その心情の強さ
〜「出世景清」をかぶき的心情で読む
「愛して、アルフレード、私を愛して。私があなたを愛しているくらいに。」
(ヴェルディ:歌劇「椿姫」・第2幕第1場・ヴィオレッタの歌詞)
1)「私があなたを愛するくらいに私を愛して」
歌舞伎と関係ない話から入りますが、ギリシア神話のお話です。その昔、クレタ島にはミノス王という王様がおりまして、そこの宮殿には通路が入り組んでいて・一度入ったら 絶対に出られないというので「迷宮」と呼ばれている場所があり、ミノス王はその迷宮の奥にミノタウロスという怪物を飼っておりました。ミノス王はアテネの町に、このミノタウロスの餌として毎年二百人の若者を犠牲に差し出すように要求していました。これに憤慨したテセウスは自ら志願して犠牲のメンバーに加わります。このテセウスを見初めたのがミノス王の娘アリアドネです。彼女はテセウスに迷宮を脱出する 秘策を授け、そのおかげでテセウスはミノタウロスを殺し・迷宮を脱出することができ ました。その後、テセウスはアリアドネを連れてクレタ島からナクソス島に駆け落ちするのですが、ここでテセウスは理解ができない行動に出ます。アリアドネをナクソス島に置き去りにして逃げてしまうのです。
恩あるアリアドネをどうしてテセウスは捨てて逃げてしまったのか、その理由をギリシア神話は伝えておりません。これについてはいろいろ推測されていますが、有力な説はこういうことです。アリアドネは情が深すぎる女性である・テセウスはそれがいつしか自分に災いになって跳ね返ってくるのを恐れて・それで彼女を捨てたのだというのです。
実はギリシア神話に先例があるのです。それはメデイアです。メデイアは敵将イアーソンと恋に落ち、父にそむき・弟を殺し・故国コルキスを逃れて、コリントスでイアーソンとの間に二人の子供をもうけます。しかしイアーソンはコリント 王の娘を妻に迎えます。メデイアは激しい憎悪を燃やして、コリント王とその娘を殺し、さらにイアソンと自分の間に生まれた二人の子供まで殺してしまいます。これはエウリピデスの古代ギリシア悲劇で有名な話です。
アリアドネもまた恋の虜になって・父を裏切った娘です。その情の深さに助けられてテセウスは窮地から脱出できたわけですが、しかし、その情の深さが何かの拍子に嫉妬と憎悪の炎となってテセウスに向けられた時には・彼は破滅するであろう、そのことをテセウスは恐れたのです。
このような例を他にも見ることができます。例えばシェークスピアの「オセロウ」のデズデモーナです。第1幕第3場において、娘が黒人のオセロウと結婚するのを猛反対する父親に・デスデモーナは「私はオセロウを愛し・この方と一緒に暮らしたいと願っています」と言い放ちます。あきらめた父親はオセロウに向かってこう言い捨てて立ち去ります。
「気をつけるんだな、ムーア、あんたに目があるのなら。自分の父親を欺いた女だ、あんたを欺くかも知れん。」
吉之助が見たいくつかの「オセロウ」の舞台では、この父親の台詞は軽く処理されてしまって強い印象が残りませんでした。しかし、吉之助はこの台詞はこの芝居の核心の台詞だと思っています。父親の呪いの言葉が、まるでマクベスの魔女の予言のようにオセロウを縛り・イヤーゴの嘘と混じって 化学反応を起こして・じわじわと毒を放ち始めるのです。吉之助が演出をするなら、この父親の言葉にオセロウはエッ?と驚いたようにデズデモーナを振り返って、そして「君が俺を裏切るって?そんなことは俺は信じないからね」というような身振りと表情で笑って見せる、このくらいのことはさせたいと思いますね。もちろんデスデモーナには何の落ち度もありません・彼女は最後までオセロウだけを愛し続けました。しかし、彼女を殺したのはイヤーゴの嘘だけではなく・彼女の情の深さがオセロウを迷わせ・彼女自身を殺したとも言えるのです。
ところで、冒頭に引用しましたのはヴェルディの歌劇「椿姫」のヴィオレッタの台詞です。(原作は小デュマの同名小説)高級娼婦のヴィオレッタは若者アルフレードと真実の恋に目覚めますが、息子の行く末を心配する父親の訴えに・彼女は泣く泣く身を引きます。「私があなたと愛するくらいに私を愛して」という台詞はヴィオレッタがアルフレードのもとを理由も告げずに立ち去ってしまう時の台詞です。もちろんヴィオレッタは恋人を裏切るわけでも・嫉妬に狂うわけでもありません。しかし、根源にあるものはメデイアと同じく「情の深さ」です。ただ性格と状況の違いによってその表出の方向が違うというだけです。(「椿姫}第2幕第1場のこの場面をマリア・カラスの歌でお聴きください。)
惚れた男のためにこの身を滅ぼしても尽くす、親兄弟を裏切っても惚れた男のために尽くす。だって、私は彼を愛しているのだから、そのくらいのことは何でもないの。でも、彼が私を裏切ることは絶対に許さない。私が彼を愛しているのと同じに、彼は私を愛さなければならないのよ・・と言うわけです。
ついでながら申し上げれば、これは女性だけに限ったことでもありません。オセロウもまた「自分が愛しているのと同じくらいにデズデモーナに自分を愛して欲しい」という欲求を心底に持っています。彼は白人ではなく・歳を取ってもいますから、そこに引け目も感じています。だから、オセロウはイヤーゴの策略に易々と引っ掛かったのです。その最後にあたりオセロウは自分のことを「賢明ではなかったが・深く愛しすぎた男であった」と告白しています。
実はこれはほとんど「かぶき的心情」なのです。この心情は「あなたを愛する私」というアイデンティティー(自己存在)の実現 を強く求めるのです。そこに自分の「真実」があると信じるからです。それが実現されない・裏切られたと感じると、彼(あるいは彼女)は怒り狂って・その正当な権利を主張します。私はあなたをこんなに愛しているのだから・あなたは私に応える義務があるということになります。その義務を果たさないあなたを絶対に許さない。場合によっては、それは「私があなたを愛したという証」の抹殺という行為にまで至ることがあります。その例を近松の「出世景清」に見てみたいと思います。
2)阿古屋の心情
「出世景清」は貞享2年(1685)竹本座での初演。近松門左衛門・33歳の時の作品です。「出世景清」は「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされて、本作を境としてそれ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するということになるほどの画期的作品です。これまでの浄瑠璃作品のような単純かつ類型(パターン)的な人物表現ではなくて、そこにもっと生々しく複雑な人間的感情を盛り込んだ新しいタイプの浄瑠璃が「出世景清」であったのです。
阿古屋は、それまでの古浄瑠璃では「阿古王(あこおう)」の名で登場しますが、子どもまでなした景清を密訴して利欲に走った悪女です。そしてこの行為に怒った景清が二人の子供を殺すのです。古浄瑠璃「景清」では、この場面がこう描かれています。
『弟の弥若が、この由を見るよりも、あら恐しの父ごぜや、我をば許させ、給へとて、母が所へ逃げけるを、後れの髪をむんずと取り何と申すぞ弥若よ、殺す父な恨みそ、殺す父は殺さいで、助くる母が殺 すぞや、同じくは兄弟共に、閻魔の庁にて父を待てというままに、心元を、一と刀、あつとばかりを最後にて、兄弟の若共を、三刀に、害しつつ刀をかしこへがらりと捨て・・』 (古浄瑠璃・「景清」)
これに対して近松は「出世景清」の阿古屋をプライドが高くて嫉妬心も強い性格に設定し・愛憎に悩む女に仕立てたところが味噌なのですが、子供を殺す役が景清ではなくて・阿古屋に変わっているのです。阿古屋は景清が牢に入ったと聞くや、子ども2人を連れて牢屋を訪ね許しを乞います。しかし、どれほど謝っても景清の怒りはとけず、とうとう阿古屋は景清の面前で子ども2人を殺害し自分も自害し果てます。その場面はこう描かれています。
『弥若驚き声を立て、いやいや我は母様の子ではなし、父上助け給へやと、牢の格子へ顔を差し入れ逃げ歩く、エエ卑怯なりと引き寄すればわっと言うて手を合わせ、許してたべ、明日からは大人しう月代も剃り申さん、灸をもすえませう、ても邪見の母様や、助けてたべ父上様と息をはかりに泣きわめく、おお道理よさりながら、殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ、あれ見よ兄も大人しう死したれば、おことや母も死なでは父への言ひ訳なし、いとしい者よよう聞けと、勧め給へば聞き入れて・・・』 (「出世景清」)
ご注意いただきたいですが、ここでの核心は子供を殺す役割を父親から母親へ置き換えたという事ではありません。近松は趣向から筋書きを発想しているのではありません。役割の倒置はその結果であって・近松の目的とするところではないのです。そこが近松が凡庸な作者とは全然違うところです。近松の目指すところは、「この男を愛する私」というアイデンティティーの実現が叶わず・ついに「私がこの男を愛したという証」(つまり二人の子供たち)を抹殺し・さらに自らも消し去ってしまわずにはおかないほどの・その愛の強さ・「かぶき的心情」を描くことなのです。
この阿古屋の行為は、景清の許しを得られなかったことから来る「絶望」あるいは「自暴自棄・自己否定」の行為なのでありましょうか。もちろんそのように考えることも可能かも知れません。しかし、それならば・それは夫を裏切ったことへの当然の報いであって・それは「悲劇」とは呼べないのではないでしょうか。阿古屋の行為が「悲劇」であるならば、阿古屋は「どうにもならない情念の炎に巻かれて阿古屋は自ら滅びていく」のでなくてはなりません。阿古屋の心情をそのように読んでみたいと思うわけです。
前掲の文章をご覧になれば、近松は古浄瑠璃「景清」の詩章をうまく取り入れて「出世景清」の文章を書いていることがお分かりかと思います。古浄瑠璃では「殺す父は殺さいで助くる母が殺すぞや」となっている部分を、近松は「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」と書いています。
近松の「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」は、「悪いのはお母さんじゃない・こんなことになったのもみんな父さんが悪いんだ・お前を殺すのはお父さんだ」という意味です。しかし、これは子供を殺す役割を父と母とを入れ替えただけではなくて、それによって劇中人物の人間描写がさらに複雑かつ彫りの深いものになっているのです。そこのところをもう少し考えてみたいと思います。
まず阿古屋がどうして訴人して景清を裏切ってしまったかを考えてみます。阿古屋は京都・清水坂に住む遊女です。景清とねんごろになって、2人の子どもをもうけます。阿古屋は遊女と言ってもいわゆる太夫クラスの遊女であって、教養もあるプライドの高い女性です。ところが景清は熱田の大宮司の許で娘の小野姫を妻としています。阿古屋は兄の十蔵に褒美目当ての訴人をそそのかされますが、これを拒否しています。そこへ小野姫からの文が届き、開いてみた文面に「遊女にお親しみか」という言葉があるのを見て、阿古屋は激昂して訴人をしてしまうのです。この部分を近松はこう書いています。
『阿古屋は(文を)読むも果て給わず、はつとせきたる気色にて、恨めしや・腹立ちや・口惜しや・妬ましや、恋にへだてはなきものを・遊女とは何事ぞ、子ある仲こそまことの妻よ。かくとは知らで・はからずも・大切がり、心を尽くせし悔しさは、人に恨みはなきものを・男畜生、いたずら者(浮気者の意)を。アア恨めしや・無念やと、文ずんずんに引き裂きて、かこち恨みて泣き給ふ・理(ことわり)とこそ聞こえけれ』
これはひとつには「嫉妬」から来る行動であり・阿古屋自身も「嫉妬」であると景清に言っていますが、しかし、単純に「嫉妬」とだけ決め付けず「かぶき的心情」においてこの阿古屋の心情を読んでみたいと思います。
阿古屋は「私がこんなに景清を愛しているのに景清は同じくらい私を愛してくれていない」ということに景清の不実を日頃から感じています。また阿古屋は正妻である小野姫との氏素姓の格差にも引け目を感じています。その小野姫の手紙のなかの「遊女にお親しみか」の言葉が阿古屋のくすぶっていた憤懣に火をつけてしまうのです。景清を訴人するという行為によって阿古屋は景清の不実をなじっているのです。「悪いのはアンタなのよ・私だけを愛さないからこうなるのよ・こうなったら私はアンタを訴えて死んでやるから」というのが阿古屋の心情です。近松はこの阿古屋の心情を「理(ことわり)」・つまり当然であるとはっきりと書いています。この心情こそ「かぶき的心情」です。
夫を訴人し裏切ったからには阿古屋が死ぬ覚悟なのは当然のことです。ただし、その場で死ぬわけにはいきません。「自分が訴人に至ったことの原因はアンタにあるんだ・私はずっとアンタのことを愛していたんだ」ということを景清に認めさせないことには死んでも死に切れないという強い思いが阿古屋にはあるのです。四段目「六波羅新牢の場」に、なぜ阿古屋が子供を連れてやってくるのかという理由もこう考えないと分りません。阿古屋は景清に訴人の経緯を語り、さらに次のように訴えます。
『さりながら嫉妬は殿御のいとしさゆえ。女の習い誰が身の上にも候ぞや。申し訳致す程皆言い落ちにて候へども。今までのよしみには道理ひとつを聞き分けて、ただ何事も御免あり今生にて今一度。詞を掛けてたび給はばそれを力に自害して、我が身の言い訳立て申さん』
今一度優しい言葉を掛けてもらえるならば・その場で死んでみせましょうというわけです。つまり、「道理を聞き分けて欲しい」というのは「許して欲しい」と言う意味ではないのです。「お前が訴人という行為に走ったのも・俺を愛しているからだったのだな・今それが分ったよ」と自分の愛の強さを認めて欲しいと訴えているのです。そのために阿古屋はその愛の証である二人の子供まで連れて来るのです。「ホラこれが私たちの愛の証よ・だからあなたはそれを認めて私の気持ちを理解すべきなのよ」というわけです。次いでに言えば「俺が悪かった・俺のせいで辛い目にあわせたな」と言ってもらいたいくらいなのが阿古屋の本音です。そこに阿古屋の気の強さ・プライドの高さと共に、その情の深さが出ています。
それが頑として景清が阿古屋 の言うことを認めないものだから、阿古屋の立場がなくなるのです。景清が許してくれないなら「この男をこんなに愛している私」のアイデンティティーがないことになります。だとすれば、阿古屋がその愛の真実を貫く行為はひとつしかありません。景清の目の前で潔く死んで見せる ことです。しかし、「死んで詫びる」というものならば阿古屋にとって意味はありません。死んで見せることで阿古屋は自分の心情の強さと・その正当性をなおも主張しようというのです。また、これは自分を許さない景清の不当を責めているということでもあります。だとすれば自分の心情が強烈に景清 の心に突き刺さるように死んで見せなければなりません。それが二人の子供を刺し殺すという行為にまでエスカレートしていくのです。阿古屋の景清への愛情の深さ・「かぶき的心情」の強さが彼女自身を追い込んでいくわけです。
新牢に来た時から阿古屋は自分は死ぬ気でいるのは確かです。彼女は夫と対決するつもりで来ているのです。しかし、最初からふたりの子供まで道連れに殺す気でいたわけではなかろうと思います。阿古屋はふたりの子供を夫への説得材料として連れて来たのだろうと思います。しかし、景清が自分を認めず・「景清を愛する私」のアイデンティティーが失われたからには、その愛の証である自分の子供のアイデンティティーもないように阿古屋には思われるのです。それが子供を刺し殺すという行為に激化していくのです。
『おお道理よさりながら、殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ、あれ見よ兄も大人しう死したれば、おことや母も死なでは父への言ひ訳なし、いとしい者よよう聞けと、勧め給へば・・』
「おことや母も死なでは父への言ひ訳なし」と阿古屋は言っています。この場に及んでの「父への言い訳」とは何でありましょうか。これは「私が悪かった」という詫び言だとは到底思えません。お父さんは酷い・こんなことになったのはお父さんのせいだ ・それがお父さんは分からないのかという主張に他なりません。そして、それでも私たちはお父さんへの愛に殉じて死ぬのだという主張に他なりません。それだけが彼らのアイデンティティー・拠り所であるからです。そこに阿古屋の心情の強さが現れています。「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」という台詞はそのように読まなければならないと思います。
阿古屋母子のありさまを見て・さすがの景清もついに泣き叫びます。
『景清は身をもだえ、泣けど叫べど甲斐ぞなき、神や仏はなき世かの。さりとては許してくれよ、やれ兄弟よ・わが妻よと、鬼をあざむく景清も、声を上げてぞ泣きゐたり・物のあはれの限りなり』
しかし、ここまで阿古屋を追い込んだのは景清に他なりません。景清が「ご免、俺も悪かった」とでも言っていれば、決してこんなことにはならなかったでしょう。景清が頑として阿古屋の言うことに耳を貸さないから、阿古屋はそのかぶき的心情をエスカレートさせてしまったのです。
3)阿古屋の悲劇
『まあ、何と言う可愛い手、可愛い口、立派な姿に目鼻立ちと言ったら。さ、幸せになるのだよ、ここでではなくとも。ここでの幸せは父さんが壊してしまったもの。まあ何と言う肌ざわり、柔らかな肌、芳しい息づかい。さあ、お行き。もうお前たちを見てはいられない。どんなひどいことを仕出かそうとしているか、それは自分にも分かっている。しかし分かっていても、たぎり立つ怒りの方がそれよりも強いのだ。これが人間の一番大きい災いの元なのだか。』
これはエウリピデスのギリシア悲劇「メデイア」において、メデイアが愛する二人の息子を刺し殺す直前の台詞です。前述の通り、メデイアは辺境のコルキスの地にあって・異邦人のイアソンを愛し・肉親を裏切り・その愛に賭けた女性です。そのメデイアをイアソンは裏切って・コリント王クレオンの娘と結婚し、メデイアに「文化果つる地コルキスから・法と正義が行われるギリシアに連れて来てもらっただけでもお前は幸せだ」と冷たく言い放ちます。これでメデイアは切れてしまうのです。
エウリピデスの悲劇は、「メデイア」以外の作品もそうですが・「悲劇ならざる悲劇」であるとよく言われます。普通の悲劇であるとその主人公は何かの不幸を背負って破滅するのですが、この「メデイア」では主人公メデイアは死なず・最終場面では神の差し向けた竜の車に乗って勝ち誇るかのようです。そして、メデイアは子供たちを殺したことを非難するイアソンに「喜んで苦しみますのよ。あなたに嘲けられさえしなければ。」と言い返すのです。これは、自分ではどうにもならない恋に身を焼くパイドラ(「ヒュッポリトス」)や・忌まわしいと思いながらもバッコスの信女の狂態を見たいと思うペンテウス(「バッコスの信女」)と同様です。悲劇が主人公に降りかかるのではなく、エウリピデスの悲劇の場合は・悲劇性が主人公の内にあるのです。
「どんなひどいことを仕出かそうとしているか、それは自分にも分かっている。」とメデイアは言っています。しかし、それよりも「たぎり立つ怒りの方がそれよりも強」くて、それをメデイアは抑制できないのです。だから、その行動は第三者から見れば激情に駆られていて・狂気のように見えるけれど、実は当の本人には全くそうではないのです。メデイアは熱いけれども・同時に冷たいと思えるほどに冷静です。そして、その心情の原点は「私があなたを愛しているのと同じくらいに私を愛して」ということなのです。その心情が実現されない・自分が裏切られたと分かった時、彼女は怒りをたぎらせるのです。悲劇性が主人公のなかに内在する・これがメデイアの悲劇です。
同じことが「出世景清」の阿古屋の場合にも言えます。阿古屋は子供を刺し殺した後に自害しますからその時点で破滅したように見えるでしょうが、阿古屋の悲劇はそこにあるのではありません。阿古屋の悲劇は「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」と叫んで・刀を子供に突きつける、その瞬間にあるわけです。その時、阿古屋の「かぶき的心情」が人々に強烈な印象を与えるのです。
(H17・1・9)