古典劇における「趣向」と「型」
〜オムニバス形式による論考*本稿は「歌舞伎の雑談」コーナーに連載されたものをまとめたものです。
1)「武器」としての様式
本稿は別稿「型の周辺」の続編です。そこで論じたことを前提として確認しておきます。江戸時代における「型」の在り方と・現代における歌舞伎の「型」の在り方は違うということです。現代における歌舞伎の「型」は全体を貫く「演出」でなければならない。なぜならば現代における歌舞伎は「古典劇」だからであるということです。それを踏まえて「趣向と型」の問題を逍遥してまいりたいと思います。
ドイツの小都市バイロイトはワーグナーの聖地でありますが、彼の地のヴァーンフリート(ワーグナー住居)に、ワーグナーが自作を演出した時の舞台模型(ごく小さなものですが)などが展示されています。これは文献的に貴重なものでして・上演されるものなら是非見てみたいものだと思いましたが、今後も絶対に上演されることはないでしょう。もはや神話になったとさえ言えるヴィーラントの「新バイロイト」の演出ももはや文献でしか見られません。解釈主義の先駆けとなったシェローの演出も見られない。 吉之助が見た83年のホール演出も見られません。演劇ならば70年代のロイヤルシュークスピア劇場での「夏の夜の夢」のP・ブルック演出が忘れられませんねえ。これももはや見られない。 それらは新しい演出にとって代わっているのです。
こういうことはヨーロッパの古い石作りの町並みを見ているだけでは想像も付きません。欧米での舞台芸術の在り方は、先人のものを乗り越え・塗りつぶしていくことです。そうやって彼らは前だけを見て進むのです。 作曲家であり・ウィーン国立歌劇場の音楽監督を勤めたほどの優れた指揮者でもあったグスタフ・マーラーは「伝統的であるということは怠惰である・だらしないということだ」とまで言い切りました。
欧米人が歌舞伎の何に衝撃を受けるのか、それを知っていないと絶対に分りません。彼らは歌舞伎に舞台芸術の全く違う在り方を見るのです。400年の歴史のなかに蓄積された技術・歴史のなかで練り上げられた演出、そうしたものを残していく芸術の在り方に驚嘆し・感動し、ある部分は羨ましがるのです。羨ましく思う方はたいていは舞台人ですが。つまり、歌舞伎が「古典(クラシック)」であるということ、これが彼らの感動の源泉なのです。欧米の舞台人がなぜ歌舞伎を「羨ましい」と感じるかと言えば、 常に更新を求め続ける欧米の舞台芸術の在り方が舞台人自身にかなりプレッシャーになっていることがあります。こういうクラシックな在り方があるのなら・もっと自由に演技ができるはずだと彼らは思うのですね。
お分かりかと思いますが、これは我々日本人が「様式(フォルム)」というものをイメージする時と全く逆の感じ方なのです。我々はしばしば「様式」をある種の制約と感じます。それを打ち破る力(ちから)が時には必要だと感じます。しかし、彼らは「様式」のなかに身を任せ・その枠のなかで自在に泳ぐことの自由を感じるのです。(ご注意いただきたいですが、欧米演劇に様式がないのではありません。彼らは様式を自分の個性の名のもとで打ちたてようとするのです。もっと大きな枠組みとしての演劇様式が与える安心感を彼らは羨むのです。)ブルーノ・タウトに日本人が桂離宮の美を教えられたように・我々は 今また歌舞伎の魅力を見直さなければならないのかも知れません。現代における「古典劇」としての歌舞伎は、そのベクトルを変えることで「様式」を武器にできるのかも知れないのです
このことは「趣向と型」の問題を考える時に大きなヒントになります。冒頭において、現代における「型」を全体を貫く演出であると規定しました。「型」は様式(フォルム)であると考えていいのです。それならば「趣向」は一時的な・刹那的な演出であると言うことができます。大まかな分類ですが、アドリブを含めた反様式的表現を「趣向」に含めます。そうしますと「古典劇」での趣向と型の問題は、結局、様式を壊すか・これを守るかということになるのです。(この稿づつく)
(H16・10・31)
2)演劇の「一時性」
舞台での演技は・そこで表現された瞬間に消えていく・そういうものであります。それは観客の「記憶」という形で保存されるしかないのです。(録音とかビデオとかは別次元の話です。)つまり、二度と同じ瞬間はやってこないのです。このことは「人生の時間は巻き戻すことはできない」という真理にも重なります。その真理のもとにあるのが「舞台芸術」というものです。(音楽も同様であります。)「一時性」は演劇の大事な要素です。このことが「 近代的な意味での型・永続性のある演出」と「趣向・刹那的な演出」との関わりになってきます。
古典劇というのは演劇の「一時性」からちょっと離れたところに立つわけですが、もちろん「一時性」の宿命から逃れることはできません。現代劇は時代との同時性が「売り」ですから、そのスタンスを即興性・あるいは趣向に強く求めざるを得ないのです。だから時代とともに その大半が消えていくものであります。ごく少数のものだけが時代を代表する遺産として残ります。
逆に言えば、現代劇においても表現の永続性を目指すという方向性は・表現の完璧さを求めるという意味で常にあるものです。つまり、様式化への憧れはそれが芸術である限りは現代劇のなかにも必ずあるのです。しかし、そのために表現が定型化するならば、彼らはこれを「悪しきもの・怠惰なもの」としてこれを嫌うということです。それは「一時性」を失うということでもあるからです。いずれにせよ「趣向」が現代劇の大きな要素です。
古典劇からみれば、「型・演出」はそれを古典ならしめる拠り所であり・「趣向・刹那的な演出」はそれにより演劇の「一時性」を想起させるものであると言えましょう。いわば、趣向とはスパイスであります。趣向だけでは古典劇にはならないし・配合を間違えれば様式を壊すことになる。この危険性を認識せねばなりません。
本年10月・大阪松竹座での串田和美演出・勘九郎主演「夏祭浪花鑑・NYバージョン」について考えてみます。
2年前の大阪平成中村座の「串田演出・夏祭」ではエンディングで舞台奥が開き・勘九郎が外の公園を走り回って喝采を巻き起こしました。吉之助はなんとなく「お里が知れたな」とも思ったけれど、たまにはこういう趣向もよろしいかなと思いました。その次が、渋谷コクーンでの「夏祭」エンディングでのパトカー登場であります。この幕切れについて、ある評論家先生が「あのエンディングは昔のアングラ演劇にはよくあった手法でしてね・昔の芝居を知っている人間には新鮮でも何でもないです」と講演会で発言したのを聞きました。歌舞伎であんなことをして・・とは仰いませんでしたが、それに近かったと思います。 吉之助も半分くらいは同意でしたが、初めてあの幕切れを見た若者たちには 新鮮な驚きであったろうし・まあいいかというようなところでありましたね。趣向が作品の本質を突くということも、それは確かにあるものなのです。しかし、これがこれからも続くとマズイなと思ったので、メルマガに「このパトカーの幕切れは多分「古典」にはならないし、またしてはなりません」と書いたわけです。(別稿「空間の破壊・三人吉三」をご参照ください。)
吉之助は大体こういう流れになることは分っておったのです。「夏祭・エンディングで串田・勘九郎は次は何をやるか」というパターンにはまり込んだのです。こうなると、次はもっと違うこと・凄いことをやらないとお客は喜んでくれません。このパターン化は「型」化の一歩手前なのですよ。本来「趣向」であるべきものが 「型」化していく方向が見えたのです。NYの「夏祭・フリーズ」も、ああまたねという感じでしたが、それでもNYでのことでもあるし・まあいいかと言うことで書いたのが「夏祭とウエストサイド物語」の記事です。こういう趣向もNYという都市の背景があるから許されるのです。今回 (つまり4回目)の凱旋公演を称する大阪松竹座に至っては、もうこのエンディングが「ご恒例化」しておるなという感じですね。
「型の周辺・その7」において型を「流れ」で捉えるということを申し上げました。大阪平成中村座から今回の大阪松竹座まで「串田版・夏祭・エンディング」の4回を流れで 捉えば、その流れは完全に「型」の方向を示しているのです。今回のお鯛茶屋に外人が登場して「ニューヨークからついてきました」と言うなんぞは、完全に「エンディング」のための段取りでしょう。 「趣向」がひとり歩きを始めています。これはもはや「趣向」でもなく・完全に「型・演出」であり、しかも、本来あるべき位置を逸脱している。これ以上の逸脱は「歌舞伎」を標榜するならばもう許されないと思います。(付け加えますが、これは「芝居として面白いか」という問題とは全然別の議論であります。)
「趣向」を趣向に留める方法はただひとつ、「もうこれ切り」にすることなのです。「NYに行って勘九郎の夏祭見たよ」・「へー羨ましい、私も見たかったなあ」と語り草にして・それで人々の記憶のなかにだけ留めるのが「趣向」の役割なのです。それならば舞台芸術の「一時性」のなかでの「華(はな)」で終わるのです。そういう「 終わりの美学」を勘九郎は知るべきかなと思います。(この稿づつく)
(H16・11・4)
3)古典再検討の可能性
アングラ演劇の串田和美氏が歌舞伎に参画するならば、期待されていることは「硬直した歌舞伎に生気を吹き込むこと」でありましょうが、その方法論はふたつあり得ると思います。
ひとつは「演劇の一時性」を呼び覚ますことでありましょう。つまり、趣向を追い求めるということです。ただし、「趣向」には趣向の分(ぶ)というものがあるのです。そこをわきまえている必要があります。あえて「一回性(それ切りで終わり)」にこだわる必要がある・つまり歌舞伎に使い捨てされるのを「それで善し」とせねばならないのです。その覚悟があるかということです。 吉之助はこれを「 終わりの美学」と申しております。
「夏祭・エンディング」の4回の流れを見れば、「次は串田・勘九郎は何を仕掛けるか」という泥沼に入りかけているのがよく分ります。表面的にはいろいろやっていますが・本質的には同じ趣向の周囲を回っているのです。次はもっと凄い エンディングを見せなければお客は喜んでくれません。今回の大阪松竹座だけをみればそれは確かに「NY凱旋」の趣向だとしても、まあ それは言えないこともないかも知れません。ならば次は 「夏祭・エンディング」で何をやりますか。次に歌舞伎座でこれをやれますか。そこまで考えれば、おのずと答えは出るのです。もう「これっ切り」にすべきなのです。
串田氏・勘九郎はあえて「趣向」を趣向で留めることも「仕事」とせねばなりません。「夏祭」は今回限りで封印する・そして今度は別の作品で「趣向」を生かす。そういう勇気が必要なのです。そうすれば彼らの「仕事」全体が生きてくるのですよ。
串田氏に期待される方法論がもうひとつあります。それは現代劇の視点から「古典」を読み直すということです。例えば吉之助は繰り返し誉めましたが、その「照明の使い方」です。あるいは公開講座でも申し上げましたが、「三人吉三」のお嬢吉三の大川端の長台詞で「御厄しませう厄落とし」と声が掛かる時にお嬢がビクッと反応する仕草です。これは歌舞伎の在来型の「批判型」たり得ているのです。 (「型の周辺・その九:批評としての型」をご参照ください。)同じく「三人吉三」エンディングの紙吹雪での立廻りも・ちょっとやり過ぎのところはあるが・「批判型」たり得ています。(別稿「空間の破壊」をご参照ください。)こういうところに串田氏の可能性があるだろうと思うのです。
それじゃ「夏祭・フリーズ」は批判型ではないのかという質問が出そうですね。あの趣向は時代との同時性が強すぎるのです。対象(在来の型)を批判するというものではなく・自己主張が強過ぎる。だから批判型になり得ないのです。
このような考察は「観念的に過ぎる」と思われるかも知れませんが、そこまで理念を構築して・「変えていいもの」と「変えてはいけないもの」を厳密に区別していかないと、小手先の趣向から本体の様式 全体が崩れていくのです。(この稿づつく)
(H16・11・6)
4)型の絶対性と危うさ
吉之助がここで展開している論議の大前提を再確認しておきたいのですが、江戸時代の歌舞伎で言っている「型」の意味と、現代の歌舞伎の「型」の意味はまるっきり違うということです。通常は「型」という言葉は両方の意味のどちらでもいいように混同されて使用されています。しかし、歌舞伎を「古典劇」と規定すると、そういう曖昧な使い方は許され ません。「型」を作品全体を貫く「解釈・演出」でなければならないと明確に規定する必要があります。本論はその前提に立っていますので、そうお読みください。
「型の周辺・その7」において、歌舞伎において「型」が意識されるようになったのは明治半ば以降・九代目団十郎の死後からのことだと申し上げました。一方、杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」によって、義太夫の「風」の概念は初めて世に出たのです。其日庵の言うことは即ち「名人芸妙の風を守るべし」ということです。「浄瑠璃素人講釈」の出版は昭和元年(1926)ですが、原稿は雑誌「黒白」に連載されたものですから成立はそれ以前 (大正10年前後)のことです。同じような時期にこういう「型」や「風」の議論が登場してくるのは偶然ではありません。それは文楽あるいは歌舞伎のような江戸時代の芸能が時代から遊離してしまった・すなわち「同時代劇・現代劇」ではあり得なくなったことに起因するのです。
「型」の議論の問題は、これも「型の周辺・その6」に引用しましたから・そちらをご参照いただきたいですが・郡司正勝先生が指摘しているように「歌舞伎というものの性質が、半分現代に足突っ込んで、半分古典だというところがある。能みたいに、もう生きた社会から離れてしまえば、これは狂いようがないのです。歌舞伎だけはどんどんどんどん広がって本質が流動して流れていきますから」というところにあります。つまり、はっきり言えば問題は「俺は完全に死んでいない」と歌舞伎本人がまだ思っているということです。「歌舞伎は古典劇である」と規定することはある意味で「引導を渡す」ということです。「型」を考えるということは歌舞伎に死亡宣告したうえで・改めて蘇生術を施すということかと思います。 「明治36年に歌舞伎は一度死んだ」・この史観のもとに「歌舞伎」を考えるところから、型の再検討は始まるのです。
例えばメルマガ137号「古き良き江戸の夢」に書きましたが、明治23年に五代目菊五郎が「直侍」を写実に戻そうとしたのを・ もし黙阿弥が「もう、いいんだよ。あれでいいんだ。」と言って止めたとするならば、この推測が正しいなら・あの時点で江戸歌舞伎は同時代劇であることを止めたのです。黙阿弥の心に潜む「 諦め」を感じないでしょうか。それと同時に黙阿弥が「写実」の代わりに「様式」を選び取ったのなら、その後の歌舞伎が「様式」によってしか生き残れないことを見抜いた黙阿弥の嗅覚の鋭さを感じないわけにいきません。そして明治36年、九代目団十郎・五代目菊五郎が相次いで亡くなって、歌舞伎がもはや同時代劇ではないことは明白になったのです。
余談ですが、六代目歌右衛門は「歌舞伎は死んだ」と考えていたとは思いませんが、「女形は時代遅れで気持ち悪い」という現代人の眼を意識して・その意識と必死で戦ってきたのです。ある意味で「死地」に自分を追い込んでいたと言える。今の若手役者さんたちはそうではないでしょう。父親たちの作った評価の上に乗っかって「歌舞伎は江戸時代は現代劇だった・昔は何でも挑戦できた」と公言できるのですから幸福であるし「楽」なのです。しかし、やっぱり「 歌舞伎は江戸時代は現代劇・・・・だった(過去形)」なのですよ。歌舞伎は平成においても現代劇でしょうか。現代には(残念ながら)それにもっとふさわしい同時代演劇がある べきだと思うし、そういう演劇的模索がされていると思います。歌舞伎にはそれとは違う役割が課せられるのです。
これも「型の周辺・その7」に書きましたが、二長町市村座の若手役者たち・つまり六代目菊五郎や初代吉右衛門あるいは七代目三津五郎といった役者たちが「九代目はこうやった・五代目はああやった」ということだけを手掛かりに自分たちの歌舞伎を作り上げていったことの危機感を想像してください。「九代目のやった通りにしないと・歌舞伎だと言われない」ということの重圧感を想像してみてください。もちろんそのなかでの葛藤はありました。初代吉右衛門は九代目の「馬盥の光秀」の型を「私にはやれません」と一座の仲間に泣いて土下座して自分の思うところをやったのです。(別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」をご参照ください。)「九代目の型」が厳然として基準としてそそり立っているからこういう事件も起こるのです。
歌舞伎の「型」は、明治36年九代目団十郎の死後から・それまでとは全く違う意味を持ち始めたのです。歌舞伎の型とは、そうでなければ歌舞伎には見えないような・とりあえずそうしていれば一応歌舞伎に見えるような・そういうものです。そこに彼らの拠り所がある。こういう「型」の概念は江戸時代にはありえないのです・何をやったって当時はそれは歌舞伎だったのですから。この「型の絶対性」が・じつに曖昧で頼りないのだが確かにそれは「絶対性」なのですが、それが現代の歌舞伎を「古典」ならしめているのです。これがなければ歌舞伎は もうとっくの昔に滅びていたでしょう。
こんな頼りないものに「伝統的たる拠り所」を求めざるを得ないことの危うさを思いやる必要があります。だから、「古典劇」としての歌舞伎を確立する時には、まず九代目団十郎・五代目菊五郎の歌舞伎を再確認し、この「絶対性」をより強固なものにすることから始めな ければならないのです。(この稿づつく)
(H16・11・10)
九代目団十郎はその生涯に20回(興行)弁慶を演じています。九代目は演る度にどこかを変えて演じたそうです。その結果、父・七代目の演じた舞台とはかなり違ったものになってしまいました。現行の「勧進帳」は恐らくは九代目最後の明治32年(1899)4月歌舞伎座を原 型としており・これを七代目幸四郎を始めとする弟子たちが洗い上げて・完成させたものです。
ここで、写真館「勧進帳の元禄見得」に掲載しました明治5年(1872)守田座での35歳の九代目の「勧進帳」の弁慶の写真をご覧下さい。この弁慶の元禄見得 の写真を見ると、弁慶は右腕を明瞭に振り上げて・手首を返して巻き物が上になっていることがはっきり見て取れます。現行の「勧進帳」の元禄見得では右腕をほぼ水平に突き出して・巻物が下になりますが、この写真は・それ以前の弁慶の元禄見得の形を示すものです。
まずこの解答を先に示した上で、天保11年(1840)3月河原崎座における七代目団十郎初演オリジナルの「勧進帳」を想像する時、どんな思考プロセスを辿ればよいかを考えたいと思います。「歌舞伎十八番」は市川家の荒事の集大成だと言いながら、「勧進帳」は能係りで高尚で荒唐無稽なところがない・他の演目とはどこか毛色が違います。このことから初演の「勧進帳」は現行の舞台よりはるかに荒事味が強かったのではないかと想像ができます。荒事こそが市川宗家の権威の「拠り所」であるからです。ここが仮説の前提になります。荒事のイメージはキビキビした動き・特に跳躍のようなシャープな動きにそれが出ます。見得で言えば力感があること・ピーンと張ったような見得が荒事らしいと想像されます。そういう眼で現行「勧進帳」の元禄見得の形を見ると、確かにどっしりした安定感・重量感はあるが・動的な力感が感じられない。そこで「ここが臭い」と眼をつけます。他の荒事の元禄見得をチェックしてみると、「暫」の鎌倉権五郎・あるいは「車引」の梅王の元禄見得では彼らの右腕は拳を振り上げて手首が返っています。これは相手をまさにぶん殴ろうとしている形かも知れません。つまり、相手を威嚇する形なのです。なるほどこの形が原型かも知れないと察しがつくのです。その推察プロセスが正しいのは、写真をご覧になればお分かりでしょう。
逆になぜ九代目がこのように元禄見得を変えたのかも逆のプロセスを以て考えられます。まず弁慶が右腕を振り上げて手首が返っているのは弁慶が「どうだ、文句があるか・やるならぶん殴るぜ」と富樫を威嚇しているわけです。富樫を脅して関を通ろうというわけです。なるほど七代目の弁慶はいかにも荒事味の強い弁慶なのです。しかし、九代目の描く弁慶は思慮深く智恵ある弁慶です。弁慶はあくまで富樫を威嚇するのではなく、正体がばれた時はその時だが・あくまで正真正銘の山伏として堂々と関を通ろう しているのです。だとすれば、ここで荒事っぽい元禄見得はちょっと似合わない。そこで九代目は元禄見得を本来の形から安定感・重量感のある形に変えてしまったわけです。現行の元禄見得の形は弁慶の思慮深さ・沈着さを示しているのです。
しかし、この九代目の発想は実は七代目が能係りの松羽目の舞台を発想した時にそのコンセプトのなかに萌芽としてあったものです。その萌芽を九代目は発展させたのであって、自分勝手 なアイデアで変えたのではありません。ここが大事なところです。(別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番・勧進帳」をご参照ください。)以上のことから分るのは、七代目の元禄見得も・九代目の元禄見得も、それぞれの作品解釈・弁慶の性根の 正確な把握として出ているものだということです。初演の七代目も・変えた九代目もどちらもいい加減な態度で型を創ったり・変えたりしていないのです。だから、その発想プロセスを正しく辿れば・原型に戻せる・あるいはさらにその延長線上を辿れば型を発展できるということです。 武智鉄二が「勧進帳」の型の再検討を行なった時に、九代目は七代目の型のここを直したのではないかと考え・その発想を逆にしてみればそれがピタリとはまる、九代目はさすがに筋目がいいという感想を書いています。
もちろん九代目は20回も弁慶を演じ、そのたびに演出を変えています。その詳細は分りません。恐らく試行錯誤のなかで九代目も行ったり来たりしたのでありましょう。実は九代目が元禄見得をいつ変えたか は文献的には分らないのです。しかし、それもその20回全体を大きく「流れて捉えて」・大まかに九代目の発想を読んでいけば、九代目が型を変更した背景が明確に見えて来ます。「高尚化・能楽に近づこうという意識・そして人間弁慶のドラマを描こうとする意図」が必然の流れ(ベクトル)であったことが理解できるのです。これこそが「型」の正体です。七代目三津五郎が「型とは心(こころ)だよ」と言ったのは、そういうだったのだと分ります。
九代目の20回の試行錯誤(このそれぞれを「趣向」を呼ぶことにします)は・その時限りで終わったものの方がずっと多かったのですが、それらの趣向はやはり後世に「九代目型」として残るには何かが足らなかったに違いありません。残 された「趣向」(それは現在は「九代目型」と呼ばれている)には何かがあったのです。その差はどこから来るのでしょうか。
「趣向」を検討する時には、その「趣向」単体だけを見ているのではその良し悪しは決して分りません。しかし、それを流れで捉えれば、その「趣向」が指し示す方向性(「理念のベクトル」とでも言おうか)が見えてきます。それが様式(フォルム)と一致しているかどうかが問題なのです。どんなに効果的であり・どんなに客受けがしようと・様式に一致しない「趣向」は消えるしかないのです。それを無理に型にしようとすると様式が次第に崩れていくのです。このことを肝に銘じなければなりません。(この稿づつく)
(H16・11・13)
6)古典劇に対する態度
昨今の情勢はよく知りませんが、70年代にはバッハをジャズ・スタイルで演奏する(ジャック・ルーシェ・トリオの「プレイ・バッハ」)とか、シューベルトをビートルズ風にアレンジするというような試みがはやりました。エマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」なんてのもありましたね。例えばバッハの聞きなれた旋律をショパン風に・ジャズ風に・あるいはビートルズ風にうまくアレンジするのはどこに秘訣があるのか・要するにその様式(フォルム)の特徴の何かをつかんでいるわけです。
クラシック音楽を勉強する時に「どうしてバッハはバッハらしく・ベートーヴェンはベートーヴェンらしく弾かねばならないのか」などという素朴な疑問にぶち当たることがあります。この答えですが、作曲者の様式(フォルム)を厳格に守るのが「クラシック(古典的)な態度」なのであり・これが守られていない演奏はクラシック 音楽ではないのです。作曲家の様式を絶対的な規範として守るのがクラシック音楽なのです。このことを考えてみたいと思います。
ご存知と思いますが、「サマー・タイム」というジャズの名曲があります。例えばビング・クロスビーなら小粋に軽めに仕上げるでありましょうか。フランク・シナトラならバラード調に濃厚にでしょうか。 ドリス・デイなら、エラ・フィッツジェラルドならなどと色々想像しますが、歌い手それぞれの個性がそこに発揮されているでしょう。第一にアレンジがそれぞれ全然違います。基調になるリズムやキー・歌いまわし も歌い手によって違います。それは歌手の個性に合わせて決まるのです。つまりポピュラー音楽では歌い手の個性が様式(フォルム)なのです。
実は「サマー・タイム」という曲は、ジョージ・ガーシュインの歌劇「ポーギーとベス」のなかのナンバーでして本当はれっきとしたクラシック音楽であります。これをクラシックの歌手が歌うと、もちろんポピュラーの歌手とは全然感じが違います。どちらがいいかという議論ではありません・そういうお好みの議論はしておりません。クラシックでは歌手の個性に合わせてキーを変えたりアレンジをしたりすることは絶対にあり得ません。歌手は作曲者の指定した様式(フォルム)を守って・あるいは自分の個性を様式に同化させて歌うことを強いられるのです。様式の作りだす枠のなかで精一杯の個性を発揮するのです。これがクラシック音楽の在り方です。
これを歌舞伎に当てはめますと、役者の個性にはめた演出はポピュラー音楽的であって、これは吉之助が言うところの「趣向・刹那的演出」です。作品解釈からくる演出はクラシック音楽的であって、これが「近代的な意味での型・普遍的な演出」であります。この在り方は相反するものとも言えるし・互いに引き合っているとも言えます。どんな再現芸術もこの矛盾を内包していますし、この二つの要素が歌舞伎に存在するのは確かです。しかし、歌舞伎を「古典劇(クラシック)」と規定するならば、やはり「趣向」に作品が持つ様式(フォルム)を破壊するような重い比重を掛けるわけにはいきません。「趣向」は 作品のなかでそのあるべき分(ぶ)をわきまえねばなりません。「趣向」は料理のスパイスであって、スパイスだけでは料理になりません。スパイスが効き過ぎれば様式(フォルム)という味は破壊されるのです。様式(フォルム)は厳格に守らなければならない、これが「古典劇」に対する態度です。
様式(フォルム)とは何かを追い求めるのは大事なことです。いわば「様式」とは「神さまの心」です。先人たちの残した何物かです。七代目三津五郎は決して舞台を投げなかった・そのことを聞かれて、三津五郎はこう言ったそうです。
『あたしゃネ、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父(十三代目勘弥)、堀越のおじさん(九代目団十郎)、成駒屋のおじさん(四代目芝翫)、寺島のおじさん(五代目菊五郎)、この人たちが後ろで見ていると思ったら、怠けるなんてできませんよ。』(武智鉄二/八代目坂東三津五郎:「芸十夜」)
過ぎ去った先人の芸への尊敬と憧れとそれを受け継ぎ・残し、少しでもそれに近づいていこうとする気持ちが、伝統芸能を受け継ぐ者の気持ちを高めるのです。この気持ちだけが様式を守る砦(とりで)なのです。(この稿づつく)
(H16・11・22)
7)時代を共有できない演劇
江戸の・その昔においては歌舞伎は現代劇でありました。その時代には何をやったって「そんなものは歌舞伎じゃない」なんて議論はあり得なかったのです。「面白い・面白くない」という議論はあったでしょうが。
江戸の芝居は新趣向・新機軸の連続であったでしょう。例えば「忠臣蔵」の斧定九郎は本来は野暮ったいどてらの山賊姿でした。父親九太夫に勘当されて・路頭に迷う ドラ息子です。そういう者は山賊でもやらねば生きていけなかったのです。「忠臣蔵」成立時にはそれがリアルであったのです。ところが時代が下がると、これがどうも実感を伴ってこないのですね。そこで初代仲蔵が江戸の往来を眺めれば・そこに落ちぶれた浪人が雨のなかを歩いている。「これだ」ということになって仲蔵は月代(さかやき)の伸びた白塗りの着流しの浪人姿に定九郎を拵えて大当りを取ったのです。当時は禄をあぶれた浪人侍が社会問題化していた時代でした。こちらの方が当時の観客にはリアルで・かつ刺激的であったということです。考えようによってはトンデモナイ発想なのですが、「これは歌舞伎じゃない」という議論は当時はありえなかったのです。
この「浪人姿の定九郎」は現代化の手法でありまして、欧米演劇の舞台でよく見られる「ハムレット」を現代風俗でやろうというのと同じような趣向です。Tシャツ・ジーパンのハムレットがオフィーリアに向かって「尼寺へ行け」などと言う舞台を見ると多少の違和感はありますが、次第に何となくそれなりに見えてくるのだから舞台とは不思議なもので・こうなると違和感は新鮮さと裏腹に感じられてくるのです。
それでは同じように「忠臣蔵」を現代風俗でやったらどんなものでしょうか。不採算会社を潰された社員たちが親会社の本社オフィスに乗り込んで悪徳専務を切るという趣向で・これを「忠臣蔵」の台本そのままでやるとする。精神としては歌舞伎そのものかも知れませんが、みなさんはこれを「歌舞伎」だと言いますか。「これは歌舞伎じゃない」と多分言うでしょうね。 吉之助もそう思いますよ。しかし、ジーパン・ハムレットは見れるのに、背広のサラリーマン内蔵助はどうして駄目なのでしょうね。
あるいは、現代の「忠臣蔵」の舞台で見る定九郎を原作通りにと言うことで・どてらの山賊に戻す・こんな試みは如何でしょうか。これは理屈ではあるのですが、多分、ここだけ変えると他の場面との齟齬が目立ってくるでしょう。「五段目・六段目」の 音羽屋型の発想は仲蔵から出ているのですから・全体を手直しする必要があるでしょう。どてらの山賊の定九郎さえも「これは歌舞伎じゃない」ということになる危険性 もある。色悪風の定九郎と違って・どてら姿の定九郎は野暮ったくて歌舞伎らしくないかも知れません。ホントはこれがオリジナルだったんですがね。(別稿「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」をご参照ください。)
何が言いたいのかお分かりでしょうが、江戸の昔には自由自在・やり放題で許されて・それでも歌舞伎であったことが、現代ではどうもそうではないようだということです。「江戸の昔の歌舞伎ではいろんなことを実験して・どんどん新しいことに挑戦ができた」、それはその通りです。しかし、自由自在・やり放題にしたら、現代では歌舞伎は歌舞伎ではなくなっちゃうのです。それは何故なのか。それは歌舞伎がはっきりと「古典」化しているからです。もっとはっきり酷な言い方をすれば、歌舞伎はもはや時代を共有できない演劇になっているのです。この認識から議論が出発 します。
余談ですが、現代演劇での歌舞伎作品上演の試みはいろいろあると思いますが、劇団山の手事情社のサイトにおいて同劇団の舞台が動画で見られます。興味深いですから、是非ご覧下さい。(サイトトップから劇団資料・公演ポートレートへ移動)
例えば「狭夜衣鴛鴦剣翅(さよごろもおしどりのつるぎば)」(並木宗輔作)をご覧いたただけば、何とも不思議なエキゾチックで無国籍風の衣装。これは確かに「歌舞伎」ではないかも知れないが(劇団の方はもとより 「歌舞伎」と呼んで欲しいなどと思っていないと思いますけど)、何とも刺激的です。しかし、吉之助は本家の歌舞伎にはこういう舞台を作れる可能性はもはやない、「歌舞伎」の名前では同じことはもうできないということを痛切に感じざるを得ないのです。
(H16・11・26)