ラ・マンチャの男・1200回〜九代目幸四郎の生き方
平成24年8月・帝国劇場:「ラ・マンチャの男」
九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(セルバンテス/ドン・キホーテ、二役)、駒田一(サンチョ)、松たか子(アルドンザ)
1)「ラ・マンチャの男」・1200回
幸四郎のライフ・ワークとも言えるミュージカル「ラ・マンチャの男」が去る8月19日帝国劇場の公演で通算1200回を迎えました。1969年4月の初演から43年余り掛けての快挙であるそうです。「ラ・マンチャの男」の主人公ドン・キホーテ役は、「勧進帳」の弁慶・「アマデウス」のサリエリと並んで、俳優松本幸四郎の三絶とも云える役どころです。
ところで新劇での幸四郎は、新劇・あるいは現代劇の俳優さんからどのように評価されているのでしょうかねえ。もしかしたら幸四郎の新劇は歌舞伎臭い・つまり型臭いとネガティヴな見方をする方も少なからずいらっしゃるのかなと思ったりします。新劇というものは理念的には旧劇(歌舞伎)の否定から発しているので、これを素直に認めたくないという気持ちはまあ分からなくもありません。しかし、吉之助から見ると新劇俳優のなかにあって幸四郎のインパクトの強さは群を抜いています。幸四郎の新劇は型臭い・様式感覚が強いというのは多分その通りであろうと吉之助も思います。それは台詞や演技のちょっとした独特の間合い・緩急の効いたリズム感などから出てくるのですが、吉之助が思うには、そういうものが新劇には 全般的に乏しいように思われる・そのせいで演技が痩せて見えることが多いわけです。新劇が標榜するところのリアリズムが、ショボく見えて来るのですねえ。(注:すべての新劇役者がそうだと言っているのではありません。少なくとも主役級には優れた方がいらっしゃいます。しかし、それらは個人の資質あるいは努力によるもので、新劇と云うシステムから出たものではないように思われます。)だから幸四郎が出てくると「ものが違う」ような気がします。台詞が美しく・力強く・説得力を持って響くというのはこういうことだなあと気付きます。「台詞が音楽的である(様式的に聞こえる)」ということはその結果に過ぎないのです。この時、歌舞伎という存在にハタッと思い至ります。幸四郎の演技は「この役者のバックグラウンドとなっている歌舞伎というのは一体どのような演劇なのか・その正体が知りたい」という興味を呼び起こさせるのです。
伝統芸能の演者が現代演劇で芝居をするというのは幸四郎以外にも例は沢山あります。演者が芸の巧さ・味わいの深さというところで・その特質を示すということはもちろん多々あります。しかし、それがいつでも「伝統芸能は凄い」という認識に直截的につながるわけでは必ずしもありません。吉之助が思うにはそのような気持ちを起こさせる役者は、伝統芸能の世界でも、歌舞伎の幸四郎と・狂言の萬斎くらいですかねえ。それは彼らが伝統芸能の世界にスタンスを置きながら、同時にある意味で危機感に近いピリピリした感覚を以って現代という時代に対峙しているからであろうと思います。だから幸四郎が歌舞伎役者であるということを、萬齋が狂言役者であるということを最も強く意識させるのは、皮肉で言うのではなく、彼らが現代演劇の舞台に立っている時です。
一方、幸四郎が歌舞伎を演る時に、その演技が心理主義的でバタ臭いと云ってお嫌いになる歌舞伎ファンが少なくないことも、吉之助はもちろん知っています。これは上記の感覚が裏返しに出てくるのかも知れません。周囲が「俺たちはいつもこういう風にやっている」という無批判的な感覚に浸っているので(これについては別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」をご参照ください)、幸四郎の現代的な要素が逆説的に目立ってくるわけです。あるいは見る側(劇評家も観客も)の持つ歌舞伎のイメージが近年急速に保守化していることが考えられます。恐らく幸四郎に、歌舞伎と新劇・ミュージカルを演じ分けているという感覚はないと思います。幸四郎にとって、どれも等しく「演劇」なのです。だからこそこのことはとても興味深い現象だと言えます。
先ほど「危機感に近いピリピリした感覚」と書きました。実はこういう感覚は特に敗戦直後の歌舞伎(昭和20年から30年代)には強くあったものでした。民主主義の時代に封建主義の芝居を 漫然とやっていて・このままで歌舞伎はいいのかという疑問、伝統という名のマンネリズムへの批判、と同時に・この伝統を足掛かりにして新しい歌舞伎の形を模索して行かなければ・歌舞伎は滅び るしかないという危機感・焦燥感です。歌舞伎の危機は映画やテレビに観客を奪われるという形で顕在化しましたが、それとは別に現代に生きる人間のひとりとして・現代に歌舞伎を演じることの感覚的なギャップで苦しんだ役者もいたわけです。六代目歌右衛門にもそのような 危機感はあったと思いますが、そういうことを真面目に・あまりに真面目に悩んだ歌舞伎役者として、初代白鸚(八代目幸四郎)の名前を挙げておきたいと思います。つまり現・九代目幸四郎の父上のことです。
ミュージカル「ラ・マンチャの男」は1965年(昭和40年)ニューヨーク・ブロードウェイの初演ですが、白鸚はニューヨークで初演間もないこの舞台を見て感激し・早速東宝取締役・菊田一夫に国際電話して「このミュージカルを是非息子に演らせたい」と 強く頼んだのだそうです。当時・高麗屋一家は松竹歌舞伎を離れて・東宝へ移籍していました。「ラ・マンチャの男」が現・幸四郎のライフワークになるきっかけは、白鸚が作ったわけです。もしかしたら白鸚は、自分が若かったら・自分がドン・キホーテを演りたかったのではないでしょうかねえ。
2)初代白鸚の焦燥感
幸四郎の父上・初代白鸚は、歌舞伎の家に生まれていなければ学者か画家になっていただろうと言われたほど実直で真面目な方でした。昨年(2011)12月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書・松本幸四郎」の記事では、幸四郎が昭和17年(1942)に生まれた時に、白鸚(当時32歳)が「吾児の生立」という育児日記の裏表紙に書き留めた父から息子への言葉が紹介されていました。
「今、日本では道義を提唱し仁義をといている。しかし一歩振り返ってその裏を見る時、ことに芝居道においては偽善者様の我物顔の横行は自分のような馬鹿正直者にとり実に慨嘆の堪づ。諸先輩は即是世の中なりと諭せども、自分はあくまで道義を携え心の真を信条に一生を終わらんと思ふ。何に感じてか君の父はこんなことを書いてみたくなったよ。馬鹿になりきれぬ/\」(「私の履歴書・松本幸四郎」・第3回・読みやすくする為多少文字遣いを変えました。)
これを読めば、歌舞伎役者として白鸚が時勢とのギャップに真剣に悩んでいたことがうかがわれます。同時に昭和36年(1961)の東宝移籍というのは突然降って沸いたことではなくて、白鸚のなかで・戦時中からくすぶりつつあった憂いが形を変えて噴き出たに過ぎなかったということも、実によく理解できるのです。東宝移籍発表の時に白鸚は「歌舞伎は曲がり角に来ている。その行き詰まりを誰かが解決しなければならぬ。それを私がやるというのは、おこがましいことだろうか・・」ということを語ったそうです。兎に角いま踏み出さねばいつ踏み切るのだ・・と云った切迫感・焦燥感が感じられます。(その後のことは千谷道雄氏の「幸四郎三国志〜菊田一夫との4000日」に詳しく書かれています。 標題の幸四郎は八代目(=初代白鸚)のこと。)
千谷道雄:幸四郎三国志―菊田一夫との四〇〇〇日
このような白鸚の焦燥感は、世界無形文化遺産になって・興行的にもそこそこ安定して・すっかり保守化した感のある平成の歌舞伎しかご存じない方には、ちょっと理解が出来ないかも知れません。戦前・戦時中の歌舞伎のことはあまり論じられていませんが、この時期にも歌舞伎は検閲・あるいは時局に迎合する形で大きく変質しました。このことは上述の白鸚の述懐にも出ている通りです。敗戦になると歌舞伎は一転して反動に見舞われました。GHQの検閲もありました。世間の価値観は一変し、民主化した日本はさらに急激に欧米化していきます。歌舞伎は庶民の生活感からどんどん乖離して、さらに映画とテレビに観客を奪われて行きました。昭和20年から30年代の歌舞伎は存亡の危機に瀕していました。歌舞伎滅法論・女形不要論が盛んに議論されました。当時の白鸚の焦燥感は、当時の歌舞伎の在り方への懐疑というところまで至っていたと思います。似たような不安は当時の他の歌舞伎役者にもあった と思いますが、誰もそこまで真剣に深くは悩まなかった。しかし、白鸚はそうではなかったのです。悩んだ末の東宝移籍だったのです。(別の意味において歌右衛門もそうではなかったと思います。別稿「歌右衛門の今日的意味」を参照ください。)
「歌舞伎役者が演じるならばそれは歌舞伎です」というのは移籍発表の時の白鸚の言葉でした。これは当時も正しく理解されなかったと思います。白鸚のちょっと世間からズレた感覚を示していると云うような揶揄した感じで語られることが多いようです。しかし、これを当時の歌舞伎の在り方への懐疑を発端とすると読むならば、これはまことに真剣な・しかも非常に挑戦的な言葉なのではありませんか。これは「すべての演劇は歌舞伎である・歌舞伎の精神を吹き込むことで歌舞伎にできる」ということなのです。
もっとも白鸚にも具体的な理論とか・設計図とかがあったわけではありませんでした。結果としては思った通りにならなくて・松竹に復帰することになるわけですが、吉之助が幸四郎の「ラ・マンチャの男」のなかで白鸚のことを長々書くのは、白鸚の生き様が息子である幸四郎にはっきり継承されていると吉之助は思うからです。「私の履歴書」の記事を読めば、父の生き方を受け継ぎ・何らかの形でこれを実現したいという幸四郎の意志がそこに明確に読み取れます。菊田一夫に「このミュージカルを息子に演らせたい」と懇願した白鸚の気持ちを改めて思い起こします。白鸚はドン・キホーテの姿に自分を重ねたのでしょうねえ。そしてその思いを息子に託する気持ちがあった。そう考えれば、役者幸四郎にとって「ラ・マンチャの男」がどのような意味を課せられた芝居であるかは、分かりすぎるくらい分かると思います。
ところで白鸚の歌舞伎の舞台は、幸いなことに・良い画質で映像が数多く残されています。機会があれば是非ご覧になってください。特徴的なことは、弁慶でも由良助でも、その表情がよく動くことだと思います。これはどこか自然主義演劇的にも見えます。これは昭和30年代の表現感覚をよく現しています。今の方から見ると、これは歌舞伎的でないと感じる人がいても不思議ではないくらいに、目が・眉が・頬が動きます。しかし、主人公が今何を考えているのか明確に分かります。実在の弁慶も・内蔵助もこういう腹の大きい人物だったのだろうなあ・・ということを吉之助は白鸚の舞台を見ながら感じたものでした。目の前に本物の内蔵助が立っているようなリアル感覚が白鸚にはあったのです。(こういうリアル感覚は他の役者にはあまりなかったものです。巧かろうが・良かろうが・あくまでそれは芝居でした。)しかも、ここが大事なことですが、白鸚の演技はそれで立派に歌舞伎になっていたということです。
幸四郎の弁慶や由良助の演技も、上記のような白鸚のリアル感覚の延長線において捉えるならば、なるほどそうあるべくして出て来た演技だということはすぐ分かるのです。ですから歌舞伎に・翻訳劇に・ミュージカルに・・という幸四郎のダイナミックな生き方は実は白鸚から直截的に発しているわけであって、それは現代歌舞伎の在り方への懐疑という問題に自然に帰っていくものなのです。
3)初代吉右衛門の歌舞伎への懐疑
ご存知の通り・初代白鸚は初代吉右衛門の娘婿であり、吉右衛門劇団で長く芸の修行をした人でした。ところで、吉右衛門にはこんなエピソードがあります。三代目中村歌六は幼少の長男・辰次郎(後の吉右衛門)を芝居に親しませるために、弟子の十郎を辰次郎のお相手につけました。十郎と毎日お芝居ごっこをしながら、辰次郎は芝居のコツを身に付けて行きました。ある時、辰次郎は十郎にこう聞いたそうです。「十郎、お前と芝居をしているとこんなに面白いのに、どうしてお父っつあんのしている芝居を見てると、あんなに詰まらないのだろう。」
十郎はびっくりして、「そりゃあ、坊ちゃん、私たちのしているのは遊びだからですよ。」と答えました。「あんなの、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。アタイに芝居をさせようと思ったら、あんな人形の真似をさせないで十郎が芝居を買いておくれよ。十郎の芝居は、生きた人間が出て、我々と同じような事を言ったりして面白いよ。」十郎は困っただろうと思います。「そんな芝居は歌舞伎のように長続きなんかしないんですよ。すぐ飽きられてしまうんですよ。」辰次郎はしばらく考えてこう言いました。「・・・そうかな、アタイには分からない。」小島政二郎は「初代中村吉右衛門」のなかで、次のように書いています。
『「そうかな、アタイには分からない」、この幼い一言が吉右衛門の一生につきまとって離れなかった、彼の一生を決定する大事なキー・ポイントだった。』
初代吉右衛門と初代白鸚に血の繫がりはありませんが、上記のエピソードを読めば、吉右衛門と娘婿・白鸚との間に、更にその延長線上を見れば・孫の九代目幸四郎へ向けて、真っ直ぐな線が引けることが分かると思います。芸脈というよりも、もっと根本的なもの、「生き方」というか、そういうものです。
小島政二郎:初代中村吉右衛門:講談社
巷の歌舞伎本など見ると、初代吉右衛門のことを「熊谷や清正など英雄豪傑の役を得意とした・スケールの大きい時代物役者」、初代白鸚についても「時代物の座頭格の役柄を得意とした英雄役者」ということが書かれていると思います。そういうのは演じた役どころしか見ないで・そのイメージだけで推し量って書いているのです。吉之助はもちろん初代吉右衛門の舞台は見ていませんが(吉之助の生まれる前に亡くなっているのですから)、その舞台を見なくても・文献でも良い、その芸を仔細に観察するならば、彼ら三代の芸の根本にあるもの・観客に提示するものは、「演劇における真実とは何か・演劇におけるリアリズムとは何か」という疑問であることは自ずと明らかなのです。それは、それぞれの時代における歌舞伎の在り方への懐疑 、「人生の真実を描く演劇としての歌舞伎はこれで良いのか」ということに繫がります。(別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」をご覧下さい。)
但し書きを付けますが、歌舞伎への懐疑とはアンチ歌舞伎、歌舞伎が嫌だということではないのです。むしろ、その逆です。歌舞伎というのは彼らの故郷なのですから、常にそこに立ち返らねばならない・歌舞伎から逃げることはできないということを彼らはよく分かっているのです。だからこそ、歌舞伎への懐疑がつのるということです。そういうものが彼らの芸のなかに何かしらの「新しさ」となって現れます。
『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」)
小宮豊隆:「中村吉右衛門論」:(「中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)」に所収
恐らくそれは保守的な歌舞伎ファンを幾分イラつかせる要素を含んでいると思います。幸四郎が歌舞伎を演る時に、その演技が心理主義的でバタ臭いと云ってお嫌いになる歌舞伎ファンが少なくないことは、その辺に原因があると推測します。そういうものは大正デモクラシーや・戦後の変革期の空気には沿ったのだけれど、この保守的な時代においてはピッタリこないのかも知れません。昭和50年代くらいから平成の・現代歌舞伎は保守化の傾向にあるということは、吉之助は本サイトでもよく書いてます。(もちろんこれは平成という時代の在り方に大きな関連があることです。)例えば「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れた通り、現代歌舞伎のなかでその活性化に多いに寄与したと評価できる二代目猿翁(三代目猿之助)にしても・十八代目勘三郎にしても、「歌舞伎良いとこ一度はおいで」という明るく健康的な要素はあるにしても(それはそれとして役立ったということはもちろん認めますが)、歌舞伎への懐疑というものはあまり見られません。いわゆる「歌舞伎らしさ」を大事にして、「俺たちはいつだってこのようにしてやって来た」というような・惰性で持っているダルい要素に対する批判(疑問)を持たなかったと思います。
一方、吉之助は歌舞伎における幸四郎を何でも両手を挙げて評価しているわけではなく、弁慶や道玄など細部に多少の異議を感じる場面もなくはないのですが、あるいはその辺に六代目菊五郎の贔屓が「播磨屋(初代吉右衛門)の芝居は臭い」とよく批判したのと同じ車輪に走る悪い癖が出てはいるのでしょう。まあその辺は血かなと思うところはありますねえ。しかし、吉之助は歌舞伎を伝統に繋ぎとめるために・歌舞伎への懐疑は維持せねばならぬ(それがないと「何でもアリ」になって歯止めが効かぬ)と考えますので、幸四郎がそのような「歌舞伎への懐疑」の気持ちを持ち続けていることを支持したいと思います。
『本当の狂気とは何だ。夢におぼれて現実を見ないものも狂気かも知れない。また現実のみを追って夢を持たないのも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いを付けて、あるべき姿のために闘わないことだ。』
ミュージカル「ラ・マンチャの男」でのセルバンテスの台詞です。 幸四郎は恐らくこの台詞に自分の芝居人生を重ねているでしょうし、同時にそこに三代の人生が重なってもいるのです。
(H24・9・17)