「型」の周辺
〜歌舞伎の型を考える・オムニバス形式による論考*本稿は「歌舞伎の雑談」コーナーに連載されたものをまとめたものです。
1)「演出家の時代」
全然歌舞伎と関係ない話から始めますが、「型」の周辺を考えようと思っているのです。
その昔はあるオペラの演奏をキャッチフレーズ的に言い表す場合に、例えば「カラスのルチア」・「デル・モナコのオテロ」というように歌手の名前を冠したものでした。それが 吉之助が音楽を聴き始めた1960〜70年代には指揮者の名前で呼ばれるようになります。例えば「カラヤンの薔薇の騎士」・「ショルティのリング」といった具合です。これはスター指揮者の台頭と・個性的な歌手が少なくなって小粒になってきたせいもありますが、音楽は指揮者の一貫したコンセプトのもとに統一されるべきものという考え方が強くなってきたせいでもあります。そして今やオペラは演出家の名前で呼ばれるようになっています。「シェローのリング」・「クップファーのオランダ人」と言った具合です。現在のオペラはまさに「演出家の時代」と言っていいのです。
そのきっかけは1976年から80年に掛けてバイロイト音楽祭で制作されたパトリス・シェロー(フランスの演出家・映画監督)による「ニーベルングの指輪」四部作(ブーレーズ指揮)の実験的な舞台です。その舞台はゲルマン神話が近代社会の階級対立に置き換えられ、冒頭のライン河の場面には巨大なダムが登場し、その初日は大ブーイング、警官隊が出動するほどの大騒ぎになりました。それ以後は作品を現代の視点からどう解釈し・どう解体し・何に置き換えるか、というのがオペラ演出の主流になっているのです 。「フィガロの結婚」の舞台がニューヨークのハーレムに置き換わり、「オテロ」が現代の異文化対立の視点から読み込まれるということになります。
吉之助がバイロイトに行ったのは1983年のことで、ピーター・ホール(イギリスの演出家)演出の「リング」(ショルティ指揮)はまさにシェローへのアンチ・テーゼで、ワーグナーの描いた神話そのままをそっくり視覚化しようというものでした。本水やら本火を使用するその舞台は初めての「リング」体験者には分り易くて有難い演出でしたが、正直言って知的衝撃はなかったかも知れません。今となってみれば歴史的に忘れ去られた演出だと言えます。
はるばるヨーロッパに旅行すれば「伝統的な」舞台芸術を鑑賞したいと日本人は思うものでしょうが、オペラに限らず演劇でもそんなロマンチックで優雅な伝統的な舞台には残念ながらなかなか出会えないようです。革新的・実験的な舞台が非常に多いですし、そういう舞台を見てブーを言ったり・応援したりして楽しむというのがヨーロッパの日常的なオペラ/演劇生活というもののようです。
もちろんこういう風潮に批判的な人々もおります。そういう方は保守的なブルジョア層に多いようです。もともとオペラ観劇は王侯富豪の社交の一種です。休息時にロビーに出てみれば、宝石衣装を綺麗に着飾った男女がゆっ たりとロビーを練り歩く、それが社交儀式であるのが理解できます。そういう方々は高い料金を払っても・○○国立歌劇場とか保守的な舞台が見られる劇場に行きます。そういう保守的劇場と・そうでない実験的劇場は完全に一線が引かれていると考えていいようです。
しかし、さまざまな舞台解釈を見て議論して・その違いを楽しむというのは、かなり高級な知的お楽しみであることは間違いありません。また、ある演出以外を否定してその他を全然受け入れないということもなくて、違う解釈をそれはそれとして受け入れる余裕というものも持っているのです。欧米の人々はいわゆる「古典」についてひとつの揺るぎないイメージというものを持っているのでしょう。そういう教養の土壌が欧米にはある のです。
何が言いたいのかお察しいただけるかと思いますが、歌舞伎の「型」が様々なものが試されていた時代がかつてあって・それがひとつの型に収斂(しゅうれん)されていく・というよりも他の型が排除されていく過程には、「伝統」というものの在り方と・それを受け入れる観客と芸能との係わり合いがあるのです。その周辺をもう少し考えてみたいと思います。
2)スタンダード(標準)としての古典
本稿では結論めいたことは考えずに「型」の周辺を逍遥しようとしております。
三島由紀夫監修により戦後始めての「桜姫東文章」上演がされたのが昭和34年11月歌舞伎座のことです。桜姫は六代目歌右衛門、清玄/権助が八代目幸四郎でした。日程から見ると11月4日か5日のことですが、ちょうどウィーン・フィルと来日公演中の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが・結婚したばかりの夫人と歌舞伎座を訪れています。「桜姫」終演後にカラヤン夫妻が歌右衛門の楽屋を訪ねた場面がNHKのニュースでも取り上げられました。残されたビデオでは「岩淵庵室」の場面がちょっとだけ見られます。カラヤンが歌舞伎を見たのは多分この一回だけであったと思いますが、後年カラヤンはこんなことを言っております。
「歌舞伎は私の理想だ、完璧ならば何も変える必要はないはずだ。」
このカラヤンの発言はロジャー・ボーンの評伝「カラヤン・帝王の光と影」(時事通信社刊)に出てくるものです。著者ボーンが歌舞伎をどの程度知っているのかよく分らないところがあります(能と混同している感じがある)が、ボーンは次のように書いています。
『歌舞伎と同様オペラも、三十曲か四十曲が何年ものあいだ繰り返し上演されている。もはや一種の儀式となっていて、知り尽くしているものが繰り返されることから楽しみが生じ、伝統的な衣装と装置を用いて新しい歌手が役割を演じ、新しい指揮者が指揮台に上がることに魅力が感じられるのだ。カラヤンの歌舞伎への傾倒ぶりが(カラヤン演出の)「薔薇の騎士」に見られる殺風景な装置、堅苦しい演技、音楽への厳格なまでの執着に現れているのではないだろうか。(中略)カラヤンの「薔薇の騎士」はあまり滑稽ではなかった。』
ロジャー・ボーン:カラヤン―帝王の光と影
じつはカラヤンのこの発言を読んだ時は思わず笑ってしまいました。カラヤンの歌舞伎観劇の時に脇で一生懸命解説した方の知識の受け売りだろうとは思いますが、しかし、これはカラヤン芸術のある一面を示しているように思われるのです。カラヤンはオペラのスタンダードなレパートリー(概ね四十曲程度)をウィーン・オペラとミラノ・スカラ座それにニューヨークのメトロポリタン歌劇場が歌手と装置を提携し融通しあうことで、完全なプロダクションを創り出そうと計画した人でした。(その計画は結果的に頓挫しましたが。)彼は恐らくオペラの演出が音楽からどんどん離れて一人歩きしていく風潮を危惧したのです。そして「音楽にすべてが描かれている・演出は音楽だけのために奉仕しなければならない」という信念のもとに自ら理想的な演出を志したのです。歌舞伎の解説を聞きながら「これだ、これが私の目指す芸術の在り方だ」とカラヤンが無邪気に興奮したであろうことを 吉之助はじつに微笑ましく思います。
「型の周辺・その1」に書きましたとおり、さまざまな解釈を受け入れて・その違いを楽しむのは高級な知的お楽しみなのですが、しかし、そういう余裕を持つには自分のなかに揺るぎない「古典のスタンダード(標準)」を持っていなければなりません。どうもカラヤンは歌舞伎がそういう「古典のスタンダード(標準)」として固まったものだと受け取ったようです。実際の歌舞伎はまだそこまで完全に固定しきっていない・興行として十分成り立っているだけにまだまだ芸術としては「生(なま)」なわけです。現代における歌舞伎の「型」の問題は、「いかにして歌舞伎は固定化するか・歌舞伎はいかにして古典たり得るか」という問題であると考えています。
ちなみに吉之助は1983年ザルツブルクでのカラヤン演出の「薔薇の騎士」(R・シュトラウス作曲・ホフマンスタール作詞)の生の舞台を見ております。作者により「薔薇の騎士」は3幕の喜劇と確かに記されていますが、しかし、ボーンが書いたように滑稽であることがこの作品の本質であるとは思いませんね。たとえ喜劇で味付けられているとしても、終幕の元帥夫人の退場は人生の哀愁に満ちたものです。
3)「古典」ということ
「型の周辺・その2」において「標準(スタンダード)としての古典」ということを書いたので、「古典」ということについてもう少し考えてみます。
吉之助は趣味としてはクラシック音楽歴の方が歌舞伎より長いのですが、いわゆるクラシック音楽というのを英語で「Classical Music」というのはもちろんそれで通じますけれども、エッ?という顔をされる場合もないではありません。「Popular Music」と対立させた概念としてクラシック音楽をいうならむしろ「Serious Music」と言った方がいいのです。クラシック音楽で「Classical」と言いますとハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンなどの古典楽派の作曲家たちを指します。それ以前の作曲家はバロック音楽、それ以後をロマン派音楽というのはご承知の通りです。古典 楽派はそれ以後の音楽の形式の基礎を固めた作曲家たちです。
欧米の「古典」のイメージは常にギリシア文化に回帰します。アテネのパルテノン神殿のあの完成された美、規則的に立ち並ぶエンタシスの白い石柱の列のイメージです。様式的なものにまで高められた完全美です。黄金分割の絵画が美しいのは何故かという疑問はあり得ません。美しくあるためにその絵は黄金分割の比率で描かれているのです。そういう美の法則に裏打ちされたものこそが「古典(Classic)」です。
音楽で言えば、しっかりと楽譜に指定されたテンポを守り(つまりイン・テンポ)で形式(フォルム)を厳格に守ろうとする態度が「古典的」という印象を与えます。逆に曲想に合わせてテンポを自由に伸縮させて情感を込めようとする態度は「ロマン的」であると言えます。
「標準(スタンダード)としての古典」ということを歌舞伎で使う場合には、同じことを意識しておく必要があります。日本語の「古典」という概念は欧米から導入されたもので、意外と新しいものではないでしょうか。
歌舞伎の「型」というものも実は比較的新しい概念です。「型」というものが明確に(あるいは真剣に)意識されるようになったのは、 おそらく明治半ば以降、九代目団十郎死後のことと考えてよろしいのです。それはそんなに古いことではないのです。浄瑠璃でも「風」ということが言われるようになったのも明治以降のことでした。
「型」とは、その演技・解釈が伝統に立脚したものだと主張できる根拠です。あるいは、そう演じなければ歌舞伎ではなくなってしまうような・逆に言えば そうやってさえいれば・とりあえずは歌舞伎に見えるような拠り所であり・道しるべです。歌舞伎がそのような・ある意味では頼りないものに拠り所を預けていること自体が、歌舞伎が時代から・庶民の生活感覚から離れていることの証拠だと言えます。だからこそ現代において「型」の重要性が増しているのです。
もちろん「型」という言葉自体は江戸の昔からあったものです。しかし、江戸の時代の「型」の概念と・現代における「型」の概念がまったく違うものであるはずはないし、同じであってはならないのです。現代の役者は「その型は拠り所たり得るか」ということをこれまで以上に強く意識しなければなりません。そこに過去と繋がる「よすが」を求めなければなりません。つまり、それは「その型は標準としての古典たり得るか」ということになります。このことを踏まえてさらに型の周辺を逍遥していきます。
(注:音楽において「古典楽派」を言う時には、それはギリシア・ローマ美術への回帰を叫ぶ美術史上の「古典派」とは異なるというのが一般的解釈です。それはクラシック音楽が中世キリスト教会のグレゴリオ聖歌を源としており・直接的にはギリシア・ローマへのつながりを持たないからです。それにも係わらず音楽で「古典派」を称しますのは、音楽の概念において美を構成する法則に裏づけされている音楽を「古典(クラシック)」と見て・その基礎をモーツアルト・ベートーヴェンが築いたと後世の人々が考えたからです。そこでイメージされるものは美術史上の「古典楽派」と概念的に何ら変わりはないことを申し上げておきたいと思います。それでなければ、あの見事な構成美に裏打ちされたモーツアルトの交響曲第41番を人々が「ジュピター」と愛称することはあり得ないのです。)
4)型の古典化のこと
晩年の三島由紀夫が武智鉄二との対談でこんなことを言ってます。
『僕は前から思っていますが、武智さん演出で見たい歌舞伎がひとつあるんです。それは「盛綱陣屋」なんですよ。というのは「盛綱陣屋」くらい僕はつまらない芝居はないんですよ。あれは団子(だんご)です。団子という五つのエピソードがつながって、みんな同じ大きさで、串で刺してあるんですよ、今やっている(歌舞伎の)「盛綱陣屋」は。篝火の件、微妙の件、盛綱の件・・・みんな同じ重さで、クライマックスもなければ何もないんですよ。よくあんな退屈なものをものを見てると思う。だけど原作を読んでみると、決してそんなことはない。(歌舞伎では首実検の場面を)27分やった人がいるんですってね、なんて バカでしょう。』(三島由紀夫・武智鉄二:「現代歌舞伎への絶縁状」・昭和45年2月)
非常に興味ある発言です。歌舞伎の「盛綱陣屋」を見ているとなんだかダラダラした芝居(特に真ん中あたりの微妙の件がだれる)に見えますが、文楽で観ると決してそんなことはありません。それに文楽では首実検の場面はあっと言う間に終ってしまうのです。歌舞伎では首実検の場面が最大限に引き延ばされてい ます。ここだけで一番大きい団子ひとつ分になっているのです。そこに文楽と歌舞伎の発想の違いが現れています。
歌舞伎の盛綱の場合ですと、盛綱はもちろん首を見てそれが偽首であることをひと目で見破るのですが、「弟・高綱は一体何を画策しているのか」という風に考え込む思い入れあって・さらに揚幕の方を見やり「さては死んだことにして身を隠し北条殿を狙おうとの魂胆よな・小癪な奴め 」というような感じでニヤリと笑い、次に傍らで腹に刀を突きたてて伏している小四郎に気付いて驚き、「そうすると小四郎が切腹したのは・・」とまた考え込み、それでやっとこさ偽首を高綱の首だと言って北条殿を欺く決意を固めるという段取りになりましょうか。盛綱の思考過程を分解して段階的かつ説明的に延々と首実検を演じるわけです。そこが表情と肚芸での見せる役者の仕所ということになっています。
そんなものパッと演っちゃいえばよろしい・長々とやるなんて何てバカでしょうと三島が言うのはそれはそれで一理あるのですが、しかし、逆に言えばこういう場面を27分も掛けて場を持たせる役者がいたというの も大したものです。こういうところを芸の見せ場として局所拡大してみせるところが義太夫狂言の面白さだということもあるのです。芝居の面白さというのはなかなか理屈通りにはいかぬもので、そういう三島さえ自作の「椿説弓張月」では本筋に関係ない琴責めを延々と描いているくらいです。
「封印切」の忠兵衛と八右衛門の上方漫才みたいな掛け合いもそうです。アドリブで相手がこう言ったらああやり返す・そういう台本にないやり取りが上方歌舞伎の面白さですが、実は全然原作の近松とは関係がありません。やればやるほど近松から離れていく、しかし、カットしたらお芝居の面白さがなくなってしまう、そういう場合もあります。そうなると「歌舞伎の古典たる基準をどこに置くか」というのは難しい問題に思えてきます 。
これはこう考えるしかないと思っています。歌舞伎が時代と共にあり・その骨格を育んでいた時代にあっては、それは何をやっても歌舞伎であったのです。「 鮓屋」の権太を原作の吉野のならず者ではなくて江戸前のすっきりした渡世人に変えてしまったのは三代目菊五郎でした。これは歌舞伎の「同時代化」という試みで、文化文政期には盛んに行われたものでした。これは現代ならば、いわば権太を 擦り切れたジーパン姿で金髪のプータローに仕立てたようなもの。江戸のこの時代にはそれでよかったのです。しかし、現代ではそうはいかないわけです。渋谷の劇場で金髪ジーパンの権太をやってそれが歌舞伎かと言うと、観念的には分るけど・やはりそれを「歌舞伎」と呼んではならないと思いますね。それは別の形でやればいいのです。(注:これは勘九郎のコクーン歌舞伎や平成中村座のことを言っているのではありませんが、ある一線は引かれるべきでしょう。)
だからやみくもな原作回帰がいいとは思いませんが、もうこれ以上は崩さないという歯止めがどこかに欲しいわけです。だからこそ「型の古典化・固定化」が急務なのです。そして、その型の作品論的・演技論的な観点からの吟味が徹底してされるべきだろうと思っています。そこを出発点としていろいろな冒険が可能になると思うわけです。
盛綱の首実検の演技の良い悪いが時間の問題でないのは明らかですが、そもそもそんな27分も持たせる技量の役者が そういるはずもありません。役者が正しい基準を持ってさえいれば、首実検はドラマのなかであるべき長さに自然と落ち着くでありましょう。
5)正しい筋道としての「型」
『余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向かって宜しく観世金春諸流の能役者の如き厳然たる態度をとり、以って深く自守自重せん事を切望せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて庶民の娯楽に供せし通俗なる興行物たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く日々外国思潮の襲来激甚なる時代においてかくの如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる骨董となりし事あたかも丹絵売(たんえうり)が一枚幾文(いくもん)にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に値すると異なることなし。』〔永井荷風:「江戸芸術論」・江戸演劇の特徴・岩波文庫)
永井荷風:江戸芸術論 (岩波文庫)
この文は永井荷風が大正3年に記したものです。その頃にして荷風が危惧するような事態が既にあったのでしょう。いずれにせよ現代において荷風の指摘したことがより重みを増しているということは確かです。
型を考える上で大事なことは「正しい筋道とは何かを知っている」ということです。別の言い方をすれば理論・あるいは理屈と言ってもいいです。それが分った上で「理屈ではそうなんだけと、それは私の柄に合わないのでこう変えています」というなら、それはいいのです。杉山其日庵が摂津大掾に「寺子屋」を教わっていた時のこと、其日庵が「健気なヤアツーウウアアーアア」(後半のモドリの松王が死んだ小太郎のことを言う台詞)と語ったら大掾がこれを制してこう言ったそうです。
「なぜそんな所で売りに来やはります。みっともないじゃおまへんか。年取ってどうにか前をせねば商売ができぬ私などの高座でする悪いことばかり覚えはってはドモなりませんな。アンタには本当の長門はんの浄瑠璃の息込みで教えてあげたいと思いまして、一々調べたうえでお聞かせ申しておりますがナ。少しは気を止めて聞いとクンなはれぬと困りますがナ。」
摂津大掾でさえも芝居では客のこともあるので多少受けを狙うところもしたということを自嘲的に告白しているわけですが、しかし、何が正しいか・本道かということをもちろん大掾はちゃんと知ってやっているということです。そして人に伝授するという時は、責任を持って正しいことを伝授する・そういう気構えがあるということです。
もちろん型を変える時には・それを変えることの必然(どうしようもなくて変えるという理由)をしっかり把握しておく必要があります。それが分っていれば、型を元に戻すことが楽になるわけです。「正しい筋道は何か」をわきまえもせず・自分勝手な好みと都合でやり方を変えるのが一番いけません。こういうのを「役者の仕勝手」と申します。実はこういう仕勝手が細かいところで非常に多いのです。特に近年はビデオがあるから始末が悪い。死人に口なし、先代○○衛門はこうやっていたというのがそのまま罷り通ることになります。
だからこそ現代において「型の固定化・古典化」が急務なのです。ある「型」の意味を作品解釈・演技論の視点から吟味し突き詰めておく必要がある、そして危急の時にはそこに常に原点に立ち戻る、そういう態度が必要になってくるわけです。
6)型から演出へ
『問題は、つまり歌舞伎というものの性質が、半分現代に足突っ込んで、半分古典だというところにもあるんですね。能みたいに、もう生きた社会から離れてしまえば、これは狂いようがないのです。文楽の場合も割合にそうだと思う。だからそれだけのファンなり見物がいつでもついていく。若い人もいつでもついていくと。そうなればいいんだけど、歌舞伎だけはどんどんどんどん広がって、本質が流動して流れていきますから。だけど、逆にここら辺で古典化させなくちゃあ。国の文化の財産がこんなものかと言うことになってしまう。』(郡司正勝:対談「国立劇場の三十年」:歌舞伎・研究と批評・第18巻)
歌舞伎というのは興行として十分に成り立ち・まだまだ「生(なま)」な芸術なのです。歌舞伎はその歴史のなかでざまざまな形態を吸収してきた「したたかさ」を持っているのだから、これからも歌舞伎はどんどん変わっていけるという考え方も・もちろんありましょう。しかし、歌舞伎が庶民の生活感覚とこれだけ離れてしまうと、現代のそうした時代の「したたかさ」を背負うのはほかにそれにふさわしい芸能があるのだろうという気がいたします。異論もありましょうが、歌舞伎はそろそろ古典化の道を歩まなければならない時期に来ていると思 うわけです。
「型の古典化」というものは、まず「型もの」としてほぼ定型化されている作品、例えば「熊谷陣屋」でも「寺子屋」でも結構なのですが、その型を作品解釈・演技論の観点から再吟味して理論化して・演出として固めるという 作業から始める必要があります。瑣末的な部分にこだわる「型」ではなく、作品視点が一貫した「演出」に仕上げていくこと、これが「型の古典化・標準化」の大事な作業になります。もちろん「熊谷陣屋」なら九代目型だけでいいというものでもないと思います。複数あってよろしいと思いますが、そこに演出視点の裏づけがなくてはならないと思います。
「寺子屋」の場合を見てみると、松王が戸浪に突き当たり「無礼者め」と叫ぶとは丸本にはありません。しかし、これがないとどうも歌舞伎という感じがしないのですな。考えてみると「寺子屋」の登場人物のなかで松王(言ってみれば時平のお抱え運転手であります)は一番身分が低いようです・それが一番いい衣装を着て 一番偉そうな顔をしております。歌舞伎の場合はもうそこまでは仕方ないようです。そこまでは仕方ないから許す、しかし、これ以上の仕勝手がないようにしなければいけません。
舞台をひとつの視点(型)においてまとめ上げる作業は、今でもそうですが・座頭格の役者のすることです。まだまだ部外者の入れぬ魑魅魍魎の世界です。しかし、「型の古典化・標準化」というのはある意味で「卓上の理論」であってよろしいのです。こういう「演出」(あえて型とは言わず演出と申し上げましょう)が古典として固まってくれば、それを飛び越えて新しい冒険も出来るというものです。困った時にはまたそこへ立ち戻ればいいわけですから。
「型の周辺・その3」において、「型」というものが明確に(あるいは真剣に)意識されるようになったのは明治半ば以降九代目団十郎死後のことであったと書きました。明治36年(1903)に五代目菊五郎・九代目団十郎が相次いで亡くなった後の歌舞伎界の状況は我々が想像できないほどお先真っ暗であったようです。
『「団菊が死んでは今までのような芸は見られぬから、絶対に芝居へ行くことをよしにしよう」、そういう人が私の知っている範囲だけでも随分あった。またそれほどには思い詰めなくても「(国劇の最高府である)歌舞伎座はこれから先どうなるだろう」、それが大方の人の頭に浮かぶ問題であった。』(伊原敏郎:「団菊以後」)
井原敏郎(青々園):団菊以後 (1973年) (青蛙選書)
このような危機感のなかで・若い役者たちは、「九代目は・五代目はこうやった」ということだけを手掛かりに二十世紀の歌舞伎を必死に作り上げていったのです。 九代目・五代目が演ったように演らないと歌舞伎に見られないという危機感、逆に言えば・その通りに演じていればとりあえず文句は言われないという安心感、これが現代の「型」の概念の基礎なのです。
もちろん「型」という言葉は江戸の昔からありました。誰それはああやった・こうやったという型の記録は確かにありました。しかし、そうした江戸時代の「型」の概念と・現代の「型」の概念はまったく違うし、同じであってはならないのです。現代においては、誰それはああやった・こうやったということだけを列記するだけでは「型」を考えたことにはなりません。
当然のことですが、九代目団十郎には「自分が後世の規範になる型を残す」という意識はなかったようです。九代目の「勧進帳」は演るたびにどこかが違っていたそうです。九代目直伝を自称する役者が複数いて・演ることが全然違 っているということがあります。何故かと言うと九代目に教えてもらった時期がそれぞれ違うのだそうです。それなら九代目の型とは何なのか。最後の型が最良のものだと言えるのか。もし九代目がもっと長生きしていればまた違うことをしたかも知れないじゃないか。だとすれば九代目の型をもっと「流れ」として捉えてもいいのじゃないか。つまり九代目の型を「考え方の筋道」として考えるということをしてもいいのじゃないかと思うわけです。そういう議論がこれからの「型」の議論にならねばならないのです。
記録を見ると九代目が最後に「熊谷陣屋」を演じたのは明治31年10月歌舞伎座の ようです。現行の「団十郎型」と言われるものは、これが基礎になっています。もし九代目が長生きして・もう一回・さらにもう一回熊谷直実を演じていたらきっと違うことをしたであろう・ その時に九代目はどう演じたであろうかということを考えてみることは価値があることなのです。そんなこと何の根拠があると言うなら話は終わりです。考えることに意味があるのです。
吉之助は九代目の直実の型は発展途上・まだ検討する部分があると思っています。別稿「熊谷陣屋における型の混交」はこのことを取り上げています。「陣屋」の登場人物のなかで直実だけにスポットを当て・その人間的苦悩に焦点を当てた・その型は、明治の演劇改良思想の洗礼を受けた自然主義の発想から成り立っています。この発想を延長していけば・直実の化粧の疳筋は 自ずと消えるべきであるということを申し上げております。九代目があと何回か直実を演じていれば疳筋は必ず消えたでありましょう。そのような議論を積み上げつつ・定型となる「型」を作り上げていく、現代においてはそういう作業が必要だと思うわけです。
8)型の再検討について
「型」が古典化するなかで・型の再検討はどうなされるべきか。それを具体例で考えてみたいと思います。
先月(平成16年9月)御園座における「熊谷陣屋」において、三代目鴈治郎が恐らくは九代目団十郎型をベースに丸本解釈を取り入れて・独自の型を演じたということが伝えられています。残念ながら私はこの舞台を見ておりませんので、詳細は分りません。こういう試みはもちろんあっていいことです。ただし、慎重にされねばならないことです。
九代目団十郎型は九代目の直実の型は発展途上・まだ検討する部分があるということを「 型の周辺・その7」において書きました。九代目の型の眼目は「花道の引っ込み」にあります。そこがすべてだと言っていい。花道七三で「十六年はひと昔、夢だ夢だ」と言って坊主頭を撫でる団十郎の演技について、杉贋阿弥は「調子といい形といい、自己本位に出家を夢と観じているので・・・団十郎はとかく悟りすぎて困ると思った」と書いています。これを読む限り・九代目の直実は自己陶酔的ヒロイズムに陥った感じなきにしもあらず。九代目型の再検討をするならば、ここにこそ取っ掛かりがあるのです。
ともあれ初代吉右衛門によって九代目の型はほぼ固定されたと思いますが、三代目鴈治郎の型はどうでしょうか。鴈治郎の型は伝え聞くところでは、「別れてこそは」で熊谷夫婦はふたりして花道へ七三へ行き・そこで幕となる。この後、幕外でドンチャンとなって熊谷キッとなるのを相模が止め、熊谷ハッとして二人して泣き笑い。相模が本舞台の陣屋へ思いが行くのを熊谷が制して相模は涙を呑んで一人先に入る。ひとり残った熊谷も本舞台へ行こうとするが、ドンチャンに耳塞いで七三にうずくまる。しばらくして熊谷は気を変えて立ち上がり足早に揚幕に入るということだそうです。
舞台を見ないで直感だけで申し上げますが、花道まで直実が相模を連れて行くのは非常にいい着想でした。それならば・そこまでやるなら直実は相模と一緒に揚幕に入るべきでした。相模を先に去らせて・後から直実がひとりで入るのは、最後の最後で印象が中途半端になっちゃったと思うのです。
丸本の「陣屋」終結部は、『すみ所さへ定めなき有為転変の世の中やと、互ひに見合す顔と顔、さらば、さらば、おさらば、の声も涙にかきくもり別れて、こそは出でて行く』と申します。つまり、鎧櫃のなかに入った敦盛を背負った弥陀六と藤の方はあちらへ・直実と相模はこちらへ別れて去っていくという構図になって います。どこにも直実は相模と途中で分かれるとは書いてありません。相模は法然の住む黒谷へ直実と一緒に向かったと考えていいと思います。
熊谷にとっての相模とは何でしょうか。かつて宮中に勤める武士であった時、そこで見初めたのが相模です。宮中での色恋沙汰はご法度、その禁を犯しての大恋愛です。それをとりなして関東へ逃がしてくれた藤の方には大恩がある、これが直実が我が子を敦盛卿の身替りにする伏線なのはご承知の通りです。「陣屋」でも直実は戦場にまでのこのこやって来た相模を追い返すことができません。おまけに相模が不憫で・なかなか真相が打ち明けられないでいます。相模は直実にとって・それほどに大事な可愛い恋女房なのです。
直実が義経の許しを得て・出家を決意し陣屋を去る時、直実がまず思いやらねばならぬのは相模のことではないでしょうか。「エヽ胴慾な熊谷殿。こなた一人の子かいなう」とまで恋女房になじられて、それを置いて直実がひとり諦観の情に陶酔していていいはずがありません。直実ほどに女房を愛している男なら女房を先にどこかに去らせて・ひとり感傷に涙するなんてことはあるまいと思うわけです。直実は相模と手を取り合って恥も外聞もなく一緒に泣けばよろしいのです。そして一緒に花道を行けばよろしい。これから直実が責任を以てケアせねばならないのは相模の人生なのです。そこから直実の新たな歩みが始まるべきではないでしょうか。
戦前にこういう直実はあり得なかったでしょうが、現代ならこそこういう直実があっていいのではないでしょうか。こういう視点があるなら九代目型をあえてぶち壊す・いや再検討する価値があるというものです。これからの「型の再検討」はこのような一貫した作品視点のもとに行なわれなければならないと思うわけです。もちろん鴈治郎さんの型も発展途上ではありましょう。再演を期待したいと思います。
「型の周辺・その8」で書きましたように、これからの型の再検討は「標準(古典)となるべき型」の吟味をベースにして入っていく必要があります。「熊谷陣屋」の場合であれば、今後の「陣屋」の型の論議は否応に係わらず九代目団十郎型をベースにせざるを得ません。他の型を検討する価値があるかは、団十郎型の批判型となり得るかどうかで決まるのです。批判型というのは対象を「否定する」という意味ではなくて・「批評する・クリティカル」な型という意味です。それによって 逆に古典(団十郎型)の意義をえぐり出すことができなければやる意味がないのです。それが出来ないなら団十郎型を演じる方がいいです。いいものは変える必要がないからです。
そうした観点から先月(平成16年9月御園座)での「熊谷陣屋」の鴈治郎型を見てみます。相模を花道に同道する事は、自分だけの感情にひたり過ぎの団十郎型への批判たり得ています。これにより「直実個人のドラマ」は本来の「平家物語の世界」に若干引き寄せられることになります。その点は評価できます。しかし、それならばやはり直実は相模と一緒に揚幕に入るべきでした。相模を先に揚幕に入らせて・後でいつもと同じ熊谷ひとりの引っ込みを見せたのでは団十郎型の批判としての一貫性は失われると思います。 (別稿「熊谷の引っ込みの意味」をご参照ください。)
昨年新橋演舞場で同じく「陣屋」の芝翫型を演じた橋之助の場合を見てみます。芝翫型の直実が制札を上に向けて担ぐのは、制札に自分の行動の拠り所があるからです。もちろん我が子を殺さねばならない苦しみは誰よりも直実が一番感じています。それでも直実が身替わりの行為をとるのは制札の命があるからだという・制札の「絶対性」が 示されています。「制札を担いで三段に突く芝翫型は形が不安定・橋之助は三段につかずこの方が形がいい」と書いている批評がありました。しかし、直実が不安定な形で制札にすがりつくのは「直実の内心の葛藤」を形象化する意図があると見ることができると思います。そこに団十郎型の批判たる芝翫型の意味を見出さねばなりません。橋之助のように制札を三段につかず身体から離して堂々と持ったのではその批判たる意味が見えてこない。形のいい・悪いの問題ではないのです。(別稿「制札の見得を考える」をご参照ください。)
このように現代においては古典(標準)となる型をベースにして・そこから型の問題を突き詰めていく必要があります。でないと、それこそ「バラエティに富んだ工夫がどんどんされるべき ・なんでもあり」みたいな議論になってしまって収拾がつかなくなってきます。九代目も六代目も自分で型を工夫した・だから俺だって・・・と思うのは自然なことです。しかし、ちょっと待ってもらいたいですね。はっきり申し上げると「時代が違います」。役者が型に安住せず・自分の納得できる演技を見出そうという気概を持つのは大いに結構。大事なことは、心のなかに「常に振り返るべき基準」 をしっかり持っているかどうかです。それがなければ歌舞伎の型はどんどん崩れていくしかないでしょう。
さて、「型」の周辺はひとまずここで区切りをつけることとします。機会を改めまして、また「型」の問題を考えてみたいと思います。最後に郡司先生の言葉を引いておきたいと思います。
「あれは違うよと、俳優さんはみんなそういう意識を持っていると思います。あんなことをやっては、あれは違うよ、という意識はある。最後の一線、最後の踏みこたえる線はそれしかないの。」(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」より:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)