時代物としての「四谷怪談」
〜「東海道四谷怪談」
「そんなら、あの悪党は、プロセルピーナ(冥府の女王)やプルトーネ(冥府の王)と暮らせばいい。そして私たち、ああ、善人たちよ、私たちは楽しく繰り返そう、とっても古い歌を。これが悪人の最後だ!そして非道な者たちの死は、いつでも生と同じものなのだ!」
(モーツアルト:歌劇「ドン・ジョヴァン二」 フィナーレの六重唱)1)夏狂言としての「四谷怪談」
「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)江戸中村座で7月に初演されていますから・典型的な夏狂言です。「四谷怪談」は永くお岩さまの怪談芝居として上演されてきて、江戸での菊五郎家・上方では右団次(斎入)の洗練された演出が歌舞伎に伝わっています。
ところで、「四谷怪談」はお岩/伊右衛門が関連する場面だけ抜き出してみると・どの場面も何となく夏の雰囲気らしく思えます。お岩が醜い姿になって死ぬ「浪宅」は蚊帳が重要な小道具になっていることから分るように・もちろん夏の場面です。お岩/伊右衛門が美しい姿で登場する幻想的な「夢の場」は七夕祭りですから・これも夏です。一方、「隠亡掘」も「蛇山庵室」も盂蘭盆らしい雰囲気に思えます。百万遍の唱えられるなかで・提灯がパッと燃え上がって・そこからお岩の幽霊が現われるのも・いかにも夏らしい雰囲気です。
これは夏狂言の怪談芝居だからそのように思い込んでしまうせいもあります。しかし、脚本を読むとこれが実はそうではないのです。「隠亡掘」の場面は伊右衛門の行方を尋ねる伊藤の妻お弓の質問に対する直助の返事から・事件から四十九日以上経っていることは明白でして・つまり初秋のことになります。「夢の場」の舞台が廻ると「蛇山庵室」になりますが、「蛇山庵室」は外が真っ白な雪景色ですから・これは冬なのです。もしかしたら「蛇山庵室」の雪景色に観客は清涼感を感じるという効果があるかも知れませんが・それは副次的なもので、この場面の雪景色にはむしろかなり違和感があります。「えっ、この場面は夏じゃないのか?なんで雪なんだ?」という感じがします。この違和感を大事にしたいと思います。そこに「四谷怪談」を考える鍵があると思います。
お岩さまの怪談芝居としてだけ考えると・「四谷怪談」は夏の季節感で通してしまった方がずっとスッキリ来るのです。怪談芝居としての「四谷怪談」がひとり歩きしていくなかで、「三角屋敷」や「小平住居」があまり上演されなくなったのは・時間的制約だけがその理由ではなくて、ごく自然な流れであるのかも知れません。怪談芝居として「四谷怪談」を見る分には「忠臣蔵」の件は余計です。お袖の夫が与茂七である必然も・小仏小平の主人が潮田又之丞(これも四十七士)である必然もないわけです。
「四谷怪談」を現代的な視点で解釈することは興味深い試みです。男(伊右衛門)と女(お岩)の暗い情念の物語と読むことも、飽くなき自由を追い求める近代的性格の人物(伊右衛門)と解して・これを縛り絡め取ろうとする世間あるいは体制(お岩)の物語として読むことも出来るかも知れません。それならばいっそのことお岩/伊右衛門の件を中心に・思い切って「忠臣蔵」から離してしまった方が芝居の自由な解釈が可能になるかも知れません。
しかし、「四谷怪談」での与茂七の件の比重を重くしようとするのであれば、それは必然的に「四谷怪談」を「忠臣蔵」に結びつけることになります。そう考えると・この「四谷怪談」に季節のサイクルを与えているのは、「四谷怪談」のもうひとつの筋・すなわち佐藤与茂七に関連する「忠臣蔵」のサイクルから来るわけなのです。
大詰「蛇山庵室」がどうして雪景色であるかと言うと、ここで与茂七が白装束で現われるからです。ここに来て観客には日付刻限までが明確に分ります。それは大星由良助以下四十七士が高家討ち入りをする直前・つまり12月14日の前夜ということになります。与茂七はこの場で伊右衛門を討ち果たした後に高師直屋敷に駆け付けて、討ち入りに参加するのです。
つまり、与茂七の役割は「四谷怪談」を「忠臣蔵」の世界に結びつけることです。このことは「四谷怪談」の完全通しがもはや不可能で・場面の取捨選択をせねばならない現代においては大事なことです。お岩も伊右衛門も・直助も「忠臣蔵」から離れたところで生きていたとしてもおかしくない人物たちです。しかし、与茂七は四十七士の一員であり・「忠臣蔵」の世界から来ているのが誰の眼にも明白な人物です。与茂七が登場すると観客は「討ち入り」のことを思い出さざるを得ません。と言うよりも・観客の脳裏に「忠臣蔵」の世界を呼び覚ますのが与茂七の役割 なのです。
「歌舞伎素人講釈」では「三角屋敷」はお岩の代理として伊右衛門を討つ役割を与茂七に与える場であると解釈しています。(別稿「与茂七と三角屋敷の意味」をご参照ください。) 「四谷怪談」を見れば与茂七の件はお岩の件に対して脇筋のように思えます。しかし、それまではあってもなくても良いように思える与茂七の件が「三角屋敷」の場によって・お岩/伊右衛門の件にはっきりと絡んで来るのです。これが「三角屋敷」が「四谷怪談」のなかで背負っている役割です。つまり、与茂七を考えることは「四谷怪談」における「忠臣蔵の世界」の枠組みをどう捉えるかということになります。
2)お岩のプレッシャーの正体
ご存知の通り、文政8年(1825)7月江戸中村座での初演では「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」とテレコで上演されました。(これについては別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」をご参照ください。)何のために「四谷怪談」は「忠臣蔵」の世界に絡められているのでしょうか。
一般的な「四谷怪談」のイメージは上方で再演された「いろは仮名四谷怪談」など・その後に上演されてきた怪談芝居の「四谷怪談」によって作り上げられてきたイメージです。例えば 「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞は伊右衛門の性格を現す象徴的な台詞としてしばしば挙げられますが、これは実は「いろは仮名四谷怪談」で初めて登場する台詞で・南北の初演本には出てこない台詞です。とすれば・この台詞を以って南北の意図を議論するのはどうかと思います。これらをごっちゃにした形で・怪談芝居の「四谷怪談」がひとり歩きして・論じられることが多いのです。
しかし、正真正銘オリジナルの南北の「東海道四谷怪談」の場合は「忠臣蔵」 を切り離すことはできません。一般的に言われるような・「四谷怪談」を「忠臣蔵」のパロディーであるとか、「忠臣蔵」は表(建前)の世界・「四谷怪談」は裏(本音)の世界であると言う見方では「四谷怪談」は十分に読み解けないと吉之助は思っています。
伊右衛門は自分を縛ろうとする社会(あるいは世間)の「しがらみ」の疎ましさから逃避しようとしていることは確かです。「しがらみ」のひとつは公の問題・つまり赤穂浪士の高家討ち入りの問題ですが、一方、伊右衛門は私(プライヴェート)の場面においても「しがらみ」に追われています。それはお岩の父 四谷左門を殺した犯人を捜して仇を討つということです。(実はその犯人は伊右衛門なのですが、このことをお岩は知りません。)仇討ちの件で・伊右衛門はお岩からプレッシャー(圧迫)を受けています。それが伊右衛門がお岩を疎ましく思う遠因になっているわけです。
ところで、幽霊と化したお岩は伊右衛門に「恨めしい」とは言いますが・伊右衛門に「仇討ちをしてくだされ」とは言いません。生前のお岩は・愛する男伊右衛門が父の仇をとってくれるのが「その愛の証」であると思っていたはずです。「常から邪険な伊右衛門どの・・・ひょんな男に添いとげて、辛抱するも父さんの、敵を討ってもらいたさ」とお岩は言っています。「そうでなければ私はあなたとはとっくの昔に分かれていますよ」と言ってはいませんが、そうやって伊右衛門に無言のプレッシャーを掛けています。そういうところが伊右衛門には疎ましく感じられます。
恐らくお岩は伊右衛門が信用できない人間であることは薄々感じてはいるのですが、お岩はそうした内心の疑いより・世間体の方を大事にしているのです。伊右衛門に邪険されればされるほど・お岩はますます大義にしがみついていきます。しかし、伊右衛門が自分を裏切って他の女に走ったと知った時点で仇討ちの大義は消し飛んでしまいました。幽霊になったお岩は「仇討ちをしてくだされ」などと今さら言っても仕方ないのです。だから伊右衛門がますます「恨めしい」わけです。
ここでお岩が伊右衛門に与えていたプレッシャーの正体が明らかになります。それは「私を愛しているなら・私が望む通りのことをして」というプレッシャーなのです。これは間違いなく「かぶき的心情」です。別稿「その心情の強さ」をご参照ください。これは「私があなたを愛しているのと同じくらい私を愛して」の変形だと言えます。
だからお岩の怨念というのは私的なレベルだと言えますが、これが大詰「蛇山庵室」において一気に公的な意味を持つものに転化していきます。これは夫婦間のドロドロした喧嘩の果てに・夫が妻を殺してしまったという事件が法廷という公の場で裁かれるというのにちょっと似ています。「あの人は私を殺した悪い人だから・あの人を罰して」とお岩の幽霊は世間に訴えているのです。夫婦の間で起こった犬も喰わない諍いを公平に裁くのは厄介なものです。しかし、表沙汰になってしまったものは公の法律で裁かねばなりません。「妻を殺した」という事実だけで夫は裁かれます。「殺された」と言う事実だけで世間はお岩の味方です。伊右衛門が事情をいくら説明しても誰も理解してくれません。そんなものは犬も喰わないのです。だからお岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは社会的な意味があるわけです。
お岩が刑執行人に与茂七を選ぶのは、それにふさわしいと誰もが認める資質を与茂七が持っているからだと考えられます。それは与茂七が塩冶義士であるということです。このことは未来(つまり芝居の結末)から逆転して考える必要があります。お岩が与茂七を選ぶのは与茂七がお岩の妹お袖の夫であるということとか・あるいはお岩の櫛にまつわる怨念の糸で与茂七が伊右衛門を討つのだと考えるのは、原因から結果への流れで芝居を見ようとしているわけですが、そうではなくて・芝居全体から構図を読んでいく必要があります。
お岩の怨念を公的な意味に結びつけるために塩冶義士である与茂七がお岩の妹お袖の夫でなければならないのです。伊右衛門が不義士であることも・結局はそのために設定されていることです。そのように芝居は設計されているのです。
3)社会とは鏡である
「夢の場」は綺麗なお岩と伊右衛門の姿を見せることが出来ますから・役者にとっても嬉しい場面のはずですし、この舞台が廻って・陰惨な蛇山庵室に転換するのも・南北 劇独特の妙味があって面白いのに、舞台にあまり掛からないのは実に不思議なことですね。この美しく幻想的な場面は蛇山庵室で半狂乱になっている伊右衛門がうなされながら見る夢です。「夢の場」はお岩と伊右衛門の不思議な関係を象徴的に表しています。
もともとお岩の父四谷左門が引き離そうとしたのを無理に一緒になっているくらいですから、伊右衛門はホントはお岩が好きであったのです。「夢の場」では伊右衛門がお岩を無惨に死なせたことをちょっぴり後悔しているらしいことさえ伺えます。ところが、そのような好きな女を相手にしていても(好きだからこそと言うべきか)・伊右衛門の心は酔い切れない。伊右衛門はどこか醒めています。そして、女の心のなかにどこか 恐ろしいものを感じています。そういう伊右衛門の心理が「夢の場」に表れています。
「そういうそなたの面差しが、どうやらお岩に・・・」
「似たと思うてござんすか。但し面影は冴えわたる、あの月影の移るがごとく、月は1ツ、影は二ツも三ツ汐(満汐)の、岩に堰かるるあの世の苦患を・・」
「ヤヤ、なんと」
「うらめしいぞえ、伊右衛門どの」これは美しい娘の面差しが次第にお岩に変化したとも考えられますが、伊右衛門の心が娘の顔を醜く変えたとも言えます。あるいは物理的に娘の顔が変化したわけではなくて・伊右衛門の眼に変化したように見えただけと考えても良いかも知れません。つまりそこに伊右衛門の心の本質的な冷たさがあるのです。格好は良くて・女性にはモテるけれども、その生き方は虚無的で・周囲を不幸に巻き込んでいく冷たい性(さが)です。
結局、「四谷怪談」の陰惨な物語はすべて伊右衛門の虚無的で・自己中心的な性格が引き起こしたものであることがここで分ります。すべての事件(現象)が伊右衛門の性格に対する社会(世間)の反応として起こったものだと言うことになります。つまり、社会(世間)とは伊右衛門の性格を映している鏡なのです。
ここでは幽霊のお岩の姿がいつの間にやら社会(世間)の見方を代表しています。私的な怨念がいつの間にか公的な怨念に変化しているのです。ほんの出来心の・私的なレベルのつもりでやった悪事がいつの間にやら大事(おおごと)になってしまいます。考えようによっては、これは幽霊よりずっと恐ろしいことです。伊右衛門自身の行為とそれが引き起こした事件との因果関係の糸から、伊右衛門は決して逃れることはできません。こうして伊右衛門は最後には自らの因果の糸に絡め取られていきます。
4)幽霊の背負う真実
伊右衛門の置かれた状況を・個人と社会(あるいは世間)の対立構図で読むこと自体は必ずしも間違いとは言えないと思います。しかし、社会(世間)を個人の自由を束縛する「悪」という固定観念だけで見ようとするならば・やはり「四谷怪談」を読み間違えることになると思います。なぜなら人間は個人ひとりで生きているのではなく・共同体のなかで生きているのですから、「しがらみ」が人間を人間らしくさせるという場面も・それは確かにあるからです。「しがらみ」を拒否してしまうのは、人間であることを拒否するのと変らないのかも知れません。
確かに「世間のしがらみ」を呪いたくなる場面は現代においてもいろいろあるでしょう。現代芸術でもそれは大きいテーマになるものです。しかし、社会(世間)は人間性と敵対し・自由を求める個人の生き方を抑圧するものだと呪うだけでは、やはりちょっと底が浅くなると思います。
このことは「四谷怪談」だけでなく・南北作品によく出てくる幽霊に対する乾いた「笑い」を見ても分ります。幽霊はそれがなおも固執し・それ故に成仏できない・何かの「しがらみ」を背負っています。幽霊は嘘をつきません。そして、ただひたすらに訴えるだけです。そこに幽霊が引きずっている何がしかの真実があるのです。
「桜姫東文章」において・清玄が生きていた時にはあれほど逃げ回っていた桜姫が、驚いたことに「山の宿」では幽霊になった清玄の言うこと(桜姫の父・弟を殺したのは権助であることなど)を実に素直に聞くのです。どうして桜姫は「そんなことは嘘だ・信じられない」と幽霊に言い返さないのでしょうか。それは桜姫には幽霊の言うことが真実であることが分っているからです。「三角屋敷」では・殺したはずの与茂七が現われて直助は驚いて「幽霊が来た、幽霊が来た」と大騒ぎをします。幽霊の存在を信じていない現代人が「幽霊なんて馬鹿なことで騒いでる」という目で芝居を見るならば、その騒動は南北が幽霊を戯画化して笑いのめしていると見えるでしょう。しかし、江戸の昔の人々は霊魂の存在を信じていたわけですから ・これはまったく逆に考えるべきでして、南北は騒ぐ人間たちの方を茶化しているのです。南北作品の幽霊の笑いのなかに庶民の健康な批判精神を見たいと思います。
5)暗喩としての与茂七
与茂七がお岩の刑執行人であるという劇構造を暗喩として観客に印象付けるためには、お岩と与茂七をひとりの役者が兼ねると言う方法が最も効果的な方法です。文政8年(1825)中村座での初演では三代目菊五郎がお岩と与茂七(さらに小仏小平)を兼ねて演じました。この配役なら南北の意図が観客にはっきりと実感されると思います。大詰では菊五郎は与茂七で舞台に出ていますから ・当然お岩は登場できないので、その代わりにお岩の化身である鼠が登場して伊右衛門を責めます。
お岩と与茂七を別々の役者が演じるのであれば、原作にはないけれど・大詰でこんな演出も考えられるかも知れません。大詰で討入装束姿の与茂七が現われて・伊右衛門に打ち掛かりますが・伊右衛門も必死で反撃をします。与茂七の形勢が不利になると・ドロドロが掛かってお岩が現われて与茂七の加勢をするのです。伊右衛門の動きがお岩によって止められます。そこで与茂七が反撃に出ます。これが何回か繰り返されて、ついに与茂七が伊右衛門を仕留めます。これならばお岩と与茂七との関係が観客に明確に理解できるかも知れません。
お岩の幽霊は伊右衛門の周辺の人々を圧倒的な力で殺していきます。最後ひとり残った伊右衛門をお岩はどんな形でとり殺すのでしょうか。お岩が伊右衛門にどんな形で対するのか。観客は固唾を呑んで見守ることになります。ここが怪談芝居のクライマックスです。ところが、お岩は伊右衛門を自らの手で殺すことをしないで・最後にこれを与茂七に任せてしまうのです。だから、大詰で 白装束の与茂七が現われて伊右衛門を討つのは、その一面真っ白の雪景色ともども観客にとって意外なことです。伊右衛門さえ与茂七に対して「なんで身どもを、いらざることを」と叫んでいます。その驚きこそが大事です。観客は「四谷怪談」が忠臣蔵の世界の大きな枠組みのなかに取り込まれて・まさに納まった瞬間を見るのです。これこそが時代物の醍醐味です。
ここで「四谷怪談」を時代物と書きましたけれども、ご承知の通り・一般的な歌舞伎の解説書では「四谷怪談」は生世話物に分類されています。しかし、本稿をここまで読まれた方はお分かりの通り・「四谷怪談」の骨格は忠臣蔵にあるわけで、「四谷怪談」は正しくは時代物と呼ぶべきなのです。登場人物の多くは上方から流れてきた者たちであり・武士言葉を使うことから、演技様式的にも時代物であることが言えます。(「四谷怪談」の姉妹編とも言うべき「盟三五大切」についても同じことが言えます。)「四谷怪談」は初演では「忠臣蔵」の二番目の位置に置かれていたわけですから、まあ、その点で純然たる時代物より世話物の方に傾いていることも事実ですが、しかし、「四谷怪談」を「忠臣蔵」のアンチテーゼであると考える限り「四谷怪談」の本質には迫れないと思っています。
6)時代物としての「四谷怪談」
「四谷怪談」大詰は与茂七が伊右衛門を斬りつけたところで・ドロドロになって・両人キッと見合って・そこで幕になります。伊右衛門がトドメを刺されるところまでは舞台では見せません。そうなると「果たして伊右衛門は死んだのであろうか」、このような疑問が出て来るかも知れません。しかし、その答えは明確です。もし伊右衛門が死なずに・生きているなら、与茂七は高師直屋敷討ち入りの現場に駆けつけることができなくなります。四十七士の討ち入りが成功したことは厳然たる観客の常識(歴史的事実)としてあります。だから、伊右衛門が与茂七に討たれないなんてことはあり得ません。このことは疑う余地もないことです。
伊右衛門が討たれるところを舞台で見せないで・「まず本日はこれ切り」とやることは、その芝居の結末(方向)が明確に定まったという事実があって・はじめて出来ることです。伊右衛門は死なないまま・宙に浮いた状態に置かれるのではなく、むしろこれは伊右衛門が生きたまま死刑台に乗せられ・ 首に縄を掛けられたことを意味するのです。そうすることでお岩の怨念のエネルギーが最大に高められるのです。
「デタント」という言葉をご存知でしょうか。東西冷戦状態(1960年後半から70年代にかけて)の米国と旧ソビエト連邦の政治対話の試みを指したもので、一般的には「緊張緩和」と訳されています。デタントは東西両陣営の軍事力が均衡し、「全面核戦争か平和共存か」という危機認識のなかで生まれたものでした。実は「デタント」は仏語のDétenteに発した語句で、弓をつがえて・引き絞り・相手に狙いを定めた形で互いに向き合った状態を表す言葉です。つまり、「緊張緩和」というのは正しい訳ではないのでして、デタントとは緊張が最高に高まって凍りついた状態を指しているのです 。
「曽我の対面」は曽我兄弟がその場で工藤祐経に襲い掛かって討ってしまわないのも、このデタント状態です。これは「引き分け・再試合」ということではありません。兄弟は仇敵に後日に再会を約してその時に必ず討つことが定まっているのですから、怨念のエネルギーはその時に向けて・より高められたのです。「今のところは生かしておいてやる」というように。そして兄弟は来るべき宿願の成就を確信します。そこに予祝性があるわけです。
「四谷怪談」の大詰も同様に考えられます。文政8年江戸中村座での初演では与茂七が伊右衛門を斬りつけ・両人キッと見合って・そこで幕になった後、舞台は転換して「忠臣蔵・十一段目・討ち入りの場」に続きます。お岩の怨念のエネルギーは最大に高められて「討ち入り」の歓喜のフィナーレへ爆発的に流れ込むのです。このためにお岩の刑執行人として ・四十七士の一員である与茂七が伊右衛門を確かに討たねばならぬのです。そのように南北の「四谷怪談」は設計されています。
こうしたことは「忠臣蔵」とのテレコではなく・「四谷怪談」だけが単独に上演される現代においてはどうでもいいこと なのでしょうか。そうではなくて、「四谷怪談」だけの上演でも・テレコ上演と同じ効果が引き出せるのではないでしょうか。もしそれが可能であるならば、それこそは 白装束の与茂七と降り続ける白い雪の効果なのです。
(後記)
別稿「軽やかな伊右衛門〜ドン・ジョヴァン二と伊右衛門」もご参考にしてください。
(H18・9・5)