いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える
平成23年10月・新橋演舞場:「当世流小栗判官」
二代目市川亀治郎(四代目市川猿之助)(小栗判官・浪七・娘お駒、三役)
1)蜷川幸雄との対話
『市川猿之助さんがある日こういった。三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ。でも三島さんが国立劇場でやった「椿説弓張月」 には出演してたんでしょう、とぼくはきいた。うん、でてましたよ、猿之助さんはかすかな微笑をうかべていった。その微笑みは、まるで王の無知を嘲笑う道化、といった明るささえただよわせていた。ぼくは「椿説弓張月」の猿之助さんの熱演をおもいだしながら、芸能する者が文学を至上のものとする者にたいしていだく、これは生理的な報復なのだと思わずにはいられなかった。』(蜷川幸雄:「道化と王」〜「卒塔婆小町・弱法師」演出メモより〜「蜷川幸雄・Note1969−2001」に所収・河出書房新社)
蜷川幸雄:Note1969‐2001(河出書房新社)
三島由紀夫の最後の歌舞伎「椿説弓張月」の初演は昭和44年(1969)11月国立劇場で三島自身の演出によって行なわれ、この時に猿之助は高間太郎を演じたことは御存じの通りです。別の機会のことですが、蜷川は上記の猿之助との対談の思い出を引いて、「この時、自分は歌舞伎という得体の知れない世界に金輪際係わるまいと思った」と云うことを語っていました。しかし、(上記の猿之助との会話がいつの事だったか不明ですが、多分昭和57年末のことと推定)恐らくはその二十数年後くらいに蜷川は菊之助からの要請で「NINAGAWA十二夜」(平成17年・2005・7月歌舞伎座初演)の演出に係わることになります。
「NINAGAWA十二夜」については別稿「似てはいても別々の二人」でも書きましたのでそちらをご覧いただきたいですが、シェークスピアの原作を江戸時代の風俗に置き換えて歌舞伎脚本に書き換える処置が取られました。吉之助は「歌舞伎らしいシェークスピアなんてどうでも良いから、もっと真っ向勝負を仕掛けてくれよ」というのが正直な気持ちではありましたが、その辺に歌舞伎に対してガチガチに意識した蜷川の気持ちが垣間見える気がしたものです。まあそれも分からないことはありません。その背景に上記の猿之助との会話がトラウマとしてあったわけです。
その昔アメリカの指揮者バーンスタインが初めてウィーン・フィルを振ることになった時、リハーサルに現れたバーンスタインは開口一番「モーツアルトはあなたたちの音楽です。私はあなたたちからモーツアルトを教わるためにウィーンに来たのです」と挨拶しました。これでバーンスタインは好き嫌いの激しいウィーン・フィル・メンバーのハートをつかんだのですが、蜷川の場合もそんな気配なしとしません。歌舞伎役者という人種は門外漢から見ると扱いにくいところがあるようですね。
ところで、三島由紀夫は「椿説弓張月」演出に相当てこずったようです。「椿説弓張月」での失敗が三島の自決の遠因になったと分析する研究者もあるくらいです。まあそれはないと吉之助は思いますけれども、三島がかなり落ち込んだことは事実であったようです。作家石川淳との対談で、石川が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」とこれはまた率直かつ正直な感想を述ると、これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは」と力がない返事をしています。(対談「破裂のために集中する」昭和45年)
さらに評論家古林尚との生涯最後の対談でも「椿説弓張月」演出について「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。何がそこまで三島を落胆させたかというと、歌舞伎役者が毎月25日の興業生活のなかでお手軽に芝居を仕上げる「生活の知恵」を身に付けてしまっていたからでした。それは芸をパターン化してお手軽に処理していこうというもので、練習時間がとれない役者たちのその場しのぎの哀しい知恵でもありました。逆に言うと脚本がどんなにひどいレベルでもある程度は見せてしまうということでもあります。しかしそのような演技に創造的なエネルギーなど見出しようがありません。義太夫の節付けにポテチンという箇所がありますが、ここで役者は決まらなくてはなりません。そこが役者の一番の見せ場になります。そこを三島が何度注意してもポテチンがはずれてしまう、同じ場面を、毎日、同じ役者がやっているのにポテチンの箇所がやるたびに変わってしまうと三島は不満を述べています。
『初め、僕は役者が逃げているのかと思ったんです。だがそうじゃなかった、いい加減なんですよ。歌舞伎俳優がフォルムという形式美を生み出す意欲を完全に失っているんだな。だから役者が古典を模索しようとしてもダメなんだな。』(対談「三島由紀夫・最後の言葉」昭和45年)
決定版 三島由紀夫全集〈40〉対談(2)(上記2対談を所収・新潮社)
王様を嘲笑う道化と・道化に嘲笑われる王様の言い分を比べたわけですが、「椿説弓張月」という歌舞伎は三島由紀夫が書いたのですよね。そこに作家が込めたメッセージがあるわけです。役者はそれを具現化するのが仕事のはずです。まあ作家が歌舞伎に夢見たものがどうかという問題は確かにあるとしても、原作者・演出家がそのアイデアを具現化しようと悪戦苦闘している時に、作家(あるいは演出家)に対する尊敬を忘れて、役者がそれをせせら笑って・言う事を聞かないで・自分勝手なことをし始めるのでは、お話しにならないのではないでしょうかね。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうやったら歌舞伎になるんだよ、そんなことも知らないのかよ」というわけです。そういうのは役者の態度として宜しいものでしょうか。
ところで、歌舞伎役者たちの「こうやったら歌舞伎になるんだよ」というものは、一体何なのでしょうか。それはいつもの通りに、次いでに言えば何も考えずに惰性でやっているパターンのことなのです。そうやってさえいればとりあえず「歌舞伎らしく」見えるというパターンです。その根拠は正しい・正しくないというところにはなくて、「俺たちはいつもこのようにやって来た」なのです。そういうわけで「三島さんは歌舞伎のことを知らなかったから、おかしいことや滑稽なことが多かった」という猿之助の言い分を、その通りに受け入れることは吉之助にはできないのですねえ。
(H23・10・23)
2)いわゆる「歌舞伎らしさ」について
吉之助は昭和50年代に猿之助歌舞伎をかなり熱心に見ましたが、その後の吉之助は猿之助から次第に距離を置くようになりました。猿之助は心底歌舞伎を愛していて・歌舞伎の良さを多くの人に知ってもらいたいと努力を続ける人です。このことは誰もが認めるところです。しかし、一方で猿之助は歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)をあまり持たなかったと吉之助は思うのです。例えば台詞のある箇所がどうも言いにくいとすると、猿之助はそういう場合に台詞のリズムを直して言い易くすれば良い・台詞がいい難いのは脚本に問題があるという考え方でした。字余り字足らずの台詞が言えないのは役者の息に溜めがないせいだとは猿之助は考えないのです。自分たち役者の台詞廻しに疑問を持つことがなかったと思います。次の猿之助の発言がまさにそうです。
『歌舞伎の台詞というのはたいてい七五調だから、字余り字足らずは言いにくいんですよ。「ちと」とか「まあ」とかを入れることで、言いやすく美しく、音楽として聞かせる。これが歌にするという事なんです。』(市川猿之助・横内謙介:『夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来』)
実は歌舞伎役者の台詞の引き出しというのは案外狭いのです。それはせいぜい幕末歌舞伎以降の台詞のテクニックです。しかも、別稿「歌舞伎の台詞のリズム論」を参照いただきたいですが、現代の歌舞伎役者は黙阿弥の台詞のリズムさえも怪しいのです。歌舞伎役者はもっと台詞の息とか溜め・リズムということに関心を持たねばならぬと思いますが、別に猿之助に限ったことではないですが、そういう反省があまりないのですねえ。
昭和50年代前半に猿之助歌舞伎を見ていて吉之助が感じていた漠然たる疑問は、猿之助歌舞伎は演出が類型的(パターン)処理に過ぎて、作品主題や役の解釈のオリジナリティーを主張するまでに至っていないということでした。面白いことは面白いのですが、作品論として論じるのをどうも躊躇するところがありました。吉之助のなかでこの疑問が明確になったのは、次の猿之助の発言を読んだ時でした。
『時代物やる時に、作曲(義太夫の詞章・節付け)を変えるべきだって言うんですよ。(中略)「四の切」でこれは実験したんですよね。忠信が出てくると義経が「静はいかがいたせしや」って言うでしょう。そうすると(竹本が)「・・とお尋ねありければ、忠信いぶかしげに承り」と言うわけですよ、いままでの慣例で。その間に忠信は首をふたつ振っておかしいなという動作をして、「こは存じがけなき御仰せ、八島の平家一時に滅び」って言うんです。その「・・とお尋ねありければ」を取ったわけです。この竹本がたしか25秒ですよ。義経が「静はいかがいたせしや」と言うと首かしげながら、「こは存じがけなき御仰せ」ってやったんですよ。それでいいわけでしょう、見れば分かるもの。そういう風にちょこちょこ取っていけば、3分から4分取れるんですよ。そこで4分取るだけですごいテンポアップしたように見えるんですよ。』(市川猿之助、蜷川幸雄との対談:「歌舞伎の明日を語る」・「演劇界」・昭和58年1月号、注:ちなみに本稿冒頭に引用した蜷川の思い出での猿之助発言はこの対談時のオフレコ発言で出たものかなと吉之助は推察しています。)
この発言を読んで、猿之助が日頃主張する「芝居のテンポアップ」なるものは、結局役者が芝居で間が持たせられないのを脚本のせいにして・自分の都合で脚本を刈り込むという側面があることに思い至りました。そう考えれば思い当たることが猿之助歌舞伎のいろんな場面にあるのです。結局、猿之助の演出は、作品主題や登場人物の心理から段取りを積み上げていくものではなくて、歌舞伎の慣例の手順・つまり芸の引き出しを利用しながら上手に組み合わせていく交通整理(アレンジング)なのです。もちろん作品や役を大掴みに類型として捉えることは特に歌舞伎では重要なことですが、現代における歌舞伎としてはそれだけでは足りません。大掴みに類型として捉えたものから、細部を彫り込んでいかねばならぬわけです。そこの方法論がちょっと乏しいのではないかと思います。
一応猿之助の立場で考えてみれば、座頭の責任として芝居を5日で見られるものに仕上げなくてはならない、猿之助は徹底 して現場主義であるということです。これは「・・らしい」芝居はすぐに作れるけれども、それ以上の芝居をじっくり練り上げることが出来ないということでもあります。結局そこが猿之助の限界であって、だから猿之助は「四の切」以外に古典に当たり役を持てなかった、古典の洗い直しができなかったということだろうと思います。(過去形で言ってはいけないかも知れません。)それは猿之助がいわゆる「歌舞伎らしさ」というものにこだわって、「俺たちはいつだってこのようにしてやって来た」という惰性で持っているダルい要素に対する批判(疑問)を持たなかったからであると思うわけです。
例えば今月(10月)新橋演舞場で亀治郎主演で再演された「当世流小栗判官」(初演は昭和58年7月歌舞伎座・吉之助はもちろん見ましたが)で言うならば、二幕目・浪七住家の場は「渡海屋」や「逆櫓」の応用、幕切れは「俊寛」の応用、まあそれはそれでも良いですが、例えば幕切れで切腹した浪七が照手姫が乗った舟を見送る場面は「姫を一刻も早く安全なところへ逃さねば・・」という気持ちが全面に出るところで、浪七は舟が遠くなっていくのを息を詰めて見守り・舟が見えなくなるのを見届けたところでガックリ絶命するということであろうと思います。ところが猿之助演出であると、大岩の上の浪七がオーイオーイと手を振り続けて実に長々しく、浪七はいったい何を考えているのでしょうかね、「姫さま、お名残りお惜しうございます」と云うのか、もしかしたら「私も一緒に連れて行ってくだされ」と云うのか。段取りがまったく「俊寛」のパターンなので、浪七なりの独自の熱い心情が見えて来ません。さらに殺されたかと見えた胴八がゾンビの如く蘇って浪七に何度も襲い掛かります。これがまたうるさい。吉之助の周囲のご婦人方は「ヤダまた出てきたわ」という感じで失笑していましたゾ。猿之助的に見るならばここはスペクタクルな見せ場だということになるのでしょうが、芝居のテンポアップの観点から見ればこういうところこそ刈り込むべきなのです。
(H23・10・29)
3)亀治郎の小栗判官
新橋演舞場で亀治郎主演での「当世流小栗判官」を見ました。役者の持ち味の違いということもありますが、同じ猿之助歌舞伎再演でも昨年1月演舞場での海老蔵主演の「伊達の十役」とは随分と違った印象を受けました。海老蔵の「伊達の十役」については・その時も書きましたが、「あの頃の猿之助歌舞伎はこんな雰囲気だったなあ」ということを思い出したものでした。昭和50年代前半の猿之助歌舞伎というのはとにかく面白いことを・何でも試してやろうという意気に燃えていましたし、それが楽しくって仕方がないということが客席にビンビン伝わってくる舞台でありました。吉之助も猿之助は来月はどんなことをやるかという期待でいたものです。枝葉がドンドン上に伸びていこうという力が感じられました。亀治郎だとそこが違っていて、随分巧いことやるもんだと感心はしますし、もしかしたらあの頃の叔父猿之助より今の亀治郎の方が練れているかもと思うところさえありますが、ワクワク感が乏しい感じです。そう言うと役者の花、スター性みたいな話になってきそうですが・吉之助が気になるのはそういうことではなく、亀治郎の演技は「こうやったら歌舞伎らしく見えるだろ、こうやったら巧く見えるだろ」という感じが強くて、それでまとまってしまっている印象があるということです。
例えば第1幕・横山大膳館で小栗判官が荒馬鬼鹿毛を見事に乗りこなす・いわゆる碁盤乗りの場面です。ここでの竹本(義太夫)との掛け合いですが、亀治郎の台詞は完全に糸に乗って(リズムに乗って)・節を付けた台詞回しになっています。亀治郎は台詞を歌っています。まあその意味においては「巧い」と言えましょう。昨今はこのような糸に乗った台詞を褒める向きが多そうなので・特に申し上げたいのですが、掛け合い場というのはト書きを語る竹本と・人形ではない生身の人間である役者が対峙する場面であるのです。それはバロック的でグロテスクな軋轢のある場面です。掛け合い場において役者は地・つまり台詞に当たる部分をしゃべります。これを竹本に合わせるように歌って、それで良いのならば、それはいくら巧くとも、それならば本当は竹本がひとりで全部を語ればそれで済むことなのです。それでは人形に替わって役者が演じることの意味が全然ないのです。もちろん完全に義太夫のリズムから離れてしまっては分解になってしまいますが、掛け合い場において役者が義太夫のリズムに丸乗りしてしまうことはあってはならないのです。そうなることは「恥ずかしい」という意識が役者になければなりません。人形ではない生身の人間である役者が台詞を言うならば、掛け合い場においては役者は義太夫から離れようという意識を特に強く持たねばなりません。写実の意識が重要なのです。しかし、亀治郎にそのような意識はないようですね。こうすれば「・・・らしく」見えるでしょという感覚が前に出ています。
亀治郎は義太夫のリズムに丸乗りしています。全体に台詞のテンポが早めで、確かにリズミカルには聴こえます。(初演の猿之助よりもリズミカルです。)だからそのリズムを心地良いと勘違いする向きがあるかと思いますが、節を付けて三味線の音程に乗ってしまって滑らかになってしまった台詞は小気味良いようだけれども、リズムの打ちが浅 くなっています。本当はもっと言葉を詰めて、カッカッと息を断ち切るように言わないと立て言葉にならぬわけです。前へ進もうとする三味線のリズムを後ろへ引き戻すようにせねばなりません。そうでないと掛け合いの音楽的な軋轢が生まれてこないのです。亀治郎は三味線に乗って節付けする方に意識が行っているから、台詞の彫りが浅い。まあリズムの打ちが浅い(つまり呼吸が浅い)のは昨今の傾向ではあります(同じような傾向は昨今のクラシック音楽にもあります)が、亀治郎も若いのだからこのような「・・・らしい」ということに無批判的にどっぷり浸からず、批判精神を持ってもらいたいものです。(注:こうしたことは「小栗判官」の碁盤乗り程度のことならば・そう目くじら立てるほどのこともないことですが、例えば亀治郎が政岡のクドキをやることがあるならば、このことは必須事項なのですから、よく心得てもらいたいと思います。)
第2幕・浪七宅での亀治郎(浪七)の台詞回しは時代に重ったるい感じがします。だから第1幕での時代の役柄・小栗判官との区別がついていません。声色ではなく、口調で区別を付けるべきなのです。恐らくこの場・浪七宅が時代世話だという誤解があると思います。言うまでもなくこの場は世話場です。浪七という役はもっと世話に・つまり写実に処理すべきでしょう。(同じことは右近の胴八にも言えます。)この浪七はまるで渡海屋銀平に見えますね。(初演の猿之助もそのように見えました。)イヤ正確に言えば歌舞伎の「渡海屋」の銀平自体に問題があるのです。知盛見顕しまでの銀平は本来もっと世話であるべきだと思います。そもそも時代世話という用語は時代物のなかの世話場という意味なのですが、いつのまにやら時代と世話の様式の間を取った中間様式があるかのような誤解が罷り通っています。演技様式には時代と世話しかありません。時代と世話の間の生け殺し(揺れ動き)で役を描き分けるのが歌舞伎です。時代世話などという演技様式があるわけではないのです。こういうところにも「俺たち歌舞伎役者はいつだってこのようにしてやって来た」という惰性の意識が感じられます。こういうことに疑問を感じてもらいたいわけです。
第3幕・萬福長者館での亀治郎(お駒)は本来ならばこれが本役でしょうが、お駒が一番生彩がありません。それは亀治郎のせいでもなく、お駒という役自体が類型的で、性格的な深みがないからでしょう。だから亀治郎のお駒もパターン処理に留まっています。嫉妬に身を焼いて、忠義なんて論理は恋に関係ない、そして恋する相手にたたるというのは、忠義批判に多少似たところもあり、その自己中心的論理が現代的とも見えないこともないわけですが、そういうところまで突き詰められてはいません。この場は小栗判官が業病になるための段取りにしかなっていません。中世の説経節の宗教観が、幕末頃の歌舞伎になるとこのようなお岩か累のような怨霊譚パターンにまで疲弊していったという過程が分かるという意味においては、まあそれなりの価値があるとは思いますがね。こうなるとこの芝居を「当世流」と名乗ることの意味をどこに見るのか、そのことを問いたくなります。
いずれにせよ台詞回しであるとか・決めの時の身体の置き方とか、そのような技巧的な面においては、確かに亀治郎は同世代のなかでも抜き出ているようです。その意味ではセンスがある。しかし、その演技の質感がどことなく粘っこい。そこで収まりかえってしまっている感じがするのは、吉之助にはあまり良いことに思えないのです。どうも亀治郎は「こうすれば・・らしく見えるだろ」的意識が、叔父猿之助よりさらに強い気がしますねえ。恐らくこれは昨今の歌舞伎の保守化傾向を強く反映しているのでしょう。
実はこの感覚は亀治郎だけのことではありません。程度の差はあれど、吉右衛門や菊五郎らにもあることです。しかし、何と言いますかねえ、吉右衛門や菊五郎のような出来上がった役者ならそれは彼らのスタイルとして受け取っても良いです(まあ仕方ないと諦めるということもある)が、亀治郎は若いのであるし、「歌舞伎の異端児」を自ら標榜するのならば、こういうところで無批判的にどっぷりと「・・らしく」に浸りきる感覚は良ろしくないのではないですか。伝統必ずしも良いことばかりではありません。グスタフ・マーラーは「伝統的であるとは、だらしないということだ」と言い切りました。伝統が内包するダルいものへの批判を常に持ってこそ新たな展開が可能になるのです。若い世代にはそのことを真剣に考えてみて欲しいと思うのですねえ。亀治郎が四代目猿之助を継ぐということが決まったそうですが、頭の良い人であろうから、亀治郎にそのような伝統への批判精神が加わるならば、猿之助歌舞伎の将来は確たるものになるだろうと思います。
(H23・10・31)