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「隅田川」の精神

〜「隅田川」


1)物狂いについて

狂人を主人公にした「物狂物」は能楽の大きなジャンルです。「花伝書」の第二物学(ものまね)物狂いの項において世阿弥は、物狂いは能のなかでも最も面白さの限りを尽くしたもので、物狂いを習得した演者はあらゆる面を通じて幅の広い演技を身につけることが出来ると書いています。

その昔は「気が狂う・狂気」ということを人々は「物が憑いた」とも言いました。狂気というのは、神仏とか生霊・死霊あるいは物の怪のようなこの世ならざるものが取り憑いて、その人の精神がその人のものでなくなってしまっておかしくなってしまったのだと当時の人々は考えたわけです。

世阿弥は物狂いというのを二つの種類に分けて説明しています。ひとつは神仏・生霊・あるいは死霊などが取り憑いた物狂いで、これはその乗り移ったものの正体を把握して演技すれば役作りが出来ると言っています。能の始まりは物真似だと言われています。憑依したものの正体が、例えば憑いたのが狐であれば狐を・死霊ならばその生前の人物の、その真似をすればいいというわけですから、そこに役作りのヒントがあるということでしょう。これは比較的役作りが簡単な物狂いであると言えます。

もうひとつは、親に別れたり・子供と別れたり・夫に捨てられたり・妻に死なれたりして狂乱する物狂いで、この役作りは容易ではない、こういう物狂いの場合は、相手のことを一途に思うという戯曲の主題を役作りの根本に置くべきであると世阿弥は言っています。

世阿弥は上手な演者でも物狂いというだけでこれを区別せずにどれも同じようにただ狂乱だけを演じているから感動を与えることができないのだ、これは分けて考えなくてはいけないとも書いています。これを読みますと、物狂いは何物かが憑依することで起こるという考え方が当時は一般的であったのでしょう。能楽でももっぱらそういう解釈だけで物狂いを演じていたのであろうことが伺えます。

ところが、世阿弥だけは何かが憑依するのではなくて、何らかの精神的ショック・あるいは極度に思い詰めたことから自らの内面から精神が狂っていくこともあると考えていたわけです。これは演者としての世阿弥が人間のこころの内面を鋭く見詰めたところから発したものであったわけで、当時としてはきわめて斬新な・精神病理学的な考え方であったと思います。

さて、能の物狂物(狂女物)のなかでも、生き別れした子供を捜し求める母親の物狂いというのは、その最も代表的なものでありましょう。こうした作品が能に多いのは、当時は飢饉が起こると、子捨て・子売り・あるいは子をかどわかして売るなどの行為が日常茶飯事に行なわれていたので、子を失って悲嘆にくれて正気を失う母親があちこちに見られたということが背景にあるのであろうとも言われています。あるいは、こうした狂った母親の姿を見て、世阿弥はその病み狂った心の風景を思い、その裏に潜むドラマを思ったのでありましょうか。

例えば世阿弥作である謡曲「百万(ひゃくまん)」では、行方の知れない我が子を求めて気が狂った女曲舞(おんなくせまい)の舞手百万が登場しますが、「何ゆえ狂人とはなりたるぞ」とワキに尋ねられると、百万(シテ)は「夫には死して別れ、ただ一人ある忘れ形見のみどり子に生きて離れて候ほどに、思いが乱れて候」と答えています。彼女は子供を思う気持ちがあまりに強くて自分をコントロールできないのですが、自分が狂っているという事実と・その理由ははっきりと意識しているわけです。

「花伝書」のなかで世阿弥は、女性の物狂いの役に武将や鬼神の霊のような強力な霊が憑いて怒り狂った演技をするならば、それは女性の役として不似合いである、また、女性の優しさを中心に狂うならば、憑依したものを表現できていないことになる、結局、そのような作品は演じるに値しないのだと述べています。逆に言えば、そのような作品ばかりが世間に横行していたことが世阿弥には不満であったのでしょう。この謡曲「百万」を読みますと、そうした世阿弥の「人間の真実を描いたドラマはこういう風に書くんだよ」という主張が見えてくるようでもあります。シテが狂っている理由をはっきりと理解して、シテの狂いの表面的な面白さを追うのではなく、役作りの本質をしっかり見極めることを世阿弥は要求しているように思えます。


2)梅若の亡霊

謡曲「隅田川」は世阿弥の息子の観世十郎元雅の作品ですが、「申楽談儀」では「隅田川」の演出について世阿弥と元雅との間に意見の相違があったことが記されています。最後の場面でシテの眼前に死んだ梅若丸の亡霊が現れる場面です。元雅はここで子方を登場させる演出を採用しました。これに対して世阿弥は、作り物の塚のなかに子方がいない方が面白くなる、ここで現れるのは死んだ子供の亡霊であり幻なのだからとアドバイスをしました。しかし、元雅は「それでは自分はできない」と言ったというのです。世阿弥は「やってみなければ分からないではないか」と元雅をたしなめたそうです。現行の能の演出では子方を登場させる元雅の演出でやるのが普通です。(子方の声だけを聞かせて姿を出さない方法が採られる場合もたまにあるそうです。)

ところで、世阿弥が「隅田川」のこの場面で子方を出さない演出を主張したというのは、前述の世阿弥の物狂いの考え方からすれば、世阿弥がそう考えるのがよく分かるような気がします。梅若塚を前にして母親(班女の前)はここで突然現れる息子(梅若丸)の亡霊に操られるようにして心乱すわけではなくて・つまり何かが憑くような感じでこころ乱されるのではなくて、息子の姿は母親のこころのなかで響き・その姿がシテの瞼のなかに現れるのであって、いわば内面的に心乱れるのであると世阿弥は考えたのでありましょう。

舞台上にその姿が現れてしまうと確かに状況は観客に理解し易くはなるのですが、何だか情感が浅くなってしまうような感じがします。眼前に息子が現れたかのように思い乱れる母親を演じる方が、演者としても工夫の仕がいがある・より深い芸を見せられように思うのです。

あるいは次のようなことも考えられます。母親の眼前に息子の亡霊が現れるというのはある種の「奇蹟」であり「救い」であると考えることができます。しかし、それが母親の内面に現れた幻でしかないとしたら、その寂寥感と空しさは例えようのないものになるのではないでしょうか。そこに対象を突き放したような芸術家・世阿弥の冷徹なリアリズムが感じられるような気がします。


3)西洋の匂い

「隅田川の世界」は歌舞伎のなかでも一大ジャンルをなしています。「隅田川」が歌舞伎のなかに取り入れられたのは比較的早い時期で、「大和守日記」には貞享5年に「角田川」が、元禄7年には「しかた角田川」が演じられている記録があります。また元禄17年には山村座で「けいせい角田川」が上演されています。隅田川ものが人気であったのは、江戸の人たちにとっては「ご当地もの」であったということもありましょう。

しかし、歌舞伎での隅田川ものというのは梅若殺しの方に関心が行ったものが多いようで、謡曲「隅田川」を思い浮かばせるものがあまりないようです。同じ梅若伝説を源流にしてはいても、歌舞伎の場合は幽玄や無常といった情感に目を向けるのではなくて・あくまで趣向として梅若伝説の骨格を借りているに過ぎないように感じられるものが多いようです。だから悪いと言っているわけではありません。当時は能役者と歌舞伎役者の交流は禁じられていましたから、謡曲をそのまま歌舞伎化することはできなかったのです。それに歌舞伎作者の題材に対する関心のあり方が謡曲の作者とは全然違っているということなのだろうとも思います。(この問題は非常に面白いテーマであると思いますが、いずれ別の機会に考えてみたいと思います。)

ところで、舞踊「隅田川」は江戸時代にできた作品ではなくて、明治41年3月に四代目清元延寿太夫が発表した作品でした。これが舞台にかかったのはかなり遅くて大正8年9月歌舞伎座のことでした。初演の時の配役は二代目猿之助(初代猿翁)の狂女・二代目段四郎の舟人でした。本作は歌舞伎の隅田川もののなかでは最も原曲である謡曲「隅田川」に近いものですが、明治以後は能取りものの松羽目舞踊が盛んに作られましたから、本作もその流れで出来たものでしょう。(明治に入ってからの松羽目舞踊の流行には歌舞伎役者の能に対するコンプレックスが背景にありました。これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番:天覧歌舞伎」をご参照ください。)つまり舞踊「隅田川」はちょっと先祖返り(能返り)の作品なのであって、本作を歌舞伎のいわゆる隅田川ものの系譜に入れてしまうと間違うという気がします。

吉之助にとっての舞踊「隅田川」は六代目歌右衛門の記憶と強く結びついています。歌右衛門の舞踊「隅田川」の舞台は幽玄でありました。それは能とか歌舞伎とかいうジャンルどころか、東洋・西洋の演劇舞踊の枠さえも越えてしまった舞台芸術作品という感じさえしました。歌右衛門がパリの劇場で「隅田川」を公演した時でしたか、熱狂した観客の拍手が二十分以上も鳴り止まず、カーテンコールに何度も何度も歌右衛門が呼び出される事態になったそうです。舞踊「隅田川」の舞台にはどこかに西欧人の感性にも共通するセンスがあるのだろうと感じます。この舞台にはなんとなく西洋の匂いがするのです。

「死んだ子供を思う母親の気持ちは洋の東西変わらない普遍的な感情だ」というようなことを言いたいのではありません。吉之助の言いたいのは、そういう主題を描いた作品は他にもあるだろうに・なぜ舞踊「隅田川」だけが言葉も分からない外国人にもスンナリ心に入るのかということです。それはこの舞踊作品の成立過程と無関係ではないような気がしています。大正8年、二代目猿之助はヨーロッパでロシアン・バレエなどを見て帰国し、その帰朝第1回振付作品がこの「隅田川」でした。このことを猿之助はこう書いています。

『このロシアン・バレエの感激を顧みた時、僕は「日本舞踊は舞台の機構もあるので如何にも奥行きがなく立体的でない。要するに日本舞踊は横の踊りで縦ではない」と感じた。この感じが帰朝後の僕の創作舞踊の基本になっており、翻訳的に、あるいは翻案的に、そして創作的にと、いろいろの型でロシアン・バレエの要素が摂取されているわけだ。帰朝後の第1作は「隅田川」を、梅若丸の幻想を追うところ、念仏の群集を使用して縦に横に立体的構成を意図した。こうした立体的構成を日本舞踊に適用したのはこれが恐らく最初である。』(二代目市川猿之助:「換骨奪胎」・伝統芸術の会会報・第41号・昭和32年9月)

これを読みますと、猿之助初演の「隅田川」の舞台というのは吉之助が知っている歌右衛門の「隅田川」(藤間勘祖の振り付けによる)とはかなり趣が異なっていたようです。猿之助の文章に出てくる念仏の群集は歌右衛門の舞台にはありません。また猿之助初演の時は梅若の亡霊を出すやり方でありました。あの舞台はやはり歌右衛門風に徹底して洗い上げられたものなのでありましょう。

しかし、猿之助の初演の舞台とは振り付け・演出が違っていたとしても、共通して引き継がれたセンスが恐らくどこかにあるのだろうと思っています。それは大正という時代が持つ浪漫の香りであり・人間の心理を自然に描き出そうという演劇理念であり(これは二代目左団次の新歌舞伎にも共通したものでありますが)、歌舞伎とか日本舞踊とかの枠をも越えて普遍的な舞台芸術作品を生み出そうとした「芸術家」の精神であろうと思います。

(H15・7・6)



 

 

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