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八代目染五郎・初役の武智光秀

令和7年1月浅草公会堂・第1部:「絵本太功記・十段目・尼ヶ崎閑居」

八代目市川染五郎(武智光秀)、初代中村鷹之資(武智十次郎)、二代目中村鶴松(操)、五代目中村玉太郎(初菊)、三代目中村歌女之丞(皐月)、初代中村莟玉(真柴久吉)、三代目尾上左近(佐藤正清)


1)染五郎初役の光秀

本稿は令和7年1月浅草公会堂での新春浅草歌舞伎の第1部、染五郎初役の武智光秀による「絵本太功記・十段目」の観劇随想です。今年の浅草では第2部にも同じく「太十」が橋之助の光秀で・顔触れを替えてダブルキャストで組まれていますが、どちらが良いとか悪いとかの議論は止めにして、それぞれの役者の活きの良いところを楽しみたいと思います。初春に若い役者が懸命に芸に打ち込む姿を見ることは、見る者を清々しい気分にしてくれます。

さて染五郎のことですが、平成30年・2018・1月歌舞伎座での染五郎襲名(当時12歳)の頃は「美少年」で売り出されてオヤオヤどういう方向へ向かうのやら?とチト心配でありましたが、昨年(令和6年・2024)辺りの染五郎を見ると、どうやら意外と線の太い役柄に活路を見出しつつあるようで、心強いことであるなあと思うております。

昨年10月歌舞伎座の「源氏物語」での・いい男の光源氏よりも、むしろ8月歌舞伎座の新作「狐花」の的場佐平次などは・年齢的にずっと上の役柄なのにそれなりに線を太く見せて好演でしたし、7月歌舞伎座での「裏表太閤記」・杉の森での鈴木孫一も低調子の口跡が義太夫狂言への適性を伺わせて・これもなかなか良い出来でありました。1月歌舞伎座での「息子」の捕史の出来も悪くありませんでした。その延長線上で今回の「太十」の光秀も選ばれた役であろうかと思いますし、実際舞台を見てみると、弱冠19歳にしてなかなかの出来栄えでとても頼もしく思いました。

昨年秋頃のことであろうか、染五郎光秀の配役が決まった時に、父上(幸四郎)が「先を越されちゃったな」と苦笑いしたそうです。幸四郎は十次郎は4回演じていますが、まだ光秀を演じていないそうです。襲名以降の幸四郎を見ると、代々の高麗屋が得意とした線の太い時代物の役どころに注力するよりも、優男の二枚目・三枚目の役どころに傾斜し勝ちで、この点を物足りなく感じていました(詳しくは別稿「幸四郎が進む道」を参照いただきたい)が、とうとう息子(染五郎)に光秀を先に演じられてしまったわけです。父上に「しっかりしてくれエ」と言いたい気分と「頼もしい息子を持ったねエ」と言いたい気分と二通りがありますね。

染五郎光秀の「ヤル気」を感じる証左として例を一つ挙げておきます。それは、妻操が主(春永)殺しの大罪を詰った時・これを光秀が撥ねつけて言う台詞のなかで、いつもの歌舞伎ではカットされる、

『武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る。和漢ともに、無道の君を弑するは、民を休むる英傑の志。』

の箇所(武王は殷の紂王を討ち、北条義時は帝を流し奉る)を染五郎光秀が復活してはっきりしゃべったことです。(ちなみに第2部での橋之助は通例通りここをカットしていました。)これには吉之助もちょっと驚きました。

「絵本太功記」は「主殺しは大罪だ」とする時代(江戸期)に書かれた作品であり、一見すれば「君君たらずといえども、臣臣たらざるべからず」という当時の封建道徳を支持するかの如く書かれています。母皐月も妻操も、そのような道徳観念で動いています。しかし、それは表向きのことです。光秀はそのような中に在って隔絶しており、「神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長し」、民の生活を安んじようとしない、そんな為政者など要らぬと叫ぶのです。民のために春永を討つ・・・これが俺の信念だ、ところが残念ながら、この俺の志の高さを周囲の誰もが理解しようとしない、そこに光秀の悲劇があるのです。逆に云うならば、上述の箇所をカットするならば本作の作意を損ねることになる、それほど重要な箇所です。(別稿「太功記の革命思想」を参照ください。)

恐らく染五郎は現行文楽の床本でも参照して・是非ともこの詞章を入れてみたいと考えたのでしょうね。吉之助が見た歌舞伎の「尼ヶ崎」の舞台なんて数が知れていますが、この箇所を復活してしゃべった光秀役者はあまり記憶にありません。初代白鸚も二代目白鸚もカットしていたと思います。このカットの復活は「尼ヶ崎」上演史上でも大きな意義があることに違いありません。作品をしっかり読んで役の性根を把握しようとする姿勢が、若い染五郎にはあると云うことですね。これは実に頼もしいことです。(この稿つづく)

(R7・1・9)


2)若い世代による「尼ヶ崎」

染五郎の光秀について、もうひとつ印象的であった点を挙げておきます。それは息子十次郎に対する(父親としての)光秀の深い愛情が感じられたことです。いつもの歌舞伎の光秀であると・息子に対する厳しさが先に立つ感じの父親になります。「ヤア不覚なり十次郎、仔細はなんと、様子はいかに、つぶさに語れ」と冷然と突き放す、瀕死の息子を軍扇で打ち据えるのも容赦しない。血も涙もない父親だナと感じる光秀役者が少なくありません。多分主殺しの冷酷無情のイメージで光秀を見ようとするからでしょうね。

これに対して染五郎の光秀は、もちろん息子を甘くしたりしないけれど、息子の容態をしっかり見極めて・気付けで息子を軍扇で打つにしても・力の加減を考える父親なのです。大将として戦さの状況報告を受けねばならぬ・だから決して甘くは出来ないが、瀕死の息子に対する気遣いは隠そうとしても隠されぬ、そのような人間味ある光秀でした。吉之助はそのような光秀役者を他にもう一人知っています。それは曾祖父・初代白鸚(当時八代目幸四郎)の光秀でした。(昭和52年・1977・3月歌舞伎座・俳優祭での映像が遺っています。)染五郎はよく研究をしたうえで・この初役の光秀に取り組んでいると思います。

染五郎の光秀は、痩身の風貌が祖父・二代目白鸚(当時六代目染五郎)の若い頃(昭和50年代前半)の雰囲気を思い出させました。暗めの色合いのなかに・青白い耀きを奥底に秘め、これは確かに代々の高麗屋が本役とした実悪(じつあく)への可能性を期待させるに十分なものです。もちろんまだ若いことであるからたっぷりした役の大きさに至らないにしても、その代わり引き締まった若さと力強さがあって、これが義太夫狂言時代物の太い骨格の役どころへの適性を感じさせます。松竹も今後は美少年系統の役どころではなく、染五郎の売り出しの方向をしっかり考えて欲しいと思いますね。今後の課題は、息を腹にしっかり保った所作と台詞廻しを心掛けて欲しいと云うことですが、これは別に染五郎に限ったことではなくて、若い世代に共通した課題です。

「若い世代に共通した課題」と書きましたが、今回の「尼ヶ崎」は前半(光秀が登場する以前)の芝居がのっぺりと平板に感じられて物足りない。十次郎(鷹之資)も初菊(玉太郎)も、一生懸命やっていることは分かりますが、今は教えられた手順をこなすだけで手一杯に見えました。三味線の手に合わせよう・合わせようとするような印象ですねえ。まあこういうのは場数を踏めば徐々に改善するものだとは思いますが、自分がしゃべる台詞だけでなく・床(義太夫)が取る詞章の部分までも腹のなかでしゃべる心持ちで、詞章の息を身体の動きに還元できるようにせねばなりません。そうすれば役者の方から床の息を引っ張ることが可能になって来ます。その辺の理屈は、踊りを踊る時と大して変わるわけではないと思います。鷹之資は踊りの素養がある若者だと思いますが、そう考えると十次郎はもっと仕出かして良いのにと思いますけどね。

それと鷹之資の声質は生来高調子であることは分かりますが、「尼ヶ崎」前半は他は女形ばかりのところで・十次郎が同じように高調子でやっていたのでは、若衆のパートが際立って来ませんね。ここは声域を若干低めに抑えることで、音曲としての「尼ヶ崎」のバランスが落ち着くことになります。実際、光秀(染五郎は低調子である)が夕顔棚で登場すると一転して芝居がしっくり回り始まるのは、そのせいです。おかげで「尼ヶ崎」後半は全体としてまずまずの出来になりました。

(R7・1・13)


 

 

 


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