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十一代目海老蔵の「伊達の十役」

平成22年1月新橋演舞場:「慙紅葉汗顔見勢・伊達の十役」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(乳母政岡、仁木弾正ほか十役早替わり)

*本稿にある猿之助は、三代目猿之助(二代目猿翁)のことです。


1)猿之助歌舞伎の思い出

今思えば吉之助が歌舞伎を熱を入れて観ていた昭和50年代というのは三代目猿之助が最もエネルギッシュであった時期でした。毎月々々趣向を凝らした演目に吉之助も「猿之助は次は何をやるか・何を仕掛けるか」ということで芝居を見るのが楽しみであったものでした。吉之助は個人的に猿之助歌舞伎の復活物で最も出来が良かったのは「菊宴月白浪」(昭和59年10月歌舞伎座)であったと思いますが、昭和54年4月明治座初演の「伊達の十役」は早替わり・宙乗りの猿之助人気を決定付けたもので・猿之助歌舞伎の代名詞的な作品であると言えます。しかし、平成に入った辺りから吉之助はいろいろ理由があってだんだん猿之助から距離を置くようになりました。

このことについてはいずれ機会を見て何か書きたいと思いますが、平成 8年7月たまたま歌舞伎座の前を通ってぶらり立ち寄って幕見で観た「独道中五十三駅」はただ決まった段取りだけをこなす生気のない舞台で、吉之助はホント悲しい気分にさせられました。猿之助も岐路に立ったなあ・そろそろ身体が動かなくなってきた猿之助が今後役者としてどういう変化を遂げるのかなどと思いましたが、その後不幸な病気があって猿之助は現在舞台に立てないでいます。猿之助の心中察するに余りありますが、しかし、昭和50年代に猿之助が生み出した流れは現在でも確かに続いています。右近や段治郎ら二十世紀歌舞伎組の連中の成長もそのひとつですが、例えば勘三郎のコクーン歌舞伎や野田秀樹との提携も直接的には猿之助の流れではないにせよ・猿之助が切り拓いたものがなければ決して生まれなかったものです。そして今回の海老蔵の「伊達の十役」への挑戦ももちろんそういうものです。ゲーテは次のように言っています。

『私にとっては、われわれの霊魂不滅の信念は活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現世の生存の形式ではもはや持ちこたえられない時は、自然は必ず別の生存の形式を与えてくれるはずだからね。』(エッカーマン:「ゲーテとの対話」・1829年2月4日)

それにしても海老蔵が「四の切」の狐忠信を猿之助に教わって宙乗りした時にも軽い驚きがありましたが、まさかその後に「伊達の十役」も演ることになるとは。後になればああそういう流れであったかというようなものですが、しかし、考えてみれば猿之助は願ってもない後継を得たのではないでしょうかね。

(H22・2・8)


2)「役を兼ねる」ということ

同じ芝居のなかでひとりの役者がふたつの役を兼ねるという時、そこには必ず理由があるものです。例えば何者かが或る人物に化けているという場合(「川連法眼館」の源九郎狐と佐藤忠信)、あるいはふたりの登場人物が演劇的に等価に置かれる場合(「桜姫東文章」の清玄と権助)などが考えられます。そこにふたりの容貌がそっくりであるということの演劇的な意味があるわけです。しかし、「伊達の十役」のように何でもかんでも役を兼ねるということになると、そこに演劇的な必然はあるものでしょうか。本稿ではまずそのことを考えて見ます。

別稿「兼ねることには意味がある〜変化舞踊」でも触れましたが、変化舞踊において同じ役者が複数の違う役を演じるということの本来の意味は、まったく違う複数の人格を連関なく演じ分けているということではなく、同じ人格が見た目の表面の姿だけを色々に変化させているのであり・その本質はまったく変わらないということです。つまり、それは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。時代を下るとこのような「変化」の趣向が定着していくなかで、その演劇的必然が形骸化して・見た目の変りようだけを狙ったものになっていきます。

「伊達の十役」のような早替わり芝居も同様に考えられます。ひとりの役者が複数の役を連関なく演じているようでも、実はそれはすべてひとりの人格がまとった仮の姿であるということです。歌舞伎には昔から「役人替名」という考え方がありました。これは芝居のなかの登場人物名はその役者が舞台上で仮に名乗っている名前であるという考え方からきたものです。歌舞伎にはそのような伝統がありましたから早替わりの趣向も観客に抵抗なく受け入れられたと思います。

ですから「伊達の十役」の眼目は、ひとりの役者が複数の役柄を的確に演じ分けられることができるかということでは必ずしもないのです。もちろんそれも芝居の楽しみ方としてはあるものですが、芝居を味わう・役者の芸を味わうのならばしかるべき演目を選んでじっくり味わうのが本筋です。政岡の芝居を観たいのならば「先代萩」で観るべきだということです。「伊達の十役」を観て政岡を知ったつもりになってもらっては困る。早替わり芝居の眼目とは、ひとりの役者がその個性の色々な可能性を引き出して見せる、そこにはぴったりはまる役も・いまいち仁にない役もあるでしょうが、それも含めてその役者の多面体的な魅力を引き出すということにあります。それらすべてがひとりの役者がまとった仮の姿の集積となるということです。その昔、戸板康二氏が猿之助の芝居の劇評で「飴のなかから猿之助」と書いたことがありました。早替わり芝居というのは「変化」の趣向自体がお楽しみなのです。今回の「伊達の十役」でも、横の席のお客がお連れさんに「筋書き見ないとどれが何の役だか全然分かんない・あれは何の役なの?」とボヤいておりましたが、こういう芝居は観客にそうした混乱を引き起こすことこそ本意というべきなのです。

(H22・2・9)


3)海老蔵の「伊達の十役」

「伊達の十役」は「伽羅先代萩」と内容がダブりますが、「先代萩」の世界は先行作が歌舞伎から来たり・浄瑠璃から来たりして成立過程が複雑で「どれが決定版」と言えるものがないのが実態かと思います。例えば「伽羅先代萩」を見ると床下の仁木は妖術を使ってカッコ良いのですが、後の刃傷では目を血走らせて短刀振り回して暴れなくても得意の妖術使ってスマートに決め ろよと言いたくなります。どうやらここでの仁木は妖術が使えなくなって並の人間らしいのですが、「伽羅先代萩」の舞台を見ているとその理由が全然分かりません。しかし、「伊達の十役」を見ると仁木が妖術を使えなくなるのは、忠臣(与右衛門)が犠牲になって仁木の通力を無きものにしたという伏線がちゃんと付いています。類似作をいろいろ眺めていると「先代萩」の世界のイメージがおぼろげに見えてくるようです。 「伊達の十役」はそれをダイジェスト的に早廻しで見せてくれるお芝居だと考えて良いと思います。

ところでこの「伊達の十役」は「飴のなかから海老蔵」と言うべき芝居なのですから・そこから海老蔵という役者の多面的な魅力と可能性が引き出されていればそれで良いのです。しかし、海老蔵は役によって声色を使い分けようと意識しているように思います。これはまあそういうことになるのも仕方ないところですが、あまりそのような意識を強く持たずにむしろ口調によってこれを仕分ければ良いと思います。十役を一通り見ると声質的に見て海老蔵に最も良く似合うのはやはり与右衛門で・事実この役は海老蔵に一番ぴったりはまる仁であるし、最も良くその声が客席に通っています。役によって声の客席への通り具合に 結構差があるようでしたが、口上の場面の海老蔵が意外に声が通って来ないのはやはり喉をどこかで作っているせいだと思います。色々な役を一度に演じれば自分にぴったりの・喉に負担の掛からない声域がどこにあるが感覚で分かってくると思います 。そのなかで喉に負担の掛からない声域(それが一番客席に通る声域なのです)を見つけて自分なりの台詞回しを探っていくべきだろうと思います。声だけ聞いたらどの役だか分からんと言われても気にすることはありません。名優というのはみんな自分の声色を持っているものです。

「伊達の十役」のなかでは政岡が最も重い役であるし・海老蔵がこれをどう演じるかが興味の中心になるのは当然ですが、海老蔵にとってこれは加役であるし・それが八汐みたいに見えたところで別にどうってことはないのです。海老蔵の政岡は千松がなぶり殺しになって声を上げる度にギュッと身体を硬くして息を詰めるのが実に良く分かる政岡で、これは予想以上に良い政岡であったと思います。しかし、荒事の総本家である成田屋が床下の荒獅子男之助の発声があまり巧くなかったのはちょっとガッカリで、これは何とかしてもらいたいものだと思いました。これは声域の置き方が違っているようです。喉に無理しているから甲の声が出ないのです。海老蔵の場合は多少声が細い感じになっても・もう少し声のトーンを高めに置いた方が喉に負担が掛からないはずです。昨今は荒事は太い声が良いという思い込みがあるのかも知れませんねえ。これは恐らく二代目松緑の荒事のイメージから来るのではないかと思いますが、吉之助は荒事 の発声は本来高調子で行くべきものだと思いますし、その方向で言い回しを研究した方が海老蔵の声質に合うはずだと思います。それにしても何と言っても海老蔵で良いのは床下の仁木弾正で、これは妖気・凄みともまさに一級品でありました。海老蔵の仁木が宙乗りで浮き上がって引っ込む光景を見るだけで「伊達の十役」を見る価値はあったと言うべきでしょう。

(H22・2・12)


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