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「太平記読み」と忠臣蔵

〜「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その1「塩冶判官」


1)判官の心情

江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が高家・吉良上野介義央(よしひさ)に刃傷に及んだのは元禄14年(1701)3月14日のことでした。「殿中での抜刀はご法度である」という常識を無視してまでなぜ内匠頭が刃傷沙汰を起こしたのかについては今もってまったくの謎です。内匠頭が上野介に贈った賄賂が少なかったからだとか、上野介が赤穂の塩田の技術を教えて欲しいと頼んだのを内匠頭が断ったからだとか、もともと内匠頭は血統的に激しやすい性格であったとか、いろんな説が言われていますがどれも定説になっていません。

内匠頭の刃傷の動機は家老大石内蔵助にも分からなかったでしょう。しかし「忠臣蔵」(赤穂浪士の敵討ち)というドラマにおいては松之廊下の刃傷は「発端」以上のものではありませんから、動機は別に何だっていいのです。世の浅野びいきは上野介がネチネチと内匠頭をいびり抜いてくれないと義憤が沸いてこなくて居心地が悪いようですが、真山青果の「元禄忠臣蔵」のように、刃傷の場を描かなくたって「忠臣蔵」のドラマは成立するのです。むしろその方がスッキリするかも知れません。「内匠頭は上野介に遺恨をもって刃傷に及んだ」という、その事実だけで十分なのです。

本稿では「仮名手本忠臣蔵」をかぶき的心情で読むということで、まず塩冶判官(内匠頭がモデル)の刃傷について考えてみたいと思います。塩冶判官の刃傷は、別稿「本蔵はなぜ判官を抱きとめたのか」でも触れましたように、本来は高師直(上野介がモデル)が桃井若狭助にぶつけるべき憤懣をとばっちりで判官が受けてしまったことによるものでした。判官は師直にいびられて、「鮒侍」と嘲られてついに堪忍袋の緒を切らせて刃傷に及びますが、どうして師直にこうまで言われなければならないのか、判官は最後まで分からなかったでしょう。

「四段目」(判官切腹の場)において、判官は切腹を目前にして石堂右馬之丞に、刃傷に及んだからにはこのような処分を受けるのは覚悟の上だと語り、さらに次のように言っています。

「恨むらくは館にて加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ちもらし無念、骨髄に通って忘れ難し。湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」

「四段目」は現在の歌舞伎の舞台演出では実録風になってしまっているせいもありますが、ここで「湊川にて楠正成・・・」という科白が出てくると、その違和感に思わずたじろいでしまいます。この芝居が「太平記の世界」の時代物である、つまりこの芝居の時代設定は室町時代初期だということを否応なく意識させられます。

判官のこの「湊川にて楠正成・・・」という科白は元禄の世の事件がモデルなのが明白なこの芝居を幕府検閲の配慮から室町時代の虚構に押し込めるための言い訳(アリバイ)工作なのだろう、と 吉之助も最初はそう思って見ていました。しかし実はこれは大変な間違いで、この科白は当時(寛延元年:1748)の大阪庶民にとってもっとも同時代的な生々しい科白であり、この芝居を見た観客はこれはまさに我々の身近で起きた出来事なのだと感じさせる科白なのでした。


2)「太平記読み」ということ

「楠が御目見えをする講釈場」、これは赤穂浪士の仇討ちの前年(元禄14年:1701)に刊行された雑俳集「寄太鼓(よせだいこ)」に載っている一句です。この時代の講釈場では、楠正成が最高の人気の演目であったのです。客の入りが悪くなると、門口に「今日より正成出づ」の張り紙が出る、つまり本日の演目は楠正成だぞ、というのが効果てきめんの客寄せの宣伝文句であったと言います。こうしたことは明治時代の講釈場でも続いたそうです。

これはどういうことかと言うと、江戸時代には「太平記読み」ということが広く行なわれ、講談・芝居を通じて楠木正成の挿話は江戸庶民なら誰でも知っている話で、江戸庶民の倫理観の根本となっていたからです。楠正成・正行の親子は太平記でもっとも好意的に描かれている人物であり、天皇に対する「忠義」・さらに正行の母に対する「孝心」は庶民の手本とされました。このことは明治の世になっても引き継がれ、楠親子は旧制小学校の教科書の題材にもなり、小学唱歌「青葉茂れる桜井の・・・」(「桜井の訣別)」という旋律とともに国民的美談として喧伝されていきます。水戸光圀(黄門)が摂津湊川(いまの神戸市)に「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」という正成の墓碑を建立したのは元禄4年(1691)のことでした。正成・正行親子は、江戸の庶民のヒーローであり、「忠孝」の理想像であったのです。

湊川の合戦で、正成は弟の正季(まさすえ)と「手に手をとり組み、刺し違え」て自害をして果てます。この時に正成は「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」と誓い、「最後の一念によって善悪の生を引く」と言っていることが「太平記」にあります。この正成の科白を、「忠臣蔵」の判官が切腹の直前に反復して語っているのです。芝居を見る人には「ああ、それか」とすぐ分かることであり、この芝居がまさに正成と同時代の出来事であることを意識します。講釈で知る正成の無念・七生までも生まれ変わっても朝敵(足利尊氏とともにその執事高師直らも含めて)を滅ぼそうという執念を生々しいほどに思い出し、これを劇中の判官の想いに重ね合わせたに違いないのです。


3)判官のメッセージとは

このことから逆にさかのぼって「三段目」(喧嘩場)での判官の刃傷を考えてみます。判官においては身に覚えもない罵詈雑言に、武士としての体面を汚されたとの怒りから直情的に刀を抜いて師直に切りつけたということなのですが、ここに判官の「かぶき的心情」がふつふつと湧き上がってくるようです。師直を「悪の象徴」だとか意識しているわけではありません。判官は、単純に自分の体面を汚されたことの理不尽さに対してひたすらに怒っているのです。そして後のこと・残された家族やら家来たちのことなど何も考えていない。その意味ではその怒りに利害関係はなく、ひたすらに「無私」である、ということです。こうした思いが刃傷という激発的行動になって噴き出すのがかぶき的心情の現われ方なのです。

「四段目」においても、この判官の気持ちは変わっていません。(考えてみれば困った殿様ですが、いまはそのことは置きましょう。)ただ師直を討ちもらした無念だけを楠正成の心情になぞらえて「湊川にて楠正成、最後の一念によって生(しょう)を引くと言いし如く、生き替わり死に替わり鬱憤を晴らさん」と語っているだけです。

先に書きましたように判官の刃傷は「忠臣蔵」の発端に過ぎません。刃傷の原因に「忠臣蔵」の芝居のテーマを見るべきではないのです。しかし、この科白によって、判官の無念が正成の無念に重ね合わされる時、判官の怒りは個人的レベルのものではなくなって、ある「メッセージ性」を帯びていくのです。それは「我が無念を晴らせよ・我が体面を立てよ」というメッセージです。そのメッセージが大星由良助を始めとする四十七士や、さらには観客までもを巻き込んでいくのが「忠臣蔵」というドラマなのです。その場のすべての者たちが判官の心情をかぶき的心情で熱く受け止めるのです。

「仮名手本忠臣蔵」は本来は元禄の世に起きた事件を室町時代の架空の出来事として置き換えた作品でした。これはもちろん幕府の検閲の目を避けるための便法として生まれた作劇手法なのですが、判官が同時代の出来事として湊川での正成の死を語る時、それが「太平記読み」の知識を持つ観客に生々しく実感され、逆に室町時代の人物であるはずの判官が観客と同時代の人間・つまりまさに江戸時代の人間としてリアルに実感されていくという、そうした不思議な現象を起こすのです。この現象が「時代物」というものが本来持っている虚構性を溶解させてしまうのです。

これが時代物である「仮名手本忠臣蔵」の虚構と実像の「ない交ぜ」の面白さです。そのからくりの秘密は「太平記」をかぶき的心情で読み、また「忠臣蔵」をかぶき的心情で見ようとする江戸時代の精神土壌にあるのです。

(参考文献)

兵藤裕己:「太平記“よみ”の可能性―歴史という物語」

(関連記事)

「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その2「大星由良助」、その3「早野勘平」、その4「天河屋義平」もご参照ください。

(H14・1・12)





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