古き良き江戸の夢
〜明治維新以降の黙阿弥・その1
本稿の背景をご理解いただくために、この時代の流れを大まかに記しておきます。
慶応2年(1866)5月:四代目小団次没
明治元年(1868)7月:明治維新、江戸開城、江戸を東京に改める
明治11年(1878)6月:新富座開場。この日、黙阿弥は最初で最後の燕尾服を着る。この前後から旧劇の象徴として黙阿弥への批判が高まる。
明治14年(1881)3月:「天衣紛上野初花」初演。同年11月、二代目河竹新七は「島鵆月白浪」を書いて黙阿弥を名乗り引退。ただし、黙阿弥の作劇はその後もつづく。
明治16年(1883)11月:鹿鳴館開場。欧化熱が高まる。
明治19年(1886)8月:演劇改良会発足。黙阿弥への風当たりは一層強くなる。
明治20年(1887)4月26日:麻布井上伯爵邸で天覧歌舞伎。ただし、黙阿弥はこれに参加せず。
明治22年(1889)2月:大日本帝国憲法発布。
明治26年(1893)1月3日:黙阿弥死去。
1)古き良き江戸の夢
「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」が初演されたのは明治14年(1881)3月新富座でありました。この時の河内山は九代目団十郎、直侍は五代目菊五郎・三千歳は八代目半四郎が演じました。この芝居が企画されたのは、この年3月1日から上野で第2回内国勧業博覧会が開催されることになっていたので・このために上京する人々を当て込んだのです。はるばる遠方から東京にやってくる人たちにとって博覧会はもちろんですが・芝居見物も重要な目的であったわけです。
その9年後の・明治23年(1890)に本作が再演されています。直侍はもちろん五代目菊五郎ですが、半四郎はすでに没していたので・三千歳にはまだ若い四代目源之助が抜擢されました。ちなみに源之助は初演時には新造千代鶴を勤めていて、この芝居のことを充分承知していたのです。
源之助の思い出話によれば、この再演の打ち合わせの時に五代目菊五郎が「三千歳は大口の寮へ出養生に来ているのだから・半四郎が演った時のように・店に出るような胴抜きに巻帯で・それに裲(うちかけ)を着ている衣装はおかしい」と言い出したのです。それで 一晩中、源之助は衣装をいろいろ考えたのですが、翌日に菊五郎に会うと、菊五郎は「いけねえいけねえ、書きおろしに半四郎(やまとや)がせっかく苦心した拵えだ。あれで御見物が何とも言わなかったのだから、そのままにしておこう」と言ったので、結局、そのままになったというのです。だから、三千歳の衣装は今日でもほぼ半四郎の拵えのままなのです。
このエピソードは非常に興味深いものがあります。まず五代目菊五郎が半四郎の拵えはおかしいと言い出したことです。三千歳は病気のため入谷村大口寮に養生に来ているわけです。したがって、いくら女郎と言っても店に出ているような拵えでいるはずはなく、髪も結わず・お化粧もしていないはずなのです。大体吉原の花魁は 特殊な職業で廓のなかでは素人の成りができませんから、寮に来たとなるとお針の半纏でも着てみたり・飯炊きの前掛けを掛けてみたりして、かえって素人の女房の真似をしたがるものなのだそうです。
世話物とは江戸の現代劇です。江戸の市井の風俗をリアルに映すものです。五代目菊五郎は常に凝る人でしたから、半四郎が成りを綺麗に見せたがる気持ちは分か らなくないし・情緒纏綿たる浄瑠璃に似合ってもいるけれど、三千歳が店に出るような胴抜きに巻帯で裲(うちかけ)を着ているのはおかしい・これでは写実(リアル)でないと感じて相手役を勤めながらも 腑に落ちなかったのでしょう。しかし、大先輩の半四郎に さすがにそんなことは言えなかったのです。だから、「直侍」を写実に戻して演ってみたいというのは菊五郎がずっと温めてきたプランだったのだろうと思います。その菊五郎が一晩で考えを変えてしまったというのが不思議です。恐らく菊五郎はその晩に自分の考えを誰かに相談に行ったのだと思います。そしてその人物に止められたのでしょう。その人物は黙阿弥だったろうと思います。
以下は吉之助の推論であります。菊五郎を説得したのが黙阿弥ならば、黙阿弥は多分こんなことを言ったではないかと思います。「御見物は東京を見に来るのじゃない・古き良き江戸を舞台に見に来るのだ。ならば舞台を綺麗なままにして御見物に夢を見せてやろうじゃないか」と。
しかし、黙阿弥がそう言ったのだとしたら、それも吉之助は奇異に感じるのです。菊五郎は「直侍」を本来の写実に戻そうとしているのだから、「そうだ・そうだ」と黙阿弥は賛成するのが自然じゃないかと思うわけです。
菊五郎は黙阿弥は自分の考えが分かってくれるはずだと思ったから黙阿弥のところに行ったのでしょう。黙阿弥も菊五郎も写実を旨とした四代目小団次学校の生徒なのです 。世話の定式から言えば、三千歳は髪は結わず・化粧もせず・病気でやつれた姿で直次郎にすがりつくというのが正しいはずです。そこによそ事浄瑠璃が流れるのはなんとも艶かしいものではないでしょうか。そもそもよそ事浄瑠璃の面白さは、情緒纏綿たる音楽と・それに似合わない粋(いき)とは言えない舞台面(つまり写実の現実的な舞台ということですが)とのミスマッチを狙ったものです。写実の舞台で似つかわしくない色模様を見せるのがよそ事浄瑠璃なのですから、それがピッタリはまってしまう拵えは本来ではないはずです。だから黙阿弥は大口寮で写実の舞台を想定したと思うのです。 (「筆屋幸兵衛」でのよそ事浄瑠璃の使い方を思い出してください。別稿「黙阿弥のトラウマ」をご参照ください。))
吉之助は、明治14年の初演の時の半四郎の三千歳の拵えについては黙阿弥も菊五郎と同じように不満に思ったと思っています。初日しばらくして出た批評の指摘でやめたのですが、半四郎は最初は笄(こうがい)も差して舞台に出ていたようです。かなり写実から離れたものだったのです。もっとも御見物には好評だったようです。それも事実なのですが、やはり世話物作者の黙阿弥ならばこの写実でない拵えを不満に思わないはずがないと思います。あるいはそういう不満をふっと漏らしたかも知れません。だから、菊五郎も黙阿弥は舞台を写実に戻すことを賛成してくれると思って相談に行ったのだと思うのです。
ところが9年後の明治23年後に菊五郎が相談に行った時には黙阿弥は菊五郎に逆のことを言った(と推測される)のです。そこに吉之助は、この9年間の歳月の黙阿弥の心境の変化、黙阿弥の置かれた苦しい状況を見るわけです。
2)同時代劇であることをやめた歌舞伎
明治14年11月新富座での「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を以て二代目河竹新七は黙阿弥号を名乗って引退します。もっとも守田勘弥に「引退してもスケとして手伝って欲しい」と頼まれて・その後も芝居を書いていますが。黙阿弥が引退を考え始めたのは明治11年新富座開場の後のことだったようです。この開場式典は日本の演劇史に記すべきものですが、これはまさに文明開化一色で塗りつぶされたものでした。式に出席した歌舞伎役者はすべて燕尾服を着用しました。もちろん黙阿弥も関係者として不承不承でしょうが・最初で最後の燕尾服を着てこの催しに出席しています。この時に九代目団十郎が役者代表として述べた式辞は福地源一郎(桜痴)が起草したものですが、内容は団十郎の主張そのままと言えます。その内容の概要を現代語に書き直すと、大体次のようなものです。
「演劇(歌舞伎)はもともと世情に左右され易いものではあるが、勧懲の機微を写して観客を感動させるものであるから、そこで描き出される喜怒哀楽によって演劇は社会に貢献することができるのである。ところが最近の劇風と言えば、世俗の濁りを取り込み、かの勧懲の妙理を失って、いたずらに狂奇に陥っている。この団十郎は深くこれを憂い、皆と共にこの風潮を一洗することをしたいと思う。ご来場の紳士諸君に、演劇もまた無益の戯れではないと言われるように、演劇を明治の太平を描き出すに足るものとしたい」
この演説を黙阿弥がどういう思いで聞いたのかは察して余りあります。とにかく明治の知識人を気取る人々から黙阿弥の芝居は江戸時代の残渣、古臭くて時代遅れの芝居の権化みたいに言われていたのです。岡本綺堂は「(黙阿弥は)この無道なる迫害に対しても、表面には反抗の気勢を示さなかった。翁は魚の如く黙して俎上に横たわっていた。思へば実に涙である」と書いています。(「明治以後の黙阿弥翁」)
「黙阿弥」号の真意については、黙阿弥自身が「以来は何事にも口を出さず黙っている心にて黙の字を用いたれど、また出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と「著作大観」に記しています。つまり、「言いたいことは山ほどあっても今は口を閉ざそう・しかし・いずれ私の時代が来る」という気概でありましょうか。
その黙阿弥が明治14年7月に引退するのですが、その直前・同年3月の「天衣紛上野初花」にその気概が反映していないはずがありません。文明開化の「散切り物」でも黙阿弥の腕前はたいしたものですが、やっぱり江戸の市井の小悪党を描く時に黙阿弥の筆はたちまち冴え渡ります。河内山と直侍を、黙阿弥は書き納めのつもりで書いたのだと思います。
しかし、黙阿弥が引退する以前より・引退してからの方が黙阿弥を取り巻く状況はもっと厳しかったのです。明治14年という年は政治史上重要な年です。いわゆる「明治14年の政変」により筆頭参議大隈重信が罷免されて、伊藤博文・井上馨らを中心とする長州閥が主導権を握り、条約改正をめざして欧化改良政策が一気に加速します。その象徴が明治16年にオープンする鹿鳴館です。こうした厳しい状況下においても黙阿弥はなお名作を世に送り出しています。「魚屋宗五郎」(明治16年)・「筆売幸兵衛」(明治18年)・「加賀鳶」(明治19年)などです。
さらに明治19年9月には演劇改良会なるものが出来て、さらに黙阿弥は居場所がなくなります。演劇改良会は末松謙澄が主唱して出来たもので、会員は井上馨などの政治家・ 渋沢英一などの実業家のほか、依田百川、福地源一郎(桜痴)らの学者連中からなっています。この連中がしたり顔して芝居の筋やら文句にいちいち難癖をつけて添削するわけです。岡本綺堂はこの時期の演劇改良の空気について次のように回想しています。
『この時代には改作論や修正論がしばしば繰り返されて、新聞紙上を賑わしていた。たとえば、かの「忠臣蔵」の7段目で、おかるの口説きに「勿体ないが父さんは、非業の最期もお年の上」というのは穏やかでない。これを「勿体なや、父さんはお年の上に非業の最期」と修正しろと言うのである。私の父はその新聞記事を読んで、「わからない奴には困るな」と冷笑していた。しかもこういうたぐいの議論がだんだんと勢力を張って来たのは、争うべからざる事実であった。』(岡本綺堂:「ランプの下にて」・演劇改良と改作)
岡本綺堂:明治劇談 ランプの下(もと)にて (岩波文庫)
吉之助の想像通り、明治23年に菊五郎が「天衣紛上野初花」再演に当り・「直侍」の三千歳の衣装を写実にすることで黙阿弥に相談に行ったとして・もし黙阿弥が「御見物は東京を見に来るのじゃない・古き良き江戸を舞台に見に来るのだ、ならば舞台を綺麗なままにして御見物に夢を見せてやろうじゃないか」と菊五郎に言って・そのアイデアを止めたとするならば(あくまでもこれは推測に過ぎませんが)、その時から歌舞伎の世話物は写実の同時代劇であることをやめたということかも知れません。
4)松羽目物のチョンマゲ姿
ところで話は変わりますが、松羽目舞踊というものを考えてみます。明治における歌舞伎の演劇改良の試みのひとつは、能様式・あるいは能題材を採ってこれを模倣した歌舞伎、つまり「松羽目もの」が盛んに作られたことです。これは従来の支配階級の式楽であった能のスタイルを借りて「いかにも高尚で・かつ高級感のある」歌舞伎を作り上げようという意図でした。能取物でさえあれば高尚に見えて、だれもこれを「低俗」だとか「時代遅れ」だとか言わないだろうというのがその隠された動機です。
明治になって団十郎により「舟弁慶」(明治18年新富座)、「紅葉狩」(明治20年新富座)、「素襖落」(明治25年10月歌舞伎座)などの作品が作られました。また五代目菊五郎も「土蜘蛛」(明治14年新富座)、「茨木」(明治16年新富座)といった作品を演じています。
歌舞伎の松羽目物に登場する太郎冠者ら登場人物は例外なくチョンマゲをつけておりますね。これは非常におかしなことだと思いませんか。なぜならば、この頃には断髪廃刀令が出ていて・能狂言役者たちは残らず散切り頭になっていて、その姿で舞台に立っていたのです。ところがその能狂言の真似をする者たちがもはや過去のものになったチョンマゲ姿をしているのです。
実は明治12年(1879)2月新富座の「勧進帳」において九代目団十郎が「素顔に地天窓(あたま)にて眉毛も格別太くせず白粉も施すことなく・・」という 散切り頭の扮装で弁慶を演じた記録があります。九代目が例の「活歴」に熱中していた頃のことです。しかし、この時の弁慶の扮装 が幸か不幸か甚だしく評判が悪かったのです。それで 九代目も仕方なく「勧進帳」は昔風の姿に戻ったのです。ここで九代目の「実験」がもし成功していたとしたら、現代の舞台での「勧進帳」や松羽目舞踊は散切り頭で演じられているかも知れないということが十分想像できます。
しかし、幸いと言うべきか、明治初期の散切り狂言も・九代目の「実験」も「活歴」もその時代の雰囲気を残すものではあるけれど、歌舞伎の本流をなすものとはなりませんでした。歌舞伎役者は能取物を演じてもチョンマゲ姿から離れることができなかった・観客もそれを許さなかったというわけです。結局、歌舞伎の心のふるさとは江戸にあったということなのかも知れません。
吉之助の推測の通り・もし黙阿弥が「御見物は東京を見に来るのじゃない・古き良き江戸を舞台に見に来るのだ、ならば舞台を綺麗なままにして御見物に夢を見せてやろうじゃないか」と菊五郎に言ったとしても、吉之助は決してそれが黙阿弥の「退歩」であるとは考えません。もしかしたら、この時代においてはこれが黙阿弥の最高の「戦術」であったかも知れないという気がしています。
河竹登志夫:黙阿弥 (文春文庫)
渡辺保:「黙阿弥の明治維新」(新潮社)
(後記)
別稿「黙阿弥にとっての明治維新」は本稿の続編になります
別稿「小団次の西洋:四代目小団次と黙阿弥」・「身分制度から見た歌舞伎十八番・その4:天覧歌舞伎」もご参照ください。
(H16・10・24)