なぜ本蔵は判官を抱きとめたのか〜本蔵の悲劇の意味
〜「仮名手本忠臣蔵・三段目」
1)本蔵はなぜ死なねばならないのか
「仮名手本忠臣蔵」大序を見ていますと、高師直にいまにも斬りかからんと刀の柄に手を掛けて興奮しているのは桃井若狭助で、殿中刃傷を起こすのはこの潔癖な男に違いないという感じがします。しかしご承知のように三段目(松の廊下刃傷の場、「喧嘩場」と通称する)で刃傷沙汰を起こすのは若狭助ではなくて、大序では温厚そうな顔をしている塩冶判官の方です。どうしてこういうことになってしまったのでしょうか。
実は三段目「松の廊下・刃傷の場」の前の「進物場」と呼ばれる場(足利家屋敷裏門の場、この場面は最近、歌舞伎ではカットされることが多くなりました)で、若狭助家老の加古川本蔵が師直に賄賂を送ってとりなしを頼んでいるのです。それとは知らぬ若狭助は松の廊下でまさに師直に斬りかかろうとするわけですが師直が平身低頭するので気合が入らず、そのまま奥へ引っ込みます。その後に運悪く松の廊下に差し掛かるのが塩冶判官です。金をもらったとは言え、若造に平身低頭した師直の虫の居所が良いはずはありません。判官が師直にネチネチやられている時に、さらに間が悪いことに密かに懸想していた判官の奥方(顔世御前)の想いを彼女が拒否する手紙(この手紙の内容を判官は知らない)を判官が持参してきて師直に渡すのです。これを読んだ師直のいびりがますますひどくなります。そしてさすが温厚な判官も堪忍袋の緒が切れて刃傷に及ぶということになります。
つまり判官はとばっちりを喰ったわけです。若狭助が刃傷を起こすはずだったのが賄賂が効いてこと無きを得て、師直の虫の居所が悪くて判官に当たり散らしたために、判官が刃傷を起こしてしまったわけです。ただし、事の真相は本蔵だけが知っていることで、他の誰も知らないことです。
さて「九段目」(山科閑居)において、本蔵の妻戸無瀬が娘小浪とともに許婚大星力弥のもとへ嫁ぐために山科閑居を訪れますが、母娘を待っていたのは由良助女房お石の強い拒絶でした。その理由は、「恨むらくは館にて、加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と判官が切腹前に述懐している(「四段目」)ことに拠ります。だから本蔵の娘と力弥を結婚させるわけにはいかないと言うのです。「九段目」のドラマは、本蔵が「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心推量あれ」と力弥の手にかかって死ぬことにより急展開します。
「九段目」において「なぜ本蔵は死なねばならないのか」、このことを考える前に松の廊下での刃傷事件の全貌を知っている人物がいるのかどうかを検証したいと思います。
・若狭助は、師直が顔世御前に懸想したのは知っているが本蔵が師直に賄賂を贈ったことは知らない。したがって、判官が自分のとばっちりを喰ったことは知らない。
・顔世御前は夫が刃傷に及んだのは自分のせいだと思ってただ自分を責めている。
・塩冶判官は、師直が自分の妻に懸想したことを知らない。師直に斬りつけたのは師直にいびられて「鮒侍だ」と嘲られたからである。おそらく、どうして自分が師直にここまで言われなければならないのか分からなかったでしょう。
・由良助はおそらく判官が刃傷に及んだ理由が分からなかったでしょう。判官はただ「無念」としか由良助に言っていないからです。判官の言葉があるので、本蔵が判官を抱き止めて師直を仕留めるのを阻んだのを由良助は許すことができない。
以上のことからすると、刃傷事件の全貌を知っている人物はやはり本蔵しかいません。
「九段目」で由良助が本蔵を拒否したのは、お石の科白にもある通り「本蔵が判官を抱きとめた」からでした。それ以外の理由、たとえば本蔵が師直に賄賂を贈ったことなどを由良助が挙げることは考えられません。そのことは本蔵が手負いになってから苦しい息の下で由良助に話して初めて知れることです。
したがって「九段目でなぜ本蔵は死ななければならないか」という問題を考えるということは「なぜ本蔵は判官を抱きとめたのか」を考えるということなのです。
2)なぜ本蔵は判官を抱きとめたのか
加古川本蔵は人の心理をとことん読み抜き、時には賄賂も使いながらでも巧みに世渡りをしていく術を心得ている老練な人物として描かれています。桃井家家老として若い主人の操縦法についても見事なものです。「二段目」において、若狭助が師直への憤懣やるかたない思いを打ち明けると、諭すどころか「よう御了見なされた。この本蔵なら今まで了見はならぬ所」と持ち上げ、縁先の松をすっぱりと斬ってみせ、「サァ殿、まっこの通りにさっぱりと遊ばせ」と言って若狭助をけしかけます。(このことからこの場を「松切り」と称します。)そうしておきながら、裏に回って師直に賄賂を贈ってとりなしておきます。(「進物場」)平身低頭する師直に若狭助は手が出せません。(「喧嘩場」)
ここまでは完全に本蔵の計算通りだったのです。ここで終れば本蔵にとって「主人も立てて、お家の危機も脱してうまくいった」となったのです。本蔵の計算違いは、師直の鬱憤が続いてやってきた判官に向けられたことでした。
それでも本蔵が判官を抱きとめた理由はまだ分かりません。判官が師直に斬りつけようが何しようが他家の殿様のこと、本蔵は黙って見ていればよかったのではないか。それをどうして飛び出していって判官を抱き止めたのでしょうか。
考えられる答えはひとつしかありません。判官は娘小浪の許婚大星力弥の主人であるからなのです。本蔵は若狭助のとばっちりで師直が判官をいびり出したのを見て気が気でなかったでしょう。判官がここで刀を抜いて師直を殺せばお家は断絶、それはつまり娘の嫁ぎ先が路頭に迷うことではないのか 。未遂で終ればまさか判官も切腹、お家断絶までの処罰は出まい。だからこそ本蔵は「娘小浪のために」思わず飛び出し判官を抱きとめたのです。
3)「本蔵が判官を抱きとめた」ことのもうひとつの意味
なぜ桃井家家老である本蔵が足利家の屋敷の松の廊下にいたのかも考えねばなりません。本来、本蔵はここにいる人間ではないはずです。それが飛び出してきて判官(仮にも殿様です)を抱きとめることをしてしまった。このことを不思議に思わなければなりません。
「進物場」において師直に賄賂を贈った本蔵は帰ろうとしますが、師直が「貴殿も今日のお座敷の座並、拝見なさらぬか。殊にまた若狭助殿にもなんぞれか小用のあるもの、平に平に」と言って引き止めたために、本蔵は足利家屋敷に入ったわけです。師直にしてみれば賄賂をもらった返礼のつもりだったのでしょうか。しかし、本蔵はじっとしていません。松の廊下の見える小柴の影にかくれて「まばたきもせず」見守っています。本蔵がここに隠れているのは、もちろん本蔵の工作が効を奏さず若狭助が刀を抜いて振り上げた時には「その時には自分が止めなければならぬ」と考えたからです。本蔵はそこまで考える男なのです。
だが本蔵が思わず飛び出してしまって抱きとめたのが、本蔵にとっては因縁浅からぬとは言え他家の殿様である塩冶判官であったというのが本蔵を後々まで苦しめ「九段目」で自ら望んで死を選ぶという伏線になっているのです。
歌舞伎では舞台構造上仕方ない面がありますが、本蔵は松の廊下の左奥の衝立の陰に隠れることになっています。しかし本文では、本蔵は本来が足利家屋敷をうろうろできない身分ですから廊下の下の庭先の小柴のかげに隠れることになっています。このことが視覚的に示す意味は非常に大きいので、ご注意ください。本蔵は庭先から飛び出し、殿中に駆け上がり判官を抱きとめるのです。つまり、本来はここに居るべきでない身分の人間が殿上に駆け上がって殿様を抱きとめたということです。
本蔵は娘小浪のために身分違いの殿様の喧嘩に飛び込んだのです。このことこそ「本蔵の悲劇」の意味なのです。すべては「娘のためであった」。このことが理解されませんと「九段目」での本蔵が死なねばならぬい本当の意味が理解されません。
(H13・5・20)