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京鎌倉の運定め〜「盛綱陣屋」をかぶき的心情で読む・その1

〜「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」


1)家の名誉・武士の名誉

「近江源氏先陣館」はその題材を大坂冬の陣(慶長19年・1614)に借りているのはご存知の通りです。この戦いで真田信幸・幸村の兄弟は徳川方・豊臣方の敵味方に分かれて戦いました。(信幸は後に「信之」に改名、「幸村」は後に講談などで使用された名前でして・正しくは「幸繁」と言います。本人が幸村を名乗ったことはないそうです。しかし、本稿では便宜上、信幸・幸村の名称を使用します。)

真田兄弟が敵味方に分かれるきっかけは関ヶ原の戦いの直前、慶長5年(1600)7月21日にさかのぼります。石田三成から豊臣方に加わって欲しいとの書状が下野犬伏の陣にいる真田昌幸のもとに届きます。昌幸は信幸・幸村のふたりの息子を呼んで、三人で真田家の去就を話し合います。その内容は分かっていませんが、この話し合いの結果、昌幸・幸村は豊臣方に、信幸は徳川方につくことになります。しかし、これは喧嘩別れしたということではなくて、お互いの立場・考えを理解した上での合意の別れでした。信幸は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を嫁にしていましたから、徳川家につかねばならない理由がありました。一方、昌幸は家康との相性が悪かったそうです。また、天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の合戦は家が滅びるか・あるいは家が一気に大きくなるかという大きな賭けでした。リスクは大きいけれど勝てば恩賞が大きい豊臣方についたのは戦国を生き抜いた老将・真田昌幸らしい選択であったとも言えます。

このように親兄弟が敵味方に分かれて戦うということは戦国の世においては決して珍しくないことでした。どちらが勝って天下を取るかが分からない以上、双方に子供を付かせれば・どちらかが生き残って・真田の家は存続するであろうというのが、小大名のギリギリの選択であったわけです。

当時は幕府のお達しにより歴史上の事件や人物をそのまま劇化することが許されていませんでした。特に大坂冬の陣・夏の陣となれば・その劇化は至難なことです。そのために「近江源氏先陣館 」では世界を鎌倉時代の架空の戦いに設定を借りています。まず近江の国・佐々木家では、十三年前にある口論があって弟高綱は家を出てしまい、その後、盛綱・高綱兄弟は付き合いがないことになっています。したがって、お互いの子供の顔も見知らぬままです。(以上が史実の慶長5年の下野犬伏の陣での真田親子兄弟の分かれに相当します。その13年後が大坂冬の陣になります。)芝居では鎌倉将軍・源頼朝には正妻北条政子との間に実朝、京都在住の側室宇治の方との間に頼家というふたりの子供がいましたが、このふたりが対立関係になり・鎌倉方と京都方が争う戦争になるという大胆な設定がされています。鎌倉方は実朝の祖父に当たる北条時政が総大将であり、盛綱は鎌倉方の武将です。一方の京都方は頼家を総大将としており、浪々の身であった高綱が作戦家として迎えられています。こうして兄弟が敵味方に分かれて戦うことになります。

以上のことで分かる通り、佐々木盛綱=真田信幸・高綱=幸村であり、北条時政が徳川家康に擬せられているわけです。「盛綱陣屋」では時政登場を告げる竹本の歌詞に「一陽の春を待つ平時政」とあります。北条氏は平氏の流れですから「待つ平(たいら)」、すなわち松平=徳川を暗に示しているのです。

こうして敵味方に分かれて戦う兄弟の気持ちは如何なるものでしょうか。互いに刃を合わせるような破目になりたくないという気持ちはもちろんあったと思います。互いの無事を祈るという気持ちもあったでしょう。しかし、何より大事なことは家の名誉を立てる戦功を挙げることです。そして、敗れる時には家名を汚す未練な振る舞いをせず立派に死ぬことです。勝負は時の運、勝つか負けるかが問題ではないのです。家の名誉をどう立て・どう守るか、お互いにそこのことを気に掛けつつ・兄弟は戦うわけです。それは武士のアイデンティティーの基盤が「家の名誉」にあったからです。

「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」の佐々木盛綱の性根を考える時、思いを致さねばならないのはそこのところです。盛綱が心を砕いているのは、兄弟のどちらが勝ち・どちらが負けようとも佐々木の家の名誉を守りながら戦い・互いに家の名誉を汚さず立派に死ぬかです。盛綱は自身にその覚悟がはっきりとあると自認しています。盛綱の心配するところは弟・高綱にその覚悟があるかということです。高綱が子供への未練に負けて結果的に佐々木の家名を汚すような未練な行動に走らぬか、それが佐々木の家長として盛綱が気に掛けるところです。これが「陣屋」のドラマでの盛綱の性根です。

九代目団十郎は最も嫌いな役として盛綱を挙げて、次のように言っています。

「われら生来最も嫌いなる役というは「布引」の実盛と「近江源氏」の盛綱となり(中略)然るに件の盛綱と云える男、北条時政に仕え居りながら当時の武士が忠義の為には骨肉を屠(ほふ)るという勇気もなく、おのが主君を欺 (あざむ)くに非常なる苦心を為すのみか、欺きたる後その罪を悔いて切腹でもするかと思えば平気な顔をして生きながらえて居るなり(中略)君を欺き、兄弟なりとも敵と内通して恥じる色なきは武士にあるまじきことなり」(九代目市川団十郎・「最も嫌いな役」・「団洲百話」)

考えてみれば「寺子屋」の松王だって現在の主人である藤原時平を裏切っているのだから盛綱と同じようなものです。それでいて団十郎は松王の方は演じているのですから、団十郎もどのくらい確固とした哲学を持っていたのかという疑問は確かにありますが、まあ、そう深く考えたわけでもないのでしょう。 団十郎は誰よりも時代の空気を取り込んでいた役者ですから当時の倫理感覚として盛綱は許せなかったということかと思います。しかし、盛綱に関して言えば団十郎にはやはり誤解があると思います。

「近江源氏先陣館」を検討していけば、盛綱の性根は「家の名誉を守ること」にあることが分かります。家の名誉は武士が命を掛けるものの拠り所です。そこにおのれが武士であることのアイデンティティーがあるのです。本稿ではこのことを検討していきます。


2)思案の扇からりと捨て

「近江源氏先陣館」第7段・坂本城の場では、盛綱は敵陣の坂本城に単身乗り込んで、高綱に「兄弟弓を引き合うも武士の習いとは言いながら天の道に背くもので、いずれが討たれても父尊霊の魂魄悲しみはいかばかり、それを思えば何と刃が合わされよう」と言い、まず盛綱 から降参の手引きを申し入れますが、高綱が怒って盛綱をなぐりつける場面があります。高綱は次のように言っています。

「凡そ弓取の操はな、善にもせよ悪にもせよ一度頼まれたる詞を変ぜず、危きを見て命を捨て二君に仕へぬを道とする事犬打つ童まで知る所、一旦鎌倉に味方しながら今さら旗色の悪しきを感じて生面下げて降参とは、腰抜けの犬侍、兄弟の縁切った、それとも御辺まこと高綱が兄ならば、その腐った根性を改め、いよいよ敵味方となって戦場にて四郎左衛門高綱が首取って見せうとお云やれ、それこそ誠の兄者人、有難く存じ奉らん」

実は盛綱は北条時政に命じられて、高綱の心底を探り・味方に引き入れようとする謀り事で・わざと降伏を申し込んだのです。城を出た盛綱は高綱の義心に今更ながら感心して次のように言っています。

「イヤモウ弟高綱が義心は鉄石、某(それがし)も北条殿の御頼み、何とぞ高綱を鎌倉へ味方させんと他所ながら心底を探り見たれども、いかないかな二君に仕える所存のない事、しっかりと錠が下りました、とてもお手に入らぬ高綱・・・」

この時点で盛綱は弟高綱と後顧の憂いなく戦えることを心中誓ったに違いありません。しかし、この後の戦いで事態が一変してしまうのです。高綱の一子小四郎は初陣で奮戦しますが、同じく初陣の盛綱の一子小三郎に捕われてしまうのです。盛綱にとっては息子が初陣で戦功を挙げたのは嬉しいことですが、捕われたのが甥の小四郎であったのです。そして、ここから第八段・「盛綱陣屋」が始まります。「盛綱陣屋」は捕われた小四郎をめぐる父高綱と伯父盛綱のドラマです。

「盛綱陣屋」には高綱は全く登場しませんが・常に高綱の存在を背後に感じていなければなりません。盛綱が思案する所は、息子小四郎が捕われになったというこの事態に父である高綱は何を考え・どういう行動に出るかということです。主人時政は人質の小四郎を餌に高綱を鎌倉方に寝返らせようと謀ることは必定です。もしや父親としての情に負けて判断を誤りはせぬか。それは武将としての高綱の名を汚し・佐々木の家名を汚すことにもなるのです。弟高綱に武士の道を誤る判断だけはさせてはならない、それが盛綱の気に掛けるところです。盛綱はしばし茫然と思案にくれますが、『軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て』思い立ったように母微妙に孫の小四郎を今宵の中に手に掛けて殺して欲しいと頼みます。

『迷ひの種の我小四郎一時も早く殺して仕舞へば、弟が義心猶々鉄石、是ぞ兄弟弓矢の情、と有って我手にかくる時は主君北條の命に背き、稚な心にこの理を弁へ自身に切腹するならば我は油断の誤りばかり、兄が義も立ち弟が忠も立つ』

これが盛綱の出した結論です。この結論は厄介者を一刻も早く葬ってしまおうという安易な結論ではありません。散々の思案のあげく 甥を死なせることは忍び難いことではあるが・弟の忠義を貫かせるためにはやむを得ないという苦渋の選択なのです。甥を死なせることが「情」だという武士の論理は一体何であろうかと盛綱は呻吟(しんぎん)するのです。

『現在の甥が命、申し宥めて助くるこそ情ともいふべけれ、殺すを却って情とは情なの武士の有様や。いかなれば兄弟敵味方と引別れ、今朝の矢合せに敵は甥なり味方は我子、肉親と肉親の剣を合す血汐の滝、修羅の巷の攻太鼓、胸に磐石こたゆるつらさ、弓馬の家に生れし不祥、コレ聞分けてたべ母人」と事を分けたるものがたり』

この場面における竹本の「盛綱は只茫然と、軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て」という詞章が非常に重要です。ここに盛綱のどれほどの思案苦慮があったかが表現されねばなりません。この部分ですが ・義太夫では「思案の扇」でグッと息を詰め「からりと捨て」を言うまでに通常より大きな間(ま)がありますが、これを「捨て間」と称します。「盛綱陣屋」を初演した鐘太夫は間(ま)による心理描写を多用した太夫です。

どういうのが「捨て間」かと申しますと、例えば同じく鐘太夫が初演した「太平記忠臣講釈・喜内住家」における「頼みましょうと家来が案内。おりえ誰やら見えたぞや」という部分。「家来が案内」で息を詰めて、これを三味線が寂しくツーンと受けて、そこから老母が「おりえ誰やらみえたぞや」となる・その長い間のなかに貧家の寂しい空気が伝わってきます。あるいはこれも鐘太夫の初演である「本朝廿四孝・十種香」において八重垣姫が勝頼を見つけて取りすがろうとして・勝頼に自分は新参の花作りであるとたしなめられて「ムム何と言やる」という部分。「ムム」と言って息を詰めて・「何と言やる」という長い間に、目の前にいる男性が勝頼でないとは信じられないという姫の思いが伝わってきます。このように「捨て間」とはその息を詰めた間合いのなかに・万感の思いを込めるものです。

同様に「盛綱陣屋」の「思案の扇からりと捨て」でも・「思案の扇」と「からりと捨て」の捨て間のなかに、熟考に熟考を重ねたあげく・万策尽きた・これ以上に最善の策はあり得ないという盛綱の苦しい決意が表現されているわけです。そして一端決めたからには・どんなことがあっても実行せねばならないのです。盛綱の肚は完全に固まっているのです。この詞章が重要なのは「佐々木の家名を守るためには捕われの小四郎は生かしておくわけにいかない」という 絶体絶命の状況をこの詩章が明らかにしているからです。この状況は盛綱の立場から見ても・高綱の立場から見てもまったく同じです。ここから「盛綱陣屋」のドラマが始まるのです。


3)首実検における盛綱

ここで盛綱の性根をもう一度確認しておくと、盛綱は弟高綱が我が子への情に迷い・未練な行動に走って佐々木の家名を汚しはせぬかということを気に掛けています。そのために非情だが・捕われの小四郎には死んでもらわねばならぬ。盛綱は考え抜いたあげくにそのような苦渋の決断を下したということです。

状況は盛綱の心配した通りに推移していきます。和田兵衛の来訪、高綱妻篝火が密かに館を訪ねてくるのも・高綱側の動揺を示しているように盛綱には思われます。そこへ高綱が突然出陣して・時政に見参と死に物狂いに戦っているとの報が入ります。「ハヽア南無三宝しなしたり、さしも抜からぬ弟高綱の子故の闇に心くらみ、謀(はかりごと)に陥たるな」と盛綱は嘆息しますが、やがて高綱戦死の報が入ります。残念ながら時既に遅く・高綱は時政の謀略に陥り・武将としての冷静さを失ってしまったのです。盛綱は暗澹たる気持ちのなかで高綱の首実検を行うのです。首実検の場の詩章を見ますと次のようになっています。

『三郎兵衛(盛綱)承り大将(時政)に一礼し、無慙の弟(高綱)が死首に是非もなき対面やと呑込む涙、後ろより父の死顔拝まんと窺ふ小四郎、盛綱が引明る首桶の二目とも見もわかず「父様さぞ口惜しかろ、わしも後から追付く」と氷の刃雪の肌、腹にぐっと突立つる。「ヤレ母人お留めなされ、何故の切腹、仔細をいへ様子はいかに」と人々あはて介抱に、小四郎きっと目を見開き「何故死ぬとは伯父様とも覚えませぬ、卑怯未練も父様に逢たさ、父を先立てて何まだまだと生き恥をさらさん、親子一所に討死して、武士の自害の手本を見せる」と、きりきりと引廻すその手に縋り母微妙「ナウその立派な心を知らず、呵った婆が面目ない、こらへてたも」と右左、目をしばたゝく三郎兵衛「猶予は如何に、早実験、何と何と」と御上意に疵口拭ひ耳際までとっくと改め故実を守り、謹んで両手に捧げ「矢疵に面体損じたれども、弟佐々木高綱が首、相違御座なく候」と御前に直し押し下れば・・

この首実検で盛綱は高綱の偽首を「弟の首に相違御座なく候」と証言するのですが・まだそのことは観客には明らかではありません。観客にも小四郎が父親の死を嘆いてその後を追ったとしか見えません。しかし、盛綱だけはその意味を察したのです。それで「この首は偽首でござる」と言うべきところを咄嗟に切り替えたのです。ここに「盛綱陣屋」の核心があるのですが、作者はここをサラリとやり過ごし・この後のドンデン返しにクライマックスを持っていきます。

なぜ盛綱は偽首と知って・その首を弟高綱の首と偽証して・主君を裏切る不忠をしたのでしょうか。このことが問題になります。あれほどに家の名誉・武士の名誉を気に掛ける盛綱がこの場において自らの不忠を覚悟で・それでも守らなければならなかったものは何か。このことを考えて見なければなりません。時政が去った後、盛綱は篝火を呼び寄せ・小四郎に対面を許しますが、微妙に「贋首と知って大将へ渡したそなたは京方へ味方するサ心底か」と問われて次のように答えます。

『イイヤいっかな心は変ぜねど、高綱夫婦がこれ程まで仕込んだ計略。父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。主人を欺く不調法、申し訳は腹一つと極めた覚悟も、負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木、甥が忠義にくらべては、伯父がこの腹百千切っても掛け合ひがたき最期の大功。そちが命は京鎌倉の運定め、出かいたな出かした』

盛綱は「ここまで高綱・小四郎親子が命を懸けて仕組んだ計略を無駄には出来ない」と言っています。そのために鎌倉方は不利に陥るかも知れないが、それでも構わない、「そち(小四郎)が命は京鎌倉の運定め」、どちらが勝とうが負けようがそれは時の運・ならば運に任せてみようじゃないかということです。そうまでして盛綱が守ろうとしているものは何でしょうか。それは「我ら兄弟はお互いに死力を尽くして戦った」という確信です。これは兄弟愛と言ってもよいものです。その確信が家の名誉・アイデンティティーにつながっているのです。その確信だけが武士の拠り所なのです。

首実検での詩章を見てみます。「盛綱が引明る首桶の二目とも見もわかず」小四郎は腹を切ります。この事態に驚いた盛綱は「何故の切腹、仔細を言え」と叫びます。ここで「ふた目も見もわかず」とあるのは、盛綱は「ひと目は首を見る時間はあった」ということです。(次いでながら小四郎もまたその首を見る時間があったと解すべきです。)盛綱はひと目でそれが偽首であることは分かったのです。それが本物の高綱の首ならば盛綱は「何故の切腹」とは言わなかったに違いありません。偽首と分かっているからこそ、ここで小四郎が腹を切るという行動に出たのが解せないのです。それで「何故の切腹」という言葉が思わず出るわけです。小四郎は腹に刀を腹に突き立てた苦しみのなかで次のように言います。

「何故死ぬとは伯父様とも覚えませぬ、卑怯未練も父様に逢たさ、父を先立てて何まだまだと生き恥をさらさん、親子一所に討死して、武士の自害の手本を見せる」

この小四郎の台詞で盛綱は証言をひっくり返すのです。盛綱も最初は「この首は偽首でござる・この盛綱その手は喰わぬ」と言うつもりだったに違いありません。しかし、小四郎は腹に刀を突き立てて「この偽首を父高綱の首だと言ってくれ」と叔父に向かって頼んでいるのが盛綱には分かったのです。それで盛綱は証言を翻します。まさにこれは小四郎の「かぶき的心情」です。小四郎の熱い心情に盛綱は応えたのです。それが「盛綱陣屋」のドラマの核心です。

「かぶき的心情」、それは状況における個の主張・アイデンティティーの叫びであるということを「歌舞伎素人講釈」ではずっと考えてきました。かぶき的心情が燃え盛る時には個人を取り巻く状況・柵(しがらみ)は消え去るのです。そんなものは馬鹿々々しくなってくる ・それより守るべき大事なものが俺にはあるという気分になってくるのです。「俺たち佐々木兄弟は京方だ・鎌倉方だとそんなことで戦っているのじゃないよ。俺たちは武士なんだ。相手が兄弟だろうが武士である以上死力を尽くして戦うのは当然じゃないか。それでどちらかが勝つならば・勝った方が佐々木の家を継ぐだろう。それでいいじゃないか」ということであろうと思います。そういう心情に盛綱はなったということ です。

「佐々木の家の名誉」を終始心に掛けてきた盛綱がそのような心情に陥ることに矛盾があるでしょうか。矛盾はないと思います。高綱親子がそこまで死力を尽くして戦い抜こうとしているからには・それは忠義の最たるものと言わねばなりません。それこそ盛綱が弟高綱に求めてきたものでした。それならば武士としての・我らのアイデンティティーは守られ・家の名誉は守られるということです。家の存続もその結果であって、そのことさえ盛綱にとってもはや問題ではなくなります。そういうところまで盛綱の気分が高揚しているのです。

大事なことは、首実検の前と後では盛綱の行動基準が変化していることです。首実検までの盛綱の行動基準は武士の倫理観に裏打ちされた「論理」です。社会的ルールに基づいた理性的な論理とも言えましょう。しかし、首実検後の盛綱の行動基準は武士の倫理観に裏打ちされた「心情」に変わっているのです。そのどちらもが同じく武士のアイデンティティーから発するのですが、「論理」と「心情」はその表出の在り方がまったく異なるのです。そのような劇的な変化が首実検のほんのちょっとの間に起きているのです。

以上、「盛綱陣屋」のドラマをまず盛綱の側から見てみました。続編「兄弟の絆〜盛綱陣屋をかぶき的心情で読む・2」では逆の立場・高綱の側からかぶき的心情のドラマを検証していきたいと思います。

(後記)

別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」もご参考にしてください。

(H18・8・7)



 

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