(TOP)            (戻る)

しゆみし場での切腹

「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その3「早野勘平」


1)しゆみし場での切腹

寛延2年(1749)、江戸の森田座で「仮名手本忠臣蔵」が上演された時(これは江戸歌舞伎で三座競演で「忠臣蔵」を演じた最初に当たります)、勘平を勤めた嵐小六は、「六段目」幕切れで腹を切ったまま、とんぼ返りを切って落ち入りを見せて大当たりをとったと言います。刀を突き立てたままとんぼを切るとは危いことをしたものだと思います。また、文政4年(1821)、江戸中村座では七代目団十郎の勘平は門口にしがみつきながら立ち腹を切ったそうです。これも評判記では「新手新手」と書かれていますが、どうも褒めた感じではありません。

「忠臣蔵」は歌舞伎では頻繁に上演されておりますから、あまたの役者によりいろいろな趣向・演出が試みられています。一度切りで終ったものもあれば、古典として今日まで残った工夫もあります。ここに挙げた勘平腹切りの二例は一度だけで終った珍型の部類です。どちらもなかなか派手な型ですが、たしかに「六段目」にはそぐわない感じですし、一度だけで終るのも無理はありません。しかし、「六段目」を考える時に「役者がどうしてこういうことをしたくなるのか」はちょっと考えておいた方がいいと思います。

山城少掾は「六段目」について、「六段目というのは好んでやっているものではないんで、私としましてはべつだん皮肉もなにもありません。ヤマもなけりゃアテ込みもない、つづまりのつかぬ陰気な浄瑠璃で、どこも掴まえるところがありません。」(「山城少掾聞書」)と語っています。

また「古今いろは評林」では「六段目」を「しゆみし場にて、見にくき一場なり。よって姿にてうつきりとささねば、めいる様なり。」と書いています。「しゆみし場」とは陰気な場のことを言います。陰気でどうにも見せ場がないので、勘平の容姿・雰囲気で観客を魅了させないと「めいる」、というのです。

「六段目」というのは陰気でめいる芝居である、というのはなるほど言われてみれば確かにそうかも知れません。今では勘平は「色男・いい男」の代名詞みたいに言われて、誰でもやりたがる役のように思いますが、演ってみるとこれは結構つらい役らしいのです。

「六段目」の勘平というのは「辛抱立役」で運命に翻弄されるがままに、周囲の人々に「ああだこうだ」言われてもそれをひたすら耐えなければなりません。その挙句に勘平は腹を切るのでして、「腹を切る時くらいはスカッとしたいぜ」というのは案外、勘平役者の本音ではないか、と思うのです。どうも先の二例はそうした役者の本音が出たものかも知れません。


2)かぶき的心情による切腹

「六段目」での勘平の切腹ですが、周囲に舅与市兵衛を殺して金を奪った犯人と決め付けられ、勘平自身も自分が殺したのは舅だと思い込んでいるのでどうにもならず、自分の申し開きを聞いてもらうためには腹を切るしかなかった、という切羽詰った状況下で起きています。もし勘平の申し開きを聞いて周囲が納得してくれたとしても、殺したのが舅であるならばもちろん勘平は生きていることはできません。したがってここでの勘平は死ぬのは覚悟しているわけですが、しかし、そんなことを考えている余裕は勘平にはありません。「とにかく自分が舅を狙って・金を盗ろうと思って殺したわけではないことだけは分かってもらわなければ」ということだけがこの時の勘平の気持ちでしょう。

したがって当然ながら勘平は申し開きをする前に刀を腹に突き立てなければなりません。それでないと周囲の人々に話を聞いてもらえないからです。歌舞伎では勘平は長々と仔細を語ったあと「金は女房を売った金、打ちとめたるは舅殿」で刀を腹に突き立てます。見た目はこの方が派手ですけれども、手順としてはこれでは変なのです。丸本では述懐の直前に勘平は刀を腹に突き立てています。

ここで勘平が前後の見境もなく刀を腹に突き立てる行為、これもかぶき的心情から発しています。「自らの潔白を明らかにするために死んで見せる」という行為です。勘平の場合は勘平自身が舅を殺したと思い込んでいますから、ここで勘平が明らかにしたいのは「舅を殺した金を亡君の御用金にしようとした訳ではないこと・自分が仇討ちの仲間に入れてもらえないような不忠者ではないこと」、ただそれだけです。その証のために勘平は腹を切るのです。

しかし芝居が展開して勘平の殺したのは舅ではなく、誤解であったことが分かります。疑いは晴れて勘平は連判状に判を押すのを許されますが、もう命はない。御用金として百両を再び受け取る郷右衛門が「この金は嶋の財布の志摩黄金仏果と心得よ」と言います。「仏果を得る」とは善心によって成仏することを言います。これを受けて苦しい息の下で勘平は「アア仏果とは穢らわしい。死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」と言います。

これは強烈な科白です。実は、この勘平の科白も「太平記」での正成の最後の言葉「七生までただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさや」を踏まえているのです。つまり、塩冶判官の切腹の時の科白と同じく、勘平も成仏することを拒否して敵を打ち滅ぼす執念によって生きよう(あるいは生れ変わろう)としています。勘平もかぶき的心情によって主人の死を受け止め、さらにその怒りを持続させようとしていることを示しているのです。

この勘平の怒りですが、これは必ずしも敵師直への怒りだけであるとは限りません。それ以前に、判官刃傷の大事な時に居合わせなかった身の不運、忠義の心を仲間に認められなかったことの不運、恋女房を金で売らねばならなかった身の不運、そんな理不尽な自分の境遇に対するどうしようもない怒りがあります。こうした境遇に対して「忠義な自分」の強烈な主張が噴出したのが勘平の切腹であると見ることができると思います。

こう考えてみると、前述の嵐小六・あるいは七代目団十郎のような派手な勘平の腹切りの型も、単に「スカッとしたいぜ」という発想だけのものではないようにも思えてきます。彼らは、実に歌舞伎役者的な発想ではあるのですが、勘平の心のなかにある熱い・どうにもならない怒りをかぶき的心情で受けとめてそれを表現しようとしたようにも感じられるのです。


(後記)

「十一段目」の討ち入り成功のあとの焼香の場で、由良助は勘平の嶋の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。(残念なことにこの場面はカットされて歌舞伎では上演されませんが。)

由良助が勘平の財布のことを片時も忘れなかったのは、勘平の無念の死を気の毒に思ったからだけではなかったように思います。由良助は判官の怒りを我が怒りとして受けとめたように、勘平の怒りをも我が怒りとして受けとめたのでしょう。由良助は主人の怒りだけではなく、また部下の怒りをも「かぶき的心情」で受けとめ、それを我が力としようとしたのです。このことは四十七士の討ち入りの行為が「主君のため」という大義を越えたもっと強烈な主張であったことのひとつの証であるように思います。

(関連記事)

「忠臣蔵」をかぶき的心情で読む:その1「塩冶判官」、その2「大星由良助」、その4「天河屋義平」もご参照ください。

(H14・1・27)


 

 

 (TOP)          (戻る)