十八代目勘三郎の「法界坊」
平成17年(2005)8月・歌舞伎座:「法界坊」
十八代目中村勘三郎(法界坊)
串田和美演出
1)「クリティカル(批評的)」ということ
「野田版・研辰の討たれ」や「NINAGAWA十二夜」などを見て印象的に感じることは、歌舞伎役者たちが嬉々として演技をしていることです。これは演技が良いということと必ずしも直結はしませんが、しかし、とにかく「演じることが楽しい」という気分が客席に伝わってきます。それが舞台の雰囲気を楽しいものにしています。
こういう雰囲気は普段の歌舞伎の舞台にはあまり感じられないものです。普段の舞台が詰まらないと言っているのではありませんが、こういう雰囲気が普段の古典の舞台でも感じられてもいいのではないかと思うことはあります。逆に言うと歌舞伎役者には「伝統の重圧」とか「型の呪縛」みたいなものがあって・普段はこういう気分になかなかなれないのであろうなあとお察しをするわけです。
こうした新作喜劇であると全員が初役なわけで・演者が制約を受けるものは何もない・いわば自分で型を作れるわけです。あるいは観客のなかにある「歌舞伎とはこんなもの」という既成概念を打ち破るという快感もあります。古い観客には「こんなものは歌舞伎じゃない」と顔をしかめる人もあるでしょうが、それさえも快感になる。これも本来の「かぶく(傾く)」という精神の表れだということも言えるかも知れません。
別稿「古典劇における趣向と型」でも触れましたが、これは欧米の舞台人の感じ方とはちょっと異なるものです。欧米人の舞台人は歌舞伎を見て「こういうクラシックな在り方があるなら・その枠組みのなかで自分たちはもっと自由な演技ができる」と感じるようです。彼らは「様式(フォルム)」はいつでも寄りかかれる壁であると感じて、そこに憧れにも似た感情を抱くのです。こうした欧米人の感覚から見れば「研辰」や「十二夜」での役者たちのはしゃぎ振りは若干ねじれて見えないこともありませんが、たまの息抜きも必要なことであろうし・そこから古典を演じることの意義を再確認できるならば良しです。
しかし、「古典を読み直す」ということになれば問題はちょっと別になります。そこに「クリティカル(批評的)」なものがなければ、伝統演劇においては意味はないのです。別稿「型の周辺」において型の再検討について考えました。ここで提示した「批判型」という概念は、古典の型を否定するものではありません。批判型とは古典の意味を抉り出し、今まで空気にみたいに在ってもないように感じていたものが実は伝統演劇の不可欠な要素であることを再確認する作業なのです。
例えば新劇で鶴屋南北作品を取り上げることはたまにあることです。新劇の南北は歌舞伎にはない新鮮さを感じさせることがありますし、実際彼らは歌舞伎と違うものを作ろうという意識で掛っていますから・そういうものになって当然です。新劇というのはそのルーツを旧劇(歌舞伎)の否定に発しているからです。だから歌舞伎に対するトラウマ的な意識をその根底に強く持っています。
歌舞伎において南北の型を再検討するという場合、それが新しい演出で・単に新奇に見えるだけでは意味がないのです。それならば新劇で南北を演るのと変わりがないからです。古典は歌舞伎役者のホームグラウンドなのですから、彼らはいつでもそこに戻って従来の型(古典)を演じなければなりません。伝統=寄りかかれる壁(基準)の再認識が彼らの意識になければなりません。常に伝統に立ち返ることがなければ、逆に古典の規格が崩れていくのです。このことは常に戒めなければならないことです。
2)見るべき成果なし
平成中村座や渋谷コクーンでの・勘三郎と串田和美の一連の活動はいろんな側面からの評価ができると思います。「歌舞伎素人講釈」の場合であれば・それが批評型になっているかという視点からの評価になります。そういう点でもいくつかの興味ある成果を挙げていますが、このことは「歌舞伎素人講釈」でも渋谷コクーンでの「三人吉三」についての別稿「空間の破壊」でも触れました。「三人吉三」を見ると初期の串田演出は従来の歌舞伎の型をベースにして・そこにちょこっと自分のアイデアを加えていくという・何と言うかある意味では遠慮気味というか・歌舞伎への尊敬の念を感じる控え目さがあったと思います。しかし、だんだん慣れてきて自信が着いたのか・大胆になってきて「夏祭」では外人を舞台に上げてフリーズ!とやった。このことについては「歌舞伎素人講釈」でも触れました。(別稿「古典劇における趣向と型」をご参照ください。)一度切りの趣向で終えねばならないことをご恒例の型にして「次は串田・勘三郎は何を仕出かすか」の泥沼にはまり込んだということです。今回は串田和美が「法界坊」を持って歌舞伎座に登場。広告チラシにはこうあります。
『勘三郎とタッグと組んで新鮮な歌舞伎の形を提示してきた演出家・串田和美が満を持して歌舞伎座に初登場。悪党だけど憎めないコメディアン法界坊が縦横無尽に暴れまくり大評判をとった平成中村座版が歌舞伎座に移ってどのような変貌を遂げるのか。』
なるほど巷のご期待はここにあるということです。そこで満を持した串田和美が「法界坊」の演出をどう変えたかと言うと、平成12年11月平成中村座での「法界坊」のビデオと見比べたところでは・今回の歌舞伎座版の大筋の変化はほとんどないようです。その代わり、筋に全く関係ない・ドラマから遊離した瑣末的なギャグが大幅に増えています。つまり徹底して観客を笑わせてやろうという・ただそれだけが今回の歌舞伎座版・法界坊のコンセプトであったようです。その結果、テレビでのお笑いコント番組みたいになりました。「法界坊」なんてその程度の芝居だとも言えますがね。浅草の狭い平成中村座という「場と空間」だから受けたギャグをそのまま歌舞伎座のばかっぴろい空間に持ち込まれると、そのギャグのお寒さがよく分かります。
結局、「串田・勘三郎は今度はどう笑わせてくれるか」というところの泥沼に落ちたということのようです。「夏祭・フリーズ」と同じことを繰り返してるわけです。演劇の一時性を想起させ・古典を活性させることの方法論を見出して欲しいものですが、この辺がもう限界かも知れません 。
3)勘三郎の危ない状態
ところで勘三郎も危ない状態に差し掛かっていると思います。明らかに「勘三郎は笑わせてくれる楽しい役者だ」という先入観(期待)で芝居を見に来ている観客が増えています。例えば同じ月・第2部での「伊勢音頭」での初役の万野です。何だか「世話の岩藤」という感じでありましたが、問題は万野が貢をいじめる一挙一動に「可笑しい仕草を見ました」という感じの笑いが客席から沸くことです。勘三郎に笑いを取るつもりはないでしょうが、演技が臭く見えてくるのです。何となく意図が透けて見えるようで仕草が型くさく見える。だから万野が世話の岩藤みたいに見えて来るのです。観客の空気が役者も作るものなのです。
万野で言えば歌右衛門を思い出します。歌右衛門には珍しい敵役でしたが、いじめが陰湿でねっとりとしていました。何の意図があってここまで貢をいびらないといけないのかよく分からない・もしかしたら万野は貢に気があるのかも知れぬ・貢をいびって楽しんでいるのかも知れぬと思うような粘っこさが夏芝居にふさわしいものでした。勘三郎の万野は貢に対する悪意が先に立っています・だからキャラクターが案外単純なのです。演技が重め(重いのと粘っこいのとはちょっと違います)で・世話本来の味が薄いと思います。
勘三郎の演技の問題がもうひとつあります。これは今回の万野も・襲名披露の盛綱でもそうでしたが、真面目な・古典の役柄を神妙に演じようとする時に演技が重くなることです。つまり、テンポが遅めで・演技の立ち上がりが 妙に重い印象があります。研辰やら法界坊であれほど軽妙で・反応の早い演技を見せる勘三郎が古典でどうして重くなるのか不思議な気がします。多少小粒な感じになったとしても、もっと小回りの利く・テンポのいい演技を見せてくれるほうが勘三郎らしくていいのにという気がします。どうしてこうなるのかと言うと、喜劇調の楽しい役と・古典の真面目な役との「対照」でこうなるのです。つまり、本人にこのふたつのジャンルの役どころにきっちり一線を引いて・「おぶざけの役も演りますが古典の役もしっかり演ってます」という意識が非常に強いのだろうとお察しをします。だから古典の役が自然と重くなるのです。
ところが人間というものはそう器用に出来ていないもので・背反する要素を同時に追おうとすればどちらもうまく行かなくなるのです。勘三郎ほどの器用な役者にしてもその気配があります。勘三郎の場合はこのところ喜劇的な役どころに傾斜気味なので、古典の役どころが重くなっていくのです。
例えば勘三郎が盛綱という役を演る場合・こうした時代物の本格は勘三郎にピッタリの仁というわけではないですから、自分の持ち味を生かして・多少印象が軽くなっても線がシャープで引き締まったテンポの良い演技を目指す方が勘三郎の本来の行き方であると思います。ちょっと禅問答めくかも知れませんが、別稿「新勘三郎の盛綱」で「鰯売恋曳網」の幕切れ・花道での愛嬌のある猿源氏の笑顔、ああいう感じでいいから明るくパッと扇を掲げればよろしいと書いたのはそこのところです。あれが勘三郎の持ち味なのですから、自分の仁を古典のなかに生かせば良いのです。ところが勘三郎のなかになまじっか「本格」のイメージがあるので、それが邪魔になるのです。「古典の役も真面目に神妙に勤めます」というのが勘三郎がおふざけの役を演ることの申し訳になっているから、自分の身丈に合わない本格のイメージを追おうとするのです。そのことが古典での勘三郎の持ち味をかえって殺すことになっています。
この弊害は勘三郎が父親(先代)を亡くして・先代を意識し始めた頃から徐々に出始めています。例えば時代物での口に物を含んだような・くぐもった口調です。それは確かに先代の口跡を思い出させるところがあって・先代を知る者にとって懐かしいところがあるのも事実ですが、これが勘三郎の古典の演技を重い印象にしているひとつの要因です。こういう傾向が平成中村座などの活動をヒートアップさせてきた頃から強まっているようです。さらに前述の観客の勘三郎に対する見方の問題が加わります。多くの観客が勘三郎で笑おう・楽しもうという期待で劇場に来ていることです。こうした相乗的な要因で今後の古典の勘三郎がどういう方向に進むのかは危ういところがあると思います。器用な勘三郎のことであるからある程度の域までには行くでしょう。しかし、このままだと勘三郎は古典の役では小器用なだけで終わってしまうかもと心配になってしまいます。
4)盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に
串田・勘三郎のもうひとつの問題は、勘三郎の悪ふざけを他の役者に波及させたことです。法界坊の場合は、まあいいといたしましょう。法界坊の悪ふざけというのはお釈迦さまの手のひらの上の孫悟空のようなもので、伝統的な枠組みの上に乗っかって・その上で飛び回っているから面白いわけで、だから許されるのです。周囲の役者も法界坊に絡む場面においてはそれなりのリアクションが許されますが、ただしこれは歌舞伎ですから節度というものがおのずと必要です。
しかし、今回の歌舞伎座版の改変の大半が大筋に関係ない法界坊の周囲の役者のギャグの増強であって、お組(扇雀)や番頭正八(亀蔵)・要助(福助)らを巻き込んで 法界坊と同じ次元の悪ふざけをさせているのは非常に問題が多いと思います。確かに彼らも嬉しそうに演じているし・観客も笑っていますけれど彼らの芸にとって何の益もありません。こうした悪ふざけは将来的に彼らの芸を荒んだものにしかしないと思います。そういうことを串田も勘三郎も少しは考えて欲しいものです。
勘三郎の法界坊はよく動き回り、テンポもあって客席を沸かせます。生き生きとしていて・水を得た魚のようです。こういうのが心底好きなのですね。確かに先代も法界坊ではいろいろ悪戯をやりました。それが可笑しかったことを吉之助も否定はしませんが、先代のファンを自認する吉之助でも法界坊を先代の代表作に挙げたいとは思いません。やっぱり歌舞伎役者は古典で成果を挙げて評価されてこそ本望というものです。当代勘三郎はどこへ行くつもりでしょうか。
先ほども書きましたが、背反する要素を同時に追おうとすれば・どちらもうまく行かなくなるのです。人間はそんなに器用ではないのです。歌舞伎役者がスタンスをどちらに置くべきかと言えば・それが古典であるのは当然だと思います。古典のなかでこそ役者としての生き様が評価されます。「理屈ぬきで楽しく面白い歌舞伎」が片方にあって・「真面目で神妙な古典歌舞伎」がもう一方の対極としてあり、自分はそのどちらもきっちり演じ分けられると思っているならそのうち行き詰まるでしょう。盛綱を楽しげに・法界坊を神妙に演じる。そういうことを勘三郎はそろそろ考えてみてもいいのではないですか。それでちょうど良いと思いますが。
(H17・8・18)
(後記)
別稿「芝居における入れ物の重要性」もご参照ください。
別稿「型の周辺」や「古典劇における趣向と型」などもご参考にしてください。
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写真 c松竹、2012年5月、平成中村座、髪結新三