんね。背後に見世女郎の悲哀が見えて来るようにお願いしたいと思います。

(R7・2・19)


〇令和7年2月歌舞伎座:「其俤対編笠〜鞘当」・その2

「鞘当」は、元禄歌舞伎の様式を衒った文化文政期の現代劇です。だから芝居のなかに、古(いにしえ)と今の、様式の揺れ動きが感じ取られねばなりません。しかし、今回(令和7年2月歌舞伎座)の舞台に限りませんが、現行歌舞伎で見る「鞘当」は伝統にどっぷり浸って・いわゆる「様式美」を売り物にしていますから、そう云う様相がなかなか見え難い。様式美なんて最初見た時はちょっとビックリするかも知れないが、これが同じ調子がダラダラ5分も続けばだんだん眠たくなって来る、だからそうならないように何かを常に「揺らさなきゃいけない」のです。揺らし方にもいろいろあると思います。台詞ならばテンポの緩急を大きく付ける、声の調子の高低を変える、声量を大きくしたり・小さくしたり変化を付けるなど、いろいろ工夫は出来ます。所作についても同じことです。

世話と時代、写実と様式、いろいろ尺度はありますが、こうすれば世話・こうすれば時代という定形図式があるわけではありません。例えば速度をゆっくり取るならば・普通は時代の感覚になることが多いと思いますが、世話の感覚になる場合だってあります。早い遅いそれ自体に意味があるわけではなく、意味付けは状況に拠るのです。それよりも「揺れ動き」のリズム感が大事です。一つ所の感覚に留まっていてはいけません。何でも良いから揺らしてみれば良いのです。それによってドラマに生きた感覚が生じてきます。

巳之助(不破)も隼人(名古屋)も児太郎(留女)も、登場した時の印象はなかなか良いです。これはやるかと期待しましたが、如何せん演技が様式ベッタリで、同じ調子がダラダラと続くので、見ているこちらがだんだん疲れて来る。ドラマを生きた感覚にするために、料理の味わいをピリッと引き締める香辛料の最後のひと振りが必要です。それだけでも受ける印象はかなり変わって来ると思いますけどね。今は「らしく」勤めることで精一杯かも知れないけれど、この次にやる時のために、どんな場合であっても「生きた人間を演じたい」という気持ちは保持して欲しいと思います。

(R7・2・13)


〇令和7年2月歌舞伎座:「其俤対編笠〜鞘当」・その1

本稿は令和7年2月歌舞伎座での、巳之助の不破・隼人の名古屋による「鞘当」の観劇随想です。東京での「鞘当」上演は令和3年8月歌舞伎座以来のことですが、その時は歌昇の不破・隼人の名古屋の組み合わせでした。本稿はその時の観劇随想の続編みたいなものです。

四代目南北が「鞘当」で仕組んだ「趣向」とは、元禄歌舞伎から続く重要なキャラクターである不破伴左衛門と名古屋山三を文化文政の当世風俗のなかに放り込んだと云うことです。これは南北お得意の「綯い交ぜ」という技法です。つまり時代が世話に刺さり込むことの奇矯さ・面白さを狙っているのです。文化文政期と云うのは、「成田屋の荒事なんて単純で内容がなくて、もう時代遅れでツマらない」という声が出始めた時期でした。当時の役者評判記にもそんなことが書かれています。初演当時33歳で不破を勤めた七代目団十郎は、このような雰囲気を察知してケレン早替りをやったり・色悪をやってみたり、試行錯誤の真っ最中でした。歌舞伎十八番の制定もそのような七代目団十郎の危機感から生まれたことでした。そのような時代に出来たのが、この「鞘当」なのです。

と云うことは、「遠からん者は音にも聞け」と不破が大時代に声を張り上げることが「皮肉」に聞こえませんかね?これは「相変わらずカッコ付けて古臭いことをやってるねエ(苦笑)」と云うようなものです。そんな生世話の芝居のなかのミスマッチが南北の「趣向」の意図するところです。だからここぞと云うところで大時代が目立つように芝居を運んで行かねばならないのであって、最初から最後まで様式ベッタリでやっていたらダメであることは分かると思います。

天保十二年のシェイクスピア」は井上ひさしが「天保水滸伝」にシェイクスピアを綯い交ぜした作品ですが、2005年(蜷川幸雄による演出での)上演の時に隊長役を勤めた木場勝己が、井上ひさしに「ちゃんと時代劇をやってね。(新劇俳優は)シェイクスピアネタに引っ張られ勝ちだけど、「天保水滸伝」をネタにしているのだから、パロディにするためには・そこをしっかりやらないとダメなんだ」とアドバイスされたそうです。「鞘当」の趣向に於いても同じことだと思います。

ですから「遠からん者は音にも聞け」に始まる有名な渡り台詞はもちろん元禄荒事のツラネの様式を引くものですが、決して元禄歌舞伎そのままであってはならないわけなのです。様式ベッタリの台詞回しであっては困る。元禄のキャラクターがタイムマシンで当世吉原に現れたことのミスマッチの感覚、擬古典的な衒(てら)い、これがあってこそ南北の「趣向」が生きるのです。

しかし現行歌舞伎に於いては「鞘当」は「大した内容がないので・古劇の様式美と役者の容姿を愉しめばそれで良い芝居」と云う位置付けをされています。こうなってしまったのには・それなりの歴史的背景があるのだが、それにしても様式ベッタリの「鞘当」を見ると「もっと生きた芝居に出来ないものかねえ」と溜息をついてしまうのです。(この稿つづく)

(R7・2・9)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その7

これで今回(令和7年1月歌舞伎座)の「陣屋」について触れる準備がようやく整いました。吉之助が当日の舞台から受けた印象を言うならば、それは昨年(令和6年1月浅草公会堂)での「陣屋」から受けたそれととてもよく似ており、なおかつその時よりも「重苦しい」と云うことでした。型は段取りとしては忠実に履行されています。歌舞伎座で演じるメンバーは浅草よりもひと回り上の世代であるし、入れ物は歌舞伎座ですから、そりゃあ浅草よりも恰幅良く見栄えがします。これは当然そうでなければなりませんが、それゆえに受ける印象が余計に「重苦しく」なってくるのです。作者並木宗輔が仕掛けた「趣向」が正しく機能していないからです。もっと役を演じるうえでの気持ちの余裕を持つことです。

しかし、おかげで吉之助は昨年浅草では漠として形を成さなかった疑問が、今回歌舞伎座の「陣屋」ではっきりと見えた気がしました。そうなってしまったのも九代目団十郎型が内的に持つ「趣向の閉じた感覚を内側から壊す力」のせいであることに改めて思い至るのです。令和の現代の歌舞伎は、この時代に沿うた「陣屋」の団十郎型の在り方をもう一度冷静に検証してみる必要がありそうですね。

まず書いておかねばなりませんが、今回歌舞伎座と昨年浅草の配役で共通するのは弥陀六を演じる歌六ですが、弥陀六に関しては申し分ありません。吉之助もいろいろな「陣屋」を見て来ましたが、映像で見たものも含めて、歌六はそのなかでも上位に入る弥陀六だと思います。歌六の弥陀六が動き・しゃべると、「陣屋」の趣向が働いて芝居が「平家物語」の方へ引き寄せられていく思いがします。そうなるのは歌六の弥陀六に或る種の軽み・と云うか洒脱さが意識されているからでしょう。しかし、そのような素晴らしい弥陀六が幕切れに向けて・せっかく「趣向」の円環を閉じる段取りを整えてくれているのに芝居の結果がそうならないのは、直実がそれを壊してしまっていると云うことですね。これでは「陣屋」の登場人物が「平家物語」の世界に帰っていくことが出来ません。

もう一度書きますが、小次郎は敦盛として須磨寺に葬られることになるのですから、公にはもはや敦盛なのです。だから団十郎型の幕外花道の引っ込みでは、直実は息子のことを思って泣いているのでもあり、敦盛のことを思って泣いていることにもなる。むしろ幕切れにおいては既に後者の思いの方がより強くなっているのです。そうでなければ直実は「平家物語」の世界へと帰ることが出来ないのです。

ここで弥陀六のことをちょっと考えてみたいのです。弥陀六の前身・弥平兵衛宗清は、平治の乱の時に捕らわれの身となった幼い頼朝・義経兄弟が殺される寸前であったところを、清盛に嘆願して・これを助命した人物でした。これは慈悲の行為です。だから良いことをしたのです。しかし、成人した頼朝・義経兄弟は平家追討に動き、今まさに平家は滅び去ろうとする運命にあります。つまり宗清は善行を施したはずが、回りまわって結果として平家が滅びる直接の原因を作った人物になってしまいました。これを因果応報と云って良いのかどうか分からないが、宗清はまさに史上稀に見る「業(ごう)」に巻かれた人物であり、救いようのない悔恨と苦悩の底にある人物なのです。これと比較するのも憚られますが、我が子を犠牲にした直実よりもこれははるかに「あはれ」な人物であるかも知れません。

吉之助は思いますがね、作者並木宗輔は宗清のことを(完全に救い上げることは出来ないにせよ)ちょっとだけ慰めてやりたかったのかも知れません。直実が我が子を身替わりにして敦盛を戻してやったことで、救われない宗清がちょっとだけ慰められるのです。

「アヽイヤ イヤイヤこの内には何にもない何にもない。ヲヽマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」

並木宗輔はこのために「陣屋」の直実に制札の謎を仕掛けたと思うのです。さらに「義経記」が伝えるところに拠れば、そして今は華々しい戦功を挙げる義経もやがてそう遠くない未来に兄頼朝に疎まれて奥州平泉で哀しい最期を遂げることになります。つまり俗世にあっては直実は宗清を慰め、出家して後は蓮生法師として義経を回向することになる、これが直実に課された役割なのです。もちろん「陣屋」にはその未来までは描いていませんが、幕切れを見れば、この運命は暗示されています。

弥陀六:「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」
義経:「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」
直実:「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てて不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」

「陣屋」の幕切れの「世界」を(直実個人だけのものにするのではなく)そこまで包括した大きいものにしてもらいたいですねえ。そこから日本人の心の「真実」が浮かび上がる。これが「趣向」が引き起こす魔法なのです。吉之助は団十郎型の幕切れであっても・それは十分可能なことだと考えますが、そのためには令和の「陣屋」は原作をしっかり読み込んで・直実の性根から構築し直す必要があるかも知れませんね。

(R7・2・8)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その6

「源氏物語」の「蛍」の巻で光源氏がこんなことを言います。

『その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経るのありさまの、見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心に籠めがたくて言ひおきはじめたるなり』

(現代語訳:(「物語」とは嘘事だと人は云うけれど)はっきりと誰それのことと、あからさまに言うことはないけれど、善いことも悪いことも、世の中の生きる人のありさまの、見ても飽きない、言葉にも尽くせない、後の世にも語り伝えたいようなことなどを、心のなかにしまっておけずに物語として語り始めたものなのだな。)

本居宣長は「源氏物語玉の御串」のなかで、作者紫式部はこの箇所で源氏の言葉として「物語は作り話ではあるが、嘘ではないと知りなさい」と自らの信条を述べたのだとしています。

芝居であっても同じことなのです。役を演じるうえでの気持ちの余裕・或いは「趣向」の遊び心とは、「芝居なんて世の中のお役に立たないものでございますよ、それはホンのお慰み、絵空事でございますから・・」という戯作者のポーズに通じます。しかし、絵空事であっても、芝居は確かにこの世の「真実」を描いているのです。そこに戯作者としての矜持(きょうじ)がある。役者にもそう云うものがあるはずですね。

ところで昨年(令和6年)1月浅草公会堂の「熊谷陣屋」で歌昇が直実を初役で演じた時のことを思い出しますね。歌昇は教わった型に真摯に取り組んで、汗が飛び散るような熱演を見せました。若者らしく気持ち良い舞台でありましたが、観劇随想のなかで吉之助が、

歌昇が(二代目)吉右衛門の熊谷の型を真摯になぞった結果、型が元々持っている原初的なイメージが結構生(なま)に出たと云う印象を持ちますねえ。そうなりそうなところを吉右衛門はオブラートにくるんだ感じで婉曲に・マイルドに出していたのだと云うことに改めて思い至りました。(中略)そう云うことの積み重ねで、歌昇の熊谷は型っぽい・と云うかかぶきっぽい、ちょっと暑苦しい印象になったと思います。』

と書いたのは、そこのところです。直実個人の悲しみに特化する、現代に生きる役者として・人間として・そこは譲れないのは分かる。しかし、そこを真剣に真実めいて描こうとすればするほど、九代目団十郎型が原初的に持つ・芝居の閉じた感覚を内側から壊す力がより強く生(なま)に働いてしまう、直実の悲しみは自ずと「忠義への不信」の方向へ向かうことになるのです。そうすると赤みを増した直実の化粧も荒事の赤っ面の主人公のように・どこか憤(いきどお)りの感情を含んだかのように見えてしまう。歌昇の直実の「かぶきっぽい印象」はそこから来ると云うことです。

但し書きを付けますが、これは歌昇の直実が悪いと云うことではなく、今の段階に於いては型の段取りをその通り懸命になぞる、これで結構なのです。しかし、次の機会に再び直実を演じるならば、役を演じるうえでの気持ちの余裕・或いは「趣向」の遊び心を持つこと、これで歌昇の直実の印象がガラリと変わると申し上げたいわけです。(この稿つづく)

(R7・2・5)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その5

令和の現在の「熊谷陣屋」は、「主筋を守るために我が子を犠牲に供さねばならないことの直実の苦しみ・悲しみ」を掘り下げないと・なかなか観客の心に刺さり難い芝居になりつつあるようです。そうすると「趣向」が上手く機能しなくなって、円環の閉じた感覚が益々壊れることになるのです。「陣屋」が何だか不条理悲劇っぽい感触になってくるのですね。まあ現代演劇として見るならば・そういうのもアリなんですが、歌舞伎の古典的悲劇の閉じた感触からは何だか遠くなってしまうのです。

平成の三人の直実役者、二代目白鸚二代目吉右衛門十五代目仁左衛門の舞台を思い返せば、皆そこのところで悪戦苦闘を強いられて来ました。直実個人の悲しみに特化する、現代に生きる役者として・人間として・そこは譲れないわけですが、そこへ特化すればするほど悲しみは「忠義への不信」へと向いてしまう、そうすると直実が「平家物語」の世界にスンナリ戻っていけないのです。この負のスパイラルを如何にして解決するか、「陣屋」の幕切れを「趣向」に落とし込み・登場人物を無事に「平家物語」の世界にお返しすることが出来るかについて、吉之助の目から見ると、平成歌舞伎の「陣屋」の舞台の数々は、遂に納得する解答を提示することが出来なかったと思います。

方策としてひとつ考えられることは、幕外での愁い三重での引っ込みは・確かに九代目団十郎型の肝になる箇所に違いないが、この引っ込みが引き立つのも、幕が閉まる直前にある、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞で、諸行無常の理をしっかり決められればこそだと云うことです。ここが「陣屋」の真のフィナーレなのです。だから「陣屋」の幕切れに本来あるべき・歌舞伎の古典悲劇の閉じた感触を取り戻すために、主役である直実役者だけでなく・出演者全員が、幕切れの六重唱に向けて、首実検以降の段取りをもう一度見直すことだと思いますね。幕外での熊谷の引っ込みは、云わばエピローグに過ぎないと考えて、アッサリした感触に仕立てた方が宜しかろうと思います。

その時に大事になるのは、役を演じる気持ちの若干の余裕と云うか・「趣向」の遊び心と云うことでしょうね。(この稿つづく)

(R7・2・3)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その4

ここまでの考察を整理します。歌舞伎の時代物の幕切れは、これを「然り、しかしこれで良かったのだろうか」という軽い懐疑の形で終えるものですが、この時「趣向」の円環は完全にぴったり閉じているわけでないのです。どことなく懐疑の余韻を残す、その位には開いているのですが、まあ基本的には閉じていると云って宜しいでしょう。しかし、九代目団十郎型の「陣屋」の幕切れでは、直実個人の苦しみに特化することで懐疑の色合いがさらに濃いものとなり、円環の閉じた感覚がはっきりと壊されることになりました。更にこれを延長していけば・それは「忠義への疑念」にまで至ることになるわけですが、団十郎型ではそこまで至る以前のところで留められています。このような閉じた感覚を破綻させるベクトルを団十郎型が持つ「原初的なイメージ」と云うことにしておきましょうか。

団十郎は「陣屋」の幕切れを、「然り、苦しく辛いことであったが、それはしなければならないことだった」という形にして、これで「趣向」との折り合いを付けようとしたのです。このことは明治から昭和前期まで、「尽忠報国」(命を懸けて国の恩に報いよ)を国家スローガンとした時代の倫理道徳に合致することでもありました。相次ぐ戦争に兵士として従軍せねばならなかった若者たちは、「然り、苦しく辛いことであるが、それは国民として耐え忍ばねばならないことだった」と身につまされる思いで直実の苦悩に自分を重ねたのです。こうしたなかで「陣屋」の団十郎型は名型として定着して行きました。

このような状況は昭和20年(1945)敗戦後の昭和後期の日本ではまったく変わってしまいましたが、8月15日で人心が一変したわけではありません。まだまだ戦前の倫理道徳の余韻を引きずったところで人々は生きていたのです。だから吉之助のような「戦争を知らない子供たち」の世代であっても、「陣屋」の舞台を見て「それは耐え忍ばねばならないことだった」という感覚は、それなりに理解が出来たのです。あの頃の人々は「陣屋」は反戦を訴えている芝居なんだねえと素直にそう思って見たものでした。吉之助が見た昭和50年代の二代目松緑や十七代目勘三郎の直実がそう云うものであったし、映像でしか知りませんが八代目幸四郎(初代白鸚)の直実も、そして映画で遺っている昭和25年(1950)4月東京劇場での・あの初代吉右衛門の直実もそう云うものでありました。

「それは耐え忍ばねばならないことだった」と云うことは、「命を捨てても守らなければならないものが何かある」と云うことであったと思います。ところが昭和20年(1945)敗戦以降、倫理道徳のなかの、守らなければならないものの基準が変わってしまいました。このことが昭和末期以降から令和の現在までで、次第に明らかになって来ました。(事の是非を申し上げているのではなく、変わった事実のみを申し上げています。)

このことによって「陣屋」のなかの直実がそうしなければならなかった根拠の数々、例えば「敦盛卿は院の御胤」、直実夫婦は敦盛の母・藤の方に格別の恩義があり、さらに主人義経が「一枝を伐らば一枝を伐るべし」の制札に込めた謎、義経信仰の背景など、これらの根拠の重さが観客に伝わり難くなりました。それよりも「主筋を守るために我が子を犠牲に供さねばならないことの理不尽さ・非道さ」の方がはるかに重いものになるのです。同じ人間でしょ、なのにどうして家来がそんな犠牲を強いられなきゃならないの、そんなのアリなの・・と云うことになる。これまで直実が行動の根拠としてきたものに批判の矛先が向かいます。「陣屋」が封建忠義を批判する様相に見えてくるのです。こうして「陣屋」の趣向の閉じた感覚が破綻してしまう・・・

つまり吉之助が申しあげたいことは、九代目団十郎が直実個人の苦しみに特化し懐疑の色合いを強めたことが、この一連の流れの端緒にあったと云うことです。原作(並木宗輔の文楽)の段取りならばこう云うことは起きなかったとは言いません(「寺子屋」などにも同じことは起こり得る)が、少なくも団十郎型の幕切れが「陣屋」の解釈を一層面倒なものにしているとは言えそうです。(この稿つづく)

(R7・2・2)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その3

このように「熊谷陣屋」の登場人物は、「平家物語」から出て・暫くの間そこから自由に動き回りますが、やがて「平家物語」のなかへと戻って行きます。こうして「趣向」の円環が閉じます。この閉じた感覚は文楽の「陣屋」であるならば、

『この須磨寺に取納め末世末代敦盛と、その名は朽ちぬ黄金札、武蔵坊が制札も、花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔。「さらば」「さらば」「おさらば」の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く。』

という幕切れの詞章からスンナリ理解が出来ると思います。一方、現行歌舞伎の「陣屋」の定番である九代目団十郎型ではこの段取りを入れ替え、幕外の熊谷の花道引っ込みで芝居を終えます。団十郎は我が子を身替りに供さねばならなかった直実個人の苦しみに特化するために、幕切れを直実だけの芝居に作り替えてしまいました。但し書きを付けますが、本稿は団十郎型の是非を問うのが目的ではありません。「歌舞伎素人講釈」では団十郎型の検証を何度も行なって来ましたから、詳細はそちらをお読みください。

吉之助が本稿で考えたいことは、団十郎型が直実個人の苦しみに特化しようとしたことは、十九世紀の近代リアリズム演劇思潮の反映であり・そこに「趣向」の閉じた感覚を壊す力を内包するものであることは明らかですが、「江戸歌舞伎の最後の生き残り」を自称した九代目団十郎は恐らく、このことをそこまで深く考えなかっただろうと思われることです。ただしこのことは団十郎を揶揄するものではありません。そのように思わないで下さい。団十郎は「趣向」の感覚が身に染み着いた役者なのですから、役作りを直実個人の苦しみに特化しつつも、最終的にこれを「趣向」に落とし込もうとしたはずです。例えば杉贋阿弥は団十郎の直実について、次のように回想しています。

『(幕切れの花道引っ込みで)成田屋の「夢だ夢だ」とクルクル頭を撫で廻す型は、熊谷自身の飄逸な趣に偏して「ほろりとこぼす」と下から出る弦のツボに落ちない。「十六年はひと昔」は小次郎を観じて無常に泣くのだが、(九代目)団十郎は調子と云い形と云い、自己本位に出家を夢と観じているので、こう悟ってしまうと「柊に置く初雪の」でボロボロ泣くのが揺り返しめいて連続しない(中略)、団十郎はとかく悟り過ぎて困ると思った。』(杉贋阿弥:舞台観察手引草」)

歌舞伎の時代物の幕切れは、主人公が差し出す犠牲を他者が「然り」と受け取りますが、これを「然り、しかしこれで良かったのだろうか」という軽い懐疑の形で終えるものです。団十郎型では懐疑の色合いがさらに色濃くなりますが、それは「忠義への疑念」にまでは至りません。「熊谷自身の飄逸な趣に偏して」おり「団十郎はとかく悟り過ぎて困る」と書かれています。ここで平家物語が描く「この世のあはれさ、この世の無情さ」が踏まえられています。「然り、苦しく辛いことであったが、それはしなければならないことだった」という形になって、これで「趣向」との折り合いを付けようとしているのです。贋阿弥の記述を読む限り、さすがの団十郎も難儀している様子が伺われます。井上ひさしの表現を借りるならば、そこに「趣向」との妥協が見えると云うことですね。

しかし、「妥協」と云うと悪いことのように聞こえますがね、小次郎は敦盛として須磨寺に葬られることになるわけですから、公にはもはや敦盛なのです。だから団十郎型の幕外花道の引っ込みでは、直実は息子のことを思って泣いているのでもあり、敦盛のことを思って泣いていることにもなる。むしろ幕切れにおいては後者の思いの方がより強くなっているのではないでしょうかね。そうやって直実は「平家物語」へと戻って行く・・・と云うことにするためには、やはり役の気持ちのなかに若干の余裕と云うか・「趣向」の遊び心を持たないといけませんね。(この稿つづく)

(R7・1・31)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その2

但し書きを付けますが、井上ひさしは「私なりに曲解すれば」と前置きして、「世界」という用語に自分なりの定義を持たせています。井上ひさしにとっての「世界」とは、作者にはまず書きたいことがあって、これが「世界」であると云うことです。つまりこれは作者が持っている作意・あるいは作品主題のことです。一方、歌舞伎では芝居の時代設定の背後にあるものを「世界」と呼び慣わします(例えば「熊谷陣屋」ならば「平家物語」の世界・または「義経記」の世界となる)が、井上ひさしはこれを云わば「趣向」の枠組み・「趣向」の一部であるとみなしており、これに「世界」という言葉を充てていません。このため文章は多少混乱を来たしていますが、上記を踏まえて続きをお読みいただきたいのですが、

『ある意味では、「世界」と「趣向」は反対概念であり、自分の「世界」に観客の嬉しがりそうな「趣向」を潜り込ませるのは妥協であるかもしれない。事実、そうわたしに忠告をしてくれる人もある。だが、この妥協のなんと快いことであるか。他人様に笑っていただけるなら命も惜しくないと思っている幇間根性のわたしには、これ以上すばらしい妥協なぞないのである。』(井上ひさし:「趣向を追う」・昭和49年)

この文章に、吉之助は戯作者・井上ひさしの真骨頂を見ますね。それでは戯作者・並木宗輔は「熊谷陣屋」の趣向にどんな思いを込めたかを考えることにします。ところで「熊谷陣屋」の筋を簡潔に書くならば、どんな感じになるでしょうか。

「平家物語では「日本一の剛の者」と謳われた熊谷次郎直実は、須磨の浦での戦いで無冠の太夫敦盛卿の首を斬ったことで「この世の無情」を悟って出家したとされていますが、実はそうではなかったのです。直実が斬ったのは、実は我が子小次郎の首だったのです。熊谷夫婦は敦盛の母藤の方に恩義があり、敦盛卿の身替わりとして我が子を斬ったのです。直実は義経の面前に首桶と制札を置き、この制札の文言に従いこの首を討ったと言い、義経は「花を惜む義経が心を察し、よくも討ったり」と首を受け取りました。我が子を無くした直実は髻(もとどり)を切り落とし出家を決意し、黒谷の法然上人を頼まんと陣屋を後にする。」

直実の筋だけを追えば、まあこんな感じで宜しいかと思います。そこで「陣屋」幕外花道での直実の引っ込みで、我が子を犠牲に供さねばならなかった直実の苦悩と悲しみをたっぷりと描く、そこが最大の見所になろうかと思います。

以上のことは、我が子を犠牲に供さねばならなかった直実の苦悩と悲しみを、真に迫った感じで生々しく描けば描くほど、芝居は観客にとって一層身につまされるものになります。現代のリアリズム演劇の考えからすれば、そのように演じることは役者として、と云うよりも人間として当然ということになると思います。しかし、それを真剣にやろうとすればするほど、「陣屋」の趣向が消し飛んでしまうことになるのです。「陣屋」の趣向とは何であったでしょうか。浄瑠璃作者は「陣屋」に複数の趣向を仕掛けていますが、この場合の趣向とは、

「平家物語では熊谷直実は、須磨の浦での戦いで敦盛の首を斬ったことで出家したとされているが・実はそうではなく、直実は実は我が子小次郎の首を斬ったことで出家したのです。」

と云うことです。ここでは(敦盛から小次郎へと)事実の倒置が成されています。しかし、直実が斬ったのが敦盛であっても・小次郎であっても、そのどちらであっても、その行為の結果が同じことになることの方が、もっともっと大事なのです。すなわち、どちらの場合でも直実はこの世の無情を儚んで出家することになる、このことが大事です。このことによって、「この世のあはれさ、この世の無情さ」はどんなことがあっても・決して動かされることのない真理となるのです。事実が倒置されることによって、結果の意味が重複されて強化されることになるわけです。(「陣屋」の他の趣向もみなこの結果を強化する方向に働いています。)

ですから、井上ひさしは「芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい」とか、「他人様に笑っていただけるなら命も惜しくないと思っている幇間根性のわたし」とか言ってますけどね、そんな感じでヘラヘラして趣向ばかりに凝っているように見せかけてますが、最後の最後に芝居に表面に浮かび上がって来るものは、作者が持っている作意・あるいは主題なのです。

したがって作者・並木宗輔が「熊谷陣屋」の趣向で意図したことは、直実が鎧兜を脱ぎ捨て・黒衣の僧形となって舞台に立つのを見て、観客が「アハッこれは作者の仕掛けに見事にやられちゃったな」と思わず苦笑いをして、やはり平家物語が描くところの「この世のあはれさ、この世の無情さ」はどんなことがあっても変えることが出来ない真理なのだナアという思いを噛み締めるならば、作者としてこれ以上快いことはないと云うことかと思いますね。(この稿つづく)

(R7・1・28)


〇令和7年1月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その1

本稿は令和7年1月歌舞伎座での松緑の熊谷直実による「熊谷陣屋」の観劇随想ですが、舞台について触れる前に、「熊谷陣屋」に於ける「趣向」の機能について暫し考えることにします。

このところ吉之助は歌舞伎に於ける「趣向」と云うことをよく考えます。何故だかは分かっているのですが、それは昨年12月・日生劇場で井上ひさし作の「天保12年のシェイクスピア」を見たせいです。以来このことが頭の片隅に引っかかっており、今月(1月)歌舞伎座の「熊谷陣屋」を見ても、やはり舞台上で作者が意図した趣向がそのとおり十全に機能しているか、このことが気になります。(同じ月の「二人椀久」については別に観劇随想を書きました。これにも趣向のことが絡んでいます。)

井上ひさしは本作「天保12年のシェイクスピア」初演(昭和49年・1974・1月)の公演筋書に「芝居の趣向について」という小文を寄せて、

『芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい。誤解をおそれずに言えば、芝居では思想でさえも趣向の一つなのだ。』

と書いています。これは戯作者として実に力強い宣言であると思いますね。井上ひさしは「趣向を追う」(同じく昭和49年・1974)と云うエッセイのなかでも、初代並木五瓶(「陣屋」の作者並木宗輔よりちょっと時代は下ります)の「戯財録」のなかの文章を引用して、「これを私なりに曲解すれば」と前置きして、次のようなことを書いています。要約しますが、

『作者にはまず書きたいことがある。これがつまり作者の「世界」である。しかし、作者にとってそれが切実な事柄であっても、それが観客にとっても同じように切実であるかどうかは分からない。これをそのまま投げ出されたらどうもなあ・・という場合だってある。それでお金を下さい、というのは厚かましいことで、ここにどうしても、作者と観客とが同時に、そして文句なく乗れるような、切実であるよりは何か面白そうな仕掛けが必要になる。これがつまり「趣向」というものなのではないか。だから観客はおそらく「世界」を見に来るのではない。「世界」がどのような「趣向」に乗っているのか、それを確かめに劇場に足を運ぶのである。』

サテ「熊谷陣屋」の作者・並木宗輔は芝居のなかの趣向にどんな思いを込めたであろうか。そんなことを考えながら芝居を観たいと思うのです。(この稿つづく)

(R7・1・25)


〇令和7年1月浅草公会堂・第1部:「道行旅路の花聟(落人)」

本稿は令和7年1月浅草公会堂での新春浅草歌舞伎の第1部、橋之助の勘平・莟玉のお軽による「道行旅路の花聟(通称・落人)」の観劇随想です。

今月(1月)歌舞伎座での「二人椀久」の観劇随想で「日本舞踊は、芝居の筋(ストーリー)にあまり付き過ぎないようにした方が良い」と云うことを書きましたけど、今回の「落人」では尚更このことを言わねばなりません。現代の舞踊家ならば「意味を考えながら踊る」のは当然のことなのだけれども、芝居の筋に付く・付かぬと云うのは、これとはちょっと次元が別の問題です。(詳しくは別稿「芝居と踊りと〜日本舞踊を考えるヒント」をご覧ください。)

まず舞踊「落人」は、現在では「仮名手本忠臣蔵」通し上演の昼の部の最後に出ることが多い。つまり四段目切の由良助の館明け渡しの重苦しい雰囲気からガラリと気分を変えてお客様に気持ちよく劇場を後にしていただきましょうと云うことでよく出る舞踊です。「忠臣蔵」の一幕としてすっかり定着していますが、「忠臣蔵」に元々この場はなかったのです。「落人」は「忠臣蔵」の三段目の裏門の場面(お軽とのデートにかまけて主人の大事に居合わせなかった勘平が失意の内にお軽の実家の在る山崎に落ちることにする)を元に、これを自由な発想で道行の舞踊に作り変えたものです。初演は天保4年・1832・江戸河原崎座でのこと、三代目菊五郎のお軽・七代目海老蔵の勘平でした。ですから舞踊「落人」の道行は逃避行だからホントは気分は暗くあるべきかも知れないが、それは内々のことで、舞台面を見ると春爛漫で、何となくウキウキした新婚気分である。おまけに伴内が花四天を引き連れてユーモラスな立ち回りを見せる。これを暗い気分で踊ろうったって、それは野暮と云うものじゃないでしょうかね?

ところがいつ頃からか分かりませんが、ハタと気が付くと舞踊「落人」で、何だかお軽勘平が浮かない表情をして踊る舞台を見ることが多くなりました。先日・昔の舞台映像を見ていたら、吉之助はどちらの舞台も生(なま)で見ましたけれど、昭和61年・1986・10月国立劇場での「忠臣蔵」通しの「落人」での十二代目団十郎の勘平と五代目勘九郎のお軽はずいぶん悲しそうに踊っていましたねえ。しかし、昭和53年・1977・11月歌舞伎座での通しの十七代目勘三郎の勘平・七代目梅幸のお軽はそんなことはありませんでした。もちろんニコニコしていたわけではありませんが・表情は平静にしていて、「主人の大事を余所にして、この勘平はとても生きては居られぬ身の上・・・(中略)お軽さらばじゃ」の台詞で脇差を構えてフッと憂いを利かせる、これで十分なのです。

だから多分昭和の終わり頃から「落人」は悲しい気分に傾斜して来たと云うことでしょうかね。この点は仮説としますが、ひとつには、現代の観客には「忠臣蔵」三段目・裏門の経緯が分からなくなっていますから、翻案物としての「落人」の「趣向」の面白さも理解出来なくなっている、だから尚更踊りが芝居の筋に付いてしまうと云うことかと思います。しかし、このことはもういい加減に本来の感触に戻さねばなりません。そのためにもう一度舞踊「落人」の成立経緯にまで立ち戻って考えてみることです。

まあそういうわけで、これは橋之助の勘平が良くないと云うことではなく・昭和の終わりから平成の歌舞伎の風潮(トレンド)が悪かったと云うことなのですが、今回の橋之助の勘平もまた、心ならずも主人に対し不忠の罪を犯してしまったことへの悔いが腹の内にずっしり重いという印象ですねえ。これは芝居の筋(ストーリー)から役の性根を構築するという現代の役者の行き方ならば、まったく正しいです。しかし、この場合(舞踊「落人」)は、そのことは腹のなかにしっかり納めて・外に出さない、踊りを芝居の筋にあまり付き過ぎないようにする、そうすると作品の「趣向」が自ずと生きてくるのですがね。その辺を直せば、しっかり踊って感じの良い勘平です。

一方、莟玉のお軽はアッケラカンと明るくて、まあこちらは逆にもう少し陰があっても良いのでないか・・と言いたくなるところがないでもないが、しかし、「芝居の筋に付き過ぎない」と云うところは押さえているので、的を外してはいません。この舞踊のお軽には「勘平さんは大変だけど、彼と一緒に暮らせることになって嬉しいわ」と云うところがあると思います。

(R7・1・21)


〇令和7年1月浅草公会堂・第2部:「絵本太功記・十段目・尼ヶ崎閑居」

本稿は令和7年1月浅草公会堂での新春浅草歌舞伎の第2部、橋之助初役の武智光秀による「絵本太功記・十段目」の観劇随想です。今年の浅草では第1部に同じく「太十」が染五郎の光秀で・顔触れを替えてダブルキャストで組まれています。こういう出し方は興行の側から見れば大道具の仕込みが節約出来て良いのかも知れませんが、ご見物の立場からすると・第1部と第2部とどちらを選べば良いか迷うので、狂言は別建てにした方が宜しいのではないですかねえ。

「太十」を両方見れば、批評する立場としては・どうしても両者を比べたようなことを書かねばなりませんが、顔触れが替われば、舞台の感触は当然変化するものです。そう云う意味では、第2部の舞台の方がオーソドックスと云うか、いくらか落ち着いた感触を見せてはいます。これは配役バランスとか微妙な要素が絡みます。第1部では前半部(光秀が登場する以前)がバランス的に物足りない気がしました。この点は第2部の方がしっくり行っている印象です。しかしまあ、フレッシュな感覚に於いてはどちらの舞台も見るべきものを正しくそのように見せています。「息を腹にしっかり保った所作と台詞廻しをもっと心掛けて欲しい」という課題もまったく同じです。

橋之助(29歳)初役の光秀は、親子だから当然のことですが、父・芝翫の若い頃を思い出します。恵まれた容姿で・線の太い時代物の役の「らしい」ところをしっかり捉えています。安心して見ていられる光秀です。今はそれで十分過ぎるくらい十分ですが、そのことを認めたうえで・ちょっと余計なことを書きますが、現状の芝翫が時代物役者の恵まれた資質を備えながら・芸がメタボ気味で停滞している印象(残念ながら今月・1月歌舞伎座の「熊谷陣屋」の義経役もあまり良い出来とは言えません)なのは、役の「らしさ」にかまけて・役の内面を掘り下げることを長年怠ってきた結果であると思っています。橋之助に申し上げたいことは、父の轍を踏まないように、役の内面を掘り下げる努力をこれからも続けて欲しいと云うことですねえ。(芝翫の光秀については別稿をご覧ください。)

現行歌舞伎での「太十」の光秀は、大筋において主殺しの大罪を犯した悪人のイメージです。非道の報いはこう云うことだ(自分の母親を殺してしまう・戦さで息子を死なせてしまう)・どうだ罪の深さを思い知ったかと云う感じに芝居が仕立てられています。現行歌舞伎の光秀と云う役の「らしさ」は、ほぼそう云うところにあります。しかし、実はそれは表向きのことなのです。それは「君君たらずといえども、臣臣たらざるべからず」とされた時代(江戸期)の作劇の表向きです。息子十次郎が絶命する場面での光秀を描写する竹本の詞章をみれば、それが明らかです。

『さすが勇気の光秀も、親の慈悲心子ゆゑの闇、輪廻の絆に締めつけられ、こらへかねて、はらはらはら、雨か涙の汐境、浪立ち騒ぐごとくなり。』

「さすが勇気の光秀」、これこそ浄瑠璃作者の光秀に対する真(まこと)の評価です。光秀という役の性根を脚本から読み取らねばなりません。橋之助は、型をしっかり捉えることは出来ていますから、次の段階としては、型の形容を内面(性根)から裏打ちしていくことだと思いますね。大事なことは、型が持つ「らしさ」の感覚(そうやってさえいれば・とりあえずそれらしく見える)に対し「然り、しかし、それで良いのか」と云う懐疑を常に持ち続けることです。橋之助は資質は十分なものを持っているのだから、それで自ずと未来は拓けて行きます。

(R7・1・17)


〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その5

井上ひさしは、芝居の「趣向」について次のように書いています。(別稿「趣向のごった煮」を参照のこと。)

『芝居においては、一が趣向で二も趣向、思想などは百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい。誤解をおそれずに言えば、芝居では思想でさえも趣向の一つなのだ。』(井上ひさし・「芝居の趣向について」・昭和49年・1974・1月)

戯作者は「芝居なんて世の中のお役に立たないものでございますよ、これはただのお慰み(エンタテイメント)に過ぎませんから」なんて嘯(うそぶ)きながら、必死になって「趣向」を工夫します。ところが、その結果、作品に現われて来るものは、「百番目か百一番目ぐらいにこっそりと顔を出す程度でいい」と言っていたはずの「思想」なのです。だから趣向が狙い通りに正しく機能しないと、芝居のなかの思想が浮かび上がって来ません。

椀久と松山の物語から一時的に離れて・これは「趣向」に過ぎぬと割り切って〽按摩けんぴきの華やかな連れ舞いを理屈抜きで愉しんでいるうちにフッと松山の姿が消え失せる・・・さてはあれは幻影であったか・・となる。観客はここで「ああそうであったな、これは椀久の悲しい物語であった」とフト思い出して、「あはれ」の感情がそこはかとなく湧いてくる、「二人椀久」が描く思想とはそのようなものです。

そこで今回(令和7年1月歌舞伎座)の「二人椀久」の、右近と壱太郎の後半の連れ舞いですが、早いテンポに遅れずよく頑張っていますが、所作に若干セカセカした印象が付きまといます。このことは「二人椀久」のひとつの側面を見せているということは確かに云えます。別稿「機械的なリズム」でも触れましたが、幕が下りて結局分かることは、椀久は松山の幻影に「踊らされて」いた・木偶人形のように「振り回されて」いたと云うことです。湧き上がる喜びのなかで踊っていたのではなく、そのように「思わされて」いたのです。セカセカした踊りの印象は、椀久が置かれた歪(いびつ)な状況を正直に表していると云えます。しかし、ホントはそういうことは幕が下りた後、ハッと気付かせてくれれば、それで十分なのです。今はただその享楽的な喜びに浸らせて欲しい・・・観客にとってそのことの方が大事なのです。それでこそ椀久の趣向が正しく機能します。

松山の幻影が消えた瞬間、踊りの色合い(カラー)がガラリと変わる、そこの切り替えが大事になります。そこまでは憂い・或いは儚さの情感の表出は、極力控えた方が良い。「椀久-松山の物語」の筋(ストーリー)にあまり付き過ぎることが、「二人椀久」が本来的に持つ「享楽的」な愉しみを妨げてしまう。椀久の趣向が正しく機能しなくなって、セカセカした印象になってしまうと云うことです。

所作がセカセカした印象に見えると云うことは、技術的な見地から見れば、やはり〽按摩けんぴきの早いテンポに対して振りに余裕が足りないと云うことでもあろうと思います。右近と壱太郎両人共に、若干振りが大きいように感じますね。もう少し振りをコンパクトに持っていけば、早いテンポにも付いていけるのではないでしょうか。肘の使い方を工夫することです。もう一つの対処法は、しっかりと振りが取れるレベルにまでテンポを落とすことだと思います。現行のテンポは五代目富十郎・四代目雀右衛門があってのもので、やはり尋常ではないテンポ設定であると思います。少しぐらいテンポを落とすことは、恥でも何でもありません。それよりも振りがしっかり取れることの方がずっと大事なのです。

ともあれ右近と壱太郎の「二人椀久」は令和の・これからの歌舞伎の呼び物となるべき演目だと思いますから、じっくり腰を据えて・長く取り組んでもらいたいですね。

(R7・1・15)


〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その4

つまり現代の舞踊家ならば「詞章をよく読んで意味を考えて踊る」ことはもちろん大事なことではあるのだが、あまりに筋(ストーリー)に付きすぎると、踊りが本来的に持つ享楽性を曇らせる場合もあると云うことなのです。別稿「芝居と踊りと」で、そのことを考えました。

『(六代目)菊五郎などはあれだけを歌舞妓に専念したら、どんな役者になったらうか。あの人気の源になつている踊りは、あの人の芸を触んでいるものだと言うことに気がつかない筈はないと思ふのだが。又(七代目)三津五郎に踊りが出来なかつたら、あの特殊な顔を以つて、もっと役者としての大をなしているだらうに。踊りのために、実に其れだけの役者と謂つた形になつて終わつている。此ほどあの人にとつて気の毒なことはない。(中略)歌舞妓が、歌舞妓発生時代から劇的要素を自由に伸ばさないやうにさした踊りと、平行しているのがいけないのだ。そして歌舞妓芝居の景気の悪い時は、踊りでつなぐと言ふことが、いつも行はれるが、これは歌舞妓そのものから言つて悲しむべきことであるし、又踊りから言つても喜ぶべきことでない。歌舞妓と踊りは別個のものとして進んで行かなくては、どうしてもいけないだらう。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

折口が言うことは、歌舞伎というものは、能狂言でも同じですが、物真似芸に発し、本義は写実に根ざすものです。それに対して踊りは、表現ベクトルが反写実の方に向く。だから歌舞伎が写実の本義を貫き通してドラマ性を追求するならば、歌舞伎は踊りの要素を当然振り捨てて行かねばならないだろうと云うことです。このことを逆に舞踊の側から考えてみると、振りの本義(享楽性)を追及していくために、舞踊は思い切って筋(ストーリー)から離れる必要があると云うことです。

『我々からすれば、能がかりだとか、芝居がかりでない方が踊りらしい気がする。だから、これでも踊りかと言う気のするものが多くて、踊り自身ですら早くから不純なものになつていたのではないだろうか。』(折口信夫:「歌舞妓とをどりと」・昭和14年6月)

当世の「二人椀久」の人気は、後半の踊り地(〽按摩けんぴき以降)での、活気のある早いテンポの椀久・松山の連れ舞いにあることは明らかです。現行のテンポはかなり速いですが、

『昔はもっとゆっくりだったようです。先代(初代尾上菊之丞・振付)の時もこのスピードにしたのは最近らしいですね。恐らく、雀右衛門さんと富十郎さんから、(中略)先代がこの二人ならということでテンポアップして演らせたということはあるかも知れません。』(二代目尾上菊之丞談、西形節子・「日本舞踊の心」〜「二人椀久」)

そのように考えると、あの富十郎の椀久・雀右衛門の松山のコンビの〽按摩けんぴきの面白さと云うのは、一つには恐らく本来の(オリジナルの・昔の)テンポより倍くらい早いのではないかと思える・長唄のあの早いテンポ、二つ目にはそのテンポに乗って考える間も無いほどに・次々と繰り出される振りの連続技、そこから踊りが本来的に持つ享楽性が立ち上がると云うことであったのだなと改めて思うのです。そこでは「椀久と松山の物語」という筋(ストーリー)が一時的に消し飛んでいました。何も考えずバカみたいに・思わず身体が動いてしまう感覚というか、身体が動いてさえいれば・嬉しくって堪らないみたいな感覚だけが残る、それが逆説的に「二人椀久」が持つ「面白うてやがて悲しき」の思想を解き明かしていく、そう云うことなのだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R7・1・12)


〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その3

さて今回(令和7年1月歌舞伎座)の「二人椀久」の舞台ですが、右近(32歳)の椀久・壱太郎(34歳)の松山の、まさに花の盛りのコンビの踊りで、絵面として美しいことこの上ない。水死したとされる椀久は享年33歳と云われています。イメージ的にも役に近い印象で、そのせいかも知れませんが、どこかにリアルな感触があると云うか、憂い・或いは儚さの情感が漂っていると云うか、二人共実説と伝えられる「椀久-松山の物語」が醸し出すムードをよく理解して踊っていると感じますね。椀久と松山・二人のストーリーが見えてくる心持ちがします。このことを認めた上で、右近と壱太郎のコンビが更なる高みを目指せるかと云うことを考えてみたいと思います。昨年(令和6年)1月歌舞伎座では右近と壱太郎の二人はそれぞれ単独で「娘道成寺」を競演しましたが、このことは「娘道成寺」に於いても・必ずや役に立つことだと思います。

舞踊「二人椀久」の名舞台と云えば、吉之助の世代では、昭和の末の五代目富十郎の椀久・四代目雀右衛門の松山のコンビにトドメを刺します。右近と壱太郎の若い世代のコンビは背丈も芸風も異なるし、「富十郎と雀右衛門の踊りじゃなきゃダメだ」なんてことを言うつもりなど毛頭ありません。しかし、敢えて富十郎と雀右衛門の踊りに在って・右近と壱太郎の踊りにはそれがちょっと乏しいと感じてしまうところを強いて一つ挙げるとすれば、それは「踊りが持つ享楽的な感覚」と云うことですかね。

享楽的とは「思いのままに楽しむこと」と云う意味ですが、「己の欲望のまま・快楽にふけるさま」という意味もあって・こちらであると余り良い意味になりませんが、吉之助がここで「踊りが持つ享楽的な感覚」と云う時は、どちらかと云えば後者の意味に近い。つまり何も考えずバカみたいに・思わず身体が動いてしまう感覚というか、身体が動いてさえいれば・嬉しくって堪らないみたいな感覚です。このような感覚が富十郎と雀右衛門の「二人椀久」・特に後半の踊り地(〽按摩けんぴき以降)には横溢していました。

その違いがどこから発するかは説明ができます。それは前述の通り、右近と壱太郎のコンビが「椀久-松山の物語」が醸し出すムードを頭で理解して踊っているからです。理屈で踊るのは、これは決して悪いことではないのですが、このため椀久と松山のストーリーが或る種の憂いを以て悲しく映る。多分右近も壱太郎も、椀久と松山の物語をホントにあったことと見なしているであろう、そう云うことが大いに関係すると思われるのです。

そこで思い切って椀久と松山の物語から一時的に離れて、これを無かったことにして・これはいわば「趣向」に過ぎぬと割り切ることにしましょう。悲しみの覆いを取り払ってしまえば、「二人椀久」という舞踊が本来的に持つ「享楽的な感覚」がはっきり見えて来るのではないか、そのように申し上げたいのです。本稿の前座で「瓢箪かしく」の話を長々しくしたのは、実はそのような背景もあったからです。(この稿つづく)

(R7・1・10)


〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その2

「二人椀久」と直截に関連するかは分かりませんが、柳田国男に「隠れ里」という論考があって、ここにも「椀久」の名が登場します。伊勢亀山の阿野田の村の椀久塚の伝承です。

『伊勢の亀山の隣村阿野田の椀久塚は、また1箇の椀貸塚であって、貞享年中までこの事があったと伝えている。土地の口碑では塚の名の起こりは椀屋久右衛門或は久兵衛と云う椀屋から出たと云う。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であったらしく、(中略)多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送って利を収めた。其家断絶の後旧地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名付けた。』(柳田国男:「隠れ里」・十三・大正6〜7年)

「椀貸塚(わんかしづか)」とは、祝儀・不祝儀・寄り合いなどで急に膳・椀が必要になった時、塚にお願いを紙に書いて拝むと、翌日にはそれが一式用意されていると云う不思議な伝説です。借りたものを洗って間違いなく塚にお返しすると・次回また借りられるが、返すのを忘れたり・数が足りなかったりすると・それ以後は借りられなくなるのです。つまり貸し手と・借り手の間の信用が大事なのです。(こちらの三重県のサイトをご覧ください。)

阿野田の椀久塚に似た伝承は全国各地に分布していて、特に中部地方に多いそうです。貸椀説話が広まった背景として、木地屋の存在が考えられるそうです。木地屋とは、ろくろを使って木製食器(木地)を作る特殊技能者のことです。彼らは良質の材料を求めて全国を渡り歩いて、各地で木地を作って土地の人に残しました。貸椀説話は、そのような木地屋と地元の人との信用関係から広まったものとされています。

これだけだと椀久塚が「二人椀久」とまだ繋がりませんが、宝永の頃、大坂の町中を夜な夜な狂い歩いた「瓢箪かしく(ひょうたんかしく)」なる願人がいたそうです。僧衣を着て瓢箪を付けた長杖を持って浮かれ踊る瓢箪かしくの姿を写したのが、椀久の物狂いであると曲亭馬琴が「蓑笠雨談」のなかで書いています。

『伊勢出の風来坊なる、瓢箪かしくが、大坂の町へ持ち込んだ伊勢の山家の物語から、久兵衛の一代記が敷行せられて、とてつもない粋(すい)の神様が出来上がったとすれば、その元の形こそ見たいものである。或いは、椀久が小判を掘り出して、狂喜のあまりにとりのぼせた、という様なはかない種が、名高い小判撒きの舞台まで、成長してきたのであろうか。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)

これでもまだ「二人椀久」の元を辿れていないかも知れないけれど、気になるところを手繰ってみると・思もよらないものが出て来ることもあるものですね。(この稿つづく)

(R7・1・8)


〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その1

本稿は令和7年1月歌舞伎座での、「二人椀久」の観劇随想です。昨年(令和6年)に引き続き、吉之助は本年の個人的なテーマを「若手に期待」と定めて、芝居を見ることにしました。今回の「二人椀久」は、右近の椀久・壱太郎の松山という注目の若手の組み合わせが期待されます。

さて例によって作品周辺を逍遥することから始めたいのですが、調べてみても、「椀久」(椀屋久兵衛)という男の素性については、よく分からぬことばかりです。「椀久」の逸話については実際にあったことだとする文献もありますが、椀久の没年さえも諸説があって・定まっていません。大阪市生野区の円徳寺に伝わる過去帳に拠れば椀屋久右衛門(久兵衛ではない)の没年は延宝4年(1676)ですが、大阪市天王寺区の実相寺に伝わる墓碑の記載では延宝5年(1677)です。井原西鶴が書いた小説「椀久一世の物語」では、椀久の没年は貞享元年(1684)となっています。久右衛門についても「椀久」の父親だとする説と本人だとする説とがあるようです。何だか漠然として具体性が乏しい気がします。折口信夫などは、幼少から「あれは椀久が奉納した手水鉢」と祖母に教えられたりして育ちましたが、

『椀久と言う男が、大阪の町に実在しなかったと言うたら、なじみ深い通人俗士おしなべて、この抹殺事件に、いきり立つことであろう。(中略)助六が実は、(江戸の)花川戸に影も形もなかった如く、椀久の如きも手水鉢や過去帳くらいを証拠にふり廻すわけにいかぬ。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)

と書いて、にべもありません。歌舞伎における「椀久」物の始まりは、「椀久」と付き合いがあったと云う女形・大和屋甚兵衛が当時流行っていた小唄を芝居のなか取り上げたものだとされています。演目外題は伝わっていません。この時の「道行椀久の出端」の歌詞が、当時の俗謡を取材した「落葉集」に収録されているそうです。「椀久一世の物語」のなかで西鶴が描くエピソードは興味深いものです。

『椀久をまねきて何か望みの物ありやと尋ねければ紙子紅うら付けて物まねする事ならば其の外に願ひはなしと云うふそれこそ安けれど俄にこしらえさせて待ちけるに其後は面影も見えずなりにき』(井原西鶴:「椀久一世の物語」・下巻第六)

現代語訳:甚兵衛が椀久を招いて「何か望みの物はないか」と尋ねたところ、「洒落た紙衣(かみご)の衣装を着て・紅おしろいを塗って・役者みたいに歌い踊りすることが出来れば、他に望みはございません」と云うので、「それならばお安いこと、すぐに用意いたします」と応えて甚兵衛が待っていたところが、椀久はどこへ行ってしまったのか、もう影も形も見えなかった。

まあこのエピソードの示すところが「椀久」の実体の無さを暗示しているようにも、吉之助には思えるのですがね。(この稿つづく)

(R7・1・5)


〇25年目の「歌舞伎素人講釈」

サイト「歌舞伎素人講釈」は、本年(2025年)1月で開設25年目に入ります。歌舞伎の始まりを慶長8年(1603)京都・四条河原での出雲のお国の「かぶき踊り」に求めるならば、歌舞伎の歴史は現時点で423年と云うことになるので、本サイトは四半世紀(25年)だから・そのうちの17分の1をカバーしていることになるわけです。まあそう考えるとサイトも随分続いたものだなアと思いますねえ。しかし、多分まだまだ続くと思います。

ところで歌舞伎評論家の千谷道雄氏は若い頃に(もうその頃は最晩年の)初代吉右衛門の付き人みたいなことをしていたそうですが、或る時、吉右衛門が千谷氏にこう言ったのだそうです。

「君は見巧者になるなよ。俺たち役者は見巧者ってのを軽蔑するんだ。」

この話は吉之助が随分昔に聞いたもの(残念ながら出典が思い出せません)ですが、この吉右衛門の言は以来吉之助がずっと肝に命じているものです。本サイトが傍目にどのように映っているか分かりませんが、吉之助は評論のなかに見巧者的な態度を出さないように気を付けています。サイト表題に「素人」を名乗っているのもそのような理由からで、ディレッタンティズムの精神が批評を清いものにすると考えているのです。これは我が師匠とする武智鉄二も出発点はディレッタンティズムにあったと思いますし、折口信夫についても多分そうだと思います。詰まるところは「どれだけそれを深く愛しているか」と云うことでしょうか。

吉之助という批評家はインターネット環境が無ければ生まれなかったと思います。誰でも発信しようと思えばそれが出来る環境が前提としてあることはとても有難いことです。そのなかでお互いが切磋琢磨が出来れば全体がレベルアップすることになり望ましいことだと思います。しかし、どの分野に於いても、昨今はヒット数・再生回数とか読者登録数とか・そういう功利的な尺度と思惑に振り回されて、健全な形でディレッタンティズムが発揮される状況でなくなってしまいました。このような時代には、発信者はますます強い意思を以て個を保つことが求められます。これはインターネットで情報を享受なさる方(読者)についても同じことです。膨大な情報のなかから自分が求めるホンモノを探し出すことは決して容易なことではありません。

サイト角書にある通り、サイト「歌舞伎素人講釈」のコンセプトは「歌舞伎・文楽などの伝統芸能を通じて「日本のこころ・芸のこころ」を考える」と云うことです。このことは間違っていなかったと思っています。これがあったからこそ本サイトはここまでやって来れました。(これは「元禄忠臣蔵」の内蔵助の「初一念」に似たところがあるようですね。)開設25年目に当たり、そこの立ち位置を再確認いたしたいと思います。

サテこれからサイト「歌舞伎素人講釈」はどんな展開をするでしょうかねえ。乞うご期待。

(R7・1・1)


 

 

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