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和事芸の起源

〜「廓文章・吉田屋」


『みんなに言っておくが、「吉田屋」のような芝居では、いやらしいところを黙って認める気持ちが必要です。それを否定したら、歌舞伎のある種のものは滅亡する(あんまりひどいものは別だが)。あなた方も、もう直次郎と三千歳程度の口説場でさえ 嫌だろう。しかし、辛抱して見ることだ。歌舞伎には消化できずに捨てなければならぬものがあるが、消化しなければ駄目なものもある。それを辛抱して見ること。(と言われた後で、苦笑しながら)われわれは病的だから、何でも容認するがね。』(戸板康二:「折口信夫座談」)


1)物語りということ

「物語り」というのは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるというのが、その本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると・事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言いますが、これは嘘をつくというのではないのです。しかし、「物語り」というのはあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけですから、その本義において真実味を以って真実めかして語り・これを相手も真剣に聞くことに意味があるのです。しかし、それが作り話であるならば、どこかに作り話であるということの言い訳・というか逃げが必要になります。そうでないとそれは人を騙すことを意図した「嘘話」になってしまうわけです。「これは実は作り話なんでーす・そうかそうかそうだろな」という暗黙の了解が作り手と受け手にあった上での「物語り」なのです。だから受け手は余裕を持って物語りを楽しむことができるわけです。

そうした「作り物語」であることの言い訳(逃げ)は滑稽味・諧謔味という形をとることが多いようです。だから「古事記」などの話にもそうした源流を感じさせものがあるのです。平安期の初期の物語に、例えば「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などのように滑稽味のある作品があるのは、そうした系統から来ているのです。しかし、その一方で「源氏物語」のように比較的まじめな作り物語もあるわけですが、こうした作品もどこかに滑稽味・諧謔味をその要素に含んでいるものと考えるべきで、その間に厳密な区別はできないのです。

ということは物語に初めから「まじめな物語」と「滑稽な・ふざけた物語」の二系統があったということではないのです。それらは共通の起源を持って生まれてきたものです。だから「まじめな物語」というのはそれだけ実味の要素が強いわけですが、そう言ったものでもどこかに滑稽味・諧謔味を含む要素を内面に持つのです。例えば「竹取物語」のかぐや姫をめぐって繰りひろげる珍騒動のもつ滑稽味がそうしたものです。

同様なことが演技において「人生の真実を誣いる」演劇という芸能についても言えます。芸能の演技が「物真似」から発したことはよく知られていますが、「物真似」が滑稽味や諧謔味を重要な要素とするということも「誣いる」という行為の原義から来るわけです。つまり、「これは嘘でーす・そうかそうかそうだろう」という暗黙の了解が演者と観客の間にある・それで改めてその演技を真実として見て楽しむ・そしてみんなハッピーになるということなのです。

このことは例えば怨霊(恨みを以って死んだ人)の筋書きの場合を考えてみれば分かると思います。こういう芝居を見れば誰でも恐ろしいと思うものです。これがホントの話だと思うと恐ろしいし、役者の演技が真に迫っていればいるほど・その怨霊の祟りがもしや自分に及んでこないかと怖くなってきます。そこで「これは嘘でーす・そうかそうかそうだろう」となれば、演じる方も観る方もホッと救われるというものです。

以上は折口信夫の理論の私的な理解(折口信夫:対談「日本文学の歴史」・昭和17年9月・が参考になります)ですが、折口信夫は「歌舞伎の和事師がどこか三枚目的な部分を持っている理由はここから来るとも言っています。


2)和事の滑稽味

初期の歌舞伎の役柄が「廓通い・傾城買い」に発するのはご存知の通りです。歌舞伎のなかにある遊びの精神が廓遊びのなかにある異界の開放感・色っぽさ・この世の憂さを晴らすためのナンセンスな笑いと結びつく、そういう風にも考えられましょう。その代表的なものが「廓文章(通称「吉田屋」)」です。藤屋伊左衛門は和事の代表的役柄であり、かつ上方和事の本質を最もよく教えてくれるものです。

元禄の和事の名人・初代坂田藤十郎は傾城買いの「夕霧」狂言を得意としました。藤十郎は宝永4年(1707)に引退しますが、藤十郎は引退にあたり後継者である大和屋甚左衛門に紙衣譲りという儀式を行なっています。紙衣は藤十郎のトレードマークというべきもので、藤十郎生涯の当たり役である「夕霧名残の正月」(延宝6年・1678)の伊左衛門や「けいせい仏の原」(元禄12年・1699)の文蔵と切っても切り離せません。もちろんどちらも近松の筆になるものです。

和事の重要な一面が「やつし」です。主人公が落ちぶれて・本来の身分を想像できないような哀れな姿で登場し・人々の同情を誘うというような演技です。紙衣は主人公の落ちぶれた姿の象徴です。ところで、「やつし」の落ちぶれた境遇を見せるということは、つまり「やつし」は真面目な・シリアスな要素を持っているわけです。「吉田屋」の伊左衛門も勘当されていて金がなく・編笠の紙衣の哀れな姿で吉田屋店先に登場します。ところが、伊左衛門はジャラジャラしていて・あんまりシリアスな役には見えません。このことを考えてみたいと思います。

別稿「吉之助流・仇討ち論・その3:今日の檻縷は明日の錦」において、「やつし」の芸は「その境遇の哀れさ・その落差」 を表現するもので、貴種流離譚の「移行・試練」の段階において艱難辛苦する主人公の姿が、そのまま「やつし」の趣向に重なるということに触れました。逆に申せば、伊左衛門が編笠の紙衣姿で 店先に登場することがそのまま貴種流離譚の「移行・試練」に重ねられるのです。つまり主人公がさまざなな苦労を重ね・艱難辛苦の果てに元の高貴な地位を取り戻すことが予告されるのです。

舞台の伊左衛門を見ていると・苦労をまったく知らない大店のボンボンで・ちょっと頭の方も弱そうな感じがしますし、あまり「試練」ということがピンとこないと思います。しかし、金が全然ないのですから間違いなく伊左衛門は相当な苦労をしているはずなのです(そうでないとドラマが成り立たない)。だから伊左衛門は哀れで可哀想な境遇なのだと思う必要があります。伊左衛門が「冬編笠の垢ばりて・・」という竹本で登場し「今日の寒さを食いしばる」で両手に息を吹きかけて暖める仕草などはそういう哀れを表現する箇所です。そうすると伊左衛門は全体に真面目なシリアスな演技をしないと哀れが効かないはずですが、伊左衛門という役は三枚目的要素が強いのです。この辺が奇妙だと言えます。

ここで前述の折口信夫の指摘が役に立ちそうです。演劇とは「人生の真実を誣いる」芸能ですから、「これは嘘でーす・そうかそうかそうだろう」という暗黙の了解が演者と観客の間に必要になるのです。それで改めてその演技を真実として余裕を以って楽しむ・そしてみんなハッピーになる、そういう要素が初期の歌舞伎には必要であったということです。だから哀れを表現しなければならないシリアスな役どころにこそ、その「誣いる要素」を中和するために滑稽味や諧謔味が必要になるということになるわけです。そういうことが歌舞伎発祥の芸である「やつし」の芸の名残としてあるのです。だから、どこまでも真面目であるべき和事の二枚目は、三枚目的な部分を兼ね備えてこそ一人前であるということになるのです。

吉田屋格子先の「鼻に扇の横柄なり」から「紙衣ざわりがあらい、あらい」辺りは、落ちぶれても気位と育ちの良さを失わない伊左衛門のお大尽ぶりを示す場面です。同時にそこに滑稽味や諧謔味が表れます。こうした要素は実はシリアスな真面目な実事と背中合わせに出てくるのです。これが上方和事の大事な点です。あるいは上方和事の柔らかさ、これは優美さと言うのともちょっと違うもので・ナヨッとした軟体動物的な軟弱さですが、これも滑稽味・諧謔味のひとつの表現と見ることができます。このように上方和事の滑稽味や柔らかさと言うのは「やつし」芸のシリアスさと表裏一体のもので、片方だけを切り離すということはできないのです。

伊左衛門の「やつし」芸の「試練」の部分については何よりも「紙衣」がその哀れな境遇を象徴していますが、例えば吉田屋主人・喜左衛門の性格にもそれが現れています。伊左衛門は実家を勘当されて・金がなく・紙衣を着て登場するわけです。ということは伊左衛門には当然ながら本来は廓通いをする資格はないのです。歌舞伎の「吉田屋」を見ていると喜左衛門を含めて店の者が伊左衛門に同情して気を使っているような感じに見えますが、本来は・落ちぶれた伊左衛門をもっと冷たくあしらう感じがあってもいいのでしょう。折口信夫は次のように言っています。

『吉田屋の喜左衛門は、戸板(康二)君の意見と逆になるが、私は立敵のような人がいいと思う。大阪では荒治郎という人がなかなか良かった。女房が夕霧の話をするのを、ちょっととめるところがあった。仲をせくというほどではなくても、そんな気分が喜左衛門のどこかにあるのだ。それが本当だと思う。私は子供の時見て、その感じが分かった。鴈治郎( 初代)が伊左衛門だと、梅玉(二代目)の喜左衛門は、どうしてもいたわるようなところがあったが、あれだけの茶屋の主人なのだから、毅然としたところを持っていた方がいい。訥子では格も違うが、話にならないね。私は立敵風の役を伊左衛門と対照させたい。』(戸板康二:「折口信夫座談」)

このような「試練」の部分があればこそ伊左衛門から「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞が出てくるのです。つまり、そこに大阪商人の意気地が出ているのです。「意気地」というと・どこか突っ張った強い感じがしてしまうかも知れませんし、それだと三枚目との兼ね合いが難しくなると思うかも知れませんが、意気地がごく自然な形でやんわりと出るのが上方和事なのです。そこに伊左衛門の育ちの良さが自然に滲み出るわけです。伊左衛門は人間である前に大阪商人なのです。そこに伊左衛門という男の本質があります。だから金がなくても伊左衛門は平然として店に顔を出すのです。伊左衛門のじゃらじゃらした阿呆ボンぶりだけを上方和事だと思っていると、そうしたシリアスな面をつい見落としてしまいそうです。

六代目菊五郎は「吉田屋」を演じるにあたり、奥座敷の前半のじゃらじゃらした部分をカットしてしまって、格子先から奥座敷までの舞台転換を暗転にして・明かりがつくと伊左衛門が板付きで炬燵にいるという形に変えてしまいました。菊五郎がカットしたのは、奥の座敷に夕霧がいると聞いて襖を開けてのぞいて見たりして・行ったり来たりする冗漫な場面です。上方和事らしい面白さがある部分だと言われますが、全体の筋から見ればあってもなくても良いようなものです。

菊五郎がこの部分をカットしてしまった気持ちは吉之助もよく分かります。吉之助も芝居を頭で見る人間なので、こういう箇所が上方和事の下らんところだなどと思ってしまう方です。何だか意味もなく・ダラダラしているような感じがあって、吉之助は関西生まれの人間ですが・東京の役者がこういう場面を演りたくないと感じる気持ちはよく理解できます。しかし、折口信夫が戸板康二ら弟子たちに語ったように、ここは「いやらしいところを黙って認めて・辛抱して見ること」なのでしょう。このじゃらじゃらは上方和事の「やつし」芸のシリアスさと表裏一体のもので、「吉田屋」はそうした上方和事の「やつし」の初期の雰囲気を濃厚に残したものです。

だから菊五郎の「吉田屋」の演出は、筋から言えばこの作品の冗長なところを省いたエッセンスというべきですが、スッキリとした味わいになりすぎて・取り落とした要素は大きかったかも知れません。十七代目勘三郎は仁から言えば上方演出の方が似合っていたと思いますし、もしかしたら 本人はこういう上方和事のじゃらじゃらが好きだっただろうと思いますし、本音を言えば上方型を演りたかったのじゃないかと思いますが、やはり岳父の演出を採らざるを得なかったのは・本人のためには残念であった気もします。夕霧身請けのための千両箱が持ち込まれるハッピーエンドの幕切れは「昔の芝居は他愛ないもんだなあ」という感じがする結末ではありますが、これも貴種流離譚の「移行・試練」のパターンを踏まえているのだと分かればなるほどと理解できると思います。

以上、「誣(し)い物語」から和事の起源を考えてみました。上方和事の役々を見ると、こうした考察がピッタリはまるものは少ないかも知れません。後年に役柄として固まるいわゆる「つっころばし」は伊左衛門の上方和事を起源としているわけですが、そのシリアスが部分が弱まり・三枚目要素が強まったという流れの上にその役どころを捉えてよろしいのかなと思っています。

(H17・6・26)

(後記)

別稿「歌舞伎の雑談・表現行為ということ」もご参考にしてください。



 

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