初代の芸の継承〜二代目吉右衛門の課題
平成18年9月・歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」
二代目中村吉右衛門(源蔵)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(松王)、 二代目中村魁春(戸浪)他
1)初代吉右衛門の偉大さ
ここで取り上げる映像は初代吉右衛門生誕120年に因んで始まった第1回「秀山祭」で・「寺子屋」は長らく舞台を共にしなかった幸四郎・二代目吉右衛門兄弟の久しぶりの共演ということで話題になったものです。本稿では吉右衛門の初代と二代目が交錯しますので、ここでは初代吉右衛門は初代と記し、吉右衛門と記す時は当代・二代目を指すこととします。
初代は昭和29年没ですから吉之助はもちろんその舞台を見てませんし、文献・劇評などからその芸を想像するしかないわけです。初代は六代目菊五郎と並んで「菊吉時代」を作った名優であり、吉之助が見た歌右衛門や白鸚ら最後の昭和歌舞伎の大幹部たちが神様と崇めた役者のひとりです。初代の本領が時代物の役どころにあったことはよく知られています。時代物を得意とするのならば「押し出し」が利いているものだと思いますが、遺された数少ない映像を見ますと、実は初代の体格は思いのほか貧弱で・演技の線が細かったことに驚かされます。このことは別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」でも触れました。初代についての賛辞は数多いですが、初代の弱みである「線の細さ」に触れた文章があまりないようです。しかし、これは大変重要なことで、同時代に押し出しの利いたライバルが数多くいたにもかかわらず・その線の細さのハンデを克服して・なおかつ時代物の第一人者と言われたことに初代の真の偉大さがあると吉之助は思います。つまり大正の自然主義リアリズムに裏打ちされたところの等身大の生きた人間像を描き出したこと、これこそ初代の偉大さだと思っています。
「寺子屋」は初代にとって重要な演目ですが、初代は源蔵役者という印象が吉之助にはあります。初代が源蔵で・六代目が松王という組み合わせが吉之助のなかでの理想の「寺子屋」です。これは別に根拠があるわけでもないですが、まあ武智鉄二の文章とか木村伊兵衛の写真集などですり込まれた結果でありましょうかね。しかし、初代は松王も多く勤めており、昭和25年5月・御園座での松王での貴重な映像が遺っています。(この舞台には幼い日の吉右衛門が小太郎で出ています。)この松王を見るとやはり初代の線の細さが目に付きます。例えば「若君菅秀才の首に相違ない、でかした源蔵、よく討った」の場面などは台詞を大きく張り上げることをせず・大きく時代に構えた演技をしないのです。その演技は派手さを抑えたと言うよりも・ちょっと弱々しい印象さえあり、最初にこの松王を見た時には「初代晩年の映像でもあり身体の衰えが見えるなあ」という印象を吉之助も持ったものでした。しかし、繰り返しこの映像を見て考えてみるに、初代はもともと源蔵が仁で・松王はピッタリというわけではないにしても、ここで初代は初代ならではの松王像を構築しているということが吉之助にもはっきりと分かってきました。それは繊細とも言える細やかな心理表現です。
強く印象に残るのは後半で松王が「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・桜丸・・桜・・源蔵殿、お許しくだされ」と言って泣く場面です。どの役者も「源蔵殿、お許しくだされエ」と叫んで、懐紙を顔に押し当てて肩を大きく動かしてウワアアと男泣きして見せるものです。またそれが見せ所とされています。ところが初代はこの見せ場でウワアアと泣かないのです。「源蔵殿、お許しくだされ・・」と小さく低く言って懐紙 で涙が滲んだ目頭をそっと押さえるという感じなのです。まったく当てようとしない写実の演技です。愛息を失った松王の哀しみがジワジワと観客に伝わってきます。これを歌舞伎的かどうかと言うなら、確かにこれはそうではないのかも知れません。これはまったく損なやり方かも知れません。しかし、それを言うなら「あなたが歌舞伎的と言うのはそれは一体どういうものかね」と聞き返したいものだとも思いますねえ。
(H21・12・2)
2)九代目幸四郎の松王
久しぶりの兄弟共演の「寺子屋」ですが、両人とも気合いが入って・特に前半はなかなか良い出来です。まず幸四郎の松王ですが、 もとより押し出しの利く方ですから首実検は見応えがあります。「ナニナニナニッ・・」と戸浪を問い詰つめる息、「無礼者」の見得など見事なものです。首実検で蓋を取り我が子の首を見詰める時の目をしばたたく箇所、「・・でかした」を首に 向けて言う箇所も底を割ることなく・あざとくなく良く出来ました。しかし、吉之助が幸四郎の松王で特に優れていると感じるのは、首実検が終わった後、玄蕃に「イザ松王丸、片時も早く時平公へお目にかけん」と言われる までのしばらくの間、左手を首桶の蓋に置いたまま・脱力したように顔を俯けてじっと目を瞑っているその姿です。見落としてしまいそうなさりげない演技ですが、死んだ息子に対する親の真情がじんわりと伝わって・それが写実で実に良いのです。幸四郎の型は初代とは異なりますが、吉之助はこの辺の心理描写に実は初代の芸風と確かにつながっているものがあると思っています。
幸四郎は演技が心理主義的でバタ臭くて歌舞伎らしくないと通の方に必ずしも評判が良ろしくないようです。それは翻訳劇やミュージカルばかりやるせいだと言われますが、吉之助はそうではないと考えています。それは初代の芸風から来るもので・これをやや強めにすれば幸四郎になるのです。つまり初代の心理描写の延長線上に今の幸四郎が位置するというのが吉之助の見方です。もちろんその中間に白鸚(八代目幸四郎)が立ちます。白鸚もその映像(特に昭和30年〜40年代)を見ると弁慶でも由良助でも説明的に過ぎると言いたいほど表情が実によく動きます。これを見れば今の幸四郎の演技はここから来ているということはすぐ分かります。そしてさらに遡ればそれは初代の芸風にまで行くのです。このことは初代の遺した「熊谷陣屋」その他の映像を見れば容易に確認できます。逆に言えばこのような演技がバタ臭く感じられるほど・昨今の観客は(劇評家もですが)見方が急速に保守化しているということです。実はそっちの方が問題なのですがね。現代にタイムマシンで初代や六代目が芝居を見せてくれたら、今の観客はその新らしさとバタ臭さにびっくりするのではないでしょうか。八代目三津五郎が六代目の勘平を見て・「六代目の勘平ってまるで新劇ですね」と言ってしまって「馬鹿、あれが歌舞伎だよ」と父親( 七代目)に叱られたという逸話がありますが、これは初代も同じです。「歌舞伎らしさって何」ということをもう一度考えてみたいものです。
ただし幸四郎の場合、時に心理表現の思い入れが強きに過ぎて・臭い感じがすること無きにしもあらずです。例えば「寺子屋」後半で「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・せがれ・・桜丸・・・」などと言うのもそうです。前回幸四郎が松王を演じた時はこうでなかったと記憶するので、このやり方は今回が初めてでしょうかね。しかし、これはあまり感心できません。確かにこの 場面で松王が桜丸のことを言い出すのはちょっと唐突な感じもあるので、松王は桜丸にかこつけて息子の死を泣くのか・否かという議論もあるわけです。たぶん幸四郎は息子の死も桜丸のことも一気に迫って堪らなくなって松王は泣くのだという解釈で、小太郎と桜丸を等分に置きたいのだろうと思います。これは考え方としては吉之助も賛成ですが、しかし、ここで改まって「桜丸・・せがれ・・桜丸・・せがれ・・」とやられるとどちらの心情も嘘臭くなる気がします。意図が透けて見えてしまう感じです。要するに心情を克明に描こうとする余りの考え過ぎなのです。折口信夫は初代はともすると演技が臭くなりがちで・歌六(父親)の血が出て・小芝居になって困るということをよく言ったものでした。先ごろの道玄などもそうですが、孫の幸四郎にも似たようなところがあるのかも知れません。
(H21・12・8)
3)二代目吉右衛門の源蔵
吉右衛門の源蔵もなかなか良い出来です。源蔵というのは難しい役で、あまり武張り過ぎると御主人大事の意識が強くて情けがない男に見えますし、かと言って悲嘆の情が強すぎると今度は小太郎を斬ることの必然が弱く見え てしまいます。現代では寺子を主人の身替わりに切ることの封建意識の非情ということが作品解釈の前面に出ますから、源蔵の描線はどうしても弱くならざるを得ません。ですから源蔵は硬と軟の要素の使い分けが難しいのですが、吉右衛門の源蔵はそこをバランス良く演技していると思います。情も涙もあり・しかし忠義のためにやむを得ず・・ということが観客によく納得できる源蔵です。これを平成の源蔵とすることに吉之助も 異存はありません。が、しかし、ここで吉之助は褒め殺しということではなく・吉右衛門には更なる上を目指してもらいたいという期待を込めてちょっと注文を付けたいと思うのです。「寺子屋」のドラマのなかで吉右衛門の源蔵はぴったり納まっています。確かに納得できる演技ですが、納まり過ぎている。このことを問題としたいと思います。
ところで「寺子屋」というのは時代物と言われます。確かに四段目ですから・本格の時代であるべき重い場ですが、舞台面をよく見ればそこは芹生の里の寺子屋です。これは奇妙なことだと思いませんか。これは本来ならば世話物の舞台面、のどかで平和な場のはずです。そこに奇々怪々の政治の世界が入り込んでくることの不気味さということが時代の様相をさらに強めます。これが「寺子屋」の大事なポイントです。このような時代と世話の対立構図を松王と源蔵との関係にどうしたら反映させられるかということを吉之助は考えたいのです。ちなみに別稿「寺子屋における並列構造」において吉之助は源蔵はそれと知らぬまま松王の意向を実現する協力者なのであるということを考察しました。「寺子屋」のドラマツルギーということを考えればそういうことになりますが、前半の首実検までを見れば・確かに表面として松王と源蔵は対立関係であり・またそのように描かねばならぬものです。作者は用意周到に伏線を用意して源蔵の負い目が炙り出されるように工夫しています。まず源蔵は主人菅丞相に筆法伝授を受けるほどの腕前がありながら・禁中での戸浪との恋愛がもとで勘当を受けたという負い目があります。また主人危急の場にお役に立つことができなかったという深い悔恨があります。ですから松王に「お前の忠義はその程度か・オラオラ・・」と煽られて源蔵が「コン畜生、俺の忠義を見せてやる」というところまでカーッと熱くなるのはそこに源蔵の負い目があるからなので、実はこれが松王の境遇とぴったり重なるわけです。またそこまで行かないとホントは源蔵が小太郎を斬るまでの必然には至らないのです。なぜならば源蔵は松王の不忠に対して怒っているだけではなく、それと同じくらいに自分のふがいなさに対して怒っているからです。吉右衛門の源蔵は「菅秀才を守る為に誰かを身替わりにして斬らねばならないという差し迫った状況がある・だから小太郎を斬らねばならない」という意味において論理的に怒っているのです。イヤそこまで も行かない源蔵の方が多いのですから、吉右衛門の源蔵は立派なものです。しかし、心情として熱く怒るところまで行ってはいない。そこに吉右衛門の源蔵が更に上を目指すための課題が見えます。その為にはもっと世話の要素を入れて演技の彫りを深くすることです。
先日アメリカの名ピアニスト・ホルへ・ボレットの公開講座のビデオ映像を見ました。曲はラフマニノフでしたが、旋律が波のように大きく小さく揺れながら次第に高まっていくクライマックスを生徒のピアニストが力任せに鍵盤を叩き付けるように大音量で弾きました。ボレットがこれを制して「いくら力任せに叩いてもピアノの音量には限界があるんだよ。音を大きくしようとするんじゃない。(音の小さい箇所をもっと)小さくするんだ」と言いました。要するにピアノの表現のダイナミクスを大きくする為にフォルテを大きくしようと考えるのではなく、まず大音量で美しい響きが保てる限界を認識して・それを基準にして、ピアニッシモをどれだけ小さくできるかという方向で表現の組み立てを考えよということです。これはテンポでも同じことが言えます。まずその曲の一番早い部分をどのくらいのテンポで弾くか・まずそれを決める、そこから逆算して全体の適切なテンポ設計を割り出すということです。
吉右衛門の源蔵はもちろん立派なものですが、時代と世話のダイナミクスという点から見ると全体が時代の方にやや寄っていてレンジがまだまだ狭いと思われます。もっとダイナミクス の振幅を大きく出来るはずです。このことは別稿「吉右衛門の樋口」でも同様のことを書きました。またこれは吉右衛門に限ったことではなく、同じことが菊五郎にも言えます。別稿「菊五郎の勘平」をご覧ください。描くべきことは確かに描かれていますが、それが矛盾なく枠のなかに納まっているような印象です。相反する要素である世話と時代が並列して矛盾なく描かれることこそ矛盾 なのです。巷間の劇評でこのようなことが指摘されることはほとんどありませんが、このことは平成歌舞伎に共通する課題であると吉之助は考えています。演技が時代に寄っているために舞台の印象がやや重ったるい印象になり勝ちである。これが歌舞伎らしいような・いかにも時代でたっぷりしているかのような感覚を今の役者も劇評家も持っているのです。しかし、それはちょっと違うのではないかと吉之助は思うのですねえ。吉之助がそう思う根拠が初代の「熊谷陣屋」の映像であり・あるいは「まるで新劇ですね」と言われた六代目の勘平のことです。時代と世話のダイナミクスを大きくする為に演技の意識をもっと世話の表現の方に引くことです。そうすることで時代の表現をもっと陰影のある彫りの深いものにできるのです。
(H21・12・24)
4)歌舞伎を人間ドラマに引き戻すために
「寺子屋」前半を見れば松王と源蔵は概念上明確に対立しています。松王は時代の扮装ですし、玄蕃の扮装はもっと大時代です。これに対抗する源蔵は田舎の寺子屋の師匠にすぎません。ですから源蔵のなかの世話を意識することがとても大事です。世話を意識することで・源蔵のなかの時代が炙り出されるのです。源蔵のなかの時代はその身振り・台詞の圧迫あるいは切迫感としてその端々に現われます。玄蕃 ・松王一行が詮議に到着するまで第一のクライマックスへ向けて緊張感を盛り上げていかねばなりません。山城少掾は「源蔵と戸浪の会話は誰にも聞かせられない大事の密談なのだから・ヒソヒソ話のように抑えて語らねばならない」と言いました。(山口廣一:「文楽の鑑賞」での山城少掾の談話) だから台詞を張り上げたり・詠嘆調に流すことは極力避けたいのです。基本として「源蔵戻り」は世話であるべきで、そこに時代が刺さり込むように処理したいのです。吉右衛門の源蔵(共演の魁春の戸浪にも同じことが言えますが)はもちろん平成の源蔵と言える出来ではあるのですが、全体としてやや時代に傾いた印象があると思えます。
吉右衛門の源蔵は台詞の末尾をゆったりと持たせ・いかに情感を込めるかに細心の注意を払っています。例えば「・・・・若君には替へられぬわ」という台詞の「・・替えられぬわ」という末尾です。台詞がゆったりと丸みを帯び・しかも適度な情感も込められて安定感があります。走行中の自動車を停止させる時にブレーキを強く踏んでキーッと停めるのではなく、ブレーキを軽く踏んで速度を落としておいて・停止線のちょっと手前でブレーキをちょっと緩める。そうすると車はふんわりと停止する感じになって、身体が前のめりになるような急停止にならぬわけです。吉右衛門の台詞回しはそうした感じによく似ています。またそうやって見ると吉右衛門のかどかどの身のこなしも丸みを帯びて見えます。このような吉右衛門のやり方は確かに「・・らしく」見えます。そのことを評価したうえで申し上げますが、もし吉之助が源蔵を演るならば「・・若君には替へられぬわ」は「若君」を強く時代に「替えられぬわ」を早いテンポで言い切りたいと思います。こうすることで台詞はずっと世話に聞こえると思います。
「せまじきものは宮仕えじゃなあ」は誰でも「・・・じゃなあ」を詠嘆調に引き伸ばしますが、これは吉右衛門も同様です。しかし、吉之助が演るならば「宮仕え」を強く時代に張って・「・・じゃなあ」を詰めて言うようにしたいと思います。理屈で申し上げれば「せまじきものは宮仕えじゃなあ」は丸本では「せまじきものは宮仕え」であり・末尾の「じゃなあ」は歌舞伎が後で付け加えたものということですが、この台詞で最重要な語句はもちろん「宮仕え」であって・「じゃなあ」ではないからです。歌舞伎が台詞の末尾に重点が行くのは台詞の形を整える方に気が行っているということです。まあ台詞の末尾を重くすれば確かに「・・らしく」聞こえます。しかし、そうすると台詞が収束する感じに聞こえます。「収束する」というのはそれで完結してしまって・あとに疑問が残らないということです。 「・・然り、しかしそれで良いのか」という疑問が涌いてこない。様式のダイナミクスの観点からこれを見ると、世話の彫りこみが浅く、全体が時代に寄る印象になります。これが吉右衛門の源蔵が「納まっている」と感じさせる要因です。作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調について興味深いことを語っています。
『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)
歌舞伎は「宮仕えじゃな」と七語に整えて・この末尾を「・・なあ〜あ」と引き伸ばしているわけです。歌舞伎で「・・じゃな」は省くわけにはいかぬとしても、こういう伸びた台詞回しを聴くとなかにし氏の言葉が思い出されます。「宮仕えじゃなあ〜あ」と詠嘆すれば子供を殺してもセーフというわけです。吉之助が「納まっちゃっている」と感じるのはこういうところです。吉右衛門が巧いので余計に歌舞伎のセーフ感覚が気になってきます。大事なことですが・このあと源蔵は小太郎を殺さねばならぬわけです。泣こうが喚こうがその罪はいずれ廻ってきっちり源蔵夫婦を襲うということをふたりは覚悟して・事を行なうのです。だから源蔵には悲壮感に酔っている暇はなく、これから犯そうとしている罪の重さに正対せねばなりません。そうしないと「寺子屋」は戦前と変らぬ封建道徳賛美の芝居に戻ってしまいます。だから吉之助は「せまじきものは宮仕えじゃなあ」を詠嘆で納めたくはない。何とかこれを破綻させたいと思うわけです。歌舞伎を人間ドラマに引き戻すために、こういうところこそ吉右衛門に真剣に考えてもらいたいものだと思います。
先ほどボレットが生徒に「音を大きくしようとするんじゃない。小さくするんだ」と 注意したことを紹介しました。旋律というものは「流れ」として理解することも大事ですが、それと同時にひとつひとつの音符の主張でもあるのです。音の強弱・ダイナミクスの観点から見ると、強音と弱音は観念そのものとして互いに対立し・ぶつかり合っているのです。強音・弱音それぞれの主張があるのです。ボレットが指摘するのはそういうことです。ですから強音を弱音より大きい音・弱音は強音より小さい音だと物理的に理解するだけでは正しい音楽は作れません。歌舞伎の台詞も同様に考えるべきで、台詞の節回しを「流れ」だけで捉えようとするから間延びするのです。歌舞伎の台詞には大事のなかに時代と世話に対立するものが交錯しています。その語句を時代と世話とに仕分ければ、「若君」と「替へられぬ」、「せまじきもの」と「宮仕え」は概念的に対立していることが分かります。時代と世話は互いにその違いを際立たせ、引き立たせるように表現せねばなりません。それを節回しとしてどのように置き換えるかという風に考えれば、台詞もおのずから違ったものになると思います。
このようなことを吉之助が考えるのは、小宮豊隆の「中村吉右衛門」・小島政二郎の「初代中村吉右衛門」 などの証言を通して、初代の体格が貧弱で演技の線が細いという・時代物役者としては重大な欠陥があったにも係わらず、同時代のライバルたち(東京では七代目幸四郎・七代目中車・十五代目羽左衛門などがいました)を差し置いて時代物の第一人者と言われたのは、初代の人物描写における近代的人間理解に即した写実の要素の故であったと吉之助は理解するからです。当代には初代のこういうところを継いでもらいたいと思います。
(H21・12・28)
小宮豊隆: 中村吉右衛門 (岩波現代文庫―文芸)
小島政二郎:初代中村吉右衛門
5)初代吉右衛門の写実の芸
「初代は熊谷直実や加藤清正など英雄豪傑を当たり役とした」ということは事実としてその通りです。しかし、最近の歌舞伎の劇評など見るといつの間にやら英雄豪傑を当たり役としたから初代はスケールのでっかい役者だったみたいな話にすり替わっています。そうではなくてホントは初代はスケールが小さかったハンデを演技と台詞の巧さでカバーしたということです。初代は歌舞伎のなかにそこにいるのと同じ等身大の人間像を描き出して・それで時代物役者としての不動の地位を築いたのです。ですから本当に大事な点は初代の近代的な人間理解ということです。もちろん吉之助は初代の舞台を生では見てません(初代は吉之助の生まれるずっと前に亡くなったのです)が、これが武智鉄二や小宮豊隆・小島政二郎らの証言・遺された数少ない映像や録音から吉之助が育ててきた初代のイメージです。小宮豊隆は次のように書いています。ここに当代が初代から継ぐべきヒントがあるのではないでしょうか。
『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」)
当代吉右衛門は初代をとても尊敬して、その域に少しでも近づきたいと日々努力を続けていることは誰しも認めるところです。ところで吉之助という筆名の「吉」の字は初代から取っているくらいですから、吉之助も初代を尊敬すること人後に落ちぬつもりです。そういうわけで吉之助は吉右衛門の「お祖父ちゃんのような立派な役者になるんだ」という気持ちはよく理解していますし、「立派な役者になる」ということなら吉右衛門は十分そうなったと言えると思います。今日歌舞伎の時代物なら誰を見るかと問われればまず吉右衛門の舞台が筆頭に挙がることも間違いありません。しかし、お祖父ちゃんの芸風を継ぐというのは「立派な役者になる」とはまた別の次元のことで、その点を考えると実は吉之助は「吉右衛門は初代の芸をどういう風に捉えているのかなあ」とちょっと疑問を感じることがあります。 吉之助がそう感じるようになったのは、吉右衛門が平成18年に初代を顕彰する秀山祭を始めて(つまりこの「寺子屋」の公演からのことですが)・「初代を継ぐ」ことを前面に打ち出してからのことです。それから本年(平成21年)まで4年間で吉右衛門は初代の当たり役の主だったところを演じたわけですが、それらの舞台を見ると・吉之助は吉右衛門は「初代は英雄豪傑を当たり役とした線の太いスケールの大きい時代物役者だった」と信じて疑っていないように感じられます。劇評などで「初代の舞台を思い出した」云々という文章を読むと吉之助は疑念を感じざるを得ません。良いとか悪いとかは置いて、芸が写実に根差すかどうかの点において当代は初代の芸風といささか異なるという風に吉之助は感じるからです。熊谷でも樋口でも河内山でも初代とちょっと違うのではないかと感じます。まず吉右衛門は初代とは違って身体が立派で押し出しが利くということがあります。これは初代と比べた時の絶対的に有利な点ですが、初代の芸という ものは若干軽くて細身の感じがしたにしても、もっとシャープで写実で・等身大の人間に近いものではなかったかと考えます。
もちろん歌舞伎役者の当代が先代の芸風そのまま継がねばならぬという法はありません。昨今見ますと先代と似ている方が少ないようで、まあ時代も変るし・世代が変れば歌舞伎も変るよなあと感じることが多いものです。しかし、吉右衛門に初代の芸風・つまりシャープで写実で・等身大の人間に近い人間解釈という点について認識を新たにしてもらいたいと吉之助が考えるのは、昨今の歌舞伎が重ったるい方に傾いている・時代に納まることを歌舞伎らしいことだと感じる風が強いからです。また劇評家・観客もそれで良しと します。この傾向は実は昭和歌舞伎の終り頃(昭和50年代)から始まっていることですが、この傾向を是正するために全体を写実・世話の方に強く引き戻す必要があると感じるからです。そのためには六代目菊五郎・初代吉右衛門へ回帰せねばならないというのが吉之助の考えるところです。ですからこれから平成歌舞伎を引っ張る吉右衛門には更なる上の芸を目指すという意味でも、シャープで写実で・等身大の人間に近い人間解釈ということをもっと考えて欲しいのです。ところで武智鉄二が昭和53年にこんなことを書いています。これが現在吉之助が吉右衛門について感じることをピッタリと一致します。
『(名門出身ではなかった初代への数々のイジメをはねのけて)庶民の側・人間主義の時代精神の側に立つことを決してやめなかった(別稿「吉右衛門の馬盥の光秀」を参照のこと)ところに初代の偉大はあった。しかし、初代の芸の展開上の欠点は、台詞の技巧にとりすがって、晩年、自分自身の声色を使うようになった点で、この点が六代目菊五郎との芸質上の決定的な差にもなった。菊五郎は自身の声色を使うことが生涯なかった。今の吉右衛門の助言者たちは、初代が晩年に自身の声色を使うようになった時代の、やや調子の下がった台詞を、吉右衛門に伝えているのではないか。そこに吉右衛門の芸の創造性、ふくらみ、心からの悲壮感、人間性の掘り下げの欠如が由来しているのではないか。吉右衛門が真の初代の後継者となるためには、自分自身の芸術家精神、内面性、人間性を打ち立てることが何より肝要で、晩年の初代の台詞回しの模倣のようなことをどこかで打ち切る必要がある。(中略)それには歌舞伎脚本を、かつて初代がそうしたように、現吉右衛門の目で精神で哲学で見つめ直すことから出発して、ハートからの発声が出来るようにならなければならない。』(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月・文章は吉之助が多少アレンジしました。)
さすがは我が師匠、きっちり見ていますねえ。吉之助が申し上げたいことは「歌舞伎らしさ」とか形から入ることはもうやめて、ハートから独自の役の構築・台詞回しに入ることを吉右衛門はそろそろ目指す段階にあるということ、またこれこそ吉右衛門が真に初代の芸を継承することだということです。
(H21・12・30)
(付記)「吉之助の雑談」での「台詞のなかの時代と世話」もご覧ください。