「歌舞伎素人講釈」観劇断想・1 (平成19年〜25年)
*単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。
七代目菊五郎の勘平
七代目尾上菊五郎(早野勘平)、五代目坂東玉三郎(お軽)他
菊五郎の弁天小僧について「平成歌舞伎の保守化傾向の表れ」ということを書きましたが、別の事例を考えてみたいと思います。平成19年2月歌舞伎座・「六段目」での菊五郎による勘平のことです。全体の感触が濃厚で・やや重めに傾いている点に共通点が見えると思います。菊五郎の勘平は角かどの決まりもしっかり決めて・ふっくらとした丸みを持った演技で・「六段目」の押さえるべきツボはしっかり押さえており、これは確かに平成歌舞伎の成果と呼べる優れたものでした。同じ重めの演技なのに・菊五郎の弁天に良いことを書かないで・勘平の方に良い点をつけるのは、菊五郎の勘平は「勘平は誤解を受けて腹切る破目になって可哀相だけど・最後に仇討ちの仲間に入れてもらって良かったなあ」という形でドラマがしっくりと納まって・それが「六段目」という時代物のなかの世話場の構図に一応沿うからです。しかし、さらにもうひとつ上の段階を目指そうと言うならば・注文はあります。菊五郎の演技の印象がやや重めに傾いて・時代物の構図に納まり過ぎていることが問題になると思います。
「勘平は誤解を受けて腹切る破目になって可哀相だけど・最後に仇討ちの仲間に入れてもらって良かったなあ」という形でドラマが納まれば、まあ一応の「六段目」にはなるのです。時代物というのは他者(六段目の場合は由良助)が主人公の犠牲を「然り」と受け取る構図を持っているものだからです。しかし、ドラマが時代物の構図に納まり過ぎてしまえば・観客はそのドラマを「然り」と した段階で理解を止めてしまうということになります。勘平の死を「然り」(それは仕方のなかったことだ・・)で終わりにしてしまうから、「六段目」が与市兵衛一家のホームドラマであるというような瑣末的解釈が出てくることになります。「仕方がない・・ ・所詮お上には勝てない・・・長いものには巻かれるしかない」としてしまえば仇討劇としての「忠臣蔵」の根本構図に対する疑問がそこに出てくる余地がもうないからです。しかし、ホントの時代物というのはそういうものではないのです。「然り・・だが本当にそれで良いのか・・」とするのがホントの時代物です。怒りとも悲しみともつかない感情・それは「憤(いきどお)り」という言葉で表現するのが一番正しいのですが・そういう割り切れない熱い心情を胸のなかにぐっと抑え込んで・敢えて「・・然り」と言い切るのが、ホントの時代物なのです。
「六段目」に「然り・・だが本当にそれで良いのか」という心情が強く出てくるのは、もちろん勘平が「アア仏果とは穢らわしい。死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」という台詞です。「六段目」はこの線に沿って構築されねばなりません。しかし、現行の歌舞伎のスタンダードである音羽屋型の場合は「勘平さんは可哀相・・」の印象が強くて・必ずしもこの線に沿っていないのは確かです。したがって、吉之助は「六段目」は音羽屋型をベースにしつつも・そこに納めようとして・納まりがつかない何か(心情 ・憤り)を表現してもらいたいと思うのです。印象論的な言い方になりますが、菊五郎の勘平はふっくらと丸味を帯びた印象が強く・それが時代に納まった印象を与えます。それは決して間違いではないのですが、欲を言えば・時代物を時代に納めようとして・すんなりと納めさせない「破綻」が欠けているのです。そのためには意識して・表現の角かどに世話の切り込みを入れて・表現を生(なま)なものにして行かねばなりません。付け加えておきますが、これは菊五郎に限らず・平成歌舞伎の他の役者にも共通して言えることです。「逆櫓」の稿でも触れた通り・吉右衛門の樋口にも同じことが言えます。時代物を納めようとして納まらせないという高等技術を考えてもらいたいですね。
(H20・12・7)
十五代目仁左衛門の弁慶
十五代目片岡仁左衛門(弁慶)、十八代目中村勘三郎(富樫)、五代目坂東玉三郎(義経)
平成20年4月歌舞伎座での「勧進帳」は、仁左衛門(弁慶)・勘三郎(富樫)・玉三郎(義経)という興味深い顔触れなので期待して見ましたが、三人三様・それぞれ自分のイメージで芝居をしているような舞台で問題が少なくないようです。まず勘三郎の富樫ですが、山伏問答でいきり立ち・問答が進む度に身体がだんだん前に出てきて、「出で入る息は」ではついに弁慶と鼻を突き合わすところまで前に出てしまいます。これほど表情過多でいきり立つ富樫がどうして一転して一行の関所通過を認めるのか・富樫の心理変化が舞台を見ていてどうもよく分かりません。これではどうしても勘三郎の評点は辛くなりますが、しかし、確かに勘三郎に問題はありますが・これは全部が全部勘三郎のせいなのでしょうか。富樫がこうなったのは仁左衛門の弁慶にも半分くらい責任があるように吉之助には思えて仕方ありません。
勘三郎の富樫を見るに最初の名乗りはなかなか良いのです。この名乗りの部分を見ればむしろ三人のなかで最も松羽目の規格に沿った感触を感じさせるのが勘三郎です。「勧進帳 を遊ばされ候へ」の辺りまでは良いのです。ところがこれが山伏問答の途中あたりから無残に崩れていきます。思うに勘三郎は先輩の「勧進帳」を良く知っており・そのイメージを忠実に追おうとしていることが途中まではよく分かります。山伏問答は芝居の問答ではありません。「勧進帳」という音楽劇のなかの問答であり、計算されたテンポ設計の上に乗っているのです。このテンポ設計を勘三郎は自分なりに追おうとしています。これについては別稿「勧進帳は音楽劇である」を参照ください。とにかく山伏問答のリズムは富樫が作るものです。ところが弁慶が富樫のリズムに乗ってこない・弁慶が押し返してこないように感じます。富樫は自分のなかにあるテンポのイメージで弁慶を押す・しかし弁慶がリズムに乗ってこない・もどかしくて富樫は力んでさらに押す・しかし弁慶はそのリズムに乗ってこない・富樫はもどかしくて身体が前へ出る・・・そうしている内にいつの間にやら富樫は弁慶の鼻先にいたという感じなのです。
仁左衛門の弁慶ですが、「倍の速度でしゃべれ」と言われても・難なくこなすであろう歌舞伎界随一の台詞術を持つ仁左衛門がこのゆっくりした速度で山伏問答をやるのに彼なりの意図があるということは理解はします。しかし、噛んで含めるような・言葉が分かり易い問答というのは「勧進帳」に不要なのです。「もとより勧進帳のあればこそ」・・・観客はこの難局を弁慶は乗り越えられるかとハラハラして見るのです。熱くなるべきは富樫ではなく・弁慶なのです。弁慶が冷静に事を処理するのではドラマになりません。それならば義経を金剛杖で打ったのも計算してやったことじゃないかと言いたくなりますが、「判官御手」ではその弁慶がやたら感激してワンワン泣くのだから、仁左衛門に限ったことではないですが・近年の「勧進帳」は困ったものだと思います。それにしても富樫を演らせれば仁左衛門は当代一であると吉之助は思いますが、これまで富樫を演っていて・仁左衛門は相手の弁慶役者のことをどう思っていたのか・こういう問答がしたかったのかなあと・ちょっと不思議に思いました。
一方、玉三郎の義経はこれも意図あるのでしょうが・台詞が大きく間延びして、この世に在って・この世の者ではない存在という感じの義経です。まあ確かに歌舞伎の義経は神性を備えた人物です。しかし、正確に言えばその神性は義経自身が顕すのではなく、周囲の人物たちが感応して・その神性を示すものなのです。ですから「勧進帳」でも義経の神性を示すのは弁慶であり・富樫です。義経はそこに「在る」ことだけでそれを受けるのです。ですからこれは難しいことですが・義経役者は表現しようとしてはいけないのです。七代目梅幸の義経はそうした義経でしたね。
○平成20年4月歌舞伎座:「勧進帳」・その2
近年の「勧進帳」の舞台で感じるのは、歌舞伎役者に富樫は高調子・弁慶は富樫に比べると低調子という思い込みが強いと思えることです。この思い込みがどこから来るかと言えば・十五代目羽左衛門の高調子の富樫があまりに素晴らしかったからでしょう。別稿「勧進帳は音楽劇である」に書きましたが、明治期の九代目団十郎(弁慶)は高調子・五代目菊五郎(富樫)は低調子で・実はこれが本来の「勧進帳」の音楽設計なのです。音楽バランスとしてはそうなるわけですが、しかし、それはともかく自分の声質に合わない調子を無理に作る必要はないと思います。役の性格描写に無理が出てしまいます。
平成20年4月歌舞伎座の「勧進帳」での勘三郎の富樫ですが、勘三郎は元来低調子の優なのに・無理して声を高調子に持っていこうとしていると感じられます。これは平成11年8月歌舞伎座で三津五郎の弁慶を相手に勘三郎(当時は勘九郎)が富樫を演じた時にも同じことを感じました。無理に声を高い調子に作ろうとするので・山伏問答の台詞がエキセントリックに感じられて、そのため松羽目(謡曲オリジナル)の格調が損なわれています。だから富樫の人物像が小さくなってしまいます。もちろん山伏問答において富樫は切迫感を表出せねばなりません。しかし、それは声の調子で作るのではなく・正しくは台詞のリズムで作るのです。これは能の演技において役者が顔の表情の変化を抑えるのと同じことです。そこに能取り物としての格調があるのです。
同様なことを弁慶役者にも感じます。弁慶は富樫より声を低く持っていくべしみたいな思い込みがあるようです。仁左衛門も三津五郎も・勘三郎に比べれば本来の調子は高い優なのに・声を低めに重めに作ろうという意識が見えます。これが勧進帳読み上げや山伏問答 を重くする原因になっています。最近の歌舞伎役者は「勧進帳」を台詞劇だと思っているようで、能取り物だと言う意識が希薄なのかも知れませんねえ。
「勧進帳」の優れた録音はいくつかありますが、吉之助のお奨めは・昭和35年(1960)4月に先代(八代目)幸四郎(後の初代白鸚)の弁慶・先代(十七代目)勘三郎の富樫・七代目梅幸の義経という豪華配役で行われたスタジオ録音(キング・レコード)です。この録音は長唄囃子連中もとても優れていて、実演の熱さはないかも知れませんが・スタジオ録音ならではの完成度があって参考資料としてとても良いものです。この録音での幸四郎(高調子)と勘三郎(低調子)の山伏問答を是非聴いてみてください。ふたりとも自分の声質で・無理のない発声をしています。これが「勧進帳」の本来の声質バランスだと思います。
(H20・11・23)
歌舞伎十八番 勧進帳 (キングレコード・CD)
七代目菊五郎の弁天小僧
七代目尾上菊五郎(弁天小僧)他
五代目菊五郎が時事新報に自伝を連載したのは明治35年8月から翌年1月のことでした。その年の2月18日に五代目菊五郎は死去します。五代目菊五郎が当たり役を語ったその芸談はとても貴重なものです。その「自伝」のなかに次のような箇所があります。
『南郷が「手前たちでは訳が分らぬ、主人を呼べ」のところで、今度の松助は襖のなかで「ヘイヘイ、只今それへ参ります」と云ってから襖を開けて出てきますが、これは書き下ろしの三河屋(団蔵)もこうやっておりました。しかし、舞鶴屋(仲蔵)のはここがちょっと違っているので、一体これが時代なれば「主人幸兵衛、只今それへ参ります」と云い切ってから襖を開けて出てくるのですが、世話狂言でございますから、南郷が「主人を呼べ」という時には、もう前に店が騒がしいが何かの間違いだろうと気が付いているのですから、「ヘイヘイ・・」で少し襖を開けて、「主人幸兵衛、只今それへ参りまする」と云いながら出てくる方が至当だろうと思います。もし私がこの役をしたらそうしようと思うのでございます。』(五代目菊五郎:「尾上菊五郎自伝」 ・明治35年)
現行の歌舞伎の舞台で幸兵衛が登場する場面は大抵・襖のなかで「ヘイヘイ、只今それへ参ります」と言い終えてから襖を開けて出てきます。これは五代目の指摘する通り・時代のやり方なのです。まあ間違いというわけでもありませんが、世話本来のやり方ではないことは確かです。これは「書き下ろしの三河屋もこうやっていた」というのですから幕末の昔から混同されていたわけです。ひとつには台詞を言い終わってから襖を開ければ・掛け声をかけてもらいやすいし、役者は気分が良いということがあります。しかし、五代目の芸談を読むと・世話と時代の違いが感覚的に何となく分かってくると思います。
五代目が「弁天小僧は世話狂言でございますから・・」とわざわざ断っていることも興味深いことです。こういう当たり前のことさえうっかりすると忘れられてしまいます。「芸談」を読むと五代目は時代と世話の演じ分けにとても敏感です。例えば初代左団次の南郷は派手な芸風で見得をしたりして確かに見物の受けは良いのですが・自分が演りやすかったのは四代目松助の南郷でした・しかし渋い芸風なので見物に受けないのは損な性分なもので・・・と語っています。あるいは九代目団十郎の駄右衛門が「ただし女と言う張らば、この場で乳房を改め見ようか、さあさあさあ」のところを世話でやっていてこれが良かった・八百蔵(後の七代目中車)は台詞に生け殺しがなくて困るとも言っています。
駄右衛門が「この場で乳房を改め見ようか・さあさあさあ」という場面を世話でやるというのはちょっと意外に思うかも知れません。これはこの後・うつむいていた弁天役者が顔を上げて・悔しそうな思い入れを入れて「・・・こう南郷、もう化けちゃあいられねえ」と言うまでの間の緊張感を盛り上げるために・その直前の「さあさあさあ」をわざと世話に流すのです。それは次の場面で弁天が顔をワナワナと震わせる間合いが時代に似るからです。この後・弁天がガクッと頭を落として「・・・こう南郷、もう化けちゃあいられねえ」と世話になるからその落差が面白いわけです。
現行のやり方であると駄右衛門の「さあさあさあ」を時代にして・その後の弁天はそのテンションの高さを維持したままワナワナと思い入れをして・さらに「もう化けちゃいられねえ」に入るということになると思います。これはまあテンポ設計の感覚の違いで・現行のやり方が全然間違いと言うわけでもないのですが、しかし、五代目の指摘するところから見れば、これは時代の感覚なのは明らかです。五代目の指摘には世話と時代の押し引き(生け殺し)が大事だという主張があると思います。押したら・次は引かねばならないし、見物にその押しを強く見せるためにはその直前を引かねばならないということです。これが世話の本来のやり方です。五代目の芸談を読めばそのことがお分かりになるはずです。
弁天の「知らざあ言って聞かせやしょう」も同様で・その台詞のなかにも世話と時代の押し引き(生け殺し)があります。この台詞の言い回しは「知らざあ言って聞かせやしょう」を張らずに流すのが五代目本来の世話のやり方です。現在はこちらの方が一般的ですが・「知らざあ言って」を強く張って・「聞かせやしょう」をサラリと世話に流す十五代目羽左衛門のやり方も伝わっています。しかし、肝心なことは末尾の「聞かせやしょう」を時代に張ってはならぬということです。それでは時代物になってしまいます。またその後の「浜の真砂と五右衛門が・・」からのツラネ(長台詞)が引き立たないことになります。ツラネを引き立たせるためには・その直前を「聞かせやしょう」をちょっと軽く世話の調子に流す。これが隠し味に効くのです。五代目が言う通り「弁天小僧」は世話狂言であるからです。
そこで平成20年5月歌舞伎座 ・団菊祭での菊五郎の「弁天小僧」のことです。その前月の新聞のインタビューで菊五郎が「先輩たちに世話に・世話にと言われて(弁天を)演じてきたが、今回は自分の思うようにやってみたい」旨を語っている記事を読んで嫌な予感がしたのですが、問題が多い弁天 だと思います。全体としてぼってりと濃厚な味わいがあって・そこに退廃的な雰囲気もある弁天だと言えます。このことをどう受け止めるかで評価は変わると思いますが、吉之助は・これは完全に時代の重い行き方であると感じます。菊五郎は五代目菊五郎が芸談でこれが世話だと語っていることの・ことごとく逆を行っていると思います。「知らざあ言って聞かせやしょう」を大きく時代に張り上げているし、「弁天小僧菊之助たァ俺がことだ」でもほとんど正面向いた大見得を見せています。長台詞の七五調も思い切り長く引っ張って・メリハリのないダラダラ調です。型物としての芸の段取りに耽溺し過ぎるように思われます。その意味では確かに巧いですよ。しかし、段取りのなかにもっと写実の切り込みを意識的に入れて行くのでなければ世話にはなりません。菊五郎の若い頃の斬れの良い弁天が懐かしく思い出されます。昭和48年(1973)七代目菊五郎襲名の時の「弁天小僧」は当時流行のヒッピー風俗の影響を感じさせる興味深いもので、これは戦後歌舞伎のひとつの事件であったと思います。もちろん若い頃と・円熟期の現在では同じ役を演じてもそれぞれの時期にふさわしい味を出すべきで・同じ感触であり得ないのは当然です。しかし、この重い時代の感触の弁天を菊五郎ならではのものと認めるとしても、「これが弁天小僧のお手本」だと若い観客にこの弁天を勧めるわけにはいかないと吉之助は思います。これも平成歌舞伎の保守化傾向の表れでしょうかねえ。
(H20・12・7)
二代目吉右衛門の樋口
二代目中村吉右衛門(樋口)、五代目中村歌六(権四郎)他
NHKテレビで先日(平成20年9月)歌舞伎座の「ひらかな盛衰記・逆櫓」の舞台が放送されたので見ました。平成歌舞伎として優れた舞台だと思いますが、この舞台に限ったことではなく・近年の歌舞伎の傾向として表現が幾分時代に寄って重めに感じられます。多分その方が 納まりが良いように感じるのでしょう。そう書くと「ひらかな盛衰記」は時代物じゃないかと思う方がいると思いますが、「松右衛門内」は時代物のなかの世話場なのです。つまり庶民の生活のなかに非情な権力構造の論理が突き刺さってくる場面です。このことは「 鮓屋」 などでも同様ですが、「松右衛門内」は権四郎が権力の理不尽さに対して怒り狂い・猛然と抗議を始めることで分かる通り・バロック的な要素が特に強く出ています。ですから世話と時代の使い分けの彫りを深くすることで・納めようとしても納まらぬものが描き出されれば良いなあと思います。
歌六の権四郎は初役だそうですが、老け役が不足しているなかで・歌六がこれだけ演れたことは嬉しいことです。歌六は今後貴重な役者になっていくでしょう。お筆を叱責する場面の長台詞は義太夫の台詞回しもうまく・床との調和も取れていて、まずはこれで十分です。さらに台詞を写実な世話の方向へ追求して行けば・もっと良い権四郎になると思います。文楽の大夫においても地(台詞の部分)と色(音楽の部分)の差を 際立たせるかということが大事な命題です。文楽の大夫の場合はそれをひとりで使い分けるところに苦労があるのですが、歌舞伎の場合は役者が地を持ち・床が色を分けて持つわけです。この構図自体に引き裂かれたバロック的要素が存在するので、これは歌舞伎と文楽を比較した場合の歌舞伎の絶対的なアドバンテージです。しかし、現行の歌舞伎はこの長所を最大限に利用しているとは言い難いと思います。役者がこれを床に協調する方向に意識してしまうと表現ベクトルが逆になり勝ちです。歌舞伎役者に義太夫の素養はもちろん必要ですが、舞台で義太夫通りに台詞をしゃべるだけでは写実から離れて歌舞伎にならぬことがあるのです。もちろん崩し過ぎては元も子もないですが。ですから写実を意識することで権四郎の怒り・嘆き(それは権力との和解を拒否するものです)がずっと生(なま)なものに見えてくるはずです。
これは樋口についても同じことが言えます。樋口は世話と時代の使い方が難しいとはよく言われることですが、歌舞伎では樋口の見顕しの場面にも樋口とそれに反応する周囲の人物の台詞に入れ事(文楽にはない台詞)が細かく入っています。その台詞をよく見れば・この場面の歌舞伎の入れ事は世話と時代の乖離を強調することを意図していると吉之助には感じられます。実は樋口は上手一間より若君を伴って登場する時点で自分の正体を明かす覚悟がまだ完全にできてはおらぬのです。安易に正体を明かしては・身内から素性が外部に漏れることになりかねません・その危険は避けたい・できることなら正体は明かしたくない。そういう躊躇が樋口のなかに依然としてあります。もうひとつ大事なことは怒り狂う権四郎の気持ちを樋口は痛いほど理解しているということです。決して樋口は封建主義に凝り固まった人物ではありません。ですから樋口はお筆を制して「言ふてよければ身が名乗る」と言い、権四郎に対しては「親父様スリャどうあっても槌松が敵・この子を存分になさるか・・・・ハアヽぜひもなし」ととても言いにくそうにしています。つまり樋口は納めようとして納まらぬものを・無理矢理納めねばならぬ理不尽さを自分のなかに感じているのです。ですから樋口が覚悟を決めて名乗りを始めるまでに・何度かの逡巡があり、そこに時代と世話の様式が交錯しながら・遂に時代という竜が地底から頭を持ち上げるが如くに・樋口の演技が大時代に次第に変化していく・そのようなプロセスを歌舞伎で見たいわけです。(この点では文楽の樋口のプロセスは単純で・樋口は「権四郎、頭が高い」の箇所で一気に時代に入るのです。)
「ヤレ待て女房、人を集むるまでもなし」では「ヤレ待て女房」を強く鋭く・しかし世話に、「人を集むるまでもなし」を低くやや時代に近く(しかし完全な時代ではなく)・グッと相手に有無を言わさぬように押したいと思います。「親父様スリャどうあっても槌松が敵・この子を存分になさるか」は声を高く・世話に言い、「・・・ハアヽぜひもなし。この上はわが名も語り仔細を明して上のこと」は声を低く低く時代に近く(ここも完全な時代ではなく)自分に向かって言うようにしたいと思います。「権四郎、頭が高い。イヤサ頭(かしら)が高い」では「イヤサ頭(かしら)が高い」が歌舞伎の入れ事です。本来文楽では「権四郎、頭が高い」は時代の台詞でしょうが、歌舞伎では「イヤサ」と言い直しているのですから「頭(かしら)が高い」の方が時代になるのです。しかも、ここは義太夫から離れて歌舞伎の荒事風の要素を強くして甲の声で高く張らねばなりません。ですから「権四郎、頭が高い」は その対照でやや低い調子になりますが、ここがどちらかと言えば世話に近い感じになります。これでお分かりの通り・世話と時代が交互に現れて、グッ・グッ・グッと段階的に時代の表現が前面にでてくる設計になっています。これが歌舞伎脚本が本来意図するところの樋口だと思います。入れ事をした狂言作者はなかなか優れ者だと思いませんか。
しかし、残念ながら現行の歌舞伎の樋口を見ると、上手一間より若君を伴って登場する時点でもうただならぬ雰囲気であり・半ば正体が割れています。つまり収める方向への意識が強いということです。今回の吉右衛門の場合も例外ではありません。吉右衛門の樋口は見顕しで門口に立って外を見込む形など押しが効いて素晴らしいもので・義太夫狂言らしい安定感が確かにありますが、重厚な印象を多少犠牲にしてでも・世話の彫りをもうちょっと強めにすることでさらに素晴らしい樋口にできるはずです。初代吉右衛門の樋口は文献でしか知りませんが、「熊谷陣屋」の映像から推察すれば・スケールは多少小さかったとしても・写実の要素を確実に押さえた等身大の樋口であったと吉之助は想像をします。
(H20・11・23)
十五代目仁左衛門の松王・四代目梅玉の源蔵
十五代目片岡仁左衛門(松王)、四代目中村梅玉(源蔵)、四代目坂田藤十郎(千代)、 二代目中村魁春(戸浪)
吉之助はここ40年くらいの歌舞伎について・吉之助が生で見たすべての舞台も含みますが、全体の印象としては重めで粘り気味であると思っています。もうちょっと軽めで・テンポを早く持って写実の方に寄るのがたぶん歌舞伎の本来の味だろうと思います。こうした現代の行き方は古典化のひとつの在り方であり・これは江戸と現代との感性的な隔たりを考えれば致し方ないところがあります。その結果・現代歌舞伎はどちらかと言えば世話物よりも時代物の方が安心して見られるということになるわけです。例えば主人公の行動に対する倫理的・感性的なギャップを「これは封建時代の芝居だから仕方ない」と割り切ることで・共感するのではなく同情することで理解するということです。共感するということは主人公の行動・感情に我が身を重ねることですが、同情するというのはそれとはちょっと違います。「・・可哀想に」と言って外側から主人公の行為を見るということです。確かにそういう鑑賞の仕方もあるのです。また時代物というのは「主人公の犠牲を他者が然りと受け取る」というのを基本構図に置くものですから、こういう他者的な観点はまあ古典的な鑑賞法であると言えないこともありません。しかし、時空を越えて江戸の人々の生き様をそこに現出させようという再現芸術の場合は、絵や文字を通して見るのと違う生(なま)な瞬間があって然るべきでしょう。そういう意味で現代の歌舞伎の時代物は「収まり過ぎ」ではないでしょうかねえ。
平成20年11月歌舞伎座の「寺子屋」の舞台は仁左衛門の松王・梅玉の源蔵の配役で一応の成果を収めています。描くものは確かに描かれ・一応のカタルシスは得られます。だからこれを平成歌舞伎の「寺子屋」とすることに別に異存はありませんが、しかし、吉之助から見ると全体の感触・特に前半が滑らか過ぎて粘って感じられます。音楽に例えればベートーヴェンのピアノ・ソナタでペダルを多用し過ぎに似ていると感じられます。ペダルを踏むとピアノの響きが消されずに残ります。正確に言えばその響きは減衰しますが、通常よりも響きの余韻がずっと長く残ります。その効果は響きが混じって微妙な色合いが作りだせることです。逆に欠点はその裏腹で・旋律のなかの微妙なタッチを埋めてしまって・印象を滑らかに情緒的にしてしまうことです。ロマン派においてはペダルの使用が驚くべき効果を発揮 することがありますし、またそれを意図して曲が書かれてもいます。しかし、ベートーヴェンの場合にはペダルの多用は注意せねばならぬことです。ひとつにはベートーヴェンの時代のピアノは機能的にそこまで行っていなかったという考証的な言い方もできますが、ベートーヴェンでペダルを多用することは曲想を情緒的に傾け・構造の縛りを弱めることになるでしょう。これはベートーヴェンのフォルムの問題なのです。
「寺子屋」前半・源蔵戻りの梅玉ですが、源蔵に「寺子を身替わりに立てて殺すという非人間的な行為をしなければならない悲嘆は確かに感じられます。梅玉にそこの不足があろうはずはありません。しかし、「せまじきものは宮仕え」という台詞廻しのなかに何だかその危機的状況に源蔵が酔っているような滑らかな響きがあります。「ジタバタしたって・小太郎斬らなきゃならないんだから」というのが・観客も巻き込んだ前提条件になっているのです。同じことが仁左衛門の松王にも言えます。小太郎を切るように源蔵を追い込んで行って・次に自分が首実検する段取りに行くまでの演技が実に滑らかです。その意味では確かに巧いのですが、「無礼者めッ」の見得に我が子を身替わりに差し出した親の悲劇的状況に松王が酔っているような印象があります。「私は子供を身替わりにしなければならない可哀想な親なのよ」というのが観客も巻き込んだ前提条件になっているのです。つまり源蔵・松王ともに「寺子を殺さねばならない・我が子を殺さねばならない」状況への恐怖・あるいは追い込まれたところから逆に「俺たちは生きる」という確信を得る過程が最初から消し飛んだところからこの「寺子屋」が始まっています。だから「寺子屋」後半のいろは送りはその悲しみがそれなりの雰囲気になって現わるということも言えますが、しかし、それでは所詮観客の同情の涙を誘うだけなのです。
「せまじきものは宮仕え」という台詞は宮仕えを否定するものでは決してありません。そのせまじき行為をすることでしか宮仕えをするこの源蔵は「立たぬ」というのです。その行為のために源蔵という男があるという事が台詞に示されねばなりません。松王の「無礼者めッ」の見得は・歌舞伎の入れ事ではありますが、これも同じです。身替わりという行為は松王・小太郎の親子が自分たちのアイデンティティーを守る為の共同作戦であるということは別稿「身替わりになる者の論理」でも触れました。「無礼者めッ」の見得の意味は、松王が親の悲嘆を現してしまえば・身替わりの計略はバレてしまい・それは息子の死を無駄にするということですから、松王は首実検で我が子の首を「菅秀才の首に違いない」と冷徹に言い切らねばならない・逆に言えばそれによってしか松王・小太郎の親子が「生きる」道はないということです。ですから吉之助に言わせれば・前半の源蔵・松王が状況に追い込まれていくことの切迫感・そして最後の力を振り絞って「俺は生きるぞ」と叫ぶ熱さが欲しいのです。それを表出するにはべダルの使用は禁物です。滑らかな・レガートな表現は排除せねばなりません・前半の源蔵・松王も滑らかな要素を削ぎ落として・その演技はもっとゴツゴツした硬い感触であって欲しいと思います。
今回の「寺子屋」の舞台のなかでは藤十郎の千代だけが・唯一そのような感触を感じさせます。悲しみをグッと内に秘めて・持ちこたえていることで・身体全体から滲み出る悲しみが、我が子を殺すことで・我が身が立つことの不条理を訴えています。しかし、それは単なる悲しみではなく・同時にその不条理によって小太郎は癒されているということも藤十郎は明確に表現しています。それは藤十郎の身体を殺した・無駄のない動きから出てくるのです。「・・然り、しかし、それで良いのか」というところから時代物が始まります。
(H21・7・19)
五代目玉三郎の政岡
五代目坂東玉三郎(政岡)、十五代目片岡仁左衛門(八汐)他
別稿「引き裂かれた状況」において、「先代萩・御殿」で政岡の置かれた異常な状況と・その自虐的とも言える反応のメカニズムについて考えました。栄御前が退出した後、広間にただひとり残された政岡は我が子千松の死骸を抱きしめて、始めは「コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。」と言うのですが、やがて政岡から別の言葉が漏れ始め、「武士の胤に生れたは果報か因果かいじらしや、死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」と言って政岡は千松の死を嘆きます。これは政岡の前半の台詞は建前からのもので・後半が母親としての政岡の心情を表すもので、封建主義の非人間的な建前の台詞を・やがて人間の肉声が否定し去っていくという風に一般的に解釈されています。吉之助の解釈は先にあげた論考をお読みいただくとして、現代人はどうしても個人と状況を対立的に見ますから・このような解釈になるのもよく理解できます。ただし、この解釈ではクドキのカタルシスが不足するのは致し方ないところです。
玉三郎の政岡ですが、とても理性的でコントロールが効いた政岡です。まず千松が八汐になぶり殺しにされる時の硬い表情にそれが現れます。また「コレ千松、よう死んでくれた・・・・誠に国の礎ぞや」の場面では政岡役者はふつう万歳をするように・両手を高く天に挙げて千松の行為を称えますが、玉三郎は完全に手を挙げないで・目線辺りの高さまでで止めて・手をそれ以上に高くは挙げないのです。その形に「天晴れだと言って千松を誉めてやりたい・しかし・我が子が死んで嬉しいとはやっぱり言えない」という交錯した思いを込めたということだと思います。とても抑制が効いているのです。玉三郎は政岡の押さえるべき性根はしっかり押さえていて・その点に不足はないのですが、玉三郎の政岡の演技があっさりした感触に感じられるのはそのせいです。「飯炊き」がしっかりしているのもそのせいですが、近年の「先代萩・御殿」はどれも前半の方が良いようですね。「忠義のためにひもじい思いをするのは何とつらいことか」という状況を確かに観客に納得させます。歌右衛門崇拝の吉之助でも歌右衛門の「飯炊き」は長いなあと思ったものでした。もちろんこれは歌右衛門なりの計算あってのことですが、芝居は後半さえ良ければ・前半のことはチャラにできるのですから、やはり後半のクドキにカタルシスが欲しいと思います。そうでなければ前半で描いた状況の様相が本当は生きてこないのです。やはり「御殿」の要はクドキなのです。
玉三郎の政岡は「・・・・とは言ふものの可愛やなア」から「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」のクドキの台詞が竹本のリズムから離れて・素の台詞に近い感触に思われます。これはおそらく意識的に肉声に近い感触を意図したようです。しかし、吉之助が思うには・このクライマックスにおいては竹本の音楽的効果を利用しない手はないのです。糸に乗れ(リズムに乗れ)というのではなく、逆に糸を後ろの方へ引っ張ってもらいたいのです。つまり、歌右衛門ほどではないにしても・台詞をもっと粘らせて・竹本を後ろに引っ張って欲しいのだなあ。そうすればもう少しバロックで濃厚な味わいが出ると思います。玉三郎のクドキは淡い感触でちょっともの足りない。だから何となく「実録先代萩」みたいな感じになります。そういえば御殿の後に続く「対決・刃傷」の方も・良し悪しは別にして実録めいた舞台であったと思いますが、これは現代での上演では致し方ないところなのでありましょうか。
「身替座禅」の奥方
二代目中村勘太郎(六代目中村勘九郎)(右京)、 三代目中村扇雀(奥方)
先日NHKで本年4月の香川県琴平町での「金比羅大歌舞伎」のドキュメンタリーをやってまして、これを見ました。吉之助も平成18年に金丸座での歌舞伎を見たことがありますので・舞台裏の紹介などとても懐かしく思いました。同番組ではいつくかの舞台を断片で見せてくれまして・いずれ全編の放送もあるでしょうから・それから書いても良いのですが、ちょっと「身替座禅」(勘太郎の右京・扇雀の奥方)について触れておきたいと思います。昨今の「身替座禅」のどの舞台にも感じるのは、松羽目(狂言オリジナル)の格調を踏み外して・笑劇に落ちたということです。つまりは恐妻家のドラバタ喜劇です。この舞台も例外ではないようです
まず勘太郎の右京の・花子との逢瀬から戻る花道の出ですが、ここは狂言では「うつつの出」と言ってとても重いところです。「うつつ」というのは夢か幻か・という意味 もありますが、右京は決して酔っ払っているのではありません。ホロ酔いですが・しっかり正気であって、愉しかったことをふっと思い出して・ちょっと嬉しくなってしまう・そのような状態なのです。この役には品格が必要です。その理由については別稿「もうひとつの身替座禅」をご覧ください。この場面の勘太郎の右京ですが、これはまさに酔っ払いの朝帰りです。上体がグラグラして・それで酔っ払っているのを表現しているつもりなのでしょうが、これはしこたま飲んだと見えます。それでなくても腰高の踊りなので・見ているこちらの方が悪酔いしたような気分になります。吉之助は下戸なもので、こういうの嫌なんですよねえ。上体・特に肩を揺らさないようにして・全身の線でホンワカした気分をさりげなく出して欲しいのです。稽古のシーンでは勘三郎がチェックしていたようですが、こういうところにダメ を出さないのですかねえ。扇雀の奥方には「呆れました」の一言です。「あの奥方ならば隈取りをすればもっと観客が笑ってくれるだろうから、そうしたら如何ですか」とでも言いたくなる奥方ですね。何か大きな勘違いしてませんか。
「身替座禅」を得意にした先代勘三郎の最後の舞台は・ちょっと品がないところがあって・残念な出来ではありましたが、その先代勘三郎のひとつ前の舞台だったと思いますが・珍しいことですが奥方を十七代目羽左衛門が勤めたことがありました。吉之助が見たなかでは・この時の羽左衛門の奥方が一番良ろしかったと思います。右京ももちろんですが、「身替座禅」では奥方の印象がとても大事なのです。最近の舞台を見ると奥方はメーキャップを強くして・ますます大仰に・怖さを強調する方向に行っていますが、これが「身替座禅」の品位を落としている一番の原因です。観客を笑わせようなんて小細工は一切なく、それでも自然に口元がほころんでしまうような「身替座禅」の舞台は見られないのでしょうかねえ。
愛する理由
五代目坂東玉三郎(富姫)、十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(図書之助)
吉之助の知る限り・ここ30年くらいの「天守物語」上演は歌舞伎では玉三郎の専売かと思いますが、その劇評など近年の「天守物語」に触れた文章を読むと、富姫と図書之助の愛の清らかさ・それと対比される人間界の愚かしさという二元構図で読む傾向が相変わらず強いように思われます。まあ「天守物語」を富姫と図書之助の恋愛譚として読むことはもちろん間違いではありません。大筋としてはそんなところですし、美女役者と美男役者が演じるのだから・観客の思い入れがそんなところへ行くのも当然ではあります。しかし、富姫と図書之助が愛し合うのは何故かという「必然」にもうちょっと思いをはせてもらいたいと思うのですねえ。富姫は図書之助がいい男だから好くんですか・図書之助は富姫がいい女だから好くんですか・ということです。玉三郎の富姫は図書之助がいい男だから好くのでしょう。そのように見える富姫なのです。近年の「天守物語」について書かれた文章を読めばだいたいその線ですけれど、そのイメージは多分玉三郎の舞台から来ているのでしょう。しかし、吉之助はそれだと鏡花作品の凛としたところが弱まると思います。好いた・愛したは人間の時に言う言葉。富姫には正義と言って下さい。富姫には「あなたは正しかった」と言って下さいな・・と吉之助は思いますがねえ。それが鏡花の女だと思いますよ。三島由紀夫が次のように言っています。
『女の凛々しさとか・女の男っぽさとか、何かきりっとした感じ、ああいう美しさというのはずっと忘れられていたんだね。そして惚れた男のためには身体も張るけれども、金力・権力には絶対屈しないというイメージですね。(中略)そして弱い男に女は惚れて、女が庇護する。その弱々しい男に正義があるんですよ。』(三島由紀夫・「泉鏡花の魅力」・澁澤龍彦との対談・昭和43年11月)
このことは大事なことなのです。富姫が「来てはならぬ」というのに天守に戻ってきた図書之助を二度ならず・三度までも許すのは、富姫が図書之助に惹かれているということも確かにあるかも知れませんが、富姫として前面に出すべきは「この真っ直ぐで純粋な若者を私は護ってあげる」という女の凛々しさなのです。富姫は惚れたからこの若者を護るのではなく、この真っ直ぐな若者を護ってやろうとしているうちに恋に落ちるのです。何故ならば富姫はその昔・あわや陵辱されようとした時に舌を噛んで自害したという高潔な女性であって、個人の尊厳を重んじ・理不尽なことを個人に迫る状況を 誰よりも憎む「正義の」女性であるからです。富姫は図書之助は「正しい」と思うから護るのです。また図書之助は富姫が自分を唯一理解してくれる存在(妖怪ですがね)だと思っているから・二度ならず三度までも天守に戻るわけです。それは図書之助が自分が不当な扱いをされたことに憤りを感じており、自分は絶対に「正しい」と信じるからです。図書之助も正義の人なのです。最後はふたりは一緒に暮らせるようになるわけですが、それは彼らが「正しかった」からです。ですから富姫と図書之助の恋愛は結果的にそうなったということです。「天守物語」を「愛が最後に勝った」と解釈するのでは鏡花にならぬと思いますねえ。
ですから「天守物語」では富姫と図書之助の恋愛の気配は最後の最後まで抑えた方がよろしいと吉之助は思います。最後に「そしてふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ」で十分なのです。このことは鏡花を歌舞伎のレパートリーとして定着させていくために大事なことです。そうすれば富姫と図書之助の恋愛を大きな枠組みのなかに組み込んでいくことで・古典的な構図に納まることになるのです。その意味でも「天守物語」の幕切れはとても大事ですが、玉三郎の演出では幕切れに天守を護る獅子頭の作者桃六の台詞がエコー処理されており、そのため幕切れの印象が散漫になってしまいました。これでは我当の台詞術も生きません。またカーテン・コールもまったく余計です。鏡花を歌舞伎に定着させることを本気で考えるならば、このようなことはせぬことです。 そのうち玉三郎は「娘二人道成寺」でもカーテン・コールをしかねないなあと・ちょっと心配だなあ。
(H21・8・16)
小身者の悲哀
三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(勝小吉)、 二代目中村勘太郎(六代目中村勘九郎)(松坂庄之助)他
本作は昭和13年東京劇場で二代目左団次が初演した真山青果の新歌舞伎ですが、今回上演されたのはその3幕仕立てのうちの序幕のみです。いわば見取りということですが、こういう場合は全幕上演の時とは違った芝居のバランスを組み立てなければならぬと思います。幕切れに向けて・前半の段取りをしっかり組み立てて「読みきり」になるようにバランスを整えて欲しいのです。上野介らの横暴な振る舞いに小吉が怒って「石高の多い少ないで人の価値は決まるものではない」と言うのは大事な台詞です。しかし、実は小吉は「人間はみな平等だ」という人権意識で怒っているわけではないのです。「俺は俺だ」という意識は確かにあるのですが、まあ言ってみれば小身者のちょっと卑屈で僻んだところのプライドなのです。それは人権意識というところまでは行きません。現代の観客は「人間はみな平等」は当たり前だと思って見ますから気が付きにくいですが、幕末の小吉にその意識は まだないのです。それは明治以後のこと。しかし、橋之助(小吉)・勘太郎(庄之助)を見ていると人権意識がはっきりあるようですねえ。だから「石高の多い少ないで人の価値は決まるものではない」という主張がことさらに強く出ますが、そこのところを抑えて・捻った形で出してみたいものです。この芝居のバランスを考える時にはまずそこがポイントとなります。
一方、麟太郎は小吉の扱われ方やその喧嘩騒動を陰から見て・御殿に召し出されることを承諾するわけですが、麟太郎には明確ではなくても人権意識・身分制度に対する素朴な疑問がすでにあると見て良いのです。それは麟太郎が神童であり・未来の子供であるからです。小吉と麟太郎の間に、封建社会に生きる人間とこれから近代社会に生きていく人間の違いが見えてくれば良いなあと思います。そこに青果の社会的な視点があるのです。今回のこの幕切れのように大事の息子・麟太郎が御殿で召されてしまうのを主人公・小吉がトンビに油揚げをさらわれたような顔をして「まっ、仕方ないか」という感じで醒めて見上げているようでは・どうも小吉の心情が迫って来ません。小身者の悲哀が我が身にツーンと来てちょっと泣きたくなるという幕切れにしてもらいたいのだなあ。そうすると幕切れで「何だい、あんたらしくもない。まあ私のところで酒でもお飲みなさいよ。私が慰めてあげるからさ。」という感じで芸者八重次の存在が生きてくるのですがね。
それは橋之助・勘太郎らの台詞回しに新歌舞伎らしいリズムが不足するせいでもあります。それは前述のポイントとも密接に関連します。台詞が新歌舞伎のフォルムを取れていないために軽い印象となり、それが芝居前半が幕切れと釣り合いが取れないことの遠因になっています。ということは幕切れ近くに萬次郎の阿茶の局が登場すると見違えるほど芝居がグッと引き締まることから分かります。萬次郎は台詞のリズムがしっかりと取れて新歌舞伎になっていて・さすがと言うべきですが、逆に言うと芝居前半は賑やかでテンポが良いように見えるけれど・実は芝居として「軽い」ということなのです。橋之助・勘太郎らの台詞回しはテレビの時代劇ならばそれなりのもので決して悪くはないものですが、新歌舞伎の台詞とは言えません。それが芝居として軽い印象を生んでいるのです。本作が二代目左団次の初演であることをお忘れなきように。この芝居は歌舞伎なのです。新歌舞伎のリズムがどういうものかは「左団次劇の様式」をお読みいただきたいですが、幕末の身分社会のなかで誰もが憤懣を感じて・窮屈な思いをして生きているイライラ感がその緩慢なリズムのなかに現れます。それは小吉や庄之助の境遇を体現するリズムなのです。橋之助・勘太郎らが前半でしっかりと新歌舞伎のリズムが取れていれば・芝居のバランスはかなり良くなったはずです。
(H21・9・20)
十一代目海老蔵の「四の切」
十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(源九郎狐・佐藤忠信、二役)他
「海老蔵の伊達の十役」でもそうでしたが、今回の海老蔵の「義経千本桜・忠信編」を見ても同じことを感じました。「あの頃の猿之助歌舞伎はこんな感じだったなあ」ということです。吉之助が「あの頃」というのは昭和50年代前半の猿之助歌舞伎のことです。あの頃の猿之助歌舞伎というのはとにかく面白いことを・何でも試してやろうという意気に燃えていましたし、それが楽しくって仕方がないというのが ビンビン伝わってくる舞台でありました。吉之助も猿之助は来月はどんなことをやるかという期待でいたものです。昭和50年代も半ばを過ぎると猿之助歌舞伎の興行的成果は確固としたものになりましたし、猿之助もだんだん理論武装するようになってきたので、ちょっと趣が変ってきたということがあったかも知れません。これについては市川猿之助著:「猿之助修羅舞台」・昭和59年などをお読みいただければ、吉之助が言いたいことがちょっと分かるかなと思います。要するにちょっと理論先行気味になってきたということだな。しかし、昭和50年代前半の猿之助はひたむきと言えるほど一生懸命でした。考える間もなく動いていた・そういう感じですかねえ。もちろん何も考えていないのではなくて、考え抜いたものが自然にパワーとなって身体に溢れているように見えたという意味です。海老蔵の走り回っているのを見ていると、体つきも・芸風も異なるとは言え、あの頃の猿之助の舞台のエネルギーが思い出されました。ひとつには海老蔵の持つスター性(パッと観客の目を引きつける魅力)ということもありますが・それだけではなく、上へ上へとぐんぐんと上昇していく力のようなものですねえ。それは猿之助から海老蔵へ確かに伝承されたものであったと思います。
市川猿之助著:「猿之助修羅舞台」
「四の切」(川連法眼館)での海老蔵の狐忠信で感心した点は、覚範率いる僧兵との立廻りがまるで子狐が遊んでいるかのように軽やかに沸き立って見えたことです。それが幕切れをとても後味の良いものにしています。確かに狐忠信は義経のために奮闘しているわけですが、まあ狐のことです。人間のように愚かな殺生するわけではありません。主義主張があって戦うわけではない。狐が得意の化かしで僧兵をからかって遊んでいるだけのことなのです。それが初音の鼓が手に入ったことの喜びと重なっている、そのように考えて良ろしいものです。海老蔵の狐忠信の立廻りを見ているとそのような狐の無邪気な喜びの感情がとても素直に出ているのです。吉之助は猿之助の「四の切」は何度も見ましたが、もしかしたらこの点では海老蔵は猿之助より良いかも知れぬなあと吉之助はふと思いました。そう言えば郡司正勝先生がこんなことを仰っていますね。
『「(千本桜)四段目」で親子の情だの何だのと言うのは、私は違うと思うんだ。化かされのああいうものが面白いんだから、どこまでもケレン芝居で、もう眠くなる時刻なんだから、あそこまでくれば浮かせて見せないと。狐がいくら人間の情を見せたって、人間はそんな同情するわけにはいかないんだよ。(狐が擬人化されていると言うが)それは見ている方がそういう風に理屈をつけているわけなんでしょうけど、そうでもして見なきゃ見られないということになっちゃうから、一応、人間の情を写して見せるんだけど、それには限度というものがあるから、あんまりリアルにその情を見せると興醒めしてしまう。程度の問題ですけどね。』(郡司正勝:合評「三大名作歌舞伎」・歌舞伎・研究と批評・第16号)
もちろん海老蔵の狐忠信が万全というわけではありません。むしろ海老蔵の狐忠信は親子の情などを意識するところで演技が甘ったるい方向に向いて、そこで点が落ちるようです。何だかマタタビに酔っ払ったライオンみたいな感じになる。狐言葉の語尾の甘さはちょっと気になります。本物の忠信との対照を際立たせようという意図があるのでしょうが、これはむしろ目付きや身体の捌きでこれをさりげなく仕分ける感じで行きたいものです。この辺は今後再演を重ねていくなかで工夫の余地のあるところです。それは本物の忠信と狐忠信との差は親子の情の有る無しではないからです。本物の忠信は屋島で戦死した兄継信、故郷に残した母親のことを片時も忘れない情のある男です。忠信がそのような男であるから、狐は忠信になりすまして義経に近づこうとするわけです。親子の情は両者を結ぶ共通項ということです。義経も静も見分けが付かないくらいなのだから、同じに見えて良いのです。親子の情はもちろん狐忠信の重要な動機ですが、「義経千本桜」全編のなかでは狐忠信は縦糸のエピソードで、郡司先生の仰る通り、あまり親子の情だけ突出されても粘って困るわけです。(これについては別稿「義経と初音の鼓」をご参考にしてください。)もっとも猿之助の狐忠信でも「この芝居は親子の情を訴えているんです、ねっ、いいでしょ、いいでしょ」というしつこい感じ無きにしも有らずでした。この辺を抑え目に行ければ良い「四の切」に仕上がると思います。ともあれ海老蔵の「四の切」の幕切れはなかなか良かった。あの頃が思い出されて、吉之助には懐かしい瞬間がありました。
(H22・9・19)
付記)本公演は前月(平成22年7月)海老蔵のイギリス公演の凱旋公演との触書きでした。これについては別稿「凱旋公演のことなど」をご覧ください。
○平成22年10月28日、NHKホール、
NHK古典芸能鑑賞会:「源平布引滝・実盛物語」渋い実盛
十五代目片岡仁左衛門(斉藤実盛)他
別稿「実盛物語における反復の構造」において、キルケゴールが指摘するところの反復の宗教的段階ということを論じました。反復することが如何に虚しい行為であるか・そして新たな現実のなかに憧れを見出そうとすることも如何に虚しいことか、そして過去と現在は同じ深淵によって脅かされているということを語る行為なのです。だから「物語り」とは決して回想なのではなく、反復する行為によって自己を照射しようとするものです。実盛の物語りの反復は「未来に向けて」反復されています。反復ならば・普通はその元は過去にあるものですが、「実盛物語」の場合にはその元は未来にあります。なぜならば、28年後の実盛の死に様を観客は「平家物語」の実説としてよく承知しており、観客は心のなかでそれを反復するからです。そこに実盛の物語りに反復の宗教的段階が見て取れます。
それならば実盛の「物語り」は華やかに演じてはならぬのだろうかということが疑問としてチラッと頭をよぎります。結論として、吉之助は決してそんなことはないと思います。28年後の加賀の国・篠原での実盛の死は実盛自身が選び取った・意思的な未来です。それは実盛にとって明るい未来です。後世の武士たちが理想としたところの死に方です。「実盛物語」の実盛は爽やかに演じられねばなりません。しかし、実盛の爽やかさというものが・実は陰惨さと背中合わせのものだということも確かなことなのです。ですから実盛の「物語り」は華やかに演じてはならぬのかという疑問は頭の片隅に留め置いて、「実盛物語」を見てもらいたいと思います。
生締物の颯爽としたイメージにおいて仁左衛門の右に出る役者はいません。この「実盛物語」でも、パッと扇を掲げて見得してみせると格好良くて、実に華やかです。幕切れもとても後味が良ろしい。芝居として十分納得できる盛綱です。ただし欲を言えば、仁左衛門の実盛の良さを認めた上で・さらに上を目指せばという意味ですが、スマート過ぎる・そこが何とかならぬかという感じは若干あります。葵御前が「げにその時にこの若が、恩を思ふて討たすまい」と言いますが、28年後にホントにそうなっちゃいそうな実盛なのです。こんな良い人は討っちゃイカンんよと観客が思う実盛なのです。まあこれは仁左衛門のせいというわけでもなく、歌舞伎の「実盛物語」自体がそういうものだということもあります。歌舞伎の「実盛物語」の演出は、子役の使い方とか・幕切れの演出とか、実盛の陰惨な影の部分から観客の目を意識的に目をそらそうとしているところがあるように思われます。もちろんそれがエンタテイメントとしての歌舞伎の本質だということもできますが、ドラマツルギー面から見れば多少の問題を含んでもいるのです。「実盛物語」にも小万の件など陰惨な・土俗宗教的な要素があるのです。しかし、それらの印象が淡く・段取りに終わっている感じで、実盛の運命へ太く絡んでいくという感じがあまりありません。そこらが作品としてちょっと弱いところであるかも知れません。
九代目団十郎は、実盛を二股武士だと言って嫌って演じようとしませんでした。ですから歌舞伎の現行の「実盛物語」は明治期における九代目の型再検討の洗礼を受けていないわけですが、もし九代目が「実盛物語」を取り挙げていればどうなったかなというようなことを、ちょっと想像してみると面白いかも知れませんね。意外と渋い実盛に仕上がったのじゃないでしょうかね。格好良い仁左衛門の実盛を見ながら、敢てこの華やかさを封じ込めて・渋い実盛に仕立てて、最後にパッと扇を掲げてそれまでの陰惨さを吹っ飛ばして見せる、そういう「実盛物語」は出来ないものかなあ・・・そんなことを考えておったのですがね。
三代目又五郎襲名の「寺子屋」
二代目中村吉右衛門(松王)、三代目中村又五郎(三代目中村歌昇改メ)(源蔵)他
(三代目中村又五郎襲名披露)
吉之助にとって先代(二代目)又五郎は派手さはなかったけれど堅実な演技がしっかりと記憶に残る名脇役でした。新・三代目は吉之助と同世代であり・本名の光照でテレビに出ていた天才子役時代が懐かしく思い出されますが、先代のイメージに捉われず自分の又五郎を作ってもらいたいと思います。ところで、その襲名披露の源蔵ですが、気合いが入った演技だとは思いますが・その気合いがちょっと顔に出過ぎのようで、出来としては時代に傾いた感じに思えます。本当は松王との対照上からも、源蔵はもう少し感情表現を抑えて・すべてを腹のなかに押し込めるのが良ろしいのです。
源蔵が時代に傾き過ぎと書くと「寺子屋」は時代物じゃないかと言う方がいそうですが、時代の要素は松王や玄蕃が受け持つものであって、源蔵も同じように時代に傾いたら正しい「寺子屋」の構図になりません。のどかな芹生の里に突然政治の世界が割り込むから時代になるのです。源蔵は時代の攻勢をまともに受けながら・それを悲壮な覚悟で押し返さねばなりません。だから本来源蔵は世話を基調にする役です。時代を押し返すには力が要ります。力を入れるには・感情を腹に込め・息を詰めねばなりません。源蔵は世話の辛抱役なのです。又五郎の源蔵は、よく言えば何を考えているか観客に分かり易いということが言えますが、演技が説明的で型臭い感じがします。ひとつにはそれは演技が糸に付き過ぎるせいです。三味線に乗ると間合いが良いように思うでしょうが、間合いが調子良く落ち着くと、そのせいで息を詰める感覚は失われてしまいます。演技が三味線に乗れば乗るほど演技はオートメーション(ハイ一丁上がり)の感覚になり、様式の印象に傾くのです。「人形じゃあるまいし」ということは役者が自らを戒めるために大事なことでした。昔の役者は「糸に付いた演技が良い」なんて言われたら侮辱だと感じたものでした。最近は劇評でそれを義太夫狂言らしいといって褒める方がいたりしますから、様式感覚が変わってしまったということですね。(源蔵という役については別稿「初代の芸の継承」を参照ください。)
同じことが吉右衛門の松王にも言えます。吉右衛門の松王も糸に乗る感覚が強いようです。また敵役を演じる前半とモドリになった後半のトーンが同じ調子で重ったるく感じられます。首実検の直後・左手を首桶に置いて・右手を額に当ててうずくまる場面には真実味が感じられますが、全体的にやはり型っぽい演技に見えます。(吉右衛門のこうした印象はこの数年ほど急速に強まっているようですが、吉之助にはあまり良いことに思われません。)前半に敵役の色を強く取っていると見えました。それはそれで結構ですが、それならば後半の演技はもう少し世話に置いた方が父親としての感情に真実味が出ると思います。小太郎のことを泣く場面においても何だか型っぽく嘘臭く感じられます。松王も源蔵も角々の演技はたっぷりと云うか・吉之助がよく言うところの「歌舞伎らしさ」が出ていると思います。(注:吉之助は「歌舞伎らしさ」ということを良い意味で言っているのではありません。)そのため描くところは一応描けており・それなりの「らしさ」は出ていますが、「寺子屋」の舞台としてそれ以上の出来とは言えないと思います。それにしても役者の個性から見ると、配役を逆にして又五郎が松王で・吉右衛門を源蔵にした方が納まりが良かったように吉之助には思われました。
九代目福助初役の淀君
九代目中村福助(淀君)、三代目中村又五郎(秀頼)、 二代目中村吉右衛門(氏家内膳)他
「沓手鳥孤城落月」は明治38年(1905)5月大坂角座の初演ですが、新歌舞伎の最初期の作品というべきものです。坪内逍遥は理念実践の人でした。いったん理念を高く掲げたら・それを実地に試してみることをせずにはおれない人でした。ところが実際にやってみると、具合が良くないこともしばしば起こるもので、そのために逍遥は随分と奇矯なこともやらかしたのですが、まあそういう失敗もやってみなければ分からないことです。また失敗を厭わないのが逍遥なのです。(その辺は津野海太郎著「滑稽な巨人・坪内逍遥の夢」に詳しく書かれています。)そのような逍遥が初めて歌舞伎の外の世界の作家として歌舞伎を書こうというのですから、逍遥が従来の歌舞伎ではない・新しい歌舞伎をここで書こうとしたということは明らかなのです。逍遥が夢見たものは言ってみればシェークスピアに対抗できるグランド史劇であり・あるいは楽劇であったはずです。そのような従来の歌舞伎にはない感覚を「沓手鳥孤城落月」に想像してもらいたいと思うのですねえ。
ところが歌舞伎での「沓手鳥孤城落月」の舞台を見ていると、逍遥の写実の台詞を歌舞伎らしく・語調を七五に揃えて歌う方向に多くの役者の意識が行っています。あるいは台詞の末尾を詠嘆調に伸ばして転がす。すると感触が黙阿弥っぽくなって・新歌舞伎たる衝撃度は失われます。逍遥は古劇を書こうとしたのではなく、自分の作品で歌舞伎を変えようとしたはずなのですが、歌舞伎ではその意図が伝わってきません。唯一そのことが伝わってくるのは、成駒屋の家の芸となった淀君という役からです。五代目歌右衛門が遺した昭和6年ポリドール録音を聴くと、歌右衛門の淀君の台詞回しはさすがに見事なものですが、周囲がまったく駄目。共演の十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)の方は逍遥の台詞の様式を理解出来ておらず・従来の七五調の感覚でダラダラとしゃべっていて、まったくひどいものです。五代目歌右衛門の淀君だけが超然として光っています。吉之助が観た六代目歌右衛門の淀君 の舞台でも歌右衛門だけが突出して、周囲の役者はやはり新歌舞伎の様式が理解できていませんでした。周囲の役者ののっぺりした古風な(イヤ古臭い)感触の台詞のなかで、六代目歌右衛門の淀君の情念だけがリアルに突き刺さってきました。ですから「沓手鳥孤城落月」が歌舞伎に残ったのは五代目歌右衛門の淀君・そしてこの役を引き継いだ六代目歌右衛門の強烈な個性故であったと思います。
そこで福助の初役の淀君ですが、成駒屋の家の芸を引き継ぐに足る・なかなか立派な出来であったと思います。六代目歌右衛門の演技をよく研究したのだろうと思います。随所で歌右衛門を思わせます。絶叫調になりそうなところを抑えて情念を腹に押さえ込むことが出来れば、もっと良くなると思いますね。周囲の役者はやっぱり新歌舞伎の様式が理解できておらず、いつもの七五の調子で台詞が伸びています。「新歌舞伎の台詞は歌うもの」なんて思っていたらいけません。周囲の役者 をがっちり固めた重厚な史劇が見たいものですが。
二代目勘太郎の関兵衛
二代目中村勘太郎(六代目中村勘九郎)(関兵衛実は大伴黒主)、 三代目中村扇雀(宗貞)、二代目中村七之助(小町姫)、五代目尾上菊之助(墨染桜の精)
(台東区隅田公園内・平成中村座)
歌舞伎の歴史は400年と云いますが、実は初演そのままの雰囲気を伝えるものは意外と少ないものです。そのなかで「積恋雪関扉」(天明4年・1784・江戸桐座初演)は、古い時代の歌舞伎の雰囲気を濃厚に残した舞踊だと言えます。歌舞伎舞踊の大曲であるということで・特に大事に扱われてきたからでしょう。初演者である初代仲蔵の・いわゆる仲蔵振りは、例えば「生野暮薄鈍、情なしこなしをみるように、悪洒落云うたり、大通仕打ちもあるまいが」という歌詞の「生野暮薄鈍」のところで、関兵衛は「き」で立ち木の形をして・「や」で弓を引く形・「ぼ」で棒をしごく形・「うす」で臼を挽く形・「どん」で戸を叩く仕草で有名なものです。この当て振りは有名になればなるほど「こんなもの下らない・当時の歌舞伎役者の文章理解の程度の低さが分かる」という軽蔑めいた声もよく聞きますが、これは江戸の庶民の洒落っ気・遊び心から出た振りであると理解せねばなりません。ということは、程度は低いように見えても・そこに江戸庶民の芸術感覚の芽生えが確実にあるのです。そこに江戸の庶民の成熟が見えます。しかし、そういうものはちょっとチープで安っぽい感覚にも見えるものです。別稿で「武智歌舞伎のチープ感覚」ということに触れましたが、「積恋雪関扉」にも同じようなチープ感覚があるのです。そう考えると、「積恋雪関扉」は古風な舞踊であるということは確かにその通りですが、昨今は歌舞伎役者も劇評家も観客も、その「古風」というイメージを「大時代」の重いイメージで杓子定規に捉える傾向がありはしませんかということを言いたいですねえ。
今回の勘太郎の関兵衛に限ったことではないですが、関兵衛を古怪に重く・大時代に見せようとする傾向が強いよう です。大伴黒主に見顕した後ならば確かにそれで良いですが、これは前半の関兵衛の時においては方向性が逆で、もっと世話の方に砕けて、江戸狂言なのですからべリべリとした感覚でやるのが本当のところであると思います。踊りの名人であった四代目芝翫は七代目三津五郎に関兵衛は「丸く踊れ」とアドバイスしたそうです。武張った時代の調子で踊ってはならない・世話に砕いて踊れということです。その本性を顕すまでの関兵衛の基本は世話に置かねばなりません。宗貞・小町姫の感覚はどうしても時代の方に傾きますから、その間にアクセントを割り込む意味でも関兵衛は世話味を強くせねばなりません。ここで関兵衛のチープ感覚ということが大事なヒントになるのです。関兵衛が時代に傾くと全体が間延びしてのっぺりと一本調子に陥ってしまいます。昨今はそういうのを古風な感覚であると勘違いする向きが多いようなのだねえ。勘太郎の関兵衛は声を太く取ろうとしているようですが、声色に頼る必要はありません。また角々の決まりを・その意味ではしっかり取っていると言えますが、これが全体を重い時代の印象にしています。角々をもっと軽く取ることです。まあこうなることについては常磐津にも責任が大いにあることも事実ですが。
勘太郎は踊りは確かに基礎はしっかりしていますが、如何せん腰高の踊りです。これは持って生まれた体格のことだから仕方がないですが、もう少し背を盗む技術を身に付けてもらいたいものです。直立する時に勘太郎は膝を完全に伸ばして立っているでしょう。そのために、本人はそのつもりは決してないと思いますが、身体が伸びて・緊張感が失せているように見える場面がしばしばあります。もうひとつ、大きな問題があります。直立した時の頭の位置を最高点として、踊っている間の勘太郎の頭の上下動がかなり大きいということです。形を決めると 自然と腰を落とすので頭の位置が低くなります。あるいは屈む時に頭の位置が低くなります。これは普通の動きだと当然そうなりますが、踊りの場合はこの頭の上下動の幅を最小限に収めることが出来ないと、決して安定感がある踊りに見えないのです。こういうことは客席の遠くから舞台を見ている分にはあまり気にせぬ向きが多いかも知れませんが、映像で・カメラのフレームで切り取ると・その欠点が顕わになります。カメラは役者をバランス良くフレームに収めようとします。頭の上下動が大きいと、カメラが盛んに上下に振れることになります。(別稿「舞踊の身体学」をご参照ください。)こういう問題に対処する為には、直立する時に膝を完全に伸ばさず・膝を心持ち折って腰を落とす・つまり背丈を小さく見せることです。さらに踊る時にも膝をいくらか折った状態を保って、膝をサスペンジョンに使う感覚で・頭の上下動を最小限に抑えて・頭の高さを一定範囲に収める踊りをすることです。これが腰高の印象を回避するひとつの技術です。関兵衛の衣装ならばかなり思い切って腰を落とすことができるはずです。こういうことをアドバイスする方が周囲にいないのですかねえ。確か勘太郎は膝を痛めた経験があったと思いますが、そのような踊りを心掛けることは膝の負担の回避にもなるのです。
ともあれ勘太郎 は一生懸命踊っていて好感が持てますし、「関扉」は大物ですから一生かかって仕上げていくべき踊りです。今どうだったからと云って別にどうってことはありません。来年は勘九郎襲名が控えてるのだから、一層の飛躍を期待したいと思います。だから膝の遣い方をしっかり覚えて欲しいと思いますねえ。
(H23・12・17)
十八代目勘三郎の松浦侯
十八代目中村勘三郎(松浦鎮信)他
(台東区隅田公園内・平成中村座)
本年10月に勘三郎が病気休養から復帰してくれたことは、同世代である吉之助にとって嬉しいことでした。病気の詳細は知りませんが・簡単に完治するとは言えない性質のものらしいし、だましだまし付き合っていくしかないのでしょう。今回の舞台を見ても順調に回復しているように表面は見えますが、勘三郎が本調子ならば「積恋雪関扉」の関兵衛は勘三郎が勤めて・勘太郎は宗貞というところが 本来の座組みでしょうから、本人も忸怩たるものがあると思います。しかし、体調と相談しながら・無理ないところで徐々に自分をペースを作っていってもらいたいものです。そのためにはこれからは演目を慎重に選ばねばなりません。
勘三郎が平成17年歌舞伎座で「法界坊」を演じた時のことは別稿「勘三郎の法界坊」で書きました。この時は吉之助は一階通路側で勘三郎の衣装が実際に触れたほどの近さで見ましたが、とてもハイテンションで・はしゃぎっぱなしの様子でした。この調子で飛ばし続けたら勘三郎は神経的に持たないだろう・・と思って書いたのが、あの記事でした。当時「勘三郎はこのままだといずれ行き詰まる」と書いたのは多分吉之助だけだと思います。平成21年渋谷コクーンでの「桜姫・現代劇版」でのゴンザレス(=権助)もそうでした。終盤でのセルゲイ(=清玄)との言い争いの場面での勘三郎はもう限界でゼイゼイ喘いでいるようにさえ見えました。ですから勘三郎病気休養の報を聞いた時には吉之助は別に驚きませんでした。来るものが こういう形で来たかという感じでしたねえ。むしろよくあそこまで頑張ったと思います。頑張り過ぎてポッキリいっちゃったんですね。壮年期にはよくあることです。そこでこれからが大事な点ですが、いったん折り目が付いちゃうと・治ったようでも弱くなったその部分がまた折れる恐れがありますから、そこに痛みがヒクヒク来たその時には無理せず思い切って休むことです。もう同じような無理は出来ないことを認めなければなりません。昔当たり前に出来たことが今出来ないというのは辛いだろうし・認めたくないでしょうが、それを受け入れることが役者が次の段階へ至ることの過程なのです。それを老化とか退化という風にネガティヴに捉えてはなりません。晩年の二代目松緑が当代三津五郎に「俺は今なら完璧な弁慶を演じる自信がある。しかし、もう思うように身体が動かない。残念だ。」ということを語ったそうです。その気持ちはよく分かると同時に、晩年の松緑はそれを乗り越えて新たな境地を目指したと思います。(注釈付けておきますと、吉之助は勘三郎と同世代の誰もが直面する問題としてこれを書いています。)
今回の「松浦の太鼓」ですが、勘三郎の松浦侯を見ていると、例えばヒッヒッヒッという笑い方とか角々の仕草で先代(十七代目)の松浦侯もこうだったなあということが懐かしく思い出されました。吉之助は先代のファンでしたからこれは満更でもないのですが、ちょっと気になる点もあります。確かに当代勘三郎は実の親子だから似てて当たり前であるし、特に近年はフトしたところで「親父さんにますます似てきたなあ」と思うのも事実ですが、親父さんが生来持っていたこぼれるような愛嬌と当代の芸質は若干異なるものではないのかということです。感触としてもう少し怜悧なものが入ってくるようです。これは世代の違いとも言えますが、もしかしたらそれは六代目菊五郎的な要素であって、先代はそれに強く憧れながらついに持ち得なかった要素であったのです。確かに「松浦の太鼓」という演目は先代のものであったし・その意味で家の芸同然ですが、当代勘三郎が演ると「先代そっくりに勤めております」という側面が強くなるようであり、愛嬌というよりも・先代の線で観客を笑わせたいという方向に当代の意識が行っているように思われます。そこが気になります。当代が自分の松浦侯を作れていないとまで言いませんが、何となく先代に似せたわざとらしさが残ります。まあ「松浦の太鼓」ならどうでも良いことですが、親父さんのように演じたいという意識が当代勘三郎にとって決して良くないかも知れないということを言っておきたいと思います。「期せずして似てしまった」という位でちょうど良いのです。
もうひとつ気になるのは、観客が相変わらず「楽しく笑わせてくれる勘三郎」を期待しているということです。「松浦の太鼓」は師走の・機嫌の良いご当地狂言ではありますが、勘三郎の松浦侯を見れば明らかだと思いますが、これは「楽しい勘三郎」の線で選ばれている演目です。これはここ10年くらいの勘三郎を見ていれば観客がそうなるのも仕方ないところです。だから復帰の舞台(10月大坂松竹座)も「身替座禅」・「文七元結」ということになり、来月もまた「身替座禅」なのです。勘三郎はどうしても観客が求める演目を演らねばならなくなります。まあ身から出たサビだとも言えます。しかし、気分をハイに持っていかねばならない役は今の勘三郎にはキツイはずですし、勘三郎の神経にあまり良い影響を及ぼさないでしょう。だから勘三郎は演目を慎重に選ばねばなりません。今後の勘三郎にはもうコクーン歌舞伎は他に譲り・できるだけ古典に専念してもらいたいと願います。今月昼の部の「寺子屋」の松王はその点で良い選択でした。来年は息子勘太郎の勘九郎襲名があるわけで、あまり無理せず、そうは言っても急くだろうけれども、ボチボチ身体を慣らしながらゆっくりやってもらいたいと思います。
〇平成24年1月新橋演舞場:「神明恵和合取組」(め組の喧嘩)
五代目菊五郎の肚芸
七代目尾上菊五郎(辰五郎)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(お仲)他
「黙阿弥は江戸の生世話に音楽的要素を盛り込むことで、本来写実であるべき世話物を情緒的・様式的な感覚に堕落させた」ということを言う方がいらっしゃいます。それは現行の・のっぺりとした感触の・間延びした舞台を見て、その印象だけで黙阿弥劇を推し量るからそう思うのです。黙阿弥に竹本・清元などの応用を仕込んだのは名優・四代目市川小団次であったことは別稿「四代目小団次の発想」でも触れました。慶応2年(1866)3月「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しの報を聞いて数日で憤死したと言われるほどの小団次が、世話物を反写実の・様式的なものにして表現の真実から遠ざけることを意図していたと思いますか?確かに音楽表現自体は写実から離れるものですが、これを取り入れることで小団次は写実の表現のなかに斬り込みを入れて・世話の表現をさらに彫りの深いものにしようとしたのです。映画を見て・もし画面から背景音楽を抜いてしまったら、映画がどれほどつまらないものになるか考えてみればすぐ分かることです。映画から背景音楽を抜いて台詞だけのドラマにしてしまったらぐっと写実に近づくでしょうか? リアルではあっても、画面から受けるインパクトはぐっと落ちることは間違いありません。このことを考えれば音楽的要素の起用で小団次が意図したことの意味は明らかなのです。音楽的手法が持つバロック的な・反義的な意味を正しく理解していれば簡単に分かることです。そのためにはオペラを聴くのが一番良いのですがね。(実は映画はその音楽的手法をオペラから輸入したのです。これについては別稿「歌舞伎とオペラ」 を参考にしてください。)
「神明恵和合取組(通称:め組の喧嘩)」は明治23年桐座での初演で・竹柴其水の作ですが、河竹黙阿弥・新七助筆ですからもちろん黙阿弥の世話物の流れを汲んだものです。この「辰五郎内」で竹本が使われています。黙阿弥がどのくらい手を入れたかは分かりませんが、竹本の起用に関しては黙阿弥の影響が強いことは言うまでもありません。本心では喧嘩を覚悟している辰五郎が・そのことを明かさないで・妻子とそれとなく水盃を交わしてしまう場面、ここで竹本が辰五郎の心情を語ってしまう。だから竹本の説明が役者の演技を語りをなぞるだけのつまらないものにしてしまうということを言う方がいらっしゃいます。写実の表現のなかに刺さり込む音楽的要素の意味を考えてみれば、そうではないことが分かると思います。
「辰五郎内」は、妻子と今生の別れをするという設定において黙阿弥の「極付幡髄長兵衛」(初演は明治14年10月春木座)の「長兵衛内」によく似ています。この場でも竹本が使われています。「辰五郎内」での女房お仲は夫辰五郎の真意が分 らないまま盃の水を飲まされてしまう・後で真相が分ってお仲は吃驚するという展開は・芝居として技巧に付き過ぎることは確かですが、もしこの場面で竹本がなかったとして、お仲と同様に観客も辰五郎の真意がよく飲み込めないままにこの場面を見たとして、それで芝居として十分機能するかどうか考えてみれば良いと思います。竹本のおかげで辰五郎は人知れず妻子に別れを告げようとしているという本心を観客は理解して見るから、余裕を以って役者の感情表現の綾を味わえるのです。女房はそのことを知らずに水盃を飲まされてしまうことを観客は知っているから、そこに女房の哀れさを理解できるのです。感情を浮き彫りすることが竹本の役割なのです。(注:本サイトのなかで吉之助は何度かこのことに触れましたが、役者が三味線のリズムに丸乗りしてしまう(糸に乗る)ことは歌舞伎ではどのような場合においても禁物です。別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)
逆にこのことを役者の側から見るならば、竹本が説明してくれるから過剰な表情演技をする必要が無いということです。その芸を表面的に言葉少なく・演技をしないようでいて・すべてを腹のなかに押さえ込んでする芸、つまり「肚芸」に出来るということになるのです。何を言いたいかお分かりでしょうが、「極付幡髄長兵衛」は肚芸を得意とした九代目団十郎の初演。「め組の喧嘩」での初演の五代目菊五郎の辰五郎が意図したものは、五代目菊五郎流の肚芸であったということです。肚芸というものは九代目団十郎だけのものではないということです。そこに九代目団十郎に対する五代目菊五郎のメラメラと燃える対抗意識が見えます。其水の作劇は黙阿弥に遠く及ばないのは確かだとしても、この場面の竹本はそのような意図で使われていることが明らかです。
九代目団十郎の肚芸というものは、なかなか具体的イメージが掴みにくいものです。簡単に言えば「その役になり切って心情を簡潔に表現する」ということですから、つまり西洋自然主義演劇の理念の九代目団十郎的理解ということになります。もともと歌舞伎には「役人替名」という伝統があって、芝居の登場人物と役者を同一視したがるところがありました。例えば九代目団十郎の由良助(=内蔵助)を見ながら「実在の内蔵助もかくやあらん」と観客は感じたものです。「役になり切る」ということを、役者の風格・あるいは個性の大きさのなかに役を取り込むことで役者が役と同一化する。それが九代目団十郎の肚芸であるという風に明治の観客は理解したと思います。悪い言い方をすれば、肚芸は役者と観客の或る種の馴れ合い・合意のなかで成り立つ芸という面もあります。このような形を九代目団十郎が肚芸に意図したものかどうかは分かりませんが、結果として西洋自然主義演劇の理念が歌舞伎の伝統のなかにこのような形で受容されたということだろうと思います。
そこで今月(平成24年1月)新橋演舞場の「め組の喧嘩・辰五郎内」のことですが、菊五郎の風格がそのまま役として演じる辰五郎の貫禄になって現れています。これは良い点であると思いますが、反面、役者の風格だけで持っている場という印象がします。これもひとつの古典歌舞伎の在り方であることを吉之助は認めないわけではないですが、これだとこの芝居のドラマツルギーの弱い部分が透けて見える気がします。役者の風格・貫禄だけでは肚芸の場としては十分ではないのです。肚芸というものは、演技の極まるところで息を詰めるものです。極まるところで形を決めるのではなく、息を詰めるのです。形を決めようとするから竹本の台詞を視覚的に説明しているような感じに見えるのです。息を詰めて演技して竹本にその心情を説明させてしまえば、そうすれば肚芸の場になるのです。九代目団十郎の肚芸に対して「そんなことくらい俺にだって出来るぜ」と言ってやりたかった五代目菊五郎の気概をそこに感じさせてもらいたいと思いますねえ。
九代目中車襲名の長兵衛
九代目市川中車(香川照之)(百姓長兵衛) 他
(九代目市川中車襲名披露)
岡本綺堂の新歌舞伎と言えば「修禅寺物語」など二代目左団次との提携作品が多いのはご存知の通りですが、「小来栖の長兵衛」は大正9年11月明治座で初代猿翁(当時は二代目猿之助、以下猿翁と記す)の初演です。猿翁は左団次一座の副将格でした。この時も一座の二代目松蔦や三代目寿海らが脇を固めています。ということは、この「小来栖の長兵衛」も左団次劇だということです。詳しいことは別稿「左団次劇の様式」をご覧戴きたいですが、左団次劇の特徴は急き立てるリズム感覚にあります。骨太く・不器用なところもあった左団次と違って、猿翁の場合は小回りが利いて・愛嬌がありますから、猿翁の個性に嵌めて書かれた「小来栖の長兵衛」は左団次初演作と違った軽妙な趣がありますが、例えば長兵衛が登場してすぐ・山崎の合戦で金儲けをしようとそこらをうろついていた云々という長台詞などの・早めにタタタと打ち込むリズム感覚に左団次劇の特徴が出ているのです。あるいは幕切れで長兵衛が弥太八の馬に乗って京へ向かう場面、ここで長兵衛が花道をサッと引っ込んでしまわないで ・七三で止まって大見得などして引っ込めば歌舞伎らしく・たっぷりとした芝居になって良いのに・・・などと思う方がいると思いますが、そこをしないところが左団次劇なのです。
今回(平成24年6月演舞場)の「小来栖の長兵衛」は俳優香川照之(以下中車と記す)の歌舞伎での最初の舞台ということで話題です。46歳にして歌舞伎デビューというのは異例のことで、巷間心配する声やらいろいろあるようです。歌舞伎は幼い時から芸事の修行をして・いろいろな約束事など身体に沁み込ませていかねばならぬとか。まあそういうことも確かにあると思いますが、歌舞伎は特殊な技芸であるとそう身構える必要はないと思います。新・中車が歌舞伎役者として最初の作品に「小来栖の長兵衛」を選んだのは賢い選択だったと思います。曽祖父の初演作ということもありますが、中車の個性に似合っていたのではないでしょうか。有難いことに、NHKでのスタジオ収録ではありますが「小来栖の長兵衛」には猿翁が演じた映像(昭和33年収録)が残っています。(これには若き日の三代目猿之助や藤間紫も出演していますね。)中車の長兵衛を見ると、最初の長台詞はちょっと持て余した感じはあるものの、全体に猿翁の長兵衛の口調やテンポを素直に写して、ビデオをよく研究した跡が見えました。これで良いのです。猿之助一座のアンサンブルも中車を良く支えて、結果として左団次劇の感触が見えました。この芝居は周囲が良くないと面白くなりません。
「新歌舞伎こそ難しい・下手をすれば新劇になってしまう」なんてことを言う方がいらっしゃるようです。新劇のルーツをたどれば二代目左団次が創設した自由劇場から始まることをご存知ないようですね。新歌舞伎も新劇もどちらも二代目左団次から出ているのです。ということは根を同じくした要素がどこかにあるに違いないのです。新歌舞伎を演じるならば、そこが取っ掛かりとなるのです。(このことについては別稿「サド公爵夫人を様式で読む」でちょっと触れました。)吉之助に言わせれば、新劇にすらならない新歌舞伎なんぞは駄目なのです。このことは猿翁が演じた「小来栖の長兵衛」の映像をご覧になれば分かります。猿翁の長兵衛には歌舞伎臭く粘った風はなく、サラッとした写実の長兵衛です。タタタと機関銃のように 小気味良く繰り出す台詞のリズム、これが新歌舞伎の様式なのです。いわゆる歌舞伎らしさを拒否したところに猿翁の長兵衛はあるわけです。新・中車も歌舞伎らしい演技なんぞに捉われず・自分の長兵衛をやれば良いし、今回の舞台を見る限り十分満足するレベルで演れていたのではないでしょうか。テレビドラマでの演技を見れば、このくらいは予想できるところであったと思います。変に「歌舞伎らしく・・」ということを考えずに、曽祖父の演技を素直に写したところに成功の要因があります。むしろ口上での方が緊張して表情が硬かった感じがしましたね。まあそれは心中思いやれば当然のことです。ともあれ歌舞伎役者を宣言したからには、これから頑張ってもらいたいと思います。
(H24・6・17)
四代目猿之助襲名の「四の切」
四代目市川猿之助(二代目市川亀治郎改メ)(源九郎狐・佐藤忠信、二役)、四代目坂田藤十郎(源義経)、二代目片岡秀太郎(静御前)
(四代目市川猿之助襲名披露)
亀治郎改メ四代目猿之助の襲名披露の舞台です。新・猿之助は同世代のなかでも才気煥発・技芸秀でた役者ということで、今回の「四の切」でも器用なところを見せて巧いものだし、襲名披露として十分成果は挙げていると思います。しかし、別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れましたが、「こうすれば歌舞伎らしく見えるだろ、どうだい俺は巧いだろ」という匂いがするのが ちょっと気になります。新・猿之助には「能ある鷹なら爪隠せ」と言いたいところですね。以下「四の切」において気になる点をいくつか記します。
まず指摘したいのは、新・猿之助に限ったことではないですが、「四の切」において源九郎狐と本物の佐藤忠信の二役を演じ分けようと云う意識が強いということです。そうすると本物の忠信が必然的に時代に重く傾くことになります。例えば忠信が登場してすぐ・義経に平伏して挨拶する場面、あるいは偽忠信が現れたことを知り・揚幕を見込んで下げ緒をさばく場面、ここで三味線が細かく刻むリズムに合わせて忠信がカクカクと細切れ撮影の如く動作を付けます。猿之助はこれらの場面まことに行き届いている・と言いたい所ですが、まるで糸に乗り過ぎなのです。こういう演技を人形味あってよろしいと褒める歌舞伎通は少なくないと思います(実は文楽の人形がこういう動作をするわけでもないのに)が、吉之助から見ればこれは「舞台で踊ってやがる」というような演技なのです。考えてもらいたいですが、「四の切」のなかでこれらの場面はドラマとして核心の場面なのでしょうか?例えば「熊谷陣屋」で飛び出した藤の方を止めて直実が「コワ思いがけなき御対面」という場面と比べてみれば良いです。「陣屋」の緊迫した・直実の引き裂かれた心情が見えるこの場面と比べれば、「四の切」のなかで所詮狐忠信が登場するまでの前場に過ぎない場面をこってり車輪に演ることの不自然さが分かると思います。こういう場面はサラリとやれば良いのです。アンビバレントな演技を核心の場面に限ってやるから映えるのです。時代物だからどこもかしこでも時代でやれば良いというものではない。これでは芝居の起伏が付きません。源九郎狐と本物の佐藤忠信は衣装が異なりますが、周囲の者には見分けがつかないことになっています。だから二役とも同じようにやればよろしいことです。総体に「四の切」は誰がやっても本物の佐藤忠信の場面のバランスが悪いことが多いですが、新・猿之助の場合も例外ではありません。
次に気になる点は、新・猿之助は台詞の末尾を伸ばして・抑揚を付けて転がす風が強いことです。つまり台詞を様式的に歌おうという傾向が強いということです。決めの台詞でそれをやるのは良いですが、猿之助の場合はどうでも良いところでそれが出ますね。台詞の末尾をこういう形で詠嘆で締めると、ドラマの流れは収束して・後が続かなくなるのです。基本的にはドラマの局面が途切れるところでだけ許されることです。例えば本物の忠信が「御諚の趣かつ以て身に覚へ候はず」という場面、末尾を引き伸ばして詠嘆すると・それで流れは収束してしまって、次に義経がキッとなって「黙れ、忠信」という台詞を継げなくなります。あるいは静御前に対して「てんがうでなし、大真実」と言う台詞も同じく、引き伸ばすと・ここで会話の流れが切れて、次の静の「アレまだ真顔で騙すのか」という台詞が継げなくなります。そういうことの積み重ねで本物の忠信が重く粘る感触になってくるのです。歌舞伎の台詞は歌うものだなんて思わないことです。
猿之助の狐忠信はさすが演技の斬れが良いですが、狐言葉はやはり末尾が伸びます。これも新・猿之助に限ったことではないですが、狐言葉というのは普段の人間の使わない奇妙なアクセントだから笑う観客が必ず出ます。しかし、この場面に笑いを取る要素はまったくないのです。「静さまにはナーンとなされます」、「斬らるる覚へカーツテなし」、「千年功ふる雌狐(めぎつね)雄狐(おぎつね)」などという箇所は観客を笑わせないように抑えるべきです。観客に「ちょっと変わったアクセントだなあ・・」と思わせる程度でよろしいことです。猿之助の狐言葉には観客の笑い声が多いように思います。もちろん人気役者に対する好意的な笑いではありますが、こうなるのはマズイと思って欲しいですね。「カッ」と息を入れるのはまあ良いです。(別になくても良いですけどね。ここでも観客が笑いますね。)これは気持ちを切り替えるきっかけに使われるわけですが、猿之助の気持ちの切り替えはテレビのチャンネルを切り替えるが如くの鮮やかさで、さすがデジタル世代ですなあ。しかし、気持ちの切り替えの斬れに気が行っているようで、演技に余韻が残らないです。もうちょっと息に間合いを取った方が良いのではないでしょうかね。
二代目猿翁(三代目猿之助)の「四の切」は何度も見ました。最初に三階席で汗が飛んで来るかと思うところで宙乗りを見た時はホント感激しました。「義経千本桜」全段通し上演(昭和55年7月歌舞伎座)の時の「四の切」も興奮しました。興奮は何度もしましたが、感動にはなかなか至らなかったかも知れません。源九郎狐の情愛は頭で理解していただけだったかも知れません。猿翁の「四の切」で心底感動したのは、平成12年7月歌舞伎座での「四の切」のことでした。身体が思うように動かなくなって初めて伝わるものもあるのです。猿翁だってそこまで至るのに 数百回演じているのです。芸というのは果てがないものです。新・猿之助も先は長いのですから、これからは頑張って、巧い芸ではなく・感動できる芸を目指してください。
(H24・6・17)
三代目市川猿之助(二代目猿翁):「演者の目」(朝日新聞社)
十二代目団十郎の慶喜・九代目中車の鉄太郎
十二代目市川団十郎(徳川慶喜)、九代目市川中車(香川照之)(山岡鉄太郎) 他
(九代目市川中車襲名披露)
真山青果の「将軍江戸を去る」は昭和9年(1934)東京劇場での初演で・将軍慶喜を二代目左団次が演じました。加賀山直三氏は、その時の左団次の演技について次のように書いています。
『慶喜役で、私が特にハッと胸打たれる思いをしたのは、何か愚痴めいた繰言を言ううち、心中迫るものがあり、いきなり泣き出す件であった。突然、ウウウッと噴き上げるように泣くのである。(略)あの感情の迸りから突然噴出する泣き方は(略)芝居の波の異常というか、着想外というか(略)彼以後の誰の慶喜もああいう泣き方をした人はいない。』(加賀山直三:「真山青果作品と市川左団次」)
普通の芝居の演技であると・ワアッと泣き出す場合であっても、感情が高まって頬をピクピクさせるとか・身体をブルブルさせるとか、そういう前段がまずあって、さらに感情が段階的に高ぶって行って・もう抑えが効かなくなるというところで、ついに関を切ったようにワアッと泣き出すという過程(プロセス)になるわけです。そういうのが自然な・いわば心理変化を綿密に表現した演技と思われています。しかし、逆に考えれば、これは「私はいま怒りに震えており・それが段々押さえ切れなくなっています」・・「そろそろ限界点に達したようです、いまから私は泣きます」という説明的演技でもあるわけですがね。
上記のような過程を踏んだ演技から見れば、加賀山氏の回想にある左団次の泣き方などは、唐突というか・感情の不意打ちというか、まさに「着想外」の演技ということになるでしょう。左団次には台詞を間違えると・台詞をまた最初から言い直したという逸話があるくらいで、ぶきっちょなくらいの真面目人間でした。そうした先入観があるので、前掲・加賀山氏の回想を、左団次という役者の芸風を「不器用で・無技巧で、しかし茫洋としたスケールの大きさだけはあった」みたいに読む方が少なくないようです。しかし、ちょっと待って欲しいのですが、青果は「将軍江戸を去る」を左団次にはめて書いたのですよ。青果は「突然ウウウッと噴き上げるように泣く」慶喜の演技を想定して書いたのです。こういう演技こそ左団次劇の本質なのです。そういうことを考えてもらいたいのです。そう考えないと見えるものも見えて来ません。(この件については別稿「左団次劇の様式」で詳しく論じましたから、そちらをお読みください。)
青果劇が苦手だという方は少なくないようです。その要因のひとつは登場人物がやたらに怒鳴る・すぐ泣き喚くのが、「押し付けがましい・白々しい」と感じられるせいです。登場人物の感情の迸りが観客の心にダイレクトに響いて来ません。青果劇がそうした印象に陥り易いのは、実は登場人物の心理変化を段階的に踏もうとする表現プロセスに問題があるのです。段階を踏んだつもりでしょうが、程度の大小はあっても・芝居の間中ずっと怒鳴っている・ずっと泣き喚いている印象になっています。芝居にメリハリがついてないのです。そうではなくて、感情をグッと胸に押し込んで動かない・そして「ここぞ」と思う時に感情を塊りで観客にドンッとぶつける、このサプライズこそ青果劇です。青果劇とは左団次劇のなかの様式のひとつです。
新・九代目中車の山岡鉄太郎は、最初から最後まで唾が飛びそうに怒鳴っています。言いたいことは胸のなかに一杯あるという「思い」だけはまあ伝わってくる。しかし、何を言っているのか、よく聞こえない。こういうのが「熱い演技」だと勘違いしていると思います。しかし、これは別に中車だけのことではなくて、昨今の歌舞伎の青果劇というものが大体そうです。だから中車もそういう舞台を見て青果劇とはそんなものと思っているのでしょうが、間違いです。もっと台詞を抑えて、しっかり噛み砕くように台詞を言うことです。それと始終怒鳴る発声のせいで喉をやられているようです。舞台経験が少ないようだから・腹から声を出すという基本的な修練が出来ていないということもありますが、前のめりで・打ち込みの浅い、つまり息の浅いリズムを「熱い」と勘違いしているところに本当の問題があるのです。そういうことが分かってくれば、台詞のリズムをもっと刻みの深いものに出来ます。台詞をもっと言葉がよく聞こえる・説得力のあるものに出来ます。それが出来るならば歌舞伎歴のあるなしなど関係ないことです。
団十郎の慶喜は、これは独特の味がすると云うべきです。団十郎の芸風は「不器用で・無技巧で、しかし茫洋としたスケールの大きさだけはある」という世間一般の左団次のイメージにどこか通じるところがあるので、それはそれで興味深く感じます。しかし、団十郎もまた慶喜の心理変化を段階的に踏もうとしています。慶喜は終始イライラ・ワナワナしており、それが表情にも台詞にもはっきり出ています。これでは左団次劇のフォルムとは似て非なるものです。台詞の末尾を詠嘆調に引き伸ばすのも宜しくありません。ビシッと台詞の余韻を断ち切るように言うのが左団次劇です。
別稿「左団次劇の様式」では左団次劇の台詞のリズムは頭打ちの二拍子(最初の拍にアクセントが来る)ということを申し上げました。今回の舞台で 台詞の二拍子が踏めていたのは、右近と月乃助・猿弥くらいのものでしたね。それは彼らがしっかり修行できているということもありますけれど、三代目猿之助(=二代目猿翁)のスーパー歌舞伎の台詞のリズムの基本がやはり二拍子だからです。左団次劇の伝統はどこかで確かに続いているということではないでしょうか。
(H24・11・18)
五代目菊之助初役のお三輪
五代目尾上菊之助(お三輪)、四代目尾上松緑(鱶七・後に金輪五郎)他
歌舞伎を見ていると、この芝居の主役は誰かな?と思うものが時々ありますね。例えば「妹背山・御殿」を見ると、この場の主役は誰でしょうか。お三輪か、鱶七か 。これは視点を変えればどちらでも有り得ることで別に深く考えるほどの問題ではないですが、「御殿」だけでお三輪の悲劇を見ようとすると、芝居としていまひとつ中途半端です。お三輪の登場は半ばになるし、落ち入った後は舞台から姿を消してお三輪は幕切れにいないからです。「御殿」では鱶七の方が良いところを取っています。かと言って鱶七の芝居と見ても「御殿」は完全とは思えない。ですから「妹背山・御殿」に芝居としての完結性を求めるならば、「杉酒屋」から通せとまでは言わないが、前場に「道行」を付けることが必要になると思います。
ただし「妹背山」上演史を調べてみると、道行と御殿は必ずしもセットで上演するのが常識だったということではなく、頻度としては「御殿」単独上演と半々くらいの感じのようです。六代目歌右衛門がお三輪を演じる場合でもやはり「御殿」単独のことが少なくありませんでした。吉之助としては意外なことでしたが、これにはいろいろ事情があったのかも知れ ません。しかし、予備知識がない観客が多い現在では、「御殿」上演には「道行」を必ず付けないと、観客は「御殿」のドラマが良く分からないと思います。ですからこれからの「妹背山」上演は「道行」と「御殿」を必ず通すことにしてもらいたい。そうすることで「御殿」でお三輪の悲劇がスッキリ見えてくると思います。
ましてや今回の「御殿」のキャッチフレーズは「菊之助が初役でお三輪を演じる」ということであったはずです。現に吉之助は「道行」があるとばかり思い込んで劇場に来て時間割表を見て「道行がない?!」と驚いた口で、チラシで事前確認しなかった吉之助も迂闊でしたが、菊之助初役のお三輪を楽しみにしていた吉之助にはフラストレーションが溜りました。愚痴めくけれど、「こういう上演の仕方を安直に続けていると歌舞伎からお客は離れて行きますよ」ということを松竹さんには申し上げたいですね。
それは兎も角、菊之助初役のお三輪ですが、可憐で・等身大で悪くないお三輪であって、これは良い点ですが、ツーンと来る哀れさにはいまひとつのところがありました。可哀想だが、哀れまでではないという感じですかね。これはお三輪だけのことではなく・いじめの官女も絡むことですが、じっくりいじめる・引っ張る粘った感覚が哀れさの表出のためにやはり必要なものなのです。いじめの場面は冗長に陥り易いものです(歌右衛門にもその気はあった)が、あっさりした感触になってしまうと哀れさは際立って来ない。そこの兼ね合いが難しいところなのです。
今回の舞台は玉三郎の指導を受けたと云うことですが、平成24年1月ル・テアトル銀座での玉三郎のお三輪については別稿「疑着の相を考える」で触れました。玉三郎はお三輪の疑着の相を嫉妬や怒りからのものと単純に捉えているようです。疑着の相を発現するまでの過程(これにはいじめの場面も含みます)にねっとり感覚がないと、お三輪の性(さが)の哀しさというものが正しく感知されないと思います。この人間の性(さが)というものこそ時代物の主題に太く絡んでくるものであるからです。今回のお三輪はその線なので、菊之助は「あれを聞いては・・・」の箇所を地声にちょっと太くする(これは玉三郎はしなかったこと)など工夫はしていますが、玉手御前の時のよう な思い切った変化が出来なかった(恐らく玉三郎に遠慮があったのではないかな)為に、凄みの表出までに至らなかったようです。疑着の相への段取りをもう少し見直した方がよかろうと思います。
松緑の鱶七はル・テアトル銀座での上演以来で、この時は「初役でこれだけ出来ればまあ結構」と書きましたが、二回目ならば採点基準は当然厳しくなります。豪快な太めのタッチが出せるようになってきたことは松緑にとって今後の役どころを決めるうえで貴重なことですが、鱶七においては太め一本やりでは物足らないのです。特に前半の鱶七に軽い世話の味わいが欲しい。そのためにもっと台詞を工夫すること。これが癖なのか台詞に妙なアクセントや抑揚が耳に付きますが、義太夫の練習をされたらもっと良いものになると思いますね。
(H25・3・17)
四代目松緑初役の丑松
四代目尾上松緑(丑松)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(お米)他
松緑が「暗闇の丑松」を初役で勤めるというのが今回の舞台のポイントですが、吉之助にとっては先代松緑・というより初代辰之助と言った方が実感があるので以後は辰之助と書きますが、辰之助の丑松のことを思い出します。辰之助は男性的でまっすぐな芸風で、口跡も明瞭な巧い役者でしたが、同世代で役がかち合って・良い役が回ってこない時期があって、自分の位置をうまく見出せないまま、憤懣でついつい酒に走って身体を壊して若くして亡くなりました。もうちょっと我慢して長生きしてくれていれば、親友だった菊五郎もそんなことを言ってましたが、歌舞伎界の様相も現在とは違っていたかなと思うことはありますねえ。そういうことが頭にあるせいか、吉之助の場合は、辰之助というとちょっと陰があるニヒルな役での印象が強いようです。新歌舞伎でいえば、坂崎出羽守とか・この暗闇の丑松ということになります。丑松は真面目で腕も立つ料理人で・純なところがあって女も惚れるいい男なのですが、とにかくツイてないのです。吉之助にはそんなところがちょっと辰之助とダブるのかも知れません。
ところで最初は殺すつもりがなかったお今を殺してしまった時の丑松の心情こそ「暗闇の丑松」の芝居の核心であるということは、別稿「暗闇の丑松の幕切れについて」で触れました。
(丑松)「俺には分った、ちゃんと今こそ判った。女ってものの心はそうなんだろう。亭主を助けたい、うぬも助かりたいで、怖え男に体を投げ出す・・お米もやっぱりこの伝(でん)だったんだ。(後ろ向きにお今を引き倒し、匕首でひと突きにした。)俺あ。そこが憎いんだよ。女のその心持ちが憎い。悲しい、ああたまらねえ。姉さんもそうだった、お米だってそうだったんだからなあ。」(四郎兵衛家の場)
自分の心のなかにある聖母信仰が汚されてしまったことが、丑松にはもう「たまらない」わけです。長谷川作品に共通する聖母信仰のことですが、このことを考えるには佐藤忠男氏の「長谷川伸論」がとても役に立つのですが、この本のなかで一点だけ指摘して置きたいことがあります。大の映画好きであった長谷川伸が西洋映画から聖母信仰を取り入れたということではないと吉之助は思っているのです。こういうことは江戸の昔にもよくあったことなのです。
佐藤忠男:長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)
このことは縁切り物のドラマを見れば分かります。別稿「縁切り物のドラマツルギー」でも触れましたが、惚れた女に満座で縁切りされて怒る男の心情を、「男のプライドを傷つけられたから怒る」と考えるようでは話が単純に過ぎて・ドラマにひねりがないということです。そうではなくて、縁切り物のドラマのなかに男と女の揺れ動く感情の綾がある、そこが縁切り物のドラマのひねり・面白さなのです。だいたい男というのは、自分の愛する女をやたら純化したがるところがあるようですね。男は、女から見ると虫がいいようですが、自分が愛する女は自分のことをひたすら思って・待っていてくれる・耐えていてくれると信じています。縁切りされてその信認が裏切られたと思ったから男は怒るのですが、それはプライドで怒るということではなく、それは愛し愛される者たちの真実に直結するものがあるから怒るのです。だからまさに心情の問題ということです。縁切り物はかぶき的心情のドラマだということになるのです。ですからこれを聖母信仰=マリア信仰みたいなものだと考えればこれは舶来思想ということになるかも知れませんが、実はそうではなくて、それは江戸の昔からあることです。長谷川伸はそこをちょっとお洒落な感覚で映画的なタッチでドラマを書いたということなのです。だから舶来っぽく見えるということです。お今殺しでの丑松の心理をそのように見たいと思います。辰之助の丑松は、熱い憤りを腹に込めてグッと前を睨んでひとり立つという印象でした。「凄惨でやり切れないドラマだなあ・・」という感じがしたものです。後味も必ずしも良くなかった気もします。しかし、今になってもはっきり思い出すくらいの重い心情のドラマがありましたねえ。松緑の丑松に父・辰之助の姿を重ねながら見ていたのですが、松緑の丑松はまだ憤っているというよりも怒っているという感じがあって、そういう感情が表面に出ているので観客には分かりやすいということがあったかも知れません。そういうところは世代の差かなと思ったけれど、一本気の入ったところに父の面影が見えた気がしましたね。
(H25・3・22)
柿葺落公演の「熊谷陣屋」
二代目中村吉右衛門(熊谷直実)、五代目坂東玉三郎(相模)、五代目尾上菊之助(藤の方)、五代目中村歌六(弥陀六)、十五代目片岡仁左衛門(源義経)
(第5期歌舞伎座柿葺落公演)
歌舞伎座柿葺落興行の「熊谷陣屋」は豪華顔合わせですが、役者それぞれに見るべきところあるものの、芸風が互いに噛み合っていると言えないところがあり、全体としての感銘度として前期歌舞伎座・さよなら公演の時の「熊谷陣屋」(平成22年4月)にいまいち及ばないようです。芝居はアンサンブルが大事であるということをつくづく感じます。まあこういうことは実際やってみないと、配役した時点では分からぬことです。
吉右衛門の熊谷は「日本一の豪の者」というイメージにふさわしい形容を持つ立派なものです。ただし、さよなら公演の時に指摘した通り、初代吉右衛門を継ぐというより、二代目松緑の熊谷の解釈を継ぐものであると言うべきです。そう見るならば、それなりに良いものだとは言えます。伯父甥だから似てて当然ですが、松緑の熊谷は昭和40年〜50年代の最もスタンダードな熊谷とされたものでした。吉之助も生で見ましたが、もちろん結構なものでした。吉右衛門の熊谷を見ながら松緑のこと など思い出しましたが、総じて前半において「豪の者」の印象が強い分、相模への情が薄い熊谷だと言えます。というよりも相模への情を見せるのを潔しとしない熊谷です。まあそういう解釈もあり得ることですが。陣屋に入って相模に気付き・パンッと袴の前を叩いて大きな音を出す所は、如何にも相模を威嚇するようです。相模への「もし討ち死にしたらわりや何とする」も末尾を強く押す感じであるのは、「悲しいなどとは言わさぬぞ」と決め付けるが如くである。物語も時代物らしくスケール大きくて立派ですが、相模への気遣いはあまり感じられません。この辺はそういうものだと思って見るならばさして不満は感じないですが、この「豪の者」のイメージを引きずったまま、幕切れの僧形の花道引っ込みに至ると、一転して強い泣きの演技が入るのがいかにも不自然なところも、松緑の熊谷と同様です。メソメソ感傷に浸っているくせに陣ぶれ太鼓が響くとキッと武士の性根に返ったりするのは、これから法然の 元へ赴く熊谷の心境に似合わないと思います。そういうわけで、吉之助は吉右衛門の熊谷に両手を挙げて賛成というわけではないのですが、ただ相模のクドキの最後で・相模が夫に「・・申し」と迫る場面で熊谷がぐっと相模と見返すところは、吉右衛門の表情に威嚇の風はなく、ここは夫としての気持ちの強さがよく出たところだと思います。ここは「さよなら公演」の時より良い出来でした。
玉三郎の相模は(菊之助の藤の方もほぼ同様の行き方ですが)なかなか良い出来ですが、残念ながら吉右衛門の行き方とは少々合わぬ感じがします。これは芸質の違いと言うべきでしょうか。吉右衛門の熊谷が太い筆致の楷書であるのに対し、玉三郎の相模が細い筆致で草書気味であるせいです。形容本意の吉右衛門の熊谷からすると、玉三郎は心理主義的に淡彩に感じられるでしょうが、やっていることは悪くないのです。前半、藤の方が熊谷に詰め寄る場面で「エヽこれ直実殿。敦盛様は院のお胤と知りながら、どう心得て討たしゃんした。様子があらう 、その訳を」という台詞の抑えた言い回しなど、藤の方に気を遣いながら夫への信頼が決して揺るがない女房相模の性根をしっかり押さえていて感心しますし、息子の首を抱いてのクドキにも情が感じられます。
歌六の弥陀六はちょっと線が細い感じはしますが、よく頑張っています。「逆櫓」の権四郎とか、こういう役どころでこれからの十何年この優が頑張ってくれないと、歌舞伎はやせ細って行くでしょう。これから良い弥陀六になると思います。
仁左衛門の義経は情に浸って芝居し過ぎで、吉右衛門の熊谷と噛み合ってません。台詞だけ取れば、情のこもった良い節回しであると褒める方がいそうなので言っておきたいですが、義経というのはそのような余計な芝居をしてはいけない役です。誤解ないように付け加えれば、義経は風情だけで見せる役だと言っているのではありません。義経は人格から滲み出る深い味わいが求められる難しい役なのです。「熊谷陣屋」は義経物の系譜になるものです。義経物のなかでの義経は、そこに在るだけで有難い、民衆の悲しみを癒す菩薩如き存在です。花道にいる熊谷を呼び止めて「こりゃ」と小次郎の首を見せる所で、仁左衛門の義経は熊谷の方を見ず・顔を背けます。これには驚きました。その気持ちを察するならば義経は 涙なくして熊谷を見ることはできないということでしょうか。義経が見ていると熊谷がてれるって?そんなことはないと思います。この場面で熊谷の悲しみをすくい取って癒すことの出来る人物が義経の他にいるのでしょうか。義経は熊谷の過去・現在・未来をしっかりと見詰めなければなりません。それこそが義経の役割なのです。熊谷もしっかり義経を見なければならない。「義経が我が悲しみを分かっていてくれる」、熊谷にとってこれだけが救いなのです。義経物での義経の役割を正しく理解していただきたいものです。
(H25・4・18)
柿葺落公演の「弁天小僧」
七代目尾上菊五郎(弁天小僧)、 四代目市川左団次(南郷力丸)、二代目中村吉右衛門(日本駄右衛門)
(第5期歌舞伎座柿葺落公演)
別稿「世界とは何か」冒頭において、「弁天娘女男白浪」(青砥稿花紅錦画)は世話物か時代物かという問題を取り上げました。見取りで見る時には「浜松屋」はもちろん世話物に決まっています。しかし、通しの場合であるとこれはハタッと考えてしまうところがあります。今回の第5期歌舞伎座柿葺落興行の「弁天娘女男白浪」は浜松屋から勢揃い・滑川土橋という半通し形式ですが、「弁天娘女男白浪」を時代物であるとする根拠は、時代設定が鎌倉時代となる青砥左衛門の世界だということです。それはその通りですが、「弁天娘女男白浪」は序幕が「新薄雪物語・花見」、大詰は「楼門五三桐」を丸々拝借したような・つまりパロディであるわけです。そうすると「弁天娘女男白浪」をしっかり大時代で演じてしまうとパロディにならないのじゃないのか、どこが本作のパロディたる所以であるのかな、そういうことを考えてみて欲しいのです。但し書き付けますと、パロディというものを揶揄や風刺だけではなく、もっと広範囲に洒落っ気・遊び心などを包括するものと考えてもらいたいと思います。
「弁天娘女男白浪」は文久2年(1862)3月・江戸中村座での初演ですが、この時、五代目菊五郎(弁天小僧)は18歳、九代目団十郎(忠信利平)は24歳(ともに満年齢)です。後の明治の歌舞伎を背負うふたりの名優であり、後には「新薄雪」や「五三桐」をレパートリーにすることになる彼らも、この時にはまだひよっ子。この時の興行は名人・三代目関三十郎(日本駄右衛門)をお目付け役にした青年歌舞伎であったのです。今のお正月の浅草公会堂での花形歌舞伎をもうひと回り若くした感じで想像すれば良いと思います。とすると本作で「新薄雪」や「五三桐」をパロってることは将来のための若手のお勉強会という意味合いがあったであろうし、それは必然的に大歌舞伎よりも安手な感触となったことが想像できます。下手だというのではないです(彼らは将来の名優なのですから巧かったでしょう)。そういう至らぬところも含めてすべて若さの魅力なのです。稲瀬川の勢揃いというのもそうで、名乗りのツラネで幕末のアウトローのカッコよさと言われますが・まあそういうこともありますが、つまらないコソ泥たちが一生懸命意気(粋)がっていることの可笑しさというのが本当のところだと思います。だからそこがパロディなのです。その意味において吉之助は、時代物の骨格を持つ「弁天娘女男白浪」は基本的に世話物として捉える必要があると思っています。そうでないと「弁天娘女男白浪」がパロディであることの意味が見出せないと思います.
だからと云って記念すべき歌舞伎座柿葺落興行で菊五郎(弁天小僧)・吉右衛門(日本駄右衛門)等がもっと安手に演ずべきだなどと言うつもりは、吉之助には毛頭ありません。ベテラン役者が演じる「弁天娘女男白浪」の面白さもまた格別なものです。堂々と本格に演じれば良ろしいことです。そうすると「弁天娘女男白浪」の感触は必然的に時代の方に傾斜することになります。それはやはり年期の入ったベテラン役者の肉体はそれなりの爛熟した雰囲気を醸し出しますから、そうなるのは当たり前です。大詰・滑川土橋がまるで本格の「五三桐」の如きになっても、それはそれで良い。しかし、それではどこに「弁天娘女男白浪」のパロディたる所以を見出しますかということを問いたいわけです。そのためには時代のなかに刺さり込む世話のパロディ的な意味を現出することです。まずは「浜松屋」をしっかり生世話で演じなければなりません。
そういう視点で今回の柿葺落興行の「浜松屋」を見ると、今回に限ったことではないですが、役者たちに「黙阿弥の様式美はこんなもの」みたいな思い込みがあるようで、しっかり生世話の感触が表現できているか疑問に思います。この「浜松屋」は吉之助にはねっとり時代物の印象に思われます。もっとバラ描きの感触が欲しい。平成20年5月歌舞伎座の時にも指摘しましたが、「知らざあ言って聞かせやしょう」は末尾を時代に張り上げてはならないのです。「浜の真砂と五右衛門が・・」からツラネ(長台詞)が始まるのですから、その直前の「・・聞かせやしょう」は世話に引く、だからツラネが引き立つということです。「弁天小僧菊之助たァ俺がことだ」を時代に張り上げるのは、長台詞の最後だからまあ良しとしますが、吉之助としてはここは世話に流したいところです。菊五郎の七五調はいわゆるダラダラ調で、世話と時代の生け殺し・リズムの緩急が乏しいと思います。左団次の南郷も、時代っぽくするのと、時代にするとの区別が付いていないようです。前半の南郷は時代っぽくする・つまりどこかで尻尾を出してる感じがないと面白くならないと思いますがね。全体的に型物としての芸の段取りに耽溺し過ぎに思われます。確かに「浜松屋」は手順や寸法が細かく決められています。それは五代目菊五郎の綿密な計算に基づいているわけですが、それが段取り(型)に見えたら駄目なのです。五代目菊五郎の生世話は写実を志向するものなのですから。
先ほど書いた通り、ベテラン役者の演じる「弁天娘女男白浪」が必然的に時代の味に傾くのは当然のことですが、どうやってそこに世話の技巧を差し込んでいくかという工夫こそが高等数学なのです。安手に演じるということでなく、世話と時代の生け殺しを意識的に強めるということです。それはちょっとした工夫なのですが、そこにベテランの味を出してもらいたい。そうすることで「弁天娘女男白浪」のパロディたる所以を見出すことができると思います。本稿では「浜松屋」のみ触れましたが、今回の柿葺落興行の立派な「弁天娘女男白浪」を(否定的にということではなく批評的に)醒めて見ることは、現代歌舞伎における黙阿弥の世話物の在り方を考えるうえで意味があることだと思いますね。
(H25・4・12)
柿葺落公演の「盛綱陣屋」
十五代目片岡仁左衛門(佐々木盛綱)、 六代目中村東蔵(微妙)、二代目中村吉右衛門(和田兵衛)
(第5期歌舞伎座柿葺落公演)
『僕は前から思っていますが、武智さん演出で見たい歌舞伎がひとつあるんです。それは「盛綱陣屋」なんですよ。というのは「盛綱陣屋」くらい僕はつまらない芝居はないんですよ。あれは団子(だんご)です。団子という五つのエピソードがつながって、みんな同じ大きさで、串で刺してあるんですよ、今やっている(歌舞伎の)「盛綱陣屋」は。篝火の件、微妙の件、盛綱の件・・・みんな同じ重さで、クライマックスもなければ何もないんですよ。よくあんな退屈なものをものを見てると思う。だけど原作を読んでみると、決してそんなことはない。(歌舞伎では首実検の場面を)27分やった人がいるんですってね、なんてバカでしょう。』(三島由紀夫・武智鉄二:「現代歌舞伎への絶縁状」・昭和45年2月)
三島由紀夫が武智鉄二との対談でこんなことを言ってました。確かに歌舞伎の「盛綱陣屋」の首実検は長い。今回の柿葺落興行の「盛綱陣屋」でも、仁左衛門の盛綱はまず首を見て「これは弟の首ではない、よかった、弟は無事であったか・・」というような安堵の表情を浮かべ、次に「こんな偽首に騙されるような俺ではないぞ」というような不敵な笑い、そこで傍らでじっと自分を顔を見詰めて訴える小四郎に気がついて哀れを感じて憂い顔、そこで「これが偽首ならば、小四郎はどうして自害するのか」とフッと思って不審の表情になり、やがてその意図に気が付いて「アッ」という顔をして、ここで盛綱は腹を固めて、やっと「弟佐々木高綱が首に相違ない・・」となるという 段取りです。刻々と段階的に表情を変えて、よく言えば盛綱の思考プロセスが説明的で分かりやすいということでしょう。しかし、盛綱が気が付くまでにえらく時間が掛かるのに呆れるというか、背後の北条時政にも丸見えの大芝居というか・・・イヤこれは仁左衛門さんが悪いのではなく、歌舞伎の盛綱の型が悪いのですがね。
文楽での首実検は実にあっさり終わります。それと比べると歌舞伎はバランスがちょっと悪い。核心は後の「褒めてやれ褒めてやれ・・」の場にあるのですから、山場はその後のために取って置いた方が良いのです。「盛綱陣屋」のドラマというのは、小四郎は命を捨てて「この偽首をホンモノだと言ってくれ」と必死で頼む、伯父はその心意気に感じ入っててこれを受けるという、ホントはたったこれだけの単純な心情のドラマです。この視点から「盛綱陣屋」は読み直しがされなければならないと考える点で、吉之助は三島とまったく同意見です。(吉之助が「盛綱陣屋」をどう読むかは、別稿「盛綱陣屋をかぶき的心情で読む」をお読みください。)
それにしても今回改めて思ったことは、歌舞伎の「盛綱陣屋」は、盛綱の心理よりも死に行く小四郎への愛惜の方に大きく比重が掛かっているということです。「理の文楽に対して情の歌舞伎」ということです。同じドラマでも視点が異なれば様相は当然変わりますが、歌舞伎の「盛綱陣屋」は小四郎の芝居であるなあとつくづく思ったことでした。「妹背山婦女庭訓・山の段」なども同様ですが、散り行く若い命・儚い運命という題材に対して、歌舞伎は独特のセンチメンタルな反応を示します。そういうことを感じたのは、多分、金太郎演じる小四郎がとても良かったからでしょう。見目麗しく、教えも教え覚えも覚えし・・・ホント褒めて上げたい出来でありましたね。
仁左衛門の盛綱は、若干線が細くて心理主義的なきらいはありますが、小四郎に対する情と涙が感じられる盛綱で、小四郎と相まって、如何にも泣ける芝居に仕上がりました。まあ確かにこれは吉之助が思うところの「盛綱陣屋」とはちょっと違います。違うけれども、これを小四郎の芝居と考えるならば、この情の武将盛綱は十分納得が行くものです。
ただこれは歌舞伎の盛綱の型の問題点と云うべきですが、小四郎に対する愛惜の情から翻って、甥の必死の頼みを聞き入れて我が腹を切っても良いとまで盛綱が覚悟を決める(これは盛綱の家が 取り潰されることを意味するのです・盛綱には小三郎という息子があるにもかかわらずです)に至るところへは、実はここに感情と論理のかなりの飛躍があるわけです。確かに盛綱は「かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう」と言っていますが、小四郎が可哀想だというだけでは、これほどの飛躍は生じません。これだけだと盛綱の行動がまるで受身に見えます。そうではなくて、盛綱の行動を能動的・自発的なものにするための転換点が絶対に必要です。盛綱が自分を捨て家を捨て、そこまでして貫こう・守ろうとしたものは何か。これこそ「盛綱陣屋」の核心であるはずなのです。しかし、このことを現行の歌舞伎の盛綱の型は示してくれません。ドラマが小四郎の芝居のレベルに寄りすぎているからです。これでは泣ける芝居になっても、胸にグッと来る熱い男の心情の芝居にはなりません。
首実検での盛綱の思考過程を表情の変化でどのように見せるか、歌舞伎ではそこが役者の見せ所になっています。しかし、例えば仁左衛門の盛綱の場合ならば、高綱の意図に気が付いて「アッ」という顔をしてから居住まいを直して偽証の段取りに入る最後の間合いが、吉之助の見るところでは 、短か過ぎるように思われます。間合いが短くて盛綱の腹が決まる最後の過程が見えない。そこまで説明的に思考過程を踏んで来たはずが、肝心の最後のところでのワンクッションが足りないのです。「俺はどうすべきか・・・この首を偽だと言おうか・・いや小四郎がこうまでして頼んでいることを俺がここで覚悟を決めなくてどうする!・・・エィッままよ!」くらいの芝居を、ここでもっとじっくりやっても良いのです。そうすると首実検の時間がさらに長くなりますが、それも仕方ない。これで印象はかなり変わると思います。「盛綱陣屋」を盛綱の芝居に引き寄せるために、盛綱役者はそのくらいの芝居をせねばならぬと思いますが、如何なものでしょうか。首実検を27分やったというその役者も、そんなことを考えたのかも知れませんね。
(H25・4・24)
○平成25年4月歌舞伎座:「勧進帳」
柿葺落公演の「勧進帳」九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(弁慶)、 七代目尾上菊五郎(富樫)、四代目中村梅玉(義経)
(第5期歌舞伎座柿葺落公演)
幸四郎の「勧進帳」は本公演の千秋楽で上演千百回に達するとのことです。言うまでもなく、幸四郎にとって「勧進帳」は「ラマンチャの男」と並んで非常に大事な演目です。吉之助もそのうちの・結構多くを見てきました。吉之助が見た弁慶で一番多いのも間違いなく幸四郎です。これは数多くやってきたから自然と積み重なってきたものですが、もちろん回数だけが問題ではありません。積み重なってきたところからしか生まれないものもあるわけです。昨年帝国劇場の幸四郎70歳・上演千二百回を記録した「ラマンチャの男」もそうでした。今回の柿 葺落興行の「勧進帳」を見ると、幸四郎の弁慶はずいぶんと流麗に思われて、若い頃の染五郎時代の弁慶など思い返しながら、やはり年輪を重ねて来たものがあるなあと思ったことでした。幸四郎の弁慶が智の弁慶であるという印象はずっと変わりませんし、何だか史劇臭いところがある(安宅の関の話は史実ではないわけですが)のもいつもと同じではあります。そういうところに変わりはないのですが、角々の決まりに余計な力を込めるところがなくなって・演技が滑らかに変化してきたようで、それが手に入った弁慶という印象を生んでいます。
例えば「勧進帳」のなかに散りばめられた不動の見得・元禄見得・石投げの見得などというものは、今では誰の弁慶の舞台を見てもそう思いますが、これらの見得は現代においてはそれがあるから「勧進帳」が歌舞伎十八番であったことを改めて思い出すというようなものです。「勧進帳」の弁慶が元禄の荒事の心を根底に持つということは知識としては承知していても、それを想起させてくれる弁慶は先日亡くなった十二代目団十郎くらいのものでした。そういう弁慶はもう今後現れないかも知れないとも思います。(そこは海老蔵に期待したいとは思っていますが。)これからの「勧進帳」はますます史劇風になっていくであろうし、そういう線の「勧進帳」の代表的なものが幸四郎の「勧進帳」なのです。但し書き付けますが、吉之助は幸四郎の「勧進帳」を否定的に見てはいません。それは「勧進帳」という作品のなかに間違いなくある要素で、それは明治から昭和・そして平成というなかでの歌舞伎の変遷と確実にシンクロした流れであると理解しています。(別稿「弁慶の肚の大きさ」をご参照ください。)
「勧進帳」が史劇風の感触になっていくにつれて、これらの見得は劇の内容と次第にそぐわなくなって来たと考えます。これらの見得が「勧進帳」のなかで取って付けたような感じになって来たということです。現代においてはそれがあるから「勧進帳」が歌舞伎十八番であったことを改めて思い出すということなのです。テレビで「勧進帳」を見ると、ご丁寧に「不動の見得」などと画面にテロップが付く場合が多いですね。他の演目でそんなことありますか。「ハイお約束のポーズ、これがあるから歌舞伎だよ」と云う感じなのです。こういう白々しい感じが、故・十二代目団十郎を除いて、誰の弁慶にもあった。幸四郎の弁慶もまたそうであった。
そういう流れで今回の今回の柿葺落興行の「勧進帳」を見ると、幸四郎の角々の見得は余計な力を加えず・サラリとした感じで、形はそのように決めるけれども さりげなくサッと崩す、見得のための見得ではないという感じであって、これが幸四郎の弁慶のコンセプトに実に自然な形で乗ってくる感じです。その他の場面においても、角々の表情・仕草に余計な力を込めるところがなく、気負ったようなところがなくなって来たようです。「おお幸四郎の弁慶も回数を重ねてここまで来たか」という思いがいたしました。幸四郎の弁慶がいつ頃からこういう感じになったかは断定できませんが、これは年輪を重ねた幸四郎の変化だという風に好意的に捉えたいと思います。あるいは他の時代物の役どころにおいても、幸四郎は変化していくかも知れない期待を抱かせます。
流麗な弁慶という印象は、幸四郎の台詞廻しにも現れています。謡掛かりをイメージしていると思いますが、台詞を旋律を付けて歌う傾向が強まったように感じます。これはもう少し抑えた方が良いと思います。これ以上歌う要素を強くすると歌舞伎ではなくなります。歌舞伎十八番(元禄歌舞伎)の本質は台詞劇なのです。一方、勧進帳読み上げから山伏問答では台詞から力みが抜けたようですが、逆に問答ではアッチェレランドの音楽的な流れがブツブツ切れてよく見えなかった気がします。これは菊五郎の富樫が問答で押す感じがしないのが原因のように思いましたが、問答のテンポは富樫が作るものですよ。今回の問答は弁慶主導の感じでしたね。
(H25・4・13)
十五代目仁左衛門の伊左衛門
十五代目片岡仁左衛門(藤屋伊左衛門)、五代目坂東玉三郎(扇屋夕霧)
(第5期歌舞伎座柿葺落公演、2月目)
別稿「和事の起源」で触れましたが、上方芸である「やつし」というものは貴種流離譚の「移行・試練」を表すものです。そのようなシリアスな・真面目な要素が、三枚目的な滑稽な要素と背中合わせにして出てくるところが特徴です。舞台の伊左衛門を見ていると、苦労をまったく知らない大店のボンボンで、頭も弱そうな感じですから、「試練」ということがピンとこないと思います。だから、そのようなシリアスな面をつい見落としてしまい勝ちです。
それにしても「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」と彼が言う自信はどこから来るのか。「そんなに言うなら証拠を出してみろ」と迫れば、伊左衛門は具体的なものは何も出せないはずです。それでも伊左衛門の自信は揺るぎません。伊左衛門は「そんなもん、何とでもなるわい」と心底思っています。全然悪びれずに、伊左衛門はそう思っているのです。金の苦労なんてことが、はなから頭のなかにないのです。伊左衛門の強さは、そこから来ています。それが多分、「お育ちの良さ」ということなのです。育ちの良さが全身から滲み出ていて、周囲の人間を自然に黙らせちゃうということです。
過去の仁左衛門の伊左衛門には、三枚目的要素が取って付けた感じがまだまだあったと思います。だから動きが硬い感じがしました。多分、三枚目的要素を愛嬌みたいな感じで見せようとしていたと思います。しかし、それは愛嬌と似ているようで・ちょっと違うもので、もっと根源的な「お育ちの良さ」から来る余裕と云うか、試練の苦しさをものともしない強さなのです。このことは「やつし」が貴種流離譚であることが分かれば、納得できると思います。
今回の柿葺落公演での仁左衛門の伊左衛門を見ていると、そういうことが自然に納得できます。身体の動きといい・表情といい、とても自然で柔らかです。しかも、それがそのまま「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞の裏付けになっていました。「あんさんがそう仰るのなら、そうなんでっしゃろうなあ」と思わせました。だから、いつもはちょっと退屈な気分にさせられる前半のジャラジャラしたところが、今回はとても楽しく見れました。この伊左衛門は、吉之助が何回か見た先々代の伊左衛門より良かったと思いました。ぴったりの仁に思われました。これが上方和事の面白さですね。これから仁左衛門で、他の上方和事の役も見てみたいものです。
(H25・5・9)
七代目染五郎の伊右衛門
五代目尾上菊之助(お岩)、七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(民谷伊右衛門)他
今月(7月)歌舞伎座の「東海道四谷怪談」の菊之助のお岩については別稿「お岩の悲しみ」で触れましたが、本稿では染五郎の伊右衛門をちょっと取り上げたいと思います。序幕や浪宅の印象では、どこかもっさりと冴えない伊右衛門という感じでしたねえ。線の太い悪人を出そうとして、声色を太く低めに作ろうとしています。客席に声がよく通らなくて、ボソボソに聞こえます。何かをやろうという気概もなく、何をやっても気が乗らず・いつも大儀そうという感じに見える。これは伊右衛門の一面を確かに突いていると言えます。事実、伊右衛門という男は、結果的にはお岩を裏切ったには違いないですが、お岩がああいうことになったのは、伊右衛門が知らぬ内に伊藤家の者がやったことなので、伊右衛門に言わせれば「流れでそうなっちゃったけれど、あれは伊藤家がやったことで、俺のせいじゃないも〜ん」というところが本音じゃないかと思われます。根本的な反省が欠けているのです。刹那的な生き方をした愚か者ではあるが、決して極悪人とは云えません。とすれば染五郎の伊右衛門というのは、ちょっと中途半端な感じが吉之助にはしますね。つまり、行き当たりばったりの愚か者というにしては感触がやや重過ぎて軽薄さに欠ける、強悪な人物にしては冷たさとニヒルさがちょっと足りない、そういう感じがします。
色悪の伊右衛門のイメージにこだわる向きには、恐らくこの染五郎の伊右衛門はちょっと点が辛くなると思います。色悪の伊右衛門というのは、お化け芝居としての「四谷怪談」上演の積み重ねのなかで怨霊としてのお岩に対抗すべく、伊右衛門に悪の強さを与えようとして出来上がったものです。これはもちろんそうなる必然性があってそうなったもので意味があるものですが、ただし、南北本来のイメージとはちょっと違うものです。吉之助には「隠亡堀」での「首が飛んでも動いてみせるわ」という台詞が取って付けたようで、いつも不自然に感じます。強悪な伊右衛門を志向している今回の染五郎もそんな感じですね。それまでのこの芝居のなかで伊右衛門がそんな台詞を吐くほどの意思的なギラギラした悪に見えるしょうか?「取って付けたような」と書いたけれど、この台詞はホントに取って付けたもので、初演の翌年(文政9年)大坂での「いろは仮名四谷怪談」で書き足されたものです。まあしかし、今ではこれ が伊右衛門の性格を表す代表的な台詞ということになっているのだから、是非もなしです。吉之助の伊右衛門のイメージについては別稿「軽やかな伊右衛門」をお読みいただきましょうか。
ところで別稿「十二代目団十郎に捧げる助六」で海老蔵の喉の遣い方について触れました。歌舞伎役者というのは、役作りの時に声色を作ることで役のイメージに安直に対応しようとすることが少なくありません。つまり、意識的に声の調子を高くしたり・低くしたりして声色を作るのです。これは決して良いことではありません。染五郎の伊右衛門にも、同様の問題を感じます。序幕や浪宅での伊右衛門の声が低く通らないことは前で触れました。一方、「夢の場」の伊右衛門の声は、高く細めにして客席によく通ります。恐らくこの場が色ものであるし、情緒たっぷりに甘い伊右衛門を見せようということで、そのように声を変えたのだろうと思います。しかし、同じ役のなかで場面によって声の取り方を変えるのは、役作りに一貫性がないことで良くないことです。これはどちらかにすべきです。というよりも、染五郎の本来あるべき声の方で統一すべきです。結局、その方が染五郎の個性に基づく説得力のある伊右衛門が作り出せるはずです。そういうことを考えてもらいたいと思うのです。今回の染五郎の伊右衛門は、結構良いところを突いて悪くないと思いますが、今回はファウル・チップというところでしょうか。再演を期待したいですね。
(H25・7・28)
十五代目仁左衛門のいがみの権太
十五代目片岡仁左衛門(いがみの権太)、五代目中村歌六(弥左衛門)他
仁左衛門のいがみの権太が、とても良い出来です。最近は型の画一化が進んでいて、誰がやっても手順は大体同じ、違いはちょっとした個性・風味の差みたいなもので、 歌舞伎の舞台を見て型の違いを楽しむなんてことは減ってきた・というのが正直なところかと思います。江戸前と上方の型の違いから云えば、「鮓屋」の権太・「六段目」の勘平などの比較は興味深い ものがありますが、実際にその違いを目にする機会は限られています。我々がふだん東京で見る「鮓屋」は音羽屋型の権太で、これはスッキリとした江戸前の権太です。一方、上方型の権太は原作に近い野暮ったい「ならず者の権太」です。その意味で仁左衛門で上方型の権太が東京で見られるということは嬉しいことです。
ただし正確に云うならば、仁左衛門の権太の型は、二代目延若の型をベースにして、独自の工夫として音羽屋型(江戸前)の感触を取り入れたものです。つまり折衷型ということ なので、純粋な意味での上方型ということではなさそうです。仁左衛門の仁からすると、むしろ音羽屋型の権太の方が仁であるくらいだから、上方型の権太の写実味とおかし味を併せ持ちながら、これを仁左衛門のスッキリした持ち味において処理したところに、今回の成功があると言うべきかと思います。しかし、仁左衛門は上方芸の本質をしっかりつかんで演じています。上方芸の本質とは、 その合理性ということです。(注:ここでは一応、上方芸を大阪の芸に限定して論じています。)「大阪の芸」と云うと、東京の人は「こってりとしつこい」芸をすぐ想像してしまうと思います。それは上方漫才あたりを連想するからでして(お里が枕をふたつ持ち出して「おお眠む、おお眠む」などと言うのはちょっとそんな感じではありますが)、実は上方の芸の本質は意外と「すっきり・あっさり」なのです。上方の型は理屈本位で、その段取りに納得できるところが多いのです。単刀直入にドラマの本質に斬り込んで行く、そんな感じがします。大阪人はまどろっこしいことが嫌いなのです。この辺は吉之助は関西生まれであるからよく分かるところです。
音羽屋型であると権太の鮓桶の取り違えが偶然のことに見えますが、これも上方型では権太が間違えても仕方がないように段取りがしっかりと仕組まれています。(弥左衛門がそれと知らずに鮓桶の位置を変えてしまいます。)首実検の場面で、松明の煙が「煙い煙い」と言って権太が頬に流れる涙を拭く仕草も、とても自然に描かれています。権太が縛られた小せん・善太を見送る場面もじっくり描けています。目で妻子の姿を追いながら耐え切れなくなって下を向いて突っ伏してしまうのは、権太の気持ちがよく分かって、こちらもツーンとさせられるところです。また、この後、権太が父親に真相を話そうと立ち上がったところを刺される手順も、実に自然です。しっかりと伏線を仕組んでいて、原作が深く読み込まれています。これは上方型が原作の人形浄瑠璃の感触を残しているからだとか、作品に出てくる土地や風俗のリアル感が強いからだとか、そういうこと ももちろんありますが、ドラマの合理性への意識が強いということなのです。
結果として、権太が身替わり行為に意思的に突き進むドラマとして、一本筋が通って来るのです。観客にあまり余計なことを考えさせない。横道にそれたことを考えさせない。権太は所詮犬死であったという ことを書いている歌舞伎の解説本は多いですが、これは「鮓屋」の読み方としてドラマに正対した読み方とは言えません。合理的にスッキリと筋の通った描き方をするならば、ドラマは正しい姿を無理なく見せるものです。つまり、「 鮓屋」の場合ならば、これは弥左衛門と権太という・父と子のドラマであるということです。放蕩息子が最後にひとつだけ良いことをして父親に認められて死んだということです。仁左衛門の権太と歌六の弥左衛門は、「鮓屋」のドラマの本質をしっかりと見せてくれました。
(H25.・10・8)
七代目菊五郎の狐忠信・四代目梅玉の義経
七代目尾上菊五郎(佐藤忠信・源九郎狐二役)、四代目中村梅玉(源義経)、 五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(静御前)
「四の切」と云えば、世間では宙乗り付きの澤瀉屋の型が定番になった感があります。「四の切」と云えば、まず澤瀉屋ということになると思います。思い返してみれば、吉之助も二代目猿翁(というより三代目猿之助と呼んだ方がまだまだ実感があるが)で見た狐忠信の回数が一番多いわけです。確かに澤瀉屋型はなかなか良く出来た型です。見た目が派手だし、狐忠信があちらから出て来るか・こちらから出て来るか、サービス満点で見物を飽きさせません。吉之助も、三階席の汗が飛んでくるかと思うような席で猿翁の宙乗りを初めて見た時の感激は今も忘れられません。もう四十年くらい前の話です。その後、音羽屋型の「四の切」を見た時には、ずいぶん地味な感じに見えたものでした。まあ最初のうちは誰でもどちらの方が面白いかとか・どちらの方が見た目が良いかとか、そんな視点で型の比較をしてしまうものです。観劇歴を重ねてドラマが身体に入ってくれば、その型がどんな意図(つまり解釈)のもとに練り上げられてきたものか、それぞれの型の良さがだんだん分かって来るものです。以下の文章は傍らに澤瀉屋型を置いて書いているつもりはありませんので、音羽屋型のことだけ書いているとご理解ください。
「川連法眼館」の場を歌舞伎では「四の切」(四段目の切場の意味)と呼びますが、正確にはこれは四段目切場ではなく端場です。四段目にはこの後に義経が横河覚範を能登守教経と見破り・安徳帝を託して・再会を約する場面があって、この場がホントの切場です。「千本桜」序段で知盛・維盛・教経が偽首であったという大胆な謎があって、二・三段目に続き、四段目で教経が実は生きていたという三番目の謎が明かされます。これが四段目の本筋ですから、「千本桜」の大筋からすると狐忠信の件は前座です。もちろん芝居とすれば見せ場であるから 格として切場と変わらないわけですが、後半の教経の件をカット して狐忠信の件だけ抜き出して見せるとすれば、この場をどのように処理すべきだろうかということは、ドラマ的に結構大事な問題を含んでいます。
『「(千本桜)四段目」で親子の情だの何だのと言うのは、私は違うと思うんだ。化かされのああいうものが面白いんだから、どこまでもケレン芝居で、もう眠くなる時刻なんだから、あそこまでくれば浮かせて見せないと。狐がいくら人間の情を見せたって、人間はそんな同情するわけにはいかないんだよ。(狐が擬人化されていると言うが)それは見ている方がそういう風に理屈をつけているわけなんでしょうけど、そうでもして見なきゃ見られないということになっちゃうから、一応、人間の情を写して見せるんだけど、それには限度というものがあるから、あんまりリアルにその情を見せると興醒めしてしまう。程度の問題ですけどね。』(郡司正勝:合評「三大名作歌舞伎」・歌舞伎・研究と批評・第16号)
ここで「川連法眼館」のケレン要素と狐の情の描写の兼ね合いが問題となってきます。親を慕う源九郎狐の情・これは肉親に見離された義経の寂しい境遇と対極にあるもので実はとても気になるテーマですが、「千本桜」の歴史観(つまり平家物語・あるいは義経記の世界)から見ると、それさえ淡く小さなエピソードに見せてしまうような、もっともっと大きな歴史の律の存在を、ここで考えたいと思うのです。そういうものを傍らに意識すると、「川連法眼館」に程良いサイズを見出すことが出来るのではないかということを考えます。ことさらにケレンの要素を主張しなくても・あるいは狐の情を強調しなくても、芝居はあるべき姿を自然に現すに違いありません。
大事なポイントは、義経が初音の鼓を源九郎狐にあげてしまうことにあります。芝居を見ると義経は源九郎狐の情に感じ入って初音の鼓を渡すように見えると思いますが、実はそうではありません。そこに義経の重大な決意が隠されています。それは初音の鼓に託された後白河院の邪悪な意図( 兄頼朝を討てとの院宣)を義経が拒否することを意味しているのです。しかし、義経にとって、この決意は公にされてはならないことでした。(別稿「その問いは封じられた」をご覧ください。)この時点で義経はひとり黙って「千本桜」のフィクションの世界から本来の「義経記」の世界に戻ろうとしているのです。
「川連法眼館」は端場ですから、「千本桜」のなかの淡く小さなエピソードに過ぎません。その意味においてこの場は端場にふさわしい軽さを持たなければなりません。しかし、そのような軽さを持ちながら、実はこの場が描いていることは「千本桜」のなかでも結構重い意味を持つわけなのです。ですから、歌舞伎でこの場を「四の切」と呼ぶのはそのような意味で呼ぶのかどうか分かりませんが、もしそうであるならば、ああなるほどと納得出来る気がするのです。その重さを観客に悟らせてはならぬということなのです。それは源九郎狐に関与しない事柄なのですから。まったく「千本桜」における義経 とは、この宇宙空間のすべてを満たし・物質に質量を与えたという・あのヒッグス粒子のような存在なのです。折りしも、先日、ヒッグス理論が本年のノーベル物理学章を授賞しました。実にタイムリーな考察ですね。今月(平成25年10月歌舞伎座)での「川連法眼館」は、そのようなことをごく自然に実感できる舞台でありました。菊五郎は、まず前半の本物の忠信に安定感があります。これがしっかりしているから、無理に二役を描き分けようとしなくても、後半の狐忠信との対照が自然に付いてくるのです。一方、狐忠信はとても可愛らしい。観客に媚びる感じではなく、子狐の愛らしさが自然に出ています。ケレンでの菊五郎の動きにはちょっとハラハラする場面もあったのは確かですが、そんなのドラマに関係ないということが改めて確認できたことも嬉しいことでした。
菊五郎の二役も素晴らしいですが、これに対する梅玉の源義経がこれまた素晴らしいのです。ふたりとももはや若くはない。派手さはないし、むしろ動きは抑制されている くらいだけれど、内面から滲み出る芸の深みがドラマに相応のサイズを与えています。芝居が決して重ったるくならず、端場にふさわしい軽さを保持しながら、それでいて人がこの世に生きることの重さをしっかり感じさせるドラマに構築できています。菊五郎の狐忠信も・梅玉の義経も、吉之助は彼らの若い頃の舞台を見ましたが・その頃を思い出して、年期を積んだ芸というのはこういうことを言うのであるなあ・彼らもこの域まで来たのだなあと、改めて感じ入りました。吉之助にとっても、これほどバランスの良い「川連法眼館」を見たのは、初めてのことでした。長く芝居を見続けて来て良かったなあと思うのは、こういう舞台に出会った時ですねえ。(H25・10・13)
七代目菊五郎の六段目・勘平
七代目尾上菊五郎(早野勘平)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(お軽)他
別稿にて平成19年2月歌舞伎座所演の勘平に触れていますが、久しぶりの菊五郎の勘平を見て、「忠臣蔵」の六段目の音羽屋型はよく出来ているなあということを、改めて実感しました。確かに音羽屋型 の六段目は「舅与市兵衛を殺したのは誰か」という問題を巡る誤解のドラマ、周囲は勘平がやったと思っているし・本人もそう思い込んでいるというドラマであり、「勘平は誤解を受けて腹切る破目になって可哀相だけど・最後に仇討ちの仲間に入れてもらって良かったなあ」という感じで納まるので、吉之助なんぞは偏屈ですから「然り・・だが本当にそれで良いのか・・」という疑問が 乏しいなどとイチャモン付けたがりますが、まあ実際、ドラマの大筋としてはそんなところなのです。大して的ははずれてはいません。「菅原」の桜丸でもそうですが、歌舞伎は滅び行く若者の儚い運命に限りない愛情 と涙を注ぎます。「勘平を生かせて仇討ちに行かせてあげたかったなあ・・・」という観客の思いは、理不尽な運命の仕打ちに対する怒りにどこか通じるものがあるからでしょう。
菊五郎の勘平ですが、丸みを帯びたふっくらとして、型を手順として感じさせるところがない・つまり型臭いところがない演技で、すみずみまで手に入った感があり、そうしたところは前回の印象と変わりありません。しかし、今回の菊五郎の勘平で大いに感じ入ったのは、演技が義太夫と一体になるいくつかの場面、例えば二人侍登場の直前の義太夫「身の誤りに勘平も、五体に熱湯の汗を流し、畳に喰ひ付き天罰と、思ひ知つたる折こそあれ」というところです。自らの悲運・やりきれなさ・自分に対する怒り、そういった感情が一度に ドッと勘平に押し寄せます。そういうところが実に巧い。
しかし、吉之助はここで菊五郎の演技に「糸に乗った演技」などという陳腐な表現を使いたくないのです。役者は人形ではないのですから、義太夫に人形が操られるが如くに演技することは絶対しないという考え方は昔の役者の意識のどこかに強くあったのです。菊五郎の勘平が、この場面で見せた演技はそういう ものとは次元が違うもので、演技が自然に流れるように写実であるのに、なおかつ演技から生まれ出た義太夫という音楽によって役の感情がより印象深く浮き彫りにされ る、そのような感覚でありました。写実(リアル)であり、それでいて反写実である、そのバランスの配合が絶妙に良いのです。何だかオペラを観ているような気分になりました。まことに平成歌舞伎の名品と呼ぶにふさわしいものであったと思います。
こうして六段目を見直してみると、勘平は刀を腹に突きたてる段取りなど歌舞伎は文楽とかなり変えているのですが、「勘平を生かせて仇討ちに行かせてあげたかった・・・」という 視点に沿って再構築して行くと、音楽的な流れから見てもこれは妥当な処置であったということが 納得出来ます。六段目の音羽屋型は、義太夫狂言という音楽的構造をとても大切に扱っていることが改めて実感できました。
(H25・11・10)
二代目吉右衛門の七段目・由良助
二代目中村吉右衛門(大星由良助)、九代目中村福助(お軽)、 四代目中村梅玉(平右衛門)他
歌舞伎の由良助の名優の芸談を読むと、「四段目の由良助より・七段目の由良助の方がはるかに難しい」ということがよく言われています。遊興三昧の由良助の演技の・柔らか味のどこに仇討ちの本心をチラリと見せるか・ということが、歌舞伎の由良助の仕事であるとされてきたわけですが、腹で勤めれば良い四段目の由良助と比べると、七段目の由良助はこれがなかなか難しい。今回(平成25年11月歌舞伎座)の七段目での吉右衛門の由良助を見ると、なるほど七段目の由良助には難しいところがあるのだろうなあということを思いますねえ。それはそうと吉右衛門は歌舞伎座再開場以来連日のお勤めでちょっとお疲れ気味の感じがします。聞くところでは体調は決して万全ではないそうであるし、しばらくゆっくり静養させてあげたい気がしますが、そこのところを割り引いても、今回の七段目の由良助はちょっと生彩が乏しかったようです。前回見た時と比べて出来が良くない印象は吉之助の座席が違ったせいもあるかと思いますが、酔態の時の台詞が通らなくて聞きづらいせいです。酔態の時と・正気の時の由良助を二面で描き分けようとして、声色を仕分けています。これがよろしくありません。
昨今歌舞伎役者は役の性格を描き分けるのに、声色の変化で安直に対応しようとすることが多いようですが、これは良くない傾向です。吉右衛門は実事を得意とする役者 だと思います。線の太い・実直な役をやらせれば随一であるということは、誰しも認めるところです。今回の由良助でも、正気の場面では声が太くしっかりして・客席に声がよく通っています。だったら酔態の場面でも、この声でやれば良いのじゃないの。酔態の声を高く柔らかく作ろうとして、却って作り物の嘘に落ちている。声色で変化を付けるのではなく、 口調で変化を付ければ良いのです。酔態の時と・正気の時の由良助の役の二面性をしっかり仕分けようなどと考えるから、おかしなことになります。これらは由良助というひとりの人物を右から見たのと・左から見たのとでは違って見えると云う程度のもの、つまりどちらも同じ由良助だと考えた方が良いのです。吉之助が七段目の由良助で思い出すのは何と云っても初代松本白鸚(つまり吉右衛門の父上)でした。白鸚はこんな声色の使い分けはしませんでした。しっかり自分の声で通していたと思います。
別稿「七段目の虚と実」で触れましたが、柔らか味のどこに仇討ちの本心をチラリと見せるか・というのが、歌舞伎の由良助の仕事であるとされています。それも分からないことはないですが、吉之助は歌舞伎の由良助の演技ベクトルは逆でありたいと思います。つまり、その本心になるところのギラリとした刃(やいば)・仇討ちの大望を内に秘め・いかに柔らかく嘘で隠してみせるかという演技ベクトルです。逆に言えば衣の裾から絶えず刃の光がチラチラせねばならない。これを由良助の仕事にしたいと思います。そうすれば由良助は実事をベースとした役となり、比較的処理しやすい役となるわけです。吉右衛門の仁ならば、七段目の由良助はその線で行った方がはるかに腹の据わった良い出来になるはずです。
例えばお軽と身請けの相談をし・「嬉しそうな顔やいわい・・」でパッと扇子を掲げて憂いの表情をする、ここは由良助の正気を垣間見せる大事な箇所ですが、ここは扇子を掲げて憂いの表情を瞬間的に見せて、すぐにそれを柔らかさのなかに消してしまわねばなりません。実事 をベースにしていれば、さりげなくそれが出来るのです。柔らか味をベースにした場合には、嘘事のなかに本心をどう表出するか・そこが見せ場だという演技ベクトルになって、そこに重点が置かれることになる。吉右衛門は憂いの表情で目をしばたたかせて「ああ可哀想な・・」という思い入れが、ちょっと長過ぎます。分かりやすい演技だけれども、こういうところは抑えてもらいたいのです。
今回の七段目が全体的に地味な感じがするのは、酔態の由良助が映えないせいもありますが、平右衛門(梅玉)とお軽(福助)が同様に台詞の通りが良くないせいもあります。梅玉の平右衛門は手堅いけれど、もうちょっと派手さが欲しいところです。この兄妹が芝居をジャラジャラと楽しくしないと、 七段目は浮き立ちません。特に福助ですが、高音がかすれて台詞が聞きづらい。こんな声の人ではなかったと思いますが。来年3・4月の七代目歌右衛門襲名に向けて発声のチェックをされた方が良いように思います。このままではちょっと心配な気がします。
追記:13日より福助休演。
(H25・11・4)