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歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察


プロローグ

「歌舞伎素人講釈」も9年目を経過して記事もだいぶ増えてきました。お気付きでしょうが、このところ歌舞伎とオペラをコラボレーションした記事が多く目に付くと思います。歌舞伎のことだけ読みたい方はオペラへの言及にとまどうかも知れませんが、もちろん吉之助は意図的にそうしております。吉之助もサイトを始めた最初の数年間は歌舞伎とオペラを結びつけるのは読者を憚って遠慮していましたが・だんだん図々しくなってきましたし、「歌舞伎はどんな演劇か」ということを普遍的に論じるにはやはりオペラとの対比がもっとも効果的だと判断して・そうしています。列記しますと「出世景清」(ヴェルデイ:「椿姫」)・「曽根崎心中」(ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」)・「新薄雪物語」(ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタースタージンガー」)・「本朝廿四孝」(ワーグナー:「さまよえるオランダ人)」・「東海道四谷怪談」(モーツアルト:「ドン・ジョヴァン二」)・「籠釣瓶花街酔醒」(ビゼー:「カルメン」)・「番町皿屋敷」(ワーグナー:「ローエングリン」)などです。「古典性とバロック性」(モーツアルト:「フィガロの結婚」)・「女形の実のなさについての考察」(マスネ:「マノン」)という論考や、番外編ですが「野田版・愛陀姫」(ヴェルデイ:「アイーダ」)というのもあります。多分これからまだまだ増えるでしょう。いずれレオンカヴァルロの「道化師」とのコラボでも論考(テーマは何かな?)を書く予定にしていますのでお楽しみに。しかし、これらの論考をお読みになればお分かりの通り・論考では音楽(つまり旋律やリズム)についてあまり触れていないのです。それは歌舞伎とオペラの共通項が「ドラマ」であり、吉之助の関心事がそのドラマの描き出すところの心情であるからです。「心情」こそ吉之助が江戸の精神的状況は十九世紀の西欧の状況を先取りしていたと主張するところの根拠です。

歌舞伎もオペラもどちらも楽しむ方は昨今結構いらっしゃいます。吉之助自身も歌舞伎を知るよりオペラを聴き始める方が先(2年は早かったかなあ)でしたから、オペラ歴は結構長いのです。我が玉三郎もイタリア・オペラの長年のファンとして有名ですね。「歌舞伎とオペラは似ている」と何となく感じる方は多いと思います。しかし、「歌舞伎とオペラは似ている」という議論は、その誕生の時期がどちらも1600年前後であるらしいとか、「月も朧に白魚の・・・」なんていう台詞がオペラのアリアのようであるとか(その指摘自体は正しいですがね)、歌舞伎の女形とオペラのカストラート(オペラではその昔は去勢した男性歌手がソプラノ・パートを歌った)との対比であるとかいうような漠然たる表面的な類似を語るだけに終始し勝ちで具体性があまりないようです。歌舞伎とオペラの共通項はドラマであり・心情なのですから、これは歌舞伎がどういう演劇か・オペラはどういう音楽芸術かということの本質論から論議していかねばならぬことだと思います。それが分かれば歌舞伎とオペラが驚くほど似ている芸術であることが分かる。ということは江戸の状況と十九世紀の西欧の状況とが非常によく似ているということが分かるということです。ここから歌舞伎の普遍的な解析が可能になると考えます。「歌舞伎素人講釈」でも 初っ端からこういうことをぶちあげて論考を展開していく手法ももちろん有り得ましたが、それにはまだまだ機が熟していなかったと思います。歌舞伎とオペラのコラボレーション論考をいくつか発表してみて、そろそろ「歌舞伎とオペラ」を真正面から論じる時期に来たかなと言うところです

本稿においては、「歌舞伎はどんな演劇か」を考えるために・歌舞伎史の時代区分をどう位置付け・これをオペラ史の時代区分とどう対比するかという視点からオムニバス形式で話を始めます。恐らく吉之助の歌舞伎史観はこれまでの歌舞伎の類似本に書いてあるものとまったく異なるものとなります。「歌舞伎素人講釈」ではこれまで「かぶき的心情」ということで心情面から・「バロック性」ということで概念面から・「アジタートなリズム」ということでフォルム面から、歌舞伎を通史的に論じることをしてきました。本稿ではこれらを総合した形で新しい歌舞伎史観のヒントを提示したいと思っています。本稿により・「歌舞伎素人講釈」がこれまでの9年ある一定の方向を目指して進んできたことがご納得いただけるでしょうし、今後のサイトの方向もお察しいただけるかと思います。(この稿つづく)

(H21・8・17)


1)成立年代

歴史を考える場合に一番大事なのは「時代区分」のセンスです。時代の「節目」というものは、ある事件を契機にして時代が断層のようにスッパリと切れて・それ以前とそれ以後が明確に分かれて見えるというものでは必ずしもありません。その事件の前後十数年、場合によっては数十年ということもありますが、そうしたスパン(期間)のなかで見ると時代の様相がまるで回り舞台のように大きく転換しているように見えるのです。そうした時に後から振り返ってみれば「あれが節目だった」と言える事件が必ずあるのです。そのような象徴的事件を選び出して時代の流れを明確に示してみせること・そこが歴史家の嗅覚に掛かっています。それは暗喩ということです。例えば19世紀の歴史家ジュール・ミシュレは「象徴先生」と仇名されたほどで・歴史のなかから時代を象徴する材料をパッと取り出してみせるのがとても巧い人でした。それで「あっ、もう時代は変っているんだ」と直感させるのです。これはある種の文学的・あるいは演劇的なセンスです。時代区分とはそのような曖昧な・しかしとても示唆的な指標であり、どのように時代区分を提示するか・そのセンスが歴史家の大事な要件なのです。本稿は通史が目的ではありませんが、吉之助の歌舞伎史観の大まかな概容をその時代区分を以ってご披露することになります。

歌舞伎の創始者と言えば、出雲のお国(阿国)と言われていることはご存知の通りです。慶長8年(1603)5月6日、西洞院時慶(にしのとういんときよし)の記す「時慶卿記(ときよしきょうき)」によれば、「女院御所へ女御殿お振舞ひあり。ヤヤコ跳りなり。雲州の女楽なり。」とあります。同じ日の、舟橋秀賢の記す「慶長日件録」の項には「於女院、かふきをとりこれあり。出雲の国の人。」とあります。これよりちょっと前のことと思われますが、京都・北野天満宮や四条河原などでお国が演じた「かふき踊り」という官能的な前衛踊りは民衆の話題をさらいました。したがって、今日の我々は西暦1603年を歌舞伎発祥の年としています。同じ年・慶長8年(1603)2月12日に徳川家康は伏見城において朝廷から征夷大将軍を任ずる旨の宣下を受けて、江戸幕府を開きました。封建政治権力と「かぶき者の演劇」という相容れないふたつの対立した存在が同じ年に誕生したというのは実に興味深いことです。お国かぶきについては後でもう一度触れることにしますが、お国かぶきは役者や囃子などに能狂言から多くの参画者を得ていたということがあり、お国かぶきは先行芸能である能狂言の影響を強く受けたという以上に・能狂言から分化した芸能というイメージで見るべきであろうと吉之助は思っています。(お国かぶきと慶長期の状況については別稿「いき過ぎたりや」をご参照ください。)

一方、西洋のオペラの方に目を転じれば、それ以前に中世の神秘劇・ルネッサンス期の牧歌劇や典礼劇あるいはマドリガル・コメディなど素朴な音楽劇形態がありましたが、これらはまだ完成した形式を持ち得ませんでした。オペラは16世紀後半フィレンツェのバルディ伯爵の邸宅に集まった音楽家・詩人・文学者・哲学者などのメンバーによる「カメラータ」と呼ばれるサークルから生まれたものとされています。それはギリシア悲劇の復興を目指して新しい芸術形態を模索する試みで、最初のオペラ作品はヤーコポ・ペーリ作曲の「ダフネ」であるとされています。「ダフネ」の楽譜は消失して一部しか残っていませんが、恐らくは1598年(慶長3年・豊臣秀吉死去の年)の初演です。楽譜が残っている最初期のオペラの傑作としてはその9年後・1607年(慶長12年)マントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディの「オルフェオ」が挙げられます。いずれにせよ初期のオペラはその成立の経緯からしてもギリシア悲劇の色合いが強いもので、題材はギリシア・ローマ神話あるいは聖書から採ったものが多かったようです。

*モンテヴェルディの歌劇「オルフェオ」については、当時の舞台再現と言うわけではないですが・ポネル演出・アーノンクール指揮チューリッヒ歌劇場の練り上げられた舞台映像(DVD)がとても参考になります。

以上のことから分かる通り、歌舞伎とオペラという・まったく無関係のはずのふたつの芸術は不思議なことに場所を隔てて・ほぼ同じ時期の西暦1600年前後に誕生したとされており、共に400年を越える歴史を持 っていることになります。ただし「1600年前後」が歌舞伎とオペラの成立年代であるということは教科書的に言われていることで・それはもちろん大事なことですが、実はそれは吉之助が「歌舞伎とオペラが似ている」ということの根拠ではありません。その理由は吉之助が持っている歌舞伎とオペラという芸術のそれぞれのイメージに拠ります。吉之助は歌舞伎とオペラをもっと限定的なイメージで考えているからです。つまりそれは「歌舞伎はどういう演劇か」・「オペラはどういう音楽芸術か」という問題に深く係わるものです。(この稿つづく)

(H21・8・20)


2)レパートリー

歌舞伎という芸能は1600年前後に誕生し・400年の歴史を持つということですが、ここで現代の我々にとっての歌舞伎のイメージはどんなものかを考えてみたいと思います。それはもちろん歌舞伎座など現代の劇場で興行されて・目にすることのできる通常演目(レパートリー)から形成されます。

現代の我々が生(なま)の舞台で目にすることができる最も古い歌舞伎の雰囲気を垣間見させてくれる演目は「対面」・「暫」という・ごく限られた元禄歌舞伎です。これに二代目団十郎が初演した「助六」と、二代目左団次が復活した「鳴神」や「毛抜」などを加えた歌舞伎十八番(江戸荒事)が我々がどうやら知っている歌舞伎の一番古い年代ということになります。対する初代藤十郎の上方和事はほぼ廃絶して、「廓文章」や「河庄」などの和事の演技にその痕跡を見せるに過ぎません。義太夫狂言については人形浄瑠璃から歌舞伎への移行の経緯・演出の変遷を検討せねば正確な議論は出来ないにしても、大まかに言えばまあまあ残っていると言えます。近松門左衛門は江戸期には改作物で上演されることが多く、現代で人気の「曽根崎心中」や「女殺油地獄」などは大正・昭和になってからのものなので条件付きにはなりますが、近松以後の義太夫狂言は歌舞伎の通常演目の核になっていると言えます。一方、歌舞伎オリジナルの分野を見ると四世鶴屋南北(その中心となるのは文化文政期:1804年〜1830年)以前は通常演目に入ってきません。並木正三・並木五瓶・桜田治助(それぞれ初代)など歌舞伎史で特筆すべき狂言作者の作品群は稀に復活上演されることはあっても・通常演目に入って来ないのです。南北についても江戸期から継続して上演されてきたのは「東海道四谷怪談」や「馬盥の光秀」くらいのものですが、まあ南北以後の歌舞伎オリジナルは通常演目の視野に入ると言えます。幕末期の黙阿弥や如皐については言うまでもなくこの範疇に入ります。舞踊の分野でもほぼ同様なことが言えます。初代富十郎の「娘道成寺」(現行の舞台は富十郎そのままではありません)をちょっと例外に置くとして、初代仲蔵の「積恋雪関扉」は天明歌舞伎の雰囲気を感じさせ・これが我々が普段の劇場で目にする最も古い舞踊形態ということになります。ほとんどの舞踊演目は文化文政以降幕末期のものです。

以上を整理すると次のようなことが言えます。現代の我々の「古典歌舞伎」のイメージは、義太夫狂言が骨格としてあり・その先端に江戸荒事の元禄歌舞伎がほんの少し残っているだけで、残りは文化文政以後・1800年代の演目でほとんど成り立っているということです。逆に言えばそれ以外の歌舞伎のジャンルは「ない」のと同然。「歌舞伎400年」と言うけれど、我々はこの限定されたレパートリーから歌舞伎という芸能をイメージし、それで歌舞伎400年全体を推し量っているということです。これは方法論としてちょっと無理があると思いませんか。歌舞伎400年を通じて変らなかったものも確かにあります。だから我々はこの演劇を「かぶき」という名で括っているのでしょう。しかし、現代の限定された「古典歌舞伎」のイメージからすれば、むしろ吉之助は「変質した・変質させられた・変質せざるを得なかった」歌舞伎のそのような歪んだ要素の方に深い関心が行くわけです。

それではオペラの方に目を転じてみると、オペラ400年の歴史のなかで・現行のオペラ・ハウスの通常演目の核となり・我々のオペラのイメージを形成しているものはどういう作品群かというと、それはモーツアルト(1756年〜1791年)以後の作品ということになります。モーツアルトは短い生涯で21曲のオペラを書きましたが、ここで挙げるべきは世に5大オペラと呼ばれているもの・すなわち「後宮からの逃走」・「フィガロの結婚」・「ドン・ジョヴァン二」・「コシ・ファン・トゥッテ」・「魔笛」です。もちろんモーツアルト以前にも優れたオペラ作曲家はたくさんいました。特筆すべき作曲家を挙げればモンテヴェルディ・リュリ・グルックそしてヘンデルなどです。むしろオペラ上演はモーツアルト以前の時代の方が盛んなくらいでして、新作上演も頻繁でした。それがモーツアルト以後・19世紀になると新作上演の頻度はぐっと少なくなり・評判を取った旧作品の上演の方が多くなります。何がこういう状況を生んだかについては後ほど触れますが、とりあえずその変化には産業革命とフランス革命が大きく影響していたということを記して置きます。

現在の我々はモーツアルトより以前のオペラを大まかに「バロック・オペラ」と呼んでいます。バロック・オペラにはもちろん優れた作品が多くあり・それらは復活上演として舞台に上がることもありますが、現代のオペラ・ハウスのレパートリーの中核ではないのです。オペラの中核を成すのはモーツアルトの5大オペラ以降、19世紀のワーグナー・ヴェルディから20世紀初頭のプッチーニとR・シュトラウスまでの作品群になります。これらを我々は大まかに「グランド・オペラ」と呼んでいます。もちろんそれ以後もオペラは生まれています。重要なのはベルク・ストラヴィンスキー・ショスタコービッチ・ブリテンといった作曲家の作品ですが、これらを我々はグランド・オペラの範疇には入れません。したがって、現代の我々がオペラという時にイメージするオペラとはオペラ400年全体を包括したものではなくて、それは明確にグランド・オペラのみを指すのです。

そろそろ本稿「歌舞伎とオペラ」での歌舞伎とオペラのそれぞれの定義を明確にせねばなりません。吉之助が「歌舞伎とオペラは似ている」と言う時の歌舞伎とは、義太夫狂言を骨格として・江戸荒事を先端に置き・文化文政以後の要素を取り込んだところの幕末期の江戸歌舞伎群なのです。これが現在の我々がイメージする・普段の歌舞伎座で見られるところの歌舞伎だからです。つまりほぼ野郎歌舞伎を指すとしてよろしいでしょう。一方、吉之助が言うところのオペラとは、モーツアルトの5大オペラから・ワーグナー・ヴェルディを経て・プッチーニの「トゥーランドット」またはR・シュトラウスの「薔薇の騎士」辺りまでのグランド・オペラ群です。これが現代の我々が普段のヨーロッパのオペラ・ハウスで見る(聴く)ところのオペラの中核レパートリーだからです。ですから歌舞伎とオペラは共に1600年前後に誕生し・400年の歴史を持つという学術的なことは別にして、その限定されたイメージにおいて歌舞伎とオペラは「似ている」と吉之助は言っているのです。さらにその詳細を検討していきたいと思います。(この稿つづく)

(H21・8・23)


3)祝祭空間

音楽評論家・岡田暁生氏はその著著「オペラの運命」において・自分にとっての「狭義の意味でのオペラ」とは19世紀のグランド・オペラを指すとしています。自分にとってのバロック・オペラは「本来のオペラ」へのプロローグであり、20世紀・第1次大戦以降のオペラはもはやオペラでなくなったオペラであって・やはり本来のオペラとは言えない。グランド・オペラこそが本来的な意味でのオペラであるというのです。

『私にとってのオペラとは、個々の具体的な作品と言うよりも・むしろある特定の「場」、つまり19世紀のパリやミラノやミュンヘン・ウィーンのオペラの劇場に象徴されるような世界である。この芸術は特定の時代・地域・社会階層、そして何よりも特定の雰囲気と極めて密接に結びついている。真紅の絨毯・シャンデリアの輝き、シャンパン・グラスの触れ合う音、馬車で劇場に乗り付ける燕尾服やロング・ドレスの紳士淑女、香水とアクセサリー、客を迎える案内係、舞台に投げ入れられる花束、天井桟敷の観客の掛け声、これらが渾然一体となって醸しだす雰囲気こそ、私にとっての「オペラ的なもの」の原型(プロトタイプ)なのである。』(岡田暁生:「オペラの運命」・なお引用文章は多少字句をアレンジしました。)

岡田暁生:オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

服部幸雄先生の「大いなる小屋」あるいは「絵本・夢の江戸歌舞伎」をお読みになったことのある方ならば、この岡田氏の文章が歌舞伎についての文章としてそっくりそのまま読み替えられるということを認めると思います。後には周辺地域さらに農村へも波及して行きますが、初期においては歌舞伎は江戸や大坂・京都という特定の都市に強く結びついた芸能でした。消費的な性格を持つ大都市の祝祭空間としての劇場と・そこで一時の夢を目一杯楽しもうという観客たち。芝居小屋では観客はかしこまって芝居だけを鑑賞したのではなく、茶屋から料理が運び込まれて・観客は料理と酒を楽しみながら芝居を見たものでした。飲んで騒ぎながら芝居を見たのです。大店の旦那は芸者衆を引き連れて、ご婦人方はせっせと着飾って観劇したものでした。そこでの主役はもちろん町人たちでしたが、観客に身分の区別はなく・実際そこはあらゆる階層が混じりあう場所でした。芝居小屋は社交の場でもありました。贔屓の役者にはおひねりが投げ込まれ、大向うからは盛んに掛け声や野次が飛んだものでした。そのため芝居は贅を凝らしてさまざまな趣向が行なわれ、役者は衣装を自前で派手に豪華にこしらえたものです。その芝居は町人を主人公にした演目(世話物)もありましたが、主たる演目は時代物であり・それは武士を主人公として忠義や身替わりなど封建主義の倫理を主題にしていました。そのような歌舞伎を資金的に支えたのは金主と言われた商人たち・つまりブルジョワジーでした。それはまったくグランド・オペラの光景なのです。

服部幸雄:大いなる小屋―近世都市の祝祭空間 (叢書 演劇と見世物の文化史)
服部幸雄/一ノ関圭:絵本 夢の江戸歌舞伎

オペラにおいて・同じような現象が起きたのは、フランス革命以後のことでした。それまでのバロック・オペラの時代には、オペラは宮廷あるいは貴族の館のなかで・いわば私的に内輪な催しとして行なわれたものであって、切符を売って不特定多数の観客を相手にした上演はベネチアやハンブルクなど一部の劇場を除いて・ほとんどなかったことでした。貴族のものであったオペラという芸能のなかに・フランス革命を境にして・市民階級の息吹が流れ込んできて、市民が続々と劇場にオペラを見に来るようになりました。オペラを支えた階層にはこれまで通り王侯貴族もいましたが、新しい時代には資本家層・ブルジョワジーがより大きな力を持って登場しました。バロックの宮廷文化の夕映えと・フランス革命後の市民文化の熱気が混じり合い、貴族とブルジョアと庶民が渾然一体となった「夢の空間」・それがグランド・オペラなのです。このことからグランド・オペラは次のように規定できると思います。グランド・オペラとは、貴族の時代に生まれたバロック・オペラの骨格のなかに市民階層の感性を持ちこんだ混合形態の・極めて19世紀的な性格を持つ特異な芸能なのです。(この稿つづく)

(H21・8・29)


4)モーツアルトという時代・1

オペラの歴史は大まかにバロック・オペラとグランド・オペラというふたつの時代に分かれ、その狭間にモーツアルトが立つということは先に述べた通りです。この時代に西欧の民衆の生活に物質的にも精神的にも大きな影響を与えた社会現象は、もちろん産業革命とフランス革命でした。ちなみにモーツアルトは1756年ザルツブルク生まれで・1791年にウィーンで死すわけで、まさにこの時期がモーツアルトの生きた時代に当たります。そこで西欧の大転換期としての・18世紀末という時代を考えてみます。別稿「19世紀西欧芸術と江戸芸術」でも触れましたが、フランスの中世史家ジャック・ル・ゴフは、その著書「中世とは何か」において・ ヨーロッパの中世は産業革命とフランス革命により19世紀初めに終わると言う「長い中世」という概念を提起しました。西欧史においては、諸説はありますが・1492年前後を中世の終焉と見るのが一般的な考え方です。1492年とはコロンブスのアメリカ大陸発見の年ですが、西欧史でより重要な認識はスペインのキリスト教勢力がイスラムからグラナダを奪い返した・いわゆるレコンキスタの完成の年ということです。これに対してル・ゴフは中世は産業革命とフランス革命の後に・19世紀初め頃に終わるというのです。ですから通説からみれば約300年も時代が後ろにずれるわけです。ル・ゴフが挙げる理由はとても簡単、「その頃まで人々の生活リズムはほとんど変わっていなかったのだから」と言うのです。オペラの歴史をモーツアルトでふたつに分ける時に、このル・ゴフの時代認識はとても役に立ちます。

ジャック・ル・ゴフ:中世とは何か

世界史のおさらいになりますが、イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って進行したとされ、遅れて産業革命は大陸に波及し・民衆の意識と生活のリズムを根本から変えました。象徴的な技術革新として1785年のジェームス・ワットが蒸気機関のピストン運動を円運動に変換することに成功したことが挙げられます。一方、フランス革命はいちおう1789年7月14日のバスティーユ襲撃から1799年・ブリュメールの18日のクーデターまでを区切りとします。もちろん革命という噴火が起きるまでには長い地殻変動と微振動の前兆があり、また噴火の起きた後も余震やら気候変動などを伴なうものですから、その前後の時代も含めて時代の流れを大まかに捉える必要があるわけです。

ですから産業革命とフランス革命をきっかけにして西欧の社会経済・民衆の意識と生活は18世紀後半から19世紀初めにかけて実に大きな質的変化を遂げたのです。もちろんその変化は国によって濃淡があって・事情は一様ではありませんが、大まかに封建社会から市民社会への転換・資本主義の発展という方向性をイメージすれば良いと思います。ただし、西欧においては国にもよりますが・王侯貴族はなくなったわけではなく、台頭してきた資本家・企業家(ブルジョワジー)と共存する形で上流社会・社交界を作り上げました。この状態は現代でも続いています。一方、フランス革命による人権・自由思想は民衆のなかに浸透し、文化・芸術に大きな影響を与えました。産業革命により経済は飛躍的に伸びましたが、労働者の使い捨ては目に余るものがありました。また19世紀には西欧各国の経済的な歪みが原因で国家間の紛争が絶えませんでした。このようななかで国家の要請によって社会構造の枠組みは急速に強化され、個人は社会の一員としての役割を強制されていくことになります。このような社会的・経済的な歪みが世界レベルで一気に噴出したのが20世紀のロシア革命とふたつの世界大戦であったことは言うまでもありませんが、同様な状況は現代においてもより複合的な形で続いています。

大事なことは、このような急速な社会経済の変化が民衆の意識のなかに浸透していく民主人権思想・自由思想と裏腹な現象として起きたということです。本来ならば 産業革命後は経済の発展により人々は豊かになって・フランス革命後は身分社会ではなくなって民衆はもっと自由で安定して愉しい生活ができていたはずでした。この目標に向かって革命は進んだはずでした。ところが終わってみれば現実はまったく逆になっていて、個人は国家への献身・忠誠を強く求められ・個人は社会のパーツに過ぎなくなり、気分は次第に窮屈になっていきます。ですから「こんなはずではなかった・この時代は自分が理想としていた時代とは違う」という感覚こそが近代という時代の大事な点で、これが19世紀のロマン主義芸術と深く係わるものです。

このような時代に入るまさに直前のところを生きたのがモーツアルトでした。ということは「民衆が変革の先の未来に理想を夢見ることができた時期」ということにもなります。フランス革命勃発直前のアンシャン・レジーム(旧時代)期、ル・ゴフの言うところの「長い中世」の終わりの時期です。この頃の音楽家というのは王侯貴族の庇護を受けて、面白くなくても・彼らがお好みの音楽を書いていれば・まあ一応の生活は出来たのです。ところがモーツアルトは自分の書きたい音楽を書こうとしたために王侯貴族に気に入られなくて就職が出来ず、結局モーツアルトは貧乏のなかで35歳で死んだのでした。しかし、モーツアルトはその身を以ってその後の芸術家の新しい在り方を提示したのです。(この稿つづく)

(H21・9・5)


5)モーツアルトという時代・2

誤解ないように申し上げますと、吉之助にとって歌舞伎とオペラを相似的な芸術形態であることを考えるのが目的ではなく、古今東西を問わず似たような精神状況ならば一定の回路を辿って結果として似たような表現に至るということを考察するのが吉之助の目的なのです。西欧ロマン派の時代・すなわち19世紀の民衆の精神状況は次のように考察できます。民衆は産業革命を通じて利便性に満ちた明るい未来を、フランス革命を通じて自由と権利が保証された正しい社会を夢見ました。それは18世紀後半のアンシャンレジーム期においては「今は我慢の時だが・この苦難の時期を過ぎれば明るく正しい未来は必ずやって来る」という希望として意識されていました。モーツアルトはちょうどこの時期を生きたわけです。ところが産業革命とフランス革命の激動がある程度落ち着いて周囲を見回してみると、何だか状況が期待していたのと大分違うことに人々は気が付くのです。産業革命後は世の中は便利になって楽に暮らせると思っていたのに、機械的にこき使われるだけで・社会は以前よりセカセカして慌しくなったようである。みんなが豊かになるはずが、以前より貧富の差が大きくなったような気がする。フランス革命後は民衆の権利が保証されてやりたいことが自由にできると思っていたのに、社会の締め付けは一層強くなって・相次ぐ戦争に向けて人々は国家への奉仕を強制されるばかりである。「こんなはずではなかった」というのが19世紀の民衆の気分なのです。

このような民衆の空虚感は芸術運動に過去への回帰現象を引き起こしました。典型的なものはグリム兄弟やペローらによる中世民話(童話集)・あるいはブルレンターノらによる中世民謡「少年の魔法の角笛」の採集運動です。(この民謡集については後にマーラーにより作曲がされました。これがマーラー初期の重要なモチーフとなったことはご存知の通り。)つまり我々の故郷はもっともっと遠い昔にあって・ここにはないということです。もうひとつは死や破滅・廃墟のイメージが作品のテーマとしてしばしば登場することです。実はそれは自己破壊願望というのとはちょっと性質が違うものです。ピリピリと張り詰めた神経が・もうちょっとで切れそうな、我慢に我慢をしているものが・もう少しで爆発してしまいそうな予感を孕みつつ必死で狂気に耐えているという緊張を秘めたものです。(別稿「廃墟への思い」をご参照ください。)19世紀芸術のなかでベネチアがとても大きな役割を果たすのも、ベネチアとは成長をやめて結晶化してしまった街・永遠と死が隣り合わせにある街だからです。ベネチアに魅せられた芸術家は、ワーグナー、プルースト、トーマス・マンなど挙げれば数知れません。(別稿「ベネチア〜人工的な自然」をご参照ください。)以上の考察を以って・別稿「生き過ぎたりや」をお読みいただければ、19世紀西欧の精神状況は、江戸初期のかぶき者の「生き過ぎたりや」の心情に質的にとても近いものであることが分かるはずです。

「いきすぎたりや廿三、八まんひけはとるまい」(「豊国大明神臨時祭図屏風」)
「廿五迄いき過ぎたりや、一兵衛」(「当代記」)

江戸時代になって戦国の世が去り・実力があればのし上がって天下人にもなれる可能性がまったくなくなり、身分は固定され・新しい社会秩序が急速に出来上がっていきました。世の中は実力の時代から「法と秩序の時代」に急転換していきます。時代に乗り遅れた若者たちの絶望と自嘲の台詞が「いき過ぎたりや」なのです。「この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもう少し早く生まれるべきだった・この時代は俺の時代ではない」という思いが江戸初期の若者の思いなのです。この心情がその後に歌舞伎という芸能が展開していくための大きな原動力となりました。「歌舞伎素人講釈」ではこれをかぶき的心情と呼んでいることはご承知の通りです。つまり江戸の状況は19世紀西欧を先取りしたということです。(この稿つづく)

(H21・9・14)


6)モーツアルトという時代・3

「モーツアルトという時代」というタイトルなのに・モーツアルト以後の19世紀の考察が続いていますが、モーツアルトの生きた時代がどういう未来を夢見て・その夢はどうなったかということを踏まえ、バロック・オペラとグランド・オペラというふたつの時代の狭間に立つモーツアルトの意味を考えようとしているのです。19世紀のロマン主義は「あらかじめ失われてしまったものを見出そうとするもの」で、その視線は過去に向いていました。一方、革命前夜のモーツアルトの時代は視線が未来に向いており、その先に何かしら明るいものを見ていました。モーツアルトの時代にはそういう希望がまだあったのです。

モーツアルト自身に明確な革命思想があったとは思いませんが、モーツアルトはアンシャンレジームの時代の空気を吸っており・芸術家の本能で来るべき世界の気分を感じ取って、それを無邪気と言いたいほど嬉々として音楽のなかに投入していきました。例えば「後宮からの逃走」(1782年ウィーン初演)の内容は単純な喜劇ですが、オスミンの誘惑に対してブロンデがこう言うのです。

『女の子は贈り物じゃないんだよ。私はイギリスの女で、自由の身に生まれついたのよ。それでも私を従わせようとでもいうの!』

当時はまだ革命前でしたから、こうした台詞にご婦人方は笑い転げたかも知れませんが・殿方は顔をしかめたに違いありません。 こういう不謹慎さが封建階級から疎まれて、才能がありながらモーツアルトは良い就職先に恵まれず・貧乏生活を余儀なくされて短い生涯を終えることになるわけです。「フィガロの結婚」(1786年ウィーン初演、脚本はロレンツォ・ダ・ポンテによる)ではラジカル性がさらに顕著です。アルマヴィーヴァ伯爵は使用人フィガロの婚約者スザンナに目をつけており、当時既に形骸化していた封建領主の特権である初夜権なるものを持ち出し・スザンナをものにしようとしています。最終幕では伯爵夫人が一計を案じ・スザンナと衣装を取り替えて、夜の庭で伯爵を待ちます。するとこれをスザンナと思い込んだ伯爵が愛の言葉で口説きに掛かります。一方、フィガロは伯爵夫人の衣装を着たスザンナといちゃついています。これを見て伯爵は「不貞だ、許さん」と怒ります。周囲の者が「お許しください」と言っても伯爵は許しません。伯爵は「駄目だ」と叫びます。しかし、これはすべて伯爵夫人が仕掛けたものでした。自分の間違いを悟った伯爵は夫人の前に膝まづいて許しを乞います。「伯爵夫人よ、どうか許しておくれ」 夫人は「私は貴方より素直です。はいと申しましょう。」 周囲の者たちは事が収まったことに安心して「ああ、これでみんな満足するだろう」と歌います。

バロック・オペラの題材にギリシア神話や聖書から採ったものがとても多いことは先に触れました。バロック・オペラの特徴は「許しの構図」です。封建君主が最も好むのは「他者」が慈悲を以って許しを与えて・全員の感謝の合唱で終わるという図式でした。それが愛を持ち・寛大さを持つという支配者のイメージと重なるからです。ご注意いただきたいですが、それは支配者の立場から見て好ましいものなのであって、ここでは慈悲を示すという行為は支配者の権利として保留されているのです。つまり許す・許さないというのは支配者が判断することですから、ドラマの大枠となる世界観は支配者が保持するのです。バロック・オペラというのは、そうした封建君主の治める世界を賛美するものとしてあったのです。したがってバロック・オペラの音楽はとても美しいのですが・その旋律は完結した形式に則ったもので静的であり、ドラマとしてはパターン化されたものが多いようです。ところが「フィガロの結婚」では「許しの構図」に逆転の発想を加えています。それは封建領主たる伯爵が夫人に膝まづいて許しを乞い・夫人がこれを許すという図式です。最後は全員の喜びの合唱で締められ・伯爵が賛美される形になってはいますが、逆転の許しの後では必然的にその意味は変らざるを得ないのです。(別稿「古典性とバロック性」を参照ください。)他愛のないラヴ・コメディのような体裁を取りながら、モーツアルトとダ・ポンテのやることは実にラジカルです。ところでダ・ポンテは次のような物凄いことを言っています。

『今の時代に在って言ってはならないことは、歌えば良い。』

つまりバロック・オペラのお決まりであった「許しの構図」を表面上は守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み・完結した形式を内側から崩していくというオペラの革命を行なったのが、モーツアルトとダ・ポンテのコンビなのです。ふたりの提携作品はさらに「ドン・ジョヴァン二」(1787年)・「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年)と続きます。これら3作品(いわゆるダ・ポンテ・オペラ3部作と呼ばれるもの)こそ・その後のグランド・オペラを切り開くきっかけとなったものです。(「ドン・ジョヴァン二」については別稿「軽やかな伊右衛門」を参照ください。)誤解ないように付け加えますと、モーツアルトとダ・ポンテは彼らのオペラのなかで封建批判を展開したわけではなく、庶民がその思いを心置きなく発露できて・伸び伸びと自由に生きられる状況を望んだまでのことです。しかし、旧体制の側から見ればそれは間違いなく不埒な考えであったことでしょう。

ところで吉之助はオペラの歴史の上に無理やり歌舞伎を乗せる意図など毛頭ありませんが、ダ・ポンテの「今の時代に在って言ってはならないことは、歌えば良い」という言葉はとても示唆的であると思います。歌舞伎(あるいは人形浄瑠璃)は江戸幕府によって同時代の出来事を題材にして芝居をすることを禁じられ、最初は仕方ないので・過去の出来事だけを取り上げて芝居をしていました。しかし、いつしか同時代の民衆の感情を過去の出来事のなかに託して熱くドラマを語るようになっていきます。表面は封建倫理・忠義を纏ったお芝居が実は庶民の生々しい人間的感情を同時代的に表現するドラマとなったのです。バロック・オペラからグランド・オペラへの扉をこじ開けたモーツアルトとダ・ポンテのコンビのように、江戸演劇において同じような決定的な役割を演じたコンビがありました。それはもちろん近松門左衛門と竹本義太夫のことです。「出世景清」(貞享2年・1685・竹本座初演)はそれ以前のものを古浄瑠璃・これ以後を新浄瑠璃と分ける決定的な作品となりました。このことは後ほど改めて触れますが、ちょっと頭の片隅に残しておいてください。(この稿つづく)

(H21・9・14)


7)モーツアルトという時代・4

モーツアルトとダ・ポンテのコンビはバロック・オペラのお決まりである許しの構図・封建社会(絶対主義)の世界観を表面上守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み、その完結した世界・形式観を内側から崩して行くというオペラの革命を行なったのです。これがその後の19世紀のグランド・オペラの方法論となっていきます。その後のグランド・オペラの題材も王侯貴族が支配する封建社会を舞台としたドラマであり続けました。庶民を主人公とし・庶民の生活を 描いたドラマは後にヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)が登場するまで出てきません。マスカー二の「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)が登場するまで・オペラの題材は依然として絶対主義を引きずったものでした。ムラデン・ドラーは「グランド・オペラは、形式は封建制、中身はブルジョワという矛盾を持ったものとして生まれたものであるが、オペラはその矛盾した本質を顕にするためにフランス革命まで約200年間の時間(バロック・オペラの時期)が必要であった」として、バロック・オペラとグランド・オペラの境界上にモーツアルトを置くのです。ドラーは次のように書いています。

『なぜオペラへの愛のためになのか。ざっくばらんに言おう。オペラはそのはじまりからしてすでに死んでいたからだ。音楽芸術の死児であったからである。(中略)オペラは時代と合致したためしなどない。オペラはそもそも始めから時代遅れのものとして、音楽に内在するある種の危機を遡及的に解決するものとして、不純な芸術として捉えられているのだ。ヘーゲル流に言えば、オペラとはその概念において時代遅れなのである。だとすれば、どうしてオペラを愛さずにいられようか。』(ムラデン・ドラー:「オペラへの愛のために」〜「オペラは二度死ぬ」に所収)

ジェジェク/ドラー共著:オペラは二度死ぬ(青土社)

「形式は封建制・中身はブルジョワ」ということはグランド・オペラの本質を示すだけではなく、実は19世紀西欧社会の本質と密接につながっています。(西欧社会には現代においても日本で想像できないほど身分社会の感覚が強く残っています。)19世紀西欧社会とは台頭する市民階級(ブルジョワ)と貴族階級の混合社会です。豪華な装飾とまばゆいシャンデリア、宝飾と豪華な衣装を身にまとったご婦人方、タキシード姿の紳士たち。貴族と市民(ブルジョワ階層)が交錯する19世紀社交界の縮図を当時のオペラ劇場の桟敷席に見ることが出来ます。グランド・オペラとはそのような社会を象徴する芸術なのです。例えばプルーストの「失われた時を求めて・ゲルマントの方」に主人公がゲルマント公爵夫人のサロンやオペラ座の桟敷席に足しげく通う姿が出てきます。それはちょっと後の1880年代の頃のことで・そこに19世紀西欧社会の夕映えが詳細に描写されています。

プルースト:失われた時を求めて〈4 第3篇〉ゲルマントのほう 1

ところで、グランド・オペラと歌舞伎は同じであるということを検証するために日本史での江戸時代の位置付けも問わなければなりません。一般に日本史における江戸時代の位置付けは、鎌倉・室町と続いた武家政治の最終 段階とされています。言いかえれば封建社会の成熟期・完成期ということです。これが吉之助の世代が学校で教わった江戸時代の位置付けでした。しかし、ここ30年くらいは江戸時代は明治という近代を準備したという見方が提出されています。江戸時代をプレ近代・あるいは明確に近代 であると位置付けるのです。どちらの見方もその切り口には一理あるわけですが、江戸時代は枠組みとして封建論理で構築された社会(その意味で前時代を引きずっている)なのですが・当時に貨幣経済が進み商人階級(つまりブルジョワ階層)が台頭し突き上げる形で社会が次第に捻じれていくわけで、そこに近代資本主義への流れがはっきりと見えているのです。ですから江戸時代は19世紀西欧社会と同じような武家階層と町人階層の矛盾した要素を孕む混合社会であると見ることができます。そのような社会から生まれた芸能として歌舞伎あるいは人形浄瑠璃を見直したいと思うのです。

そう考えればドラーが指摘するところの「形式は封建制・中身はブルジョワ」というグランド・オペラの命題が歌舞伎(吉之助が言うところの歌舞伎は野郎歌舞伎です)にそのまま当てはまることは明らかなのです。歌舞伎は封建論理(忠義や身替わり・仇討ち)などをその筋に置いてはいます。しかし、そのドラマが表出ところは実は個人の心情(これを吉之助はかぶき的心情と呼んでいます)であり、その矛盾が封建社会の世界観・形式観を内側から突き崩しているのです。これが歌舞伎あるいは人形浄瑠璃の方法論なのです。前章で触れた通り、江戸演劇にそのような方法論を与える決定的な役割を演じたのが近松門左衛門と竹本義太夫です。(この稿つづく)

(H21・9・27)


8)近松という時代・1

「出世景清」は貞享2年(1685)竹本座での初演。近松門左衛門・33歳の時の作品です。「出世景清」は「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされ、本作を境としてそれ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するほどの画期的作品です。当流とは今風・つまり現在に生きる人間の感情を生々しく描くことを言います。しかし、「出世景清」は当世風俗が折り込まれているとか・曲節が面白いとかの表面的な理由で「当流浄瑠璃」と呼ばれたわけではありません。主人公が運命に人形の如く操られるように動くのではなく、自らの意志で悩み苦しみ・行動し・そして滅びる主体的なドラマを近松は「出世景清」で描こうとしたのです。

「出世景清」については別稿「その心情の強さ」において触れました。古浄瑠璃では阿古屋は「阿古王(あこおう)」の名で登場しますが、子までなした景清を密訴して利欲に走った悪女です。阿古王の行為に怒った景清が二人の子供を殺します。そのドラマは至って単純・と言って悪ければストレートと言い直しますが、怒りに任せて我が子を殺す景清に葛藤がいまひとつと思えます。それは行動を裏打ちする感情が単純だからです。古浄瑠璃「景清」ではこの場面をこう描写します。

『弟の弥若が、この由を見るよりも、あら恐しの父ごぜや、我をば許させ、給へとて、母が所へ逃げけるを、後れの髪をむんずと取り何と申すぞ弥若よ、殺す父な恨みそ、殺す父は殺さいで、助くる母が殺すぞや、同じくは兄弟共に、閻魔の庁にて父を待てというままに、心元を、一と刀、あつとばかりを最後にて、兄弟の若共を、三刀に、害しつつ刀をかしこへがらりと捨て・・』 (古浄瑠璃・「景清」)

「出世景清」では子供を殺す役が景清ではなく・阿古屋に入れ替わります。近松の描く阿古屋はプライドが高く嫉妬心が強い性格で、嫉妬に悩んだあげくに景清を密訴します。阿古屋は景清が牢に入ったと聞くや、子ども2人を連れて牢屋を訪ね許しを乞います。しかし、どれほど謝っても景清の怒りはとけず、とうとう阿古屋は景清の面前で子ども2人を殺害し自分も自害し果てます。その場面を近松はこう描きます。

『弥若驚き声を立て、いやいや我は母様の子ではなし、父上助け給へやと、牢の格子へ顔を差し入れ逃げ歩く、エエ卑怯なりと引き寄すればわっと言うて手を合わせ、許してたべ、明日からは大人しう月代も剃り申さん、灸をもすえませう、ても邪見の母様や、助けてたべ父上様と息をはかりに泣きわめく、おお道理よさりながら、殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ、あれ見よ兄も大人しう死したれば、おことや母も死なでは父への言ひ訳なし、いとしい者よよう聞けと、勧め給へば聞き入れて・・・』 (「出世景清」)

古浄瑠璃の「殺す父は殺さいで助くる母が殺すぞ」という詞章が「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」に替わっていますが、これは父と母が入れ替わった趣向ということではないのです。阿古屋が密訴するについても・その裏に生々しい嫉妬と葛藤があることは事実ですが、これだけでは単純で・まだ「当流」の衝撃があるとは言えません。驚くのは景清に対して阿古屋が「あなたをこんなに愛している私」を強烈に主張することです。「だから密訴した私をあなたは許すべきなのよ・もともとあなたが悪いんだからこんなことになったのよ」と阿古屋は言うのです。阿古屋は密訴したことを悔いてはおらず、自らの行為の正しさを証明する更なる行為として我が子を殺すのです。阿古屋が自害するのも・罪を悔い死ぬ破目に追い込まれるのではなく、阿古屋は自ら選んで主体的に破滅するのです。阿古屋には何ら悔いるところがありません。これはかぶき的心情のドラマなのです。このように複雑な心情を生々しく描いたドラマは近松以前にあり得ませんでした。これが「当流ドラマ」ということの意味です。

もうひとつ付け加えれば、モーツアルトとダ・ポンテのコンビがバロック・オペラのお決まりであった許しの構図を表面上守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み、その完結した世界観を内側から崩すというオペラの革命を行なった如く、近松は古浄瑠璃の世界の枠組みを借り・その悲劇も父と母が入れ替わっただけの趣向に表面上は見せていますが、実は近松はその裏で驚くべき大胆なドラマを展開しているのです。このことを浄瑠璃の革命と言わずして何と言うべきでしょうか。当時の人々はそのことをちゃんと分かっていました。だから「出世景清」を以って「新(当流)浄瑠璃の始まり」とし・それ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するのです。モーツアルト以前をバロック・オペラと呼び、それ以後をグランド・オペラと呼ぶのと・これはまったく同じことなのです。(この稿つづく)

(H21・10・10)


9)近松という時代・2

「出世景清」が何故「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされるのかをさらに考えます。景清は「平家物語」の人物ですからもちろん歴史上の人物です。しかし、「出世景清」の阿古屋の悲劇は江戸の民衆の心情に裏打ちされた生々しいかぶき的心情のドラマです。阿古屋が自らのアイデンティティーを強く主張する心情はそのまま江戸の民衆に我が心情としてビンビン突き刺さります。つまり江戸の民衆の心情が過去に託されて描かれているということです。前項「モーツアルトという時代」でロレンツォ・ダ・ポンテが「今の時代に在って言ってはならないことは歌えば良い」と言ったことを思い出してください。これを近松の立場に置き換えるならば次のように言い替えることができます。

『今の時代に在って表現してはならない心情は過去の出来事に託せば良い』

江戸時代においては同時代の出来事を芝居にしてはならないという厳しい制約がありました。ですから例えば元禄赤穂事件・いわゆる「忠臣蔵」も江戸時代ではなく・南北朝時代の架空の出来事としてドラマ化されています。このような「世界」の設定は幕府の追及を逃れるため・お上の言うことは曲げられないから「これは架空の出来事で〜す」と言い訳するためだけの作劇上の方便であったのか。巷間の江戸演劇史を読めばまあそんな風に理解されても仕方がありません。しかし、吉之助は「世界」の設定という手法に同時代の芝居を書きたくても書けなかった戯作者たちの強い憤(いきどお)りを感じずにはいられません。「何とかしてあいつらの裏をかいて同時代の芝居を書いてやる」ということです。この強い憤りこそ戯作者たちが次々と趣向を生み出すことの原動力になったものです。

例えば近松よりずっと後の作品である「義経千本桜」(延享4年・1747・竹本座初演)の「鮓屋」を考えます。この場の主人公はもちろんいがみの権太ですが、時代物である「千本桜」の構造からすれば主役は義経であることは明らかで・権太は脇役に過ぎません。「鮓屋」には義経は登場しませんが、その場を支配するのは義経と・義経が背負うところの無常観です。権太は家族と自らの命を犠牲に捧げることで「許され」ます。この許しの構図は為政者のお好みに沿った古典的な構図です。しかし、同時に権太一家の悲劇は「然り・・しかし、これで良いのか」という厳しい問いを観客に突きつけます。為政者の犠牲になる名もない庶民の悲劇などという表面的なことを言っているのではありません。これはもっと根源的な「人間は何のために生まれ・何のために死ぬのか」という 熱い心情から発する問いです。大時代の「平家物語」の世界構図のなかに権太という市井のならず者がしゃしゃり込む理由がそこにあります。「平家物語」の骨格を借りていながら描いているのは同時代の心情です。骨格は過去・血肉は同時代。時代浄瑠璃というものはそのような矛盾した構造を持ちます。これが「今の時代に在って表現してはならない心情は過去の出来事に託せば良い」という方法論なのです。近松の「出世景清」はこの方法論を確立した先駆的作品であり、近松の方法論がその後の浄瑠璃の時代物の土台となったわけです。

当時の劇作家にとっての本領は時代物で・時代物で声名をとってこそ劇作家でした。近松は現代ではもっぱら世話物の作家として評価されていますが、近松の120編とも150編とも言われる作品のなかでも世話物は24編にすぎません。だから時代物作家としての近松を再評価すべしという考え方もあります。それもよく分かります。しかし、吉之助はだんだんと近松は時代物という形式に飽き足らなかった・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったと思うようになりました。近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であった・つまり結論としてやはり近松は世話物作家であったということになります。(この稿つづく)

(H21・10・18)


10)近松という時代・3

「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)は近松の最初の世話物です。近松の世話物は上中下の三巻に分かれる三部形式になりますが、これは時代浄瑠璃の三段目(通常は世話場に当てる)を独立させたものだと言われています。それは結果としてその通りなのですが、近松がそうしなければならなかった必然を説明するものではありません。その必然を巷間の演劇史は十分論じていないと思います。どうして近松は世話物に三部形式を採用したのか。この問題については近日に「近松世話物論」を予定しており・そこで詳しく検討するつもりなので、本稿では要点のみ を記します。

近松の世話物の三部形式は上演する場合は三幕になるわけですが、もとは時代物の三段目から独立したものであることからも分かる通り・実質的には一幕芝居と考えるべきなのです。ドイツの演劇評論家ペーター・ツォンディは「現代演劇論」において一幕物芝居とは「拘束された人間のドラマ」であると規定しました。またアウグスト・ストリンドべリはそのエッセイのなかで一幕物のことを「今日の人間の戯曲のための形態」と呼びました。なぜかと言えば19世紀の演劇の常識では古典悲劇はつねに多幕形式によって提示されるべきものとされていたからです。何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか・そうしたものを因果関係的に追うことで、悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取るためには多幕形式が必要でした。それまではこのような悲劇の重さに耐えるために主人公を神話や歴史上の英雄に設定するのが通例でした。庶民では悲劇の主人公にならなかったのです。

ところが19世紀末に登場した一幕物では主人公は庶民となり、幕が開いた時に既に主人公は状況のなかに放り込まれて・身動きできないところにいます。一幕物の主人公は悲劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているのです。つまり、一幕物とは「最初から破綻した悲劇形式」であると考えられます。

「曽根崎心中」でも冒頭の生玉社前の場でお初と徳兵衛との会話でこのふたりが差し迫った状況にあることが説明されており、悲劇はいきなり核心に入っていきます。お初と徳兵衛はどこにでもいそうな人物であり、それまでの浄瑠璃にあり得なかったキャラクターでした。19世紀末に西欧で盛んに試みられた一幕物は・オペラにおいてはピエトロ・マスカー二の「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)が最初のものになります。本作はイタリアの片田舎のシチリアの村で起こった下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いたもの。これが最初の世話物オペラ(ヴェリズモ・オペラ)です。つまり近松の世話物はヴェリズモ・オペラに約200年先行したことになります。近松が近世悲劇を確立したことはよく知られていますが、その創作ベクトルは世話物悲劇(心中物)に向かっているのです。それは近松が時代物という形式に飽き足らず・純粋な現代劇を書きたくて仕方なかったということに他なりません。その情熱が古典悲劇の形式を内側から破綻させたのです。これが近松が時代浄瑠璃の三段目を独立させて・世話物の三部形式を確立したことの必然なのです。(この稿つづく)

(H21・10・30)


11)近松という時代・4

別稿「時代にいきどおる役者」において九代目団十郎のことを考えましたが、そのなかで折口信夫の座談会「国民文学の方向」での発言を引用しました。折口は「時代に憤(いきどお)った人物」として近松の名前を挙げ、「日本の歴史を見ると思いがけない時にひょっくり立派なものが出てくる・そうしてそれっきりで終わっている・何でもかんでも寄ってたかって食いつぶしてしまう・大きなものの出た後には必ずつまらぬものが続いて出てくる・そういうことが実に多い」というようなことを言っています。

『我々の知った人で、西鶴と近松を比べて、西鶴の方がすば抜けているように言う人が多いのですが、小説と戯曲とでは違うと思います。その人物が出来上がった上は同じことですが、近松は小説から言えば不自然なところが出てきますが、あれは戯曲の本然なのです。私はやはり近松は戯曲家としての立場のみから見なければ分からないと思います。西鶴の偉さがそれで消えるわけではない。けれども近松の素晴らしさ、その良さが、やはり近松だけで終わって、あとはもう食いつぶしにつぶされてしまっている。近松が出てきたのには、やはり順序を追って出てきたのには違いないけれども、外見的には突発的に出て、その影響が続かない。その影響が続かないで、大正になってから、ああこんないいものもあったのかと驚いたようなわけで、どうもそういうところに日本人には何か不思議な問題があるのです。』(折口信夫の座談会:「国民文学の方向」・昭和27年8月)

時代に憤(いきど)るということには自分の生きている時代に不満を持つとか・体制に批判的な態度を取るという要素も確かにありますが、それ以上に「この世に生きるということ」自体に対して憤る気持ち・この世を憂う気持ちがそこにあるのです。「憤る」ということはそのやりきれない気持ちの矛先をぶつける明確な対象がないということです。その憤りの対象が「生そのもの」という漠としたものだからです。木谷蓬吟がその著書「近松の天皇劇」(昭和22年・淡清堂)で指摘した「近松には徳川幕府の朝廷への度重なる干渉に対する憤懣があった」ということも表面的には言えるかも知れません。しかし、それはあくまでひとつの表れとして題材に出てくるものにしか過ぎません。まあそれは「近松の天皇劇」の書かれた昭和22年という時代を考えればそれなりに意味ある視点ですが、それだけであると近松はただの反体制作家としてしか位置付けできませんし、何より世話物作家としての近松の展開が見えてきません。近松の世話物作家としての展開の背景を考えるには「この世を憂う・この世に憤る」という視点が絶対に必要なのです。このことが現代の我々が近松の作品を新鮮であると、その後の時代のいろんな作家の作品よりも近松の作品の方がずっと新しいと感じさせる理由となっているものです。

もうひとつ考えておかねばならぬ問題は折口が言うところの「近松の素晴らしさ・その良さが近松だけで終わって・あとは食いつぶしにつぶされてしまっている」ということです。ただし折口の指摘には若干注釈を付けねばなりません。後世の江戸の戯作者たちが時代に憤る気持ちを失ったわけでは決してないのですが、その後の歌舞伎が表現手法として先鋭化した要素を失ってきたことは明らかですし、その意味で表現手法ははっきりと後退の様相を示しています。この問題を折口は指摘しているわけです。このことは以後の本稿でさらに考察していきます。

江戸時代も終わりになった頃には歌舞伎でも文楽でも近松作品で上演されるものは限られており、しかも・もっぱら改作物に拠ることが多かったのです。近松の盛名はオリジナルの上演ではなく・もっぱら改作で維持されてきたとさえ言えます。初代藤十郎の和事がほぼ廃絶し・現行の歌舞伎では和事はもっぱら滑稽な三枚目的要素によって受け継がれてきたこともこれと強く関連します。(別稿「和事の多面性」を参照ください。)近松と藤十郎はお互いを語る時に切っても切れない関係にあるからです。このことは近松の憤る心情を後世の人々が真正面から 受け止められなかったことを示しています。近松が生きた時代(元禄期前後)にとても強く結びついた心情ですから、後世の人にはすんなりと理解しづらいところがあるのは当然です。これを理解しようとする場合に元禄期という時代をよく知るということも方法論としてはありますが、そのために必要なものは実は歴史知識ではありません。「この世に生きること」に対する時代を越えた憤りの心情をまるごと感じ取るということです。(この稿つづく)

(H21・11・1)


12)女形とカストラート・その1

「歌舞伎とオペラが似ている」という事例として、オペラにはカストラートという歌舞伎の女形と同じような存在があるということがよく言われます。カストラートというのは高音(ソプラノ・パート)を維持するために・変声期前の男子を去勢したもので、もともとは教会音楽に発するものですが・次第にオペラの分野へも進出して、1650年から1750年頃にピークを迎えたとされます。史上最も有名なカストラートはファリネッリ(1705〜1785)です。カストラートの起源は定かではありませんが、もともと教会内では女性は沈黙を守らねばならず・歌を歌うことを許されなかったので高音パートを歌う必要性から生まれたとされます。19世紀に入ってからカストラートは急速に廃れ、やがて19世紀半ばにローマ教皇から人道上の理由で禁止されて終焉を迎えました。

ところで本稿「歌舞伎とオペラ」では、近松門左衛門以後の歌舞伎とモーツアルト以後のグランド・オペラを対照させることで話を進めているわけです。そうすると大きな違いに気が付くはずです。歌舞伎の女形は寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止により、やむを得ず・野郎(男性)が女性を装って演じたことによって生まれたものでした。当然のことながら女形の演技術というものはすぐに確立されたものではなく、試行錯誤と悪戦苦闘が繰り返されたものでしょう。

我々が歌舞伎史の本で歌舞伎女形の始祖としてその名を知るのは初代芳澤あやめ(延宝元年・1673〜享保14年・1729)です。あやめは初代藤十郎の一座の立女形ですから、つまり近松と同時代に生きた女形です。さらに同時代には水木辰之助という名女形もいました。彼らが歌舞伎史に登場してくるまでに女優禁止令から見て実に70年近い長い年月が経っているのです。つまり、あやめが登場するまでの70年間の歌舞伎は女を勤める役者はあれど事実上「女形暗黒時代」であったと呼ぶべきなのです。この間の歌舞伎が表現の制約を受けて・どれほど苦しんできたかを想像してみて欲しいと思います。これがまさに幕府の女優禁止令が意図したことだったわけです。それにしても、あやめの芸談集である「あやめ草」を読めば自分に女性と同じ生活を強いることで「身も心も女になり切ろう」とした当時の女形の苦労を偲ばせます。

女方は楽屋にても女方といふ心を持つべし、弁当なども人の見ぬ方へ向いて用意すべし」/「女方は女房ある事を隠し、もし御内儀がと人のいふ時は顔を赤らむる心なくては勤めまらず」/「女方にて居ながら立役になったらば佳からうと言はるるは恥の恥なり」/「真の女が男には成らぬ事を合点すべし、真の女もハヤ此れでは済まぬとて男にならるべきや、その心にては女の情に疎きは筈なり」/「平生を女にて暮らざねば上手の女方とは言はれ難し」

これは言ってみれば・男の役者が身も心も女になり切るための精神論あるいは根性論みたいなものです。これは並の役者にとても真似できるものではありませんでした。女形の様式が確立されるには、その演技術がマニュアルとして並の役者でも真似できるものにまで一般化されねばなりません。あやめの時点ではまだそこまでは行っていなかったのです。女形の演技術を一般化した初代富十郎(享保4年・1719〜天明6年・1786)が芳沢あやめの三男であったことも偶然ではなかったと思います。富十郎は父の血も滲むような修行を傍で見ながら・いろいろ感じるところがあったのだろうと想像します。富十郎は「親父は無駄な努力をしている」と感じたと思います。そこから「女になり切る」のではなく・「女らしさ」を様式的に提示することで女を演じるというコペルニクス的転換が出てくるのです。内輪歩きの技術はそこから生まれたわけです。ですから歌舞伎のなかに女形がしっかりと位置付けられた形で・歌舞伎が本格的な発展を開始するのは享保期以降であると考えて良いと思います。

一方、カストラートの全盛期は1650年ごろから1750年頃であり、それはまさにバロック・オペラの時代でありました。ただしバロック・オペラでも女性パートをカストラートが歌わねばならないという約束があったわけではありません。カストラートを呼び寄せるためには高額の報酬を必要としました。したがって、地方でのオペラ上演では予算上の制約で女性歌手が起用されることが多かったものでした。しかし、19世紀のグランド・オペラに分野からカストラートの姿は消え去ります。なぜかというのは簡単なことです。カストラートはリアル(写実)でないからです。オペラというのは言ってみれば「歌芝居」なのですから・写実と言ってもおのずと限界はあるのですが、それでも男女(おとこおんな)が歌うのは写実ではないというぐらいの常識感覚はあったわけです。19世紀のロマン派音楽というのは描写性(自然にあるもの・人間の感情をリアルに描くこと)と文学性を旨としたものであるからです。

ですから歌舞伎とオペラには大きな違いがあることが分かると思います。歌舞伎は享保期以降に女形の演技術の確立を得て、それ以後に大きく発展していきます。グランド・オペラは19世紀にカストラートを捨てて写実の 領域に踏み出し、それ以後にダイナミックな表現の可能性を得ていくということです。ですから吉之助に言わせれば女形とカストラートというのは、歌舞伎とオペラが似ていることの証拠であるどころか・むしろその逆であると言うべきなのです。幕府の規制によって歌舞伎は男女(おとこおんな)が演じるように定められていました。その制約のもとに歌舞伎は写実という概念を成立させなければなりませんでした。そこに歌舞伎の女形の特異性があると考えるべきだと思います。(この稿つづく)

(H21・11・8)


13)女形とカストラート・その2

精神分析学の分野で「女性」を取り上げることはとても難しいようで、ジークムント・フロイトは「女性が何であるかを記述することは精神分析学の仕事ではない」と書いています。フロイト派であるジャック・ラカンになるともっとひどくて、ラカンのテーゼには「女は存在しない」とか「女は男の症候である」というのがあるくらいで、そのせいかフェミニストの間では「フロイト派は男性 優位主義で・女性の視点が抜け落ちている」ということで評判が甚だしく良ろしくないのです。この点はフロイトも気になっていたようで、「ナルシシズム入門」(1914)では「女性の愛情生活をこのように述べたからと言って決して私は女性を見下そうとする偏見に囚われているわけではない」と言い訳をしているくらいです。ラカンは「男性はファルスを持つ存在」であるとします。ファルスとは象徴的ペニスということを意味しますが、つまり性別というのは象徴的にしか決定されないということです。そのような象徴界では女性は「男性ではない存在」という否定的な捉え方しかできないとラカンは言うのです。まあ男性にとって女性は永遠の謎ということですかねえ。現実には男性的な女性もいるし・女性的な男性もたくさんいるわけですから、解析はなかなか厄介です。

ところでフロイト精神分析において女性を「男性ではない存在」と定義する理論は、歌舞伎の女形にこれを適用した時に最もぴったりと当てはまると吉之助は考えています。つまり女形は女性そのものではなく・女性を象徴するということです。まったくフロイトやラカンに歌舞伎を見せてあげたかったものだと思います。彼らはまさに自分たちの論じてきた症例そのものを歌舞伎の舞台に見たことでしょう。ラカンならば「女形とはファルスを剥奪された存在であり、そのような女形を様式の中核に位置付ける歌舞伎という演劇にはファルスの欠如感覚がある」ことを看破したに違いありません。

フロイトやラカンが歌舞伎を知らないことは仕方ないですが、ヨーロッパ演劇やオペラの歴史にかつて存在したギリシア悲劇で女性を演じた男性俳優たち・エリザベス朝英国演劇での少年俳優あるいはバロック・オペラでのカストラートについて知らないはずがないので(ギリシア悲劇やシェークスピアについては重要な論考があるのです)、彼らが精神分析の立場からこれをどう考えているかは興味あるところですが、不勉強のせいか吉之助はそういう文献を目にしたことがありません。まあそういう文献があったとしても少なくとも症例として彼らの研究の関心を強く惹くものではなかったのだろうと思います。少年俳優あるい はカストラートに歪(ひず)んだ印象をあまり持たないのは、結局、それが現代において本来あるべき女性が演じても(歌っても)まったく当たり前のようにすんなりと置き換えられてしまって様式的な齟齬を感じさせることが全然ないからです。

現代でもバロック音楽演奏でカウンター・テナー(男性)がソプラノ・パートを歌うことはありますが、芸術的・あるいは音感的な感銘の違いはあっても、それが気色悪いという感覚はほとんどないと思います。むしろ女性歌手ほど生(なま)で肉感的な感じがしないので・清らかな感じがするくらいです。ということはカウンター・テナーは女性歌手と等価で置換され得るパーツであって、それがバロック音楽の在り方自体を左右する重い位置は占めていないということです。19世紀に入ってオペラの世界からカストラートが消え去ることは、オペラが視覚的・文学的な意味でリアルさを追求する以上は当たり前の道程であったと言えます。

しかし、歌舞伎の場合はどうでしょうか。女形は歌舞伎になければならぬ存在であり・これを女優に置き換えることはもはや不可能であるという認識をここで改めて論じる必要はないと思います。「女形を女優に置き換えることが出来ない」ということは一体どういうことを意味するのでしょうか。それは歌舞伎が男が女を演じる役者に適合する様式に作り変えられてしまった演劇であるということなのです。女形は歌舞伎の本質の一部と化しており・それは置換できないものだということです。別稿「女形の哀しみ」を参照いただきたいですが、吉之助は歌舞伎の女形は「気色悪い」と今でも思っていますが、こうしたクサ味・エグ味は慣れると癖になるというものです。吉之助にとってももちろん女形は歌舞伎の魅力のかなりの部分を占めます。ということは歌舞伎もある意味で「気色悪い歪んだ演劇」だと言うことなのです。

昨今はテレビでも男だか女だかちょっと見で区別が付かない方々がよく出てきて人気であるようですし、「歌舞伎の女形は性の越境であって・宝塚の男役と同じようなものだ」ということを言う方もいっらしゃるようですから、歌舞伎の女形に気色悪さを覚える方が少なくなっているのでしょう。女装が伝統演劇の特殊技能として認知されているということでもあると思います。しかし、歌舞伎の女形と宝塚の男役と新宿のオカマさんの区別も付かぬようでは歌舞伎の探求は難しいと思いますねえ。女形論については機会を改めて考えることにしまして、ここでは歌舞伎の女形の本質を考えるにはファルスの剥奪ということを考えなければならぬということを記すにとどめます。(この稿つづく)

(H21・11・14)


14)女形とカストラート・その3

歌舞伎の歴史についての本はたくさんありますが・疑問に思うことは、そのどれもが出雲のお国のかふき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたという感じで書かれていることです。なかには現在の歌舞伎座で行なわれている歌舞伎そのままのイメージでお国歌舞伎から各時代までを読もうとしているかの如きものさえあります。例えばお嬢吉三は「女を演じる男の役者(女形)が娘の姿を騙っていて・それが男性の本性を現す性の二重の逆転」などとよく書かれますが、本当にそうでしょうか。

お嬢吉三の変化の面白さは 確かに娘だと思って思って見ていたらそれが男だったというサプライズですが、あのような役どころは趣向が行き詰まって爛熟した幕末江戸歌舞伎の産物なのです。お嬢吉三や弁天小僧のような役どころが歌舞伎の初期からあったわけではありません。(これについては別稿「源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)「あそこにいる女物の着物を着ている役者はホントの女の役かね、それとも男が女に化けてる役かね」ということになると登場人物の性別が混乱して・芝居が成立しなくなるからです。だから歌舞伎は幕末まで男が女に化ける類の役どころを慎重に避けていました。役者が女物の着物を着て・女の髪を結い・顔を白く塗ってるならば、それが例え妹背山の官女みたいなゴツイ風貌であっても「あれは女だ」と思って見るのが歌舞伎の本来の約束です。歌舞伎の女形とは性の越境であるというようなことをよく書く方がいますが、実は女形は性の越境であるどころか・自分の周りに自ら境界線を引いて「ここから内側はアタイたち女方の領分よ」と言って閉じこもるものであって・まあ言ってみれば「性の引きこもり」です。(女方とは女を演じる役者のことを指し、今でも「おんながた」のことを女方と書くことがあります。)初期の女形にそのような拗ねた屈折した感性が存在することは初代あやめの芸談集「あやめ草」を読めば歴然としています。

演劇が写実を目指すなら、そこに男があり女があることは当然のことです。そのような写実の演劇を男の役者だけで目指そうとすることは大変に不自然なことですから、まずそこに約束事が必要になります。「女の衣装を着る者は女であることにする」ということです。もちろんこのような約束はとても不自然ですが、このような不自然な約束があってはじめて安心して自然な芝居が楽しめることになります。つまり女形の論理とは性の越境などというものではなく・まったくその逆で、境界に性のベルリンの壁を構築するようなものです。不自然な壁があるからこそ女形という存在が守られるのです。このような捻じれたプロセスを持つ演劇が歌舞伎です。だとすればどうして歌舞伎が「気色悪い歪んだ演劇」でないはずがありましょうか。

創成期の歌舞伎は女優参加によって写実の演劇を志しました。ところが、女優が禁止されたことで・歌舞伎は方向転換をせざるを得ませんでした。つまり寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止によって、創成期の歌舞伎の写実の理想は頓挫したのです。これを「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の1回目の死」と位置付けています。(ちなみに「2回目の死」とは明治36年の九代目団十郎の死です。)出雲のお国のかぶき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたのではなく、実は400年の間に歌舞伎はいたるところで断絶と変質を繰り返しています。しかし、遊女歌舞伎とそれに続く若衆歌舞伎の禁止は、「かぶき」にその息の根を止めるほど劇的かつ本質的な変化をもたらしたのです。もちろん同じ「かぶき」を称しているのですから何か受け継ぐ要素があることは確かですが、それ以前とそれ以後の「かぶき」の間には地滑り的な大断層があって、それはほとんど別の演劇と言って良いほどのものです。

歌舞伎は芝居のなかに女形を違和感なく位置付けるために全体の表現様式を女形に適合するように構築し直さなければなりませんでした。これには思った以上に時間が掛かりました。女形芸の完成時期をいつ頃に見るかについては諸説あると思います。女形芸は試行錯誤を繰り返し・なかなか完成せず、そのために「かぶき」は何度か存続の危機に見舞われました。女形芸は元禄の初代あやめの時代にかなりの進展を見せましたが、芸としての本当の完成を言うならそれは初代富十郎の内輪歩きなどの技巧が生み出され・さらに義太夫狂言が歌舞伎の演目に定着した時期であろうと吉之助はイメージします。すると早くても18世紀半ばということになりますから、女優の禁止令から見れば実に100年か120年くらいは掛かっているのです。それだけの長い年月を掛けて野郎歌舞伎が完成するのです。女形のことはそれほどの難問題であったのです。能狂言でも男が女を演じていた伝統があるのだから、野郎歌舞伎で男が女を演じることなど何の支障もなかったなどと考えていたらお間違えです。ですから出雲のお国のかふき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたのではなく、その歴史にはいくつかの断絶と変質の歴史があるのです。その断絶を象徴するのが女形であるということです。(詳細は「歌舞伎素人講釈を読むためのガイド〜女形」をご参照ください。)(この稿つづく)

(H21・11・20)


15)女形とカストラート・その4

伝統というものをその大元へ遡ってみれば・その流れは一本にずっとつながってスムーズに流れていくものでなく、それはしばしば途切れ・別のところから湧き出したり・またよじれるように見える変転を示すことがしばしばです。例えば別稿「和事芸の多面性」で和事の変遷を取り上げましたが、原初の初代藤十郎の和事芸は廃絶して・それは近松により人形浄瑠璃の方へ移植されましたが・それも絶え、歌舞伎の和事はもっぱら滑稽かつ弱々しさの側面から受け継がれたのです。もちろんそれは全然間違いというわけでもないですが、どちらかと言えばそれは和事の表層的な摂取であったのです。

むしろ明治以後の近松再評価によって復活した「女殺油地獄」の与兵衛や「曽根崎心中」の徳兵衛の方に和事のシリアスな側面が見えます。もっとも現代での和事のイメージはナヨナヨ・ヒョロヒョロに染まっていますから現行の分類では与兵衛や徳兵衛を和事とすることはないと思いますが、実はここに先祖返り的に和事の本質が出ていると吉之助は考えます。伝統というのはこういう現われ方をしばしばします。ですから歌舞伎を想像するのに現行の舞台しか材料がないからそれで過去を推し計るしかないと考えるのでは伝統を正しく捉えることが出来ません。途絶えたり・変転したりする筋道を捉えねばならぬからです。

出雲のお国のかぶき踊り以来(一応ここから歌舞伎の歴史が始まるとしておきますが、後で触れますが実は吉之助はそう考えていない)平成の歌舞伎までの約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたわけではないのです。お国かぶきと言われるものは現在の歌舞伎と似ても似つかぬものであったと思います。例えばこういうことを考えてみたいと思います。人類の歴史は猿人からの進化の流れのうえで捉えられるわけですが、その流れを見れば・実は流れに様々な分岐があることが分かります。

例えば ネアンデルタール人は旧人と呼ばれ、それは人類が進化の過程のなかで試してきた数多いバリエーションのひとつでした。しかし、ネアンデルタール人の流れの先に現在の我々は居らず・その流れは途切れてしまいました。何で途切れたのかは分かりませんが、氷河期など自然条件の激変が考えられるでしょう。現在の我々は新人と呼ばれるクロマニョン人の流れの先にあるわけです。そうした流れの変転を踏まえて猿人から現人類への進化の過程をイメージせねばならぬわけです。

歌舞伎を現在の人類に例えるとすれば、お国かぶきはネアンデルタール人みたいなものです。お国かぶきの流れの先に現在の歌舞伎はなく、その流れは途中で途切れているのです。現在の歌舞伎の流れは別のところから来ているのです。何がお国かぶきの流れをぶった斬ったのかは明らかです。それは寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・つまり女優の禁止です。ですから歌舞伎という芝居の写実の本質を強引に捻じ曲げた不自然な外部からの力がそこにあったのです。歌舞伎を考える時にこの断絶・変転を無視して・その歴史を語ることは出来ないと吉之助は思います。

このように野郎が女の役を勤めるところの女方(=女形)の出現が歌舞伎の変質に決定的な作用を与えたということが吉之助の歌舞伎史観ですが、もうひとつ大事なことはこのことを現行の歌舞伎の女形芸でイメージしては間違うということです。現行の歌舞伎の女形の芸ははっきり申せばオカマ芸的なのです。これは次第々々に長い時間を掛けてそういう形になってきたもので、虚飾が表皮と一体化した結果であると言えなくもないですし、そこにそうならざるを得なかった要因があったことも確かです。そのことに思いを致すことも大事なことですが、女形の成立を考える場合にはまず野郎が女の役を勤めることの不自然さから始めなければ話になりません。

女形はまずは一座のなかから骨格の華奢な男性・声の調子が高めの男性が選ばれて強制的に勤めさせられたでしょう。能でも同じことがあるなどと考えてはいけません。歌舞伎は能よりもずっと写実の方に寄っている演劇なのです。面をつけるわけではなく・豪華な衣装に守られているわけでもない。動きはずっと自然で速い。台詞も能よりずっと自然である。となれば女物の着物を着て・女の髪を結ったところでその不自然さは隠せなかったでしょう。野郎歌舞伎はそのようなところから始めざるを得なかったということを想像してください。女形芸は初代富十郎の内輪歩きなどの女性を装う技術が完成し・さらに義太夫狂言により女形の声質が芝居のなかに違和感なく組み込まれることにより定着します。その誕生から見れば100年から120年くらい掛かっていることになりますが、女形芸の成立というのはそれくらいの難事であったと吉之助は想像をします。(この稿つづく)

(H21・11・29)


16)女形とカストラート・その5

「吉之助がグランド・オペラと近松以後の歌舞伎を対比しようという意図は分かった・それではバロック・オペラは何と対比するのか?それはお国かぶきなのか?」という質問が出てくるかも知れません。まず誤解ないようにしておきたいのですが、吉之助はオペラが歌舞伎と似ているという「見立て」をしているわけではありません。オペラと歌舞伎が合せ鏡のように同じ発展の道程を辿るということを言うつもりもありません。カストラートと女形が異なるように、オペラと歌舞伎の相違もたくさん挙げられます。異なった芸能が異なった要素を持つのは当然のことです。吉之助は同じ心情・気分は結果として似たような表現を取るということを申し上げているに過ぎません。

バロック・オペラと対比するならば、それはやはり能狂言であると吉之助は考えます。能狂言は今では象徴性の高い芸能であると言われていますが、もともと猿楽の物真似に発する芸能なのですから・その本質はもちろん写実にあるのです。能狂言の写実の表現ベクトルということを考えて見る必要があります。当時の能は現代で演じられるよりも倍くらい早いテンポで演じられ・もっと写実性が高かったと言われています。また能にもドラマ性・対話性の濃い作品があります。安土桃山期には太閤能や切支丹能のような時事性を持った実験的な作品も出てきます。

しかし、一方で能狂言は為政者の庇護を受け・式楽としての性格を強め、次第に様式に傾いていきました。なぜならば何も変えないこと・何も変わらないことが為政者のお好みであったからです。このような流れに飽き足らず・敢えて野に下り、能狂言の表現力をベースにさらに新しい写実の演劇を開拓しようとした芸能者がいたのです。そのような様々な試みのひとつとしてお国かぶきがあったわけです。そのことはお国かぶきの役者や囃子方に能狂言から流れてきた人が多く参加していたことでも明らかです。

ですから歌舞伎の始まりがお国かぶきだと決め込むことは間違いのもとで、まず能狂言から歌舞伎へ向かう写実表現の大きな流れを踏まえなければなりません。慶長8年(1603)四条河原でのかぶき踊りは突然歴史の舞台に現われたかに見えますが、実はそれ以前に文献に現われない形でいろいろな芸能の試行錯誤がされていたのです。お国かぶきもそのような新しい演劇運動の流れのひとつに過ぎません。「かぶく」という言葉は新しい演劇を総称するキーワードとして使われたものでした。「かぶき」とは当世風・粗雑で乱暴で・ラジカルでモダンという意味であり、いわゆるクラシカルと対極になる概念でした。

江戸期が安土桃山期のダイナミズムを変わらず持ち続けたのであれば、あるいは江戸幕府が言論表現自由の政権であったなら、歌舞伎は女優を伴った写実の演劇としてスクスクと成長 し続けたかも知れません。しかし、残念ながら江戸幕府は女優を禁止し、さらに同時代の事件を芝居に仕組んではならぬと定めるなど、新しい芸能に次々と弾圧の手を加えました。このことが写実の演劇の発展を大きく阻害しました。お国かぶきの流れは断ち切られました。お国かぶきはネアンデルタール人の如くに・能狂言から歌舞伎への「変容」(誤解を避けるため進化・発展という言葉は使いません)の過程において・不幸にして途切れてしまった分岐のひとつに過ぎないと吉之助は考えます。その後の歌舞伎は写実の志を決して捨てることはありませんでしたが、その写実のベクトルは捻じれた・歪んだ形を取らざるを得なかったのです。

余談ですが、バロック・オペラからグランド・オペラの流れのうえにどうしてもお国かぶきを対比させるのならば、例えば18世紀前半イギリスにおいて全盛であったヘンデルのオペラに興行的に大打撃を食らわせたというジョン・ゲイの「乞食オペラ」(1728年 ・ロンドン)でも想定してみれば面白いと思います。この試みは一発花火のような形で終わりましたが、「乞食オペラ」は後にべルトルト・ブレヒトによって改作され、クルト・ワイルの作曲で大ヒットした「三文オペラ」(1928年 ・ベルリン)となって生まれ変わることになります。ワイルは後にアメリカに渡り、ミュージカルの発展に大きな貢献をすることになるのです。(この稿つづく)

(H21・12・6)


17)演劇における音楽的要素・その1

洋の東西を問わず演劇というものは物真似に発し、写実・つまりそっくりそのままを目指すものです。しかし、現実生活では感動的なシーンでその場の空間に音楽がバーンと鳴り響くことなどあり得ません。(頭のなかで音楽が響くということはあるかも知れませんが、それは多分映画の影響です。)ということは演劇で背景音楽を効果的に使えば確かにその感動の彫りはとても深くなりますけれども、実はそれは手法としては写実の本質から離れることなのです。この認識はとても大事なポイントです。

映画はカメラで現実の光景をフィルムに焼付けるもので(最近はCGも入りますから状況は若干異なりますが)、映画の根本理念はいかにドラマを本物っぽく見せるかということです。つまり映画も写実に根差しているわけですが、現在の映画はほとんど背景音楽なしで成立しないほどになっています。誰でも映画の名場面がありありと思い浮かぶ名旋律がいくつかあると思います。実は無声映画時代(1930年くらいまで)の映画音楽というものは画面に彩りを添える程度の素朴な背景音楽が多かったものでした。映画音楽が登場人物の心理によって様々なモティーフを使い分け・場面によって色を変え、戦闘シーンでは勇壮に・恐怖シーンでは不気味に・恋愛シーンでは甘く、ドラマと密着した効果的かつ描写的な心理描写に変化していくのは30年後半頃からのことで、これはオペラからの直接的な影響なのです。プッチー二やジョルダーノあるいはチレアあたりの十九世紀末のグランド・オペラの旋律を甘く通俗的にアレンジして・断片的に使用していけばそのまま映画音楽になるのです。

1920年頃には既にグランド・オペラの様式は時代遅れと化しており、オペラは前衛的・実験的に傾いて、大衆から次第に離れていきます。本来ならばオペラを書いていたはずの・甘く美しい旋律が書ける・しかし時代に遅れて生まれてしまった才能ある作曲家たちが、オペラ劇場のためではなく・ハリウッドのために音楽を書くようになったのです。もうひとつは第2次世界大戦で有能な音楽家がヨーロッパからアメリカへ渡り、映画産業がその多くを受け入れたことが背景にあります。

例えばウィーン生まれの作曲家エーリッヒ・コーンゴルドは23歳の若さで歌劇「死の都」(1920年)を書いてとても期待されたのですが、ナチスによる迫害 を逃れて渡米して、ハリウッドで映画音楽家に転身することになりました。コーンゴルドは1938年に映画「ロビンフッドの冒険」でアカデミー音楽賞を受賞しています。「カサブランカ」や「風とともに去りぬ」の音楽を書いたマックス・スタイナーも同様にオーストリアに生まれ・アメリカに亡命した作曲家でした。コーンゴルドやスタイナーらの影響のもとに映画における音楽の使い方が根本から変えられていきます。「ひまわり」や「ゴッド・ファーザー」・「道」などの音楽で有名なニーノ・ロータも世が世ならばオペラ作曲家になっていたはずの人かも知れません。実際ロータは1970年に「突然の訪問」というオペラを書いてもいます。ですからグランド・オペラの様式は場所を変えてハリウッド映画に受け継がれたということなのです。(このことについてさらに詳しくお知りになりたい方は岡田暁生著:「オペラの運命」の第5章を参照ください。)

岡田暁生:オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)

逆に言えば(そういうことが映画論で論じられているのかどうか知りませんが)グランド・オペラと同様に映画というジャンルの歪んだ要素を見出すことができると思います。映画の反写実的な要素を我々はあまり意識しませんが、それはフィルムに映った映像を写実・本物そのままであるという思い込みで見るせいでして、実は映画の虚の仕掛けは巧妙かつ狡猾です。例えば映画のクローズ・アップの手法にはプルーストが指摘した世紀末感覚がそのまま通用するでしょう。そしてそれは歌舞伎の見得にも通じます。(別稿「見得〜クローズ・アップの技法」をご参照ください。)映画というのはその意味でとても20世紀的に歪んだ表現形態であると思います。(映画が同様に21世紀的な表現形態でもある続けるかどうかについては吉之助はチト懐疑的です。最近のハリウッドのCGばやりを見ていますと、映画というジャンルはもう終わりかけているように思えますがねえ。)

西欧の自然主義の舞台演劇では音楽を使用することはあっても、音楽がドラマの中核に座ることはないでしょう。音楽に頼りすぎると演劇表現が写実の本質から遊離するからです。役者の演技あるいは台詞の力を観客にピュアに味わってもらうためには音楽は邪魔になります。ですから演劇に音楽的感覚は絶対必要です(それは時間芸術のフォルム感覚と密接に関連するからです)が、写実を標榜する演劇ならばあまり音楽に傾斜しないのが本来です。歌舞伎は「物真似狂言尽くし」に発するとしますから、本来は写実を志向するものでした。しかし、結果的には歌舞伎は音楽の要素がとても強い演劇になってしまいました。義太夫狂言のように音曲をドラマの骨格に据えたものさえあります。これはどういう意味を持つのでしょうか。それはもちろん歌舞伎というものが歪んだ演劇であることを示しているのです。歌舞伎における音楽的要素ということをもっと考えてみたいものです。(この稿つづく)

(H21・12・22)


18)演劇における音楽的要素・その2

国立劇場20周年(1986)・松竹百年(1995)のような節目のイベントになると丸本三大歌舞伎・つまり「菅原」・「千本桜」・「忠臣蔵」の一挙上演という企画がよく出ますが、郡司正勝先生がこんなことを仰っていました。

『そうすると三大歌舞伎と言われるものが、まことに歌舞伎の心棒みたいな金科玉条になってしまうのね。私はむしろあれはみな義太夫狂言だから、歌舞伎の本質から言ったら外れていると思うんですよ。それを本道に持ち出さなきゃならないということは、それだけ歌舞伎は衰弱に陥っている。基準がないからこんなところに基準を持ってきてしまうんじゃないかと・・。それじゃあこれが歌舞伎だと言える演目は何かと言えば、それは「曽我の対面」とか「暫」とか、まことに手薄いものしかないの。だから三大歌舞伎が出てくるわけ。これが一番手掛かりがはっきりしているから。つかみどころがあるから。このつかみどころがあるものすら危なくなっているかどうかということが歌舞伎を見る時の批評の問題になる。』(郡司正勝:「合評・三大名作歌舞伎」・歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評・16」・1995年)

ここで郡司先生の指摘することは、 地狂言を本義とする歌舞伎からすると義太夫狂言というものは外れるものだということ、しかし同時にそれにも係わらず歌舞伎を古典芸能として位置付けていく為に現代の歌舞伎が基準とせねばならぬのはやはり義太夫狂言であるということです。これは矛盾でもあり、またジレンマでもある。歌舞伎研究者として郡司先生はこのことをとても正直に仰っています。義太夫狂言は歌舞伎の本義ではないと言いながら・それをつかみどころとせねば歌舞伎ですらなくなってしまうということは、それはもう本義同然だということです。仮面をずっとかぶリ続けているうちに・仮面が顔の皮膚と同化してしまって取ろうにも取れなくなってしまった悲劇(いや喜劇か?)ということをお考えください。この場合、ご本人がどう言おうとも、他人から見ればやっぱりその仮面がその人の顔なのです。歌舞伎にとっての義太夫狂言とはそういうものです。

前項「女形とカストラート」において歌舞伎は芝居のなかに女形という不自然な存在を違和感なく位置付けるために全体の表現様式を女形に適合するように構築し直さなければならなかったということを考えました。女形芸の完成は歌舞伎における義太夫狂言の定着と時期的にほぼ並行すると考えて良いと思います。それは何故かということは考えればすぐ分かることです。義太夫というのは男芸であって、男性の太夫がひとりで男も女も描き分ける音曲だからです。これは喉の技巧で声色を使い分けているわけですが、義太夫はモノ・セックスな芸能なのです。ですから歌舞伎の女形は義太夫の技巧を借りることで、自分の声のトーンを一定に保つことができるようになったのです。これにより野郎が女性を演じるという不自然極まる女形芸はある種の安定性を以って芝居のなかに位置付けられるようになったのです。しかし、このことは本来は地狂言であった歌舞伎という演劇を音曲のなかに組み込むことになってしまいました。

義太夫は語り物であり・ドラマ性が強いものですが、もちろん音楽です。 確かに当時の人形浄瑠璃は文学性・ドラマ性において歌舞伎よりはるかに優れたものでありました。しかし、人形浄瑠璃のドラマ性だけを取り入れたかったのならば、筋だけを拝借して地狂言に仕立てればそれで良かったはずです。歌舞伎は何も音楽までまるまる借りて・役者が人形の真似までしなくても良かったはずです。歌舞伎が演劇としての独自性を貫こうとするならば、人形浄瑠璃をそっくり真似るなんてことをするでしょうか。逆に言えば、そこまでしてでも人形浄瑠璃を丸ごと拝借せねばならない事情が歌舞伎の方にあったということです。これはもちろん女形のことです。巷間の歌舞伎史本など見ますと、歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れて・その演目のバリエーションを増やして更に進化発展したようなイメージで書かれているものも多いようですが、どうもその点の認識が甘いのじゃないでしょうかね。吉之助は、歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れたことで、それまでの歌舞伎とまるで違うものに変質してしまったと考えます。もしかしたら歌舞伎は人形が演じた役を生身の役者が演じるのだから、写実ということになれば人形浄瑠璃よりこっちの方が絶対に強いという風に気楽に考えたのかも知れませんねえ。しかし、歌舞伎は義太夫に庇(ひさし)を借したつもりが逆に母屋を取られたことになったわけです。つまり、グランド・オペラに対比されるべき歌舞伎が義太夫狂言の定着によって完成したことになります。(この稿つづく)

(H22・1・10)


19)演劇における音楽的要素・その3

歌右衛門:「女の人に近ければ近いほど、私は(歌舞伎の女形は)魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近づこう近づこうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの。」
三島由紀夫:「それは女形の本来だと思うな、成駒屋さん、そういう点では武智(鉄二)さんの説と同じなんだよ。彼は「女形は外輪で歩くべきだ、男の声で言うべきだ」と極端な・センセーショナルなことを言うのだけど、根本的に間違っていないと思うんだ。女形の声というのは、男のテノールの声の魅力に近かったと思うんだ。昔、オペラで去勢した歌手がいたでしょう。 恐らく昔の女形の声というのは、それに近いような中性、いい意味での本当の美の声だったのだろうと思う。今はテノールが代行しているのです。テノールが男の声としては女の声に近いでしょう。それが性的魅力を代表しているわけです。」

(三島由紀夫・六代目中村歌右衛門:マクアイ・リレー対談・昭和33年5月・三島の発言は吉之助が多少アレンジしました。)

三島が「昔の女形の声は男のテノールの声の魅力に近かった」と言うのは本当のことです。話が飛ぶようですが、大学で教鞭をとっているある外国の有名テナー(お名前を失念)がこんなことを言っていました。最近は声楽を学ぶ男子学生は誰もがテナーをやりたがり、「君の声質ならバリトンの方が合っているのじゃないか」などと言おうものなら「えっ、それなら歌うのをやめる」と言い出す奴が多くて困るんだよナと言うのです。なるほど現代ではそれほどテノールが人気なわけです。しかし、18世紀のオペラ(つまりバロック・オペラ)ではテナーが活躍する場面はとても少なかったのです。その理由は容易に推察できます。カストラート(去勢した男性歌手)が重要なソプラノ・パートを歌う状況では、カストラートの効果を最大限に発揮させるために・似た声質のテノールは邪魔になるからです。またカストラートの声が提示する女性のイメージに対して、その対照上男性のイメージを提示する声質はバスまたはバリトンということになるわけです。

オペラのなかでテノールが重要な役割を持つようになるのは19世紀初期、ドニゼッティやべルリー二辺りからのことでした。例えば1835年ナポリのサンカルロ歌劇場での歌劇「ルチア」(ドニゼッティ)初演でエドガルトを創唱したのはジルベール・デュプレという名歌手ですが、ルチアがアルトゥーロとの結婚証明書に署名したのを知ってエドガルドが怒り狂って「お前は天と愛を裏切ったのだ。おお、神の怒りの手がお前たちを一掃してくれるように」と叫ぶ場面でテノールの力強い高音と強烈なアクセントに観客が熱狂して大騒ぎとなり、このエドガルドの歌唱のおかげで彼は「呪いのテノール」というニックネームを付けられたほどでした。テノールが脚光を浴びるようになったのはこの頃からでした。逆にこの時期にはカストラートは完全に衰退期に入っていました。テノールの台頭とカストラートの衰退はパラレルな現象であり、これはオペラの声質のバランスに係わる問題なのです。

ここに大事なヒントがあります。男が女の役を写実に演じなければならなかったという不自然な存在である女形も、同様に歌舞伎全体のなかでのバランスの問題を背負います。つまりそれぞれの役がめいめい好き勝手なトーンで台詞を言うのではなく・芝居に統一感を与えること、これが歌舞伎で大事なことは言うまでもありませんが、女形という奇妙な 声質を持つ存在がいるから・このことがなおさら大事になるのです。そのためには歌舞伎を音楽的な感覚においてしっかりと縛る必要がありました。人形浄瑠璃・つまり義太夫を取り入れようという発想の根本はまずそこから出てくるのです。義太夫はひとりの男性の太夫が男も女もすべての声を使い分け・それで音曲としての統一感を生み出す男芸であるからです。声質の問題もそうですが、歌舞伎の立役の台詞の調子・あるいは身のこなしが武張った印象に仕立てられていくていくことも、女形との対照を強めるためにそうなるわけです。

歌舞伎は男の衣装を着ているものは男で・女の衣装を着ていればそれは女だという約束で成り立っています。そうでないと「あの女の衣装を来ているのはあれはホントの女の役かね、それとも男が女に化けてるのかね」ということになって安心して芝居が観られなくなってしまうからです。この約束を確実に履行するために歌舞伎は、発声でも演技でも衣装でも工夫を凝らしてきました。歌舞伎の技巧というものはジェンダーの境界線を意識して引こうとするものなのです。

前項「女形とカストラート」で触れた通り、歌舞伎は女形を得て演劇様式として完成し、一方グランド・オペラは現象としてはカストラートを捨てることで進展していきます。この点が歌舞伎とオペラの表層的な相違となりますが、実はそれは両者の本質的な相違ではないのです。歌舞伎は本来地芝居であるべきものから音楽的要素によって強く縛られる演劇になっていきました。一方、オペラは歌によって点描されたドラマ(アリアや重唱・バレエなどをつなぎ合わせた音楽劇)というところから写実的要素を加えることでさらに楽劇的なものを目指す方向で発展していきます。このことが両者を似通った状態にしているのです。これは「ドラマと音楽」・正しくは「言葉と音楽」と言うべきかも知れませんが、相反するように見えて・実は切っても切り離せないふたつの要素の葛藤として観ることが出来ます。このことにより歌舞伎とグランド・オペラのアンビバレントな(歪んだ)要素が共に強められることになります。(この稿つづく)

(H22・1・16)


20)演劇における音楽的要素・その4

「アイーダ」(1871年初演)はヴェルディの最後のナンバー・オペラですが、それ以後のヴェルディは音楽に切れ目のない楽劇形式に傾斜していきます。口の悪いイタリア人は、ヴェルディは「アイーダ」を書いた後にアルプスの向こうへ行ってしまった(「ワーグナーにかぶれてしまった」という意味)などと言ったりします。ところで「アイーダ」のなかの・ラダメスが歌う「清きアイーダ」あるいはアイーダが歌う「勝ちて帰れ」などの有名なナンバーは相当なオペラ・ファンでもついついアリア(詠唱)と呼んでしまいますし・まあそれで間違いというわけでもないのですが、実はヴェルディ自身はこれをアリアとしていません。ヴェルディは楽譜に「清きアイーダ」をロマンツァ、「勝ちて帰れ」をシェーナとロマンツァと記しています。

これはとても大事なことで、アリア(詠唱)というのは本来オペラのなかで登場人物の感情を静止的に表現するものを指すのです。例えばヘンデルのバロック・オペラ「セルセ」(1738年)の「オン・ブラ・マイ・フ(懐かしい木陰)」(その昔ウイスキーのCMに使われて有名になりました)の旋律は実に美しいものですが、その歌詞は「樹木の陰で/これほど/いとしく愛すべく/心地良いものはなかった」と文句をただ繰り返すだけで、その歌のなかに登場人物の感情の揺れ動きは見られません。音楽はただ絵画的な感情描写のみに専念します。これに対してロマンツァやシェーナは音楽に感情の変化(ドラマ的要素)が加わったものを指します。ですからヴェルディがわざわざこのように指定するのは、「清きアイーダ」や「勝ちて帰れ」に主人公の心の揺れ動きや葛藤を時間的な横軸を以ってより強く表現して欲しいという作曲者の音楽的な要求があるのです。ヴェルデイはこのような定義にとても厳格でした。ここにバロック・オペラとグランド・オペラのドラマ性に対する明確な立場の違いがあるわけです。

平成20年8月歌舞伎座の「野田版・愛陀姫」(野田秀樹脚本)で、「清きアイーダ」や「勝ちて帰れ」に相当する場面で駄目助左衛門(=ラダメス)や愛陀姫(=アイーダ)の台詞の感情の揺れに呼応して周囲の人物が無言の動きで絡み、時に静止したり揺れたりして・主人公の感情を浮き彫りにする処理がされていたのには感心しました。台詞が独り歩きするのではなく動きのなかに位置付けられているのです。これは野田秀樹が天性の演劇的感性で原曲のロマンツァやシェーナの演劇的ベクトルを正しく感じ取っているからに他なりません。

歌舞伎の長台詞は基本的にどれもシェーナであって、アリアに当たるものは意外と少ないということが言えると思います。歌舞伎は演劇ですからこれは当り前のことなのですが、歌舞伎の長台詞はオペラのアリアであるという誤解が世間に強いようなのでこのことは強調しておきたいと思います。歌舞伎の長台詞はアリアのように静止した切り取られた時間として表現されるものではなく、感情の揺れ動きや葛藤が時間的な横軸を以って表現されるべきものなのです。

長台詞がアリアのように感じられる数少ない例は「三人吉三」の大川端でのお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」であるかも知れません。しかし、
これは七五調のリズムが速くなって・やがて極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく、かと言って・リズムが遅くなって・やがて沈静していく状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、どっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くためにそのように聞こえるのです。(これについては別稿「アジタートなリズム〜黙阿弥の七五調」を参照ください。)そこに幕末の閉塞感があるわけですが、黙阿弥はこの閉塞感を「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって破綻させています。そのような音楽的な工夫がされているということです。いずれにせよ歌舞伎の長台詞がアリアではなくシェーナであるという事実は、歌舞伎とグランド・オペラとの対照のひとつの検討材料になるものです。(この稿つづく)

(H22・2・6)


21)演劇における音楽的要素・その5

義太夫狂言では原則的に役者が台詞の部分を持ち・竹本(義太夫)がト書きの部分を持つとされますが、クドキや物語りなどクライマックスにおいては役者と竹本がしばしば交錯します。ひとりの人物の台詞が時にリアルな肉声に・時に旋律を伴った扇情的な唄声に変転します。この場面で主人公の心情がふたつに引き裂かれていることが様式的にも視覚的にも明らかになります。

このことは何を示しているのでしょうか。本来の歌舞伎は地狂言(台詞芝居)・つまり写実に根差したものですから、役者が人形に操られるようなお芝居はホントは歌舞伎の本義に反するのです。ですから昔の役者は糸に乗る(義太夫のリズムに乗る)演技を「人形じゃあるまいし」と言ってとても嫌ったものでした。(別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)しかし、役者が糸に乗ることを全く拒否してしまうならば義太夫狂言をやることの意味は全然ありません。役者が意識的に人形の真似をする場合・それは自らを木偶に擬することですから、それは自嘲的な行為なのです。これは見掛けは人間であっても・非人間的な状況あるいはどうにもならぬ内面からの欲求の突き上げによって操られる木偶に自らを擬することを意味します。義太夫狂言の面白さは実はそこにあるので、役者はその動きをギリギリまで三味線のリズムに付くようにして・その寸前で崩す(完全な人形になることを拒否する)のです。そうでないと義太夫狂言の乖離感覚は出てきません。

ジクムント・フロイトによる無意識の発見は日常生活における我々が知覚されない内面の何ものかによって操られているということを教えてくれました。無意識の正体は十分に解明されたとは言えませんが、ある意味においてこれはとても世紀末的な観念です。つまり、「私の現在の人生は本当に自分が望んだものではない・そのことを知らせようとするかのように内面から私を突き動かそうとするものがある」という感覚です。世紀末芸術においてはそのような感覚は機械的なリズム・動きによって現れたり、直線的な描線・原色的な色彩になって現れます。

このことを念頭に入れて例えば「櫓のお七」を見れば、そこで表現されるものは
身を焼かれるような恋心を抑えきれずに内面から湧き上がる情念に操られるがままの八百屋お七の姿です。それが表現するものは乖離したアンビバレントな感覚なのです。人形浄瑠璃芝居をそのまま真似て人間が芝居をしてしまおうという発想がどれほどすっ飛んだものであったのかがよく分かると思います。つまり義太夫狂言の着想はフロイトの無意識の発見に二百年近く先駆けていることになります。

昔ある役者(あえて名前を伏す)が「義太夫狂言の竹本の詩章のこの部分をカットすれば○秒テンポ・アップできる。だって見れば分かるもの」と言う発言をしたことがありました。こういう方は竹本がただのト書き(役者の動作の説明役)だと思っていて・義太夫狂言の乖離感覚が分かっていないから、このような発言をしてしまうわけです。音曲というのはどんな形であってもそのなかに間尺(足取り)の感覚が必ずあるのですから、それを切り刻んで正しく納まる感覚に仕立て直すことはなかなか難しいことです。義太夫狂言においては役者は義太夫の間尺にギリギリまで合わせて行かねばなりません。そして最後にこれを裏切る。つまり最後の最後に完全な人形になることを拒否することで、義太夫狂言は人形浄瑠璃の真似事ではない真(まこと)の人間の芝居になるのです。(この稿つづく)

(H22・2・12)


22)音楽における演劇的要素・その1

ヴェルディが「アイーダ」の有名なナンバー「清きアイーダ」をロマンツァ・「勝ちて帰れ」をシェーナとロマンツァと記したことについて前章で触れました。アリアが感情を絵画のように固定して表現するものだとすれば、シェーナはその歌のなかに迷い・葛藤などの心の揺れ動きがあって・そのなかに動的な表現があるわけです。これらをアリアと呼んだところで間違いというわけではなく・一般にはこれらもアリアと呼ぶわけですが、ヴェルディの分類は作曲者独特の強いこだわりを感じます。つまりオペラを単なる歌芝居から音楽によってドラマを語らせようとする楽劇の発想です。楽劇(Musikdrama)はワーグナーが提唱した音楽・文学・舞踊・絵画などを統合した総合芸術理論で・1850年頃のことですが、同時代のイタリアのヴェルディも彼なりの手法でオペラを歌芝居以上のものにしようと努力を続けていたのです。

ところで「トロヴァトーレ」(1853年)はヴェルディのなかで旋律の輝かしさ・伸びやかさなど素晴らしいもので最もイタリア・オペラらしい作品であると言えますが、スペインの作家グティエレスの戯曲を原作とした台本の筋の阿呆らしさをこれほど言われるオペラもありません。ジプシーの老婆アズチェーナは母親が火あぶりにされるのを見て・その火のなかに自分の子供を投げ込んで、代わりに仇である伯爵の子供をさらって・密かに育てていたというのです。その子供がこのオペラの主人公であるマンリーコですが、こんな馬鹿な話があるかと言うので、「下らない台本にこんな素晴らしい音楽をつけねばならなかった可哀想なヴェルディ!」ということが巷間よく言われるわけです。しかし、「トロヴァトーレ」の製作過程を検証すると事態はまるで逆で、ヴェルディが台本作家カンマラーノを叱咤し・時に喧嘩をしながら自分の意図する台本を書かせようと必死になっていることがよく分かります。

『実に無礼千万な物言いだとお思いでしょうが、このスペイン戯曲の新奇さと大胆さを取り上げることが不可能ならこの素材はあきらめた方が良い、と敢えて私はあなたに申し上げる次第です。(中略)アズチェーナは発狂させません!彼女は、疲労と苦痛と驚きと監視の目に疲れ果てて、きちんと話ができないのです。頭が朦朧としていますが、気が狂ってはいません。彼女が内面に抱えている、マンリーコへの愛と、母親の仇を取ろうとする思いつめた願望、このふたつの情念を、最後まで持続させる必要があるのです。マンリーコが死ぬと復讐心は大きく膨らみ、極度の興奮のなかで彼女はこう言います。「おまえは自分の弟を殺したのだ。おお母上、復讐を遂げましたぞ。」』(ヴェルディのカンマラーノ宛ての手紙・1851年4月4日付け)

そのちょっと昔ならばアズチェーナの奇矯な行動は「悪魔が取り付いた」か「気が違った」で片付けられたものです。ヴェルディの「アズチェーナは絶対に狂人ではない」とする考え方はとても新奇なものですが、これはヴェルディの深い人間分析から来るもので、同時にとても19世紀的なロマン的な感性なのです。この感性の延長線上に19世紀末ウィーンのフロイトの精神分析が生まれるのですが、本稿はそこまで触れる余裕はありません。アズチェーナのようなキャラクターはヴェルディの先輩であるベルリー二やドニゼッティならばまったくの狂人として描いたでしょう。「夢遊病の女」や「ルチア」の狂乱の場は音楽的な素晴らしさはもちろんありますが、その狂乱シーンは固定されてしまって「私は悲しいの・苦しいの」という心情は歌いますが、それ自体にドラマはありません。後輩のヴェルディはそのようなことを断固拒否するのです。そこにヴェルディの独自性があります。

別稿「隅田川の精神」で謡曲「隅田川」の演出のことで世阿弥と息子の元雅との間に意見の相違があったという「「申楽談儀」のエピソードについて触れました。最後の場面でシテの眼前に死んだ梅若丸の亡霊が現れます。元雅はここで子方を登場させる演出を採用しました。これに対し世阿弥は、作り物の塚のなかに子方がいない方が面白くなる、ここで現れるのは死んだ子供の亡霊であり幻なのだからとアドバイスをしました。しかし、元雅は「それでは自分はできない」と言いました。世阿弥は「やってみなければ分からないではないか」と元雅をたしなめたそうですが、現行の能の演出では子方を登場させる元雅の演出でやるのが普通です。

このエピソードを考えるに息子の元雅よりも世阿弥の感性の方がより近世的であると思います。もちろん元雅の解釈が悪いというのではありませんが、まあ保守的というか具象的ですねえ。班女の前の哀しみが絵画的に見えてくるのです。これは室町時代は中世ですからそういうことになるわけです。世阿弥の考え方は未来を先取りしてずっと前衛的だと思います。ヴェルディのアズチェーナ解釈のことを考え合わせれば、世阿弥の新しさが納得できると思います。もしかしたら世阿弥は班女の前を狂女と見なかったのかも知れません。このような世阿弥のドラマ理解の先に歌舞伎という演劇があるのです。ところで「おまえは自分の弟を殺したのだ。おお母上、復讐を遂げましたぞ。」というアズチェーナの引き裂かれた叫びと類似のものを歌舞伎に探すなら数多く挙げられますが、例えば「伽羅先代萩」の政岡を見てみます。

『コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方が命捨てた故、邪智深い栄御前、取替子と思ひ違へ、己が工みを打明しは親子の者が忠心を神や仏も哀れみて鶴喜代君の御武運を守らせ給ふか。ハハハ有難や。これと言ふのも、この母が常々教へておいた事、幼な心に聞分けて手詰めになつた毒害を、よう試みてたもつたのう。オヽ出かしやつた出かしやつた、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。』

この台詞の後に「・・・とは言ふものの可愛やなア」と母親としての政岡の嘆きの声が続きます。それならば政岡のクドキ後半が本音であって・前半は建前(封建主義の観念によって「言わされている」台詞)なのでありましょうか。まあそういう解釈もあるかも知れませんが、吉之助に言わせれば、政岡のクドキのなかのふたつの心情を対立的に固定して絵画的に見るからそのような解釈になるのです。吉之助は政岡のクドキ自体に引き裂かれたドラマが内包されていると考えます。政岡は決して錯乱しているのではありません。政岡が極度の興奮状態にあるのは確かですが、自分を失ってはいません。政岡は親子一体となって若君を命を賭けて守る義務感と、我が子千松への愛情と、このふたつを最後まで持続させることに成功し、母親は最後に「おお千松よ、私たちは忠義を成し遂げましたぞ」と高らかに叫ぶのです。ヴェルディ的な感性から見ればそうなるわけです。(別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)「伽羅先代萩」のなかに西欧の19世紀的な感性と極めて似通ったものが見られるということがお分かりになるはずです。(この稿つづく)

(H22・3・7)


23)音楽における演劇的要素・その2

別稿「間について考える」でも触れましたが、日本の芸能において「間」という言葉が使われるようになったのはそれほど昔のことではありません。能は音楽の要素が強い芸能ですが、世阿弥の花伝書には「間」という言葉は出てきません。しかし、これは世阿弥の時代の能に「間」の要素が存在しなかったということではなく、拍子を「間」という概念で捉えることが中世にはなかったのです。芸の世界に「間」という言葉が登場するのは近世(江戸時代)に入ってからのことで、例えば宝暦7年(1757)に刊行された「浄瑠璃秘曲抄」には、

『間拍子という事、間(ま)は人の歩く如し。右の足壱尺運べば、左の足壱尺、少しも長短なし。(中略)拍子は足につれ手を振る如く、右の足進む時は左の手進み、左の足進む時は右の手進む。これ陰陽の道理なり』

と述べられています。ここで言う「間拍子」は、西洋音楽でいうメトロノーム的なリズムに近いものです。このような「間」の概念が何時頃から出てきたのかは推測の域を出ませんが、吉之助の師匠である武智鉄二は外来楽器である三味線が日本音楽に導入され西洋音楽的な要素がそのなかに取り入れられて以降にできたものだと主張しています。つまり間の概念は三味線と強い関連があるとするのです。三味線登場の前と後で日本の伝統音楽は質的に大きな変化を遂げましたが、特にリズムの面においてそれが顕著であると言えます。

郡司正勝先生の著書「かぶき〜様式と伝承」では、創成期の歌舞伎(遊女歌舞伎)の舞台では三味線奏者が舞台中央に立ち・その周囲で役者たちが踊っていたこと、時代が下ると三味線は次第に舞台後方に退いていくことが述べられています。これはエレキ・ギターが出来たばかりのロカビリー流行時(1950年代)にはギタリストがもてはやされて舞台前面で演奏して観客と交流してワーキャー騒ぐ・現在ではあまりそんな光景は見ないわけですが、これと同じことなのです。歌舞伎創成期には三味線が だんぜん主役・華やかなスターであったわけです。ですから三味線の登場は現代で言えばエレキギターと同じ衝撃だったと考えるのが適当です。ですからリズムの問題がとても大事になるのです。

郡司正勝:かぶき 様式と伝承 (ちくま学芸文庫)

例えば舞踊「二人椀久」で言えば松山太夫と久兵衛のしっとりしたやり取りでは・リズムは前面に出ずゆっくりした旋律が長々とつづくので下手をすると眠たくなりますが、その後で「按摩けんぴき按摩けんぴき・さりとはひきひきひねろ」辺りから廓の賑わいが三味線の軽快なリズムで描写されると客席の方も急に活気を帯びてきます。これは早い定間のリズムが身体に心地良く・「分かったような気にさせる」ということにその理由があります。定間は誰にも理解し易いものなのです。しかし、これは逆の視点から考えてみる必要があります。すなわち久兵衛は内面から湧き出す喜びのなかで踊っているのではないということです。この軽快なリズムは久兵衛が何ものか(松山太夫の幻影)に弄ばれていることを示しているのです。機械的な揺れるリズムが久兵衛を操って・踊らせていると言うことです。そしてそのリズムを心地良く感じている観客もまた同様なのです。まあこれはディスコのリズムみたいなものですね。(別稿「機械的なリズム」をご参照ください。)

このことを台詞の面から考えたのが別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」の論考ですが、早い定間の畳み掛けるようなリズム(基本的に二拍子のリズム)は実は江戸初期のかぶき者の気質(かぶき的心情)と密接に繫がったものです。そのリズムは江戸初期のかぶき者の「生きすぎたりや」という焦燥感・アジタートな気分を表現しています。ですから日本音楽への三味線の導入・「間」の概念の登場・江戸期のアジタートな気分というものは三位一体と考えるべきであると吉之助は考えています。歌舞伎の台詞のリズムを正面で論じた論考は吉之助以外にほとんどないと思いますが、このことがお分かりになれば歌舞伎の台詞を考える時にリズムの要素が如何に重要かということが理解できると思います。(この稿つづく)

(H22・2・12)


24)音楽における演劇的要素・その3

もうひとつ歌舞伎のリズム面での特徴は「きまる」ということです。歌舞伎舞踊では三味線のチントンシャンで「きまる」場面がよく出てきます。大向うは「きまる」箇所を待ち構えて・そこで掛け声を掛けます。そうすると何となく景気が良くて、腑に落ちた・何となく分かったような感覚になります。時代物の見得も同様で、ツケを打って大きくきめてみせると何となく分かったような感じになる。歌舞伎はきまることを目標にしているように感じられます。これは意地悪く見ると、きまることで歌舞伎は観客に対して媚びているのです。そこには現代のテレビでお笑い芸人が流行のネタだか決め台詞をこれでもかと連発する・観客がそれを見て「そら、またやった」といって笑うというのと同じ次元のものが見えます。

ところで「きまる」という間は先行芸能である能や狂言には存在しないものだそうです。お稽古で何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、とても嫌がられます。「きまる」というのは、日本古来の伝統芸能では「嫌なこと」なのです。「きまる」のは本来「嫌なこと」だという認識はとても大事なことです。これは音楽的に言えば、日本音楽にもともと存在しない間・三味線の作る西洋音楽的な間(定間)にはまるということです。能のような先行芸能から見れば、それが「はしたない・嫌な」ことに見えたのです。定間は誰にでも分かり易い間ですが、能はそのよう な観客に媚びることをしないのです。(視点を変えれば能は観客への媚びを拒否したことで・時代から取り残された芸能になってしまうという見方もできるのですが、本稿ではこのことはひとまず置きます。)

逆に言えば創成期の歌舞伎はそのような先行芸能から嫌がられることを意識的にわざとしたのです。それが「きまる」ということの本来の意味でした。そこにかぶき者のラジカルな自己主張があったのです。ところが、きまることが目的化してしまうと「きまる」ということが本来持っていたラジカルな意味が次第に失われてしまいます。それは役者と観客との馴れ合いに墜ちていきます。このことは昨今のテレビのお笑い番組の荒んだ状況を観ればよく分かると思います。「きまる」ということのラジカルな意味を保持し続けようとすれば、得意のネタは出し惜しみされねばならないのです。もちろん観客はきまることを待っているのですが、観客が待って・待ってジリジリとして来たところで最後の最後に得意のネタできめる、それを高等技術として持たねばなりません。それが出来ないお笑い芸人はすぐ消えていきます。

最近の歌舞伎を見ると「きまることが嫌なことだ」という意識が役者に余りないようですねえ。きまることを観客へのサービスだと考えているのかも知れません。しかし、「きまることは本来嫌なことで、そういう嫌なことをわざとやることに歌舞伎のラジカルな意味がある」という意識が歌舞伎役者にあるならば、「きまる」ことを大事にして・それは芝居全体のなかでホントに効果的な所だけに最小限に限られるはずです。昔の芝居では今ほどツケや見得を多用しなかったのです。六代目菊五郎は見得をする時にたっぷりとやらず、しばしば間合いをはずすようにサッサと済ませたものでした。もちろんそのことで菊五郎は芝居通から歌舞伎らしいたっぷりした味わいがないという批判をしばしば受けましたけれど、菊五郎はきまることの「いやらしさ」を知っていた役者だったと思いますねえ。(この稿つづく)

(H22・3・21)


25)音楽における演劇的要素・その4

ご存知の通りオペラでは舞台上で歌手が歌い・あるいは演技して、オーケストラは舞台と客席の間にあるオ−ケストラ・ピットと呼ばれる溝のような狭い空間で伴奏を行ないます。最初期のオペラにおいてはオーケストラの伴奏は、歌唱にリズムを添えるか・音楽にちょっと雰囲気を加えるか厚みを加えるかという程度のもので、如何にも伴奏の域を出ないものでした。しかし、次第にオーケストラの伴奏は心理描写の要素が加わって拡大していきます。ワーグナーが創出したライト・モティーフを駆使した自在な情景描写はその最たるもので、ワーグナーの楽劇ではオーケストラが主役の感さえあります。特にヴェルディ・ワーグナー以降のロマン派オペラにおいて人間の声による歌唱・管弦楽による言葉を伴わない伴奏は対立した構図が顕著になってきます。それは時に寄り添い・時に互いに干渉し合ったりして絡み合いながら、音楽を作っていきます。管弦楽は言葉に現れない人物の内心を語り、時に予告し・警告し・時にはその人物の行動を操りさえします。

つまり、吉之助のよく使う表現で言えば、そこに「引き裂かれた構図」が見えるのです。オペラが引き裂かれた芸術であるというとびっくりするかも知れません。しかし、別稿「吉之助流・バロック論」を読めばお分かりの通り、ロマン派というものを古典的な様式とバロック的な様式の揺らぎとして捉えるのが吉之助の見方ですから、オペラという最もロマン的な音楽形式が引き裂かれていないはずがありません。そのようなオペラのバロック性がはっきりと現れているのが、実は「舞台上の歌手・ピットのなかのオーケストラ」という視覚的な対立構図です。

しかし、この引き裂かれたバロック的な構図は後期ロマン派オペラに至って初めて現れたものではなく、オペラ的なものの本質として1600年ごろのオペラの成立の時から元々在ったものです。この引き裂かれた構図は映画音楽になるとさらに顕著になります。「歌舞伎とオペラ・その17」で触れた通り・昔ならオペラを書いていたであろう才能が現代では映画音楽の作曲に従事しているわけです。オペラ的なものの本質が今日では映画音楽に受け継がれているのです。俳優の日常的な会話と演技を、背景音楽が日常以上の何ものかに変えます。現代では背景音楽のない映画は考えられません。背景音楽は俳優の演技に対して何かの強い作用を及ぼしていることは明らかです。ですから映画では音楽と演技は概念上対立していると言えます。

以上のことを歌舞伎の義太夫狂言に当てはめてみれば、歌舞伎が引き裂かれていることは明らかです。舞台上手の床に位置する竹本(義太夫)はオケ・ピットの管弦楽です。義太夫狂言では役者が台詞を持ち・竹本がト書きを持つのが通常ですが、しばしば両者が交錯します。クドキでは登場人物の内心を役者が叫ぶのか・竹本が歌うのか、そのどちらでもあり得 ます。だから役者と竹本は概念上明確に対立しています。義太夫狂言には引き裂かれた構図があるのです。歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れた時に、もしかしたら歌舞伎は生身の役者が演じて台詞をしゃべるのだから写実ということ ならば人形浄瑠璃よりこっちの方が絶対に強いと気楽に考えたかも知れないと吉之助は想像します。確かに視覚的な面から見れば歌舞伎の強みは歴然としています。しかし、ドラマツルギーの点からみれば歌舞伎は義太夫に庇(ひさし)を借したつもりが 逆に母屋を取られたのです。(これについては前章「歌舞伎とオペラ・演劇における音楽的要素」を参照ください。)それほど に義太夫狂言における音楽(義太夫)の呪縛は強いもので、役者に音楽の間尺が意識されていなければ良い舞台は絶対に出来ません。

付け加えれば人形浄瑠璃(文楽)も床の大夫と三味線、舞台の人形(人形は語ることはしない)との構図が引き裂かれているということが言えます。文楽では台詞の部分も含めて音楽的要素をすべて床が取りますから、語り物としての音楽はそこで完結します。このことが歌舞伎と比べて文楽が古典的な佇まいを強く感じさせる要因になっています。もうひとつの先行芸能としての能のことを考えておかねばなりません。能でも謡(うたい)をうたうのはシテ・ワキ・ツレなどの登場人物と、地謡(じうたい)と呼ばれるバックコーラスに分けられるわけで、やはり能にもバロック的な引き裂かれた要素が見えるわけです。(このことは「歌舞伎とオペラ・その16」で触れた通り、グランド・オペラが歌舞伎とするならば・バロック・オペラに対応するものは能であるという吉之助の見方の証拠のひとつとなるものです。)

歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れるという発想は、まず能の形式が先駆としてあって・その模倣(応用)であったのかも知れません。だから歌舞伎役者は人形の真似をするということにあまり抵抗を感じることなく、本来人間が演じるはずだったドラマを役者が取り戻すというような感じで人形浄瑠璃を歌舞伎に気楽に取り込んだのかも知れません。しかし、結果として歌舞伎は先行芸能が持っていたもの、すなわち能が内面に持っていたバロック的要素・人形浄瑠璃が内面に持っていたバロック的要素を、舞台上の役者・床の竹本という視覚的対立構図によって・より明確なものにして見せたということになります。こうして歌舞伎において義太夫狂言が定着して以後、それが歌舞伎の本質となっていきます。
(この稿つづく)

(H22・4・2)


26)蛇足的むすび

本稿「歌舞伎とオペラ」では歌舞伎とオペラの歴史を通覧し、それらが離れた時代と場所に生まれ育ち、互いにまったく関連がないにも係わらず、似たような題材で似たような心情を描き・それゆえその表現形態は必然的に似てきて・似たような経過を辿って発展していくということを考えたわけです。これは実に不思議なことですねえ。結局、人間が考えることなど古今東西あまり変わることではないのだなあという真理にたどり着くわけです。吉之助は「歌舞伎素人講釈」で歌舞伎の解説的な記事を中心にする当初方針を4年くらい前から大きく舵を切って・音楽やオペラとの関連において歌舞伎を大胆に論じることを厭わないことに変えましたが、その必然が本稿によってある程度ご理解いただけただろうと思っています。さらに詳細に論じるなら時代を背景にした社会・思想などの分析をせねばなりませんが、各論的にはこれまでも「歌舞伎素人講釈」では行なっていることですし、これからサイトに出る記事なども参考にしていただきたいと思います。

歌舞伎とオペラの類似ということを論じた論考はこれまでも他にないわけではありません。しかし、それらは概ね女形とカストラートは似ているとか・筋が荒唐無稽なところがよく似ているとか表層的な類似を述べているものばかりです。本稿のように心情の視点から歌舞伎とオペラを対比してその表現技法の本質を論じたものは類例がないと思います。本論では歌舞伎史の一般論とまったく異なる記述が多いので・歌舞伎を専門に研究されている方には衝撃的な内容であるはずですが、既成概念に捉われずこれから歌舞伎を学んでいこうと思う若い方には刺激的で・かつ参考になるところが多いだろうと思います。著作権などという難しいことは申しませんから、どんどん勝手に取って・発展させてもらいたいと思います。最後の方に「歌舞伎素人講釈」をちょっと参考にしましたと書いてくれればそれで結構です。

本稿冒頭にも記しましたが、歴史を考える場合に一番大事なのは「時代区分」のセンスです。それは時がどこからどちらへ向かって流れていくのかの視座を示すものであり、歌舞伎史の場合ならそれは「歌舞伎はどういう演劇か」というイメージを以って初めて論じられるものです。いつぞや「象徴先生」と呼ばれた歴史家ジュール・ミシュレについて「雑談」で触れたことがありました。ある事件を取り上げるに当たり・その座標点を論じるだけではなく・座標点が持つベクトルを示すことが出来なければなりません。ヘロドトスやミシュレはそのようなエピソードを選び出すのがとても巧い歴史家でありました。

例えば元禄17年2月19日山村座の舞台上で初代団十郎が刺殺された事件で重要なのは団十郎がどういう理由で殺されたかをいろいろ論じることではなくて、一番大事なのはすぐさま同年7月に息子九蔵が17歳で二代目団十郎を襲名したということにあるのです。ここに数ある歌舞伎役者の家系のなかで団十郎家が宗家という特異な位置に祀り上げられたことの秘密があります。そのことを論じなければ団十郎刺殺事件を取り上げる意味はあまりないと吉之助は思います。別の事例を挙げればアメリカのケネディ(JFK)神話はダラスでの暗殺事件にあるのではなく、その葬儀の時に亡き父の棺に向かって幼いケネディJRが敬礼した健気な姿に発するということ、そのケネディJRの姿がニュース映像で全世界に配信されたことです。そこにアメリカ的な精神のある部分の死が象徴されていたということ、ミシュレなら当然そう書くでしょうねえ。団十郎刺殺事件のことは「偉大なる男の記憶」のなかでちょっと触れましたが、当時はまだ「歌舞伎素人講釈」でフロイトを正面に据えて荒事を論じるのは躊躇したので筆を途中で止めたのですが、いずれ改めて団十郎刺殺事件を端緒にして荒事論をじっくり取り上げることにいたします。

ところで本稿「歌舞伎とオペラ」で吉之助が行なっていることは比較文化ではありません。異なった場所で生まれた異なったものはそれぞれの位置において独自性を持つのであって、それらの違いの比較に吉之助はあまり意味を見出すことはないのです。強いて言えば吉之助はこれらの作業を「統合」であると思っています。吉之助の最終的結論は「人間が考えることなど古今東西あまり変わることではない」ということにあるのです。もしかしたら吉之助は日本人にも西洋音楽やオペラが分かるということを逆証明したいのかも知れません。まあそういうわけですから西洋人にも歌舞伎が分からないはずはありません。歌舞伎も世界無形文化遺産になったことですから、これからの時代は歌舞伎もグローバル視点で論じなければならないと思います。この「歌舞伎とオペラ」がその良い取っ掛かりになるものならば幸いです。

(H22・4・4)


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