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「子別れ」の乖離感覚

平成20年12月歌舞伎座:「佐倉義民伝」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(木内宗吾)、九代目中村福助(女房おさん)


1)「糸に乗る」ということ

若き日の五代目菊五郎の話ですが、菊五郎が「菅原伝授手習鑑・賀の祝」の桜丸を演じた時の初日のこと。芝居半ばで「女房共さぞ待ちつらん」と言って桜丸が奥から登場しますが、八重が密かに隠れていたわけを聞かせてと桜丸が杖についた刀にすがるので・それを桜丸が振り払います。この箇所で菊五郎が竹本に合わせて思い入れを決めてみせたところ、奥で出を待っている白太夫役の四代目坂東亀蔵が「大根め」と言うのが 菊五郎の耳に聞こえました。それで菊五郎はいろいろ演り方を変えてみるのですが・その箇所になると相変わらず亀蔵が「大根め」というのですっかりノイローゼになって、菊五郎は三代目関三十郎(関三)のところへ相談に行きました。関三が「演ってみな」というので・舞台でやっている通りに演じてみせると、それを見た関三は「大根め」と呟きました。「・・舞台で踊ってやがる。」

この逸話にはいろいろ教わるところがあります。ひとつには竹本の「聞きたがるこそチリレン道理なれ」(チリレンは三味線の手)で桜丸がリズミカルに決まる・まるで「音羽屋ッ」という掛け声を待っているかのような演技は、死をすでに覚悟しているこの場の桜丸の雰囲気にそぐわないということが作品解釈面から言えます。もうひとつは亀蔵や関三のなかに役者が人形の真似を嫌う風が見えることです。菊五郎に当てようという意識はなかったと思います。神妙に憂いを込めて・情感たっぷりにきまって見せたと思いますが、その動きが無意識のうちに糸に乗っていたに違いありません。義太夫の作り出すリズムに合わせて・まるで踊るような動きをしていたのです。それを見て亀蔵や関三が「大根め」と呟いたのは、彼らに「馬鹿野郎、人形の真似じゃあるまいし」という感覚があるのです。

歌舞伎役者が人形の真似をするのを嫌うというのは本当のことです。六代目歌右衛門が座談会に出席した時のこと。その時のテーマは「歌舞伎と文楽」ということで・文楽の大夫さんも出席していました。ある役のことで歌右衛門が話をしていた時に大夫が「本行はそこが違いまんねん」と言ったところ、あのおしとやかな歌右衛門がギョロと目を剥いて・ドスの効いた低い声で「おらあ人形じゃねえんだよ」と言ったそうです。周囲は一瞬にして凍りついたそうです。

昔の役者は糸に乗る演技をするのを嫌ったものでした。もちろん義太夫狂言というのは人形浄瑠璃に発するものですから、そのクライマックスにおいて義太夫は派手にリズミカルな調子になることがしばしばです。歌舞伎役者がそういう場面でまったくリズムに合わせないということはあり得ません。また義太夫のリズムが持つ高揚感を演技に利用しない手はありません。しかし、役者は人形ではないのですから、義太夫に人形が操られるが如くに演技することは絶対しないという考え方は昔の役者の意識のどこかに強くあったのです。

誤解ないように付け加えれば、これは歌舞伎役者が人形浄瑠璃を蔑視していたということではありません。ましてや人形浄瑠璃において人形遣いが大夫・三味線に操られているということがあろうはずがありません。しかし、ある低いレベルの芸能においては木偶である人形が音楽に操られて動かされているという場合があるでしょう。その場合の人形は歌詞や音楽の情感を視覚的に説明する道具に過ぎません。歌舞伎役者はそのようになることを嫌ったのです。それでなくても義太夫の表現力は凄いものがあります。うっかりすれば義太夫に負けてしまいそうです。義太夫に負けて・演技を義太夫に頼ってしまえば役者は木偶と同じになってしまいます。それでは人形浄瑠璃を人形に替えて役者が勤めるだけのことになり、歌舞伎役者が丸本物を演る意味はないのです。ですから「糸に乗る演技はいけない」ということは歌舞伎役者が自らを戒めるために非常に重要なことでした。これは歌舞伎が異ジャンルである人形浄瑠璃の骨格をそっくりそのまま取り込んだことによるある種の無理(不自然さ)から生じたものです。これが歌舞伎の義太夫狂言をバロック的な方向に引っ張る力として働くものです。

それがいつ頃からのことでしょうか・最近は「糸に乗る」というのが歌舞伎役者の褒め言葉みたいに使われるようになってしまいました。昔の役者ならば「糸に乗ったその演技が良い」などと劇評に書かれたら侮蔑と受け取ったと思いますねえ。糸に乗る演技というのは三味線のリズムに乗って・音楽に操られた人形みたいな動きのことを言いますが、これは本来褒め言葉ではないのです。歌舞伎には意識してギクシャクした動きをしてみせて・そこに乖離したアンビバレントな感情を表現する場面がありますが、その場合でも糸に完全に乗っかってしまうことはあり得ないのです。義太夫に合わせるということは・「合わせる」という行為自体が既にアンビバレントな状況を表現できていないということだからです。義太夫から離れようとする行為がアンビバレントになるのです。ですから役者の演技が完全に義太夫から離れてしまうことはもちろん論外ですが、義太夫に沿いつつ・いかに義太夫から離れるかという意識がどこかになければ役者は木偶になってしまうのです。このこと常に戒めなければなりません。

2)子別れの乖離感覚

人形振りのように役者が意識的に人形の真似をする場合・それは自らを木偶に擬することですから、それは自嘲的な行為なのです。これは見掛けは人間であっても・非人間的な状況あるいはどうにもならぬ内面からの欲求の突き上げによって操られている木偶に自らを擬することを意味します。例えば「櫓のお七」の人形振りがそういうものです。所作事を人形振りで演るということを江戸で初めて行なったのは安政3年(1856)11月市村座の「櫓のお七」での四代目小団次が最初のことでした。人形振りは人形浄瑠璃の盛んな上方では早くから行なわれていたことで、上方での修行時代の長かった小団次がこの演出を取り入れたのです。自然で写実な動きを目指すはずの役者が生命のない木偶人形の真似をして機械的なギクシャクした動きを見せるのは皮肉なことです。ですから人形振りというのは一種のケレン芸であり、上方においても人形振りは邪道であると蔑まれたものでした。だから四代目小団次はケレン芸を逆手に取って挑戦的に使ったことが分かります。そこに身を焼かれるような恋心を抑えきれず・情念に操られるがままの八百屋お七が表現されています。それが表現するものは乖離したアンビバレントな感覚です。人形振りとは・踊り手が人形身の方に引かれるベクトルと・人間に戻ろうとするベクトルとの格闘だと見ることができます。人形振りにおいても完全に鳴り物に乗って・人形になり切ってしまうことはあり得ません。このことは歌舞伎の約束として人形振りは幕切れまで続くものではなく・途中で「人形を解く」と言って・通常の演出に戻ることでも分かります。つまり役者は木偶ではなく人間であるということの意識が常にあるのですから、その申し訳として最後に「人形を解く」のです。

ところで平成20年12月歌舞伎座で「佐倉義民伝」が上演されましたが、久しぶりにこの芝居を見て「宗吾内・子別れ」の場で竹本(義太夫)が効果的に使われていることに改めて感じ入りました。実を言うと吉之助は子役が活躍する芝居があまり好きではないのですが、今回の舞台は三人の子役さんたちのお行儀がとても良くて・素直に泣ける芝居に仕上がっていました。幸四郎の宗吾も・福助のおさんも素晴らしかったのはもちろんですが、今回は三人の子役さんたちにも拍手を贈りたいですね。

現在上演される「佐倉義民伝」は嘉永4年(1851)8月中村座で初演された「東山桜荘子」(三代目瀬川如皐作)を改作したものですが、初演時に宗吾を演じたのが四代目小団次(当時40歳)でした。「佐倉義民伝」は歌舞伎オリジナルの作品で・しかも農民に取材した写実劇であり、派手な衣装も用いない地味な舞台で「木綿芝居」と呼ばれたものでした。このような地味な写実の芝居に竹本が効果的に使われているのは、実に興味深いと思います。ここで思い出すのは、これより後の話ですが嘉永7年(1854)3月・河原崎座にで黙阿弥が小団次のために「都鳥廓白浪(通称「忍ぶの惣太」)」を書いた時に小団次に執拗にダメを出されて・何度も書き直しを命じられたという逸話です。その大きな修正点のひとつが序幕「梅若殺し」において竹本を入れたことでした。(別稿「四代目小団次の発想」をご参照ください。)竹本の使用は江戸生まれの狂言作者には浮かびにくい発想です。吉之助は多分「宗吾内・子別れ」の竹本使用についても小団次が如皐に指示したのだろうと思います。

歌舞伎オリジナルの写実の芝居に竹本を差し込むのは、考えてみれば奇抜な趣向です。「子別れ」の哀切を訴えてお客の涙をたっぷり絞ろうというだけのことならば・下座音楽を情緒的 (ムード音楽的)に使ってもそれなりに効果を上げることができるわけで、語り物の性格が強い竹本をわざわざ使うのには芝居を義太夫狂言めかして渋く骨太い印象を作りたいということがあると思います。この「子別れ」はもちろん泣ける芝居ですが・決してお涙頂戴のセンチメンタルなものではなく、そこにあるのはむしろ胸にグッと迫るところの・怒りにも似た重い哀しみです。小団次は「子別れ」に竹本を使用することで、そこに乖離したアンビバレントな感覚を表出しようと意図したと思います。(付け加えれば小団次は「よそ事浄瑠璃」という手法も好んで用いましたが、これも同様 な効果を持つものです。別稿「黙阿弥のトラウマ」を参照ください。とにかく小団次は音楽の使い方のセンスが抜群なのです。)

「佐倉義民伝・宗吾内」では飢饉と領主の圧政に苦しむ農民たちの窮状を見かねた宗吾は、このことを将軍家に直訴することを決意します。しかし、直訴をすれば家族までも一緒に処罰されることは必至ですから・宗吾は密かに離縁状を置いて立ち去ろうとするのですが、これを見つけた女房 おさんに突き返されます。宗吾はおさんに「どんなことになっても私はあなたの妻である・私はあなたと一緒に死ぬつもりである」という覚悟を見せられます。それで宗吾は納得して江戸に立とうとしますが、今度は何も事情を知らない子供たちがまつわりついて来ます。恐らく父親ともう会えないということを雰囲気で察知したのでしょう。宗吾の行く手を阻むかのように雪が激しくなってきます。そのようななかで竹本による「子別れ」が演じられます。(注:「直訴をすれば家族までもが処罰された」ということが史実として江戸時代にあったかということは実は定かではないのです。しかし、そのような形で幕府が強硬な農民弾圧を行ない・農民を徹底的に搾取してきたというイメージは今も巷間根強く残っています。それはひとつには明治政府が意図的に行ってきたプロパガンダの産物でした。)

暖かい家庭・安穏な暮らしは宗吾が守りたいと心底願っているものです。決して宗吾は自分の身を犠牲にして他人のために直訴することを決意したのではありません。それは自分の家族も含めたすべての人々の平和な暮らしを望むからこその行為です。しかし、情があって優しい女房・健気な子供たちはもちろん宗吾にとって一番大事なものに違いありません。ここでの「子別れ」が観客の心に強く迫ってくるのは、それが単なる悲しい別れであるからではなく・宗吾が一番守りたい大事な者たちをも道連れにする厳しい選択をしたからです。それは結果的に地域の人々の平和な暮らしのための人柱となるわけですが、それより以前にそれほどまでに宗吾がすべての人々に対して暖かい家庭・安穏な暮らしを切実に望んでいるということです。暖かい家庭・安穏な暮らしを切実に望むからこそ、宗吾は愛する家族を犠牲にしてでも直訴をするのです。

事情を知らない子供たちが「行ってくれるな」とまつわりついて来ます。子供たちは父親の直訴を阻止しようとしているわけではありませんが、それは父親の決意を鈍らせる方向へ強く作用しています。女房おさんの「親子は一世というからは・よう顔見せて下んせい」という言葉も宗吾にとって自分の足を引っ張るように感じられます。もちろん宗吾自身が江戸へ向かわず家で子供たちとのんびりしていたいのです。しかし、状況は切迫しています。直訴のために一刻も早く江戸へ向かわねばなりません。女房の叫びも子供たちの泣き声も、本来なら宗吾にとって最も大事な者たちの声が・ここでは宗吾にとって最も忌まわしいものに感じられます。そこに「佐倉義民伝・子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚があるのです。

これは次のように考えれば良いと思います。例えば若い修行僧が悟りの道を開こうと必死で修行をしているところに悪魔が悪さを仕掛けます。悪魔は修行僧に美しい女性・美味しい食事・名誉・財産などなどさまざまな甘い幻影を見せて、修行僧を堕とそうと試します。子供たちの「ととさまいのう」という泣き声は、宗吾にとってそのようなものです。激しく降りしきる雪も宗吾の行く手を阻むかのようです。言い換えれば宗吾の脳裏に「何か巨大な・自分に圧し掛かってくる他者的な存在」が強く意識されており、それが子供たちの「ととさまいのう」という泣き声を宗吾に聞かせて「どうだ、それでもお前は江戸へ行こうというのか」と悪魔 があざ笑うかのように感じられるということです。それが竹本が作り出す「佐倉義民伝・子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚です。そこに小団次が仕掛けた実に巧妙な仕掛けがあるわけです。

別稿「七段目の虚と実」において普通なら世話とされるべき本音(実)の要素が封建社会の論理によって醜く歪むということを考えました。一力茶屋で由良助が本音を見せる時・由良助の演技は醜く歪(ゆが)み、これがまさに時代の如きなのです。「佐倉義民伝・子別れ」も同様に考えられます。宗吾には子供たちの「ととさまいのう」という泣き声が歪んで聞こえています。その声は悲しく宗吾を呼びながら、実は崇高な目的に向かおうとする宗吾を逆に引こうとする力に作用しています。ここでも子供たちの泣き声(実の要素)が虚に映るのです。そのように登場人物の感情を歪ませる強力な力が舞台に働いていることを意識しなければなりません。それが竹本の作り出す音楽的効果なのです。宗吾は 子供たちの声の方に強く引かれながらも、その声を聞いてはならぬと必死になってもがいています。もちろん宗吾は心のなかで泣いているのです。ですから子供たちの泣き声の力を増幅させる竹本に宗吾は沿ってはならぬ・つまり糸に乗った演技はしてはならぬわけです。幸四郎の宗吾はそのような「子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚を見事に表出していました。このような重い哀しみを秘めた「子別れ」の後だからこそ・上野寛永寺での直訴の場面が生きてくるのです。

(H21・2・22)

(後記)

別稿「惣五郎とかぶき的心情」〜「佐倉義民伝」の心情的分析もご参考にしてください。

 

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