吉之助の雑談47(令和7年1月〜6月)
〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その3
さて今回(令和7年1月歌舞伎座)の「二人椀久」の舞台ですが、右近(32歳)の椀久・壱太郎(34歳)の松山の、まさに花の盛りのコンビの踊りで、絵面として美しいことこの上ない。水死したとされる椀久は享年33歳と云われています。イメージ的にも役に近い印象で、そのせいかも知れませんが、どこかにリアルな感触があると云うか、憂い・或いは儚さの情感が漂っていると云うか、二人共実説と伝えられる「椀久-松山の物語」が醸し出すムードをよく理解して踊っていると感じますね。椀久と松山・二人のストーリーが見えてくる心持ちがします。このことを認めた上で、右近と壱太郎のコンビが更なる高みを目指せるかと云うことを考えてみたいと思います。昨年(令和6年)1月歌舞伎座では右近と壱太郎の二人はそれぞれ単独で「娘道成寺」を競演しましたが、このことは「娘道成寺」に於いても・必ずや役に立つことだと思います。
舞踊「二人椀久」の名舞台と云えば、吉之助の世代では、昭和の末の五代目富十郎の椀久・四代目雀右衛門の松山のコンビにトドメを刺します。右近と壱太郎の若い世代のコンビは背丈も芸風も異なるし、「富十郎と雀右衛門の踊りじゃなきゃダメだ」なんてことを言うつもりなど毛頭ありません。しかし、敢えて富十郎と雀右衛門の踊りに在って・右近と壱太郎の踊りにはそれがちょっと乏しいと感じてしまうところを一つ挙げるとすれば、それは「踊りが持つ享楽的な感覚」と云うことですかね。
享楽的とは「思いのままに楽しむこと」と云う意味ですが、「快楽にふけるさま」という意味もあって・こちらであると余り良い意味になりませんが、吉之助がここで「踊りが持つ享楽的な感覚」と云う時は、どちらかと云えば後者の意味に近い。つまり何も考えずバカみたいに・思わず身体が動いてしまう感覚というか、身体が動いてさえいれば・嬉しくって堪らないみたいな感覚です。このような感覚が富十郎と雀右衛門の「二人椀久」・特に後半の踊り地(〽按摩けんぴき以降)には横溢していました。
その違いがどこから発するかは説明ができます。それは前述の通り、右近と壱太郎のコンビが「椀久-松山の物語」が醸し出すムードを頭脳で理解して踊っているからです。そのために椀久と松山のストーリーが或る種の憂いを以て悲しく映る。多分右近も壱太郎も、椀久と松山の物語を実説と見なしているであろう、そう云うことが大いに関係すると思われるのです。
そこで思い切って椀久と松山の物語から一時的に離れて、これを無かったことにして・これはいわば「趣向」に過ぎぬと割り切ることにしましょう。悲しみの覆いを取り払ってしまえば、「二人椀久」という舞踊が本来的に持つ「享楽的な感覚」がはっきりと見えて来るのではないか、そのように申し上げたいのです。本稿の前座で「瓢箪かしく」の話を長々しくしたのは、実はそのような背景があったからです。(この稿つづく)
(R7・1・10)
〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その2
「二人椀久」と直截に関連するかは分かりませんが、柳田国男に「隠れ里」という論考があって、ここにも「椀久」の名が登場します。伊勢亀山の阿野田の村の椀久塚の伝承です。
『伊勢の亀山の隣村阿野田の椀久塚は、また1箇の椀貸塚であって、貞享年中までこの事があったと伝えている。土地の口碑では塚の名の起こりは椀屋久右衛門或は久兵衛と云う椀屋から出たと云う。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であったらしく、(中略)多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送って利を収めた。其家断絶の後旧地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名付けた。』(柳田国男:「隠れ里」・十三・大正6〜7年)
「椀貸塚(わんかしづか)」とは、祝儀・不祝儀・寄り合いなどで急に膳・椀が必要になった時、塚にお願いを紙に書いて拝むと、翌日にはそれが一式用意されていると云う不思議な伝説です。借りたものを洗って間違いなく塚にお返しすると・次回また借りられるが、返すのを忘れたり・数が足りなかったりすると・それ以後は借りられなくなるのです。つまり貸し手と・借り手の間の信用が大事なのです。(こちらのサイトご覧ください。)
阿野田の椀久塚に似た伝承は全国各地に分布していて、特に中部地方に多いそうです。貸椀説話が広まった背景として、木地屋の存在が考えられるそうです。木地屋とは、ろくろを使って木製食器(木地)を作る特殊技能者のことです。彼らは良質の材料を求めて全国を渡り歩いて、各地で木地を作って土地の人に残しました。貸椀説話は、そのような木地屋と地元の人との信用関係から広まったものとされています。
これだけだと椀久塚が「二人椀久」とまだ繋がりませんが、宝永の頃、大坂の町中を夜な夜な狂い歩いた「瓢箪かしく(ひょうたんかしく)」なる願人がいたそうです。僧衣を着て瓢箪を付けた長杖を持って浮かれ踊る瓢箪かしくの姿を写したのが、椀久の物狂いであると曲亭馬琴が「蓑笠雨談」のなかで書いています。
『伊勢出の風来坊なる、瓢箪かしくが、大坂の町へ持ち込んだ伊勢の山家の物語から、久兵衛の一代記が敷行せられて、とてつもない粋(すい)の神様が出来上がったとすれば、その元の形こそ見たいものである。或いは、椀久が小判を掘り出して、狂喜のあまりにとりのぼせた、という様なはかない種が、名高い小判撒きの舞台まで、成長してきたのであろうか。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)
これでもまだ「二人椀久」の元を辿れていないかも知れないけれど、気になるところを手繰ってみると・思もよらないものが出て来ることもあるものですね。(この稿つづく)
(R7・1・8)
〇令和7年1月歌舞伎座:「二人椀久」・その1
本稿は令和7年1月歌舞伎座での、「二人椀久」の観劇随想です。昨年(令和6年)に引き続き、吉之助は本年の個人的なテーマを「若手に期待」と定めて、芝居を見ることにしました。今回の「二人椀久」は、右近の椀久・壱太郎の松山という注目の若手の組み合わせが期待されます。
さて例によって作品周辺を逍遥することから始めたいのですが、調べてみても、「椀久」(椀屋久兵衛)という男の素性については、よく分からぬことばかりです。「椀久」の逸話については実際にあったことだとする文献もありますが、椀久の没年さえも諸説があって・定まっていません。大阪市生野区の円徳寺に伝わる過去帳に拠れば椀屋久右衛門(久兵衛ではない)の没年は延宝4年(1676)ですが、大阪市天王寺区の実相寺に伝わる墓碑の記載では延宝5年(1677)です。井原西鶴が書いた小説「椀久一世の物語」では、椀久の没年は貞享元年(1684)となっています。久右衛門についても「椀久」の父親だとする説と本人だとする説とがあるようです。何だか漠然として具体性が乏しい気がします。折口信夫などは、幼少から「あれは椀久が奉納した手水鉢」と祖母に教えられたりして育ちましたが、
『椀久と言う男が、大阪の町に実在しなかったと言うたら、なじみ深い通人俗士おしなべて、この抹殺事件に、いきり立つことであろう。(中略)助六が実は、(江戸の)花川戸に影も形もなかった如く、椀久の如きも手水鉢や過去帳くらいを証拠にふり廻すわけにいかぬ。』(折口信夫:「椀久」・大正7年1月・折口信夫全集第30巻)
と書いて、にべもありません。歌舞伎における「椀久」物の始まりは、「椀久」と付き合いがあったと云う女形・大和屋甚兵衛が当時流行っていた小唄を芝居のなか取り上げたものだとされています。演目外題は伝わっていません。この時の「道行椀久の出端」の歌詞が、当時の俗謡を取材した「落葉集」に収録されているそうです。「椀久一世の物語」のなかで西鶴が描くエピソードは興味深いものです。
『椀久をまねきて何か望みの物ありやと尋ねければ紙子紅うら付けて物まねする事ならば其の外に願ひはなしと云うふそれこそ安けれど俄にこしらえさせて待ちけるに其後は面影も見えずなりにき』(井原西鶴:「椀久一世の物語」・下巻第六)
現代語訳:甚兵衛が椀久を招いて「何か望みの物はないか」と尋ねたところ、「洒落た紙衣(かみご)の衣装を着て・紅おしろいを塗って・役者みたいに歌い踊りすることが出来れば、他に望みはございません」と云うので、「それならばお安いこと、すぐに用意いたします」と応えて甚兵衛が待っていたところが、椀久はどこへ行ってしまったのか、もう影も形も見えなかった。
まあこのエピソードの示すところが「椀久」の実体の無さを暗示しているようにも、吉之助には思えるのですがね。(この稿つづく)
(R7・1・5)
サイト「歌舞伎素人講釈」は、本年(2025年)1月で開設25年目に入ります。歌舞伎の始まりを慶長8年(1603)京都・四条河原での出雲のお国の「かぶき踊り」に求めるならば、歌舞伎の歴史は現時点で423年と云うことになるので、本サイトは四半世紀(25年)だから・そのうちの17分の1をカバーしていることになるわけです。まあそう考えるとサイトも随分続いたものだなアと思いますねえ。しかし、多分まだまだ続くと思います。
ところで歌舞伎評論家の千谷道雄氏は若い頃に(もうその頃は最晩年の)初代吉右衛門の付き人みたいなことをしていたそうですが、或る時、吉右衛門が千谷氏にこう言ったのだそうです。
「君は見巧者になるなよ。俺たち役者は見巧者ってのを軽蔑するんだ。」
この話は吉之助が随分昔に聞いたもの(残念ながら出典が思い出せません)ですが、この吉右衛門の言は以来吉之助がずっと肝に命じているものです。本サイトが傍目にどのように映っているか分かりませんが、吉之助は評論のなかに見巧者的な態度を出さないように気を付けています。サイト表題に「素人」を名乗っているのもそのような理由からで、ディレッタンティズムの精神が批評を清いものにすると考えているのです。これは我が師匠とする武智鉄二も出発点はディレッタンティズムにあったと思いますし、折口信夫についても多分そうだと思います。詰まるところは「どれだけそれを深く愛しているか」と云うことでしょうか。
吉之助という批評家はインターネット環境が無ければ生まれなかったと思います。誰でも発信しようと思えばそれが出来る環境が前提としてあることはとても有難いことです。そのなかでお互いが切磋琢磨が出来れば全体がレベルアップすることになり望ましいことだと思います。しかし、どの分野に於いても、昨今はヒット数・再生回数とか読者登録数とか・そういう功利的な尺度と思惑に振り回されて、健全な形でディレッタンティズムが発揮される状況でなくなってしまいました。このような時代には、発信者はますます強い意思を以て個を保つことが求められます。これはインターネットで情報を享受なさる方(読者)についても同じことです。膨大な情報のなかから自分が求めるホンモノを探し出すことは決して容易なことではありません。
サイト角書にある通り、サイト「歌舞伎素人講釈」のコンセプトは「歌舞伎・文楽などの伝統芸能を通じて「日本のこころ・芸のこころ」を考える」と云うことです。このことは間違っていなかったと思っています。これがあったからこそ本サイトはここまでやって来れました。(これは「元禄忠臣蔵」の内蔵助の「初一念」に似たところがあるようですね。)開設25年目に当たり、そこの立ち位置を再確認いたしたいと思います。
サテこれからサイト「歌舞伎素人講釈」はどんな展開をするでしょうかねえ。乞うご期待。
(R7・1・1)