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アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える

*台詞というものは役者がしゃべる生きた言葉ですから・台詞はこうしゃべらなくてはならないという定型があるわけではありません。しかし、守らなければならないイメージが厳然としてあります。そこのところご注意いただきながらお読みください。


『習慣や風習に関しても、作り物だと思われそうなものが正真正銘の伝統的なものであったり、本物のように見えるものが実は作り物だったりする。ここでもまた生き生きとした全てが存在するのであり、人物像それぞれの口調を彼らの口から引き離すことはできない。それは人物像と同時に生まれたものなのだから。それが話し言葉というものであり、おそらく劇場などで耳にする時は特にそうである。しかし、話し言葉はあらゆる生が人間の形をとるために、どっと押し寄せるような流動体そのものたることは欲しない。常に音楽と一緒なのだ。話し言葉が音楽に対立するように見えても、それは全くの偶然というわけではない。話し言葉が音楽にひたる時、それは内部から起こる現象なのだ。』(フーゴー・フォン・ホフマンスタール:記載されなかった楽劇「薔薇の騎士」のための後記・1911年)

1)リズムの緩急

「歌舞伎素人講釈」において・歌舞伎と並んでクラシック音楽が柱であることは本サイトを長くお読みの方はご承知のことと思います。実は歌舞伎評論以前の吉之助は音楽評論を考えていた時期があり、歌舞伎よりもクラシック音楽の付き合いの方が長いわけです。音楽の経験が吉之助の歌舞伎の見方に反映していることは明らかです。まあ多少の誤解を恐れずに言えば・吉之助の歌舞伎の見方は明らかに西洋視点ですし、そこに吉之助の独自の視点があると思っています。ですから吉之助は台詞のリズムの緩急がとても気になります。音楽においてリズムはフォルムを決めるための重要な要素です。旋律を歌う時に息に微妙な緩急がつく・テンポが変化する・あるいはバランスが変化するということでフォルムは驚くほど大きく変化するものです。まあ試しにシューベルトの歌曲を何人かの歌手で聴き比べてみてください。同じ歌詞を・同じ楽譜で歌っているのにひとつとして表現が同じことがありません。リズムや緩急のちょっとした変化でこれほど多様な表現が可能なことに驚きます。

このことは芝居の台詞でも同じなのですが、台詞のリズムの緩急という問題に歌舞伎の方はちょっと疎いのではありませんか。台詞の緩急が歌舞伎の台詞のフォルムの要素として 強く意識されておらず、役者それぞれの自己流(よく言えば自分なりの工夫)で済まされているように思われます。また観客もそれで良しとしているようです。歌舞伎では「一声、二顔、三姿」とよく言います。ということは台詞回しを役者の魅力の第一とするはずです。しかし、実際には歌舞伎役者で名調子と言われる人には悪声の人が少なくありません。折口信夫はこう書いています。

『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうでなくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)

*折口信夫:「花の前花のあと」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

折口信夫は「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどういう風にすれば良いかという問題を若い人から与えられたので興味を持ってこの文章を書き出した」と書いています。正しい発声ができないということは正しい台詞術が身についていないということです。ですから折口は台詞のエロキューションに歌舞伎の問題点を見ているわけです。折口は歌舞伎役者は発声が良くない人が少なくないという不満を周囲によくこぼしていました。このことは歌舞伎では正しい発声や台詞術があまり顧慮されていないことを示しています。明治40年に欧米演劇視察旅行から帰ったばかりの二代目左団次と小山内薫との対談を読んでも、歌舞伎は明治の昔からそうだったことがうかがわれます。

小「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
左「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
小「巧かったかね。」
左「声のいいのには、実は感心しました。」
小「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
左「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」
(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版「演劇新潮」)

この対談を読めば・左団次が西洋人の台詞の音楽的なこと・発声法を大事にしていることに実に素直に感動していることが分かります。後年の新歌舞伎の左団次の台詞回しはこの感動から生まれたのです。このことを考えに入れれば新歌舞伎の様式の根源的なところが分かってきます。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。) それにしても歌舞伎では発声法はもちろんですが・「台詞の調子の良し悪し」がリズムの緩急に関連して論じられることがほとんどないようです。そのくせ「歌舞伎の台詞は音楽的だ」とみな言っています。歌舞伎の台詞が音楽的だと言うなら・音楽のように台詞を発声するというのならば、台詞の緩急に注意を払わないのは変なことだと思います。そういう変な見方が歌舞伎ではまかり通っているのです。(この稿つづく)

(H21・1・31)


2)台詞が内包するリズム

今でも必ず行われるものかどうか知りませんが、興行前の顔合わせで台本が役者に配られる時に・狂言作者が役者の前で台本を読みあげる「本読み」という儀式があります。大きく間を取って芝居するように台本を読むわけではなく、あくまで本読みですから聴く者に大雑把なイメージを与えるべく早めの速度で事務的に読み飛ばしていくのです。儀式ではありますが、作者にとっては「自分はこういうつもりで芝居を書いた・この役はこういう風に演じて欲しい」ということを役者に伝えられる唯一の機会でもあります。本読みが巧いということは狂言作者にとっては大事な素養でした。本読みのせいで役者から物言いが付いてトラぶることもしばしばでした。黙阿弥はこの本読みがとても巧い人だったと言われています。黙阿弥の本読みを聞いて・ある役者が「これは良い役をもらった」と喜んだけれども、実際演ってみるとそんなに良い役ではなかったというような笑い話も残っています。しかし、考えようによっては黙阿弥が本読みした通りにできなかったその役者が駄目だったのではないでしょうかねえ。

坪内逍遥も本読みの巧い人でした。「桐一葉」が初演されたのは明治37年3月東京座でのこと(執筆はそのずっと前で明治27年)ですが、これが歌舞伎が座付き狂言作者以外の外部の作家の作品を上演した最初のこと・すなわち新歌舞伎の最初になります。顔合わせの時に役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者たちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまったのです。なにしろ逍遥は九代目団十郎の大ファンで・片桐勝元に団十郎を想定してこの芝居を書いたのです。団十郎は明治36年に亡くなって・団十郎に上演してもらうことは叶いませんでしたが、逍遥はその団十郎の息で本読みをしたのです。役者たちは「芝居をよく知っている偉い先生だなあ」と感心して・神妙に役を勤める気になったそうです。もし逍遥の本読みが下手だったならば、その後の新歌舞伎の道程は10年かそこら遅れたかも知れません。

逍遥の本読みの録音は結構残っています。早稲田の演劇博物館に行けば「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年10月ポリドール録音)などを簡単に聴くことができますから是非聴いてみることをお勧めします。間合いを取らずにサッサと読んでいるので・芝居っ気というものをあまり感じないですが、勘所においてのリズムの力強さ・抑揚の巧さは逍遥の本読みの確かさを示すものです。一方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)の豪華顔合わせの「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年ポリドール録音)も残っていますが、これを聴くと歌右衛門の台詞はさすがに当たり役のことでもあるし・なかなかのものですが、羽左衛門も中車も脚本の様式を理解せずに自分勝手にしゃべっていてひどいものです。特に中車はこれでいいのかと思うような・旧態依然のだるい台詞回しで・がっかりします。この録音について逍遥が日記(昭和6年6月21日の項)に「試聴してその拙きと・イキの合わぬに呆れる」と書いているので笑えます。まったく逍遥の言う通りです。

三島由紀夫も本読みの巧い人でした。新版・三島由紀夫全集に「我が友ヒットラー」を朗読した録音が収録されています。昭和43年10月に神田駿河台の劇団浪漫劇場事務所での顔合わせで本読みした時の録音です。これもかなり早めのスピードで読み飛ばしていますが・途中でトチるとか・詰まるとか・言い直すとかまったくないもので感心させられます。ヒットラーとレームの対話の口調を変えてみせたりして・役を色分けして、ちゃんと芝居になっています。そこに作者が「この芝居はこうして欲しい」というものが確かに伝わってきます。(三島は歌舞伎の本読みもしましたが、このことについては機会を改めて触れます。)

「自分で書いた台詞なんだからトチらないのは当然だ」と言う方は芝居の台詞の秘密が決して分らないでしょう。台詞が内包する息のリズムを感知して・その通りにしゃべっているから 台詞回しに無理が無い・だからトチらないのです。もちろん上記の場合は自分のリズムから発した台詞をしゃべっているからトチらないということですが、つまり作者にはそれぞれ台詞の独自のリズムがあるということなのです。そのリズムを理解すれば、誰でも無理のない自然な台詞をしゃべることができるし、無理がないから決してトチったり・詰まったりすることはないのです。黙阿弥には黙阿弥の、逍遥には逍遥の、三島には三島の息のリズムがあるのです。究極には作者のそれぞれの息のスタイルを突き詰めるということが演じる者の課題であるべきです。しかし、作家別はともかく・歌舞伎のなかにあるいつくかの様式をおおまかに捉えて描き分けることくらいはしてもらいたいものです。歌舞伎役者はその辺を何でも自分流のスタイルに引き寄せてひと色に処理してしま ういい加減なところがあると思います。しかも、それが役者の味だとか独特の調子だとか言って世間に容認されているわけですから劇評家や観客の方も甘いわけです。そこで本稿においては 大雑把にいくつかの歌舞伎の様式を取り上げて、そのリズムを考えてみたいと思っています。(この稿つづく)

(H21・2・5)


3)内的必然のリズム

リズムを考える時に押さえておかなければならない点があります。音楽では「リズム」・「テンポ」という言葉を通常同じような意味合いで使います。強いて言えばリズムは打ち込み(拍)を意識し・テンポは速度(前進することを前提とした間)を意識しているということが言えますが、これは表裏一体のもので・両者を分けることはできないものです。一般的な傾向としてリズム・テンポという時にメトロノームが打つ機械的な拍子をイメージすることが多いと思います。例えば現代のもっとも優れた指揮者のひとりバレンボイムは次のように語っています。

『問題は今日の音楽批評の世界で自由が語られる時、それは速度の自由・テンポの自由にほとんど限定されていることだ。演奏に対して「彼のテンポは柔軟だった」とか、「とても厳格だった」という批評がなされるとき、それが暗示するのは「彼は厳格だった・それゆえ彼は分析的で妥協がない」あるいは「彼のテンポは柔軟だった・それゆえ彼はロマンティックで感情的だ」ということだ。』(ダニエル・バレンボイム:エドワード・サイードとの対話:「音楽と社会」)

音楽批評がテンポのことに神経質なのは、音楽において客観的に(データ的に)語れる指標がそれしかないせいもあります。フレージングのニュアンスがいかに素晴らしくても・それを「旋律の立ち上がりの何秒目の部分の音色が・・」と言っても所詮印象に留まって・いまひとつその感動を文字で伝えきれないもどかしさがあります。「彼のテンポは・・」・「演奏時間は・・・」と言うと何となく客観的に批評しているような風になります。テンポはメトロノームで計れるからです。もちろんそのテンポの受け取り方は人それぞれですが、論じ合える客観データがあると感じられる。これが批評の根拠になるわけです。ところが批評されるバレンボイムの側からすると、そんなの全然意味ないということになるのです。

ここでの問題はテンポをメトロノーム的な・機械的で一定の・それゆえ客観的な指標としてしばしばイメージすることにあると思います。むしろテンポは心臓の鼓動のイメージで捉えた方が良いのです。同じ心臓のドキドキでも、落ち着いた時はゆっくりと・興奮すれば早く・びっくりした時はいきなり跳ね上がります。同じドキドキでも心理状態によってそれは微妙に伸縮するのです。テンポとは内的世界において相対的であるということです。リズムをそのように考えたいと思います。

演奏が始まったら指揮者は振り出したテンポをそのまま一定に保つものだと杓子定規に考えてはいけません。もちろんフォルム感覚を生み出す根本はそこにあるわけで、テンポが大きく乱れるとフォルム感覚は正しく維持できません。20世紀前半の名指揮者トスカニーニは「イン・テンポ」の代表的な指揮者でした。確かにトスカニーニはリズムの刻みを前面に出し・リズムが生み出す推進力を一貫して維持するので・そのような印象が強くなりますが、実は曲の旋律のさまざまな場面で曲想に応じて微妙にテンポを伸縮させており、メトロノーム的なテンポの維持を決してしていません。それでなければあのようなカンタービレの力強さが生まれるはずはないのです。そのテンポは内的必然において微妙に伸縮するが・その音楽的密度は一定に保たれている・だから「イン・テンポ」の印象が生じるということです。トスカニーニ以後に彼のスタイルを引き継いだ指揮者たちの多くはそのことを表面的に模倣しました。それで「イン・テンポ」は振り出したテンポをそのまま厳格に保つというイメージになってしまったわけですが、先駆者であるトスカニーニは実はそうではありません。

別稿「左団次劇の様式」においてトスカニーニのことに触れました。二代目左団次の芸風はトスカニーニと同時代的に論じられます。二拍子のリズムの刻みを前面に出し・その推進力で一気に駆け抜ける二代目左団次の台詞のリズムも同じように考える必要があります。芝居の台詞が音楽的だと感じることがあります。それは台詞回しに微妙な節付けがされているとか・音程を以って歌うように発声されるから音楽的であるということではないのです。特に黙阿弥の七五調の台詞の劇評などでしばしばそのようなことが書かれますが、その言い方はどこか間違っています。それは台詞と音楽の類似性を外面的な要素として受け取るからです。音楽ではないはずの芝居の台詞が音楽的であると感じるならば、その表現要素のなかに内的な共通項があると見なければなりません。台詞回しの息の内的緊張と・微妙な息の伸縮が一定の相関関係と波長をなしていると明確に感じられる時、その時に観客はその台詞回しが音楽的であると感じるのです。(この稿つづく)

(H21・2・11)


4)リズムをユニットで捉える

リズムを考える時に押さえておかなければならない点をもうひとつ挙げます。それはリズムを刻み(拍)で捉えるのではなく、ユニットで大きく捉えることです。これは音楽の場合で言えば「小節」という場合が多いですが、さらに小節をまとめた「中小節」・あるいはさらに「大小節」という場合があり、さらに大きなまとまりになれば「楽章」・「全曲」にまて至る・そのようなユニットです。

例えばメトロノームの場合で言えば、目盛りを100に合わせた時のテンポは一分間におよそ100拍を打つ速度で・これを「テンポ100」と呼びます。このテンポが数%ぶれたとして、この差異を感知することは実はプロの音楽家でも容易なことではありません。メトロノームの刻むリズムをじっと聴いていると、何だかテンポがだんだん速くなるような錯覚に襲われることがあります。実際・同じリズム・パターンが延々と続く曲では、テンポが次第に上がってしまうということがプロの演奏でもしばしば起こります。こういう場合の対処法は拍の刻みに正確を期することに意識の多くを置かないことで、どちらかと言えば旋律の始めから終わりまでのユニットを一定に保つという意識で演奏することです。次に引用するのは三味線の名人鶴沢道八の言葉ですが、吉之助が言うところのユニットとまったく同じことを道八が語っています。(この問題は曲あるいは芝居のバランス感覚にも通じるのですが、本稿ではリズムに話題を限定します。別稿「芝居のバランスを考える」を参照ください。)

『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」より)

「例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと」、西洋音楽で四分の四拍子と言えば・一小節を一尺として・そのなかに四分音符が四つあるという状態を足取りとするということです。ですからユニットの観点から捉えれば西洋音楽と邦楽が違うと感じたことは、吉之助の場合はまったくありません。西洋音楽の場合はたまたま定間の足取りの意識が強いだけのことだと吉之助は考えます。次に九代目団十郎が六代目菊五郎に踊りの極意を語った言葉を引用します。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)

団十郎の言うところは、ユニットを正確に一定に保つことができるなら・そのなかの刻みを比較的自由に持っても・それで形式感は出せるという考え方です。もちろんこれは決して簡単なことではないので、上手にやらな ければユニット自体のバランスが狂ってきます。こうなると全体の足取りが揃ってきません。しかし、折口信夫が言ったことですが、六代目菊五郎がタンタンタンと踊りこんでいって・舞台の端もうちょっとと言うところでピタリと決めて見せる・この感覚は「菊五郎の科学性」だと言って良いと折口が言っています。それは菊五郎にも折口にも共通した正しいユニット感覚を持っているからです。このことは台詞のリズムを考える時の非常に重要なヒントとなります。(この稿つづく)

(H21・2・17)


5)足取りについて

九代目団十郎の「間(ま)」についての考え方をもう少し考えます。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)

これは一尺をユニットと考えればよろしいのですが、原則的にはそのなかのリズムの割り振りに多少自由度を持たせても・最後に余った長さをチョイと合わせて(足して・あるいは引いて)「一尺にぴったり合わせることができるならば」それで良いということです。ただし、前提となることは踊り手にも・観客にも・そこに共通した「一尺」という感覚が存在することです。そうでないと「やった・決まった」という感覚にはなりません。観客は「あいつは何ヘマやってんだ」と感じることになります。ですからその場に共通のユニット感覚をどう持たせるかということです。結局テンポが速い・遅いという感覚は、何か基準があって・それに比べて速い・遅いという判断になるわけです。ですから、まずその場に居合わせた者(演者・観客)の共通した速度バランスの基準をどう提示してみせるかという問題です。それが足取りの問題ということになります。

『私たちの西洋音楽ですが、人間の声を犠牲にして楽器を強調したために、音楽として語るという私たちの感性はほぼ消し去られていますね。しかし、実際、語られた言葉こそがどんな時でも音楽、純然たる音楽なのです。それは歌の形式です。嘘だと思うならどの時点でもいいから話す速度を遅くしてみれば良い。自分が歌っているのが分かるでしょう。その一瞬に持続するどんな言葉も歌なのです。これは明らかなのですが、過去四・五世紀に渡り、私たちの西洋音楽では、いくつかの効果を加速させて、通常の語りのレヴェルをはるかに凌駕してしまいました。独奏の効果を発揮する場面で名人芸的な楽器を際立たせたことは、アラビア人や中国人が夢にさえ見ない行為でした。彼らはあらゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがりますから。そして今、西洋世界の私たちは、むしろそういう方向に動いていると思うのです。シェーンベルクの業績はその方向における大きな一歩です。』(マーシャル・マクルーハン:グレン・グールドとの対話「メディアとメッセージ」・1965・「グレン・グールド発言集」に収録)

マクルーハンはメディア理論で知られるカナダの文明批評家ですが、同じくカナダのピアニスト・グールドとの対話のなかでマクルーハンはとても重要な指摘をしています。19世紀の西洋音楽は概念的に若干行き過ぎたところがあって、通常の語りのレヴェルを器楽的な効果に従属させようとする傾向があったかも知れません。その概念に現代の我々はどうしても捉われるところがあるので、「音楽的」というイメージをしばしば器楽的な・すなわち五線譜的な考え方で捉えてしまい勝ちです。二拍子は日本のわらべ歌の伝統的なリズムではあるのですが、そのため明治においてはそれがメトロノーム的な二拍子で理解されてしまうことになりました。例えば「鉄道唱歌」・「きーてきいっせいしんばしをー」の二拍子のリズムです。吉之助は現代の黙阿弥の七五調をダラダラ調と呼んでいますが、そのリズムの起源がここにあります。これは七五調を無意識のうちに器楽的な二拍子で捉えているのです。

ですから非西洋音楽においては、マクルーハンが指摘する通り ・「彼らはあらゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがる」のですから、歌舞伎の台詞のリズムを考える時も、台詞のエロキューションを器楽的に捉えるのではなく・もっと柔軟に捉えるべきなのです。そのためにはまずリズムを「ユニット」で捉えること・そしてユニットのなかをある程度自由な息に持たせることです。そうすると大事なのは正しい足取りということになるのです。これがあって初めて歌舞伎の台詞は正しい意味において「音楽的」ということになります。吉之助が本稿で言うリズムとはそういう意味だとご理解ください。(この稿つづく)

(H21・2・22)


6)歌舞伎の台詞のバロック性

ピアニスト園田高弘氏が作曲家諸井誠氏との往復書簡のなかでショパンの演奏法について語っています。園田氏によれば・ショパンの場合・楽譜に記されたリズムは決して一様な形態を意味するものではなく・テンポ指示ですらそのおおよその目安に過ぎない・このことが十分に理解されていないというのです。そのためショパンの装飾音は得てしてあまりにも早くブリリアントに誇張して弾かれるか・単なる装飾音として機械的無味乾燥に弾かれるかのどちらかだと園田氏は言います。その論拠として園田氏は音楽学者ハインリッヒ・シェンカーの「バッハの装飾音について」という考察を挙げています。

シェンカーが言うところは『バッハの作品に向けられる非難のひとつは装飾音が多すぎるということである。これは当時のクラヴィコード(ピアノの原型)の性能の貧弱さから来るものだと一般には考えられている。しかし、時代が下ってショパンやシューマンの 時代のピアノと比較したらどうか。楽器の性能は音量も響きも機能的に格段に進歩したにも係わらず、ショパンの装飾は少なくなるどころか・とてつもなく多く豊かになっている。つまり、これは楽器自体の本来の要求であるのだ。装飾音はクラヴィコード演奏の本質的な要素だと考え・装飾音をそのまま旋律要素と捉えることでバッハの新しい解釈が可能となる』ということです。園田氏はこのシェンカーの説を踏まえて、ショパン演奏の場合でもそれぞれの装飾音はその楽節の意図・表情付けによって、早く・遅く・短く・長く・演奏されるべきであると主張しています。(園田高弘・諸井誠共著「ロマン派のピアノ曲〜分析と演奏」・音楽之友社)

まずシェンカーの主張・ロマン楽派に至って装飾音はますます豊かに絢爛豪華になっていくということは、別稿「バロックに関する対話」でも触れた通り・芸術の変遷をバロック的な要素と古典的な要素の間での「揺らぎ」と見なし、ロマン派芸術は古典派の形式を崩していくことで表現の自由を得るが・次第にそのバロック的な本質が露わに現れるという経過を取るという吉之助の考え方に完全に合致する考え方です。ショパンの旋律の微妙なニュアンスはバロック的な表現要素として捉えることが出来ると思います。

シェンカーの主張でもうひとつ大事な点は(園田氏にとっては当たり前のことなのでこの点に言及していないのですが)、「装飾音はクラヴィコードという楽器自体の本来の要求である」ということです。これはピアノだけがひと りで音楽の世界を作ることができるということです。他の楽器においては無伴奏チェロ・ソナタなどとか若干の例外はありますが・ほとんどピアノなどの共演者を伴う室内楽であり、ひとりで音楽を作ることは唯一ピアノだけが可能なのです。オーケストラのルバート・アッチェレランドがどれほど即興的に聴こえようが・それは入念なリハーサルの産物であり、指揮者が思い付きで極端なことをしようとすればアンサンブルは崩壊してしまいます。ピアニストだけが旋律の微妙な表情付け、早く・遅く・短く・長くを自分だけの意志で自由自在に・しかも即興的に操ることができます。逆に言えばピアノ作品には作曲者の時代の気分を直接的かつ濃厚に盛り込むことができるということです。このことはロマン楽派の作曲家の多くが優れたピアノストでもあったこととも密接に関連します。

長々しく音楽論を前座に置きましたが、台詞は対話の場合ももちろんありますが・役者がひとりでしゃべることが芝居の基礎となるのです。台詞をコントロールで出来るのは、当たり前のことですが・役者その人しかあり得ません。ですから俳優(歌舞伎役者だけではなく)は台詞を音楽的に響かせるためには台詞の意味と息を理解し、それに応じた微妙な表情付けを早く・遅く・短く・長く付ける技術を修得せねばなりません。それがすなわち台詞のエロキューションの問題ということです。こうすることでバロック的な歌舞伎の本質が台詞のリズムに現れます。

逆に言えば「台詞をコントロールで出来るのは役者その人しかない」ということに落し穴があるわけです。それはしばしば独りよがりに陥ってしまう危険性があるのです。折口信夫が指摘した通り、日本の演劇では台詞のエロキューションの問題が伝統的になおざりにされてきました。歌舞伎においては台詞のエロキューションをフォルム(様式)という概念で理解する習慣が欠けています。作者・成立年代によってフォルムを明確に演じ分けるというところまではとても至っていません。今の歌舞伎役者が持っているのはせいぜい幕末歌舞伎の様式のいくつかで、それらを巧く使いこなしながら切り抜けているのが現状のところです。しかし、実のところは様式ということならばすでに黙阿弥でさえ様式として正しく演じられない事態にまで歌舞伎は至っています。(このことについては後で考えます。)新劇においては歌舞伎(旧劇)を否定することにやっきになっているうちに・様式の否定が写実だという誤解を無意識のうちにしてきました。ですから新劇からアングラに至るまで多くの俳優がただ早口で怒鳴っているような印象です。さすがに主役級にはまともな方がいますが・それはご本人の素養がたまたま良かったからで、台詞訓練として理論系統立ったものは確立されていないようです。こういう集団のなかに歌舞伎の方が入ると・もう歴然とした力量の差を感じますが、それは歌舞伎役者が完璧でないにしても演技様式をそれなりに持っているからです。しかし、折口の言う通り・「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどうすべきか」ということを考えるならば、台詞のエロキューションは避けて通れない問題になるわけです。(この稿つづく)

(H21・2・28)


7)あらかじめ失われたもの

「歌舞伎素人講釈」では19世紀末西欧で流行したジャポニズムは単なる物珍しさ・エキゾキシズムからのものではなく、「江戸の精神的状況が19世紀の西欧の状況を先取りしていた・だからこそ江戸の芸術が彼らにとっての道しるべとなった」ということを提唱しています。(別稿「19世紀における西欧芸術と江戸芸術」をご参照ください。)このことは逆に言えば19世紀西欧の精神状況と・17世紀日本の精神状況がある点において相似形となっていることを意味します。ですから歌舞伎の表現のある部分を・逆にロマン派芸術での事象から読み解くことも可能だということです。なぜそうなるのかと言えば、どちらも同じ心情から発する芸術であるからです。だから歌舞伎を論じるなかでオペラを引き合いに出すことは吉之助のなかでは必然性があるわけです。

まず19世紀西欧芸術についてちょっと考えます。吉之助は産業革命とフランス革命によって西欧の人々の生活・精神状況が劇的に変化したことが、19世紀のロマン派芸術に大きな影響を与えたと考えています。例えばフランスの中世史家ジャック・ル・ゴフは中世は19世紀初めに終わると言う「長い中世」の概念を提起しています。その理由をル・ゴフは「この頃まで人々の生活はほとんど変わっていないから」と言うのです。(ジャック・ル・ゴフ:「中世とは何か」・藤原書店)19世紀西欧の精神状況は大体次のようにイメージできます。ひとつは人権思想により・人々のなかに権利と自由の意識が目覚めたことです。その一方で産業の発展により人々がパーツ扱いされる要素が増えてきました。またウィーン体制後の西欧は一気に反動化して・とても窮屈になっていきます。この相反した要素が強いストレスを生み、「得られるはずだったものが失われてしまった」という感情を引き起こします。フランス革命以前の古典派芸術においては「未だ得られないものに対する憧れと希望」があり、フランス革命以後に急速に反動化する時代にあるロマン派芸術においては「あらかじめ失われたものに対する失望と諦め」があるのです。この心情は19世紀から20世紀になって更に強くなっていきます。この心情が音楽・特にリズム面にどのように反映されるかは・これから本論で検討していきます。

一方、江戸芸術の場合は江戸初期のかぶき者の「生きすぎたりや」という心情がその契機となります。それは「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺が生きるべき時代ではない」という失望と諦めの感情です。(別稿「いきすぎたるや」を参照ください。)安土桃山期のダイナミックな変革な機運が江戸期になって急速に冷え込み・社会が固定化していきます。つまり江戸のかぶき者が求めるものは「あらかじめ失われたもの」です。江戸の若者の心情は19世紀西欧の精神状況ととてもよく似ており、時代的に見ればそれは100〜150年程度早いことになります。もちろん西欧の音楽と日本の歌舞伎とは表現技法が異なることはもちろんです。しかし、その表現ベクトルが向く方向は 「あらかじめ失われた・生き過ぎたるや」という心情であり、同じ心情が反映する芸術はその気分において似ることは間違いありません。人間の感じることなんて古今東西そう変るものではないのです。(この稿つづく)

(H21・3・8)


8)かぶき的心情のリズム

作家五木寛之氏が「現代は鬱の時代である」ということを最近よく仰っています。五木氏は『鬱病と言えば・何をやるにも気が滅入るとか・やる気が出ないとか・とかくマイナスイメージで考え勝ちですが、「鬱」という字は鬱蒼たる森林とか・鬱乎たる噴煙とか、物事が盛んに湧き上がる・エネルギーが内部に沸々としているようなホットな状態を言うのである、自分は鬱だなどと言う方はその胸のなかに秘めた心情が強くて・ただそのエネルギーの持って行き場所が見つからないので悩んでいるだけで、それは決して異常なことではない」ということを講演会で仰っていました。これは非常に大事なことで、ロマン的心情の「求めているものが既に失われてしまったという思い」あるいは「生き過ぎたるやという思い」も決して投げ槍な・捨て鉢な気分なのではありません。それは何かの障壁があって自分の生きる意味が容易に見出せない・そのために自分のなかの旺盛なエネルギーを振り向けていく方向をなかなか見出せないという状態なのです。それが憤懣となって・時として奇矯な行動になって現れたりします。したがって、そのようなロマン派の時代の気分は芸術作品には後ろから背中を押されるようなイライラした急いた気分・どこかしら落ち着きがない・一箇所に止まることがないソワソワした気分になって現れます。

吉之助は ロマン的心情の典型的な作曲家はロベルト・シューマンであろうと思います。ロマン派の芸術家はその時代(19世紀)の鬱の心情を描き出すために・ある意味での狂気を必要としました。狂気を得るためにベルリオーズは阿片に走ったりしましたが、しかしベルリオーズはやっぱり正気の人でした。シューマンは必死で正気に留まろうとして、ついに狂気に引きずりこまれた人でした。その意味でシューマンは最もロマン的な心象を持つ作曲家でありました。ところで若きシューマンの作品に「謝肉祭」作品9があります。作曲は1834年から35年ですから、1810年生まれのシューマンの二十代半ばの初期の作品です。この「謝肉祭」は20曲の小曲が連なって・カーニバルの仮装のように次々と表情を変えて繰り広げられるパレードのような作品で、これは吉之助の大のお気に入りです。その「謝肉祭」の第12曲に「ショパン」と題される夜想曲風の短い曲があります。これはシューマンが高く評価した 同時代のピアニスト・ショパンに対する尊敬の表れです。この楽譜冒頭にシューマンが「アジタート」と指定を記しています。「アジタート」とは「気ぜわしく」あるいは「急き立てるように」という意味です。具体的には微妙に速くなっらり遅くなったりする波のようなリズムのことですが、音符でその微妙なところを記載できるものではありません。それでシューマンは楽譜にアジタートと記しているのです。(別稿 「吉之助の音楽ノート・シューマン:「謝肉祭」をご参照ください。)

吉之助がとても興味深いと感じるのは、この第12曲「ショパン」が醸し出す揺れるような気分をシューマンが「アジタート」と記したことです。普通に「気ぜわしく」・「急き立てるように」と言うのならばもっとグイグイと力で押すような曲想をアジタートと指しそうに思います。例えば「クライスレリアーナ」作品16の冒頭の速いテンポでうねるような旋律をアジタートというのならば、それはよく分かる気がします。これももちろんアジタートなのですが、この「ショパン」のような微妙な波のようなリズムをシューマンがアジタートと呼んだということが吉之助のとても新鮮な衝撃でありました。そのような視点で改めて「謝肉祭」を聴くと、シューマンは別にアジタートと記しているわけではないですが、吉之助には「気ぜわしく」あるいは「急き立てるように」聴こえる箇所が「謝肉祭」には随所に出てきます。付点付き音符で飛び跳ねるようなリズム(「アルルカン」や「踊る文字」)、突然断ち切るようにフォルテで切れる旋律(「ピエロ」や「コケット」)、押しては引きながら次第に高まっていき・また引いていくリズム(「キャリーナ」)、突然急加速するリズム(「フィリスティンたちを討つダヴィッド同盟の行進」の中間部)などです。もちろんシューマンの作品の随所に同様の表現が見られますし、さらにはその後のロマン派の作品にはこのような表現が頻発してきます。

音楽に興味ない方は細かいことは気にせずに「歌舞伎素人講釈」が提唱するかぶき的心情とはまさにロマン的心情であり、その気分はアジタートなリズムによって表現されるということを要点として理解して欲しいと思います。アジタートなリズムに一定なものがあるわけではありませんが、その代表的なパターンは急加速(あるいはその反対としての急減速)、急停止・あるいは急に大声を出して切る、遅くなったり・速くなったりしてリズムが揺れる、ピョンピョン跳ねる、グイグイ押すなどです。以後の章において歌舞伎の台詞のなかにそのようなリズムの表れを見ていきたいと思います。(この稿つづく)

(H21・3・16)


9)台詞の基本は写実である

歌舞伎の台詞のなかのリズムのアジタートな要素を考える時に留意すべきことがいくつかあります。ひとつは手垢が付いた現実の舞台での役者の台詞に惑わされないで、作者の書いた台本の台詞とその言葉・それだけを考察の手掛かりにすることです。これは現代の役者の台詞回しが間違っているということではないのですが、何らかのバイアスが掛かっていることも事実なのです。ですからあの役者の台詞回しに感激したからそれが絶対正しいなどと思い込まない方が良いと思います。作者が台本に書き記した言葉がそう発声して欲しいと望んでいるところの・自然な抑揚とリズムをまず虚心に検証して・そこから現代の役者の台詞回しを見直してみれば、現代の役者の様式の引き出しが意外と狭いということにお気付きになると思います。それらは遡ってもせいぜい幕末辺りまでのテクニックなのです。

もうひとつは芝居の台詞の根本を常に写実(リアル)の方に置くべきであるということです。芝居の台詞は決して音楽ではありません。「台詞を歌う」ということがよく言われますが、台詞が音楽的であることは望ましいことですが、台詞がリズムや音調に支配されるならば・それは本末転倒です。様式化したリズムや抑揚のために台詞が観客に言葉の意味を正しく伝えられないならば、まったくナンセンスです。ですから言葉が内的に望んでいる抑揚とリズムを役者が感じ取って・そこから言葉が自然に涌き上がってくる時に、台詞は観客に意味を正しく伝えることができ・また音楽的な感興を与えることが出来るのです。それが出来ないならば役者は台詞を音楽的にしようなどと思わずに、むしろひたすらリアルに徹した方が良ろしいのです。ですから台詞の意味を無視して杓子定規にリズムに台詞を当てはめようとしてはなりません。ところが現実の舞台では器楽的な様式概念のなかに歌舞伎の台詞を押し込めたような台詞回しをしばしば耳にします。吉之助がダラダラ調と非難するところの七五調の台詞回しなどはその典型です。そのようなことにならないために芝居の台詞は写実(リアル)が根本であることを肝に命じておく必要があります。

「歌舞伎素人講釈」は「歌舞伎はもともと写実を志した演劇であったが・それが女優を奪われることによって写実の本質が裏切られた演劇である」ということを重要な史観としています。歌舞伎という演劇自体が「生きすぎたりや」というかぶき者の気分を根底に強く持つ演劇だということです。それはかつて失われた写実の理想を求めつつ・それゆえにやむを得ず様式化するのです。ですから歌舞伎の台詞は内的には常に写実を志向するものです。それが非写実の要素(すなわち様式)に引っ張られることにより引き裂かれます。歌舞伎の台詞のなかのリズムのアジタートな要素はこのことを示すものです。

本稿ではほぼ時代に沿って歌舞伎の台詞を順に検討していきますが、ひと口に江戸時代と言っても1603年(慶長8年)〜1867年(慶応3年)までの長い期間ですから、江戸時代がずっと一様な鬱の状態にあったわけではなく、その鬱の気分にはとてもゆっくりした波があるのです。鬱の状態が強い時期もあるし・そうでない時期もあって、その波がゆっくりと交互に来ます。またその症状はいろいろな現れ方をします。例えば元禄期は鬱の状態が強いと 吉之助には感じられます。ところが同じく町民文化の隆盛期であるとされる文化文政期の方は鬱の症状が軽いと感じれます。文化文政期は多少躁の気配さえありますが、まあこれは鬱の裏返しと考えられなくもありません。そのような 時代の気分の違いが近松門左衛門と鶴屋南北の作品の対比から浮かび上がってきます。これは同時代の絵画や文学などさまざまな事象を俯瞰することでさらに裏付けられるでしょう。その時の政治・経済などの状況を踏まえながら・その時代の気分を読んでいく必要があります。芝居は興行ですから、時代の気分を敏感に反映するものです。芝居の台詞のリズムもまた時代の気分を映し出すのです。(この稿つづく)

(H21・3・21)


10)中休み・「アジタートなリズム」成立の背景

ただいま連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」は、その構想自体は本サイトを始めるかなり以前から吉之助のなかにあったものです。しかし、歌舞伎の台詞を西洋音楽視点で解析する手法は既成概念からすると突飛な発想ですから・サイトで発表する素地がまだできていなかったのと、歌舞伎の様式をひとまとめにするキーワードが見つからなかったので、これまで掲載を見合わせていました。吉之助がキーワードを「アジタート」とすることに決めたのは平成18年秋のことで、その後・平成20年春に「歌舞伎の台詞のリズム論」の新歌舞伎の項が「左団次劇の様式」として出来上がりました。「左団次劇の様式」はもともと「歌舞伎の台詞のリズム論」のなかで時代順に様式を並べた・その最終章になるはずだったものでして、それが分量が多くなったので先に独立して出来上がったものです。新歌舞伎のリズムが比較的単純なので・様式的に解析がしやすかったこともあります。その後・本サイトに歌舞伎とオペラの対比など西洋音楽関連の記事もかなり増えてきたこともあり、そろそろ「歌舞伎の台詞のリズム論」を書く環境も十分出来上がったということで、今回の連載に踏み切りました。したがって本来は現在連載中の「アジタートなリズム」をお読みになってから・「左団次劇の様式」を読んでいただけば、初代団十郎の荒事の台詞から二代目左団次の新歌舞伎の台詞まで・歌舞伎の台詞の様式すべてが「アジタートなリズム」の概念の周囲を展開していることが見えるように全体が構想されているわけです。

キーワードを「アジタート」に決めたのは平成18年秋と申し上げました。そのきっかけは当時NHK教育テレビで放送されたミッシェル・ダルベルトによる「スーパー・ピアノ・レッスン」です。この時のレッスンでダルベルトはリストのロ短調ソナタや・シューマンの「謝肉祭」などを取り上げました。これは吉之助にとってとても得るところのあった番組でしたが、その「謝肉祭」の第12曲「ショパン」でのことです。生徒の方がこの部分をほぼイン・テンポで弾き出し始めたのです。楽譜では波のように上下するノクターン風の左手の伴奏が八分音符の流れで示されています。この部分を楽譜通りに素直に弾いたわけです。するとダルベルト先生がそれを制して、「この曲はシューマンのショパンに対する尊敬を表しているのですが、あくまでシューマンの視点から見たショパンなのですから・ショパンのノクターンのように弾いてはいけません。そこにシューマン的な気質が表われなくては。そのヒントが楽譜冒頭に記されたアジタートという表記ですよ。」という意味のことを言って、「ショパン」冒頭を弾いてみせたのです。これがゆっくりと速く遅く・揺れる波のように動くリズムです。その瞬間に吉之助の脳裏に「アジタート」で歌舞伎の台詞の様式すべてがひとまとめに出来るというアイデアが閃いたわけです。

*YOUTUBEの映像でミッシェル・ダルベルトの弾く「謝肉祭」をご覧ください。「謝肉祭」のなかの最後の2曲・「休息」から「フィリシテ人と闘うダビッド同盟の行進」。かっきりとした枠組みのなかに・アジタートな気質を感じさせる・これは素敵な演奏です。ダルベルトはフォルム感覚がしっかりした良いピアニストですね。残念ながらダルベルトの「謝肉祭」はCDになっていないようです。

別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」は本サイトの最初期の論考になりますが、ここで(7)の部分を早く・(5)をゆっくりの繰りかえしのリズムが「七五調」の基本リズムであることを考察しました。実はこれはシューマン:「謝肉祭」の第12曲「ショパン」のアジタートなリズムとまったく同じパターンなのです。揺れるリズムは幻想的で優雅なイメージで捉えがちですが、実は緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分を表しています。つまり強度としてはごく弱いものですが・慢性的かつ持続的なアジタートなのです。これが揺れるリズムのイメージです。その典型的な形式は「舟歌(バルカローレ)」でいろんいろな作曲家が舟歌を書いています。最も有名な舟歌はもちろんショパンのものです。とても魅力的な作品ですね。歌舞伎の台詞で言えば・もちろんお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」です。ゆったりと流れる隅田川の川面に映える月の光のユラユラする場面を想像しながら「月も朧に白魚の・・・」を呟いてみてください。これがホントの黙阿弥の七五調のリズムなのです。しかし、現実の歌舞伎の舞台でそのような川面に揺れる月の光を感じさせるお嬢吉三を、残念ながら吉之助は見たことがありません。揺れるリズムは吉之助の頭のなかだけで響いています。(この稿つづく)

(H21・3・22)


11)急き立てる台詞

元禄の江戸歌舞伎の名優・初代市川団十郎は江戸に於いて金平物で大人気を博しましたが、団十郎はその勢いを得て元禄七年(一六九四)に京都に上り村山座で荒事芝居を演じました。しかし、京都の観客の評判はあまり良いものではありませんでした。当時の評判記「役者口三味線」は初代団十郎の台詞廻しを次のように伝えています。

『物いはるるに息つぎ急はしく、じゅつなそうに見えて気の毒。』

「じゅつなそう」というのは台詞の技術がないという意味です。京都の観客には初代団十郎の台詞は早過ぎて落ち着かない・拙い感じに聞こえたようです。当時の上方と江戸では話言葉のアクセントもイントネーションも相当違っていたと思われます。京都人には初代団十郎の台詞廻しが実際以上に早口に感じられたかも知れません。ここで「物いはるるに息つぎ急はしく」と記されていることに注目したいと思います。翻って時代は変わりますが、大正時代に新歌舞伎を創始した二代目市川左団次の台詞廻しを久米正雄は次のように評しています。

『人は左団次の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と云う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻み方に於いて、吾々のそれとぴたりと合致する。(中略)息の刻みだけで吾々を捉へずには置かない。』(久米正雄:「左団次の信長」・『演芸画報』・大正九年二月)

二代目左団次の台詞は録音も残っていますが、いわゆる棒に読む感じの台詞廻しに感じられます。その二代目左団次の台詞を久米正雄は「一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く」と書いており、ここに「焦き込みがち」という表現が出てきます。この点に注意をしたいと思います。

およそ二百年の時を隔てたふたりの名優の台詞廻しについて触れました。そこにある共通の表現(イメージ)は「気ぜわしく・焦き込みがちで・急き立てるような台詞」と言うことです。どちらの名優にも早口で・どこかしらセカセカした気分があったということです。このことは初代団十郎・二代目左団次というふたりの役者の個人的な特徴に過ぎないと簡単に片付けるわけにはいきません。初代団十郎は三升屋兵庫という筆名を持ち・脚本まで書いていました。だから、その台詞廻しは団十郎の作品の台詞に直接的に反映したはずです。二代目左団次についても・多くの作家たちが二代目左団次に演じてもらうために(つまり二代目左団次を想定して)作品を書いたのです。だからその作品の台詞廻しは初代団十郎については元禄歌舞伎(荒事)の・二代目左団次については新歌舞伎の・それぞれの様式(フォルム)の根本をなしていると考えられます。

武智鉄二は歌舞伎の演技様式はおおよそ12あるとしました。歌舞伎は異なった演技様式の集合体なのです。そこで本稿では約二百年の時を隔てた歌舞伎の創成期(初代団十郎)と最終期(二代目左団次)のふたりの名優を結びつけるキーワードとして「急き立てるリズム」を想定してみることにします。そして、このふたりの名優を結んだ直線上に・すなわち「急き立てる気分」のイメージの上に歌舞伎の台詞のすべての様式が乗ってくるということを考えてみます。遠くから眺めてみれば・それらは急きたてる気分・すなわちアジタートな気分によって括ることが出来るわけです。(この稿つづく)

(H21・3・30)


12)荒事の台詞

初代団十郎が14歳で「四天王稚立(してんのうおさなだち)」の坂田金時を演じて大当りを取って劇界にデビューしたのは寛文12年(1672)のことでした。かぶき者の最後の時期に当たります。その少し前のことですが・寛文4年(1664)に旗本奴の代表と言うべき水野十郎左衛門が切腹を申し付けられました。評定に呼び出された十郎左衛門は髪も結わず白装束で席に着いたため、お上を恐れる振る舞いであると即日切腹を命じられたのです。かぶき者は江戸初期に都市部で流行した異風を好み・派手な身なりで・奇抜な行動に走る者たちのことを言いますが、この頃から幕府のかぶき者の弾圧が強化されていき・元禄期にはかぶき者の姿は見えなくなりました。

別稿「荒事における稚気」において・「荒事芸は童子の心を以て演ずべし」という口伝は何を意味するかを考えました。荒事に見られる「稚気」には、かつてかぶき者の過剰さが人々に愛された時代の名残りがあるのです。元禄の初代団十郎の時代にはかぶき者は既に姿を消していますが、芝居のなかのかぶき者に「元気の素」がまだしっかり残っているのです。初代団十郎の初演 (元禄10年・1697・初演外題は「大福帳参会名護屋」)に始まる「暫」の鎌倉権五郎は奇怪千万なメーキャップと衣装で虚仮脅しをしていますが、そこに自分の過剰さが観客に愛されているという甘えが見て取れます。それが童子のイメージに繋がる要素です。童子のイメージから祭祀性が照射されます。権五郎は揚幕の方まで下がってくれと言われて「嫌だ」と拒否しますが、「イーヤーダー」と幼児がダダをこねるように高調子で言います。「睨み殺すぞ」というような台詞も・リアルに言わないで、「ニラミコーロースゾー」と子役の台詞みたいにわざと棒に言ってみたりします。かぶき者である自分の気風が観客に愛されているという確信があるから、観客に媚びているのです。そして観客もそれを許す。そこにかぶき者にとって古き良き時代の記憶があるのです。それは楽しかった過去の幼児期の記憶のようなものです。

と同時に芝居のなかのかぶき者は「今は俺の時代ではない(俺の時代はとっくの昔に過ぎ去ってしまった)」という憤懣を感じてもいます。そうした焦燥感・イライラ感が荒事の台詞にしばしば現れます。急に大声を張り上げる・あるいは急に台詞の速度を上げて勢い良くまくしたてるという表現などです。音楽で言えば・いきなりバーンと大音量 を立てて旋律を立ち切って聴衆を驚かせる。猛烈なアッチェレランド(急加速)で聴衆を急き立てるということです。これがアジタートな表現の典型的な例です。

二代目団十郎の初演(正徳3年・1713・初演外題は「花館愛護桜」)に始まる「助六」で言えば、助六が花道から本舞台へ行く時の「どうでんすなどうでんすな。いつ見ても美しいお顔揃い。そんならぶつしけながら割り込みましょうか」という台詞は「どうですんな」の頭の箇所にアクセントを付けて大きく張り上げて、セカセカとしたテンポで一気にまくし立てないと引き立ちません。セカセカしたテンポにかぶき者の竹を割ったような性格が現れます。花魁たちに煙管をたくさんもらった助六が言う「このようにめいめいご馳走に預かりましては、しんぞ火の用心が悪うごんしょうえ」という台詞もセカセカと一気に言い、「悪うごんしょうえ」では急に大声を張り上げて見栄を張ります。

『なんとキツイものか。大門へぬっと面を出すと、仲野町の両側から馴染みの女郎の吸い付け煙草で煙管の雨の降るようだわ。昨夜も松屋の店へちょっと腰を掛けると、五丁町の吸い付け煙草で、誓文、店先へ煙草を蒸籠(せいろう)のように積んだ。女郎づかを握る者は是でなければ嬉しくねえ。大尽だなぞと大きな面をしても、こういうことは金づくじゃならねえ。そこな撫で付けどの、誰だか知らねえが煙草が用なら、一本貸して進じょう。サア、持ってござらぬか、どうでんすな・どうでんすな』

この助六の 台詞ではベリベリと早口で・全体にセカセカした気分が漂っており、急に声が高くなったり・大声になったり、しかも台詞がブツブツと切れます。「煙管の雨が降るようだわ」というカツンと頭に当たるような高い音への飛躍、「どうでんすな・どうでんすな」と強くブツブツ切れる台詞。誰かにこのイライラをぶつけなければ納まらないような気分に満ちています。まさにアジタートの表現です。このような助六の台詞のアジタートのリズムが表現するところのイライラした気分は意休に対する助六の敵意を示すものですが、それと同時に当時のかぶき者の抑圧された鬱屈した気分を表現してもいるのです。(この稿つづく)

(H21・4・5)


13)荒事の台詞・2

歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。

『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々 ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』

*荒事の台詞のリズムの基本イメージは二拍子です。ただし、これだけでは台詞が単調になりますから、後にリズムの緩急・音の高低・音量の増大を極端につけて・それでアジタートな変化をつけるのです。荒事らしくなる要素はこの極端な変化にあるのですが、それも基調の二拍子があるからこそ・その変化が生きるのです。

この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調にな りますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。

この大福帳のツラネのテンポ設計は「勧進帳」の弁慶の勧進帳読み上げの最後の部分にそっくりそのまま当てはまります。現行舞台の「勧進帳」読み上げはどれも実事の色が勝ち過ぎで・荒事だということがどうも感じられませんが、この台詞は「・・蓮華の上に座せん」までをタンタンタンのリズムで一気に言って、そのあとテンポをぐっと落として「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げるのです。

『一紙半銭奉財の輩は、現世にては無比の楽を誇り、当来にては数千蓮華の上に座せん。帰命稽首、敬って申す。』 (「勧進帳」弁慶の読み上げの最後の部分)

「勧進帳」は天保11年(1840)に七代目団十郎が初演したもので、初代・二代目得意の荒事に発する歌舞伎十八番のなかで成立年代がかけ離れ、作風においても異質に思われるかも知れません。しかし、七代目が「勧進帳」を歌舞伎十八番の内と位置付けたことは、この作品が荒事の系譜を引くということを意味するのです。「勧進帳」が荒事であることの証(あかし)は随所に見えますが、そのひとつの例が勧進帳読み上げです。それは「暫」のツラネの様式を踏襲するものであり、元禄歌舞伎の「しゃべり」の技術をそこに再現しようとした意図が明らかです。さらにつづく弁慶・富樫の山伏問答でその技術的・演劇的発展を試みることになります。(この稿つづく)

(H21・4・15)


14荒事の台詞・3

「勧進帳」の山伏問答は原作であるところの謡曲「安宅」にはないものです。七代目団十郎は当時講談で呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させて、これを「勧進帳」のなかに取り入れました。団十郎の意図は「勧進帳」に更なるドラマ性を盛り込むとともに、そこに元禄歌舞伎の伝統である「しゃべり」の技術を応用することにありました。市川家の家の芸(荒事)を標榜するためだけなら、団十郎は「御贔屓勧進帳」の芋洗いの弁慶を演じれば・それで良かったはずです。その案を団十郎が採らず、弁慶を単なる荒事のキャラクター以上のものに仕立てたということは、元禄の時代遅れの荒事(天保期には荒事は 既にそのようなイメージで見られていました)ではない・新しい時代の荒事を七代目が意図したということです。ですからこの芝居のタイトルが原作と同じ「安宅」ではなく「勧進帳」であるということ・さらに歌舞伎十八番の内を名乗ったということは、勧進帳読み上げとそれに続く問答こそ「勧進帳」の核心であることを示すものです。

山伏問答のテンポ設計については別稿「勧進帳は音楽劇である」で考察しました。全体的なイメージはだんだんと速度を上げていくアッチェレランドと考えて間違いありません。しかし、「しゃべり」の本質は写実性にあるわけで、前述した通り・弁慶の問答のタンタンタン・・のリズムを決めるところが話し言葉の原型を持つ箇所です。ですから弁慶の台詞のテンポが変化するのではなく、テンポの変化は富樫が押していくことで作るものです。富樫が押したテンポを弁慶が受け取って答える。さらに早めたテンポで富樫が問うて、そのテンポを受け取って弁慶が答えるという形です。そうやって問答のテンポが段階的に上がってきます。互いに息を詰めて間髪入れずに問答する気合いが必要なのです。現行の歌舞伎の舞台のように富樫の問いに弁慶が「・・・ううむ」とうなずいて鷹揚に構えた返答をしたり、富樫の方も弁慶の返答に対して「・・・なるほど・・それならば次の問いを・・」という感じで間を置いて質問するのでは「音楽」にはなりません。

アッチェレランドは急き立てる(アジタート)な感覚の典型的なパターンです。山伏問答の最高潮は富樫「出で入る息は」・弁慶「阿吽の二字」の箇所になります。ここで最速ギアに入っていた問答が弁慶の甲高い大声で急ストップが掛かります。これがまさに荒事らしいアジタートな表現です。しかし、ここで富樫も負けていません。「そもそも九字の真言とはいかなる義にや事の次いでに問い申さんササ何と何と」、速い速度で息を継がずに一気に言い切って・弁慶を追い込まねばなりません。このテンポの急転変転自体がドラマなのです。

次の弁慶の「九字の大事は神秘にして・・・」以下の長台詞は読み上げと同じくツラネの伝統を引いていることは言うまでもありません。そして「あなかしこあなかしこ大日本の神祇諸仏菩薩も照覧あれ・・」から最後までギアをいきなりトップに入れて、これは体操の床運動演技のフィニッシュとでも言うべきものです。そして「かくの通り」で声を甲高く裏に返して決めてみせれば、それでこそ荒事の山伏問答なのです。そこにアジタートな感覚が出てくるのです。現行の歌舞伎は 山伏問答を対話劇だと考えていると思います。もちろんその要素はあるわけですが、そちらの方へ傾き過ぎると意味が通る問答にはなっても・荒事のアジタートな感覚が出てこないのです。アジタートな感覚は台詞のテンポが生み出すものです。言葉の意味が生み出すのではありません。読み上げ・問答にテンポ設計がなければ「勧進帳」が歌舞伎十八番(荒事)であることの意味が見えてこないわけです。(この稿つづく)

(H21・4・19)


15)荒事の台詞・4

初代団十郎の台詞廻し「物いはるるに息つぎ急はしく、じゅつなそうに見えて気の毒」と評され、その約200年後の二代目左団次の台詞回しも「一本調子で焦き込みがち」と似たようなことを言われたことは先に触れました。別稿「左団次劇の様式」において左団次が創始した新歌舞伎様式について考えました。左団次劇の台詞は「強・弱」でタンタンタン・・とリズムを刻んでいくのが基本イメージになります。これは荒事の台詞の「しゃべり」のリズムと感じがとてもよく似ています。例えば「助六」でのツラネは厄払いの様式をとっており、台詞は緩急が付きますが・部分的に早めの四拍子(四拍子は二拍子 を細分化したものです)でタンタンタン・・・と畳む箇所があります。関東方言は頭打ち(拍の頭にアクセントが付く)になるので、「強・弱」の四拍子のリズムになっています。そのリズムにいきり立つ男達(おとこだて)の気分が現れています。同様に「修禅寺物語」の夜叉王の幕切れの台詞にも高揚した気分を一気に吐き出そうとする「強・弱」」(trochiaic)のリズムなのです。

(助六)「遠くは八王子の炭焼売灰の歯っ欠け爺い、近くは山谷の古やりて梅干婆ァに至るまで、茶呑み話の喧嘩沙汰、男達の無尽のかけ捨て、ついに引けを取ったことのねえ男だ」(トオ/クハ/ハチ/オウ/ジノ/スミ/ヤキ/バイ/タンノ/ハッカケ/ジジイ/チカ/クハ/サン/ヤノ/フル/ヤリテ/ウメ/ボシ/ババ/アニ/イタル/マデ/チャノミ/バナ/シノ/ケンカ/ザタ/オトコ/ダテノ/ムジ/ンノ/.カケ/ステ/ツイニ/ヒケヲ/トッタ/コトノ/ネエ/オト/コダ )

修禅寺物語)「神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれ天下一じゃのう。』(カミ/ナラ/デハ/シロシ/メサ/レヌ/ヒトノ/ウン/メイ/マズ/ワガ/サクニ/アラ/ワレ/シハ/シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●/イズノ/ヤシャ/オウ/ワレ/ナガラ/アッ/パレ/テンガ/イチ/ジャ/ノウ)

この類似は元禄の荒事が表現するところの時代の空気と、左団次の生きた大正・昭和の空気がその閉塞した気分において似通っているところから来るのです。民権運動や大正デモクラシーで個人の意識が高まっていたにもかかわらず・国家の締め付けが急に強くなり・世相は戦争の方に大きく傾いて行きました。そのような大正から昭和にかけての時代の閉塞感が、元禄のかぶき者のイライラした気分ととても良く似ているのです。そのイライラした気分は、この胸のなかに詰まった熱い心情を一気に吐き出さずにはいられないという・切迫したリズムになって現れます。その基本イメージはタンタンタン・・と畳み掛けるような早いリズムです。周知の通り・左団次は新作歌舞伎を次々と上演すると同時に、「毛抜」や「鳴神」など歌舞伎十八番の復活にも力を尽くしました。歌舞伎十八番の復活は古典が苦手な左団次劇団のレパートリー開拓のための窮余の策であったみたいなことを書いている論考もありますが、そうではありません。荒事が様式的に左団次の体質に似合っているジャンルであったからこそ・それは左団次のレパートリーに取り入れられたわけです。そのことが台詞のリズムの類似から見て取れます。(この稿つづく)

(H21・4・24)


中休み:「阿吽の二字」

連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズム・その14・荒事の台詞」において「勧進帳」の富樫と弁慶の山伏問答について考えました。そのなかで「山伏問答の最高潮は富樫「出で入る息は」・弁慶「阿吽の二字」の箇所であり、ここで最速ギアに入っていた問答が弁慶の甲高い大声で急ストップが掛かる・これがまさに荒事らしいアジタートな表現である」ということを書いたわけです。「阿吽の二字」で急ストップ・ということは「ニジッ」と強く言い切るということでして、「二ィジィー」と長く引き伸ばさないということです。

一昨日届いたばかりの歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評・42」を読んでましたら、次のような中村梅之助の発言が載っていました。梅之助の父・翫右衛門は富樫を得意としましたが、梅之助が弁慶を初めて勤めた時に「俺は弁慶をやっていないので・教えるわけにはいかないが・相手役の富樫の立場から見て弁慶の大事なところをこれから話す・・」と言って教えたそのなかで、「出で入る息は」・「阿吽の二字」と切るんだ、そうすると「そもそも・・」の前に息を吸えるんだ、「二字ー」と伸ばすと富樫が息を吸えなくなっちゃう・と翫右衛門は語ったということです。(中村梅之助:「前進座の戦中・戦後」)期せずして翫右衛門に吉之助の説を裏付けしていただいたわけで、心強いことです。吉之助は残念ながら梅之助の弁慶を見たことがありませんが、「阿吽の二字」を強く言い切った素晴らしい弁慶だろうと想像します。

「阿吽の二字」を強く言い切らねばならぬのは、荒事の台詞の基本イメージとして二拍子(細分化すれば四拍子)のリズムからすれば「アウ/ンノ/ニジ」となるのですから、「ニジ」を中途半端に伸ばせばリズムが余るし・「二ィジィー」と長く伸ばせば気が抜けることを考えれば、台詞を読めばそれは簡単に分かることだと思います。しかし、松竹の歌舞伎の方で「阿吽の二字」を言い切った弁慶を近頃は滅多に見ませんねえ。みんな「二ィジィー」と伸ばしています。ついでに言えば富樫の方も「出で入る息は」の末尾を「ワァー」と伸ばす感じに聴こえます。そう聴こえるのはホントは弁慶は富樫の「息は」の「ワ」の母音に・「阿吽」の「ア」の母音をかぶせる感じで出なくてはならぬのに、弁慶がそうしないからです。こういうことも出来ていません。最近の「勧進帳」を見れば弁慶が「二字」を「二ィジィー」と伸ばすので・ここで緊張が緩んでしまって、「そもそも九字の真言とは・・」で富樫が弁慶ににじり寄る時に何だか富樫が妙にいきり立ち・しかもその興奮が空回りしているように見える舞台が多いと思います。例えば平成20年4月歌舞伎座での「勧進帳」の勘三郎の富樫がそのような感じでしたが、富樫がああいう風に見えてしまうのは、実は問答全体のリズム設計を維持できていない弁慶(仁左衛門)の方にも責任があるのです。

弁慶が「阿吽の二字」を前の富樫の台詞にかぶせるように出て・「二字」の末尾を強く言い切るということはどういう意味を持つでしょうか。弁慶は「長々しい問答など無用・何度質問したって俺は答えられるぞ」という感じで富樫の問いを強く遮るわけです。そう書くと「勧進帳をでっち上げることぐらい弁慶には簡単なことだ」と書いてある評論と吉之助は同じ意見だと思われるといけないので付け加えますが、実はその逆です。弁慶はこれ以上質問されてボロを出すと困るから早く問答を打ち切りたい・だからわざと高飛車に出ているのです。ここは弁慶絶体絶命という場面なのです。だから富樫は緊張を維持したまま畳み掛けるように「そもそも九字の真言とは・・」と早いテンポで弁慶を さらなる窮地へ追い込んでいかねばなりません。そのためにはその直前の「阿吽の二字」を「二ィジィー」と引き伸ばされたのでは緊張が緩んでしまうので富樫は困るわけです。翫右衛門は弁慶に「二字」を伸ばされると富樫が息が吸えないと言ったようですが、「二字」を引き伸ばされると富樫が息をグッと詰めて「そもそも」をトップギアで一気に切り出す時のタイミングが不明瞭になるのです。ここは最高潮になったアッチェレランドを急スットプされた音楽がまた一気にトップスピードに入る・まさにここは急転直下急発進の波乱の音楽です。さあ弁慶はこのピンチを切り抜けられるか。だから最後の弁慶の長台詞が生きてきます。以上が山伏問答のドラマ面からのリズム解析ですが、大事なことは荒事の台詞の二拍子の基本イメージが山伏問答の背後にあるということです。弁慶・富樫は二拍子の基本イメージを意識して問答をしてもらいたいと思うのです。(この稿つづく)

(H21・5・3)


16)和事の台詞・1

江戸の荒事が初代団十郎ならば、同時代のライバルである上方の和事は初代藤十郎ということになります。荒事と和事はまったく対照的な芸のように思われがちですが、藤十郎の和事の台詞まわしも江戸の荒事とは異なる方法論で写実的な「しゃべり」の技術のうえに成り立つものです。近松門左衛門は藤十郎と提携して多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎のしゃべりの芸を発揮させるために台詞の工夫をこらしたことと思います。「傾城仏の原」は元禄12年(1699)京都都(みやこ)万太夫座で初演された近松の代表的な歌舞伎作品で、主人公の梅房文蔵は藤十郎の当たり役のひとつとなりました。(「傾城仏の原」は近年では武智鉄二演出により近松座で復活上演されたことがあります。)

『されば八月十五日夜の月見、いづれの人も歌をよみ詩を作り、或いは音曲、手なぐさみにて月を見る。身はその格をかへて三笠屋といふ揚屋の座敷に布団を敷き、其の上に奥州と二人とんと寝て月を詠めた。時に此のなんぴんが申すは『あの月はそち、月の中にある桂男は身じゃ、偕老同穴 比翼連理は古い』といふた。時に太夫がこましゃれたことを問ひました。『昔より中を水洩らさぬと申すは如何やうな事を言ひます』と尋ねました。私が返答には『それはそなたとおれがやうに睦まじく寄添い、じつと締合うた中へ水を流したりとも、中々通らぬをいふ心じゃ』『然らば流して見ん』とあたりを見れども水はなし、折ふし枕元に燗鍋があった。これ幸ひと両人ばったりと抱付き、上から彼の酒を滝の如く通したれども通らぬ。『太夫、見や、そちと二人が中は水漏らさぬ事はさて置き、酒漏らさぬ中じゃ』と共に戯れました・・・』(「傾城仏の原」)

藤十郎の台詞回しは今日まったく伝わっていませんが、この文蔵の長台詞を見ればそれは狂言の「こざる」調の台詞ではなく・新劇の台詞だと言っても通りそうな感じであり、ずっと近代の方に寄った写実の「しゃべり」の芸であったことが明らかです。この台詞を口のなかで読んでみると、文蔵と太夫のじゃれあいがあるせいもありますが・リズミカルにしゃべろうとすると調子に高低を強くつける必要があって、すんなり流れているようでいて・実は結構細かい変化があることが分かると思います。台詞の調子が持続せず、ひょいひょいと調子が変わるところが藤十郎の持ち味なのです。後に近松は藤十郎と袂を分かち・人形浄瑠璃の執筆に専念しますが、藤十郎一代の当たり芸であった「夕霧伊左衛門」は後に形を変えて義太夫での「傾城阿波鳴渡」となり、あるいは「嫗山姥」での八重桐のしゃべりの芸が見られることで分かる通り、藤十郎の芸は後の近松の作品にも大きな影響を与えているわけです。(この稿つづく)

(H21・5・7)


17)和事の台詞・2

ご存知の通り、初代藤十郎は傾城買いの狂言を得意としました。藤十郎が演じた歌舞伎作品そのものはもはや上演されることはありませんが、藤十郎の和事のイメージは歌舞伎の和事の演技のどこかに残っているはずです。「廓文章(吉田屋)」での伊左衛門の台詞を抜き出してみます。

『イヤイヤ隠しんな、知っている。アアこれを思えば傾城買いより紙屑買いが遥かにましや。ハテなぜと言や。金銀を出してあっちから取るものは状文(じょうふみ)ばかり、七百貫目の紙屑では富士の山の張り抜きが出来る。本に埒(らち)もないことで、大事の紙衣を涙で濡らした。アア継ぎ目の離れぬそのうち、さらばお暇申しましょう。(中略)イヤ慳貪なら、夕霧より蕎麦切りにしましょう。帰るぞ帰るぞ。(中略)イヤ留めるな留めるな。エエ留めぬなと言うに。わが身たちも常からわしの気質を知って居ながら、帰ると言うて留まった事があるか。ありゃせまいがな。留めるな留めるな。(中略)コレ喜左衛門、今日はわが身の内の餅つきじゃのう。(中略)せっかくめでたい餅つきに、わしが腹を立てて帰ったら、わが身たちは気にかかるであろうな。(中略)そんなら一口呑もうか。(中略)それでも只今わしが一旦帰ろうと言うて又ここに居ようと言うと、わが身たちは笑うであろうな。(中略)それそれ二人とも笑うて居るではないか。(中略)そんならそちら向いて怖い顔して居や。(中略)イヤどう思うても、やっぱり帰りましょ帰りましょ。(中略)イヤイヤやっぱり去のう。くるりと回って往きましょう。行こうか居ようか。いっその事に寝てこまそう。』(「廓文章・吉田屋」での伊左衛門の台詞)

伊左衛門は帰ると言ったり・居ると言ってみたりして我が儘放題で、突然に餅つきの話をしてみたり・気まぐれそのもので、ちっとも落ち着きません。『帰るか居るか・・イヤイヤやっぱり去のう』というような安定しない・明確な形を取ることがなく・絶えず揺れる感情、これがアジタートな感性そのものです。台詞のリズムの形で言えば、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のような揺れを示すもので、これはまさにロマン派以降の音楽に頻繁に現れるリズムなのです。このリズムは心理学的には次のように説明できます。だんだんとテンポが速くなり・やがて猛烈な最高速度に達するような極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく・だんだんとリズムが遅くなり・やがて沈静していくような状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、つまりどっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くということです。つまり揺れるリズムとは 何とも落ち着かない・何となくイライラした気分を示すものです。またその旋律も音程的に高くなったり・低くなったりして・落ち着くことがなく、明確な旋律線を描かない音楽になっていきます。和事の台詞もまったく同じで、伊左衛門の台詞もドラマ的・意思的な展開を示さない台詞です。

もうひとつの和事のアジタートな側面は突然気まぐれにワーッと騒ぎ出したりすることです。しかし、すぐに別のことが浮かんで・気分が変わってしまって・飽きて投げ出してしまうのです。ひとつことに熱中することが全然できないのです。伊左衛門は『そんなら一口呑もうか』と言ってワアワア騒ぐかと思えば、急に『わしがここに居ようと言うと、わが身たちは笑うであろうな』と言い出して・プイッと出て行こうとするのです。『イヤ留めるな留めるな。エエ留めぬなと言うに』では突然カチンと来てみたりもします。そこがまさにアジタートなのです。これは音楽で突然急に大音響がカツーンと来る感覚と同じもので、そこにイライラした気分の破綻が来るわけです。これは江戸の荒事の台詞で、助六が「つがもねえ」と大声で叫ぶのと同じ突っ張った感覚なのです。音楽で言えば異なる旋律が次々に繰り出される感じとなり、ひとつの旋律が論理的に展開する形式が取りにくくなります。したがって、がっしりした構成の大曲よりも小品の集合体的な作品が多くなってきます。このような特徴はロマン派の典型であるシューマンの音楽にとても顕著に現れているものです。

一般的に江戸の荒事と上方の和事は対極の芸と思われています。しかし、表面的に剛と柔の違いがあって・全然似た要素がないように見えても、アジタートという観点から見れば元禄という時代の共通した気分を背負っているのです。考えてみれば京都の藤十郎も・江戸の団十郎も同じ元禄の時代を生きた役者なのですから、同じ時代の共通した気分を取り込んでいるのは当たり前ではありませんか。そのことが荒事と和事の台詞のリズム分析から感知できます。気分の表出の仕方が違う・そのことだけで荒事と和事は分けられているのです。(この稿つづく)

(H21・5・18)


18)義太夫狂言のリズム・1

寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止によって、創成期の歌舞伎の写実の理想は頓挫しました。「歌舞伎素人講釈」ではこのことを「歌舞伎の1回目の死」と呼んでいます。このため歌舞伎は一時的に袋小路に追い込まれました。(これについては別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」で触れています。)ですから歌舞伎の女形は仕方なく生まれたものなのですが、仕方なく生まれたものでも・女形がいなければ芝居が出来ません。だから歌舞伎は芝居のなかで女形をどう生かすか・言い換えれば芝居全体のなかで如何に女形の芸を不自然に見せないように位置つけるかという形で発展していきます。つまり女形が歌舞伎の全体の表現を規定していくことになります。そのひとつの解決法が人形浄瑠璃の歌舞伎への導入・すなわち義太夫狂言の誕生でした。

なぜ人形浄瑠璃の導入が歌舞伎の窮地を救うことになったのかと言うと、それは義太夫節が男性の語り手(大夫)によって語られるモノ・セックスの芸能であったからです。義太夫では大夫が男性・女性の役柄を声色を変えて描き分けるのです。つまり男性の大夫が声のトーンを変えることで女性みたいな声を作る・この技術を女形が取り入れることで 歌舞伎のなかに女形芸をすんなりと位置付けることが可能になったのです。人形浄瑠璃の ドラマとしての質の高さがそれまでの物真似芸的な歌舞伎の演劇性を飛躍的に高めたということも疑いありませんが、これについては別の機会に詳しく論じたいと思います。本稿では義太夫狂言の台詞について簡単に考えますが・人形浄瑠璃を取り入れたことによる顕著な変化は、歌舞伎の台詞 が写実の「しゃべり」の芸から・様式的な「語り」の方向へ傾斜したということです。「様式的」ということは、義太夫節は三味線による伴奏を持つ音楽であり・つまり「歌謡」であるわけですから、必然的に台詞のなかに節回し(一定の音程・リズムに縛られた要素)があるということです。義太夫狂言の場合は役者が地(台詞の部分)を受け持ち・竹本が色(音楽的な部分・あるいはト書きの部分)を受け持つということになりますが、そこに音楽的なトーンの統一がなければ舞台が分解してしまうからです。

したがって義太夫狂言の台詞が音楽的な要素を持つことは間違いありません。しかし、その一方で台詞が音楽的な要素に傾斜しすぎることは歌舞伎の独自性を損なうことであるということも意識しておかなければなりません。歌舞伎役者に義太夫の素養が必須であることはもちろんですが、ある狂言のサワリを本格の義太夫の息で演ることが良い成果を挙げると必ずしも言えない場合があります。それならば人形浄瑠璃の人形の代わりを役者が勤めるのと大して変わらなくなるからです。ここで具体例は挙げることはしませんが、ある役者さんが見事な義太夫の息で演技を見せた時、吉之助の耳には台詞がリズムに乗りすぎて・情感が沈みこまねばならぬ場面で・演技がサラサラと前に進んでしまうような印象を受けたことがあります。これは人形浄瑠璃の場合ならばそのリズムで良いのですが、人間が演じる歌舞伎の場合にはそれでは駄目で、場合によってはもっとリズムを粘って取っていかねばならぬ・あるいはテンポを意識的に揺らしていく必要がある・そうやって音楽的な要素を崩す方向へ行かねばならない・そういう場合が歌舞伎にはあるのです。そうすることで歌舞伎というバロックな要素を持つ芸能の特徴が出せるということです。これはちょっと逆な感じに見えるかも知れませんが、これがバロック的な写実の手法です。(これとはちょっと違う観点からですが、別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)このことはしばしば誤解されていますが、義太夫狂言の台詞の場合でも三味線に乗った「歌う」ということを全面に出すことは禁物で、「写実」ということ・どうやってリアルさを出すか・ということを常に念頭に置かねばならないと思います。(この稿つづく)

(H21・5・23)


19)義太夫狂言のリズム・2

三味線は旋律楽器であると同時にリズム楽器でもあります。安土桃山時代に南蛮から渡来したとされる三味線が日本の音楽に与えたものは、明確な拍(リズム)の概念でした。いや正確にはそれまでの伝統音楽にももちろん拍はあるのですが、それを拍という概念で捉えることがなかったのです。例えば舞踊でチントンシャンで「きまる」というようなことは、先行芸能である能や狂言には存在しないものでした。三味線が観客に与える定間のイメージにはまるから「きまった」という感覚が生まれてくるわけです。三味線のリズムが義太夫節に与えた表現の幅というものはそれまでの芸能とは次元が違ったダイナミックなものであったと思います。

義太夫節の最も華やかな場面は「熊谷陣屋」や「実盛物語」に見られる「物語り」の場面であり・これももちろんアジタートの概念で論じられるものですが、本論は台詞のリズムを主題にしているのでそれは別の機会に論じるとして、ここでは「タテ言葉」について考えてみます。タテ言葉とは「立て板に水を流す」ようにサラサラと早口に台詞をしゃべるもので、元は浄瑠璃(義太夫)の用語です。現代なら「機関銃のようにしゃべる」とも表現できます。早口の台詞が荒事のなかにもあることは「荒事の台詞・14・15」でも触れた通りです。しかし、荒事の早口は写実の「しゃべり」が基本にありますから、その台詞のなかに緩急の波があり、時に急ストップ・時に大絶叫というアクセントで変化が付いています。これに対して義太夫のタテ言葉の場合には、タンタンタンと心地良い軽快なリズムがインテンポで続く点が違っています。タテ言葉の例として「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」での佐々木盛綱の台詞を挙げておきます。

「イイヤいっかな心は変ぜねど、高綱夫婦がこれ程まで仕込んだ計略。父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀(はかりごと)。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。主人を欺く不調法、申し訳は腹一つと極めた覚悟も、負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木、甥が忠義にくらべては、伯父がこの腹百千切っても掛け合ひがたき最期の大功。そちが命は京鎌倉の運定め、出か いたな出かした」(「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」・浄瑠璃床本での佐々木盛綱の台詞 )

「盛綱陣屋」の最終場面で盛綱が一気にまくし立てる台詞はどういう気分を表現しているのでしょうか。北条時政を前にした首実検で盛綱は偽首を「弟佐々木高綱の首に相違ない」と偽証しますが、その理由を盛綱はここで一気に述べ立てます。それまで何かに押さえ付けられて言いたくても言えなかった事を吐き出すようにです。逆に言えば、そのようなただならぬ所まで盛綱を追い込んだ状況の正体が・その早いリズムのなかにはっきりと意識されているのです。早いリズムが盛綱を急き立てて、真実を一刻も言ってしまわねば胸の内がどうにも収まらない気分になって現われます。それがタテ言葉の表現するものです。タテ言葉の早いリズムは、観客の耳に小気味良く・快適に感じられることと思います。そう感じるのは間違いではありません。快適に感じるように・聴き手を興奮させるようにタテ言葉は作られているのです。しかし、見方を変えれば、そのタテ言葉のリズムは決して自然なしゃべり言葉のリズムではないことが明らかです。それは異様な興奮に裏打ちされた・機械的なリズムなのです。そう考えると、小気味良いリズムの陰に実は人間性を押さえ込む不気味で圧倒的なものが潜んでいることが見えてきます。

*義太夫のタテ言葉は原則として早いテンポの二拍子です。左の図は四拍子ですが、これは二拍子が細分化されたもの。さらに細分化されれば八拍子です。一気にまくし立てる快速リズムは爽快感を呼び起こしますが、それは同時に異様な興奮に裏打ちされた・単純かつ機械的なリズムなのです。

義太夫のタテ言葉の基本は上記の通りですが、これを歌舞伎で演る場合に義太夫そっくりそのままインテンポで台詞をしゃべったのでは歌舞伎にならぬこともあるので 少々工夫が必要になります。すなわち一気にまくし立てる快速リズムを基調として維持しつつも、内面から突き上げる感情によってそのリズムを突き崩そうとするような揺れの表現・激しさの表現を微妙に加えることが必要になってきます。このことは歌舞伎のバロック的な表現を考える時に非常に大事なことです。いずれにせよタテ言葉の基調となるインテンポの快速リズムによって主人公の内面の葛藤を表現する・これが義太夫狂言の「アジタート」なのです。(この稿つづく)

(H21・5・27)


20)義太夫狂言のリズム・3

舞踊でチントンシャンで「きまる」ようなことは先行芸能である能や狂言には存在しないものでした。能のお稽古で何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、「何ですか。いやでございますね。」と師匠から叱られるのだそうです。「きまる」というのは、それまでの日本の芸能の感覚からすると「いやなこと」だったのです。それは音楽的に言えば本来の日本音楽の概念には存在しなかった間・三味線の作る西洋音楽的な間(定間)に思わずはまってしまうということでした。これは既成の感覚からすると「いやなこと・野暮なこと」だったのです。逆にいえば歌舞伎はそのような人に嫌われるようなことを意識的に行なって観客を挑発したのかも知れません。当時の「識者」たちはそれを見て顔をしかめたことでしょう。そこに歌舞伎の「傾いた」要素があるわけです。

しかし、ちょっと視点を変えて義太夫狂言で生身の役者が義太夫のリズムに乗って芝居を演じることを考えてみると、こんなことが言えると思います。定間というのは慣れてしまえば観客にとっても役者にとっても・乗り易い・分かり易い間なのです。心地良いリズムに乗ってしまえば・何となくそれで良いような気分に陥ってしまいます。しかし、その情感は実体をサラサラと上滑りして・その上を通り過ぎてしまうのです。演技面から見れば、これは生身の役者が音楽に動かされる木偶と化すということに他なりません。役者の動きは義太夫の視覚的な説明にしかすぎなくなる。(これについては別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)台詞面から見れば、それは写実の「しゃべり」から様式的な「 語り」・さらに「歌い」の方向に引き寄せられてしまい、肉声の要素を失なってしまうということです。ですから「きまる」あるいは「糸に乗る(リズムに乗る)」ということは確かに歌舞伎のひとつの特徴ではありますが、これに身を完全に預け切ってしまうことは本来は写実の演劇を目指すはずであった歌舞伎の本義にもとることなのです。そこに歌舞伎の葛藤がある。ですから義太夫狂言の場合、役者が地(台詞の部分)・竹本が色(音楽的な部分・あるいはト書きの部分)と分けて持つわけですが、竹本との掛け合いの・おそらく最も義太夫狂言らしい場面においても、音楽的なトーンの統一を破壊しない程度にまで・役者は台詞を写実の「しゃべり」の方へ引っ張ることが大事なことになります。実際、義太夫狂言の台本を・丸本(オリジナルの人形浄瑠璃本)と比べて見れば、人形浄瑠璃の真似ではない・生身の人間が演じる芝居にしようと狂言作者が出来る限りの苦心をしていることが察せられます。まあそのためにオリジナルの骨格が崩れてしまっている弊害も確かにあるのですが、それは仕方がないことなのです。

前章で取り上げた「盛綱陣屋」での盛綱の台詞を見てみれば、「大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智」の箇所は、歌舞伎では「教へも教へ・・覚えも覚えし親子が才智」のところで盛綱の「泣き」が入り、それまでの台詞の定間の快速リズムが ここで大きく破綻します。「かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう」の箇所も同様で、盛綱は大きく声を張り上げて・ここに強い感情の揺れを入れなければ歌舞伎になりません。さらに「母人、褒めておやりなされ、なぜ褒めぬ、褒めてやれ褒めてやれ」の箇所は歌舞伎の入れ事で・ここは役者が思い切り膨らませて歌舞伎独特の華やかさを全面に出さねばならぬところです。このような歌舞伎の工夫は、義太夫の視点から見れば崩しに他なりません。また歌舞伎が盛綱という役の性格を「情」の方へ傾斜させてしまった嫌いも確かにあると思います。しかし、歌舞伎の視点から見れば・それは様式的なリズムに乗った台詞を「しゃべり」の写実の方向へ・生身の人間の声に なんとか引き戻そうとする格闘でもあったのです。(別稿「歌舞伎における「盛綱陣屋」」もご参考にしてください。)(この稿つづく)

(H21・6・1)


21)義太夫狂言のリズム・4

義太夫狂言が文楽(人形浄瑠璃)の真似ではない・生身の人間が演じる芝居であるならば、何がそう感じさせるのか・どこをどう工夫すれば歌舞伎になるのか・そういうことを考えて見なければなりません。現行の歌舞伎の演技ベクトルはどちらかと言えばその逆かも知れませんねえ。巷の劇評によく言うところの義太夫味・人形味という用語はどういう風に使われているでしょうか。「あのお芝居は元が文楽だったんだって。なるほどそんな感じだねえ」という風にオリジナルを想起させる方向に演技ベクトルが向いているようです。それは決して間違いというわけでもないのです。故郷は常に意識されるべきものだからです。しかし、義太夫狂言が歌舞伎であることの意義は、むしろ歌舞伎と文楽のリズムの微妙な齟齬から生まれてくるものです。本稿は台詞のリズム論が主旨ですが、これは歌舞伎の演技のリズム設計・あるいは全体の場面構成とも密接に絡むものですから、ここで手短かに触れておきたいと思います。

例えば「寺子屋」において奥で小太郎が首打たれる音がして・松王が思わずよろめいて戸浪に突き当たり・「無礼者め」と叫んで大きく見得をする箇所は最高に歌舞伎らしい場面です。しかし、原作である文楽にはこの場面はなく・これは歌舞伎の入れ事です。松王の心理行動をたんねんに追えば「無礼者め」は何だか取ってつけたような不自然な感じが多少しなくもありません。それでは原作通りにして・歌舞伎から「無礼者め」を取ってしまったらどうなるでしょうか。多分歌舞伎らしくなくて・物足りなく感じると思います。そう感じるのは我々が普段の歌舞伎の「寺子屋」の型を見慣れてしまったせいではなく、歌舞伎はそうすることで文楽の丸真似ではない・生身の人間が演じる芝居であることの何かを主張しているのだと考えたいと思います。(実はこの場合に本当に大事なのは「無礼者め」の見得ではなく・その前に思わず松王がよろめいてしまう世話の演技なのですが、そのことは更に以降をお読みください。)

別稿「六段目における時代と世話」で触れましたが、「六段目」には世話の場面にフッと時代の陰が差し・それが消えては現れたりしながら・やがて 全体が大きな時代の構図に飲み込まれていくという流れがあります。これはもちろん原作の文楽自体が持つものですが、現行歌舞伎の音羽屋型(三代目菊五郎の型から発したものです)はその様式の揺れを利用して・巧みに歌舞伎の生世話の手法を挿入しています。そこに歌舞伎独自の主張があるのです。したがって、別稿「時代と世話」に触れた通り・歌舞伎の勘平の台詞回しにも同じような世話と時代の揺れが出るわけですが、それはオリジナルの文楽が示すところのリズムとは微妙に異なったものとなります。

別稿「吉右衛門の樋口」で触れた「逆櫓」での松右衛門(実は樋口)の見顕しも同様で、歌舞伎の見顕しの方がオリジナルの文楽より世話の切り込みをより強くする入れ事がされています。それによって世話と時代の交錯がより強まっているのです。当然のこと・この場面の樋口にはその様式の揺れに即応した台詞回しが要求されるわけで、それはオリジナルの文楽が示すところのリズムとは微妙に異なったものとなってきます。そこに歌舞伎独自の主張があるわけです。

義太夫狂言が文楽の真似ではない・生身の人間が演じる芝居であるということの意義は、オリジナルに対して世話の切り込みを細かく挿入するという工夫によって表出されます。なぜならば出雲のお国以来・歌舞伎の本義はずっと写実なのであり・そのことは決して変っていない。つまりそれは演技理念としては世話であるからです。世話の切り込みが、その前後の時代の彫りをより強く深く・より印象的に浮き上がらせます。ですから「寺子屋」の「無礼者め」の見得においても、重要なのはその直前の・バタッと小太郎が首打たれる音がして・思わず松王がよろめく・その写実の表現にあるのです。逆に言えば、世話の切り込みの深さをより効果的に見せるためにその前後の時代の表現が次第に強めになって行きます。これが歌舞伎の義太夫狂言の表現です。ですから義太夫狂言を演じるのに役者に義太夫の素質は必要なことはもちろんですが、役者が義太夫そっくりそのままの息で台詞をしゃべったのでは歌舞伎にならぬということを肝に銘じなければなりません。巷で言われるところの「義太夫味」という用語の意味はよくよく吟味されねばなりません。(この稿つづく)

(H21・6・6)


22)南北劇のリズム・1

江戸時代の庶民文化の隆盛期と言えば前期の元禄文化・後期の化政文化(文化文政期)ということになりますが、歌舞伎作品から見ると・このふたつは若干様相が異なるように吉之助には思われます。まず元禄文化(元禄年間は1688年〜1703年)ですが、これは上方が中心になります。元禄期は社会構造の大枠がほぼ固まった時期であり・社会倫理道徳の基礎が出来上がった時期でもあります。逆に言えば生活のリズムは次第に固定されてきて・逆らわずにルール通りにやっていれば何の支障もなく事は運ぶのですが、個人の自由はだんだん利かなくなってきて・人々は窮屈な気分を感じ始めた時期でもありました。江戸創成期に巷に跋扈したかぶき者たちは寛文期に幕府の弾圧によって姿を消します。このような窮屈な気分がイライラ・モヤモヤした疎外された気分を生み出すのです。かぶき者たちの「かぶき的心情」は違った形で受け継がれていくことになります。江戸の荒事・上方の和事は江戸人と上方人の気質によってちょっと見は違った印象を呈しますが、現象的にまったく同じ気分・心情から発したものであることが先の荒事と和事の台詞のリズム解析からはっきりと分かります。(これについては本稿11節〜17節を参照)

一方、文化文政期(1804年〜1829年)には上方経済が衰退に向かい、経済の中心が江戸に次第に移っていきます。化政文化では中心が江戸になります。この時期の鶴屋南北の作品を見ると・その台詞のリズムの様相がまったく異なるようです。南北劇の台詞には「しゃべり」の復権がはっきり聴き取れます。南北劇では義太夫が使用されないというのも常識ですが、これは南北が江戸の戯作者である(つまり上方発の義太夫節にそれほど親近感がない)という背景とともに、ある意味において芝居を音楽の呪縛から解き放つこと(脱義太夫)を志向しているようにも感じられます。つまりこれは台詞の様式性が比較的弱いということであり、リズム面でのアジタートな要素もまた弱いということです。また「しゃべり」の復権ということになれば、場所が江戸であるからして・芝居のなかに関東方言・アクセントとしては「頭打ち」(言葉の最初の音にアクセントが付く)が強くなる傾向になるのもごく自然のことです。このようなことから察せられるのは、文化文政期の江戸庶民の精神の状況は・江戸時代260年ほどを通じ・もっとも良好であったということです。もちろん全然ストレスが掛からないということはいつの時代にもあり得ません・どの時代にも何らかのストレスがありますが、これは相対的なものでもあります。歌舞伎の台詞様式をいろいろ見ていくと・文化文政期の江戸庶民の精神はもっとも健康的であったというのが吉之助の所感です。

恐らく巷の通説ではその逆になると思います。南北劇は残虐でドギツクて、趣向本位で・刺激的であるとされています。江戸庶民もそのような娯楽を大いに求めたとされています。このような通説は、南北劇の台詞のリズム解析によって否定できます。文化文政期の江戸の庶民はとても健康な精神を持っており、その考え方も常識的です。この視点から南北作品の読み直しを計る必要があると吉之助は思います。ですから南北の綯い交ぜの趣向も別視点で読むべきでしょう。別稿「世界とは何か」でも引用しましたが、ドナルド・キーン先生は次のように指摘しています。

『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)

これはキーン先生の指摘がまったく正しいのです。南北劇の台詞は様式性が弱く、「しゃべり」の復権が志向されています。このような健康的な視点から南北劇を読んでみたいと思います。(この稿つづく)

(H21・6・10)


23)南北劇のリズム・2

南北劇の台詞が写実な「しゃべり」の芸・つまり生世話に根差していることは、新劇俳優が南北を演じた場合でも・さほど違和感を感じないことでも分かります。新劇俳優の南北の台詞は確かに感触がさっぱりし過ぎる感じで・抑揚にもうちょっと膨らみを持たせてくれないと面白みが出ないよと不満を覚えないこともないですが、実は感触としては 「さっぱり」の方が南北本来の味に近いのです。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代前半には・南北は歌舞伎でもまだ上演が多くなかったせいか、役者が台詞のリズムにうまく乗れないで詰まる場面を舞台で見ることがよくありました。また大向うが掛け声の間合いを見事に外すこともしばしばありました。これは現代の我々がもう少し後の時代の黙阿弥の台詞の技巧を歌舞伎らしい台詞の基準として擦り込まれているせいで、無意識のうちに南北を黙阿弥の間合いで処理しようとするからなのです。(最近はそのような場面をあまり見かけませんが、逆に黙阿弥の方が怪しくなってきたのかも知れませんね。)

南北は「四谷怪談」や「馬盥の光秀」などごく少数を除けば・江戸から現代まで継続的に上演されてきた作品は少ないのです。そのほとんどは大正期の二代目左団次による復活上演をきっかけにした第1次南北ブーム、昭和40年代から50年代前半のアングラ芝居をきっかけにした第2次南北ブームを通じて現在の歌舞伎のレパートリーになっていったものです。ですから南北は様式的に幕末で途切れてしまったというのが 実情です。現代においても南北の台詞は様式的に正しく・つまり正しく生世話で発声されているとは言えません。多少でも黙阿弥の技巧を加えて歌舞伎らしい感じに処理されているというのが本当のところです。この「歌舞伎らしい」というのが曲者でして、例えば「四谷怪談」隠亡堀の場での直助権兵衛が伊右衛門に言う科白「女房が姉のお岩が敵、民谷伊右衛門、イザ立ち上がって勝負なせ・・・トサ云うところだが、そこを云はねえの。その代わりはお前が・・・・」を「そこを云はねえその代わり」と七五調に調子を整えるなどするわけです。「そこを云はねえその代わり」と言い換えてしまうと・確かにリズムに乗って言いやすくなりますが、台詞は様式のパターンにはまって・そこに時代の感覚が入り込んでくるでしょう。このような些細な積み重なりが「四谷怪談」全体の印象に及ぼす影響というのは意外と大きいものです。このため芝居が生世話の感触から離れてしまうわけです。「隠亡堀」前半の様式めいた処理は後半の「だんまり」と違和感ないとお感じの方がいるかも知れませんが・これはまったく逆でして、生世話が一転して時代の「だんまり」に変化する落差の妙こそが南北劇の面白さなのです。

世話から時代への変化・あるいは時代から世話へ戻る変化の妙こそが南北の面白さです。例えば時代を際立たせるために、その直前の世話をテンポを速めてサッと切り上げて・次を時代に意識的にゆったりと引き伸ばすという技巧ですが、その基調になるのはもちろん写実の世話です。「桜姫東文章・山の宿町権助住居」での清玄の幽霊に対する風鈴お姫(桜姫)の台詞を見てみます。

『コレ、幽霊さん、イヤサ、そこへ来ている清玄の幽霊どの。つきまとうような性(しょう)があらば、ちっとは聞きわけたがいいわな。自らが先々を鞍がえするも、そなたの死霊がつきまとうゆえ、馴染みの客まで遠くなるわな。エエ、人の稼ぎの邪魔をするのか。妨ぐるのか。最初はいとしやとも不憫なとも、因果の道理と思いしに、毎夜の事ゆえ慣れっこになって、怖くないよ。幽霊もそう足が近くっちゃア、飽きが来るよ。サア消えなよ消えなよ。夜が明けるよ。幽霊が朝直しでもあるまいサ。消えな帰りな。エエ聞きわけの悪い。坊主客はこれがうっとうしい。桜姫の前生(さきしょう)は、稚児白菊かは知らねども、こっちの知ったことでなし、いわば、そなたにこっちから、恨みこそあれ恨まるる、コレ話はねえよ。これじゃそっちがあんまり横というものだ。今こうしたしがねえ身になっていると思って、自らをみくびってつきまとうか。世に亡き亡者の身を以って、緩怠至極。エエ、消えてしまいねえよ。』

この風鈴お姫の台詞ですが、時代のお姫言葉の部分はテンポを遅くして様式的な感触を持たせます(またトーンも時代物調に多少高く作ります)が、全体は写実の「しゃべり」が基調になっています。ですから台詞の末尾はテンポ良く世話に短く切り上げて・長く引き伸ばさない方が良ろしいわけです。最後の「消えてしまいねえよ」も「シマイネエヨウ」と抑揚を付けて七語に揃えて時代にゆっくり引き伸ばすのではなく、「シマイネエヨ●」とテンポ早く・寸足らずで切る方が南北になるのです。どうしてそうなるのかは、このすぐ後に幽霊の清玄が赤子を指差す思い入れがあって風鈴お姫が桜姫の性根に戻って言う「エ、ナ、ナ二、そんならこの子が妾(わらわ)が腹に誕生の。・・・」以下の台詞の大時代の台詞につながっていくことでも分かります。舞台の雰囲気はここで一気に時代に変化する・つまり作品の基本構造である「隅田川の世界」に戻っていく核心の場面であるわけですから、その直前は当然世話に引くのが定石であることがお分かりになると思います

風鈴お姫のお姫言葉は滑稽味を醸し出します。それは生世話(写実)の世界のなかに無粋にも時代(様式)の要素がしゃしゃり込むことに対する違和感ということです。このことを南北は趣向として・純粋に技巧の意味しか持たぬプロットとして捉えることによって、実に健康的な感覚で処理しています。そうでなければ風鈴お姫と桜姫の人格はふたつに分裂してしまって・「どちらの人格が真か嘘か」ということになってしまうのです。通常のドラマツルギーならばそういう読み方になってしまうのは当然のことですが、南北の場合はそうではありません。「どちらの人格も真」・そうでないならばむしろ「どちらの人格も嘘」であると言うべきなのです。それが南北の趣向です。吉之助はそこに文化文政期の江戸の庶民の健康な精神の証を見るのです。そのことが南北の台詞のリズムから考察できると思います。(この稿つづく)

(H21・6・13)


24)黙阿弥の七五調・1

まず最初に一般論として七五調を考えてみたいのですが、短歌や俳諧を例に挙げるまでもなく・遠く神代の昔から七五というのは日本語によくマッチする形式であるとされているわけです。日本語は言葉の調子を整えようとすると、それは自然と七五の調子に極まってくるようです。謡曲においても、例えば「高砂」での有名な『高砂や。此浦舟に帆をあげて。月もろともに出で汐の。波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖すぎてはや住の江に着きにけり。』の文句は完全に七五の調子になっています。人形浄瑠璃・歌舞伎においても台詞の調子の良いところは大抵七五に成っていると言っても良いわけですし、役者の仕勝手として・台詞を七五に調子を整えて言い易くすることはしばしばです。

しかし、七五調の様式的な台詞ということになれば・それはまず黙阿弥の七五調を指すということになると思います。何せあのベストセラー本「声に出して読みたい日本語」(斉藤孝著)のトップは黙阿弥の弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」であるくらいです。それ以前の・例えば謡曲あるいは人形浄瑠璃の詞章を「七五調の様式」として論じることはまったくないわけです。それらは結果として七五に極まってしまった詞章であると考えられているわけで、それらを作者が意図的に七五調の様式で書いたものとは誰も見なさないわけです。それは正しい見方であると思いますが、そうすると幕末の・江戸歌舞伎のまさに最後の最後になって・黙阿弥の「様式としての七五調」が成立したということになる。どうして歌舞伎の黙阿弥以前に七五調の様式が成立しなかったのでしょうか。そうであるならば黙阿弥の七五調の様式の台詞と、それ以前の七五の調子に整った台詞を同じように捉えて良ろしいのでしょうか。

この疑問に解答を与えてくれる論文を・少なくとも吉之助は読んだことはないですねえ。一般に黙阿弥の七五調の様式の台詞は・それ以前の七五の調子に整った台詞と同じ性質のものに理解されていると思います。この考え方に沿うならば、自ずと七五の調子に極まってしまう日本語の性質を「七五調の様式」にまで高めたのが黙阿弥の功績であるということになるのだろうと思います。フーンなるほどねえ。で・・・それでどうしてそれが幕末の・江戸歌舞伎の最後の最後に出なければならないのですかね。黙阿弥のもっと以前に七五調の様式が歌舞伎に出てきても良いのじゃないのでしょうか。なぜ幕末江戸の七五調なのでしょうか。そういうことを考えてみて欲しいと思うのですねえ。

結論から申し上げると、黙阿弥の七五調の様式の台詞と・それ以前の七五の調子に整った台詞とはまったく次元が異なるものなのです。黙阿弥の七五調は伝統の形式を表面として踏襲しながら、実はリズム的にまったく性質が違った要素を持っているのです。それは「アジタート」(急き立てる)のリズムの概念で解析されるもので、それこそが黙阿弥の七五のリズムを様式的にするものです。このことが分かれば、黙阿弥の七五調の様式が幕末の・江戸歌舞伎の最後の最後に登場しなければならなかった・その必然が理解できます。別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。(この稿つづく)

(H21・6・18)


25)黙阿弥の七五調・2

別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」において・黙阿弥の七五調のリズムは、七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、したがって七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであることを考え てみたわけです。このことは例えば昭和7年2月録音での六代目菊五郎の弁天小僧の台詞でも聴いていただければ、簡単に分かることです。大事なことは一音一音の刻みでリズムの差を計ろうとせずに、ユニットの長さで大掴みすることです。7/7と5/5の差異など人間の耳に正確に感知できるものではないです。大まかな枠でその差異を感知することです。七・五のユニットが同じ長さということを念頭に入れて・六代目菊五郎の弁天小僧の台詞を聴くと、実に台詞の リズムが小気味好く耳に入ることに感心すると思います。そして五の部分が若干緩やかに聴こえるはずです。これが正しい黙阿弥の七五調のリズムなのです。

現代の役者がしゃべる七五調を、同じように七・五のユニットが同じ長さというイメージで聴いてみてください。多分五のユニットが早いように感じられると思います。実はこれは聴感上の錯覚で、これが吉之助の言うところのダラダラ調の場合に起きる現象です。実はこれは七五の一音が同じ長さでダラダラと続いており、結果として七・五のユニットが伸び縮みしているから起きる錯覚なのです。ですから五のユニットが早く感じられるならばダラダラ調です。

黙阿弥の七五調が、七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであるということは何を意味するでしょうか。この場合七のリズムを基調にして考えなければなりません。七のユニットの早めのリズムは感覚的にタテ言葉のようなものと考えてよろしいです。(注:「その19・義太夫狂言のリズム」でのタテ言葉の項を参照ください。)つまり感覚として時代なのです。一方、五のユニットは・同じ長さを五で割ってゆったりと回すので、ここが世話の感覚になるのです。このことは例えば「浜の真砂と(七)/五右衛門が(五)/歌に残せし(七)/盗人の(五)/種は尽きねえ(七)/七里ヶ浜(五)」の場合に、七の部分を若干高調子に声を持ち(すなわち時代の感覚)、五の部分は低めに持つ(つまり世話の感覚)となることでも分かるはずです。ですから黙阿弥の七五調というのはそのなかに時代と世話の揺り返しのリズムというものを持っている のですが、大事なのは五の部分(世話)なのです。しかし、ユニットとしては等分に出てくるので・全体の感覚はインテンポになっており、それが古典的な様式感覚を聴く者に与えるということです。

正しい七五調のリズムのイメージ(上):七と五のにニットが同じ長さとなる。つまり、七は早くなり・五はゆっくりとなる変拍子の微妙に揺れるリズムなのです。

現行歌舞伎の七五調・いわゆる吉之助が呼ぶところのダラダラ調のイメージ(上):一音一音符で同じリズムがダラダラ続く。七の部分が伸びきって、結果として七と五のユニットが伸び縮みしているわけです。

昭和10年代半ばだと思いますが、 六代目菊五郎が「十五代目羽左衛門の黙阿弥の台詞廻しは世話でなくて・あれは時代世話だ」という趣旨の発言をして物議を醸したことがあったそうです。十五代目羽左衛門の台詞が世話でないと切り捨てたわけではなかったようですが、「親父(五代目菊五郎)の言いまわしとは違う」というニュアンスは確かにあったようです。ご存知の通り・十五代目羽左衛門は五代目菊五郎の甥っ子であり、五代目菊五郎の役柄は実子である六代目菊五郎と・十五代目羽左衛門のふたりによって継承されました。ふたりの芸風には微妙な差があって・役どころもあまり勝ち合った印象がありませんが、世間は六代目菊五郎が「生世話の本家はあっちでなくて・こっちだよ」と言ったという風に受け取ったようで、橘屋贔屓は大いに腹を立てたようです。

しかし、遺された録音を聴いてみれば六代目菊五郎の言いたかったことはよく分かります。十五代目羽左衛門の台詞はもちろん見事なものです。しかし、十五代目羽左衛門の台詞はダラダラ調とまでは行きませんが、全体にテンポが 滑らかで・高調子であり、七のユニットに比重が掛かって・様式的な・つまり時代の感覚に傾斜していると思えるからです。これでは世話ではなく・時代世話だと批判したくなる気持ちは吉之助にはよく理解できます。五代目菊五郎は実子の六代目菊五郎の台詞を聴いても分かる通りで・「六代目は五代目とどこが似てるかって・・それは声です」というくらいですから、五代目菊五郎が低調子の人であったことは間違いありません。だから低調子のところに世話(写実)の感覚があるのです。だから五のユニット(ゆっくり)の部分の言い回しこそ黙阿弥の七五調を世話の感覚に引く・とても大事な部分となるのです。

一方、現行のダラダラ調は「黙阿弥の七五調は歌うもの」という先入観から来たもので、わらべ歌にあるような日本古来の二拍子のリズム感覚を基調にしています。そして七のユニットの方に比重を置いて、ここを高調子で抑揚を付けて歌おうとします。「歌う」ということは様式的に反写実な行為ですから、自然と感覚は時代の方に向くことになります。つまり現行のダラダラ調は、本来写実を志向すべき黙阿弥の七五調を理念としてまったく逆の方向(時代の感覚)に引いていることになります。

十五代目羽左衛門の台詞は様式を織り交ぜた台詞回しとして確かにそれなりの評価ができるものだと思います。これは大正期の歌舞伎の保守化現象の流れのひとつとして検証ができるでしょう。しかし、十五代目羽左衛門の台詞回しが現行のダラダラ調の原型になっていることも確かなのです。こういうことになるのは本稿冒頭(「その1・リズムの緩急」)で引用した折口信夫の指摘した通り「歌舞伎ほど台詞のエロキューションに頓着しない芸能は珍しい」ということにあるのです。歌舞伎はフォルムに応じたリズムで台詞をしゃべるという感覚に実に鈍感であり、役者の自分勝手な言いまわしを「味がある」・「調子が良い」などと言って許してしまう。役者も劇評家も 観客もそうですから、何が正しいフォルムかなんてことはすっかり忘れられているのです。基準は自分が好きか・嫌いかだけ。だから「黙阿弥の七五調は歌うもの」などという誤解が罷り通ります。

昭和7年の六代目菊五郎の弁天小僧の録音では南郷を男女蔵(三代目左団次)がつきあってますが、これは世話のお手本がすぐ横にいるというのにダラダラ調です。まあそういう役者もいますね。六代目菊五郎の側近では、吉之助がよく知っている晩年の二代目松緑も十七代目勘三郎も残念ですがダラダラ調で、芝居はもちろん巧いものでしたが・七五調の台詞はいただけませんでした。恐らく彼らの脳裏にあったお手本は十五代目羽左衛門の台詞回しであったでしょう。そっちの方がどうしても派手で良く思えるのですね。しかし、菊五郎劇団の生き字引と言われた十七代目羽左衛門はさすがに六代目菊五郎のリズムをしっかりと継いでおりました。

現代の役者では当代・十代目三津五郎の七五調は正確なもので、さすが大和屋は伝承がしっかりした家だなあと思います。当代・十八代目勘三郎もなかなか良いです。恐らくお祖父さん(六代目菊五郎)の録音をよく聴いているのだろうと思います。これは親父さんよりずっと正しい七五調です。ただし勢いが良過ぎる感じがしますね。吉之助としては全体をもう少しゆっくりめに持って・五の部分に写実のニュアンスを加えることをお勧めしたいのですが。他の役者については・・・・まあ触れないことにしておきます。(この稿つづく)

(H21・6・20)


26黙阿弥の七五調・3

黙阿弥の七五調のリズムとは七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、つまり七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムです。「三人吉三」での有名なお嬢吉三の長台詞(ツラネ)を見てみます。

『月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持ちよくうかうかと、浮かれ鳥(からす)のただ一羽。塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹(さお)の滴(しづく)か濡れ手で泡。思い掛けなく手に入る百両。(御厄しませう、厄落とし厄落とし)ほんに今夜は節分(としこし)か。西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文の、銭(ぜに)と違った金包み。こいつァ春から、縁起がいいわへ。』(「三人吉三廓初買」・大川端のお嬢吉三の長台詞)

この場合、「月も朧に(七)/白魚の(五)/篝もかすむ(七)/春の空(五)」となり、ユニットを揃えれば・七が早く・五がゆっくりとなる揺れるリズムとなるわけです。前章で触れた通り、これを時代と世話の揺り返しであると考えるならば、七のユニットがやや高調子となり・時代の部分になるわけですが、ここが大事なのではありません。ここで張り上げて歌おうとするからダラダラ調に陥るのです。この台詞が世話の台詞だということを忘れてはなりません。世話の台詞・つまり写実の重きを置かねばならぬのですから、五のユニットの方が大事なのです。この部分はテンポとしては若干ゆっくりめになり、ここを世話に低調子で・写実にあっさりと処理することで、時代と世話の様式の揺らぎが際立つということです。ですから黙阿弥の七五調は歌うものだというのは大きな誤解です。

揺れるリズムとは、どういう気分を表現するものでしょうか。揺れるリズムとは典型的なロマン的心情のリズムです。それはしばしば幻想的で優雅なイメージで捉えられますが、実はこれは緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分です。だんだんとテンポが速くなり・やがて猛烈な最高速度に達する極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく、かと言って・リズムが遅くなり・やがて沈静していく状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、どっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くのです。

お気付きかと思いますが、このような気分は元禄期の荒事・あるいは和事のリズムともそのイライラしたところのアジタートな気分において根本で共通するものです。しかし、荒事の場合は・台詞は時にブツブツ切れ・時に大絶叫・時には速度を上げてまくし立てるという風にストレスが適度に弾ける場面があるのです。和事の場合にもフラリフラリと・時に右に行き・時に左に大きく振れながら・それで適度な発散はしているわけです。和事でも時にカツンと来ることはあるのです。ところが黙阿弥の七五調の揺れるリズムの台詞ではそのようなリズムの破綻の場面が乏しいと思います。ストレスが弾け・イライラ気分が発散されるところがない。上記のお嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻(アクセント)は「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって付けられており、お嬢吉三の台詞自身から破綻が発するのではないのです。掛け声が終わると、お嬢吉三はまた同じリズムで滔々と台詞を続けます。閉塞した気分は揺れながら漂い・決して解決されることがありません。

揺れるリズムとは典型的なロマン的心情のリズムであると申し上げました。西洋音楽では揺れるリズムの音楽は19世紀半ば過ぎから盛んに現れます。その典型的な音楽形式は舟歌(バルカローレ)です。例えばオッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」の第2幕・ベネチアの歓楽街で歌われる有名な「ホフマンの舟歌」です。「ホフマン物語」はあらかじめ消え去ってしまった愛・求めても実現しない愛を描いています。詩人ホフマンが愛する女性は人形(オランピア)であり・娼婦(ジュリエッタ)であり、真実愛する女性(アントニア)は死んでしまいます。ホフマンは愛するものを手にすることはできません。ですから「ホフマンの舟歌」は 幻想的で美しい旋律ですが、描いているものは死または虚無なのです。もうひとつ、舟歌では水のイメージが非常に大事です。これもまた死のイメージに深くつながっています。世紀末美術で盛んにとりあげられたもので水に関連する題材(モティーフ)のひとつに、恋人ハムレットへの恋に悩乱したあげく・気が狂って河に落ちてしまったオフィーリアの死体が河面を静かに流れていくものがあります。ですから舟歌の揺れるリズムは水のイメージ・死のイメージなのです。

このことは黙阿弥の七五調を考える時に重要な示唆があると考えねばなりません。幕末期の黙阿弥の作品(すなわち四代目小団次との提携期である)はどれも隅田川のイメージと切り離すことはできないからです。例えば「忍ぶの惣太」・「三人吉三」・「弁天小僧」・「十六夜清心」・「鋳掛け松」です。黙阿弥の世話物の舞台となる浅草と隅田川周辺というのは、江戸の二大悪所と言われた吉原遊郭と芝居小屋があり、そこは徳川幕府によってまさに「他界」として位置付けられた地域でした。(別稿「監獄都市・江戸の都市構造」を参照ください。)また江戸時代には隅田川では実際身投げが多かったようで、「三人吉三」でも土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが昔は盗賊で、その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬することをするようになって、それで誰とはなく彼を土左衛門伝吉と呼ぶようになったという設定になっています。(別稿「生と死の境」を参照ください。)黙阿弥の七五調の揺れるリズムの背後には つねに水のイメージ・死のイメージがつきまといます。そこまで考えれば黙阿弥の七五調がどうして幕末期の・江戸歌舞伎のまさに最後の最後になって誕生したのか・その理由が明確に分かるはずです。それは袋小路に追い込まれた幕末江戸の閉塞した気分を反映しているのです。

お嬢吉三になったつもりで・奪った刀(庚申丸)を手にして隅田川に向かってポーズを取って・明るく輝く月を見上げながら長台詞(ツラネ)を言う場面を想像してみてください。隅田川はゆったりと流れて、その波は静かに揺れています。河面には月の光が反射して・それがユラスラと幻想的な光景を見せています。向こう岸の街の明かりも河面に静かに揺れています。それを見ながらお嬢吉三が気持ちよく「月も朧に/白魚の/篝もかすむ/春の空」と台詞を言う時、そのリズムは美しくユラユラと 河面に揺れるのです。これが本当の黙阿弥の七五調のイメージなのです。(この稿つづく)

(H21・6・24)


27)黙阿弥の七五調・4

黙阿弥の七五調にはストレスが弾けてリズムが破綻する内的要因が見当たらないようです。お嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻は「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって付けられており、お嬢吉三の台詞自身から破綻が発するのではありません。このことは波のように揺れるリズムの特性によります。舟歌ではありませんが・同じく揺れるリズムを持つ代表的な旋律を例に挙げますと、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」第2幕の「森のささやき」の場面がそうです。ドイツの深い森のなかで・風に静かに揺れる木々のざわめきが聴こえてきます。それはジークフリートにとっては顔を知らない母の胎内にいるような安らぎを覚える心地良さです。ところが、そこに突然小鳥の声が響きます。小鳥の声はジークフリートに新たな冒険・旅立ちを示唆します。小鳥の声に誘われるかのようにジークフリートはブリュンヒルデの眠る炎の山への歩みを始めます。この場合も小鳥の声が破綻の外的要因として働いています。

小鳥の声は二通りの意味を持ちます。ひとつは母の胎内に留まっていれば確かに安心・安全ではあるのですが、それはジークフリートが原始状態・あるいは愚鈍な隷属状態に留まることであり、さらなる成長をするために男は歩みを進めねばならない、小鳥の声は旅立ち・冒険を即す知恵の声であるということです。それは「汝、目覚めよ」という声なのです。もうひとつは、ジークフリートが荒波のなかに乗り出していく時、彼は否応なしに世間の権謀術数のなかに巻き込まれ、それはもしかしたら最終的に彼を悲劇を導くことになるかも知れないということです。事実ジークフリートは炎の山へ歩み・そこで妻となるブリュンヒルデを見出すのですが(そこまでは良いのですが)、続編の「神々の黄昏」ではハーゲンの陰謀に巻き込まれて・殺され、その死はやがて神々の世界の破滅を導くことになります。ですから小鳥の声は 彼を破滅へ導く声かも知れないのですが、同時に一旦それを聞いてしまったら・ジークフリートを内側から突き動かす強い強制力を持つ声でもあるのです。

お嬢吉三の長台詞での「厄落とし厄落とし」という声にもドラマ的な意味を感じます。この時にお嬢吉三が手にしている刀(庚申丸)と・そして百両こそが、まさしくこの「三人吉三廓初買」のドラマ全体を動かし・その後の三人の吉三郎の運命を引きずりまわす元凶だからです。するとこの時の「厄落とし厄落とし」は「そんなもの(厄)は早く捨ててしまえ」という天の警告なのかも知れません。それを捨てなかったから三人の吉三郎は悲劇に向かうとも言えそうです。この声はまだ主人公を改心させるだけの力は持っていないようです。

しかし、黙阿弥・特に幕末期の四代目小団次との提携作品においては、偶然の外的要因が主人公の心境変化の大きなきっかけとなって、そこから他動的に変心していくものが実に多いのです。「十六夜清心」では隅田川の岸で清心は死のうとしますが、「・・・ちょっと待てよ」と言って変心します。主人公の変心を即す伏線となるものは、その前に奏でられる清元の旋律です。よそ事浄瑠璃的に使われているその清元は、その情緒纏綿たる雰囲気によって清心の世俗への執着を引き出しています。「鋳掛け松」で松五郎は橋の上から船上でドンチャン騒ぎをやっているのを見て頭に来て「あれも一生、これも一生・・・」と言って変心してしまいます。偉そうに言っても・どちらの変心も盗賊になるだけのことです。その先に待っているのは破滅でしかありません。彼らはその正体をまだはっきりと認識してはいません。しかし、彼らは「汝、目覚めよ」という声を確かに聞いたのです。

但し書き付けますと、「十六夜清心」の清元や「鋳掛け松」のドンチャン騒ぎが直接的に「汝、目覚めよ」と言うメッセージを含んでいるわけではありません。主人公のなかに無意識的な形で状況に対する憤懣がずっと渦巻いており、それがある些細なきっかけで化学反応を起こすように目覚めるのです。それは主人公の内的な変化ではありますが、他動的としか言いようのない変化なのです。

このような偶然の外的要因をきっかけに主人公が他動的に変化するドラマは、幕末江戸の閉塞した気分から来るものです。それは緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分を醸し出します。それは台詞としては独特の揺れるリズムを持つ七五調となって現れ、ドラマツルギーとしては他動的な 変心という設定となって現れます。どちらも表裏一体で切り離せないものです。(この閉塞した時代の空気を打ち破ったのが黒船という外的要因であったことは決して偶然ではありません。結局、そういう形でしか明治維新はならなかった。このことは「歌舞伎素人講釈」のテーマではありませんが、日本人として考えておくべき歴史的な課題です。)

このことは別稿「黙阿弥のトラウマ」でも触れました。黙阿弥個人の段階としては・ライバル瀬川如皐に水をあけられ・隅田川に身投げしようかと思いつめ・街を当てもなくさまよった若き日の体験から来るように吉之助は想像します。橋から身を投げようかとユラユラ揺れる河面を見つめていると、そこに街の灯かりが揺れています。どこからかドンチャン騒ぎも聞えて来ます。愉しそうな小唄や三味線の音も聞こえて来たでしょう。死を考えている黙阿弥にとってそれは煩い・イライラしたしたものにしか聞こえないのですが、実はそれが黙阿弥の意識を世間の方に・生きる意欲の方へ繋ぎ止める働きもしているのです。「あれも一生、これも一生・・・」ということを若き黙阿弥も考えたかも知れません。そこで黙阿弥は盗賊になろうとはもちろん思いはしなかったのですが、多分何かの強い破壊衝動は感じたと思います。自らは明確な形を取り得ない七五調の揺れるリズムに「汝、目覚めよ」という旋律が重なる瞬間です。その瞬間をきっかけにして、ドラマは内側から動き始めます。黙阿弥のドラマをそのように理解したいと思います。(この稿つづく)

(H21・6・28)


28)黙阿弥の七五調・5

黙阿弥の七五調はそのすこし前の瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」(切られ与三郎)の台詞とはアクセントがちょっと違っています。与三郎の有名な科白「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し・・・」 では、「がねえこいの/さけがあだ/のちのつなの/れたのを」という風に、すべてユニットの頭にアクセントが付きます。これは関東方言の「頭打ち」のアクセントです。「切られ与三郎」の成功は人気の美男役者・八代目団十郎の魅力によるところも大きいのですが、関東なまりの科白が写実を感じさせたことも大きな魅力であったのです。最近の与三郎の台詞を聞くとねっとりと引き伸ばす感じでやられることが多いですが、本来この台詞は「しゃべり」・写実の要素が強いものです。

一方、黙阿弥の「七五調」を見ると、お嬢吉三の科白「月も朧に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと・・・」では、「つもおぼろに/しうおの/かりもかすむ/はのそら」という風に、七五のユニットの二字目にアクセントが付きます。これは「二字目起こし」と言って、上方のアクセントです。黙阿弥に強い影響を与えた四代目小団次は江戸生まれですが・大坂の小芝居で長く修行をした役者であり、芸風も科白廻しも上方仕込みでした。小団次が好んだ竹本・清元など浄瑠璃の多用も上方修行の賜物ですが、音曲はすべて二字目起こしの原則に沿っていますから・下座音楽との整合性を取るために科白もやはりその原則に沿わなくてはならないことになります。

このことは黙阿弥の七五調が如皐よりも音曲(様式)の方に若干寄っているということを示していますが、しかし、これは黙阿弥の七五調が写実から離れたものだということを意味しません。むしろその逆であると思います。台詞を下座音楽から浮き上がらせる為に、台詞はより強く写実を志向せねばならぬと考えるべきです。様式の乖離感覚を出す為に台詞はさらに写実を志向すると言ってもよろしいのです。黙阿弥の登場人物を内的に突き動かす力は、七五調のリズムのなかに沸々としています。これが七五調の揺れるリズム・微弱な興奮と沈静の波が示すものです。状況に対する憤懣はアイドリング状態で主人公の心のなかに渦巻いており、「汝、目覚めよ」というきっかけの声さえあれば、それは一気に噴き出すのです。台詞のなかの反音楽的な要素・反様式的な要素こそドラマを内面から突き動かすものです。だから七五調の五のユニット・すなわち写実を表現する要素が重要になります。なぜならば黙阿弥の芝居は世話物なのであり・世話とは写実を志向するものだからです。

七のユニットはタテ言葉に似て・時代の感覚があるということを先に書きましたが、そうすると五のユニットは同じ長さのなかに5音しか入らないのだから・つまりそこに2音分の余裕があるわけです。この余裕を使って・如何にして世話の表現をたっぷり加えるかなのです。「月も朧に/白魚の」の「白魚」という言葉・あるいは「篝も霞む/春の空」の「春の空」という言葉にどういうニュアンスを入れるかは、黙阿弥の七五調を写実にするための大事なポイントです。また「月も朧に白魚の」で台詞が切れて・ここで息継ぎが入るのではありません。ここで区切ってしまうから台詞が意味をなさなくなり、黙阿弥の台詞は音楽美だなどという誤解が生じます。「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」までがひとつの台詞なのですから、それは一気に流れるように言わねばなりません。「白魚」をたっぷりと言って「の」を次のユニットにスムーズに繋げるのです。「の」を引き伸ばして詠嘆調にしてはいけません。すべての語句は「春の空」に掛かるのですから、そのように聴こえるようにリズムを組み立てるのです。「春の空」で大事になるのは「春の」の言い回しです。そこに春という季節ののったりとした雰囲気が欲しいわけです。ですから五のユニットのなかのリズムは一様なインテンポになるのではなく、語句とその意味によって微妙かつ自在の伸縮があるのです。そこに写実の工夫があるわけです。(この稿つづく)

(H21・7・1)


29)新歌舞伎のリズム・1

明治44年(1911)帝国劇場において坪内逍遥をリーダーとする文芸協会により第1回公演としてシェークスピアの「ハムレット」が上演されました。それ以前にも翻訳劇は上演されていますが、演劇史において「新劇の創始」とされるのがこの帝劇公演です。しかし、その評判はあまり結構なものではありませんでした。この時の芝居で「主役の台詞がせきこみ過ぎである」という評が出たそうです。つまり新歌舞伎での二代目左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」と批判されたのと似たようなことを言われたのです。これに対して逍遥は次のように反論しています。

『僕の耳に触れた評のたいていは、我々の劇を評するに在来の劇を評するとまったく同じ標準を用いていたようである。たとえば土肥氏の台詞回しをせきこみ過ぎると評した人があったが、その実あの調子が我々の工夫の一である。人物の性格に応じ、その情調に応じて在来の台詞回しにはかってないような調子を用いさせたような例がいくつもある。せき込むべき時にせき込むのは当然のことである。在来の台詞回しのようにただ見物に聞かせることを主にしたのとは別様に見てもらわねばならぬ。』(坪内逍遥・「ハムレット」公演後の所感・明治44年6月)

逍遥は「そのせきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言うのです。その工夫の詳細について逍遥は述べてはいませんが、しかし、逍遥の周辺の論文を追って行けばその察しはつきます。そのヒントはシェークスピアの英語の台詞のリズムです。ご存知の通り・逍遥はシェークスピア作品の全訳を最初に手がけた人ですが、その翻訳は「旧劇の雰囲気を濃厚に引きずって・旧文体で読みづらく・また古臭い」としばしば笑われます。しかし、「小説真髄」や「当世書生気質」などを書いて近代日本文学のきっかけを作った逍遥ほどの人物が文体に鈍感のはずがありません。逍遥は明らかに意図的にあの「古臭い」文体を駆使しているのです。逍遥は「沙翁劇の翻訳」(明治43年1月)において次のように書いています。逍遥はシェークスピアの韻文(それはエリザベス朝演劇の古い時代の近代英語なのです)のスタイルをそれにふさわしい日本語に移し変えるにあたり、日本古今の文学作品をいろいろと研究しました。その結果・文章の格調において近松周辺の浄瑠璃作品の文体が感じとしてそれにふさわしいと判断して、さらにシェークスピアの語彙の多さなどを考慮し・これに文化文政期までの物語本などの用語も参照しながら逍遥は翻訳を進めたのです。

シェークスピアの韻文の特徴はブランク・ヴァース(blank verse)すなわち韻を踏まない韻文だということです。韻を踏まないのにどうして韻文と言うのかというと、行末を空白(blank)に置くからです。つまり、文章にリズムがあれば・それが韻を踏んだのと同じ効果を生むことになり・それは詩(韻文)になるということです。逍遥以後 のシェークスピア翻訳には語呂合わせや駄洒落を組み合わせて・言葉遊びの要素を強調したものが多くあって、台詞にリズム感を出そうとするそのご苦労が察せられます。しかし、語呂合わせや駄洒落などはシェークスピアの文体の本質的なものではないのでして、実は言葉自体のリズムが重要なのです。だとすれば逍遥がシェークスピアのアイアンビック(ianbic)すなわち「弱/強」のリズムのリズムをその翻訳の基本イメージとするのは当然のことです。結局、逍遥が「せきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言うのは・日本古来の二拍子に「強/弱」(trochiaic)の アクセントを付けたものであり、これは本稿「アジタートなリズム」で記した荒事の・例えば「大福帳読み上げ」でのタンタンタン・・・・の基本リズムに結果的に極めて近いものとなったのです。(詳細は別稿[左団次劇の様式・10」を参照ください。)

新歌舞伎のリズムの基本イメージ:二拍子を基調にしながら、一拍目にアクセントを置いた「強/弱」(trochiaic)の アクセントを付けたもの。「弱/強」のアクセントならば・アイアンビック(ianbic)で、これはシェークスピア劇の台詞の典型的なリズムといわれるものです。(詳細は別稿[左団次劇の様式・10」を参照ください。)

もうひとつ・明治40年代・すなわち20世紀初頭の芸術思潮を考慮せねばなりません。それは別稿「左団次劇の様式」でも考察した「ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)」の考え方で、その基本理念はイン・テンポです。逍遥は「九世団十郎」(明治45年9月)において、明治40年代という時代を『いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である』と規定しました。このようなアジタートな・気ぜわしい・急きたてられた気分は単に当時の日本の状況を反映したというだけではなく、それは20世紀初頭の世界的な 時代気質というべきものから来るのです。それがタンタンタン・・・・の速い基本リズムに現れるものです。(この稿つづく)

(H21・7・12)


30)新歌舞伎のリズム・2

坪内逍遥が「桐一葉」・「沓手鳥孤城落月」により新歌舞伎作品の執筆を志した時、その根底にあったリズムはタンタンタン・・・・というインテンポの速いリズムであったと思います。それは決してシェークスピア様式の表層的な模倣ということではなく(もちろん発想のきっかけはそこにあるわけですが)、20世紀初頭という「無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代」の時代的気質の表出として必然的にこのリズムに極まってくるわけです。逍遥は豊臣家滅亡・大坂城落城という世紀末芸術的なテーマを取り上げることで作品に古典悲劇的な格調を持たせる工夫もしています。これが日清・日露戦争から戦争の時代に突入していく世相に同時代的な意味においてシンクロしてくるわけです。「沓手鳥孤城落月・糒倉」での淀君狂乱は、明らかにマクベス夫人の狂乱がイメージされています。淀君の台詞のインテンポのリズムは台詞に古典的に引き締まった厳しい造型を与えると共に、既に間延びしてしまっていた歌舞伎の台詞術にこれまでになかった新しい感覚を吹き込むことに成功しました。

淀君『何じゃ、右大臣じゃ。右大臣とは。秀頼殿は日本の武将、征夷大将軍じゃ・・・征夷・・(ト言いかけて、如何にも悔しげに、じっと向こうを見つめて)エエ、 くち惜しや、誰あろう、征夷大将軍の母を・・・(トさめざめと泣き出す。饗庭の局が介抱しようとして寄るを手荒に突きのけ)おのれ、ようもようも、(ト急に目に角立て)何じゃ何じゃ、妾じゃ。妾とは何じゃ。今一度言うて見い。もう一度言うて見い。・・・・ ヤイ日本四百余州はみずからが化粧箱も同然じゃぞ。(しばらく無言で睨みつけて)フム、面白い。聞きましょう。・・・(ト誰かの言葉を聴いている思い入れ。やがてまた急に気色ばんで)ヤイ誰かある。治部少輔を呼びや。治部少輔を・・・・。』(「沓手鳥孤城落月・糒倉」・明治30年9月に「新小説」の付録として発表。初演は明治38年5月・大阪角座・初演の淀君は十一代目仁左衛門)

淀君の表情・言動がころころと変転して一定しないところに・ロマン的心情の発露を見るべきですが、もうひとつの特徴が淀君が無言で狂態を見せる長い間合いがとても多いことにあります。こういう場面では次は何が起こるかと観客はぐっと息を詰めて舞台を見るわけですから、演技に一貫したリズム感覚がないと・観客は疲れて全体が見れなくなってしまいます。それでは何でリズム感を付けるかと言えば、それはもちろん台詞のリズムによってです。ここでのインテンポのリズムは「機械的なリズム」と呼ぶべきですが、淀君は迫り来る滅亡への予感に慄いており・その感情のなかで突き動かされる木偶であるのです。それがインテンポのリズムが示すものであり、それは20世紀初頭の芸術思潮である「ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)」と密接につながっているものです。一方で淀君お傍の饗庭の局の台詞を比べてみます。

饗庭の局『(泣きながら)ササそのお嘆きもお怒りも、お道理とも、ことわりとも、御もっともとも、当然とも、申し上ぐる言葉とてもござりませねど、何を申すも此のように御本心無き御有様でござります。』

ある座談会で「余韻を重んじ・言葉少ないのがいいとして・逍遥が力を入れて書いたところ(淀君の台詞)より、「そのお嘆きもお怒りも・お通理とも・ことわりとも・ごもっともとも・当然とも・・」なんて台詞の方が芝居らしくて面白い」とお笑いになった先生方がいらっしゃいました。まず申し上げておくべきは、迫り来る滅亡へのリズムをひしひしと感じている淀君にとって、それを感じ取れない周囲の鈍感な人々はまったく別世界の人間だということです。もちろん彼らは淀君の敵ではありませんが、概念上は淀君と対立している人たちです。だから逍遥はわざと旧来調の古臭い・まあ言ってみれば芝居らしい台詞のリズムを饗庭の局に与えているのです。そういうところに逍遥の芝居好きの地が出ていることは事実だと思います。しかし、逍遥が新歌舞伎で目指すところの本意は、逍遥が言うように「在来の台詞回しのようにただ見物に聞かせることを主にしたのと別様に見てもらわねば」分からぬものです。逍遥が新歌舞伎で目指すところのものがどこに現れるかと言えば、台詞の様式から言えばそれはタンタンタン・・・・というインテンポのアジタートなリズムなのです。

二代目左団次の新歌舞伎については別稿「左団次劇の様式」で詳しく論じたのでそちらをお読みいただきたいですが・新歌舞伎運動のなかで二代目左団次(とそのブレーンたち)は坪内逍遥とまったく別の流れになりますけれど、彼らもまったく別の経路から同じタンタンタン・・・・というインテンポのリズムに到達したのです。左団次の発想の原点は明治39年(1906)の欧州演劇視察旅行・特にロンドン演劇学校での体験であったと吉之助は考えています。しかし、結果として左団次も逍遥も共に同じリズムに到達した根拠はもちろん20世紀初頭の時代的気質にあるのです。この時代においては日本史も「世界のなかの日本」という視点で読まねば正しい形はつかめません。もちろんこの時代の歌舞伎も同様です。新歌舞伎のアジタートなリズムは、明治末期から大正期の日本の状況だけから読むものではなく、20世紀初頭の世界を取り巻く状況を念頭に入れて読めば・その意味はおのずと明らかになるのです。(この稿つづく)

(H21・7・18)


31)原型(オリジナル)とは何か

七代目三津五郎は他の役者に芝居の型を教える時には次のような教え方をしていたそうです。「九代目団十郎は次のようにやった。自分(三津五郎)は九代目とは柄が違うので・ある部分は工夫してこのように変えてやっている。しかし、あなたは 私のようにやってはいけません。本当はこのやり方(九代目のやり方)が正しいのです。」という風にです。三津五郎は九代目団十郎とは柄も仁も違うので・自分の寸法に合せて型を工夫しているのですが、他人に教える時には必ず原型(オリジナル)に立ち返って、何が正しく・何が正しくないか・自分はどこを変えたのかをしっかり押さえて教えるのです。この教え方は伝統芸能の伝授の時に大事なことなのですが、実際にはとてもラフな形でそれが行なわれていることが少なくないようです。「俺はこのやり方でやってるよ・あとはお前の工夫でやりな」で終わりということです。だから、その役者の仕勝手(良く言えば工夫なんでしょうけどね)が無批判的に伝わって・原型がどんどん崩れていく・何が正しいかが分からなくなってしまうのです。

ですから歌舞伎の舞台を見ていて「何が正しいか」を見極めるためには、その舞台を見て「良かった・悪かった」の印象だけで判断してはいけません。「良かった」けれども正しくないということが、実はたくさんあるのです。しかし、正しいものは必ず良いはずです。もし「正しい」けれども良くないと感じるならば・それはその役者が十分その型を消化できていないからそうなるのであって、「正しい」けれども良くないということは絶対にありません。

昭和10年代半ばのこと・六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞廻しは親父(五代目菊五郎)の言い回しとは違う。あれでは世話でなくて・時代世話だ」という趣旨の発言をして物議を醸したことがありました。周囲の反応は「俺が贔屓にする橘屋を悪く言うとは何事か・菊五郎はけしからん」というような感情的な批判、あるいは「六代目の言い回しは地味で渋いが、橘屋の方は華やかで音楽的だからずっと良い」とかいう印象批判的なものばかりで、菊五郎の真意はほとんど顧みられることがなく・菊五郎を大いに失望させることになりました。この事件を契機に菊五郎のマスコミ嫌いにますます拍車が掛かった感があります。しかし、六代目菊五郎の指摘することはとても重要です。六代目菊五郎の提起する問題は「世話とは何か・何が正しいか」ということです。

十五代目羽左衛門の七五調の言い回しは高調子であり・音楽的な節回しがあり、六代目菊五郎のボソボソした低調子の言い方より確かにずっと華やかに聴こえます。六代目菊五郎は何だか渋くて・芝居っ気がないように感じられるかも知れません。しかし、羽左衛門の言い回しは七五のユニットで見た場合に、七のユニットに比重が掛かっていることが明らかです。その結果・「黙阿弥の七五調」の項で述べた通り・七五のユニットは等間隔で展開せねばならないのに、七が伸びた感じになっています。七五調のリズムは時代と世話の揺り返しの感覚をそのなかに含んでいます。だから七に比重が掛かると、言い回しが時代の感覚に傾くのです。六代目菊五郎が羽左衛門の言い回しを時代世話だと指摘するのはそういうことです。「黙阿弥の七五調」は世話なのですから、五のユニットに比重を掛けるのが正しいやり方なのです。

ただし十五代目羽左衛門の言い回しそれ自体を「間違っている」と決め付けることはできないかも知れません。黙阿弥の七五調に様式的な要素が全然ないわけではないからです。それはお嬢吉三や弁天小僧の長台詞がしばしば「ツラネ」と呼ばれることでも分かります。ツラネとは本来時代物の用語ですから、お嬢吉三や弁天小僧のそれをツラネと呼ぶのはホントは正しくないのです。正確には「世話の長台詞」と呼ぶべきものです。しかし、そこに様式的な要素も確かにあるから、世間ではこれをツラネと呼ぶわけです。ですから本来はそこから世話の方に引き戻す表現に重きを置くべきですが、時代の方に押すことで・世話の表現との対比を付けるというやり方もあり得ることです。また五代目菊五郎は低調子の役者でした。一方・その甥っ子にあたる羽左衛門は高調子の声質であり・また九代目団十郎崇拝の役者でもありましたから、その言いまわしは羽左衛門の独自の工夫として一定の評価はできると思います。ただし、後世の役者が羽左衛門の言い回しを「良い」として・「世話とは何か」を押さえないままに・それを無批判的に真似るならば、それは問題であると思います。しかし、現実には多くの役者が羽左衛門のやり方を受け継ぎ、菊五郎のやり方は残らなかったのです。それは恐らく羽左衛門のやり方の方が何となく「華やかで良い」という見た目の印象・それだけなのです。そこに大きな問題があるのです。歌舞伎の案内書には「黙阿弥の七五調には、写実で地味な六代目菊五郎の言い回しと、音楽的な様式美を強調した十五代目羽左衛門の言い回しと二通りのやり方があり・・」と書いてあるものが多いと思いますが、これは正しい認識ではありません。正しい黙阿弥の七五調の言い回しは六代目菊五郎のものであり、十五代目羽左衛門はそのバリエーション(亜流)であると考えるべきです。吉之助が「ダラダラ調」と批判する現代の歌舞伎役者の七五調の言い回しは、十五代目羽左衛門の言い回しを無批判的に受け継いで・その結果七のユニットが伸びきった状態になったものだと考えられます。ですから、これを正しい七五調に戻すためには・「黙阿弥の七五調」のリズムが何を意味するのか・その正しい意味を知らねばなりません。(この稿つづく)

(H21・7・26)


32)原型(オリジナル)とは何か・2

七代目三津五郎は他人に型を教える時に、必ず原型(オリジナル)に立ち返って、何が正しく・何が正しくないか・自分はどこを変えて演じたかをしっかり押さえて教えたということについて触れました。原型の九代目団十郎とは柄も仁も違う役者が同じ型を演じるならここは変えても結構・しかしここを変えてしまったら九代目団十郎の型にならないよ・ここは変えてはいけないよ・ここを押さえなければいけないよということがあるのです。そういう違いが分かることが大事なのです。六代目菊五郎の指摘する通り・十五代目羽左衛門の言い回しはどちらかと言えば七のユニットに比重が傾いており・厳密に言えば時代世話ですが、まあこれは羽左衛門の工夫であるということも言えます。問題は後世の役者(それと 世間もですが)が十五代目羽左衛門の台詞を漫然と聞いて、それを音楽的な言い回しだと受け取って、七のユニットに比重を置いて節回しを付けてねっとりと言う・その結果七のユニットが伸びてしまうことが黙阿弥の七五調のお約束みたいにとらまえたことにあります。(この点については後段において・もう少し考察いたしましょう。)ですから六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞廻しは親父(五代目菊五郎)の言い回しとは違う」と指摘しても、「俺の贔屓の橘屋を悪く言うとは何事か・菊五郎はけしからん」みたいな 感情的な反応になって・まともな議論にならないわけです。黙阿弥の七五調において押さえるべきことは七五のユニットを等間隔に持つこと・それが七五調の様式感覚を生むのだということが分かってさえいれば答えは簡単です。十五代目羽左衛門がどこを変えたかを分かっていれば、そこを元に戻せば・ちゃんと五代目菊五郎の言い回しになるのです。

別稿「左団次劇の様式」では剛球投手二代目左団次の言い廻しを技巧派投手三代目寿海がどう工夫して受け継いだかを考察しました。現代の新歌舞伎での問題は寿海の新歌舞伎の台詞を漫然と受け継いで「台詞を緩急付けて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の台詞廻しだ」と思い込んでいることにあります。例えば昭和32年9月歌舞伎座の二代目猿之助(猿翁)の夜叉王・寿海の頼家が共演する「修禅寺物語」の舞台映像が残っています。左団次劇団の副将格が共演する記録はとても貴重なものです。二代目左団次の舞台どころか・寿海も猿翁の舞台さえ見たことのない後世の人間(吉之助もそのひとりです)がこの映像を見る時・大事なことは、「どちらの役者の台詞が巧いか」なんてことではありません。左団次劇を引き継いだふたりの役者がどこに左団次の面影を追って演じたのか・その共通した要素は何かということです。台詞を歌うか・歌わないかなどということよりも大事なものがあるのです。「修禅寺物語」は明治44年5月・明治座初演時は左団次の夜叉王・十五代目羽左衛門の頼家という配役でしたが、脚本を読めば・そこに共通した新歌舞伎のリズムが読み取れます。

頼家『あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情も湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。』(アタ/タカ/キ/ユノ/ワク/トコ/ロ/アタ/タカ/キ/ヒト/ノ/ジョウ/モ/ワク)

夜叉王『神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。』(シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●)

このリズムを念頭に入れて寿海と猿翁のそれぞれの台詞を聞けば、ふたりの役者がどこに左団次の面影を追って演じているのかは歴然としています。新歌舞伎の台詞で大事なことは、アジタートなリズムに現れる「胸のなかに溜ったものを吐き出さずにはいられない」という熱い思いです。前に押すアジタートなリズムこそが左団次劇の様式です。そこに二代目左団次の原型(オリジナル)がありありと聞こえてくるでしょう。(この稿つづく)

(H21・7・31)


エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その1

吉之助が「観劇随想」で「近年の歌舞伎の演技はどこかしら重い・・」ということをよく書くのはご承知かと思います。「近年」というのは大体昭和40年頃から現在までの歌舞伎のことを指しています。映像や録音などでそれ以前の歌舞伎を見たり・聴いたりしますと、吉之助の生(なま)で見た歌舞伎よりテンポが早く感じられて驚くことが多いのです。もちろんテンポが早ければそれだけで良いわけでもないですが、昔の方があっさりとして・若々しく簡潔な印象です。昔の歌舞伎の方が今よりもずっと感覚的に新しい感じがします。ですから吉之助が生の舞台を見ながらいつも考えるのは、こういう新しい感覚をどうすれば現行の歌舞伎に付加できるかなのです。

まあ歌舞伎のファンというのはいつの時代でも自分が舞台に熱中した時代の歌舞伎が最高と思いたいものです。ですからこういうのを感覚の相違にすぎぬと片付けてしまいそうです。吉之助は近年の歌舞伎が重く粘っていく傾向にあることは・歌舞伎の古典化の流れとして止め難いことだと思っています。しかし、伝統芸能としての歌舞伎役者は歌舞伎の干物化を阻止すべく古典化の流れに抗していかなばならぬと思いますねえ。古典化の流れにどっぷり浸ることは、歌舞伎の死を早めるだけです。古典化の流れに抗する手法としては猿之助や現・勘三郎の試みにあるような新作をやるとか・新演出をするとか言う方法論ももちろんあり得ます。しかし、もっと大事なことは歌舞伎役者が日常演じるところの古典作品において・どれだけポジティヴな演技ベクトルを保持できるかなのです。「脚本のこの箇所を整理すれば何秒カット出来る。ここを省けば芝居をぐっとテンポ・アップできる」ということはよく言われますが、現行歌舞伎役者の間延びした演技に対する反省・批判は全然言われていないと思います。例えば台詞廻しについてです。そこで本稿では、どうして現代の歌舞伎役者の台詞廻しは間延びして・テンポが重くなるのかということを「アジタートなリズム」の締めくくりとしてちょっと考えてみたいと思います。

いつの時代においても、偉大な芸術家が出現してその時代の芸術のスタイルを変革して・周囲の者がそれを模倣し追随することで芸術の大きな流れが出来ていくものです。音楽・芸能のような再現芸術(パフォーミング・アート)の場合は特にそうです。ひとたびカルーソーやカラス・ホロヴィッツのような天才が出現すれば・その後に出てくる演奏家はそのように歌わないと観客からなかなか「良い」とは言われないという苦難の時期がしばらく続くのです。歌舞伎でも初代団十郎のように演らないと荒事とは言われません。初代藤十郎のように演らないと和事とは言われません。三百年も前の役者など具体的なイメージはほとんど残ってないのですが、荒事・和事ということになればそのイメージは明確に立ち現れます。これはとても不思議なことですが、そのイメージとは「演者の風」とでも言うべきものです。そこに初代団十郎・藤十郎というものの何かがあるのです。これを如何にして自分なりに忠実に追うかということが、歌舞伎役者の課題になるのです。

先人のお手本を後輩が心を込めて丁寧に再現しよう(つまり模倣しようと・なぞろうと)努めると、大体その演技のテンポは遅くなるようです。これは模倣するという初期段階(まだ自分の血肉と化していない)においては仕方がないことです。台詞廻しのことで言えば、台詞の要素には節回しとテンポのふたつがありますが・このふたつは不可分でして、節回しを情感を込めてなぞろうとすると・どうしてもテンポが自然と遅くなるのです。もちろんテンポを遅くせずに節回しに情感を込める方法はあります。その場合はリズムの刻みを深く持つのです。つまり息を詰めて・テンポを本来の速度に正しく保ちながら・線をなぞっていくことになるわけで、これはなかなか技量が要ることです。一般的には節回しに力を込めると・いくぶんテンポが落ちるという関係なのです。ですから、古典化というのはある種の上等な「なぞり」でありますから、歌舞伎の古典化においてリズムが遅く・重めになることはまあ傾向としては仕方ないということです。能楽も世阿弥が生きていた時代にはもっとテンポは早かったと言われていますが、能楽も今のテンポに落ち着くことで「幽玄」のイメージを手に入れて古典化しているわけです。歌舞伎もその方向に行くことは避けられません。

歌舞伎は能楽と違ってまだ生乾きの伝統芸能(古典化が現在進行形の伝統芸能ということ)です。しかし、歌舞伎にそのような古典化の方向を認めつつも、現行歌舞伎に次のような問題点を見ないわけにはいきません。それは歌舞伎役者が息を深く取れていないということです。吉之助の師匠である武智鉄二は「息がつむ」ということをとてもうるさく言いました。それでなくても「なぞり」ではテンポが遅くなり勝ちになるのに、息を深く取れていないから正しいテンポを維持しきれない・だからテンポが「なし崩し的に」遅くなっていくのです。逆にテンポが遅くなったことに気付いてテンポを早い方に戻そうとすると、息が浅いと今度は節回しの方が崩れていきます。現行歌舞伎ではそのような現象がいたるところで見て取れます。もうひとつ同様の問題が観客の方にもあるのですが、それは観客も役者も同じ時代空間を共有する以上当然のことです。何だかいつもセカセカして・イライラして・急きたてられて・落ち着かない現代は「息を深く持て」と言っても自然に息が浅くなってしまう・そういう時代なのです。逆に言いますと、こういう落ち着かない時代であるからこそ、現代から時空を隔てて江戸の世界に遊ぼうという歌舞伎の場合には、意識して「呼吸を深く持つ」ことを学ぼうという・そういう鑑賞法があって良い。現代においては「呼吸を深く持つ」ことの重要性がさらに増していると思うのです。そのためにはまず歌舞伎役者の台詞術から直していかねばなりませんねえ。(この稿つづく)

(H21・8・3)


エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その2

『西洋の声楽家が日本に来て、アンコールに日本の歌をよく歌いますが、向こうの発声法の人であるにもかかわらず言葉がよく聞こえますね。これは日本の声楽家への大変な挑戦状じゃありませんか。向こうの発声法でもそのシステムが本当に身体の中に入り込んでいれば、外国語である日本語を聞いた場合に、自分の発声のヴァリエーションのどこかで日本語をとらえられるのではないですか。おそらくシューベルトの歌を歌う場合とモーツアルトのオペラを歌う場合は発声法を変えているのですね。しかし、それが生半可な習得だと、硬直状態でいつも同じ発声法になってしまうのではないでしょうか。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

ジェシー・ノーマンがリサイタルのアンコールで「さくらさくら」を歌ったのを聴いたことがありますが、実に素直に歌っていました。「さくらさくら」のような歌であると「一音符」の長さをひとつの音程で一語を一定に保つことが・西洋歌曲の感覚であると単純過ぎて難しいだろうと思います。ノーマンは息を腹に保つ力があるからそれができて、しかも、ひとつひとつの音を手のひらに乗せて大事に大事に発声している感じがあるのです。また、意味が分からないまでも・ノーマンは日本語の語感を天性でつかんでいるのでしょう。作曲家・団伊玖磨氏の指摘する通り、クラシック音楽の日本人歌手が日本の歌曲を歌っている場合に、その日本語の発声がとても不自然に感じるということがしばしば起こります。シューベルトの歌曲は上手に歌えるのに、日本歌曲のイントネーションが大年増の厚化粧みたいに妙に気持ち悪 くなるのです。むしろアマチュア歌手が歌う日本歌曲の方が発声が素直なのか言葉がよく聞こえます。恐らく日本のクラシック歌手は表現を芸術的に高めようと情感を無理に込めるために言葉の抑揚が不自然になり勝ちなのです。「上手の手から水が漏れる」ということです。この問題を考えるには団氏の次の言葉がヒントになると思います。団氏は日本歌曲のなかにある「一音符一語主義」について次のように語っています。

『日本語をどのような音型化していくかという問題にしても、一音符一語主義が無批判的に伝承されてきて、例えば「私はあなたを愛します」は「ワタシハアナタヲアイシマス」と十三の音符で書いて疑わない。外国の歌で「I  love you」なら三つ、「Je t'amie」なら二つの音符で表現できるのに日本語では十三音符が必要だということの不自然さに気がつけば、日本語をどう音楽化するかというシステムを作ったはずでしょう。そういうことだけでも先輩たちの手でできていたら、次の時代にまったく新しい生きた日本語の歌ができていたはずでしたね。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」)

「私はあなたを愛します」を「ワタシハアナタヲアイシマス」と13の音符で書いて疑わないということは、つまり「私はあなたを愛します」を13の同じ長さの刻み(リズム)で捉えて疑わないということです。確かに日本歌曲は基調のリズムとして はその刻みで成り立っているわけですが、言葉のリズムというものは人間の息に発するもので生き物なのですから、本来ははそれ自体にある範囲のリズムの伸縮(揺れ)を持つのです。つまり、言葉をメトロノーム的な機械的な刻みとして厳格に捉えてはならぬわけです。言葉の持つ自然な揺れを無視して・機械的な刻みを無理に守ろうとして・その一方で情感を強く込めようとすると抑揚が不自然になってしまいます。クラシック歌手の日本歌曲によく見られる現象はそういうことです。このような事態に陥らないようにするには、言葉のリズムの刻みをゆったりと持つ・言い換えると息に余裕を持つということです。つまり厳格な意味においてリズムの刻みを正確に保つ必要はない・歌において大事なのは言葉の息であると割り切ることです。ただし、あまり余裕を持ちすぎても音楽としての格調は出せません。基調のリズム感覚を乱さない程度に・リズムに遊びを持たせるということです。ところが、不幸なことに・西洋音楽の五線の記譜法ではそのような音符の長さを自在に持つ記し方はできないのです。基調の音符の長さを1とすると、ある音には1.05の長さを当て・別の音には0.95の長さを当てるというような記し方ができません。ここが西洋音楽を取り入れて新しい日本の歌曲を創造しようとした作曲家たちが直面した問題でした。日本の伝統音楽の記譜法ではその辺が曖昧に記されています。良く言えば自由度が高いわけです。だから、日本の伝統音楽にはリズムがないということが言われることがありますが、そうではありません。リズム(拍)がなければ音楽になるはずがありません。日本の伝統音楽にはそれを厳格な刻み・メトロノーム的な刻みとして捉えることはなかったということだけです。(注:西洋音楽においても息を深く持って・リズムの刻みに余裕を持つということはとても大事なことです。リズムを厳格に機械的に持ち過ぎますと、その音楽はしばしば窮屈になってしまいます。ですからリズムは崩してはいけないのは当然のことですが、そこに遊びがなければならぬわけです。)ですから団氏が指摘する通り・日本が西洋音楽を摂取する初期段階で「一音符一語主義」のイメージが立ちはだかったことが、明治黎明期の作曲家の道程をとても困難なものにしました。

吉之助の密かなお気に入りに「へフリガー・日本の歌曲を歌う」というCDがあります。(1992年5月録音) ドイツの名テノール:エルンスト・へフリガーが、ドイツ語訳で日本の歌曲を歌ったものです。歌詞翻訳は村上紀子さんとマルグリット・畑中さんのふたりにより行われたそうですが、この翻訳が素晴らしくて・まるでこれらの歌曲が初めからドイツ語の詩に作曲されたかのように聞こえます。山田耕作作曲・北原白秋作詞の「この道」を見てみます。

白秋詩「この道はいつか来た道 ああそうだよ あかしやの花が咲いてる」

ドイツ語訳「Ja, diesen Weg / seh ichi mich einmal gehen. / Ja, Ja, auf diesem Weg, / Akazienbaeume seh ich,  / Akazien seh ich bluehen. 」

吉之助が感じることは・この試みの成功は翻訳のうまさにだけ帰せられるものではなく、もっと本質的な問題があるのではないかということです。それは山田耕作の音楽が豊かな抑揚をその心底に求めているように 聴こえることです。つまり、日本語の平坦な抑揚では単純過ぎて・微妙な感情の綾を洋楽の手法では十分に拾い上げられない。また逆に山田耕作の旋律の持つ叙情を日本語の抑揚が支え切れない。そのようなことがあるのではないかと感じます。そのような日本語と西洋音楽を結び付けようとする明治の先達の苦労のほどが偲ばれて、とてもいじらしく感じられるのです。(この稿つづく)

*注:「エルンスト・へフリガー・日本の歌曲を歌う」は第3集まで発売されています。
・赤とんぼ~浜辺の歌/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本の歌曲 VOL.1
・浜千鳥~宵待草/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本の歌曲 VOL.2
・花の街~我は海の子/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本歌曲 VOL.3

(H21・8・10)


エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その3

日本音楽界の不幸は(敢えてこれを不幸と言いますが)、西洋音楽の摂取の初期段階において「一音符一語主義」によって・日本の伝統音楽との折り合いを付けたことでした。例えば日本最初の軍歌と言われる「宮さん宮さん」(宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいなトコトンヤレトンヤレナ・・)、あるいは鉄道唱歌(汽笛一声新橋を・はや我汽車は離れたり…)のリズムです。このリズムのなかにある種のマンネリズムが感じられるようです。このことがひとつの傾向を生み出します。

『山田(耕作)先生のオペラは、一音符一語主義というご自分のシステムに忠実ですから、どうしても人間の思考速度が無視されるのです。歌劇「黒船」のなかの緊迫した場面で、お吉が弁天島で姉さんにものを聞く場面があるのですが、そこで「ね・え・さ・ん/お・し・え・て/ちょ・う・だ・い/な」って歌うんだな。(・は音符の区切り、/は小節の区切りとお読みください)自分の運命がどうなるかという差し迫った時にこんなのんびりした言葉は変だ。「姉さん・教えてちょうだいな」と言うのじゃないですかと言ったら、「うん、それはそうだけど、オペラってものは拡大するんだ」とか言っておられた。劇的な迫力というようなものは管弦楽でつけて、歌はいつも情緒的に歌うのだとういうことを、ご自分独特の楽劇観からつねづね言っておられましたから、あのオペラも四時間くらいかかるでしょう。内容的には一時間半のものだと僕は思います。それがあんなに拡大されると、全部がピントの甘いレンズで見ているようなふやけ方になることにはどうも気がつかれなかった。あれほど演劇に詳しかった人でも自分のオペラになると、自分のシステムに淫したのですね。」(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)

「オペラってものは拡大するんだ」という発言はとても正直なもので・かつ興味深いものだと思います。団氏は「先生は演劇にあれほど詳しかった人なのに・・」と言っていますが、吉之助には「オペラってものは拡大するんだ」という山田耕作の表現は演劇に詳しい人でないと絶対に出てこない表現だと感じられます。この場合の演劇とは歌舞伎に限らず・能狂言も含む日本の伝統演劇です。例えば黙阿弥の七五調ですが、これもまたまた「拡大する」ものだと言えます。心理・感情を精妙に描こうとするほど次第に拡大して、リズムがダラダラ調に変化していきます。それと似たような道程を山田耕作のオペラも同じように辿っているらしいのが興味深く・またいじらしく思われます。これは偶然の一致ではない。吉之助はその原因の一端が「一音符一語主義」にあると思っています。

本稿「アジタートなリズム」をお読みになればお分かりの通り、吉之助は歌舞伎の台詞のリズムは写実の観点に立たねば解析できないと考えています。そのために「一音符一語」の原則は崩さなければならないと思っています。その意味では団氏の言いたいことは分かり過ぎるくらいよく分かります。しかし、そのような情緒に傾斜して・拡大しようとする 性質を日本語が本質的に持っていることもまた確かであるようです。恐らく「一音符一語」の観念は明治以後の音楽教育のなかで不必要に強められて・染み付いて・今日に至っているのです。このことを音楽家も・演劇に携わる役者も演出家もよく承知しておかねばなりません。日本語のなかにおのずと拡大しようとする性質があること・感情を込めようとすれば台詞が伸び勝ちになる性質があることを役者が十分承知して、この傾向を引き止め・写実の方へ引き戻す努力を役者が意識的にしていかねばならないと吉之助は考えます。歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調も・二代目左団次の台詞もこのまま放置していると同じようなダラダラ調に変化しかねませんし、もうすでにそれに近い状態になりかけています。ですから歌舞伎の台詞を意識して写実の方へ引き戻すこと、これが歌舞伎の活性化のために最も大事なことであると思っています。そのためには台詞のリズムをユニットで捉えて・息を深く持つ習慣を付ける必要があります。そのために「一音符一語」の原則は崩されなければならないのです。

日本の伝統音楽は二拍子(あるいはこれを細分化した形の四拍子)が多いということは音楽の解説書によく出てきます。例えばわらべ唄である「かごめかごめ」は二拍子です。しかし、「かごめ・かごめ」と同じ言葉を繰り返す時に・リズムを単純に繰り返しているかと言うと実はそうではありません。最初の「か」は一拍分長く、二番目の「か」は短くなります。最初の「め」は短いですが、二番目の「め」の後には一拍の休止があります。ただし、この休止は休みでも良いし・「めー」と一拍分伸ばしても良いのです。すなわち、最初の「かごめ」は頭に大きな音価が来て・次の「かごめ」では末尾に大きな音価が来て・このセットでフレーズのまとまり感を出すのです。ということは、「かごめかごめ」は二拍子だと言うけれど・単純な「一音符一語」の二拍子を取っているのではないということです。音符の長さは語句に応じて微妙に伸縮しているわけです。しかし、全体を聴けば二拍子の基本的なテンポ感覚は確かにあるようです。つまり大事なのは二(あるいは四)のユニット感覚だということです。ユニット感覚をしっかり出せるならば、ユニットのなかを多少自由に持ってもよろしいわけです。(本件については民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」・平凡社ライブラリーをご参考にしてください。)

*ちょっと極端な例ですが、リズムを柔軟に取りながら・ユニット感覚を保つ手法を例示します。上図の左半分ではリズムはインテンポの4拍子を取っており、ふたつのユニットで8の長さです。これを基調のリズムとします。図の右半分では最初の4拍は早くなっていますが・後の四拍をゆったり遅くすることで、ふたつのユニットで8の長さに合わせていることになります。

つまり、九代目団十郎が六代目菊五郎に語った間(ま)の考え方・『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)と同じ考え方がここにあります。最初が早くなれば・後を遅くしてユニットを合わせる。最初を遅くすれば・後を早くしてユニットを合わせる。結果としてユニット感覚が保たれていればそれで良いのです。

小泉文夫氏の指摘は、日本演劇の台詞にいかにして抑揚を加え・フレーズのまとまり感を生み出し・自然な音楽的なリズム感を生み出すかという課題のヒントになるものです。台詞の解析のポイントは、台詞が内包する登場人物の根源的な感情(心情)をどう捉えるかということです。本稿「アジタートなリズム」をお読みいただいて、歌舞伎 とはそれは「かぶき的心情」に発する演劇であり、それはリズム様式から見ると「アジタート」というキーワードにおいて括られるものであることがご理解いただけたと思います。歌舞伎は雑多な形式を取り込んだ演劇ですが、大きく捉えればそれらはすべてリズム様式では「アジタート」という概念のなかに乗ってくるものなのです。この認識をベースにして歌舞伎の台詞を「如何に写実に歌うか・如何に様式的に写実にしゃべるか」という風に考えれば、歌舞伎の台詞の解析は至極容易になるのです。

本稿冒頭に記した通り・折口信夫は「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどういう風にすれば良いか」ということを問われ、正しい発声やエロキューションが顧慮されていないことが歌舞伎の問題点だと指摘しました。役者の台詞回しを「調子が良い・悪い」という印象論だけで片付けてしまって、作品あるいは登場人物の台詞のフォルムを正しく表現するという観点から論じるということをしてきませんでした。役者が仕勝手で台詞のフォルムを崩しても、観客も劇評家も「役者の味で良いじゃないか」ということでこれを許してきました。このことが伝統芸能として考えた場合の現行歌舞伎の一番大きな問題点なのです。「歌舞伎の台詞は様式的な抑揚をつけて歌うもの」という漠然としたイメージを捨てて、歌舞伎の台詞が本来あるべきエロキューションをしっかり見出したいものだと思います。

(H21・8・15)

後記:本稿「アジタートなリズム」の後編として新歌舞伎の台詞のリズムを論じた「左団次劇の様式」も併せてご覧ください。





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