43年振りの「裏表太閤記」再演
令和6年7月歌舞伎座:「裏表太閤記」
十代目松本幸四郎(豊臣秀吉・鈴木喜多頭重成・孫悟空)、二代目尾上松也(明智光秀・前田利家)、二代目坂東巳之助(前田信忠・加藤清正)、二代目尾上右近(光秀妹お通・毛利輝元)、八代目市川染五郎(鈴木孫市・宇喜多秀家)、五代目中村雀右衛門(北政所)、二代目松本白鸚(大綿津見神)他
1)43年振りの「裏表太閤記」再演
連日猛暑が続いており・夏が大の苦手の吉之助はバテ気味で、執筆の方が思うように進みません。本稿で取り上げる「裏表太閤記」については、観劇随想と云うより雑談風に話をゆっくりペースで進めたいと思います。
三代目猿之助(二代目猿翁)による本作初演(昭和56年・1981・4月明治座)はもちろん見ました。43年前のことゆえ舞台の記憶が吉之助のなかにあまり残っていませんけれど、当時の筋書の切り抜きが手元に残っています。(我ながら物持ちがいいですねえ。)筋書にある狂言作者・奈河彰輔氏の文章を読むと、歌舞伎で「太閤記」物とされる脚本を集めて・その数26本、それらの原本を読み比べながら、表の世界に真柴久吉(豊臣秀吉)の出世物語、裏の世界で武智光秀(明智光秀)など久吉の華々しい活躍の陰で消えてしまった人々のドラマを対照して描こうと云うコンセプトで再構成したのが、この「裏表太閤記」なのだそうです。悪い言い方をすれば「でっち上げた」ということですけど、こうして忘れ去られていた古典の一場面を掘り起こしたのです。しかし、内容がバラバラ・様式もバラバラな断片を組み合わせて、筋の一貫性を揃えて・ひとつの大きな作品に仕上げていくことは、なかなか煩雑で・根気の要る作業ではあります。そのような奈河氏の業績のなかでもっとも有名なのが
、「慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)」・いわゆる「伊達の十役」であることはご存知の通りです。「裏表太閤記」は昼夜通しの一日掛かりの大作になりますが、三代目猿之助・奈河コンビの数ある「古典復活路線」のなかでも際立った構想の壮大さを見せたものであったと云えます。ただし、初演上演を見た吉之助のなかで舞台の記憶があまり残っていない。と云うことは、構想は壮大であったけれど、見どころばかり羅列して・山があっても谷がなく、ドラマとして何となく焦点散漫に見えたせいだったかなと思います。見終わって腹応えのするドラマを見たという満足感がちょっと弱かったかも知れません。そう云うわけで少なくとも吉之助のなかでは本作は成功作と云う評価がないのですが、しかし、こういう試みは「やってみなけりゃ分かりません」。やってみることに価値があるのです。そういう実験を試みたなかから「伊達の十役」が残っただけでも大したものだと思います。
今回(令和6年7月歌舞伎座)の「裏表太閤記」は夜の部のみ(休憩含む4時間15分)での上演ですから、初演台本の半分強をごっそり落としたことになります。そりゃあ半分にされてしまえば、元の形態を保つことはなかなか難しい、これでは奈河氏の当初の「表の世界と裏の世界」のコンセプトが生きません。それにしても、再演を重ねていく内に・あちらをカットして・こちらを改変して・古典がだんだん形骸化していく過程を見るようで、令和の若い歌舞伎ファンの方々にこれが三代目猿之助・奈河コンビの仕事だと思われてしまうのも、何だか「寂しい」気がしますねえ。上演時間の制約があることは理解はしますが、本作が上演プランに上ってきた段階で・作品コンセプトを十分生かすためにも・前提として昼夜通し上演の是非が議論されるべきだったと思いますけど、その辺の経緯はどんなものだったのでしょうかね。過去の遺産は大切に扱って欲しいと思いますね。
(この稿つづく)(R6・8・1)
2)どちらがホントの「杉の森」か
今回(令和6年7月歌舞伎座)上演の第2幕第1場・備中高松塞(とりで)の場は、初演時には昼の部・第3幕第3場に在ったものですが、目まぐるしく趣向を展開させる「裏表太閤記」のなかで唯一ドラマをじっくり見せる幕であったと思います。この箇所は奈河氏が、歌舞伎では「尼ケ崎閑居(太十)」が有名な「絵本太功記」・七段目・「杉の森」から採ったものです。「杉の森」は文楽ではたまに出ますが、歌舞伎では滅多に出ることがないようです。江戸時代の劇作では史実そのままの設定がお上に対し憚られましたから、丸本原作では石山本願寺攻めのエピソードになっています。奈河氏は設定を備中高松城へ移した他・いくつかの改変を加えていますが、総体としてほぼ原作通り脚本を作っています。初演時の備中高松塞の大まかな筋を以下に記します。
備中高松塞は長期の籠城のため既に存亡の危機にありました。鈴木喜多頭(きだのかみ)の息子孫市は攻め手の大将・真柴久吉との和睦の交渉に臨むが・合意に達することが出来ず、不首尾の責を負って喜多頭は孫市と孫の重若を勘当してしまいました。孫市は勘当を許してもらうため・単身で久吉の命を狙いますが、敵の間者を打って捨てた時、その懐中の手紙から「小田春永が本能寺で光秀に討たれた」と知ります。孫市は「久吉は主殺しを討つため一刻も早く京都へ引き返したいと考えるであろう。ここで我が首を添えて和睦を申し出るなら、久吉は必ずこれを受ける」と読んで、自らの腹を切り・(功名を立てさせるために)息子重若に我が首を切らせようとします。陰でこれを見ていた喜多頭は息子と孫の勘当を許し、これを聞いた孫市は喜んで死んで行きます。そこに久吉が現れて、孫市の忠義を誉めて・和睦の親書を喜多頭に渡します。
以上でお分かりの通り、この場の主人公は鈴木孫市なのです。当然のことですが、初演の三代目猿之助が演じたのは孫市と・幕切れ早替りでの久吉の二役でした。(喜多頭は三代目権十郎が演じました。)勘当された孫市が命を捨てて和睦をまとめあげて、籠城した大勢の味方の命を救うドラマなのです。「勘当された」という屈辱が、孫市の非常に強い動機になっています。
ところが今回(令和6年7月歌舞伎座)の場合であると、久吉との和睦をまとめるために腹を切るのは親の喜多頭(幸四郎)の方で、介錯する息子孫市(染五郎)の方は「親の命は取れません」と云って泣くという筋になっています。最終的には斬るのですが。しかし、喜多頭が寝返って久吉側に味方する(実はそれはウソ)と言ったのに怒って最初に親に斬り掛かったのは孫市だったようだが、悪い親ならば命を取っても構わないという理屈なのでしょうか。今回の脚本補綴のおかげで安直なファミリー悲劇に落ちてしまったようですねえ。
ここで吉之助は、「あっちの筋より・こっちの筋の方が面白い」、「あっちの筋より・こっちの筋の方が俺は納得できる」と云う類の議論をしたいのではないのです。そんなことを云ったら、備中高松塞の展開はもっといろんな面白い筋があり得るかも知れません。歌舞伎でないならば、どうぞ好きなように変えておやりください。しかし、これは歌舞伎であるはずです。守らねばならぬところはしっかり守ってもらわねばなりません。吉之助がここで問題にしたいことは、今回の備中高松塞の場が、これで「絵本太功記」・七段目・「杉の森」の復活であると言えるのか?ということです。孫市が死んでもいいし、喜多頭が死んでもどっちでもいい、どちらも同じ「杉の森」なのでしょうか。何がホンモノの「杉の森」なのでしょうか。歌舞伎の方はこういう状況でもホントに良いと思っているのでしょうか。(鶴屋南北作品でも同じような事例があります。こちらご覧ください。)
(この稿つづく)(R6・8・5)
3)補綴の発想をドラマ起点に
今回(令和6年7月歌舞伎座)の「裏表太閤記」の「杉の森」の改変の発想は、(補綴のクレジットがありませんが)演出担当の勘十郎か・座頭格の幸四郎に拠るものと思います。これは吉之助の憶測に過ぎませんが、今回の場合・同じ舞台で幸四郎と染五郎親子を共演させたいのが興行側の希望としてまずあって、しかし原作だと鈴木孫一役の年齢は凡そ三十前半と思われるので・現在の染五郎であるとチト若過ぎる、そこで「杉の森」の芝居の芯を喜多頭(幸四郎)の方に移して筋を書き直したと云うことかと思います。つまり筋を変える必然が作品に在るのではなくて、「あっちの筋より・こっちの筋の方が面白い」とか「こっちの筋の方がやりやすい」というところにあるのです。
確かに歌舞伎では上演のたびに役者の顔触れなどに合わせて脚本を微修正することはよくあることです。現行歌舞伎で見る「忠臣蔵」の演出だって、長い歳月のそう云うことの繰り返しで・オリジナルの人形浄瑠璃とだんだん違ったものになって行ったわけです。それはそれで重い意味があることで、そう云うことを全否定はしませんけど、吉之助から見ると今回の改変は、初演が43年前のことで・昔の舞台を知っている人が少ないのをいいことに、根拠がない改変を勝手にやってるようにしか見えないわけです。何と云いますかねえ、「こういう風にして伝統が崩れて行くんだなあ」という有様を見て寂しい気分にさせられますね。奈河彰輔氏は原作の「絵本太功記・杉の森」の筋をほとんど変えなかった、そこのところはとても大事なことだと思います。「忠臣蔵」は人形浄瑠璃初演からもう270年以上経過していますが、そのことを考えると現行歌舞伎の「忠臣蔵」は上演頻度の割にホントに驚くほど変えたところが少ない。そこには役を演じてきた歴代の歌舞伎役者に或る種の自己規制が働いている、そう云う風に考えることは出来ないでしょうか。そう云うことを想像してみて欲しいと思いますね。
今回の「裏表太閤記」の大詰・第1場は舞踊「西遊記」ですが、これが仇敵光秀を討ち果たして天下人になった後の・太閤秀吉の夢の場面として設定されています。しかし、43年前の初演では、この場面は「杉の森」に続く(昼の部の)第4幕第1場に在るものでした。すなわちこの時点(備中松山城攻めの和睦時)では天下を取ろうなどと夢にも考えていなかった秀吉が、「・・!?・・もしかしたら俺は天下人になるのか?」とフト思う場面が、「西遊記」の夢の場なのです。これ以後の(初演の夜の部の)秀吉は天下取りに向けて一気呵成に進むことになる。だから今回上演のように「西遊記」を大詰に持ってきたら全然意味を成さないことになります。周囲の観客は「太閤記を見ていたはずが、どうして突然孫悟空なの?」とキョトンとしてましたよ。
「裏表太閤記」の筋(秀吉の天下取りの物語)に決着を付けるならば、クライマックスは当然「大徳寺」でなければなりません。つまり三法師を押し頂いて秀吉が天下に号令をかける場面です。(初演では夜の部の第3幕が「大徳寺」です。)しかし、こうしてしまうと肝心の宙乗りの見せ場が出せなくなってしまう、そのため「西遊記」を大詰に持ってきたのでしょうね。つまり補綴の発想がドラマ起点でないのです。だから宙乗りを見せるためだけの「西遊記」になってしまいました。
初演では昼夜一日掛かりで上演したものを今回の「裏表太閤記」では夜の部のみ・つまり半分強をごっそり落として上演しようと云うのであるから、元々の企画に難があるということです。もう少し補綴・演出の発想をドラマ起点にしてもらわないと、これからの復活物はこんな感じで形骸化したものを見せられることになるのかと、ちょっと重い気分にさせられました。(別稿の最終章をご覧ください。)もう一度書きますが、令和の若い歌舞伎ファンの方々にこんなのが三代目猿之助・奈河コンビの仕事だと思われてしまうのは、何だか「寂しい」。先達の遺産は敬意を以って守っていただきたいものです。
(R6・8・11)