二代目猿翁(三代目猿之助)歌舞伎の思い出〜同時代的歌舞伎論
*二代目猿翁は、令和5年・2023・9月13日没。
1)猿之助歌舞伎の「通し狂言」
二代目猿翁が令和5年・2023・9月13日に亡くなりました。(吉之助にとって三代目猿之助と呼んだほうが実感があるので、以後は猿之助と書くことにします。)吉之助がちょうど歌舞伎に入れ込み始めた昭和50年代に八面六臂の活躍を見せていたのが猿之助でした。当時の吉之助はかなり熱心な猿之助ファンでした。猿之助は次は何をみせるかと翌月の芝居をワクワクして待ったものです。しかし、吉之助は次第に猿之助と距離を置くようになって行きました。その経緯については、本サイトでも何度か触れたことがあります。(別稿「いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える」などをご参照ください。)したがって、吉之助は猿之助歌舞伎の良いところ・悪いところも同時代人としてよく承知しているつもりでおります。
日頃本サイトをお読みの方には、原典主義・脚本第一主義の批評スタンスである吉之助が、エンタテイメント重視の猿之助歌舞伎のファンであったとは意外だと感じる方もいらっしゃるかと思います。吉之助が後に猿之助から離れていく過程に於いては、確かにこのことが原因をしています。(このことは本稿で改めて触れることになります。)しかし、吉之助が歌舞伎を学び始めた時期に、古典が現代に生きる可能性を考えるための示唆的な刺激を猿之助は与え続けてくれました。だから吉之助の観劇歴は猿之助を抜きにして語れません。同じ時期に吉之助は晩年の六代目歌右衛門の芸にも傾倒しましたが、いわば相反するような芸を両極に置いて吉之助は片っ端から歌舞伎を見たわけです。今から思えば恵まれた時代でありましたね。
別稿「追悼:二代目猿翁の舞台」のなかで、吉之助の手元に残る・昭和50年代の猿之助歌舞伎のチラシを紹介しました。それらをざっと眺めてもらえれば、猿之助歌舞伎の心棒と云うべきものが「通し狂言」であることが、はっきり分かると思います。猿之助歌舞伎の核心は、江戸歌舞伎のヴィヴィッドな感性を如何にして現代に蘇らせるかにあり、そのための「通し狂言」なのです。当時の吉之助はそのことに強く共感していました。
巷の猿翁追悼記事を読めば、明治以降の(九代目団十郎・六代目菊五郎らの)歌舞伎が高尚化するなかで邪道として捨て去られた早替わりや宙乗りなどの「ケレン(外連)」を復活させたのが猿之助の功績、これを活かすためにスピード・ストーリー・スペクタクルの「3S」を重視した通し狂言を次々と創作して、これを歌舞伎の財産とした云々と書かれていると思います。その認識にまったく間違いはありません。けれども、それは猿翁が亡くなった今・その業績を思い返してみれば・そのように位置付けられると云うことです。それは後から来た視点・理屈付けです。昭和50年代前期の猿之助歌舞伎にはそう云ったお題目はまだありませんでした。その頃の猿之助は何も考えず・ひたすら駆け回っていましたね。(猿之助がそのようなお題目を掲げるようになってきたのは、昭和59年・1984・5月に出版の著書「猿之助修羅舞台」辺りからだと思います。)
*市川猿之助:「猿之助修羅舞台」(大和山出版社)
つまりケレンを生かすために通し狂言があったのではなく、通し狂言のダレ場を引き締めるための技法のひとつとしてケレンがあったのです。猿之助歌舞伎は面白いと巷で評判になって来ると、早替わり・宙乗りがないとお客が次第に納得しないようになってしまいました。それで本末転倒したみたいな作品も後には出て来ますが、猿之助歌舞伎には必ずじっくり芝居を見せる幕が用意されていたものです。例えば「慙紅葉汗顔見勢(伊達の十役)」(昭和54年・1979・5月明治座)での政岡忠義の場面がそうです。「何この場面は?早替わりしないの?」と言いたそうなキョトンとした顔で周囲を見回しているオジさんが客席に居ましたねえ。もちろん政岡忠義が主であって、ケレンが従なのです。ケレンを生かすためだけの通し狂言ではないと云うことです。猿之助には「お客に受けなきゃ芝居をやる意味がないでしょ」と云う実利的な考え方は確かにあったと思いますが、猿之助はそこの一線はしっかり守ったと思います。
そう考えなければ、例えば平成8年(1996)10月国立劇場で・江戸歌舞伎古式の顔見世狂言の形式を再現してみようという通し狂言「四天王楓江戸粧」(してんのうもみじのえどくま)の試み、或いは平成15年(2003)10月・同じく国立劇場での珍しい通し狂言「競伊勢物語」(はでくらべいせものがたり)復活など、猿之助の重要な業績が捕捉出来ないのです。(猿之助のこれらの業績は過小評価されてはいないでしょうか?)昭和54年・1979・11月・サンシャイン劇場での通し狂言「奥州安達原」、昭和55年・1980・7月歌舞伎座での通し狂言「義経千本桜」全段通し上演なども、同じ視点において捉えられます。
猿之助ほど「通し狂言」にこだわった役者はいません。通し狂言にすることで・込み入った歌舞伎の筋を出来るだけ分かりやすく仕立てて、江戸歌舞伎のヴィヴィッドな感性を現代に蘇らせようとする考え方が、猿之助歌舞伎の根本にあったのです。このことは巷間あまり指摘されないようだけれども、猿之助は決して早替り・宙乗りばかりやっていたわけではないのです。(この稿続く)
(R5・9・28)
平成8年(1996)10月国立劇場での「四天王楓江戸粧」について触れておきます。この公演は国立劇場30周年記念興行として、江戸歌舞伎のもっとも大事な行事であった顔見世狂言を再現したらどうかと云う郡司正勝先生の提案から始まって、これに猿之助が賛同して実現したものでした。郡司先生は当月筋書にこんなことを書いています。
『今回、市川猿之助一座を迎えたことは当を得た、あるいは止むを得ぬ企画といえよう。』
この発言は、顔見世狂言復活の企画が思いがけなく実現したことへの郡司先生の喜びと不安が入り混じって、なかなか味わい深いものがあります。まずひとつには、江戸の顔見世狂言とは劇場が新年度の始まりに年間契約した役者の顔振れを披露するものでした。一座はいろんな演目を演じるための大立者から女形・敵役・二枚目・老役・道化・若衆などさまざまなタイプの役どころを揃えねばなりません。顔見世狂言では筋を通しつつ・それぞれの役者の芸の見せ場も用意します。個々の役を言えば他にも適任はあるでしょうが、当時そのような多様な顔振れを一座で即座に提供できたのは、少々小粒であったとしても猿之助劇団以外に在り得なかったのです。しかも結束が固くて、みんな同じ方向を向いた芝居が出来る。復活狂言のノウハウを持っており、あそこはああやろう・ここはこうやろうとか、簡単な打ち合わせだけでトントンと事が運ぶ。あの時代の猿之助劇団にそれが出来たということは、ホントに驚くべきことです。だから「猿之助一座の起用は当を得た」ということになるわけです。
一方、郡司先生が「止むを得ぬ」と云うのは、猿之助が「お客に受けなきゃ芝居をやる意味がないでしょ」という調子で、テンポ・アップだと称して、いつものように安直にここを切ったり・あそこを変えたりしやしないか、それで江戸歌舞伎の古風な美学を損ねやしないかと云う不安を正直に吐露しています。まあ良くも悪くも当時の猿之助歌舞伎はそのように見られていたわけなのです。
この時の公演は、国立劇場に珍しい昼・夜の二部制上演で、開演前の三番叟から始まり、脇狂言、序開き、第一番目、第二番目を(もちろんアレンジングはありますが)昼夜掛けてほぼ完全な形で通して、上演時間は休憩抜き・昼夜合計で7時間を優に超えました。この「四天王楓江戸粧」は、猿之助四十八撰にも入っています。猿之助にケレンのイメージがあまりに強いものだから、そこのところ他と一緒にされてしまい勝ちだけれども、理念的な尊さから云えば、猿之助歌舞伎の業績のなかでも、抜きん出た成果のひとつであったと思います。国立劇場もよくやったと褒めてあげないといけませんね。
猿之助は当月筋書での戸部銀作氏との対談で次のように語っています。
『私も多くの復活狂言を手掛けてきましたが、面白い狂言というのは今でも上演作品として残っているわけで、埋もれたのはつまらないからなんです。例えば「四天王楓江戸粧」にしても、面白いのは「一條戻橋の場」だけ。八つの場面があるなかでの一つしか面白くないのです。作り手が少しでも首をかしげるような芝居は、見る方はもっと首をかしげてしまうのは当然。だから私が芝居を作るときは、始終アラ探しをしているようなもので、どんどんアラを探して、つまらないところを面白くと、知恵を絞るのです。「四天王楓江戸粧」も今回上演脚本と原作を読み比べてもらえればお客様にもお分かりいただけると思いますが、原作よりもずっと分かりやすくなっています。原作は本当に分かりにくいですね。』(三代目市川猿之助:「現代の視点に立った復活狂言を」)
まあ時には「面白くなきゃ芝居をやる意味がないでしょ」というのが先に立つこともあったでしょうが、復活狂言における猿之助のスタンスは真摯なものであったと思います。(この稿続く)
(R5・9・30)
そう云うわけで吉之助が熱く思い出す猿之助歌舞伎となると、猿之助が複数の役を兼ねるのは当然としても、ケレン芸があまり前面に出ない作品ということになります。
例えば通し狂言「奥州安達原」(昭和54年・1979・11月池袋サンシャイン劇場)は、「安達三」で猿之助は安倍貞任と袖萩を兼ねました(二段目で善知鳥文治も兼ねました)が、これ自体は古い歌舞伎の型としてあるもので、珍しいことではありません。本公演の特長は、岐阜県の相生座の松本団升師から伝授された地芝居(農村歌舞伎)の型を取り入れたことでした。地芝居とは、素人歌舞伎と云うことです。大歌舞伎の役者が頭をさげて地芝居の教えを乞うなんてことはなかなか出来るものではありませんが、猿之助は分け隔てがない人だから・それが出来るのですねえ。大歌舞伎の型と地芝居の型とどっちがいいかと云う問題ではありません。猿之助は生(なま)芝居の面白さの原点みたいなものを地芝居のなかに見出したのです。この感動が、猿之助の舞台を生き生きした熱いものにしていました。
「義経千本桜」全段通し上演(昭和55年・1980・7月歌舞伎座)は、吉之助にとって特に忘れ難いものです。猿之助歌舞伎の一番の魅力は、役者が身体を張った生身の芸に違いありません。映画でどんな凄まじいことが起ころうが、それはホントに起こったことではなく、ああこれは特殊撮影ねと云うようなものです。芝居には、(ホントでないのは同じかも知れないが)それが目の前で行われると云う・或る種のリアルさと際どさがあります。これは映画には真似出来ないことです。もっとも昨今はCG技術の進歩が芝居にも押し寄せていますが、猿之助歌舞伎の場合は、江戸のセンスに裏打ちされたレトロな生(なま)感覚ということですね。舞台を縦横に駆け巡る早替りや宙乗りもそう云うものですが、猿之助は「千本桜」三役すべてを一日で演ってしまうことで、ケレンよりも何よりも、ドラマと緊密に結びついた「身体を張った」芸であることを鮮烈に印象付けたのです。三役それぞれが納得できる水準であったこともありますが、ケレンを前面に押し出した「伊達の十役」よりも、ずっとラジカルだと感じました。鳥居前での狐忠信の狐六法の花道引っ込みなどは、まさに汗が珠となって飛ぶ感覚で見たものです。個人的には、本公演を猿之助歌舞伎のピークと位置付けたいと思っています。
「伊達の十役」は七代目団十郎が初演した脚本が散逸してしまったので・それならば新たに作っちゃえばいいじゃないかと云う発想で猿之助と奈河彰輔のコンビが作った芝居でした。もちろん好い加減な態度で作ったものではありませんが・悪く云えばでっち上げたと云う一面もあるわけで、「伊達の十役」の大成功に味をしめて・後続で出来た復活狂言は、早替りするための・宙乗りするための芝居と云うところがなくはなかったと思います。お客もケレンがないと納得しなくなって来ました。そう云う意味では「独道中五十三駅」(十八役早替りはさすがに無理があった)が潮目であったかと思いますが、吉之助が次第に熱が冷めて来たのも、この辺りからでした。猿之助の復活狂言のなかで最も出来が良かったものは、「菊宴月白浪」(昭和59年・1984・10月歌舞伎座)であったと個人的に思っています。本作で猿之助が暁星五郎実は斧定九郎一役のみを勤め・早替りをしなかったことも大いに関連すると思います。つまり原作のドラマの骨格がしっかりしていたと云うことです。しかし、先頃(令和5年7月歌舞伎座)の再演は脚本補綴が酷くて・本作の魅力を十分に伝えていなかったのは残念なことでした。(この稿続く)
(R5・10・8)
「夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来」(春秋社)の対談のなかで猿之助は、ミュージカル「美女と野獣」で野獣が王子に空中を飛びながら変身していくシーンを見て「あのシーンは駄目です」と言っています。「だって拍手がきてないじゃないか」と云うのです。
「なぜあれで拍手が来ないかというと、すごく手が込んでいたとしても、吹き替えを使ったって成立する演出だからです。拍手させるには、見物に息を詰めさせておかねばならない。意表を突かれて「どうなったの?」となると、ウッと一瞬とまる。そうして詰めた息をはーっと吐き出すところで拍手するわけだけど、それが「美女と野獣」にはないわけですよ。普通の呼吸だけで続いていく演出で。」(三代目市川猿之助:対談3:伝統の心を学ぶ)
*「夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来」(春秋社)
これは身体を張って早替りを見せてきた猿之助だからこそ言える発言ですね。変わり目の鮮やかはもちろん大事だけれども、芝居で観客を唸らせる為にはそれだけでは駄目なのです。芝居をもっと面白くするためにどうすれば良いか猿之助はいつも考えていました。次の発言からもケレンについての猿之助のスタンスが伺えます。
「歌舞伎の宙乗りは綱が見えることに意義がある。つまり後見の存在が歌舞伎の美意識であるのと同じである。後見は観客から姿が見えるけれども、無のもんおとして美しい動きを手助けし、舞台の美を高揚するために存在する。(中略)ミュージカル「ピーターパン」のように、見えない極細の綱で飛んでも、歌舞伎には合わない。近代リアリズムの影響を受けた劇のなかではフライングの方が合うけれども、歌舞伎の世界ではフライングは詰まらない。意味がないとまで言えよう。要は、見える綱が見えなくなればよろしい。それでこそ本物の宙乗りと言えるのである。」(三代目市川猿之助:「なぜケレン芝居なのか」〜「猿之助修羅舞台」)
吉之助はこれを、江戸のセンスに裏打ちされたレトロな生(なま)感覚・或いは手作り感覚と呼びたいですね。これこそ猿之助歌舞伎の本質だと思います。
先日(令和5年7月歌舞伎座)の久しぶりの「菊宴月白浪」再演(石川耕士補綴・藤間勘十郎演出)ですが、両国橋花火の場を液晶大画面で極彩色の花火の映像をリアルに見せました。最新ハイテクを駆使して、「南北が現代に生きていたら絶対これを使ったはずだ」と言いたかったのだろうけれど、これが江戸のセンスにまったくマッチしていないのです。もし猿之助が舞台稽古でこの液晶画面を見たのならば(多分見ることは叶わなかったと思います)、「このシーンは駄目です」と即座にダメ出ししたはずです。リアルの感覚の尺度が全然異なるのです。復活初演(昭和59年・1984・10月歌舞伎座)での花火の場面は電飾でちょっとチャッチかったかも知れないけれど、レトロな手作り感覚があって、これが江戸の美意識に確かに通じていたと思います。(この稿続く)
(R5・10・12)
これは昭和61年(1986)2月新橋演舞場でのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演当時の劇評でまったく論じられなかったことで、初演を見た時には吉之助もそこまでは考えが至らず・後年映像を見直して気付いたことですが、「ヤマトタケル」で痛感させられることは、長沢勝俊作曲の舞台音楽が「ヤマトタケル」のドラマに非常に大きな貢献をしていると云うことです。長沢勝俊(1922〜2008)は現代邦楽の代表的な作曲家のひとりでした。ちなみに梅原猛・猿之助による「オグリ」(平成3年・1991)の音楽も長沢の作曲です。大事なことは、長沢の「ヤマトタケル」の音楽が芝居の情緒を盛り上げるだけの背景音楽に終わっていない、もっとドラマの核心に踏み込んだ形で音楽が鳴っていると云うことです。
特にこのことを強く感じるのは、第1幕の小碓命の熊襲タケル征伐の場面(ここでは朝倉摂の舞台装置がなかなか良い)、第2幕の焼津の草原でヤマトタケルが国造ヤイラムの火攻めに遭う場面(ここでは多人数で赤い旗を振り回しながら火炎の行方を表現する猿之助の手法がなかなか斬新である)、走水の海上で弟橘姫が船から入水する場面(この場面でも猿之助の浪布の使い方が上手い)などの、劇的なシーンにおいてです。第3幕幕切れでヤマトタケルが白鳥になって飛び去る宙乗りシーンも同様です。猿之助は、これらの場面で長沢の音楽を巧みに活用して大きな劇的効果を上げています。結果として猿之助演出の成功の半分くらいは、長沢の音楽のおかげであると言って良いくらいです。しかも、このことは猿之助演出を貶めることに決してなりません。
明治37年(1904)の坪内逍遥による「桐一葉」初演(これが新歌舞伎の始まりとなる)以来令和5年の現在まで、数え切れない数の新作歌舞伎が作られて来ましたが、恐らく「ヤマトタケル」ほど音楽がドラマのなかで積極的に活用された事例はないと思います。この点だけでも「ヤマトタケル」は歌舞伎史のなかでも画期的な作品であると云えます。
猿之助は梅原猛に対し、「歌舞伎の所作と、シェークスピアの台詞と、ワーグナーのロマン性が全部在るようなドラマが欲しい」と云う注文を突き付けたそうです。(対談「ヤマトタケルを語る」での梅原発言〜「演劇界」昭和61年1月号)猿之助は恐らく長沢にも同じ注文を突き付けたでしょう。しかも猿之助は、音楽のイメージとか長さとか・恐らく秒単位で、かなり細かい注文を付けたと思います。長沢もこれによく応えたと思います。そうでなければ、これだけのものは出来ないはずです。
猿之助がワーグナーの楽劇・総合芸術の概念をどれくらい知っていたか分かりません(本人があまりクラシック音楽を聴いたことがないと言っているのをどこかで読んだ記憶がある)。しかし、「ヤマトタケル」の約3年前に、猿之助はパリ・シャトレ劇場で歌劇「コックドール(金鶏)」(リムスキー=コルサコフ作曲)を演出したことがあるので、この経験が音楽の理解に大いに生きたと思います。と云うか、このオペラ演出経験がなかったら「ヤマトタケル」は生まれなかっただろうと思いますねえ。ここでは音楽がドラマと結びついて論理的に鳴っています。吉之助の経験では日本の演劇界では(ミュージカルは別として)音楽はほとんどムード醸成に使われるばかりで、音楽が論理的に使われるケースはホントに少ないです。
来年(令和6年)2〜3月新橋演舞場で「ヤマトタケル」が再演される(ヤマトタケルは隼人・団子のダブルキャスト)そうですが、長沢勝俊の音楽に注目して「ヤマトタケル」の舞台をご覧になれば、「歌舞伎の所作と、シェークスピアの台詞と、ワーグナーのロマン性が全部在るようなドラマ」と云う、猿之助が「スーパー歌舞伎」に求めたイメージが直観的に理解出来るはずです。(この稿続く)
(R5・10・18)
前章で「ヤマトタケル」では猿之助は音楽を論理的に使えていると褒めましたが、今度は逆のような話になるかも知れません。寄り道をするようですが・決して寄り道ではないのだが、まあ続きをお読みください。次の文章は、平成2年(1990)に劇作家木下順二が自作戯曲「子午線の祀り」・第4次上演で・自ら演出を行った時に書いたものです。
『一般的にカットでちぢめた舞台は、シアトリカルであってもドラマティカルではない。つまりお芝居の面白さはあっても、劇文学としての「文学」が落ちてしまった、ということではなかっただろうか。(中略)あえて「文学としての作品の舞台化」に挑むことによって、その困難を乗り越えるエネルギーを創り出したい。』(木下順二:私自身のメモより・1990)
ここで木下順二が「シアトリカル」と云っているのは、劇上演に関わる演出者・役者たちが段取りが取りやすいようにあらかじめ配慮されたものを云い、いわば実際的・現場主義的とでも呼ぶべきものです。一方、「ドラマティカル」と云うのはこれを「音楽的」と言い換えても良いのだが、劇が或る種音楽的な流れを持ってクライマックス・さらに結末へと向かっていく必然のことを指しています。木下順二自身はこれを「文学性」と呼んでいるようです。
上記の文章で木下順二が言いたいことは、「子午線の祀り」初演映像(昭和54年・1979・4月国立小劇場)で演出主幹であった宇野重吉が補綴した台詞と、木下順二の原作台本とを見比べると、どうして木下順二がこんなことを言い出したか・その気持ちがまざまざと分かります。宇野重吉の補綴台本では、「エッこんな大事な台詞をカットするのか」と驚くような、結構いい台詞が原作からあちこちゴソッと落とされているのです。それは多分、「この台詞は内容的に重複していて二度も繰り返す必要はない」とか、「全体の流れからすると・この台詞はあってもなくても大して意味は変わらない」、だからこの台詞を抜けば流れがスッキリして・芝居がテンポアップ出来るという理由から行われたものです。
ところが、木下順二の立場からすると、劇作家は一語として無駄な台詞を書いたつもりなどないのです。台詞が重複していても、それは繰り返す音楽的必然があるから重複させたのです。全体の流れからするとこの台詞は不要と見えようが、それは或る劇的必然を以って挿入したものです。「子午線の祀り」は日本の伝統的な「語りもの芸」の系譜をイメージしてが書かれたのですから、これは戯曲の根幹にも関わることです。劇作家からすると、そうした箇所をテンポアップの観点でバッサバッサ切り捨てるのは、まことに無神経・かつ暴力的な行為だと感じる、そのような劇作家のいたたまれない気持ち(憤り・というか恨み節ですかね)を、上記文章は正直に吐露しています。木下順二は本人に面と向かっては言えず、宇野重吉の死後にこの文章を書いたのです。これだけでも当時の新劇界での宇野重吉の地位の重さが知れると思います。
まあ一応宇野重吉の立場から考えれば、「実際に上演可能な体裁にしなければ、脚本の意味がないでしょ」と云うことです。宇野重吉の考え方は、現場的・実際的なのです。それでは以上を踏まえて、猿之助の以下の発言をお読みください。これは宇野重吉の考え方と実によく似ています。
『時代物やる時に、作曲(義太夫の詞章・節付け)を変えるべきだって言うんですよ。(中略)「四の切」でこれは実験したんですよね。忠信が出てくると義経が「静はいかがいたせしや」って言うでしょう。そうすると(竹本が)「・・とお尋ねありければ、忠信いぶかしげに承り」と言うわけですよ、いままでの慣例で。その間に忠信は首をふたつ振っておかしいなという動作をして、「こは存じがけなき御仰せ、八島の平家一時に滅び」って言うんです。その「・・とお尋ねありければ」を取ったわけです。この竹本がたしか25秒ですよ。義経が「静はいかがいたせしや」と言うと首かしげながら、「こは存じがけなき御仰せ」ってやったんですよ。それでいいわけでしょう、見れば分かるもの。そういう風にちょこちょこ取っていけば、3分から4分取れるんですよ。そこで4分取るだけですごいテンポアップしたように見えるんですよ。』(市川猿之助、蜷川幸雄との対談:「歌舞伎の明日を語る」・「演劇界」・昭和58年1月号)
当時この猿之助発言を読んだ時の吉之助のガッカリ感は筆舌に尽くし難いものでしたねえ。吉之助の丸本についての考え方は、師である武智鉄二がよく言っていた通り、「丸本の詞章は煮詰めて書いてある、無駄な字句などひとつもない」と云うものです。まあそれでも歌舞伎での慣習的なカットまでとやかく言うつもりはありませんが、猿之助が安直にちょこちょこカットして「見れば分かるもの」と言うのにはまったく口アングリで、二の句が継げませんでした。直接的にはこの猿之助発言が、吉之助が猿之助歌舞伎を信用出来なくなったきっかけでありました。ここから吉之助は猿之助歌舞伎から次第に距離を置くようになって行きました。
ご存じの通り、オペラ台本には繰り返しやら・一見無駄のような台詞が少なくありません。「愛してる」が20分続くことだってあるのです。しかし、それらは音楽的必然と混然一体となっていますから、安易なカットが出来ないのです。それをしてしまったら音楽の論理性(形式)が崩れてしまいます。もしかしたら猿之助はオペラ演出でも「どうしてここをカットしないのだろう。アホなことしてるなあ」と感じたことがあったかも知れませんねえ。しかし、オペラにおいては楽譜は変えることが出来ない絶対の規範です。オペラ演出をして猿之助はそう云うところも学んで欲しかったと思いますねえ。
歌舞伎においては、猿之助は徹底的に「シアトリカル」でした。このことはいい面も・悪い面も両面あるのですが、「ヤマトタケル」に関しては、制作の絶対的なイニシアティブを猿之助が握っていましたから、梅原猛(脚本)・長沢勝俊(音楽)も猿之助の立場を認めて・一歩引いて協力した、だからシアトリカルであり・かつドラマティカルなものが出来たと云うことです。(この稿続く)
(R5・10・21)
『明治中期の演劇改良運動は、歌舞伎の世界にも、近代リアリズムの多大な影響を与えた。この結果、歌舞伎が本来持っていた「非合理の魅力」を排斥し、芸術至上主義の心理主義を重視するようになった。その影響により、歌舞伎は芸術的に高められ、蔑まれていた歌舞伎役者は芸術家の域に引き上げられたが、それと同時に、歌舞伎のエネルギーやみずみずしさを失ってしまうことにもなった。(中略)本来の歌舞伎は、大衆のなかに根づいていた。そして非合理な魅力ーバカバカしさ、卑俗さなど、傾(かぶ)いたところが強烈な魅力だったのであり、そこで爆発したエネルギーと芸術的な面とがうまく融合していた。芸術的な部分と俗っぽい部分、写実と誇張、高尚と卑俗、この対極の幅の広さが、江戸時代の大衆を惹きつけた歌舞伎の魅力であったと思う。(中略)ばかばかしく、おどろおどろしたもの、理屈を超えたおもしろさ、非合理の魅力ーこれこそ、エネルギー、生命力のみずみずしさの最たるものであるから、現代の大衆に受け入れられるには、もっと自由な発想や多様な表現による創造があっていいはずだと考えた。』(三代目市川猿之助:「なぜケレン芝居なのか」〜「猿之助修羅舞台」)
「猿之助修羅舞台」(大和山出版社)は昭和59年・1984・5月の出版です。多分この頃から猿之助歌舞伎の理論武装が始まったと思います。まあ猿之助の言いたいことはよく分かりはするのだけれど、組織が理論武装を始めると良くないことがまま起きる。昭和45年〜50年頃には学生運動が腐敗・分裂していく様を眺めてもいましたので、猿之助は理論武装なんぞせずに・ひたすら走っていればいいのに・・と思ってこれを見ていたのです。猿之助四十八撰や猿之助十八番の制定なんかも、そういう歌舞伎の権威化・体制への擦り寄りみたいなものは、あなたが一番嫌いなものでなかったのかと言いたいところがないわけではない。
ひとつの問題は、上記文章をよくよく読めば猿之助の意図はそこにない(高尚と卑俗の融合が大事だと猿之助は言っているのです)のですが、後年マスコミに「明治以降の歌舞伎が(九代目団十郎・六代目菊五郎らが)高尚化していくなかで邪道として捨て去てて来た早替わりや宙乗りなどのケレンを復活させたのが猿之助の功績である」と云われることになるように、本格の歌舞伎と対立するかのような構図に猿之助歌舞伎をイメージ付けることになってしまったことです。おかげで猿之助歌舞伎は何となく「本格」とは対極の(つまり本格ではない歌舞伎の、主流ではない歌舞伎の)イメージを負うことになったと思います。これは猿之助にとって不本意であったろうと思います。
もうひとつの問題は、別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」で触れた通り、「こうやったら歌舞伎になるんだよ」というもの、そうやってさえいればとりあえず「らしく」見えるという歌舞伎の慣行パターンに対する反省が足りなかったことです。せっかく「明治以降の歌舞伎」を批判しようと云うならば、問題の本質にまで突っ込んだ検討・批判を加えて欲しかったと思いますねえ。なぜならば現行歌舞伎はほぼ幕末歌舞伎のテクニックで・それ以前のものが途切れてしまっているからです。例えば、
『歌舞伎の台詞というのはたいてい七五調だから、字余り字足らずは言いにくいんですよ。「ちと」とか「まあ」とかを入れることで、言いやすく美しく、音楽として聞かせる。これが歌にするという事なんです。』(三代目市川猿之助・横内謙介:『夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来』)
という発言がまさにそうです。台詞がいい難いのは脚本に問題がある、台詞を言いやすいように七五に調子を整えれば良いという考え方でした。字余り字足らずの台詞が言えないのは役者の息に溜めが足りないせいだとは、猿之助は考えませんでした。「・・とお尋ねありければ」を取れば確かに25秒テンポアップが出来るでしょう。しかし、それは役者が25秒の間(ま)を持ち堪えられないのを脚本のせいにしているだけではないのか。そう云う疑問を持ってもらいたかったのですがね。猿之助は自分たち歌舞伎役者の台詞廻し・演技術に疑問を持つことがあまりなかったと思います。
猿之助の演出は、脚本を深く読み込んで・主題や人物の心理から段取りをゼロから積み上げていくものではなく、歌舞伎の慣例の手順・つまり芸の引き出しを利用しながら上手に組み合わせていく交通整理(アレンジング)といった印象が強いものです。これは座頭の責任として芝居を5日で見られるものに仕上げて見せると云うことで、まさに現場プロの技なのだれど、これは「・・らしい」芝居はすぐに作れるけれども、それ以上の芝居をじっくり練り上げることが出来ないということでもあります。結局そこが猿之助の限界であって、だから猿之助は「四の切」以外に古典に当たり役を持てなかった、古典の洗い直しが完全にはできなかったと云うことだろうと思います。このことはちょっと残念でしたね。
平成8年(1996)7月であったか、たまたま歌舞伎座の前を通ってぶらり立ち寄って幕見で観た久しぶりの猿之助歌舞伎・「独道中五十三駅」はただ決まった段取りだけをルーチンでこなすみたいな生気のない舞台で、吉之助はホント悲しい気分にさせられました。猿之助歌舞伎も岐路に立ったなあ・そろそろ身体が動かなくなってきた猿之助が今後役者としてどういう変化を遂げるかナアと思いましたが、その後不幸な病気などがあって猿之助は舞台から遠ざかることになってしまいました。(この稿続く)
(R5・10・22)
猿之助が病に倒れたのは平成15年(2003)11月のことで、これ以後猿之助が表舞台に立つことは滅多にありませんでしたが、平成24年(2012)6月新橋演舞場での二代目猿翁・四代目猿之助・九代目中車・五代目団子同時襲名興行での口上の光景が思い出されます。実を云うと10年ぶりくらいに・動けない猿之助の姿を見るのが怖かったのです。しかし、実際その姿を見ると・動けないなかにも「この人は根っからの舞台人だ」という強烈な気迫が伝わって来て、昭和50年代に劇場を所狭しと走り回っていた「猿之助」のイメージは少しも崩れることはありませんでした。吉之助が生(なま)で見た猿之助の姿はこれが最後になりましたが、吉之助のなかの猿之助は今でも元気な時のイメージのままです。
最後に猿之助が残した遺産(猿之助四十八撰や猿之助十八番)をこれからどのように受け継いでいくかについて、今後懸念されることを書いておきます。前述した通り、猿之助歌舞伎の根幹は「通し狂言」です。通し狂言のダレ場を引き締めるための技法のひとつとしてケレンがあったのです。通し狂言にすることで・込み入った歌舞伎の筋を出来るだけ分かりやすく仕立て、江戸歌舞伎のヴィヴィッドな感性を現代に蘇らせようとする考え方が、猿之助歌舞伎の根本でした。この猿之助の姿勢がこれからも正しく受け継がれて行くかと云うことです。
猿之助の復活狂言の多くは・作品によって過程は異なりますが、原作(原案)をそのまま上演すれば10時間以上も掛かってしまって・現代劇場の興行形態ではとても上演出来ないものを、煮詰めに煮詰め、削ぎ落すところは落とし、それで辻褄の合わないところは繋ぎ合わせて最初の台本を作り、これをまた舞台稽古でさらに煮詰めに煮詰め、シェイプアップして、ようやく出来上がったものです。こうして出来上がった脚本は、休憩込みの上演時間で4時間半から5時間で収まるようにセットされています。ここまで脚本を詰めるのが大変な作業なのです。これは昭和の終わりから平成始めの歌舞伎の興行形態を背景にしています。
ところがここ2〜3年(コロナ以後)の歌舞伎(歌舞伎座も国立劇場も)を見ると、休憩込みの上演時間で5時間の尺度がもはや出来なくなっているようです。こうなった理由が観客側だけにあるとは思いません。採算ベースとか種々の理由が興行側にもあると思われますが、歌舞伎の通し狂言の標準尺度が、「休憩込みの上演時間で3時間半」をベースにしたものに移行しつつあるようです。(この件については国立劇場さよなら公演「妹背山・第1部」の観劇随想にちょっと触れました。)
ここで指摘したい大きな問題とは、猿之助の復活狂言の多くが「休憩込みの上演時間で凡そ4時間半から5時間」で設計されているので、今後の上演では、どれも1時間程度のカット(場合によってはそれ以上)が避けられないと云うことです。この懸念が現実のものとなったのが、先日(7月)歌舞伎座の「菊宴月白浪」の久しぶりの上演でした。既に煮詰めに煮詰め・削りに削った脚本を「さらに削った」と云うことです。もはや枝葉の整理で足らず、芝居の頭や胴体を切り裂かねばならない事態に陥っていました。昭和59年(1984)歌舞伎座の初演を見た者からすると、猿之助歌舞伎の無惨な残骸を眺める気分でした。これを観た若い歌舞伎ファンに「何だ猿之助歌舞伎とはこんなものか」と思われることは、まことに寂しいことです。
この問題は今後の猿之助歌舞伎のことだけでなく、「歌舞伎の通し狂言をどのように上演するか」と云うことで、歌舞伎全体に係わって来る問題です。夜の部で終演9時半を厭わないか、昼夜二部制のなかでうまく二つに割り振って筋を通すか、或いは二か月か三か月でも掛かって割り振って筋を通すか、そうでもしないと通し狂言が通せない時代がもうすぐそこにある・イヤもう来てしまったと云うことなのです。
直近の問題として、来年(令和6年)2〜3月新橋演舞場で再演される「ヤマトタケル」(ヤマトタケルは隼人・団子のダブルキャスト)が正しく在るべき形で上演されるか、あるいはどうなるかです。「天翔ける心」を失わないようにして欲しいと思いますねえ。
(R5・10・24)