(TOP)             (戻る)

歌舞伎における「盛綱陣屋」

〜「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」


1)九代目団十郎の気持ち

別稿「京鎌倉の運定め」において「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」を考えました。九代目団十郎は盛綱を一度演じてはいますが、盛綱が大嫌いだと言って本作の型を十分練り上げないまま終わりました。つまり、「盛綱陣屋」は団菊の洗礼を受けないままに終わった時代物の大作です。まあ団菊が演らないから駄目というわけでもありませんが、 武智鉄二も言っていますが・歌舞伎の「盛綱陣屋」は何となく「まとまりが悪くて・筋道が通っていない」感じがします。団十郎の型(演出)の代表作である「熊谷陣屋」を見て感じるのは「作品を読む視点がはっきりしている」ということです。「盛綱陣屋」にはそれがなくて、局面に面白い場面があっても・見終わると全体にダラダラと長い印象が残ります。

現行「盛綱陣屋」の最大の問題は、主人公盛綱の性根の捉え方にあると思います。「盛綱は頭がよく・読みは鋭い武将であるが、情にもろく・優柔不断な人物である」というのが一般的な解釈かと思います。そうしますと、盛綱は自分勝手に高綱の出方をあれこれ読んで想像して・悩み考え込み、甥小四郎の行動を見過ごすことが出来ず・その行為に踏みにじるに忍びなく・やむなく偽証に追い込まれるという風に読めます。そうすると高綱の偽首は「情にモロい盛綱の性格にツケけ込んだ策略」ということになり、ドラマの関心は「盛綱は策略に引っ掛かるか」ということになります。

現行の歌舞伎の盛綱は、そういう性格の弱さを「盛綱は情に厚い」だから人間的だということにして、観客を一応納得させているということです。しかし、これでは「ドラマの動機」として弱いのです。これでは演じる盛綱役者の立場からは・偽首を偽証する気分をどうしても必然にまで高められない。ここが役者の苦労するところでして、だから九代目は盛綱は大嫌いだと言っているのです。

「盛綱と云える男、北条時政に仕え居りながら当時の武士が忠義の為には骨肉を屠(ほふ)るという勇気もなく、おのが主君を欺 (あざむ)くに非常なる苦心を為すのみか、欺きたる後その罪を悔いて切腹でもするかと思えば平気な顔をして生きながらえて居るなり(中略)君を欺き、兄弟なりとも敵と内通して恥じる色なきは武士にあるまじきことなり」(九代目市川団十郎・「最も嫌いな役」・「団洲百話」)

九代目の言うことはもっともだと思います。逆に言えば、九代目の言うことを認めつつ・それでもなおこの役を演じる価値を認めようと言うならば、それを越える論理を見出さねばなりません。それしか「盛綱陣屋」をドラマに高める方法はないと思うのです。かぶき的心情で「盛綱陣屋」を読むことは、そのひとつの解決策になるはずです。

(H17・8・6)


2)盛綱の決断力

「盛綱は頭がよく・読みは鋭い武将であるが、情にもろく・優柔不断な人物である」というのが歌舞伎の入門書にもよく出てくる盛綱の性格分析です。はっきり申し上げれば、「盛綱は情にもろく・優柔不断な人物である」という解釈はまったくの間違いであると吉之助は思います。それが「盛綱陣屋」のドラマをあやふやなものにして、引き締まった戦場のドラマに見せない原因なのです。盛綱は確かに情に厚い人物です。しかし、盛綱は鎌倉方で重要な位置にある武将です。情に左右されて・優柔不断な人物が優れた武将であるはずがありません。優れた武将とは ・情けももちろんあるが、何よりもまず判断は決して誤らない・決めたことを冷静確実に遂行できる人物です。そういう人物が盛綱であるということが「盛綱陣屋」の前提になる必要があ ります。

だから「思案の扇からりと捨て」の詞が重要になるのです。(別稿「京鎌倉の運定め」をご参照ください。)盛綱は考えに考え抜いて結論を出し、結論を出したら決然とこれに向かう人物です。「思案の扇」と「からりと捨て」の捨て間のなかに、すべての思いを断ち切った・高綱のためにも・また佐々木の家のためにも・ここは涙を呑んで・非情になられねばならぬ・小四郎は殺さねばならぬという決意が見えねばなりません。いったん思い切ったら盛綱は決して思い悩まぬのです。

歌舞伎の盛綱はここからがよろしくありません。盛綱が微妙に小四郎を殺してくれと頼む場面です。「聞き分けてたべ母人」の部分では盛綱は母親にすり寄り・膝に手を掛けて母親を揺すり・甘えているようにさえ見えます。事実、そういう風に演じることが歌舞伎の口伝になっています。子供に返って母親にせがむ心持ちだというのです。

しかし、考えても見てください。ここは母親に孫を殺してくれと頼んでいる場面です。お菓子をねだっている場面ではないのです。本当は自分が殺すべきだが・それは主人時政公に対して具合が悪いから・代わりに母親に孫を殺してくれと頼んでいるわけです。微妙がその通り小四郎を殺したとして・そのままで済むはずがないと思います。お咎めは必ず来ますから、本文には書いてありませんがこれは微妙に「孫を殺して母上も死んでくれ」と言っているに等しいのです。こんなことを母親に甘える調子で頼もうというのが・もう盛綱の性格描写をオカシクしています。

この「聞き分けてたべ母人」の場面の盛綱に「母上、もはや否応はなりませぬぞ」という決然たる態度がなくて何といたしましょうか。ここの盛綱には気迫で母親ににじり寄るという感じが欲しいと思います。そこに「非情なことを頼んでいる」という認識も必要です。まさに「せまじきものは宮仕え」という感じがなければなりません。それでこそ微妙が即座に手を打ち、「もっとももっとも・・(中略)可愛い孫なれども、思ひ切って切腹させう」と言えるわけです。

(H17・8・11)


3)盛綱の加速度感覚

歌舞伎の「盛綱陣屋」(盛綱は十五代目羽左衛門だったそうです) の舞台を見た初代吉田栄三は武智鉄二に「歌舞伎ちゅうのは妙なことをするもんだすなあ。あれでは大将づきあいになりまへんがな」とボソッと言ったそうです。

北条時政は鎌倉方の総大将ですが、正確に言えば盛綱は北条家の家来ではないのでして・あくまで対等の御家人(=ここでは大名と解してよろしい)です。その意味では上下関係はあれども、格に違いはないのです。だからこそ時政は盛綱に対して心を許していません。いつでも寝返る可能性があると思っています。そこに小大名・佐々木家の生き残りを掛けた緊張があります。首実検はそういう緊張 した場面で行われているということを忘れてはなりません。歌舞伎の「盛綱陣屋」の首実検というのは、悪く言えば「盛綱のひとり芝居」なのです。盛綱ひとりがあれやこれや思案して・時間を掛けて勝手に百面相をしておるわけです。盛綱は時政を騙さねばならないはずです。情にひたっている暇はないのです。

しかし、盛綱の首実検が他の首実検と違うのは、盛綱はもし小四郎の切腹がなければ・偽首を偽首だとはっきり証言したに違いないことです。小四郎の予想外の切腹があっ たから・盛綱は考えを首実検の途中で変えるのです。この心情的急旋回をどう表現するかです。観客はまだここでは首が偽首であることを知らされていないわけですが、この場面には急降下する戦闘機が機首をググッと上げて一気に上昇に転じるような加速度感覚が必要です。このように戦闘機が急旋回した場合に操縦者の身体にかかる加速度Gは相当なものだそうで、時には操縦者が失神してしまう 危険もあるくらいだそうです。同様にこの首実検での急旋回もまさに危険そのものです。このような加速度感覚が盛綱役者にないとすれば、この芝居は決してうまくいかないと思います。

この場面の盛綱の演技は歌舞伎では肚芸とも呼ばれ・無言のうちに盛綱の心情の変化を見せるものとされています。しかし、ホンモノの九代目団十郎の「肚芸」というものは短いのが身上です。息を詰めて掛かるのが九代目の「肚芸」なのですから、あんなに七色に表情を変化させて長々と首実検するの を「肚芸」とは申せません。第一それでは役者の息が持ちません。このことは「芝居のバランスを考える・その5・盛綱陣屋の場合」で考えましたから、そちらをご覧下さい。歌舞伎の盛綱の首実検は、悪い言い方をすれば「大仰(おおぎょう)で ・くどくて・しつこくて・臭い演技」です。これは九代目の芸風の対極にあるものです。だから、この場面が「肚芸の見せ場」だと思われていること自体に大きな誤解があります。(これについては別稿 「九代目団十郎以後の歌舞伎・その3:菊五郎の古典性」をご参照ください。)九代目が本気で「盛綱陣屋」に手を入れたならば・首実検はもっと簡潔なものになったことでありましょう。

(H17・8・21)


4)盛綱の化粧

小島政二郎が大正13年邦楽座での初代吉右衛門の「盛綱陣屋」を見て・次のように書いています。

『(十五代目)羽左衛門なら顔を真っ白に塗り立て、鬢は漆塗りでテカテカ光り輝いて、目覚めるばかりの美しさに舞台を一身に引き締める。が羽左衛門の盛綱はどう見ても悲劇中の人物とは思われない。そこへ行くと吉右衛門は素顔に近い顔色をし、鬢も漆の黒光りでない為に、金襴の衣装ばかり光って、出は一向引つ立たない。舞台としては損かも知れないが、私にはこの方が親しい気持ちがする。』(小島政二郎:「乍憚劇評」)

この小島政二郎の「乍憚劇評」については、我が師匠・武智鉄二がその若き日に「こんな風に批評を書きたい」と思ったと評し・武智理論の原点だとまで書いています。また、武智鉄二はこの評論を引いて・今の幸四郎・吉右衛門に対し「御祖父さんのように砥の粉の顔の盛綱になさい」と劇評に書いていたことも記憶しています。しかし、それをご本人たちが読んだかどうかは知りませんが、残念ながら二人とも十五代目羽左衛門と同じく白塗りの盛綱のままですね。まあ、その方が舞台栄えはしますがね。(ちなみに父上の初代白鸚も白塗りであったですね。)

それはともかく小島政二郎は盛綱を「悲劇中の人物」と看破しています。その通りでまさに盛綱は偽首を偽証し・小四郎を褒めてやり・扇をパッと掲げる瞬間に自ら喜んで悲劇の主人公に身を投じるのです。盛綱は「悲劇中の人物」の人物であるということが現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」でどのくらい意識されているでしょうか。悲劇は小四郎の方にあって・盛綱はそのサポーターだくらいに思われているのではないでしょうか。小四郎の死は確かに悲劇です。しかし、「盛綱陣屋」の主人公はもちろん盛綱です。盛綱が小四郎の死をも取り込んでもっと大きな構造のなかでの大悲劇を生み出すのが時代物というものの構造です。

盛綱が顔色を砥の粉色にすることは地味にはなりますが・印象は実事に近くなり、虚飾の人形身から人間に近くなることを意味します。それだけ感情はリアルに(写実に)描かれます。このことが時代物という非人間的な枠組みのなかで対立する人間性を描き出すことになります。(熊谷直実の化粧にも同じことが言えます。別稿「熊谷陣屋における型の混交」をご参照ください。)

本来が人形芝居である浄瑠璃を生身の人間がわざわざ演じることの意味を考えて見なければなりません。「人形味がある」ということを義太夫狂言の役者への褒め言葉だと思っている方は多いと思いますが、それも時と場合に拠るのです。人形らしく見えるほど芝居は真実から遠ざかることもあります。あえて人形から決別することがドラマを真実に近づけることもあるのです。砥の粉色の盛綱はもう一度試みられてもよいことだと思います。(幸四郎さん・吉右衛門さん、如何でしょうか。)

(H17・8・24)


5)子役芝居の限界

実は吉之助は子役が活躍する芝居があまり好きではありません。演技の質をできるだけ揃える目的があるのでしょうが、あの子役独特の台詞の口調が駄目。これで涙している観客を見ると・こういう他愛ないので泣ける方が今の世にもいるかと思うと有難いとさえ思います。そういうわけで「盛綱陣屋」もいまひとつなのだなあ。

「盛綱陣屋」に登場する小三郎(盛綱長男)・小四郎(高綱長男)はどちらも数え年の十三歳です。ちょうど高綱が喧嘩して佐々木の家を飛び出した直後に生まれた子供たちで、だから叔父・甥ともお互いの顔を知らぬということになっています。ということは「一谷嫩軍記」の敦盛・小次郎の年(十六歳)に近いわけです。まあこの年頃の三歳の差は大きいとは思いますし・役どころとして規定しにくい年齢ではありますが、舞台でも「組討」の敦盛よりちょっと年若い感じに描けばよろしいかなという気がします。芝居がかなりリアルになるという気がします 。

歌舞伎の「盛綱陣屋」の小四郎は純然たる子役の役どころですし・小三郎に至っては幼児の初舞台にもなりそうな役どころで、この幼児に負けて生け捕りにされたというのでは小四郎も浮かばれますまい。(こういう所で「歌舞伎は理屈で見るものじゃない」などと言い出すような方は「歌舞伎素人講釈」などは読まないだろうと思いますが・念のために書いておくと、このサイトは理屈で芝居を見る方のためのサイトです。)こうした子役の使い方が「盛綱陣屋」をリアルから離れさせる要因のひとつになっています。と言うより「盛綱陣屋」を時代物の悲劇ということから観客の目をそらさせ・始めから「涙と人情の芝居」として演出しようという意図があると勘ぐりたくなるくらいです。微妙と小四郎の追いかけっこなどそのいい例です。そこら辺の志(こころざし)がどうも低い・だから型の出来も自然と悪くなるという感じです。

もともと歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れるに当たって・これを情で読み取ろうという傾向が強いのです。浄瑠璃の「時代物」を歌舞伎は「お家物」として読む。同じ悲劇でも厳しさ・非情さを描くより、そこに涙を入れようというのが歌舞伎の傾向なのです。これが行き過ぎると情に流れて「お涙頂戴」になっていまいます。そこのところをグッと押し留まれるかどうかが分かれ目になります。

ここで最初の九代目団十郎の問いに立ち戻るわけですが、「武士が忠義の為には骨肉を屠(ほふ)るという勇気もなく、おのが主君を欺 (あざむ)くに非常なる苦心を為すのみか、欺きたる後その罪を悔いて切腹でもするかと思えば平気な顔をして生きながらえて居るなり 」という問題提起に対して、歌舞伎の現行の型は答えを出せていない。敢えて言うなれば問題意識をそらそうとしているとさえ思えるのです。改めて九代目に「盛綱陣屋」の型を整理してもらいたかったなあと思いますねえ。

(H17・8・27)


 


(TOP)           (戻る)