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京極堂新作歌舞伎・「狐花」

令和6年8月歌舞伎座:「狐花〜葉不見冥府路行」

十代目松本幸四郎(中禪寺洲齋)、六代目中村勘九郎(上月監物)、二代目中村七之助(萩之介・お葉二役)、八代目市川染五郎(的場佐平次)、初代坂東新悟(近江屋娘登紀)、五代目中村米吉(監物娘雪乃)、初代中村虎之介(辰巳屋娘実弥)、二代目市川猿弥(近江屋源兵衛)、四代目片岡亀蔵(辰巳屋棠蔵)他


1)読んでから見るか、見てから読むか

本稿は令和6年8月歌舞伎座・納涼歌舞伎・第3部での、人気作家京極夏彦氏が書き下ろした新作歌舞伎「狐花〜葉不見冥府路行」(きつねばな〜はもみずにあのよのみちゆき)の観劇随想です。そもそも吉之助は新作というと二の足を踏む方です。おまけに吉之助は京極氏の本をまだ一冊も読んだことがありませんでした。それで今回も見るか見ないか・ちょっと迷ったのですが、結局舞台を見ることにしたのは、「狐花」の書き下ろし単行本が7月26日に出版されて歌舞伎版の方は8月4日に初日になるということで、つまり事実上構想・執筆がほぼ並行する試みがなかなか興味深く思われたからです。

人気小説の舞台化と云うのは、これまでもしばしばあったことです。しかし、多分ほとんどそれらはまだ舞台化が予定されていなかった時点で書かれています。つまり小説が書かれた時点では、純然たる文芸作品として書かれています。これがたまたま舞台化されることになると、脚色者はこれを芝居にするために原作のどこを生かして・どこを捨てるか、或いはどこを書き換えて芝居らしく仕立てるか、いろいろと苦心せねばなりません。小説と芝居とでは、ドラマ性やリアル感覚の表出技法がまったく異なるからです。芝居の展開を補うために原作にない場面を加えねばならないこともあり得ます。また原作にない登場人物を主人公に絡めてみることもあります。

あくまで一般論ですが、小説の舞台化と云うのは原作の陳腐化になることが少なくありません。しかし、それで予期せぬ効用が生まれることもあります。例えば新派では「婦系図」でお蔦主税の悲しい別れを描く「湯島境内」があまりにも有名ですが、これは柳川春葉の脚本から生まれたもので、泉鏡花の原作小説にない場面でした。これに大いに感心した鏡花が後に「湯島境内」の脚本を新たに書いたのだから、話がややこしい。

*左は初回限定特典:武蔵晴明神社魔除けの御札

一方、「狐花」の場合であると、京極氏はこれが歌舞伎座で上演されることを念頭に置いたうえで小説を書き・次の段階で舞台用に脚本を自分で書かねばならないわけで、それが相互に影響することで、またいろんな面倒が起きるかも知れません。例えば舞台化の仕様が無い内面シーンばかりを小説で連ねるわけに行かないだろうし、逆に舞台を意識し過ぎて小説の筋がこじんまり平板になってしまうこともあり得ます。京極氏は歌舞伎をよくご覧になる方であるそうですが、芝居をご存じであっても、いざ芝居を書くとなればいろいろ予期せぬご苦労があったことかと思います。

まあそう云うわけで、今回は舞台に先立って・舞台を想像しながら原作小説を読むことにして、そうすれば京極氏のその辺のご苦労も察せられるであろう、これで「一粒で二度おいしい」思いが出来るかも?と云うことで、まず小説版「狐花」の方を先に読んで見ることにしました。(この稿つづく)

(R6・8・24)


2)この世に幽霊など居りません

新作歌舞伎を書く時は、「こうすればカブキらしいと思ってもらえるかな」なんて考えずに、まずは戯曲として良いものを書くことに徹することだと思います。現代劇みたいになったって構わない。これを「カブキらしい」感触に仕立てるのは、それは役者の仕事だと割り切れば良いのです。京極氏のジャンルは・幽霊や怨霊が跋扈するから・怪奇推理小説とでも呼ぶのでしょうか。小説版「狐花」にざっと目を通すと、京極氏はご自分の立場(スタンス)をしっかり守っており、変に「カブキらしく」書こうとしていないのは、良いことです。

冒頭の曼殊沙華の花が野原一面に咲き乱れる・燃え盛る情念の炎のイメージは、舞台化を強く意識しているでしょうが、ここは冒頭としてなかなか良い場面になりました。幕開きは大事なんですよね。商家の娘お登紀が問い詰められて・開き直って口調をガラリと変える辺りは、もしかしたらお嬢吉三でも意識したでしょうか?こういう場面は「カブキらしく」したい役者が取っ掛かりにしたくなる箇所なので、気を付けなければなりません。性格の変わり目をはっきり見せようとすると、お登紀が下品になってしまいます。(芝居でのお登紀役の新悟はこの場面を程よく抑えてましたが、上手く処理しましたね。)「誰と誰それは同一人物であった」(ネタバレするから書かない)と云う仕掛けは、意外と早く分かってしまいます。結末で知らされる陰惨な物語(まあ好き嫌いはありそうだが)は推理の外ですが、「誰と誰それは実は血の繋がった兄弟妹であった」とかいう件は、「三人吉三」のような幕末歌舞伎の陰惨な因果応報の色合いを塗り込めたように思いますが、或いは京極作品ではよくある趣向なのかも知れませんね。多分そこに京極作品と歌舞伎との親和性があるだろうという目論見でしょうか。「恋しくば・・」の和歌が出てくるのも「葛の葉」は歌舞伎ファンならばご存知のネタでしょうと云うことで、全般的には京極氏は怪奇推理小説作家としての本分をしっかり維持しながら、なかなか巧みに筋立てをしたものだと感心しました。

京極氏の作品は分厚い本が多いようですが、「狐花」は普通の厚みの本です。本来ならば筋をもっと膨らませたい題材であるように感じましたが、芝居の原作であるという事情(と云うか制約)からか意図的に筋をシンプルに仕立てたような印象は確かにします。そこが京極堂ファンとすれば本作を物足りなく感じるところかも知れません。後半台詞による解き明かしの説明会話が長くなるのは、芝居では少々モタれるところですが、本作が「謎解き」物である以上仕方がないですね。

「狐花」の主人公・中禪寺洲齋は、「百鬼夜行」と云う人気シリーズ(吉之助は読んではおりません)の主人公・憑き物落としの中禅寺秋彦の曾祖父という設定であるそうです。つまり小説版「狐花」は中禅寺秋彦のルーツ編と云うことになるわけで、本作は京極堂ファンならば必ず目を通すべき作品という位置付けになることでしょう。そんな大事なネタを歌舞伎新作のために惜しげもなく投入して下さったと云うことだから、歌舞伎ファンは大いに感謝せねばなりません。そのせいか千穐楽近くの歌舞伎座は京極堂ファンと思しきお客で盛況で、いつもとはちょっと違った雰囲気でありましたね。

ところで京極氏の小説版「狐花」を読んで、吉之助がホウと感じたことがひとつありました。冒頭の曼殊沙華の野の場面で、主人公(中禅寺洲齋)がこんなことを言うのです。対話の場面なので、アレンジをして引きますが、

『この世には、魔訶不思議なことなど御座いません。物の怪も幽霊も居りません。それが亡魂に見えるのであれば、それは彼(か)の者に疚(やま)しき心がある故なのです。そのような迷妄に囚われた者を夢から覚ますのが、私の仕事・憑き物落とし。』

と云うのです。これから怪奇推理を展開しようと云うのに、幽霊で読者を怖がらせる前に、冒頭で主人公がこんなことを言い始めるのです。吉之助はこれを興味深く思いました。同じ怪奇推理ジャンルでは吉之助は横溝正史を思い出します(吉之助の若い時分にブームがあったのです)が、探偵金田一耕助は冒頭にこんなことは言わなかったように思います。やっている推理のプロセスは同じなんですけど、読者を怪奇ロマンの世界に引き込んで・たっぷり酔わせておいてから謎解きを始めるのが横溝正史のやり方です。対する京極氏はいきなり冒頭でこの台詞を読者へぶつけてみせる、多分これが推理作家としての京極氏の基本スタンスなのでしょうね。或る意味では醒めていると云えるでしょうか。(この稿つづく)

(R6・8・25)


鎮魂術としての推理小説

意外に思うかも知れませんが、折口信夫は推理小説が大好きでした。海外の推理小説も、江戸川乱歩などもよく読んだそうです。そんな折口がこんな事を書いています。皆がそれを知っており、例え誰かが知らなくても、それを読んだ世間から押し寄せてくることで、一体の知恵の水準が高まっているということがある。明治以後そのような影響を与えた書物を挙げればキリがないが、その十冊のなかに入るくらい、日本人の心のなかに広がっている「知識の書」があると云うのです。折口が挙げているのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」です。ちょっとビックリしませんか。

『神だって人を憎む。むしろ神なるが故に憎むと言って良い。人間の怒りや恨みが、必ずしも人間の過誤からばかり出ているとは限らない。恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

この世においては禍福が必ずしも合理的にもたらされるものでありません。誠実に生きて来ても、幸福になるとは限らない。逆にひどい災厄を蒙る場合さえあります。そういう時に「おかしいじゃないか、真面目に誠実に信心深く生きてきた私が、こんな酷い仕打ちを受ける謂われはない、私が何か悪いことをしたと云うのか」と神に抗議したい気持ちになると思います。そんな時に法が(或は社会の機構・ルールが)正しく裁いてくれることを期待したいが、大抵は被害者の気持ちを十分に救いあげることが出来ません。正しい者は救われなければいけないはずだ。悪い奴には罰を与えなければならない。そうならないのであれば、神も仏もあるものか。そのような民の憤る気分を、「大岡裁き」みたいなものがちょっとだけ和らげてくれると折口は云うのです。或いはテレビの「必殺仕置き人」みたいなものもそうですね。

江戸の芝居や小説に勧善懲悪ものが流行ったのは、結局、そのようなことなのです。悪いことをした奴は、その理由はどうあれ、しっかり裁きを受けてもらわないと始まらない。しかし、江戸の庶民はお上が公正に裁くなんてことがないことくらい分かっていました。それでもお上の裁きは情けを以て公正に行っていただきたいと思う。例えば青砥左衛門藤綱、あるいは大岡越前守・遠山金四郎のように。正しい世の中であるならば、公正な裁きがきっとなされるはずだ。そうでないのであれば、世の中の方が間違っている。幕末江戸の民がこのように考えた背景は、制度が固まって庶民の経済力も増し、民の社会への意識が次第に高まって来たからです。

『この神の如き素人探偵(ホームズ)の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

ホームズと同じように・恐らく「百鬼夜行シリーズ」の主人公・中禅寺秋彦もまた、この世の生が引き起こす・ありとあらゆる理不尽さに感応して、その悪意を凝集させる、そしてその罪悪を鎮めていくのです。彼の曾祖父(中禪寺洲齋)もまた同じです。

どんな推理小説であっても折口の上掲文章に沿うものであると思いますが、吉之助が思うには、もしかしたら京極夏彦氏は、「憑き物落とし」の自らの立場を冒頭で表明することで、折口が言った通りのこと(鎮魂術としての推理小説の性格)を一層はっきり前面に押し出していらっしゃるのだなと思いますね。(この稿つづく)

(R6・8・26)


4)割り切れない思い

主人公・中禪寺洲齋の仕事は「憑き物落とし」、迷妄に囚われた者を夢から覚ますのが彼の仕事です。洲齋は恨みを含んだ監物に対して自ら手を下すことをしません。「あなたを裁くのは私ではなく、裁くのはご定法であるべきです」と洲齋は言うのです。この台詞はいろいろな解釈が出来ると思います。額面通りこれを受け取るならば、憑き物落としの仕事は、犯人をお上に引き渡した時点でそれで終わりということです。あとはお上が慈悲とお情けで以て尋常にお裁きくださるであろうから、御沙汰を待とう。この論理のおかげで憑き物落としは真っ当な仕事(decent work)として社会的に認知されるわけです。

しかし、憑き物落としは、お上のお裁きが決して被害者を十分に救いあげることが出来ないことくらいもちろん分かっているのです。どんな御沙汰が下されたとしても、それで被害者の気持ちが癒されることは決してない。かと云って復讐・仇討ちという手段に訴えようとすれば、これも虚しい結果に終わらざるを得ない。つまりどちらであっても、結局憑き物落としには、何かしら割りきれない・満たされない思いが付きまとうことになるのです。だから、人が人であるならば、とりあえず裁きはご定法に委ねようと云うことだと思います。

『日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

推理小説はどんなものでも・多かれ少なかれ・この要素を含むものですけれど、他の京極作品はいざ知らず、もしかしたら小説版「狐花」では、そのような割り切れない要素がひときわ強く出ているのかも知れませんねえ。京極氏が最後に大ドンデン返しを用意しているからです。主人公・洲齋が請け負った事件が思いもかけず自らの出生に係わる事項であったために、自分が事件の関係者になってしまって、「憑き物落とし」が「憑き物」になってしまいかねない事態に陥ってしまう、そのなかで主人公が如何にして本来の「憑き物落とし」のスタンスを理性的に保って行けるか?という結末になっているのです。

「萩之介、お前の幽霊は、私が見よう」

という最後の台詞のなかに、裁きをお上に委ねながらも、これからの洲齋が割りきれない・満たされない思いを抱きつつ生きて行かねばならないことが暗示されています。しかし、どうやら洲齋「憑き物落とし」のスタンスを守り通したようですね。

このように小説後半は結構重い主題を孕んでいるわけですが、ただ小説版「狐花」を読んだ印象を云うと、本来ならばそこの主題をもう少し膨らませて欲しかったところです。芝居のための原作である制約のせいで、詰めを急いでしまったきらいがあるようです。そこのところを「恋しくば・・」の和歌で済ませてしまったようで(まあ歌舞伎ファンにとっては・多くを語らずとも・この歌で察せられるというところはあるのだけれども)、この点はもったいないと云うか・残念なことでしたが、或いはエピローグ風に続編的なものをお書きになる予定があるのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R6・8・29)


5)かぶき的な心情のこと

その昔・角川映画全盛期の宣伝コピーに、「読んでから見るか、見てから読むか」と云うのがありましたねえ。小説には小説の・芝居には芝居のリアリズムの表出技法があるわけですから、どちらが良いとか云っても仕方ないことですが、今回(令和6年8月歌舞伎座)の「狐花」は、やっぱり小説版を先に読んでおいて良かったと思いました。事前に読んでいなければ、吉之助の場合は、芝居を観ただけでは頭のなかで筋がうまく繋がらなかったかも知れません。なるほどこれを舞台化する時にはこうするのだねえと、その苦労を思うところが確かにありました。

「謎解き」物である以上後半の解き明かしの会話が説明的になってしまうのは仕方ないことですけれど、作品が根底に持つ割り切れなさが幕切れで「心情」にまで高まって来ないもどかしさがあるようです。血が繋がった弟を殺されたらばそりゃ苦しいでしょと云うことで・理屈としては理解されるのですがね。「心情」にまでは高まっていない。そこは前述したように・原作小説がそこを十分膨らませていないことに起因しますが、ここを改善すると芝居はずっと長いものになってしまいますがね。

冒頭の曼殊沙華の野原での長い対話は、なかなか印象的な場面です。ここで洲齋は萩之介の行く手に立ちふさがり、「ここより先へお通しする訳には参りません」と言います。どうして洲齋はそんなことをするのか、憑き物落としにしては出過ぎた行為ではないでしょうか。この時点で洲齋は彼が弟であることをもう突き止めていたのでしょうか?イヤ多分それは未だでしょう。洲齋が真実を知るのはまだ先のことになる。しかし、洲齋は何かしら胸騒ぎがして、萩之介がこれ以上復讐の道を歩むことを思いとどまらせたかったと云うことでしょう。そこのところの洲齋の感情はもっと掘り下げてみても良いと思いますね。

例えば真山青果の登場人物はもっと理屈っぽくて、対話は論理の応酬ばかりに聞こえると思いますが、あれは理屈の細かいところはどうでもいいのです。あれは「心情」の応酬であって、「俺は納得が出来ないんだア」・「俺はここをこう変えたいんだア」という自己の心情を声高に叫んでいるだけのことです。その理屈が正しいかなんてどうでもいい。心情こそが大事なのです。実はこれが青果の芝居を「かぶき」(新歌舞伎)の感触にします。

「狐花」の主人公(洲齋)の場合は基本的なポーズがニヒルで醒めていると云うことでしょうけれど、その洲齋でさえも醒めたポーズを保っていられないほどに「割り切れなさ・やりきれなさ」の心情が内で激するということならば、「狐花」をもっと「かぶき」の感触に出来ると思うのですがねえ。いいところまで迫っているのだから、小説版ではそこのところをエピローグで掘り下げてみたら如何でしょうか。

芝居では三人の若女形、米吉(雪乃)・虎之介(実弥)・新悟(登紀)がそれぞれの持ち味を発揮して華やかさを添えました。七之助(萩之介)はスッキリした存在感を見せ付けました。「ナウシカ」のクシャナと云い、七之助の新作物はどれも良いですね。勘九郎(監物)は、線が太い悪役ぶりでなかなかのものでした。染五郎(佐平次)は年嵩の役をそれなりに見せてよく頑張りました。これならば先月(7月)の「杉の森」での染五郎の鈴木孫市役も、原作通り腹を切らせてもやれそうだなと思ったくらいで、頼もしく思いました。幸四郎(洲齋)は、前述の幕切れのところで印象的に損をしています(これは脚本のせいもあります)が、もう少し押しが欲しいところです。特に台詞は、二拍子のリズムで気迫で押した方がもっと「かぶき」の感触に出来ると思います。

(R6・8・30)


 

 


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