初代仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか
〜「仮名手本忠臣蔵・五段目」
1)仲蔵の型の「写実性・同時代性」
「仮名手本忠臣蔵」五段目の定九郎の役はもともと野暮ったいどてらの山賊姿でした。それを月代(さかやき)の伸びた白塗りの着流しの浪人姿という扮装に変えてしまったのは初代中村仲蔵でした。下廻り役者の苦労を重ねてきた仲蔵はこれで一気にスターにのし上がります。役作りに悩んでいる時に雨でずぶぬれになった浪人の姿を見てひらめいたという、その出世噺は講談・落語などでもよく知られています。(注:ただし落語の話は史実ではなくて、実は五代目団十郎のアイデアを仲蔵が拝借して演じたものでした。別稿「団十郎は左はせぬものなり」をご参照ください。)
この話で注目しなければならないのは、定九郎という・もともとは冴えない役が仲蔵の工夫でいい役になったということではありません(そういうことは他でもありますので)。大事なのは、仲蔵が当時の江戸の市井の風俗を舞台にそのまま取り入れたという斬新な美的感覚です。そのキーワードは「写実・同時代性」ということです。
仲蔵は山崎街道にいかにも現れそうな山賊姿をリアルにしたわけではありません。仲蔵が描いたのは、江戸の御家人の次男坊あたりが勘当されて、着るものもなく拝領の御紋服を着たままで垢まみれになり、にわか雨にあってずぶぬれになったような浪人姿です。そこらに歩いていそうな浪人姿なのです。「リアル(写実)」であるというのは、その舞台を見る観客にとって同時代性を持つからリアルであるということなのです。このことがさらに仲蔵から五代目幸四郎・三代目菊五郎に続く、歌舞伎の写実化の流れを作っていくきっかけになっていくのです。(同じく、こうした歌舞伎の写実化の好例としては「 鮓屋〜義経千本桜」があります。)
現在上演される「五段目・六段目」の舞台は、ほとんどが音羽屋型の洗練された写実の演出になっています。音羽屋型ではすべて勘平を基準にしてすべての役の段取りが決められています。勘平中心に厳格に定められた枠組みのなかでは定九郎だけがいくらいい役だと言っても突出することは許されないはずです。だとすれば、仲蔵の当時は斬新だともてはやされた定九郎の型が珍奇なものとして一時的なもので消えてしまわずに、音羽屋型のなかでしっかりとした位置付けがされているのは、やはり「忠臣蔵五・六段目」というドラマを勘平の視点から見直していった場合に、仲蔵の型がドラマの本質をとらえていたからだと考えなければなりません。だからこそ仲蔵の定九郎の型は生き残ったのです。
2)定九郎の「悪」とは
定九郎という役についてはよく「悪の魅力」ということが言われます。どこか孤独の影を感じさせ、ニヒルな目付きで、顔色を変えずに悪事を行い、科白はただ一言「五十両・・」だけ。「不義士」という裏切り者の汚名と受けながら悪事を続ける太てえ奴。なるほど、そう言われるのも無理はありません。しかし、「不義士」というのはまだ由良助が討ち入りを行う前のことですから、この時点ではホントはまだ義士も不義士もあったわけではないのです。由良助だって討ち入りをできなければ、たとえ本人にその気があったとしても不義士です。
定九郎は与市兵衛を殺して五十両を奪います。勘平は(故意ではなかったにせよ)その定九郎を殺してその所持金を奪います。やったことは同じなのです。人を殺してその金を奪ったということです。しかし、この「忠臣蔵」では勘平は義士であって、定九郎は不義士ということになっています。このことは大事なポイントです。勘平と定九郎はこの五段目で対比されているのです。まかりまちがえば、勘平も不義士になったかも知れない存在なのです。現に六段目ではそうされそうになって勘平は自らの申し開きのために腹を切らねばならないことになります。
定九郎の父は斧九大夫。塩冶家臣でありながら由良助たち「義士」を裏切って、敵である高師直のスパイになった男です(七段目)。定九郎はその九大夫にさえ勘当され、山賊にまで成り下がった男です。その志において定九郎と勘平とはもちろん比較になりません。この「忠臣蔵」ではその志の違いによって、その志の違いによってのみ、勘平と定九郎は義士と不義士に分けられるのです。「それだけに過ぎない」とも言えます。定九郎の「悪の魅力」を語る前に、まずこのことを意識しておくべきでしょう。
歌舞伎で省かれてしまった部分では、与市兵衛を追いかけてきた定九郎は「貸して下され。男が手を合わす。俺が見込んだらハテしょことがないと諦めて、貸して下され。」と言って、与市兵衛の懐に手を突っ込みます。そして与市兵衛が言うことを聞かないとみるや斬り付けて、「その金で俺が出世すりゃ、その恵みでうぬが倅も出世するわやい。人に慈悲すりゃ悪うは報わぬ。アアかわいや」と言って与市兵衛を殺します。
はたして定九郎はこの金を何に使うつもりであったのでしょうか。遊興に使うつもりなのか、「俺が出世すりや」と言っていますが何かアテでもあるのか、それは分かりませんが、定九郎の科白はなにやら近松の「女殺油地獄」の与兵衛の科白のようでもあります。お吉に金を無心して断られると逆上して「オオ死にともないはず、もっとももっとも、こなたの娘がかはいほど、おれもおれを可愛がる親父がいとしい、かね払うて男立てねばならぬ、諦めて死んでくだされ、口で申せば人が聞く、心でお念仏、南無阿弥陀」と言って刃物を振り上げる、あの不良青年河内屋与兵衛の科白です。定九郎の「悪」というのは本来はその程度のものであります。
3)定九郎と勘平の型との関連
仲蔵の定九郎の型がいまの「五段目」に見る型そのままではなかったようです。仲蔵の初演の定九郎は浪人の着流し姿で「オーイオーイ」と叫びながら花道を走って出たようです。それが今のスッキリした型に落ち着くまでにはやはり相当に長い時間がかかっているわけです。
一方、勘平の演出の歴史をみれば、白塗りで前髪姿の女形の演じる勘平と、月代を剃った立役の演じる実事風の勘平があったということです。これがやがてその両方をあわせたような感じで、白塗りで月代の伸びた浪人姿の勘平に変化し、定着していきます。
ここで銘記すべきなのはこうした勘平の演出の変化というものは、「五・六段目」で勘平と対比されている定九郎の型の変化と無関係のはずがない、ということです。これは仲蔵の定九郎の試みが明らかに先行していると思いますが、ほとんど同じ「写実化・同時代化」の意志のなかで、音羽屋型の勘平の演出が洗い上げられていく過程で、仲蔵の発想に端を発した定九郎の型も連動して変化し定着していく、そのように感じます。そうでなければ、仲蔵の型がいくら斬新であったとしてもその場限りのものとして消えていくしかなかったでしょう。
「五段目」本文での定九郎はとにかくよくしゃべります。しかし定九郎と与市兵衛との会話は、音羽屋型の「闇の暗さ・闇の静かさ」を印象付ける演出にはややそぐわないところがあります。今の「五段目」の演出には、じっくりと勘平の心理の変化とその綾を描き出すために、勘平が登場するまでの舞台でも「闇の暗さ・闇の静かさ」を観客に印象付けておきたい、そういう意図を感じます。だからこそ、定九郎と与市兵衛との会話は省かれ、暗闇なかの掛稲から定九郎の白い手がヌッと出る演出になり、ついには定九郎の科白は「五十両・・」とたった一言までに削られることになります。そして、そのことが洗練された「悪の魅力」を定九郎に与えることになったのです。
(H13・6・24)