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惣五郎とかぶき的心情〜「佐倉義民伝」の心情的分析

*文中に惣五郎と宗吾の表記が交錯する場面がありますが、基本的には論考を惣五郎で通しています。歌舞伎の「佐倉義民伝」に限定した場合のみ宗吾としています。


1)「義民伝」は体制批判劇なのか

今日では「佐倉義民伝」として知られる三代目瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演されて大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ちなみに浦賀沖にペリー率いる黒船が来航したのはその2年後の嘉永6年のことになります。幕末の世相は次第に混乱の様相を呈してきます。ところでいつぞや「佐倉義民伝」の解説を眺めていましたら、どなたの解説だか忘れましたが、「幕末の世相穏やかならぬ時期に直訴の芝居を上演差し止めにできなかったのは、当時の幕府の権威がいかに落ちていたかを示すものである」という趣旨のことを書いているのが目に付きました。残念ながらこれは認識がちょっと違いますね。確かに佐倉惣五郎はその後の明治において自由民権運動のシンボルとして祀り上げられた背景がありますから「佐倉義民伝」を見るとこんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかと驚くのかも知れませんねえ。しかし、逆にして考えてみれば、そのような体制批判の因子を持つ(と思われるような)芝居を幕府が問題視せず・上演が許可されたということは、幕府はこの芝居をそのように解釈しなかったということなのです。それはどうしてかという背景を考えないから上記のような誤解をするわけです。本稿ではこのことをきっかけとして「佐倉義民伝」という作品を考えていきます。

まず嘉永4年(1851)江戸中村座での「東山桜荘子」初演は当初その成功が危ぶまれて・座主が上演を渋ったと言われています。しかし、その理由はこの芝居が百姓農民を主人公とする地味な芝居(これを木綿芝居と呼びました)で派手さがないので・これでは巷の話題にならないと心配したからでした。農民直訴の芝居がお上の神経に触って上演差し止めになるかも・・・という心配をしたのではないのです。ところが蓋を開けてみれば興行が100日を越える大ヒットとなったのでした。こうして本作は「切られ与三郎」と並ぶ如皐の代表作となりました。

もちろん「東山桜荘子」は佐倉の惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなくて、本作は題名から分かる通り世界を東山に採り・つまり室町時代であると仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げたのです。このような形になったのは当時は幕府の規制により実在の人物や事件をそのまま芝居にすることが出来なかったのでそうなったのです。全七幕の芝居のなかで特に三幕目の「甚兵衛の渡し」と「子別れ」が好評でした。また大詰め「織越家館の場」で惣五郎の怨霊が殿様を悩ませる場面で燈篭抜け・居所抜けなど小団次が得意とするケレンが用いられて、歌舞伎年代記ではこれが「大出来」と書かれています。

本稿では「佐倉義民伝」(東山桜荘子)をいろいろな角度から考えていきたいと思いますが、とりあえずどうして幕府が農民直訴の芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由のひとつ目を挙げておきます。はっきり言えばそれはこの芝居で描かれている農民の窮状はあくまで藩主織越大領政知の不始末によるもので、別に封建制度の批判なんてところに作品の主眼がないからです。お上である足利将軍は主人公の朝倉当吾(佐倉惣五郎)の直訴を受け入れて、お上としての慈悲を示した。足利幕府は正しい裁きを行ない、御政道の正しいことが示された。殿様も当吾の怨霊に悩まされますが、最後は改心します。当吾は大明神として祀られてメデタシメデタシということになります。これが時代物というものの構造です。「東山桜荘子」は後の世から見れば確かに由々しい主題を秘めた作品には違いないのですが、とりあえずお上はそのことを見ないことにするのです。時代物の世界構造がしっかり守られている限りお上は寛大なのです。

しかし、幕末期にも幕府により上演差し止めになった芝居は数多くありました。慶応2年(1866)2月守田座での「鋳掛け松」はしがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうという場面が大評判となりました。この芝居が原因となって幕府は「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを出し、芝居に対する検閲強化に乗り出しました。小団次はこの報を聞いて身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。

『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)

河竹繁俊:河竹黙阿弥 (人物叢書)

小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなっていき、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。(別稿「小団次の西洋」をご参照ください。)ちなみに慶応2年とは明治維新の前年のことです。当時の幕府の権威が(少なくともお膝元の江戸においては)どれほど凄いものであったか・これで想像が付くと思います。ところで「鋳掛け松」は普通の世話物で、別に封建体制批判をしたわけでもないのです。「あれも一生、これも一生・・・」とやっただけのことです。これのどこがいけなかったのでしょうか。幕府はこの芝居を「今の世の中は嫌だ、こんな生活はご免だ、こんな世の中は変わってしまえ」という民衆の気分を煽っていると受け取ったのです。だから無視するわけにいかなかったのです。

嘉永4年の「東山桜荘子」と慶応2年の「鋳掛け松」は上演年代も作品も違っていますが、幕府が芝居に対して常に警戒するのはどういう点であるか、このふたつを比べてみれば分かると思います。それは実に曖昧な判断基準であるのですが、為政者はその絶対的権威を以って民衆に慈悲を示す「許しの構図」がその作品に見られるならば、これを許すのです。それは為政者が自らがそうありたいと願う・もっとも望ましい姿だからです。(別稿「歌舞伎とオペラ」のなかの「モーツアルトという時代」をご参照ください。)現在の「子別れ」中心の上演形態ではそのことが明確に分からないかも知れませんが、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)はそのような世界構図を取っているのです。これが幕府はこの作品を上演差し止めにする必要はなかろうと判断したことの理由のまずひとつ目なのですが、さらに「佐倉義民伝」という作品背景を探っていきたいと思います。(この稿つづく)

(H22・7・20)


2)江戸期の農民一揆の実態

「東山桜荘子」が初演された8年後の安政6年(1859)のことですが、信州伊那谷で南山一揆と呼ばれる農民一揆が起こりました。指導者小木曽猪兵衛は佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したということです。この頃には義民としての惣五郎の名は各地に広まっていました。これには歌舞伎の成功が一役買ったのです。もっとも歌舞伎の惣五郎は領主の圧政に農民の憤懣が高まって一揆になりかねない雰囲気なのを抑えて・単身で直訴に及ぶわけです。だから惣五郎はホントは一揆の指導者ではないのですが、惣五郎というのは農民の権利意識のシンボルだということなのでしょう。さらに明治になると惣五郎は民衆運動のシンボルにも祀り上げられていきます。

ところで嘉永4年「東山桜荘子」初演の時になぜ幕府はこの芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由をさらに考えていくために、江戸時代の農民一揆というのはどんなものであったかということを知っておかねばなりません。ついちょっと前(吉之助の子供の頃)は農民一揆と言えば鋤や鎌を持って年貢の減免を訴える農民たちを侍たちが情け容赦なく斬り倒して・首謀者を片っ端から磔刑に処すというようなイメージがあったと思います。このような支配階級であり・生産手段を持たない・しかし武装手段を持つ武士が、領民であり・非武装である農民から生産物を一方的に搾取したというイメージは明治政府が前政権であった江戸幕府を貶めるために意図的に広めたものでした。その後はこの収奪のイメージがマルクス経済学の階級闘争理論にも合致したので強い固定観念として民間に定着しました。しかし、近年は江戸時代の農村の実態調査が進んでこのような封建主義の暗黒的収奪構図はかなり修正されてきました。それでも一般の江戸の 暗黒イメージは依然として根強く残っています。

しかし、最新の歴史学の成果を踏まえれば江戸時代の一揆というものは、領主の圧政に苦しんだ農民たちが暴れるのを・武士が武力で一方的に弾圧したというようなものでは決してなかったのです。確かに室町期の一向一揆 などには階級闘争的な性格のものがありました。江戸初期の島原の乱(当時の観念から見ればこのようなものこそが一揆でした)もそのような性格のものでした。しかし、島原の乱を最後に、江戸の封建体制が整備されて以後の一揆はその性格を大きく変化して、労働争議みたいなものになっていきます。つまりそれは会社で従業員が鉢巻を巻いて・シュプレヒコールして賃上げ要求をして、時にストライキを打つというようなものなのです。これが江戸の農民一揆の実態でした。これはどういうことかと言えば、領地を治める為政者(武士)と・そこでその庇護を受けるべき領民(農民)との関係をお互いに認め合っている範囲で起こる小競り合いということなのです。

このような為政者と領民のある種の信頼関係は、社会契約論などと小難しいことを言わなくてもどのような歴史段階の社会においてもあるものです。この関係が崩れればホントに内乱になるのです。歴史的にみればそうやって政権は交代してきたのです。つまりガバナビリティ(被統治能力)ということです。江戸期の農民一揆はそのような為政者と領民の関係を互いに認め たところで・その一線を越えない範囲でやりあうものでした。どうしてそうなるかと言えば、まず武士の側から見ると、武士が武力にまかせて農民を無差別に殺戮して弾圧するならば・農民は土地を放り出して米作りをしなくなり、そうすると武士は年貢が取れなくなって政権が立ち行かなくなるからです。江戸時代の国家経済の基盤は米であったからです。だから武士はそこまで農民を怒らせない範囲でうまく治める必要があったのです。嘉永6年(1953)、南部藩での一揆において駆けつけた役人が一揆勢に「百姓の分際でお上を恐れぬ不届き者」 と怒鳴りました。これに対して百姓たちはカラカラと笑い、次のように言ったという話が当時の百姓一揆物語に出てくるそうです。

『汝ら百姓などと軽しめるは心得違いなり、百姓のことをよく承れ。士農工商天下の遊民みな源平藤橘の四姓を離れず、天下諸民はみな百姓なり。その命を養ふ故に、農民ばかりを百姓と云うなり。汝らも百姓に養わるなり。この通理を知らずして百姓らと罵るは不届き者なり。その処をのけて通せ』(「遠野唐丹寝物語」)

こんな風に農民に怒鳴られて・スゴスゴと道を明け渡す武士の姿を想像してみてください。しかし、ここで怒って農民を斬ったりすれば藩の対応が問われることになる。そのような行為は、ご法度なのです。百姓は国の御宝だからです。ですからもし百姓一揆が起きた場合は適当に暴れさせてガス抜きさせる(つまり多少の打ちこわしは黙認する)のが一番だということになります。一揆の指導者については一応形通りの処分をするけれども、誰彼も無用に磔刑に処することなど絶対にしませんでした。一揆する農民の側にも無言のルールがありました。鋤や鎌は持っても、刀や銃 などは絶対に使わない。火付けは絶対しないなどです。あくまでお上に待遇改善を願うのであって体制転覆を図るのではないというところが、一揆する側の立場なのです。ですからお互いに治め・治められる立場を認め合うところで江戸期の農民一揆は行なわれたものでした。江戸期は一揆が頻発し数えれば三千数百件くらいの一揆が起こったそうですが、大抵はそんなものだったのです。(これについては保坂智著:「百姓一揆とその作法」あるいは白川部達夫著:「近世の百姓世界」などが参考になります。)

保坂智:百姓一揆とその作法 (歴史文化ライブラリー)
白川部達夫:近世の百姓世界 (歴史文化ライブラリー )

このような認識を以って「東山桜荘子」(佐倉義民伝)の舞台を見るならば、こんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかなどと驚くことは決してないはずです。佐倉宗吾の将軍直訴自体は確かに穏やかではないことですが、そこにお互いに治め・治められる立場を認め合うところがあるならば、それを許さないほどお上に慈悲がないわけではないのです。むしろ このくらいの寛容を見せることはお上の度量の大きさを示す絶好の機会だから望ましいくらいのものです。まず「東山桜荘子」の世界構造がそのようにあって、その世界観のうえに「甚兵衛の渡し」と「子別れ」のドラマがあるのだということを知っておく必要があります。

別稿「世界とは何か」でも触れましたが、歌舞伎の時代物の「世界」構造とはどういう意味を持つのでしょうか。お上の規制があるので同時代の事件をそのまま描けないから・方便として架空の出来事に仕立てて勧善懲悪のパターンで逃げを打ったということも、建前としてもちろんあります。しかし、歌舞伎の「世界」がひとつの作劇の概念として定着した後においては「世界」のハンデを逆手にとって作劇に利用するという積極的な意味があったのです。「世界」の積極的な意味とは「そうでなければ叶わない」と誰もが納得する結末に芝居を至らしめるということです。佐倉惣五郎の物語をそのような視点で見てみたいものです。(この稿つづく)

(H22・7・26)


3)惣五郎のピュアな心情

誤解ないように付け加えれば、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)にはレジスタンスの精神がなく・結局はお上賛美の芝居で・お上にひれ伏してただお慈悲を乞うだけの芝居であると言っているのではありません。それでは惣五郎のドラマが余りにいじましく 惨めな感じになってしまいます。それでは「子別れ」のドラマの感動の説明ができません。惣五郎はその後に民権運動のシンボルに祀り上げられていくほどですから、レジスタンス精神の萌芽のようなものは間違いなくあります。その過程を検証することはもちろん意味あることです。しかし、その前に吉之助は惣五郎の自己犠牲の行為のピュアなところをちょっと考えてみたいのです。

「歌舞伎素人講釈」ではこれまでもかぶき的心情の考察で触れてきましたが、江戸時代の民衆は個人と社会の関係を対立構図として明確に意識することはなかったのです。それは明治期になって西洋思想が流入してきてから以後の視点です。だから地域の窮状を見かねて直訴に打って出る惣五郎の自己犠牲の心情は、そのような人権思想のフィルターを取り除いて見ないと、惣五郎の心情のピュアなところが見えてこないわけです。ひとつ例を挙げます。幕末の江戸の蘭学塾と言うと伊東玄朴の開いた「象先堂」が有名でした。これは大坂での緒方洪庵の適塾に比せられるものです。この象先堂の蔵書のなかで玄朴が「読むと気が狂う」と言って閲覧を決して許さなかった本がありました。後に分かったことですが、それはオランダの民法書であったそうです。

『なるほど身分制度のやかましい江戸封建制のなかで、フランス革命の落とし子ともいうべきヨーロッパの民法書を読んだとすれば、平等の思想や権利の思想を知るだけでも、血の気の多い者ならば欝懐を生じ、気が狂う破目になるかも知れない。(玄朴は読んだのだな)と、明治後、良順は思った。読んだ時の玄朴の思いはどうだったのであろう。玄朴の場合、わずかに蘭方という新奇な医学を身に付けることによって他から軽侮されることをまぬがれたが、それでもなお、オランダの民法書を読んだ時は、暮夜ひそかに自分の出身階級を思い、多量の欝懐を感じたかと思われる。良順は明治後、このことを思うたびに玄朴に愛情を感じたりした。』(司馬遼太郎:「胡蝶の夢」)

身分社会のなかに生き・それが当然と思って生きてきたなかで、多少でも志のある若者がひとたび平等の思想や権利の思想を知ったとすれば、自分のしたいことが出来ない悔しさに自分の出身階級を泣き・あるいは社会の理不尽さを呪い、懊悩することに当然なると思います。だから玄朴は「読むと気が狂う」としてヨーロッパの民法書を読むことを禁じたのです。当時の人々にとって平等の思想や権利の思想はそれほどの強い衝撃 であったわけですが、そのような成文化されたものではなかったにしても「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは当時の日本人にももちろんあったに違いないのです。それは倫理あるいは道徳感覚から来るもので、理屈ではなく・心情から発するものでした。それは吉之助がかぶき的心情として提唱するものとほとんど同じものです。(付け加えれば、これは現在連載中の「折口信夫への旅」のなかで触れましたが、理不尽な神の仕打ちをグッと耐え忍ぶ時に内心に湧き上がってくる倫理的感情と同じものです。折口信夫が「自分の行為が神の認めないことと言う怖れが古代人の心を美しくした」と言う指摘がこれに当たります。そこから「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というピュアな心情が生まれるのです。)

「与えられておらねばならぬ」と言って一体誰から与えられるものなのかという問題があると思います。それが為政者なのか・神なのか・社会なのかが明確ではありません。どこか他力本願のようにも思われます。しかし、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情があるのは間違いありません。その心情が強い方向性を以って為政者の方へ向いた時には、それはルソーの 「社会契約論」のような形を取ったりもするわけです。恐らくヨーロッパの民権思想もそのようなピュアな心情から発したものでしょう。ルソーの「社会契約論」は1762年の出版ですから、ヨーロッパにおいても民権思想の歴史は実はさほど長いわけではありません。現在でもヨーロッパ社会は深層部分では日本人が驚くほどの強固な身分社会であることは知っておいた方が良いです。むしろ日本の方がずっと平坦な社会だと言えます。逆に言えばスイスの時計職人の息子(ルソーのことです)が「社会契約論」を書かねばならなかった素地がそこにあったわけです。ヨーロッパでは権利は勝ち取らねばならないものでした。しかし、どうも日本ではそうではなかったようですね。

江戸期の日本人においては「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは多少の憤懣はあってもそこそこ充足された段階で、自らが享受すべき権利として強く意識する必要があまりない状況であったのかも知れません。そのことが良かったか悪かったかということは一概に言えません。政治に不満があっても・お上のことは仕方ないでナアナアで済ませるところは現代日本人にもあって・そういうところは江戸時代に発するのかなと思いますが、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情はもちろん現代の我々にもあるはずです。その心情のピュアなところを現代の我々はもう一度見詰め直していく必要があるかも知れませんねえ。そうしないと平等の思想・権利の思想は正しく我々の身に着いたものにならぬのです。義民佐倉惣五郎のドラマはそういうことを考えるきっかけになるかも知れません。(この稿つづく)

(H22・8・6)


4)惣五郎の憤りについて

斎藤隆介氏は「ベロ出しチョンマ」や「八郎」などで知られる創作民話の作家です。斎藤氏は自らの創作民話の理念として「従来の社会を変革して・人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない・その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていく・これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ」(「八郎」の方法・1973)」ということを語っています。「ベロ出しチョンマ」(1966)は佐倉の惣五郎伝説をべースにしたとされてます。長松(チョンマ)の父親(注:作品では惣五郎とはしていません)は農民たちの苦しみを見かねて将軍に直訴に及び・捕われの身となり ・磔(はりつけ)の刑を受けることになります。長松兄妹も父ともども捕らえられて刑場に送られます。刑を執行される時、妹のウメが槍の穂先を見て泣き出します。 その横で磔になっている長松は「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んで、眉毛をカタッと「ハ」の字に下げてベロッと舌を出して見せたという話です。いかにも惣五郎の息子にありそうな挿話ですが、これは斎藤氏のまったくの創作です。

斉藤隆介:ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ところで斎藤氏は当時いわゆる偏向作家(左翼系の作家という文部省用語)と見なされたもので、発表当時は「ベロ出しチョンマ」も封建社会のもとで厳しい収奪を受けてきた民衆が権力の非人間的な弾圧に屈することなく、踏まれても蹴られても・たくましく真実を貫いてきた民衆の不屈の精神を描いた作品であるとよく評されたものでした。当時は小学生だった吉之助もそんな風に教えられたような記憶があります。こうした読み方は斎藤氏の言動と考え合わせると・なるほどそんなものかと頷いてしまいそうなところがありますが、ところが当の斉藤氏がこのような読み方に猛然と反発するのには驚かされます。

『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)

どうやら斎藤氏の真意は、社会が何だ・人権が何だとこざかしい理屈を言う前に・長松という子供の気持ちを素直に捉えて読んで欲しい・それこそが民話の原点であり・すべての出発点であると言うところにあるようです。(これについては別稿「科学的な歌舞伎の見方」を参考にしてください。)

「佐倉義民伝」を考える時に上記の斎藤氏の主張がとても参考になると吉之助は思います。惣五郎の自己犠牲の行為のピュアな要素を考える時には、社会と民衆とか・人権という問題をちょっと置いて・惣五郎の気持ちの核を想像してみる必要があります。それは結局、清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りにあるのです。このことは現在連載中の「折口信夫への旅」にも深く関連してきます。理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係ということです。折口信夫は次のように書いています。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)

古代の人々は理不尽な神の仕打ちに黙々と耐えた・それが道徳らしきものを生み出したと折口は言います。佐倉惣五郎にも同じように強い宗教心(適当な言葉がないので便宜上そう書きますが・要するに神をひたすら信じる純な気持ちということです)があります。しかし、惣五郎は古代人ではありません。惣五郎はずっと時代が下った江戸初期という・道徳規範が既に固まり・アイデンティティがやっと芽生え始めた時代に生きた人間ですから、その宗教心は古代人とはちょっと違った表れ方を見せます。惣五郎には為政者と民衆を対立構図に見るような視点はまだありません。清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りだけがそこにあります。ここが大事なポイントですが、そのような憤りが生じるのは「清く正しく真面目に生きるべし」という倫理道徳の基準がそこにあるからで、それに沿うなら良し・それにはずれれば悪いという判断があるということです。ですから惣五郎の憤りの場合には、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないということになるのです。そのような惣五郎の憤りが熱い自己主張を以って噴出します。そのような憤りを誰かにぶつけなければ居られないという・やむにやまれぬ思いは、江戸初期の・かぶき者(仁侠者)の行動によく似ています。実はそこに江戸初期の時代的気質が反映しているわけです。 だから惣五郎の自己犠牲の行為はかぶき的心情の行為であるということです。(この稿つづく)

(H22・8・21)


5)惣五郎の憤りについて・続き

『憤りというのは、胸がどきどきするほど腹が立つこと。動詞で、憤る。形容詞では、憤ろし。また、憤ろしいと私の生まれたところでは言うた。この腹が立って腹が立ってしようがないという気持ちが、我々の道徳を支持しているのである。我々の民俗の間にできてきた道徳観念をば守り、もちこたえていく底の力になるのが憤りである。(中略)ああいうことが世の中で行なわれてよいのか、これから先、どうなってゆくのか、と思うことがある。この気持ちを公憤と言う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)

折口信夫は、憤るという感情が我々の道徳の根本にあると言っています。しかし、折口はまたこういうことも言っています。憤りはそのような美しい形を備えていないこともよくあって、しばしばそれは一種のねたみ・そねみから発していることがあり、むかつきの場合に過ぎないことも多いというのです。平安朝の語で「おほやけはらだたし」とか、略して「おほやけばら」という語がありますが、個人的なむかつきを公憤の形にして出すことも少なくないようです。世にいう正義派というのがそれで、特に政治的な争いで負けた場合にそういう風になりやすいようです。身分の高い人の場合は公人という性格も持つので、個人のむかつきの感情も公のそれとして重ねて読まれることが必然的に多くなるからです。いわゆる御霊と呼ばれているもの(歌舞伎においては荒事に取り上げられているキャラクター)の多くが政治的敗北者です。これは菅原道真などを見れば分かります。

逆に町人や農民など身分が低い人の憤りを公のものとして読むことは普通はできないわけですが、しかし、数少ないケースですが、その個人の憤りがピュアで無私なもので・なおかつそれが社会の道徳観にぴったりと当てはまるものならば、その憤り が公的な性格を帯びてくる場合があり得ます。例えば佐倉惣五郎の憤りがまさにそれに当たります。平穏に暮らしている村に、権力が何かとんでもないことを要求して来たとします。そういう場合に、お上が言うことだから仕方がないと卑屈に諦めてしまうならば何も起こりませんが、そうするとただ言いようのない不平不満ばかりが残ります。状況は何も変化することがありません。しかし、誰かが自分たちはこのような扱いを受ける謂われはないというような憤りを発して、自分たちに突きつけられた刀を無意識のうちに振り払うような行動に出たとすれば、状況は一変します。惣五郎の直訴の行動がそのようなものです。

『水呑み百姓をいじめて暴利を得て出世した良くない役人が威張ることがある。水呑み百姓の社会では行為に対する判断はできずに、ただ反感だけがある。何か説明できぬ気分が漂うている時、誰かがひとつの清純な感情をほとばしらせて、その感情で批判して反抗する。田舎における任侠行為は、こんな時に起こってきて、無頼漢などはあずからない。佐倉宗吾などが代表的人物として言われているが、すべて道理も何も分からぬ人が、何かを要求し、説明を求めて来、ぴったりはまる判断がついてくると、そこに出てくるものは、いちばん古い判断や感情である。われわれは、こういう生活を先祖から与えられておらねばならぬ、そういうはずはない、という判断になる。だから、任侠ということも、田舎の生活の道徳的な鍛錬淘治の行き届いておらぬ社会のいちばん最後に到達するものだから、大事だと思う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)

話がちょっと脇にそれますが、別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界・その3」で2009年2月に作家村上春樹が文学賞であるエルサレム賞受賞式において「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」というスピーチをしたことについて触れました。村上氏は「やってはいけないこと」を強制するものに対して徹底的に憤るのです。この憤りはたとえば「ねじまき鳥クロニクル」の主人公の「僕は詰まらない人間かも知れないが・少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という発言にも出てきます。個の「憤り・怒り」だけが「システム」の暴走を阻止する絶対的な力になると信じるのが村上氏の作家としての立場です。村上文学のなかでは主人公の世界は原則としてひたすら「個」です。惣五郎の憤りも同 じように考えたいと思います。逆に言えば、無国籍文学のように言われる村上文学の日本的な感覚の一端がここにあると吉之助は考えるわけです。それが「黙阿弥的世界」というタイトルになっているわけですがね。

今日的視点からすると、佐倉惣五郎の憤りも人間の尊厳とか生きる権利であるとか・そのような公的な憤りに重ねて読むことも可能かも知れません。だから現代人はついついそのように読んでしまい勝ちです。まあそれも無理ないことですが、しかし、それは個人と外界を対立的に見てしまうからそういうことになるのです。そうではなくて、まず惣五郎の憤りのひたすらに「個」であるところを見詰めてもらいたいと思います。そうすると、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・ということになるのです。これが惣五郎の憤りの原点となる論理です。それはひたすらに無私であり・ピュアなものです。そして、なおかつそれは当時の道徳感覚に触れてくるものですから、その憤りは自然と公的な性格を帯びてくることになるのです。

佐倉宗吾(惣吾)が惣五郎とも呼ばれるのは、そこに御霊(=五郎)の音を重ねて・民衆がその憤りに公的な性格を持たせようとしたからだと考えられます。現在の宗吾霊堂は千葉県成田市東勝寺にありますが、実は昔は宗吾由縁の場所が 別のところにありました。それは近くの・かつては将門山と呼ばれていた小高い丘で、そこに平将門の居館があったと伝えられています。江戸時代には将門山の「口の宮神社」に宗吾は祭られており、そこは「佐倉宗五郎大明神」と呼ばれていました。これが後に東勝寺に移されました。このことは分かるように宗吾は将門と重ね合わせて御霊神として地元の民に崇められていたことが明らかなのです。惣五郎の憤りがひたすら「個」であるからこそ、その憤りは公のものとなる。こう考えることで惣五郎の御霊神的性格が分かって来ると思います。(この稿つづく)

(H22・9・15)


6)民権運動のシンボルとなる惣五郎

福沢諭吉は「学問のすすめ」(明治7年・1872)のなかで、「人民の権義を主張し、正理を唱え政府に迫り、其命を棄てて終をよくし、世界中に対して恥ることなかる可き者は、古来唯一名の佐倉宗五郎あるのみ」と書きました。明治の初め各地で民権運動が始まりますが、民権意識を地域に定着させるために、出版・講談・芝居・双六などいろいろな場面で惣五郎が喧伝され、民権のシンボルとして分かりやすく通俗的な形で取り込むことがされました。

「魚屋宗五郎」の初演は明治16年(1883)5月市村座のことでした。理不尽な理由で妹お蔦を手打ちにした磯部の殿様の処置に対して、次第に沸きあがってくる憤りを宗五郎は抑えきれません。それで宗五郎は禁酒していた酒を飲んでしまって、暴れ出します。別稿「荒事としての宗五郎」において、酒を飲んで荒れ狂う宗五郎の酒乱は世話の「荒れ」であり、「宗五郎」という役名は佐倉宗吾(惣五郎)に重ねられているということを書きました。これは吉之助の推察ですが、もちろん根拠はあります。文久元年(1861)8月守田座での再演にあたって瀬川如皐の原作「東山桜荘子」に、黙阿弥が改訂を施したものが現行の「佐倉義民伝」なのです。改訂の際に黙阿弥は原作の田舎源氏の筋を抜いて・筋をシンプルにして、代わりに仏光寺の場を書き加えました。仏光寺祈念の場では宗吾の叔父・光然はせめて子供の命は助けてもらいたいと祈念を込めますが、その願いが叶わず子供たちが処刑されたのを知って・数珠を切って憤怒の表情で印旛沼に入水します。この場は明らかに荒事の荒れの系譜を引いています。佐倉宗吾(惣五郎)=御霊神のイメージが、黙阿弥のなかに確かにあるのです。明治10年代 というのは民権運動がピークの時期で、明治16年の黙阿弥も無関心でいられたはずがありません。確かに「魚屋宗五郎」は酔いが醒めてしまうと殿様にペコペコするのでちょっとガッカリしするところがありますが、封建社会・身分社会の理不尽に対して宗五郎が強烈な怒りを発するところは、そこに黙阿弥なりの民権意識があったに違いありません。

明治17年(1884)市村座では「東叡山農夫願書」で九代目団十郎が佐倉宗吾を演じることになりました。最初、団十郎は義民・義民・・と言って役作りに意欲を燃やしていたのですが、そこに当時の劇評家の権威とされていた依田学海が現れて、「領主の非行を暴いて直訴するなど穏当ではない」 などと罵倒し、事あるごとに「宗吾は三百代言(大嘘付き)だ」と触れ回ったので、団十郎はだんだん嫌気が差してきて・演技が投げやりになってしまい、そのため芝居の評判は甚だ良くなかったそうです。実は当時の依田学海は文部省の役人でありました。明治政府の立場からすると、民権運動を刺激するこのような芝居は面白くなかったのです。おまけに学海は旧佐倉藩の出身でした。ちなみに幕末の佐倉の殿様は堀田氏と言いますが、宗吾伝説に登場する堀田正信が改易になった何代か後に、延享3年(1746)山形から佐倉に入封したのが堀田正亮で、この正亮の家系が幕末まで続いた堀田氏です。正亮は正信の弟正俊の家系に当たります。正亮は惣五郎伝説の問題人物の血筋であることを気にしたようで、惣五郎百年忌に当たる宝暦2年(1752)に供養を行ないました。もともと惣五郎伝説は資料的な裏付けが少ないもので・地域の 伝承に過ぎなかったものですが、藩が公にこれを認める形になったことで惣五郎伝説が確立することになります。18世紀後半には「地蔵堂通夜物語」、「堀田騒動記」などの惣五郎物語が完成しました。学海は旧佐倉藩士という関係で、佐倉宗吾という題材がそもそも気に入らなかったということもあったかも知れません。

以上は年代関係ごちゃごちゃしてますが、 要するに地域の伝説に過ぎなかった惣五郎のイメージが次第に流布して拡大し、歌舞伎にも取り上げられて、さらに明治になって民権運動のシンボルに祀り上げられていくということです。ただし、前章で書きました通り、惣五郎の憤りの原点となるところのピュアなものを見詰め直す必要があると思います。(この稿つづく)

(H22・10・2)


7)惣五郎の自己犠牲の意味

明治9年(1876)、明治天皇は元老院議長へ国憲起草を命ずるの勅語を発せられ、それ以後に各地でいろいろな憲法私案(私議憲法)が議論されました。その内容はさまざまですが、これからの近代国家日本をどう構築していくかという根本に係わることですから、民衆も必然的に熱くなったと思います。明治10年代は自由民権と憲法の議論がとても 盛んな時期でした。しかし、明治政府にとってこのような自由民権意識の高まりは迷惑なことでしたから、これらの私議憲法を取り上げて議論することはありませんでした。逆に明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して、私議憲法の検討・議論を禁止してしまいました。大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されたのは明治22年(1889)のことですが、これは欽定憲法・要するにお上が人民に下された憲法ということです。憲法が発布されてしまうと、自由民権運動は急速に冷めていきました。

このような私議憲法の議論に惣五郎はもちろん直接関係はしませんが、清く正しく・真面目に生きている庶民は正当な扱いを受けて当たり前だ・・というピュアな思いは間違いなく惣五郎と共通したものがあったのです。幕末から明治前半に掛けて、初演の瀬川如皐から黙阿弥の改訂を経て今日出来上がった歌舞伎の「佐倉義民伝」にも、そのような惣五郎のピュアな思いを見なければなりません。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いです。これが直訴という行動になって現れる惣五郎の憤りの原点です。それが「佐倉義民伝」の世界観になっているのです。

「佐倉義民伝」には直訴という穏当でない行動が登場しますが、江戸幕府がこれを咎めることなく上演を許可したということは、作品の「世界」があるべき形で然りとあるならば幕府はこれを正しく認めるということに他なりません。この点において幕府は公正です。むしろ明治政府の自由民権に対する態度の方がずっと捻じれていて変じゃないのか?ということを考えてもらいたいのです。

ですから「佐倉義民伝」に出てくる直訴という行動自体に格別の政治的な意図はないのです。それは当時の農民の弱い立場ならそうする以外に状況打開の方法が考えられなかったからです。だから「佐倉義民伝」のシチュエーションにおいては筋がとりあえずそうなっているに過ぎません。そこを取り違えると、惣五郎の自己犠牲の意味がまったく変ってしまいます。「ベロ出しチョンマ」の作者である斎藤隆介氏は次のように言っています。

『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)(この稿つづく)

(H22・10・11)


8)時代物の赦しの構図

直訴というのは確かに穏当ではない政治的行動ですが、強者である為政者に対する弱者・被統治民からの命を掛けた・やむを得ぬ行動であると考えられます。これはかぶき的心情からは次のように読めます。かぶき的心情の行為においては、自らのピュアな心情の強さによって相手の心を揺さぶり・自分の気持ちを理解させようとする情念の行動が見られます。自分は命を棄ててここまで訴えている・だから貴方はこの訴えを理解してほしい(理解すべきである)・・という論理プロセスです。例えば「伊賀越道中双六・沼津」の平作は、事情があって敵の行方を明かせない十兵衛に対して、自ら腹を切ってみせて問いかけることで、これを十兵衛から聞き出します。つまり、その心情によって相手の心を揺さぶり・動かそうとするのです。命を掛けて問うてはならないことを聞き、問われた者は答えてはならぬことを答える。多くの場合、それは良い結果にはなりません。結局、双方とも死ぬことになります。「伊賀越道中双六」でも後段・伏見において十兵衛は敵の一味として討たれることになります。

しかし、問われる相手が数段格上であるとドラマの様相が全然違ってきます。六段目の勘平が腹を切るのは、直接的には自分が金が欲しくて故意に舅を殺したのではない(実はこれは誤解ですが)ことを証明するためで した。しかし、時代物としての六代目の構造から見れば、勘平は命を棄てて自らの忠義を由良助に訴え・討ち入りの仲間に入れてもらうことを強く願い、由良助はこれを聞きいれ・判官刃傷の際の勘平の不手際の罪を許し・討ち入りの仲間に加えることを許すということになるのです。この場合、訴えた勘平は死にますが、相手の由良助は死ぬことはありません。差し出された勘平の命を「然り」と受け取って赦すのが由良助の役割です。しかし、これは命を 差し出して勘平が由良助の心を強く揺さぶったということでもあるのです。ここまでしないと他者は動くことはないのです。これが時代物の赦しの構図です。

惣五郎の直訴も同様に考えられます。天下人の将軍に対して下々の者が直接訴え出ることは本来あるまじき事で、そのこと自体が重い罪に問われます。しかし、それを覚悟で・命を棄てて訴え出たということは、たとえ身分の低い者であっても、そうまでするのは・そこにやむにやまれぬ熱い思いがあるのであろう。だから訴えを直接取り上げることはならぬ。しかし、訴え出たおぬしの気持ちは理解したぞ、そこを含んで・後のことは こちらに任せよ、ということになるわけです。「佐倉義民伝」の直訴の場面は、このような時代物の赦しの構図を引いているわけです。 宗吾(=惣五郎)の直訴はかぶき的心情の行為であり、その裏付けとなる相手の心を強く揺さぶるためのピュアな思いがなくてはなりません。繰り返し書きますが、それは我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾の強い憤りなのです。

吉之助が「宗吾のピュアな思い」ということがとても大事であると考えるのは、「佐倉義民伝」を見る時にそのことに強く思いを馳せないと、宗吾のドラマが全然違った方向に行ってしまうからです。実はその危険性を「佐倉義民伝」自体が孕んでいます。嘉永4年江戸中村座での「東山桜荘子」初演においても三幕目の「甚兵衛の渡し」と「宗吾内・子別れ」が特に好評でした。以後の再演においてはこれら二場を中心に上演され、やがて「佐倉義民伝」は歌舞伎の定番として定着することになります。もちろん演劇的にも優れた場ですから至極当然のことですが、「宗吾内・子別れ」において江戸に出立しようとする宗吾に・行ってくれるなという感じで妻子がまつわりついて泣き叫ぶ、これを振り切って宗吾は江戸に立つという場面は、大抵の場合には、暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界というステレオタイプの対立構図でこのドラマを読もうとすることがされてきました。まあ「重の井子別れ」ならば確かにその読み方でも良ろしいのです。しかし、この「宗吾内・子別れ」の場合はその構造が捻じれています。ここでは妻子の嘆きが惣五郎のピュアな思いの実現を阻む枷として使われています。このことは別稿「子別れの乖離感覚」のなかで触れました。女房の叫びも子供たちの泣き声も、本来なら宗吾にとって最も大事な者たちの声が、ここでは宗吾にとって最も忌まわしいものに感じられます。子供たちの「ととさまいのう」という泣き声を宗吾に聞かせて「どうだ、大事な家族を棄てて、それでもお前は江戸へ行こうというのか」と悪魔があざ笑うかの如く感じられるということです。そこに「宗吾内・子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚があるのです。こう考えた時に、先ほど述べた我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・というピュアな憤りが見えてくるのです。

暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界という対立視点だけで歌舞伎の「宗吾内・子別れ」を見ようとすると、クローズアップされるのは宗吾が肉親と別れることの辛さ・悲しさということになります。もちろんそれは間違いではありませんし、そこから彼ら親子を引き裂く無慈悲な力への怒りが湧いて来るということも確かにあるでしょう。しかし、別れが辛いのは確かに分かる。それは親子ならば当然ですが、そもそも宗吾が直訴を志した動機は何だったのか?というところが見え難くなってしまいます。宗吾の直訴の行為の原点にあったはずのピュアな憤りが見えなくなって来ます。初演の「東山桜荘子」が東山の世界に仮託した時代物であったことはもちろん当時の作劇法のお約束から出たことですが、直訴の場面だけ取ってみれば、恐らくその時代物の枠組みが直訴という行為のかぶき的心情と赦しの構図を浮き彫りに見せる効果があったかも知れません。

一方、現行の歌舞伎の「佐倉義民伝」での場割り(甚兵衛渡し・宗吾内・寛永寺直訴の三場)では、「宗吾内・子別れ」の親子の別離の悲しさにどうしても重点が置かれます。実録の世話物っぽく演じられてきたことに隠された政治的意図があったと言うつもりはありませんが、結果として宗吾のピュアな憤りが見えなくされて来たということも確かなのです。(この稿つづく)

(H22・10・18)


9)「子別れ」の引き裂かれた感情

付け加えますと、宗吾の直訴についてはその犠牲的行為を自由民権の鑑として称える見方がある一方で、直訴という行為には封建体制への批判がなく・お上のお慈悲にすがって憐みを乞うものでしかないとして、宗吾を嫌う見方もあるわけです。例えば「講談全集・佐倉宗五郎」(昭和29年発行)を見ると磔刑になった宗五郎がこんなことを言いながら死にますが、権力に対する卑屈な態度と批判精神の無さにゲンナリしてしまいますねえ。

『御直訴がお取りあげになり、御年貢米運上とも従来通りになった以上は、(中略)御領主さまと百姓と、上下和合して、上は下を子の如く愛しみ、下は上を親の如く敬い、御領主さまも百姓万民も、ともにともに千年万年の後までも、天の下の限りないように、子を孫々無事に栄えますよう心からお祈り申し上げます。・・・お役人さま、ありがとうございました。』(「講談全集・佐倉宗五郎」・大日本雄弁会講談社)

この「講談全集」が昭和29年発行であることにご注意いただきたいですが、国民は天皇の赤子(せきし)であると言われた戦前ならばともかく、戦後になっても卑屈な隷属根性が幽霊のようにそのまま生き残っているようで、上から降りてきた戦後民主主義の基盤の脆弱さを見る思いがしますねえ。このような卑屈な宗吾像ならば、これを嫌う理由も確かによく分かります。このような印象は、ひとつには歌舞伎でも講談でも同じですが、「宗吾内子別れ」をお客の涙をたっぷり絞り取るために情緒的に処理しようとする傾向がどうしても強くなることから出てくるものです。歌舞伎の「宗吾内 ・子別れ」も多くの場合そういう感じで上演されてきたのです。もちろんそのような要素は「宗吾内・子別れ」に内在するものに違いありません。そうすると確かに泣ける芝居にはなりますが、そこをあまり強調し過ぎると 、子供と別れる親の悲しみの方に焦点が行ってしまって、何のために宗吾は行かねばならぬのかという肝心なところが見えなくなってしまいます。そうすると直訴という行為の過酷な意味が観客に突き刺さって来なくなります。直訴の場面が、将軍さまが宗吾の訴えを受け取ってくれて良かった・良かった・・・将軍さまはお慈悲のある方だ・・・と安堵する感じになってしまいます。時代物の持つ赦しの構図が、現状体制を肯定し・隷属状況に甘んじ・支配者に憐みを有難く戴くという印象になってしまいます。

まあそれも確かにひとつの受け止め方ではあるのですが、時代物の持つ赦しの構図が正しく機能するためには、常に「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りを含まなければならないのです。「佐倉義民伝」の場合には、その憤りとは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾のピュアな思いです。創作童話「ベロ出しチョンマ」で磔になった長松がベロを出すことについて、作者である斉藤隆介氏は次のように書いています。

『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)

斉藤隆介:ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ということは、斉藤隆介氏の論理を借りれば、最後に宗吾とその一家は磔刑になるわけですが、罪もない妻子までも磔刑にしてしまうのは残酷だ・可哀想だということ、それ自体はその通りですが、そこに固執してしまうとドラマの重大な点を見落とすということなのです。この一家にはそれとは別に、とても無私でピュアな思いがあるのです。これこそ「佐倉義民伝」の核心です。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いであって、そのピュアな思いに殉じて私たち一家はお父さんと一緒に死ぬのだと言うことです。これを政治権力への批判とか反抗だとか言う前に、原点にあるのは民衆の思いであり、その核となるところの家族の思いだということです。磔刑はそのような一家の意思的に選び取った行為の結果としてあるものです 。

 だから「ベロ出しチョンマ」の長松は笑って死ぬことになります。この点をしっかり踏まえないと、「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りが生まれてきません。この憤りを起爆剤にして社会の変革の鼓動が生まれて来るのです。また、そうでなければ良い世の中にはなりません。政治的・イデオロギー的感情はその次の段階・作品の後に生まれるものです。作品それ自体はそのようなイデオロギー的なものから 離れて存在しているもので、原点としての感情はとてもピュアなものから発しているのです。斉藤隆介氏の言いたいことはそういうことです。残念ながら歴史的に見れば、日本ではそのような民衆の変革への鼓動は何度も押し潰されて来ました。だから、先に引用した講談のように卑屈に歪んだ宗吾像が生まれて来ることにもなるのです。しかし、それでは斉藤隆介氏が指摘する通り、重大な点を間違うことになります。

「宗吾内」では宗吾はそっと離縁状を置いて・家族に危害が及ばないようにしようとしますが、女房おさんはこれを拒否します。これはもちろん「貴方と一緒に死ぬ覚悟です」という意思表示なのです。おさんは一緒に直訴に行くわけではありませんが、それは彼女の意思的な共同行為なのです。一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。子供たちはもちろん事情が呑み込めていませんが、幼い子供たちもまた両親のただならぬ気配を感じてこれに反応しています。「宗吾内」のドラマのなかでは子供たちに別の役割が与えられます。「俺は行かねばならぬ・一刻も早くこの不正を正さねばならぬ」という宗吾を前に押し出す力を感じさせるために、子供たちの「ととさまいのう」という泣き声がまるで前に進もうとする宗吾を邪魔しようとしているかのように、逆の方向へ引っ張る強い力になって聞こえ ます。このように農村を舞台にした地味で写実な世話物芝居では義太夫では描線が 強くなってしまって、本来あまりふさわしくない音楽であるはずです。吹雪を表現する三味線の細かいリズムが、子供の泣き声にヒクヒクと震える宗吾の胸を表現しているようです。三味線の刻みが宗吾に突き刺さるように感じられます。宗吾にとって 子供は今は振り払わねばならぬものですが、同時に宗吾は子供を振り払うことで実は子供を道連れに共に直訴に向かうということです。一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。義太夫が子別れのなかで醸しだすものは、とてもアンビバレントな引き裂かれた感情です。これが四代目小団次の意図した演出効果です。(別稿「子別れの乖離感覚」を参照ください。)

小団次は封建体制批判・社会変革の要素をどれくらい意識したものでしょうか。多分明確には意識してはいなかったでしょう。小団次としては観客の心をグッと掴む芝居をどうやって作るか、ただそれだけのことであったでしょう。しかし、小団次の時代への鋭い感性は、幕藩体制の崩壊に向けてヒタヒタと迫ってくる波をしっかり感じ取っていたのです。そしてその感情の震えを作品のなかに正確に写し取ったのです。徳川幕府の瓦解は目前に迫っていました。「東山桜荘子」はそうした時期に生まれた作品なのです。「東山桜荘子」が大評判を取ったことにより、義民惣五郎の名前は全国各地へ知れ渡り、安政6年(1859)・信州伊那谷での南山一揆の指導者小木曽猪兵衛は惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織しました。この事実を見ても、小団次の意図は確かに起爆剤となったに違いありません。小団次の嗅覚は実に鋭いと感嘆せざるを得ません。

(参考文献)

河原宏:「江戸」の精神史―美と志の心身関係(ぺりかん社)

(H22・12・18)



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