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黙阿弥のトラウマ

昭和30年6月歌舞伎座:「水天宮利生深川」(筆屋幸兵衛)

二代目尾上松緑(筆屋幸兵衛)他


1)リアルな幸兵衛

「水天宮利生深川」と言えば六代目菊五郎の当り狂言ですが、菊五郎は「筆幸」と言われると、「なに、筆幸?筆幸とはとんでもない。あれは筆を内職でこさえてるんだ、筆屋ってのはでかい店だ。お店のあるひとじゃないよ、あれは。」と言ってよく怒ったそうです。確かに黙阿弥全集を見ると、「筆売り幸兵衛」と書いてあります。それがいつの間にやら「筆屋幸兵衛」になってしまったわけです。なるほど幸兵衛は零落した武士であって・それが一本幾らの安い筆を内職してその日暮らしをしているわけです。

ご承知の通り、六代目菊五郎の立役の役柄は二代目松緑と十七代目勘三郎のふたりに継承されました。世話物でいえば髪結新三や按摩道玄は共通の役でしたから、それぞれ個性ある演技を見せてくれました。ただふたりの芸風はどちらかと言えば松緑は時代物向き・勘三郎は世話物向きという風に微妙に違っていましたから、なんとなく住み分けがされていて・役がかち合うという印象があまりなかったように思います。魚屋宗五郎は松緑の持ち役でしたが、どういうわけだか勘三郎は宗五郎をやらなかったようです。勘三郎は酒の好きな人でしたし・酔態はうまい人でしたから宗五郎はうまかっただろうにと思いますが、していないのです。

一方、「筆屋幸兵衛」というとこれは勘三郎の持ち役というイメージがします。 勘三郎の筆屋幸兵衛は、錯乱してからの演技が何とも面白うございました。筆を放り投げる時の目付きなどは狂気があって・いかにもそれらしかったし、何をするか分らない感じがあって・勘三郎の一挙一動に客席も大いに沸いたものでした。その狂態ぶりが何ともうまくて滑稽で・思わず吹き出してしまいそうになるのが勘三郎らしいところでした。

しかし、幸兵衛は貧しさのために一家心中をしようとして・まず赤ん坊を殺そうとして、しかし赤ん坊が可愛くて刀を見て笑ったりして何ともやりきれなくなって殺すことが出来ず・ついに錯乱状態に陥るのでして、その設定からしても本来はその狂態は笑える話でないわけです。しかし、そういうやりきれない話だから観客の方も身につまされてツーンと来るよりは・何となく笑いの方に逃げてしまいたくなる気配もあります。勘三郎の狂態の滑稽なのは、そういう観客の心理に悪乗りしたところがあるかも知れません。

そこで今回のビデオは松緑の「筆屋幸兵衛」です。まず吉之助は松緑が幸兵衛を演じたということを知らなかったので・こういう映像が残っていたのにまず驚いたのと、吉之助の記憶にある晩年のちょっと太めの松緑ではなく・壮年期の引き締まった男らしい容貌の松緑であったのにも感慨を覚えました。

この松緑の幸兵衛の面構えを見ておりますと・時代物の武士が似合う方ですから、それが情けない格好で登場しますと・なんだか零落した元武士が慣れない筆売りをしている哀れさを感じさせて・印象がリアルで生々しいのです。何と言いますか・あまり笑えないですねえ。(もちろん褒めているのです。)狂態になった後も勘三郎と同じことをしているのだけれど、何だか見ているこちらの顔が引きつって笑えないような感じがして、身につまされました。こういう筆幸もあるんだなあと思いました。勘三郎と松緑の筆幸のどちらが六代目菊五郎の筆幸に近いのかなあと思いながらビデオを見ました。おそらく松緑の方であろうなあと思います。だからと言って 吉之助の見た勘三郎の価値が下がるわけではありませんが。


2)よそ事浄瑠璃について

ところで本作で感心させられるのは「吹けよ川風揚がれよ簾(すだれ)、中の小唄の顔見たや・・」で始まる清元の使い方です。これは隣の裕福な漆喰屋では新年のお祝いに浄瑠璃の太夫を呼んで語らせているのです。その音楽が隣の幸兵衛の家まで聞こえてきて、「同じ世の人なれど身の盛衰と貧福はこうも違うものなるか」と嘆きます。これが「よそ事浄瑠璃」と呼ばれる下座の使用法です。幸兵衛が発狂すると・清元は「可愛い我が子が目を覚まし泣くしょざいか磯端に・・」と親の情愛を語り・幸兵衛は赤ん坊を抱き上げます。清元が「子ゆえの闇に漁(すなど)りの目に持つ雫(しづく)より涙にくれて恩愛の・・・」と語ると赤ん坊を抱きながらオイオイと泣き出すという具合です。

井原青々園は「床のチョボで愁嘆があり、泣き崩れると突然清元で佃の三味線を弾き出す、この一瞬間が自分には言うに言われぬ快い感じがした。それから始終義太夫と清元が入れ違って、悲しいとおかしいとの矛盾を縫っている。音楽の力でこれほど舞台のエフェクトを収めたところにこの作の価値はある」と書いています。まさにその通りだと思います。

こうした黙阿弥の音楽の使い方について、清元の性格から来るものだと思いますが・どちらかといえば感傷的な情緒的な・悪く言えばムード音楽的な受け止め方が一般的にされています。例えば「可愛い我が子が目を覚まし」で幸兵衛が子供を抱き上げる時、幸兵衛は外から流れてくる浄瑠璃に操られるかのように子供を抱くのか・あるいは幸兵衛の虚ろな心象風景を浄瑠璃が語るのか・そのどちらもあり得ます。しかし、それだけのことなら普通の下座音楽としてやっても十分なのです。あえてよそ事浄瑠璃の形態を取るのは、それ以外の目的が間違いなくあるのです。そこを考えてみる必要があります。

お隣の漆喰屋の浄瑠璃と・幸兵衛内の愁嘆とおかしみの騒動はお互いに引き合い・寄り添っているのではなく、実はお互いに干渉し・否定しあっているのかも知れません。この舞台には悲しいのとおかしみの交錯があり・貧しい者のと富んでいる者との交錯があり・世の浮き沈み変転の交錯があり、そのそれぞれの要素が干渉し互いを否定しあっているのです。つまり、相反する要素がバラバラに混在し・引き裂かれているのです。もちろん完全にバラバラではそれは芸術になりません。ある種の整理がされているからそれは芸術になるのですが、その本質は「バラバラ」にあるのです。黙阿弥は下座をよそ事にすることでそれを視覚的に見せているのです。(「直侍・大口寮」でのよそ事浄瑠璃の使い方も同様です。別稿「古き良き江戸の夢」をご参照ください。)

このことは吉之助に作曲家グスタフ・マーラーの挿話を思い出させます。マーラーの交響曲はまさに聖と俗の混交(ごっちゃまぜ)です。マーラーは作曲中に気高い旋律を発想している時にしばしば通俗的な旋律が頭のなかに入り込んできて曲を台無しにされることに悩んでいました。1910年にジークムント・フロイトがマーラーを診察し、フロイトはそれが彼の幼年期の体験から来るものと判断しました。マーラーの両親は夫婦仲が悪く・しばしば大喧嘩をしたそうです。見るに耐えない光景にグスタフ少年は戸外に飛び出し・町をさまよいました。その時に聞こえてきたのが、辻音楽師の手回しオルガンの奏でるウィーンの流行歌「おお、いとしのアウグスチン」でありました。「その時以来、深刻な悲劇性と軽薄卑俗な娯楽性が私の心のなかで結びつき、前者の想起は必ず不可避的に後者を呼び覚ます・・」とマーラーは書いています。(マーラーの事例はフロイトの診療のもっとも成功した例だと言われています。)

黙阿弥のこのよそ事浄瑠璃の使い方を見ていますと、吉之助はマーラーと同じような黙阿弥のトラウマ(精神的外傷)を想像しないわけにいきません。それは明治維新以後の黙阿弥が置かれた状況から察することが出来ますが、あるいはもっと以前・幕末期の黙阿弥の体験にその原因を遡るべきかも知れません。このことはその作品群を詳細に分析していけば分かると思いますが、今後の課題です。

例えば「十六夜清心・百本杭」(安政6年市村座初演)の清元は、その原型とも言えるものです。この場面は情緒纏綿たる黙阿弥の音楽美の代表のように言われますが・それは十五代目羽左衛門と六代目梅幸(あるいは当代仁左衛門と玉三郎)のような美しいコンビを想像するからそう思えるのでして、安政6年初演のいかつい風貌の小団次の破戒坊主とこれは美しい八代目半四郎の身重の女郎という不似合いコンビの心中シーン・そこに艶かしい浄瑠璃が流れると考えれば・これは結構皮肉かつ滑稽なミスマッチを呈しているのです。こうした下座の使い方が原型にあって・余所事浄瑠璃に発展していくと想像できると思います。

清元を背景にして・幸兵衛は赤ん坊を殺そうとして懊悩し、しかしついに殺すことができず・あまりの悲嘆に突っ伏してしまいます。その瞬間に松緑の幸兵衛はその引き裂かれた状況を見事に描き出しました。見事な幸兵衛でした。

(H17・9・4)

(後記)

「歌舞伎の雑談」での記事「黙阿弥とマーラー」もご覧下さい。




 

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