天河屋の義平は男でござるぞ
〜「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その4「天河屋義平」
1)試されているのは義士の方である
「忠臣蔵・十段目」は近年はとんと舞台にかかりませんが、かつては「天河屋義平は男でござる」という科白は巷でよく知られていました。それが上演されなくなったのは、「十段目」が仇討ちの本筋からは離れていて外伝めいていること・武士である由良助が町人を脅してその本心を試すという趣向があまり気持ち良く見えないせいかも知れません。たしかに作品としては作為的に過ぎるような気がして、「忠臣蔵」の各段のなかでは出来は上等とはいかない段であるかも知れません。歌舞伎で上演される場合には、由良助ではなくて不破数右衛門にとって代わって演じられることがあるのも、計略とは言え、よりによって長持ちのなかに大将が隠れてみたり、義平に心を試したのを謝り「畳に頭を擦り付けて」平伏したりするのが、どうも大将由良助にふさわしくない行為に見えて、由良助という役が小さくなると感じられるせいなのでありましょう。
しかし、大阪商人である義平が塩冶浪士の義挙の陰の功労者であったということで、観客は義平に加担するような気分で芝居を見たのに違いありません。由良助は義平に対し平伏して、「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。百万騎の強敵は防ぐとも、さほどに性根は据わらぬもの。貴公の一心を借り受け、我が手本とし、敵師直を討つならば、たとえ岩石のなかに篭もり鉄洞のうちに隠るるともやはか仕損じ申すべき」と言います。これは「最大級の賛辞」というよりも、大阪商人の心意気を武士にも優ると賞賛しているわけですから、これを見た大阪の観客は大いに気を良くしたに違いありません。
義平の店に捕り手(実は由良助の差し向けた計略の捕り手であった)が迫り一子由松を人質にして、義平の荷物のなかに由良助に頼まれた武具があるはずだと厳しい詮議を受けます。これに対して、義平は「女童を責めるように、人質取ってのご詮議。天川屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは得申されぬ。知らぬと言ったら、金輪奈落、憎しを思はばその倅、我が見る前で殺した殺した」と啖呵を切ります。
この義平の科白はまさに任侠の世界にも通じるような「かぶき者」の科白です。義平はたしかに由良助の仇討ちのための武具調達を請け負っていますが、そのことを他人に明かす気持ちなどは毛頭ありません。もしそれを白状せよと責められても、たとえ子供を殺されても客の秘密は明かさない、まさに「商人としての義平のアイデンティティー」をかけての主張なのです。「天川屋の義平は男でござるぞ」という科白には、そうした熱い意気地がたぎっています。そのかぶき的心情が観客の心を熱くさせるのです。
これほどの人物である義平を、由良助はどうして試したのでしょうか。これについては由良助は「この由良助は微塵も疑いはしないが、馴染みでない四十余人のなかには、町人である義平のことを疑う人もいたからである」と言っています。そして、義平に謝ったあと、「一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量。ここに並ぶ同志の面々のつぶれた眼を開かせる妙薬名医の心魂、有り難し」と告白しています。
ということは捕り手で義平を責め立てた大鷲文吾・矢間重太郎他の面々が「義平を信じられない」というので、由良助が彼らの目を開かせるためにあえて仕組んだ計略であった、ということなのです。もとより由良助は義平を信じており、その心に微塵も疑いを持ってはいません。しかし、仇討ちを目指して潜伏するうちに四十七士はお互いに猜疑心を抱き、同志の結束にも緩みが生じてきたのでしょう。その気持ちの揺らぎを由良助は憂いて、義平の義侠心によって大鷲・矢間他の同志の目を開かせようとしたということなのです。試されたのは義平ではなく、実は四十七士の面々であった、ということなのかも知れません。
2)大阪商人の義侠心は武士にも優る
このことは、いろいろなことを考えさせます。武士道・あるいは侍道という、本来は武士の道徳であり気風であったものが、次第に町人の世界へ浸透していって義理・体面といった道徳律を生み出していったということは、これまで何回か論じてきました。町人の世界においても武家社会の道徳律をモデルとしたかたちで町人の道徳律が自然と育っていきます。また、「太平記読み」の流行のなかで、赤穂義士の仇討ちは正成の再来として、忠義ある武士の鑑と見なされ賛美されたのでした。町人にとっても赤穂義士は理想の人間であったのです。
しかし「仮名手本忠臣蔵」の初演された寛延元年というのは、赤穂浪士の討ち入り(元禄15年)から見るとじつに四十七年もの月日が経過しています。この年月の間に町人にとってモデルであるべき武士の世界がだんだんと変質していきます。というより、町人の経済力が増大していくについれて、武士のモラル・モチベーションが相対的に下がっていったということが言えましょう。この時代においては、大阪商人の経済力はピークに達し、むしろ武家社会よりも町人社会の方がむしろ厳格な道徳律を守っていたと言えるのではないでしょうか。討入当時の元禄の世においても、討ち入りはこのような気骨ある武士がこの世にいたのか、というような驚きを以って見られたようですが、寛延の世においては言うまでもありません。町人たちから見て本当に武士らしい武士はこの時代にはもはや見あたらなかったということかも知れません。
「十段目」において大阪商人である義平に由良助は平伏して、「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。」と言い、「一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量。ここに並ぶ同志の面々のつぶれた眼を開かせる妙薬名医の心魂、有り難し」と言います。もちろん史実ならばこういう場面はありえなかったでしょう。しかし、芝居ではあの由良助(=内蔵助)に大阪商人に頭を下げさせ、その義侠心・忠義心を我々の手本であるとまで言わせているのです。大阪の観客は「俺たち大阪の商人が天下を支えているんだぜ」という気概を想ったのではないか、と思います。
「十段目」幕切れでは、由良助は「義平殿も町人でなければ共に仇討ちに参加したいところであろうが」と言って、「かねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋をすぐに夜討ちの合言葉。天とかけなば河と答え。四十人余の者共が、天よ河よと申すなら、貴公も夜討ちにお出も同然。義平の義の字は義臣の義の字。平はたいらかたやすく本望。早よお暇も立ち出ずる、末世に天を山という、由良助が孫呉の術、忠臣蔵と言いはやす、娑婆の言葉の定めなき別れ別れて出て行く」で結ばれます。
ここで夜討ちの合言葉に「天」と「河」を使うことで、由良助は義平を仇討ちに同道させたも同然だと言っています。「十段目」において丸本作者は、大阪商人の義侠心を武士道にも優る、と称えています。当時の大阪の観客はその熱い「かぶき的心情」を義平に同化させながらこの芝居を見たのではないでしょうか。
(関連記事)
「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その1「塩冶判官」、その2「大星由良助」、その3「早野勘平」もご参照ください。
(H14・2・3)