公開講座:「黙阿弥劇の魅力を考える」
*本稿は、平成16年10月17日(日):池袋自由学園・明日館において行なわれた「第1回・歌舞伎素人講釈・公開講座」の草稿です。実際の講座は 草稿にないアドリブも付け加えて、これより長いものになりました。また、当日は吉之助による弁天小僧の台詞の披露などもいたしました。
1)黙阿弥の写実を考える
近年の歌舞伎を見ていて感じる不満は、黙阿弥物で舞台と客席との距離が遠くなっていると感じることです。こうした不満は義太夫狂言でも感じないこと もないですが、黙阿弥に関しては特に強く感じます。登場人物が生き生きしていないのです。人物表現にピリッとした新鮮さが感じられません。黙阿弥物は「世話物」であると申します。「世話物」というのは、江戸の市井の人情・風俗を写実に(リアルに)描くもののはずです。生きている江戸をビビッドに我々の眼前に見せてくれるものでなければなりません。しかし、最近の舞台で見る黙阿弥はどこか色が脱色してしまった古い写真を見ているような気分にさせられます。
「昭和の黙阿弥」と言われた作家宇野信夫氏が先代国太郎との対談でこんなことを言っています。
『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)
宇野氏の立場から申し上げると、自然主義演劇の視点から黙阿弥を見れば、まずお嬢吉三のツラネ自体が許されないと思います。突然、写実のお芝居にオペラのアリアが出現するようなものだからです。おまけに「月も朧に白魚の・・」とは何言ってんだいと宇野氏が感じるのは分る気もします。しかし、「黙阿弥は時代物」というご発言は問題を 若干孕んでいます。宇野氏の発言を表面的に受け取って・この発言に頷く人が少なくないと思われるからです。
「黙阿弥は時代物」という認識は、黙阿弥物が世話物のなかに時代物に似た様式的な要素をかくし味として色濃く持つという意味で言うならば、 宇野氏の言うことは・それはまあそんなものかなとは思います。確かに現代における黙阿弥はどちらかと言えば様式・あるいは情緒という方向に傾いています。だから、宇野氏の「黙阿弥は時代物」という発言は 「黙阿弥の本質が様式であり・情緒である」だと言う誤解を招きかねません。 しかし、「世話物」とは江戸の市井の人情・風俗を写実に(リアルに)描くものです。現代の歌舞伎の黙阿弥の舞台が「人間を描けていない」と感じるのは黙阿弥が悪い のでしょうか。むしろ、黙阿弥再活性のために世話物の本質である写実の要素を見詰め直すべきだと思うわけです。そういう議論がもっとあってしかるべきだと思 います。本日はそのことを考えたいと思います。
現代の役者も黙阿弥の台詞にリアリティを込めようとそれぞれ努力をしています。まず「三人吉三」の大川端でのお嬢吉三のビデオを見ていただきます。
最初は平成13年6月のコクーン歌舞伎でのものです。串田和美さんの演出です。台詞回しは普段の歌舞伎とほとんど変わりませんが、(御厄しませう、厄落とし)と声がするところで、福助のお嬢吉三がオッ トという感じで首をすくめて刀を隠そうとします。これは大変良 いアイデアだと思います。普段の歌舞伎だと(厄落とし)の大きな声がしてもお嬢はあまり反応を見せずに・気持ちよさそうに夜空を見上げておりますね。お嬢はこの場でおとせから百両を奪って川に突き落とし・太郎右衛門から庚申丸を奪ってからこの台詞に掛かるわけで す。つまり犯行直後ですね。そんな時なら盗賊は大きな声が脇ですればギクッとするのが自然でしょう。場合によっては刀を返して身構える形でもよろしいかと思います ね。脇で大きな声がしてギクッとして、それから、ナ〜ンダ厄落としかと苦笑いするような思い入れあってから・「ほんに今夜は節分か・・」に掛かる、つまり、ちょっぴり時代の長台詞の流れにフッと世話のリアルな演技の揺れがあって、それがまた時代の流れに戻っていくというのが、黙阿弥の想定している流れだと思います。それじゃあどこに 演技の根本があるのかと言うと、やっぱり世話の方なのです。
世話と時代の揺れ動きが黙阿弥のかくし味なのです。そうやってつねに写実の方向を観客に意識させるのです。「弁天小僧」が「知らざあ言って・・」と時代に大きく張ってから「聞かせやしょう」と世話にサラッと流すのも同じです。ここが黙阿弥の大事なポイントです。あくまでもその本質を世話に置かねばならないのです。
もっとも福助のお嬢吉三の台詞廻し自体は普段のものとあまり変わりません。七五のリズムが同じ調子でタンタンタンタンと出て来て、いかにも様式的になっています。しかし、いまの歌舞伎で聞く黙阿弥の七五調は誰でも大体こんな感じです。玉三郎のお嬢吉三の同じ場面を見てください。これも基調テンポは若干早くなっていますがやはりリズムは単調です。もちろんこの台詞は「厄払い」の様式から発したものですから完全な写実の台詞にはなり得ないのですが、しかし、「黙阿弥は時代物だ・人間がそこに出ていない」という宇野氏の皮肉もさもありなんと 思います。
作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏が、七五調について興味深いことを語っておられます。
『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。けれど僕は、七五調で表現し切れずにこぼれている様々なものを、そのリズムを使わないことによって救い上げたかった。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)
「七五調は、おめでたい語調。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフ」というのは面白い表現です。そういう場面では客席から必ず掛け声が掛かります。役者は心地良いかも知れませんが、その演技からリアリティは失われるのです。「表現」というのは表面を綺麗に整えようとするベクトルを常に持つものです。その方向自体は表現の完璧性 を目指すもので・もちろん悪いものではないのです。しかし、七五調の台詞はうっかりすると・そうした落とし穴にはまり込んでしまう危険をつねに孕んでいるのです。
「三人吉三」の大川端でのお嬢吉三とお坊吉三の出会いは歌舞伎の様式美あふれた名場面と言われます。けれども、台詞の心地よいリズムが流れて様式に陥っていくほどに、ドラマは写実から次第に遠ざかっていくように思われます。これが本当に黙阿弥の本質でありましょうか。
2)黙阿弥と小団次
黙阿弥の脚本を眺めますと、芝居が開いた直後での「○・△」で示されたような名題下の役者の会話の方が日常語で書かれていてリアルに感じます。それなのに、名題役者が登場してくると途端に会話が「七五調」に流れて行って詰まらなくなっていくような感じがすることがあります。名題役者の科白が写実ではないというのはどういうことなのでしょうか。私はここに写実から音楽的修飾に逃げざるを得ないという ・表現意欲の減退を見るような気がします。逆に言えば、作者黙阿弥の側からすると、こういう風に書かざるを得なかった環境要因があるのではないかとも推察します。
周知の通り、黙阿弥は四代目小団次のもとで座付き作者を務め、小団次に育てられたと言ってもいいほどでした。黙阿弥(当時は二代目河竹新七)と小団次との提携は嘉永7年(1854)の河原崎座での「都鳥廓白浪」(忍ぶの惣太)が最初です。当時、黙阿弥は39歳。この時期の江戸歌舞伎はある意味で「端境期」で出来る役者が底を着いていた状況でした。七代目団十郎・四代目彦三郎(亀蔵)はすでに老い、人気役者だった八代目団十郎はこの年(嘉永7年)に自殺しています。五代目彦三郎はまだ若かったですし、この人はどちらかと言えば時代物の役者でした。四代目芝翫・九代目団十郎・五代目菊五郎らが頭角を現してくるのはまだ先のことなのです。
要するに、当時の江戸歌舞伎は脂の乗った・腕の立つ役者(立役)は小団次だけだったと言ってもいいような状況だったわけです。黙阿弥の脚本での名題役の科白が写実でないのは、当時の歌舞伎界の閉塞状態を想像してもよろしいのかなとも想像するのです。こういう状況下で黙阿弥と小団次の提携が始まったわけです。
渡辺保先生は次のように書いています。
『黙阿弥は江戸歌舞伎の伝統を守ることが出来なかった。いくら黙阿弥が書こうと思ってもそういう感覚を実際の舞台に生かして見せる役者がいないのだから。そこに黙阿弥の座付作者としての限界があった。そこで黙阿弥はきわめて不幸なことに、大坂育ちの役者である小団次と出会うことになる。歌舞伎はせりふ劇・性格劇の可能性を失って、その方向を転換することになった。』(渡辺保:「黙阿弥の明治維新」)
渡辺先生は「黙阿弥の不幸」と書いていますけど、黙阿弥本人が自分は不本意な作品を書いたと思っていたとはとても思えません。まあ、渡辺先生は問題提起のためにそう書いているのです。しかし、もしそうならばなおさら黙阿弥の台詞のなかに意識して写実を追求していかないと黙阿弥劇はますます写実から遠ざかるといういう気がします。
3)黙阿弥の七五調
「七五調」というのは和歌・俳句はじめ日本語の伝統の詩のリズムですが、芝居の「七五調」がどれも同じというわけではありません。黙阿弥の「七五調」はすこし前の瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」(切られ与三郎)の「七五調」とはちょっと違って います。
ここで十一代目団十郎の切られ与三郎をご覧いただきます。切られ与三郎の有名な科白:「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し・・・」を見ますと、「しがねえこいの/なさけがあだ/いのちのつなの/きれたのを」という風に、すべて「七・五」のリズムの頭にアクセントが付きます。 (注:太字がアクセントです。)
これは関東なまりの「頭打ち」のアクセントです。「切られ与三郎」の成功はもちろん人気の美男役者・八代目団十郎の魅力によるところが大きいのですが、如皐の 頭打ちの関東なまりの科白が写実を感じさせたのも大きな魅力であったのです。
次に黙阿弥の「七五調」を見てみますと、
お嬢吉三の科白:「月も朧に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと・・・」では、「つきもおぼろに/しらうおの/かがりもかすむ/はるのそら」という風に、「七・五」の二字目にアクセントが付いています。これは「二字目起こし」と言って、上方のアクセントなのです。
小団次は江戸生まれですが、大坂の小芝居で長く修行をした役者で芸風も科白廻しも上方風であったと推測されます。また、小団次が好んだ人形振りの手法、竹本・清元など浄瑠璃の多用 も上方での修行の賜物です。特に下座音楽とマッチさせる意味でも登場人物の「七五調」のアクセントは二字目起こしでなくてはならなかったはずです。浄瑠璃などの音曲はすべて二字目起こしの原則に沿っていますので、音楽的要素を含んだ科白 はやはりその原則に沿わなくてはならないのです。
4)六代目菊五郎の世話の楷書
話を黙阿弥に戻して、まず昭和45年・当代菊五郎の襲名の時の「弁天小僧」のビデオをご覧いただきます。当時(70年代)の流行でヒッピーと言って髪の毛を肩まで伸ばして・ちょっと社会に背を向けたボヘミアン風俗がありましたが、菊五郎の弁天小僧はいかにもそんな感じがありますね。 妖しい中性的な魅力を持つ弁天小僧です。台詞回しは襲名でちょっと緊張気味ということがあるかも知れませんが、少々テンポが重めで硬いような気もします。このビデオに出てくる羽左衛門の南郷は渋く見えますが、世話の味を出してなかなかいいですから気を付けて見て下さい。
その十年後(昭和55年)の菊五郎の舞台も見ていただきましょう。こちらは、だいぶ余裕が出て来て・スケールが大きく華麗になっています。しかし、様式に傾いていて・いかにも型物だなあという感じもします。南郷の初代辰之助もいかにも時代の感じです。
小団次死後の黙阿弥の最大のパートナーと言えば、それはもちろん五代目菊五郎です。しかし、五代目菊五郎の録音は残って おりません。武智鉄二が七代目三津五郎に「六代目菊五郎(五代目の実子)が五代目に一番似ているのはどこか」と聞いたところ、三津五郎は「それは声です」と即座に答えたそうです。そして「親子というのは、こわいものですねえ。目をつぶって聞いていても、五代目そっくりですよ。あんなに似るものですかねえ。」と言ったそうです。
だから、六代目菊五郎の録音は世話を考える時に大事です。六代目 の「弁天小僧」の録音(昭和7年2月ビクター録音)を聞くと、初めて聞いた人は「これが世話の科白なの?これでいいの?」と、ちょっと驚くだろうと思います。低い調子でボソボソと、ちっとも歌い上げる・声を張り上げるようなところがありません。有名な「知らざあ言って聞かせやしょう」も余りにも芝居っ気がないというか、テンポはいいのですが、「サッサと済ませたいね」という感じにさえ聞こえます。しかし、実は世話はこれが基本なのです。一聴すると芝居っ気のない・この録音は黙阿弥の科白廻しを考えるのに重要な資料です。 さきほどの羽左衛門の南郷が菊五郎の台詞の息をよく写しているのに気が付きましたか。
六代目は低調子の人で、声を張り上げるのは苦手でした。六代目の科白は「世話の楷書」です。世話の科白の基本をピタリと押さえているのです。お習字を学ぶ時にもまず「楷書から」と申します。世話の科白を学ぶには、まずは「世話の楷書」・六代目菊五郎の科白から学ぶことだと申し上げたいと思います。
それではどこが六代目の科白のツボかと言うと、「七五調」のリズムの基本をしっかり押さえているからです。たとえば有名な「浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ヶ浜・・・」を見れば、「はまのまさごと(7)/ごえもんが(5)/うたにのこせし(7)/ぬすびとの(5)/たねはつきねえ(7)/しちりがはま(5)/」の科白のひと区切り(/から/まで)をそれぞれ一尺の長さとしますと、菊五郎の科白は、(7)の部分は一音が7分の7、(5)の部分は5分の5の変拍子でリズミカルに流れていきます。つまり、感覚的には(7)の部分は早く・(5)はゆっくり、の繰りかえしのリズムが「七五調」の基本リズムです。
5)台詞の間尺
台詞回しを考えるには、まず基調になるテンポ(日本音楽でいえば、間拍子)のことを考えなければなりません。文楽三味線の鶴沢道八の言葉として、次のようなことが記されています。
『世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」・足取)
ここで道八は「足取り」ということを言っています。「一尺のものをあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取」であると言うのです。その割り方の違いによって世話や時代の微妙な味わいが出るのですが、それ を一尺のものに納めなければなりません。
六代目菊五郎の著書「芸」には九代目団十郎の言葉として、次のようなことが記されています。
『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』(六代目菊五郎:「芸」・九代目市川団十郎の言葉)
芝居の台詞についても同じことが言えます。芝居の台詞というのは音楽的な要素を持つからです。台詞は生き物でありますから発する役者の息のリズムに乗っています。しかし、言葉のひとつひとつは微妙に緩急しても・それは間尺にぴったり合わないといけないのです。そうなれば台詞は音楽的に決まる、同時に生きたリアルな台詞になるのです。これがうまい台詞の緩急の秘訣です。さきほどの六代目菊五郎の七五調の台詞は、その基本をしっかり押さえている のです。
現代の歌舞伎役者はそのように「七五調」を処理しているでしょうか。ほとんどの役者が、すべての音を同じ5分の5のリズムでダラダラと進めていると感じます。多くの人が七五調というのは「一節が7つ」・「一節が5つ」の間が交互に出るものだと誤解をしています。これでは台詞に音楽としての足取りがないことになります。「歌」というより悪く言うと「お経」に近い感じになっています。これでは生きた「七五調」になるはずはありません。私は個人的にこういうのは本当の「七五調」ではなく ・「ダラダラ調」というのだと思っておるのです。
ここで勘三郎の「河内山」台詞を聞いていただきます。昭和の大幹部の台詞回しが、我々の世代の黙阿弥の七五調の基本イメージですね。 科白のひと区切りが七と五に交互に伸び縮じみして いる感じです。台詞の音楽的な流れを意識して綺麗に整えようとしているということだと思いますが、そうして自然にテンポが遅くなっていくわけです。悪く言えば全体がメリハリなく一本調子に陥ってしまっているわけです。
このようなダラダラ調に陥ってしまう内的要因を黙阿弥の台詞自体が内包しているのは確かです。 七五調のもつ「おめでたさ」自体が、様式化・あるいは表面を整えようとする方向性を内包している。だから、世間と歌舞伎の生活感覚がだんだんズレて ・黙阿弥が古典化していくなかで、現代の黙阿弥はそちらの方向に 強く引っ張られていくことになるのです。しかし、だからこそ現代の役者は七五調を意識して逆の方向・すなわち写実の方向に引き戻すことにをしなければならないのです。
4)黙阿弥の「七五調」の科白術
それでは「弁天小僧」のツラネを題材にして、黙阿弥の「七五調」の科白の科白術について考えてみたいと思います。これは六代目菊五郎の「写実」の科白廻しをベースにして、これに「歌う」要素を加味してみたらこうなるかなというものです。もちろん人によって七五の区分が若干変化することもあり得ま す。
なお、黙阿弥の科白の基本リズムは「(7)を7分の7で言い・(5)を5分の5で言う変拍子」ですが、「(7)と(5)」が基本ユニットになっていて、時に(7)をゆっくりと伸ばす場合には後の部分を心持ち詰めて早く言ってユニットの長さに合わせる場合もあります。いずれにせよ、「(7)と(5)」のユニットとしての長さはほぼ一定になるとお考えください。
○「知らざあ言って(7)/聞かせやしょう(5)」
ここの部分は導入部で、まだツラネではありません。まずここは自分のことを番頭たちに知らないと言われてキッとなって思わず「シラザアイッテ」を時代に張り上げますが、ちょっと間を取って「聞かせやしょう」を一転して世話に軽く流します。ここの時代から世話への切り替えの「間」が黙阿弥の妙味です。「聞かせやしょう」を張って言う役者がいますが、気持ちいいかも知れませんがこれでは時代物になってしまいます。「弁天小僧」は世話物だということをお忘れなく。
なお、ここで弁天小僧は煙管を灰皿に打ちつけますが、舞台を見てるとコッツンコッツンと調子を取っているように見えます。しかし、これは講談師が張り扇をバンバン叩くのと同じで、観客を制して・注意を自分に引き付けようとするもの です。むしろカッカンと強く叩いた方が写実で本来なのではないかと吉之助は思っています。
○「浜の真砂と(7)/五右衛門が(5)/歌に残せし(7)/盗人(ぬすびと)の(5)/種は尽きねえ(7)/七里ヶ浜(6)」
ここからツラネですが、まず冒頭の「浜の真砂と」はちょっとたっぷり言ってもいいかも知れません。その場合には「五右衛門が」を少し詰める。そのあとは「(7)を7分の7で言い・(5)を5分の5で言う変拍子」の定石通り。「七里ヶ浜」は字余りですが、ここは小気味よく流して、ここで一息。
○「その白浪の(7)/夜働き(5)/以前を言やあ(7)/江ノ島で(5)/年季勤めの(7)/児(ちご)ヶ淵(5)/江戸の百味講(ひゃくみ)の(7)/蒔銭(まきせん)を(5)/当てに小皿の(7)/一文子(いちもんこ)(5)/百が二百と(7)/賽銭の(5)/くすね銭せえ(7)/だんだんに(5)/悪事はのぼる(7)/上(かみ)の宮(5)」
この部分は「(7)を7分の7で言い・(5)を5分の5で言う変拍子」の定石通り。「悪事はのぼる」を芝居気つけてゆっくり張って少し語尾を上に上げる(持っている煙管を上を指し)。「アクジャアノボル」でよろしいでしょう。「上の宮」を詰めてサッと世話に落とす(煙管を下に下げる)。仕草と音の高低を合わせるところに味が出る訳です。ここで一息。
○「岩本院で(7)/講中(こうじゅう)の(5)/枕探しも(7)/度重なり(5)/お手長講(てながこう)と(7)/札附きに(5)/とうとう島を(7)/追い出され(5)」
この部分は「(7)を7分の7で言い・(5)を5分の5で言う変拍子」の定石通り。「島を追い出され」は「シマアオイダサレ」でいいと思います。
○「それから若衆(わかしゅ)の(7)/美人局(つつもたせ)(5)」
この部分はリズムがちょっと破綻させて、「美人局」の部分も7分の7のリズムのまま、一気に言ってしまう方がよろしいでしょう。
○「ここやかしこの(7)/寺島で(5)/小耳に聞いた(7)/祖父さんの(5)/似ぬ声色(こわいろ)で(7)/小ゆすりかたり(7)」
「小耳に聞いた」の後半からちょっぴりテンポを落としてサビへの導入。「キイタァジイサンノォ」と続けてみたらどうでしょう。「祖父さんの似ぬ声色で」はサビの部分で、この部分はテンポを無視して芝居気たっぷりと歌って良い部分です。「小ゆすりかたり」は、「こゆすり」を心持ちゆっくり「かたり」を早く言って落とす。
○「名せえ由縁(ゆかり)の(7)/弁天小僧(7)/菊之助(5)/たぁ俺がこと(7)/だ(1)」
「名せえ由縁の」は、いわば「フィニッシュ前の助走」ですから若干テンポを早めにリズム良く言います。「弁天小僧」はきっぱりと言って、ここでちょっと間を取る。ここの「間」は大事です。「菊之助・たぁ」は大きく張って、最後の決めの「オレガコト」はたっぷりと時代に言います。最後の「だ」が字余りになるから、最後が強くリアルに響くわけです。
以上のように「七五調」と言っても一本調子にしゃべるものではなくて、そのリズムの中に微妙な伸縮があることに気がつくでしょう。伸びるところはあえて言えば「時代」の要素です。これを「世話」の速さに返してサラリと間を詰めて「七五」の基本ユニットの間尺に納めるというテンポの伸縮・時代と世話の揺り動きが七五調の科白の面白さなのです。こうすることで「七五調」は写実に響くのです。
最近見たなかでは、本年(平成16年)4月歌舞伎座の勘九郎の弁天小僧の台詞がなかなかテンポがよろしくて、近頃の黙阿弥のなかでは出色であると思いました。七五調のリズムに緩急があって・間尺が決まっていて、だから台詞が生きている。その点ではお手本にしたいような台詞回しです。その時のビデオをご覧下さい。煙管をカッと叩くところなど写実でいいです。ただし、台詞はちょっと元気が良過ぎで・「知らざあ言って聞かせやしょう」を大きく張ったり・全体に強く張り過ぎるところがやや難だとは言えます。もう少しサラッとした 感じが欲しいですね。「弁天小僧菊之助たあ俺がことだ」は正面切っての大見得でこれでは時代物になってしまいます。これはもう少し内輪にいきたいところです。
なお、普通ですと浜松屋主人幸兵衛は「主人幸兵衛ただいまそれへ参ります」と言ってから戸を開けて奥から登場しますね。これはまったく時代物のやり方です。先日の歌舞伎座の舞台では弥十郎の幸兵衛は戸を開けながら「主人幸兵衛ただいまそれへ参ります」と言って登場しました。これが世話の味を出す良いやり方ですから、こういうところを注目されればいいです。同じことを五代目菊五郎が芸談のなかで「これは世話物なのですから」自分が幸兵衛を演るならこうやってみたいと語っております。
『南郷が「手前たちでは訳が分らぬ、主人を呼べ」のところで、今度の松助は襖のなかで「ヘイヘイ、只今それへ参ります」と云ってから襖を開けて出てきますが、これは書き下ろしの三河屋(団蔵)もこうやっておりました。しかし、舞鶴屋(仲蔵)のはここがちょっと違っているので、一体これが時代なれば「主人幸兵衛、只今それへ参ります」と云い切ってから襖を開けて出てくるのですが、世話狂言でございますから、南郷が「主人を呼べ」という時には、もう前に店が騒がしいが何かの間違いだろうと気が付いているのですから、「ヘイヘイ・・」で少し襖を開けて、「主人幸兵衛、只今それへ参りまする」と云いながら出てくる方が至当だろうと思います。もし私がこの役をしたらそうしようと思うのでございます。』(五代目菊五郎:「尾上菊五郎自伝」 ・明治35年)
五代目がわざわざ「浜松屋は世話物です」と念を押しているのが面白いなあと思いました。明治の世にあって世話と時代の混乱は既に始まっていたということなのでしょうね。
いかがでしたでしょうか。とにかく「七五調」の「写実」というのは、歌うとか・歌わないとかそんなことで生まれるのではないということが理解されませんと黙阿弥の芝居はますます「写実」から離れていくことになるでしょう。現代に黙阿弥を再活性させるために、芝居における「写実」の意味をもう一度考え直してみたいと思うのです。