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「世界」とは何か

〜平成20年11月歌舞伎座:「盟三五大切」

十五代目片岡仁左衛門(源五兵衛・実は不破数右衛門)、七代目尾上菊五郎(三五郎)、 五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(小万)


1)世界とは何か

平成20年5月歌舞伎座の「弁天小僧」通しの舞台についての観劇随想で・菊五郎の弁天小僧の演技が時代に傾斜して重いということを書きました。「弁天小僧」の正式な外題は「青砥稿花紅錦画」と言いますが、最後の極楽寺山門の場面で青砥左衛門藤綱が登場することで分かる通り・時代の設定が鎌倉時代となっています。青砥左衛門は鎌倉時代の実在の人物で、幕末江戸では大岡越前守と並ぶ名奉行と言われていました。江戸時代は幕府の規制によって同時代を題材にした芝居はできないことになっていましたから、黙阿弥はここで幕末の泥棒たちを登場させるのに・鎌倉時代の架空の出来事に設定したわけです。それでは「弁天小僧」は時代物なのでしょうか。見取りで見る時には「浜松屋」はもちろん世話物に決まってますが、通しの場合であるとこれはハタッと考えてしまうところがあります。序幕・新清水・初瀬寺観音の場は明らかに「新薄雪物語・花見」の場から採られていますし、幕切れ ・極楽寺山門の場も「楼門五三桐」から採られています。役者としては全体の整合性が気になるのか・「弁天小僧」も通し上演になると自然と時代に傾く傾向があるようです。恐らく菊五郎の弁天小僧が時代に重い感触になったのもその辺を考慮してのことかも知れません。勘三郎が通した時にもそんな気配があったと思います。

確かにいろいろ考え方はあると思いますが、吉之助は「弁天小僧」は基本的にやはり世話物として捉えた方が良かろうと思います。白浪五人男はモデルはそれぞれですが・みな幕末の盗賊であり、観客はもちろん鎌倉は江戸・稲瀬川は隅田川・極楽寺は浅草寺だと思って芝居を見たわけです。日本駄右衛門は実在した盗賊がモデルで・本名は浜島庄兵またの名を日本左衛門と言いました。弁天小僧菊之助は黙阿弥が両国橋で見掛けたという女物の着物を着た美青年をモデルにしたと言われます。つまり今で言えば渋谷か六本木辺りにいそうなちょいとイケ面の優男なのです。

そのような幕末の盗賊たちが鎌倉時代に突然放り込まれて一体どうなるのかを考えて見ます。楼門の上で浜島庄兵が大時代の衣装を着て・歴史上の大泥棒の石川五右衛門を気取って「 ハテ風情ある眺めだなア」と言う時、それはちょっとミスマッチなのです。浜島庄兵がそんな大層な泥棒でないことを当時の人々はみんな知っているからです。「アイツ、大物気取りでいい気分になっちゃって・・」とちょっとクスッと笑ってしまうところがあります。「弁天小僧」に散りばめられた時代物のパロディというのはみなそういうものなのです。稲瀬川の勢揃いというのもそうで・名乗りのツラネで幕末のアウトローのカッコよさと言われますが・まあそう考えても決して間違いではないですが、つまらないコソ泥たちが一生懸命意気(粋)がっていることの可笑しさというのが本当のところだと思います。幕末江戸の泥棒たちと鎌倉時代・青砥左衛門という「世界」の二重構造がそういうズレを起こさせるのです。ですから登場人物が時代の感覚の方にぴったり納ま り過ぎてしまうと、「弁天小僧」のホントの面白さというのは出てこないわけです。

歌舞伎の「世界」とはどういう意味を持つのでしょうか。お上の規制があるので同時代の事件をそのまま描けないから・黙阿弥は方便として架空の出来事に仕立てて勧善懲悪のパターンで逃げを打ったということでしょうか。建前としてそれももちろんあります 。しかし、歌舞伎の「世界」がひとつの作劇の概念として定着した後においては「世界」のハンデを逆手にとって作劇に利用するという積極的な意味をそこに見出しても良いはずです。「世界」の積極的な意味とは、その意味が明らかになった時・「そうでなければ叶わない」と誰もが納得する結末に芝居を至らしめるということです。「弁天小僧」の場合で言えば・青砥左衛門が登場し「潔く縄に掛かれ」と言われた時に、駄右衛門がこの名奉行に捕まるのならそれも仕方がないと誰もが納得するということです。青砥左衛門は正義の人であり・曲がったことは決してしない人であり・情もあって公正なお裁きをしてくれる名奉行であると江戸の人々は信じていました。青砥左衛門に「縄に掛かれ」と言われたならば・悪人は誰でも素直に 観念して縄に掛かり・その罪を償わなければならぬのです。この時、正しい意味において善は栄え・悪は滅びるのです。なぜならば青砥左衛門がそういう「世界」の人だからです。黙阿弥は幕末の世に青砥左衛門のような公正なご政道を渇望する(今はそのような公正な世の中ではない)ということを訴えているのかも知れません。あの謹厳実直な黙阿弥が単純な泥棒賛美の芝居を書くはずはないと思います。歌舞伎の「世界」は江戸の庶民の倫理観に根差しているのです。

2)江戸の庶民のバランス感覚

「弁天小僧」の「世界」のことを考えましたが、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」になるとさらに事情が複雑になります。つまり「四谷怪談」は時代物か・それとも世話物(生世話)なのかということです。そのポイントは「四谷怪談」と並行進行する「仮名手本忠臣蔵」との兼ね合いをどう位置付けるかということです。「忠臣蔵」に沿ってドラマ構造を考えるならば時代物、「忠臣蔵」と概念的に対立するものと見なすならば世話物と見ることができると思います。まあこれは読む視点によって見えるものが違うかも知れません。演技様式的に「四谷怪談」を生世話と分類するのはごく自然なところですが、「四谷怪談」が時代か世話かという問題はその根本にあるドラマ構造に係わる重要な問題 だと思います。

吉之助は別稿「時代物としての四谷怪談」で書いた通り・「四谷怪談」を時代物として捉えたいと考えています。「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月に江戸中村座で初演されましたが、その時は2日掛かりで「仮名手本忠臣蔵」とテレコで上演される形態が取られました。ところで広末保先生は「四谷怪談〜悪意と笑い」(岩波新書)の最終章で「伊右衛門は死んだか」として「四谷怪談」の幕切れについて次のように書いています。

『物語の結びとしては伊右衛門は死んだと誰しもが思うだろう。だが感覚的には伊右衛門は死にきらないままの宙吊り状態でそこに止まっている。(中略)表に表れた筋書きを額面通りに受け取れば、「忠臣蔵」の義士・与茂七によって(伊右衛門は)否定され克服されたことになる。「四谷怪談」の「忠臣蔵」崩しがもう一度ひっくり返されたことになる。これでは何のための「四谷怪談」だったか・訳が分からなくなる。』(広末保:「四谷怪談〜悪意と笑い」(岩波新書)

注意せねばならぬことは広末先生は「四谷怪談」を単体で読んで・伊右衛門と与茂七がきっと向き合って幕となる・この幕切れで上記の文章を書いているということです。現在「四谷怪談」で見られる幕切れは確かにこの形態です。しかし、文政8年(1825)中村座での初演の時は、この形のまま舞台が廻って・「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)に転換したのです。その討ち入りの場面には与茂七が四十七士のひとりとして登場するわけですから、その前の場で伊右衛門を討ち漏らしたままで・与茂七が師直屋敷への討ち入りに駆けつけるはずがありません。伊右衛門は間違いなく討たれたのです。南北がそのように書いたことは疑いありませんが、その結末では広末先生が言うように「何のための「四谷怪談」だったか訳が分からない」ということに本当になるのでしょうか。そのことを論じるためには「世界」の持つ意味を考えねばなりません。

「世界」とはその作品がその上に立脚するところの世界観のことを言います。その「世界」は作者・役者・観客・そして支配者にも共有される価値観・倫理観の上に立つものです。それは確かにお上(支配者)の側から見て納得が行くものですから、その枠のなかで芝居が展開するのならば・まあ許容してやろうと支配者が考えるところの・ひとつのレトリックであるのです。と同時に作者・役者・観客にとっても「然り」と思える何かを示してもいるのです。「忠臣蔵」の世界は武士が武士であるために・つまり自分が自分であり続けるために守らねばならない誇り・意地があるということを描いています。江戸の民衆は仇討ちというものを武士が愚かな意地を張った・詰まらない行為だと考えたわけではありません。赤穂義士の仇討ちは人間のドラマだと・町人の我々の生き方にも通じる美しいドラマだと見たのです。そうでなければ赤穂義士のドラマがあれほどいろいろ形を変えながら・今日これまで民衆に愛され 続けてきた理由が説明できるでしょうか。「四谷怪談」は「忠臣蔵」と対立しているのではなく・互いに補強し合い・共鳴しているのです。「四谷怪談」はそのような「忠臣蔵 」の世界観の上に立っているわけです。

「四谷怪談」で伊右衛門と与茂七がきっと向き合って幕となる・その幕切れについて考えてみます。「四谷怪談」単体での上演ならば・「まず今日はこれ切り」という形となりますから、伊右衛門が討たれる場面がないわけで・これだけだと「伊右衛門はまだ死んでいない」と 確かに言い張ることが出来るかも知れませんねえ。これに似た幕切れとして「曽我の対面」・「絵本太功記・十段目尼崎」 などが挙げられます。これらの幕切れは「勝負はお預け・引き分け再試合」ということなのでしょうか。決してそんなことはありません。工藤が曽我兄弟に・光秀が久吉に討たれることは歴史が語るところの史実だからです。結末は誰の目にも明らかなのです。ここにおいて観客は神の視点に立 ちます。

これはこのように考えれば良いと思います。ホメロスの叙事詩「イーリアス」はトロイ戦争を描いていますが、ギリシアの神々はそれぞれがトロイ方・ギリシア方に加担しており、贔屓の 勇者がピンチになるとそれとなく手助けをしたり・加勢をしたりします。しかし、運命の秤が一旦カタンと音を立てて下がると、「ああもう私の力ではどうすることもできない」と神は悲痛な叫び声を上げます。その勇者の運命は決まったのです。 神さまにさえその運命を変えることはできないのです。歌舞伎の「まず今日はこれ切り」という幕切れはそのように運命が決せられた状況においてのみ行われるものです。

ですから「対面」で富士の裾野で後日対面せんと言っても・ 次に会った時に工藤が曽我兄弟に討たれることはもう決まっているのです。「太十」で互いの運は天王山で後日決しようと言っても・次の戦いで光秀が久吉に討たれることはもう決まっているのです。だから安心して・ここは「これ切り」にしてやろうというのです。そこに予祝性があるわけです。(別稿「曽我狂言のやつしと予祝性」をご参照ください。)伊右衛門が無残に討たれる場面を描かないのは・言ってみればそこに余韻を持たせているのです。絵巻物の余白のようなものです。作劇上から言えば人気役者が殺される場面はなるべく描かない(どうしても殺さねばならぬ場合はその後に別の人物で化粧を直して登場する)という約束でもあります。

やったことの是非はともかくとして・伊右衛門が「忠臣蔵 」の世界の価値観・倫理観に反抗を試みたという見方も確かに出来ないことはないと思います。しかし、大詰めに義士・与茂七が登場し・伊右衛門が討たれることで・捻じれた世界は「忠臣蔵 」の世界へ一気に収斂されていきます。これは「然り。そうでなければ叶わない・そうでなければ芝居は終われない」という結末です。これは作者・役者・観客・支配者に共有される価値観・倫理観の上に立つものです。そうなることですべてが落ち着くのです。しかし、そこで伊右衛門の行為の余韻がちょっぴり残るのです。「然り・・・しかし」ということです。ここで観客は初めて伊右衛門の行為を思いやる余裕を持つことができます。

「然り、しかし・・・」ということが時代物では大事です。「思いやる」ということは、「忠臣蔵」のドラマも決して綺麗ごとではなく・いろんな苦労もあったし・犠牲もあったし・脱落者もあったであろうという陰の部分をちょっぴり考えてみるということです。正義を貫き・守らねばならぬものを守り抜くために、その陰にそれなりの苦労と犠牲があるということは当然だからです。「忠臣蔵」を見てみれば・「六段目」において由良助は不祥事を犯した勘平を涙ながらに死に追いやり、「七段目」では由良助は裏切り者の九太夫を殺し・もう少しでお軽も殺されるところでした。また「九段目」では由良助は本蔵を死に追いやっています。由良助は「主君の仇討ちを遂行することで、私はこれからどれだけの罪を犯さねばならないのか・私はどれほどの苦しみを味あわねばならないのか」ともがき苦しみながら、目的に向かってひた進みます。(このことについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をご参照ください。) 「四谷怪談」はこのような「忠臣蔵」の陰のドラマを世話のタッチで描いているわけです。「四谷怪談」はアンチ忠臣蔵・ 由良助批判のドラマではありません。なぜならば伊右衛門に正義がないからです。観客が伊右衛門に賛同することはあり得ません。なぜならば「世界」を負っているのは由良助 であるからです。「赤穂義士だってひと皮剥けば伊右衛門と同じ殺人者である」と言う方がいますが、次元が全然違います ね。由良助と伊右衛門の行為を同列に論じることはできないのです。

伊右衛門の悪の魅力になおも未練を感じる方はこんなことを考えてみたら良いと思います。昨今は新聞の三面記事に残虐な事件がよく載りますねえ。具体的なことはここでは挙げませんが、まったく犯人に同情の余地はありません。しかし、ちょっと視点を変えてみればそれらの犯罪は社会の歪みから来るものだと言う見方もできなくはありません。社会の矛盾・格差・差別・貧困・あるいは生い立ち、そんなところから転落して・追い込まれてそのような犯罪に走ったのかも知れません。それならばその犯罪は社会の歪みの産物であり・犯人はその被害者であり同情の余地がある、犯人は社会の不正 ・病根を訴えていると考えることもできるかも知れません。まあ確かにそうかも知れませんねえ。しかし、同時代の犯罪の場合にはそういうことを言うのに躊躇するところがあると思います。そういう議論は弁護人さんの仕事にしておくとして、一般の人は罪を憎み・犯人を憎む気持ちの方がやはり強いだろうと思います。それは今という時代の醜く・汚く・嫌な部分を見せ付けられてやり切れない気分になるからです。そういう嫌なものはあまり見たくないのです。「この世の中どこか間違ってるなあ」とはチラッとそう思う。しかし、裁くべきものはしっかり裁いてくれないと困るわけです。そうでないと社会が成り立たないからです。同時代的に悪人・伊右衛門を考えた時に文化文政期の江戸の町人が感じたことも多分そんなところだったろうと吉之助は思います。江戸の町人は常識人だと思います。もちろん鶴屋南北もです。

『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)

キーン先生の指摘はとても重要だと思います。南北作品を論じる時に現代人はその残酷性・猟奇性にとかく目が行き勝ちです。そこにアウトローの魅力・反体制的な危険な匂いを感じるかも知れません。まあそういう要素も全然ないとは言いませんが、実はそれらは芝居のスパイスみたいなものです。スパイスの匂いは観客を非日常的な危険な世界へ誘ってくれます。しかし、江戸の庶民は芝居で危険な匂いを楽しんでも、明日からは社会のルールをしっかり守って・真面目な市民生活を送らなければならないのです。明日からまた同じ生活が始まります。伊右衛門が「仇討ちなんてご免だ・忠義なんて真っ平だ」と言ったとしても、観客はそんなことに同調するわけには行かないのです。裁くべきものが正しく裁かれることで社会は健全に機能するのです。それで芝居は「然り。そうでなければ叶わない」というものになるのです。文化文政期は江戸時代のなかで ・もちろんそれなりの制約があったにしても・最も庶民がその自由を謳歌できた幸福な時期であったと思います。そのような文化文政期の江戸の庶民の健康な精神を念頭に入れれば、南北のバランス感覚・ 芝居を楽しむ江戸の庶民のバランス感覚がお分かりになるだろうと思います。

3)忠臣蔵の世界

「四谷怪談」を論じる論考の多くが「忠臣蔵」を対立した世界とみなしています。それは時代に対する世話、建前に対する本音、あるいは非人間性と人間らしさとの対立というような構図です。つまり「忠臣蔵」は否定されるべき世界ということです。そこから伊右衛門を封建社会の非人間的論理に敢然と反抗する自由人と見なす解釈が出てきます。実はこうした見方は階級闘争理論と密接な関連があるもので、仇討ちあるいは忠義といった「忠臣蔵」が抱える倫理観を古い封建的思想の最たるものとして否定し去ろうとする意図が背景に強くあるのです。つまり「四谷怪談」に革命思想の萌芽を見るというわけです。こういう見方は大正終わりから昭和初期にかけてくらいの時代(つまり二代目左団次による南北再評価の第1次ブームの時期)に出てきたもので ・近代社会思想から発し・さらに唯物史観によって裏付けされたもので、江戸時代にはあり得なかった見方です。

こうした見方の最大の欠陥は、「四谷怪談」を単体としてそれだけを読んで・「忠臣蔵」の世界を向こうに押しやっていることです。伊右衛門を封建社会の論理に敢然と反抗する自由人である・赤穂義士も結局は徒党を組んだ殺人者であると書くのは 、解釈は人それぞれのことですからそれはそれで結構です。しかし、そう仰る方が今度は「忠臣蔵」を単体で見た時に封建社会の遺物の最たるものとして否定するのかと思うと・そうでもないようです。同じ方が「忠臣蔵」は名作だなどと平気でお書きになっています。そういうのは思想の一貫性がないと思いますがねえ。伊右衛門を擁護するならば、由良助は否定されねばならぬのではないか。要するに全然別個の作品だと思っているようなのです。それは歌舞伎の作劇法における「世界」ということの意味が分かっていないからで しょう。「四谷怪談」を読むことが同時に「忠臣蔵」を読むことにもなるという意識がないのです。

「世界」ということが分かっていれば、江戸の庶民の倫理観によって共有されたものが「忠臣蔵」と「四谷怪談」をしっかりと結び付けていることが実感できると思います。言うまでもなく元禄赤穂事件(いわゆる赤穂浪士の討ち入り)は歌舞伎だけではなく講談・読本など様々な形で庶民のなかに普及し、日本人の倫理観に大きな影響を与えてきたものです。現代においても「忠臣蔵」は映画・テレビでも頻繁に取り上げられる人気の題材です。そう言った庶民の意識に南北が意識的に水をぶっかけて・観客をあざ笑うような作品を作るようなことをするか考えてみれば良いのです。ですから庶民の変らぬ倫理観を念頭に置かねば、「忠臣蔵」も「四谷怪談」も正しい読み方が出来なくなってしまうと思います。

「四谷怪談」を読むことは「忠臣蔵」を読むことですから、「忠臣蔵」の世界についても考えて見ます。実は「忠臣蔵」の世界もそう単純ではありません。実説はもちろん元禄15年に起きた大石内蔵助を主領とした赤穂浪人の吉良邸討ち入り事件のことですが、江戸時代は事件そのままを劇化することは許されていませんでしたから・さまざまな 「世界」で劇化が試みられました。事件直後に曽我物として劇化されて・3日で上演禁止にされた記録があります。仇討ちということならば・真っ先に思い浮かぶのはやはり「曽我 」の世界ということになると思います。そのほか「小栗判官」の世界などいろいろな劇化が試みられて、最終的(47年後)に決定版としての「仮名手本忠臣蔵」の成立を見るわけですが、それは「太平記」の世界を借りて描かれています。浅野内匠頭は塩治判官・吉良上野介は高師直・大石内蔵助は大星由良助となっていることはご承知の通りです。しかし、元禄の実在の人物が「太平記」の世界に放り込まれた時に感覚的にも・ストーリー的にも そこに齟齬が生じるのは当然のことです。史実の高師直は「太平記」でも悪逆非道の人物に描かれて います。史実の師直は塩治判官の奥方に懸想して・塩治一族を滅ぼしてしまうというのですが、塩治の家来に仇討ちされたわけではありません。また内匠頭の刃傷の原因が上野介が奥方に懸想したというわけでもありません。その原因は未だ分かっておらぬのです。それでは元禄赤穂事件が「太平記」に仮託されたのは、赤穂の塩(=塩治)・高家筆頭(=高師直)という連想のみなのでしょうか。 決してそうではありません。このことは別稿「太平記読みと忠臣蔵」において詳しく触れましたので・そちらをご参照いただきたいですが、当時の江戸庶民の「太平記読み」ということが根底にあります。つまり、大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりであるという重要な史観があるわけです。この認識が「太平記」と元禄赤穂事件を強く結びつけているのです。

「大石内蔵助は楠木正成の生まれ変わりである」ということは何を意味するのでしょうか。大事なポイントは「忠臣蔵」の世界を担うのは大星由良助(=内蔵助)であるということです。もうひとつ大事なことは「忠義」がキーワードだということです。忠義が武士だけの倫理であると・つまり主君に対する家来の忠誠 だけが忠義だと考えてはなりません。庶民にとっての忠義もあるのです。例えば元禄赤穂事件と同じ時期に起こったお初徳兵衛の心中事件です。それは明確に自分のアイデンティティーに対する忠誠です。「心中」とは「忠」の文字を切り離し・逆転させたもので した。別稿「純粋にせられた死」を参照ください。そのことが分かれば・庶民に本来は関心ないはずの仇討ちがなぜこれほどまでに江戸の庶民の心を捉えたのか・その理由が分かるでしょう。江戸の庶民は赤穂浪士の行為を自らに対する「忠」であると読んだのです。江戸の庶民は赤穂浪士のドラマを自分たちのドラマだと受け取ったわけです。

芝居だけでなく・講談・文学・映画などで取り上げられてきた「忠臣蔵」物を考えてみれば、発端としての松の間の刃傷は大事であり・クライマックスとしての討ち入りも重要な場面です 。それでは刃傷や仇討ちに「忠臣蔵」の本質があるのでしょうか。 吉之助はそれは「ない」と断言します。そのことをはっきり教えてくれるのは真山青果の「元禄忠臣蔵」・あるいはこれを映画化した溝口健二監督の同名映画(昭和16年) も同様ですが、どちらも刃傷も討ち入りも直接的には描いていません。それで立派に「忠臣蔵」になることを証明してくれました。

それではどこに「忠臣蔵」の本質があるのでしょうか。それは 「内蔵助の本心が分からない」ということです。「内蔵助は何を考えるのか・討ち入りをする気があるのか・ないのか・ただ遊興に明け暮れるのか・大志を隠して欺くため遊ぶのか」ということです。「忠臣蔵」を見れば、内蔵助はなかなか動きません。周囲は由良助の心中をああだこうだと推量して・勝手にヤキモキして・怒ったり・泣いてみたり、それで腹切る者も出るし・脱落者も出るし・裏切り者も出るのです。内蔵助がなかなか動かないから・ついに資金が尽きて女房を売らねばならぬ事態も起きる。敵方も仕掛けをしてきますし、第三者が勝手にあれこれ風評をしたりします。それでも内蔵助はなお動こうとしません。すなわち内蔵助という存在が中心にあって・空間を捻じ曲げるブラックホールのような強力な力を持って・周囲の人間を翻弄しつづける というのが「忠臣蔵」のドラマなのです。内蔵助の意志に係わりなく・周囲が勝手に騒いで、それでドラマが動いていくのです。

ですから「忠臣蔵」の核心は「七段目」の茶屋場の遊興三昧にあるのです。青果の「元禄忠臣蔵」ならば対としての「伏見種木町」と「御浜御殿綱豊卿」ということになります。(このことは別稿「七段目の虚と実」あるいは「指導者の孤独」をご参照ください。)内蔵助は「俺の進むべき道はこれで良いのか」・「自分にとっての忠とは何か」を自らに問掛けながら・時に悩み ・時にくじけ・本来の自分がすべきでない遊興三昧をしながら・周囲が騒ごうが何しようが感知せず・内蔵助はただじっと耐えるのです。そこに現れるユラユラと揺れる気分・その気分が揺れながら 、やがて次第に明確な「忠」の形になって現れてきます。その過程こそが「忠臣蔵」の本質なのです。「たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるる」という「忠臣蔵」冒頭文句にある通りです。

「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)7月江戸中村座での初演時にはこの作品は「仮名手本忠臣蔵」と交互に上演し、二日掛かりで完了する興行形式を取りました。

第1日:「忠臣蔵」大序から六段目までを上演し、次に二番目狂言として「四谷怪談」序幕から三幕目の「隠亡堀」までを上演。
第2日:まず「隠亡堀」を上演し、「忠臣蔵」七段目から十段目まで、次に「四谷怪談」四幕目から大詰めまで、最後に「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)を上演。

「忠臣蔵」の時間的な流れを踏まえれば「四谷怪談」は「六段目」の時期と前後しますが・そのドラマは夏前に始まり・討ち入り直前で終わるわけです。「忠臣蔵」の六段目から十段目のドラマの核心はすべて「由良助は何を考えるのか」ということに帰します。由良助が「忠臣蔵」の世界を担うのです。揺れていた由良助の意思は最後の最後になって討ち入りの指令として明確に現れます。「四谷怪談」においては由良助の意思は大詰め「蛇山庵室」での与茂七の登場となって現れるのです。

「四谷怪談」を読めば・主要な登場人物が「忠臣蔵」から来ていることは最初から明らかですが、そのことがどういう意味を持つのか ・なぜ「四谷怪談」が「忠臣蔵」の世界に仕組まれなければならないかは観客に最後まで伏せられています。つまりお岩の怨念はどのようにして晴らされるのか・伊右衛門はどのような最後を遂げるのかということです。それが最後の最後になって・白装束の与茂七の登場によって明らかになります。「そうか・この結末のために「忠臣蔵」が仕組まれていたのか」と驚いてしまいます。「四谷怪談」の結末に由良助の名前はまったく出てきません。しかし、最後に与茂七が登場したことでそのことは明らかなのです。伊右衛門は「忠」によって討たれるということです。

「四谷怪談」は初演以後はもっぱら単独作として上演されてきたために「忠臣蔵」との関連性が弱くなってしまいました。初演台本にはない台詞ですが・その後の上演本 には・白装束の与茂七が駆けつけて来たのを見て、伊右衛門は「なんで身共を、いらざることを」と叫んでいるのがあります。 なるほど伊右衛門の立場に立ってみれば・ここで与茂七が出てくるのはまったく要らざることです。「忠臣蔵」との関連が薄くなって・お岩のお化け芝居の印象が強くなれば、与茂七の登場は意外なことです。これはもともとお岩と伊右衛門の夫婦の間の問題であるはずで、観客 だってお岩の幽霊が伊右衛門を罰することを心中どこかで期待しているに違いないからです。しかし、ここで女房お袖の姉(お岩)の敵を討つという名目で与茂七が登場する時・そこに静かに雪が降っていることを見た時、観客はついに討ち入りの時が来た・正義が果たされる時が ついに来たということを知るのです。観客は「然り。そうでなくては叶わない」と思うに違いありません。その時に「世界」が現出するのです。

4)「世界」の枠組み

芝居の世界には「デウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)」というものがあります。例えばギリシア悲劇の「メデイア」の最後に登場する竜の車です。ドロドロとして・一体どのような結末になるのかと観客がハラハラしてしまうメデイアの悲劇が唐突な竜の車の登場によって断ち切られ、メデイアはその車に乗って悠然と去ってしまいます。だから「デウス・エクス・マキーナ」とは・こんがらかった筋の矛盾も何もかも一気にチャラにしてしまって・無理やり結末を付ける為の作劇上の魔法(方便)だとお考えの方がいるようです。「機械仕掛けの神」と言う語句から魂がこもっていない・ ガランドウの・ただ神様の形をしているだけの木偶みたいなものを想像するのでしょうが、それは全然お間違えですねえ。ただの石であろうが・ただの金属であろうが・それは「デウス(神)」であるのですから、その神性を認めなければなりません。道端のお地蔵さんであれ・神棚のお札であれ有難いものです。「機械仕掛け」とは・そこに神が恣意的な要素を入れない・すべては成るように成り・神は決して偽ることはしないということを意味するものです。神は自ら語るのではなく、そこに在ることで「在るべき世界」を示すのです。そういう有難い力を示すものであるならば、それがどんなものであってもそれは「デウス・エクス・マキーナ」なのです。「メデイア」の竜の車はメデイアの行為を肯定するものでも・イアソンを否定するものでもありません。ただ舞台に現れた生きることの厳しい現実を「然り」と受け入れるために現れるものです。

例えばテレビの人気長寿時代劇「水戸黄門」の葵の印籠を考えて見ます。黄門さまが天下の副将軍であることはテレビの前の視聴者のみなさんは先刻ご承知で、その正体を知らぬのはドラマの登場人物たちだけです。「この印籠が目に入らぬか」という決めの台詞を視聴者は今か今かと待っており、その場面にあると「やった」と快哉を叫びます。この場合は葵の印籠がデウス・エクス・マキーナです。その印籠の権威を認めずに・悪代官が黄門さまを 斬るなんてことは有り得ぬ話です。マンネリ・ワン・パターンの結末とも言う方もあるでしょうが、実はそこにドラマのなかの登場人物と視聴者の間に共通した「世界」の概念が明確にあり、その結末によって観客は「然り。そうでなくては叶わない」と感じ て安心するのです。最後に黄門さまが高らかに笑えば、すべては丸く収まるというわけです。

「四谷怪談」の結末に由良助の名前はまったく出てきません。しかし、最後に与茂七が登場し・ついに討ち入りの時が来た・正義が果たされる時がついに来たということ が明らかになった時、それは「忠臣蔵」というデウス・エクス・マキーナが現出する時です。「四谷怪談」の主要な登場人物は「忠臣蔵」から出てきた人たちです。彼らが「忠臣蔵」になぜ紐付いているのか・その理由は最後の最後まで観客には分からないでしょう。「四谷怪談」をお化け芝居として見る分には「忠臣蔵」との関連なんて全然必要ありませんし、むしろそんなものは邪魔だと言いたいくらいです。ところが最後になって彼らが「忠臣蔵」へ戻らなければならない時刻になって、初めてその理由が明らかになるのです。「忠臣蔵」の世界が示すものは「忠」です。念のために繰り返して言いますが、それは決して武士の論理である「忠」ではなく、町人も 等しく共有するところの・人として正しく自分自身に対した時の「忠」なのです。人間として・社会人として・あるいは神の前において正しく在るべき人の生き方ということです。それが赤穂義士の指し示す「忠」 なのであり、これこそ伊右衛門に決定的に欠けているものです。だから赤穂義士である与茂七がお岩の刑執行人として伊右衛門を討つ力を持つのです。江戸の庶民は赤穂浪士のドラマを自分たちのドラマだと受け取っています。だからこの結末に観客は「然り。そうでなくては叶わない」と思うに違いありません。 その時に「世界」が現出するのです。

5)「こりゃかうなうては叶うまい」

平成20年11月歌舞伎座での「盟三五大切」ですが、仁左衛門の源五兵衛・菊五郎の三五郎・時蔵の小万という好配役にもかかわらず、幕切れが何ともフニャッとした締まりのない出来でありました。これでは南北の綯い交ぜ・複数の「世界」を混ぜ合わせてまったく別の様相のドラマを作り上げるという面白さはとても味わえません。この幕切れでは、在り来たりの男女の色恋沙汰のあげくの殺人劇の・取って付けたようなオチにしか見えません。三五郎が愛する女房を殺されて怒り狂って源五兵衛と立廻りかと思いきや、その殺した男が主人筋だと分かると騙りを働いたことを悔いて・出刃を腹に突き立て罪を全て引き受けるというのは ・予備知識なしでこの芝居をご覧になった方には「何だ?この結末は・・・」と唖然とする結末だと思います。

どうしてこういうフニャッとした結末になるのかと言えば、原因のひとつは出刃を腹に突き立てた三五郎の述懐を聴いて・源五兵衛(=実は塩治浪士不破数右衛門)が「 こりやかうのうては叶うまい」という台詞がないからです。さらに幕切れで了心(=三五郎の父親であり・数右衛門の家来)が叫ぶ「「お立ち」という台詞もありません。もちろん脚本だけに問題があるわけではないですが、 これでは南北が仕込んだ「忠臣蔵」の世界が全然機能しません。この台詞のカットが演出の織田紘二氏の意図か 、あるいは仁左衛門・菊五郎の意図かは知りませんが、 これでは歌舞伎における「世界」の役割をまるで理解できていないということになってしまいます。

別稿「人格の不連続性」で触れた通り・吉之助が「盟三五大切」を初めて見たのは、昭和54年(1979)10月・国立小劇場での青年座(石沢秀二演出)の舞台で 、この時の印象は鮮烈なものでした。吉之助は「新劇でこれだけ面白い・ならばオリジナルの歌舞伎ならさぞかし・・・」と思ったものでした。それは石沢演出でカットされた・新劇ではカットせずにはいられなかった・新劇の立場からすれば決して共感できない「こりやかうのうては叶うまい」という源五兵衛の台詞を実感を以って言えるのは歌舞伎だけだろうということでした。それで吉之助は歌舞伎での上演を心待ちにしていましたが、その後に吉之助が 出会ったいくつかの歌舞伎の「盟三五大切」の舞台で・青年座の舞台を乗り越えたものはなかったと思います。今回のような「盟三五大切」のフニャッとした幕切れを見せられると、正しい歴史感覚と作品分析が出来る演出家を持たないとこれからの歌舞伎は駄目だなあという暗澹たる気分になりますねえ。

青年座での舞台で石沢氏が「こりやかうのうては叶うまい」という源五兵衛の台詞をカットしたのは、当時(70年代)の学生運動の「反体制」の雰囲気が残っていた時代の新劇の 考え方からすれば当然のことでした。当時は「こりやかうのうては叶うまい」は、家来は主人の犠牲になるのが当たり前だと言わんばかりの台詞に聞こえたものでした。忠君愛国思想は体制からの押し付けの論理である・赤穂浪士の仇討ちとは体制賛美の象徴であるというのが、当時の・第二次鶴屋南北ブームの時期の作品解釈でした。こうした見方に対して歌舞伎は何ら反論ができませんでした。反論すればするほど反動的で時代遅れで古臭いと思われるのが怖かったのかも知れません。今回の歌舞伎の「盟三五大切」を見ると、70年代の新劇視点に未だに反論ができぬまま・何やら自信無げに南北をやっている感じです。怖くって「こりやかうのうては叶うまい」なんて台詞はとても言えませんという感じです。しかし、歌舞伎は「こりやかうのうては叶うまい」の台詞を自信と確信を以って言えなければならぬのです。鶴屋南北は確かにこの台詞を書いたのですから。 歌舞伎は江戸の人間の生き様をしっかりと見せねばならぬのです。

「盟三五大切」大詰・愛染院門前の場を見てみます。自分が殺したのは家来である了心の息子 の女房であったこと・彼らが自分を騙かったのも実は主人の仇討ちのための資金を用立てる為であったことを知った源五兵衛は自らの行為を悔いて、「身共へ忠義を却って恨み今更思えば恥ずかしい。これみな武士のあるまじき、女に迷ひし白痴ゆえ。その言い訳には腹切るぞ」と言って腹を切ろうとしますが・了心に止められます。その時・部屋の隅に置いてあった早桶から腹に出刃を付き立てた三五郎がよろめき出て、「親仁がお主の旦那さま、知らぬこととてあのしだら、申し訳には・・」と出刃を引き回します。これを見た源五兵衛が「こりゃかうなうては叶うまい」と言うのです。この後、三五郎の述懐が続きます。「・・あなた様に、多くの人を殺させた、元の起こりも私しゆえ、その言い訳に切ったる腹、くたばりまするをまだしもの、お命代わりと思し召し、(中略)義士に加はり亡君の、存念晴らさせ、あなたにも、忠義の武士と末代まで、その名をあげてくださりませ。」これを聞いた源五兵衛は「その志しあるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・・」と言い、「我も騙かる夫婦の者、憎しと思う念も晴れ、用金揃えて、この身の詫び言・ ・」と仇討ちに出立する決意をします。

そこへ火事装束の塩冶浪士の仲間たちが唐突に・何の前触れもなく登場します。彼らは高師直館に討ち入るべく数右衛門を呼びに来たのです。何と芝居のなかでそれまで大工左官・あるいは商人で登場していた者たちは、実はすべて身分を隠して潜伏していた塩冶浪士であったことがここで明らかになります。幕切れの割り科白には次のようにあります。( )内は役名です。(台詞は三一書房版・鶴屋南北全集・第4巻を参照しています。)

鉄)古主の鬱憤散ざん為、大工左官と様を変え、
(市)或いは商人、日雇取り、皆この辺に徘徊なすも
(辰)これ皆義士の棟梁たる、大星殿の指図に依り、数右衛門どの迎えの為
(鉄)塩田、倉橋、前原はじめ、義士の輩参りし上は、大望即ち今日今宵。
(市)門出を祝して
(皆々)ご用意あれ。
(源五)然らばこれより同道いたして
(了心)本望達するめでたき門出。
(三五郎)我はこのまま、あの世の門出。
(源五兵衛)臨終称念。
}(了心)お立ち
(源五兵衛)まず今日はこれぎり。

この幕切れをどのように考えれば良いでしょうか。まず注意すべきことは「盟三五大切」 では筋の途中で源五兵衛(=数右衛門)と家来了心との会話・あるいは了心と息子三五郎との会話のなかでこの芝居が「忠臣蔵」の世界のなかにあることは何度も出ており、観客は承知のことだということです。だから別に幕切れに突然「忠臣蔵」が出てきて・アッとどんでん返しの結末になるわけではないのです。ただし、この男女の色恋沙汰の殺人劇の行方が「忠臣蔵」とどう絡んでくるかは最後まで分かりません。この芝居が「忠臣蔵」の世界であることの意味は最後の最後になって明らかになります。

幕切れを順を追って考えます。前述の通り・「愛染院門前」の場ですべての真相を知った源五兵衛(=数右衛門)は腹を切ろうとして・自分が代わりに腹を切ると言う了心に止められ、ふたりが刀を奪い合っているところに「お待ち遊ばせ旦那さま、親仁さま、云い訳あり。」という三五郎の声あり、早桶から三五郎が現れて「親仁がお主の旦那さま、知らぬこととてあのしだら、申し訳には・・」と言い、その 時の反応として「こりゃかうなうては叶うまい」という源五兵衛の台詞が引き出されているのです。つまりこの場面で源五兵衛は自分の罪を悔いているということです。これが認識の第1になります。ここでの源五兵衛の悔恨を素直に受け取れない方は多いと思いますが、吉之助は源五兵衛が腹を切ろうとしたのは本心からだと考えます。源五兵衛と父親が刀を奪い合っているのを見て、三五郎が早桶のなかで腹を切るからです。

次に三五郎夫婦が源五兵衛から金を騙り取ったのはすべて親のため忠義のためであり、主人数右衛門が立派に仇討ちを貫徹できるようにするためでした。ところが源五兵衛と数右衛門がたまたま同一人物であったために悲劇が起きたのです。三五郎は父親に勘当された前歴を持つわけですが、真人間に戻りたいが故に忠義であろうという気持ちがなおさら強いのです。また最後に真相を知った時・そこで絶望してすべてを投げてしまえば、それまでの苦労は水の泡になって・女房子供の死も無駄にすることになります。ですから三五郎は最後まで忠義であり続けようとしています。自分の忠義の行為を貫徹させるためには、主人数右衛門が仇討ちの列に加わって・忠義の武士と末代までその名を挙げてくれれば、それで家来としての自分の忠義は貫徹されるわけです。これが認識の第2です。

そう考えれば源五兵衛の「こりゃかうなうては叶うまい」という台詞には、ふたつの意味があることが分かります。ひとつは「三五郎のような忠義の若者ならば・この真相を知って生きてはおれまい・主人の代わりに自分が腹を切るということもまた忠義の行為である・忠義の家来はまったくこうでなければならない」ということです。源五兵衛は三五郎の徹底した忠義に心の底から感服しているのです。だから「こりゃかうなうては叶うまい」という言葉が思わず出るのです。もうひとつは、このような台詞が思わず出るということは、この時点で源五兵衛は主人の立場に戻ろうとしている・つまり数右衛門に戻ろうとしていることが明らかです。すなわち「忠義の家来というものはまったくこうでなければならぬ」というならば・「忠義の家来を持つ主人もこうでなければならぬ」ということになるからです。これは家来三五郎の忠義の行為を主人数右衛門がしっかり受けとめる覚悟があるということです。それが源五兵衛の「こりゃかうなうては叶うまい」という台詞の意味です。

「その志しあるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・・」というような台詞は時代物によくある台詞ですが、現代人には「家来を犠牲にしておいて・いけしゃあしゃあとよく言うよ」と感じる方が多いと思います。例えば「寺子屋」で菅秀才の言う「われに代わると知るならば、この悲しみはさすまいに、可愛いの者や」です。この台詞を聞いて「それじゃあ小太郎の代わりにお前死ねば良いじゃん」と思う方はたぶん歌舞伎にご縁はないでしょう。菅秀才は「自分の代わりに家来を死なせる事態になってとても悲しい」と感じており、心底感謝をしているのです。若君の言葉によって悲しみは浄化されるからです。こういう台詞は素直に読まねばなりません。

そのような源五兵衛と三五郎の言葉に感応するが如く・幕切れに「忠臣蔵」の仲間たちが続々と現れます。しかも彼らはそれまでの芝居のなかで大工左官・あるいは商人で登場していた者たちです。彼らは一部の連絡係を除いて・お互いの素性を知らなかったでしょう。素性を隠して巷に潜伏しながら、ある者は師直の動静を探り、ある者は由良助の心中を図りかねて悩んだり・怒ったり、ある者は脱落し、ある者は源五兵衛(=数右衛門)のようにとんでもないことを仕出かしていたのです。しかし、 ついに由良助から「集合」の指示が下り、いよいよ師直館に討ち入る時が来たのです。源五兵衛が巷で起こした事件の罪は三五郎がすべて背負ってあの世へ行き、源五兵衛は赤穂義士として出立していきます。

6)「盟」の幕切れ

「人ひとり殺せば犯罪者だが、千人殺せば英雄だ」と言ったのはチャールズ・チャップリンであったかと思います。バートランド・ラッセルも「人ひとり殺すのが罪ならば、千人殺すことは千倍罪が重い」ということを書いていたと思います。その指摘は確かにその通りだと思いますが、しかし、千人殺した事実があり・千倍の罪を背負って・それでもなおかつ彼が「英雄」と呼ばれる場合があることを歴史は教えています。歴史が教えるところは大いなる誤認であるのでしょうか。ならば歴史が教えるところの「人の偉大さ」とは何かということをもう少し考えてもよろしいのではないでしょうか。

「三国志」を見れば(これはまあ正史とは言えませんが)、英雄関羽はバッタバッタと敵を切り殺し・いったい何人殺していることでしょうか。曹操は野望を以って天下を我が物とせんとする人物ですが、決して悪人に描かれているわけではありません。「三国志」のなかで戦闘で何十万人死んでいるか分かりませんが、その物語から立ち現れてくるイメージは何かということです。関羽も・曹操も血まみれた殺人者に過ぎないと断じるならばつまらぬことです。

「四谷怪談」と同じく・「盟三五大切」も「忠臣蔵」の世界に仕組まれていますが、時代に対する世話・建前に対する本音、あるいは非人間性と人間らしさとの対立構図というステレオ・タイプな解釈のために、その幕切れが正しく理解されていません。そこに感じられるのは「こりゃかうなうては叶うまい」という台詞をきっかけに源五兵衛が不破数右衛門という本来の人格に立ち戻ることに対する根強い不信感です。このような木に竹を接ぐような人格の「人格の不連続」という歌舞伎の手法が、どれほど独自性があり・衝撃的で・インパクトのある演劇手法であることか・そのことが理解されていないのです。ですからこの 幕切れの「不自然さ」は「忠臣蔵」の忠義の論理に対する鶴屋南北の批判であるということになるわけです。義士だの何だの言っても・所詮は徒党を組んだ血塗られた殺人集団であると南北は言いたいのであると・そういうことになるのです。しかし、ホントにそうなのでしょうか。

三五郎は女房小万を使って・源五兵衛という愚かな男から金を巻き上げました。これが主人数右衛門とまったく別人物ならば・三五郎は「天晴れ忠義の家来だ」と主人に褒められるのでしょうが、やっ たことは強請り騙りに違いありません。怒り狂った源五兵衛に女房子供を殺されるのも強請り騙りの報いとすれば仕方ないことです。これ自体は市井の三面記事的事件に過ぎません。南北は源五兵衛は赤穂義士数右衛門が巷に潜伏している時の仮の名前だと書き換えてしまいました。これにより芝居の筋がメビウスの帯のようによじれながら・循環することになります。

並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)」は、寛政7年(1795)1月江戸・都座での上演。この作品は五人斬りという猟奇事件を題材にしていますが、登場人物の心情を極めて自然に描き出したことで歌舞伎史を通じての世話物の傑作とされています。「五大力恋緘」の初演には・当時41歳の南北もスタッフとして参加していました。その30年後・南北71歳の時に「五大力恋緘」の「五大力」の世界を借りて、これに「忠臣蔵」の世界を綯い交ぜして「盟三五大切」を書き上げたのです。本作は文政8年(1825)9月に江戸・中村座で初演されました。

これは大事なことですが、「盟三五大切」の登場人物はみな「忠臣蔵」の世界から発するのであって、その逆ではないということです。江戸の市井の人物を突然鎌倉や室町時代の架空の設定のなかに放り込んでいるのではないのです。「忠臣蔵」は元禄15年(1702)の事件を「太平記」の架空の設定に放り込こんでいるわけでややこしいですが、文化文政期においては「忠臣蔵」はもはや古典であり・ 赤穂義士は遠い過去からやって来た人物という印象が強かっただろうと思います。「盟三五大切」は「五大力恋緘」の筋を表面上あまり崩さずに取り入れており・幕切れで唐突に「忠臣蔵」が出てくる感じ がしますが、吉之助はこの幕切れについては・タイムマシンで遠い過去からやって来た「忠臣蔵」の人物たちが・文化文政の現在にやってきていろいろトラブルを巻き起こしたあげく・急に呼び出しが掛かって全員過去に戻ってしまうようなイメージを持ちます。

「かぐや姫」のラスト・シーンを思い出していただきたいのですが、かぐや姫と結婚しようとさまざな男たちが珍妙な騒動を引き起こしますが・突然月からお迎えがやってきて・ かぐや姫は去ってしまいます。「これまでの愚かしい騒動は一体何だったんだ」と一同呆然とするラストです。「盟三五大切」は実にこれによく似た幕切れです。お呼び出しはもちろん由良助から掛かっています。「これ皆義士の棟梁たる、大星殿の指図に依り、数右衛門どの迎えの為、塩田、倉橋、前原はじめ、義士の輩参りし上は、大望即ち今日今宵。門出を祝してご用意あれ。」とあります。 舞台には登場しない由良助がデウス・エクス・マキーナであることは言うまでもありません。

先に述べた通り・「忠臣蔵」の本質は由良助が担うもので、そのドラマの核心は「由良助は何を考えているのか・それは誰にも分からない」ということにあります。由良助が何を考えているか分からないから、周囲の者たちはあれこれ思いを巡らせて右往左往しているのです。「盟三五大切」のドラマもまたそうで、登場人物のほとんどが「忠臣蔵」から発しながら市井に在って・彼らは連携もせず・バラバラで・互いに助け合いもせず、それぞれが自分で考えて自分なりの忠義をしています。要するに良かれと思って ・それぞれ勝手に動いているわけです。だから資金集めのために強請り騙りをしたら・その被害者が主人だったということも起きてしまいます。これは悲劇であると同時に傍から見れば滑稽なことでもあるのです。それが各地から様々な素性の人が流れ込んできて・誰もその人の本当のことを知らないし・知ろうともしない大都市江戸の宿命なのです。そこに文化文政期という時代の一面が現れています。(これはまた現代にも通じるところです。)

思えば「忠臣蔵」物にはいろんな系譜がありますが、歌舞伎の人物にはそれぞれキャラクターの色分けがありまして佐藤与茂七といえばいつでも色男・モテ男、潮田又之丞はいつも病気で寝ているし、不破数右衛門はいつでも粗忽者・無骨者であると決まっています。史実の不破数右衛門も何の理由か家来を斬って閉門を仰せつかった経歴があり、武勇 は優れるが・危うい気質の人物だと見られたようです。また苗字が荒事の歌舞伎十八番の「不破」を連想させるせいもあると思います。「五大力」の世界を借りて・五人斬りなんてことをやらかすのは、四十七士の中ならばこの男しかおらぬということになります。だから南北は「五大切」の世界に数右衛門を放り込んで・源五兵衛を名乗らせているのです。これは「やつし」の趣向です。

「やつし」の代表例はもちろん「廓文章」の伊左衛門です。そのため高貴な者・富裕な者が零落してうらぶれた演技をする和事だけが「やつし」であると思い込んでいる方が少なくありませんが、そうではありません。 「やつし」にはもっといろいろなパターンがあります。「やつし」の本質とは、本来の自分ではない仮面の人生を自分は生きざるを得ないということです。そのために本来の自分を発揮できない憤懣や・自分自身を偽っているという罪悪感に責められているという状況を演劇的に見せるのが「やつし」なのです。だから荒事の「やつし」もあります。「助六」がそうです。「やつし」は鬱病・自殺者が激増している現代において一層クローズアップされる現象であることは言うまでもありません。それは現代病と言うべきものですが、それが歌舞伎の「やつし」に既に現れているのです。 言い換えれば、このことは江戸時代がすでに近代であるということの確かな証拠となります。

「五大切」の世界に数右衛門を放り込んで・源五兵衛を名乗らせていることが既に「やつし」です。源五兵衛が酒色に狂い・金を使い果たすのも、本来の自分が発揮できない(早く討ち入りして武勇を奮いたいのに・いつまでたっても由良助がその意思を示さない)という憤懣であり、自分自身を偽っている(したくてしている放埓三昧ではないが・それゆえ飲まずにはいられない)という罪悪感からであるということです。三五郎からして見れば、こういう奴こそカモだと思われたのです。 そこから悲劇が起こるのですが、しかし、三五郎は悪いことはしても・その行為が忠義に発しているという意識は決して捨てませんでした。その一途さが最後に源五兵衛を本来の数右衛門に引き戻す奇蹟を引き起こすのです。「こりやかうのうては叶うまい」という台詞はその転換点を示すもので、歌舞伎でしかあり得ない・物凄い台詞だと思います。

話があちこち飛びますが、真山青果の「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」において・男の成りをして屋敷に入り込み・磯貝十郎左衛門に会おうとする娘おみのの台詞を思い出します。

「一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りに終りますまい。実(まこと)のために運ぶことも、最後の一時を偽りに返せば、そは初めよりの偽りでございましょう。(中略)十郎左さまにさえお目にかかれば、やがて必ず 誠に返してお目にかけます。十郎左さま方便の偽りも、おみのは実に返してお目にかけます。どうか、どうか十郎左さまに、お引きあわせを願い上げます。」

詳細は別稿「内蔵助の初一念とは何か」をお読みいただきたいですが、偽りも・罪悪も一時に実(まこと)に返してみせることが可能なのです。現実には難しいことかも知れませんが、文学や芝居のなかではその奇蹟を引き起こすことが確かにできるのです。「盟三五大切」の幕切れをそのように読んで欲しいものだと思います 。

(H21・4・26)






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