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試論:「間」について考える


1)間は魔に通ず

本サイト「歌舞伎素人講釈」で「師匠」と呼んでいる武智鉄二氏が「生涯で出会った凄い間の思い出」として、一中節の都一梅(昭和25年没)が「心中天網島」の大長寺の段を聴いた時のことを挙げています。この「大長寺」の一節の「若紫の、色も香も、無常の風にちりめんの、あの世この世の二重まわり」という聞かせ所の部分で、都一梅は哀調ある歌声を切々と聞かせていたのですが、「無常の風に」と歌い終わったところで歌うのを止めてしまった。どうしたのか、と思うか・思わぬかに一梅は「ちりィめんの」と歌い継ぎました。「ものすごい空虚がそこにあった、何という空間の間がそこにあったことか」と武智氏は回想しています。

『大きな、真っ黒な、暗黒星雲のような間がそこにはあった。それは地獄を吹く風が、吹き下ろす空間でもあった。あてどのない小春治兵衛の精神の虚無の描写がそこにあった。』

「間は魔に通ず」ということがよく言われます。六代目菊五郎は彼の師である九代目団十郎の言葉をその著書「芸」のなかで書いています。九代目団十郎はこう言ったそうです。

『踊りの間というものに二種ある。教えられる間と、教えられない間だ。とりわけ大切なのは教えられない間だけれど、これは天性持って生まれてくるものだ。教えて出来る間は「間(あいだ)」という字を書く。教えても出来ない間は「魔」の字を書く。私は教えて出来る方の間を教えるから、それから先の教えようのない魔の方は、自分の力で探り当てることが肝腎だ。』

武智氏は、六代目菊五郎の「保名」の踊りをみて、乱れた髪がハラリと額ぎわに落ちかかる、そこに何とも言えない風情がある、菊五郎の「保名」では髪がいつもいい間で落ちる、それは誰にも真似できないと言っています。他の役者もそれを真似しようとしているけれど、「みな、落ちかかる思い入れをしているだけか、無理に落ちかかろうと首を振るだけだ」というのです。

本稿では日本の伝統芸能でよく出てくる「間(ま)」の秘密について考えたいと思います。間というのは分析が難しいもので、「なぜ・どうしてそうなる」ということが説明できません。間は突然に予期せぬ時に出現するもので、狙って「凄い間」を起こせるものでもありません。また同じ間であっても受け手によって感じ方が異なるものです。同じ間を不快だと感じる人もいるのです。失敗して「間をはずした」時の結果というのは実にみっともないものです。「凄い間」というのは体操競技のウルトラCのようなもので、成功すれば拍手喝采ですが、失敗すればマットに身体を叩きつけられるようなみじめなものなのです。それでも、あの時の感動が忘れられなくて、危険を承知でまた挑戦してみたくなるというのが「間」の魔力なのでありましょうか。


2)太夫と三味線の関係

「間」についての考察は、いろいろなひとが論じてその秘密に迫れないほどのものですから、本稿でとても結論が出るものではありません。本サイトは「素人がマジメに考える」ことを旨としておりますので、専門的な考察は抜きにして気楽に考えたいと思います。本稿はあくまで試論でありますので、これを機会にみなさんが日本の伝統芸能の「間」について考えるきっかけになればとの意図であります。

日本の芸能において「間」という言葉が使われるようになったのはそう昔のことではないようです。能は音楽の要素が強い芸能ですが、世阿弥の花伝書などには「間」という言葉は出てきません。しかし、これは世阿弥の時代の能に「間」の要素が存在しなかったということではなくて、拍子を「間」という概念で捉えることが中世にはなかったということであるようです。

芸の世界に「間」という言葉が登場するのは近世(江戸時代)に入ってからのことのようです。古い時代の資料としては、例えば宝暦7年(1757)に刊行された「浄瑠璃秘曲抄」があります。ここでは

『間拍子という事、間(ま)は人の歩く如し。右の足壱尺運べば、左の足壱尺、少しも長短なし。(中略)拍子は足につれ手を振る如く、右の足進む時は左の手進み、左の足進む時は右の手進む。これ陰陽の道理なり』

と述べられています。ここで述べられてる「間拍子」というのは、近代的な音楽的な「間」であって、いわば西洋音楽でいうメトロノーム的なリズムに近いものでしょう。九代目団十郎が「教えられる間」と言っているものと同じだと思います。こうした「間」の概念は、いつのころからか外来楽器である三味線(武智氏は三味線がザビエルとともに渡来したスペインのフラメンコの三弦ギターの影響で生まれたものと推測しています)が日本音楽に導入されて、西洋音楽的な要素がそのなかに取り入れられて以降にできたものと思われます。

また、これより少し前ですが、寛延年間(1748−51)の成立と思われる原武太夫の「断弦余論」のなかで、武太夫は当世の三味線弾きを批判し、「三味線弾きがよく覚えて弾くことは悪いことではないが、しかしそのために、太夫の語りの息の伸び・縮みを無視して、自分の間拍子で弾くことは良くないことだ」と言っており、ここでも「間拍子」という言葉が出てきます。

ここで武太夫は重要なことを言っています。浄瑠璃の太夫と三味線との微妙な関係のことです。西洋音楽的な「間」(間拍子)を持つ三味線の音楽と、日本古来の「語り」の伝統をもつ浄瑠璃の太夫の音楽とは本来相容れぬもので、この両者がある時は歩み寄り・ある時は意識的に反発しながら、「音曲」を作っていくのが太夫と三味線の関係だということが先の発言から見て取れることです。

このことは音階の面から見ると、太夫の側は三味線のツボにはまらないようにウキ(倍音)の音を意識的にはずす、という手法によって現れ、また三味線の側から言いますと、ニジリや音遣いという技術で太夫の語りの息にどう付いていくかという形で現れるものです。つまり、西洋音楽のオクターブ音階にはまらない音程(西洋音楽の音階にはまらず無調に聞こえる場合がある)を持つ邦楽では、三味線が誘導する音階に意識的にはまらない努力をする必要があるということです。また三味線はツボにはまらない音程に技術で擦り合わせていくということでもあります。(吉之助は邦楽の専門家でないのであまり突っ込むとボロが出そうなので、「知ったかぶり」はここまで。)

同じようなことが間拍子(リズム)についても言えます。三味線の作る間に乗ることを「糸に乗る」といいますが、浄瑠璃の太夫は安易に「糸に乗る」ことはしません。「糸に乗る」と派手で楽なのですが、「唄い」になってしまって「語り」ではなくなってしまいます。修飾に走ってしまって写実ではなくなると言い換えても 良いかと思います。このことが本来が「語り物」から発しながら「音曲」でもある浄瑠璃の抱えている背反した宿命なのです。したがって、三味線の作るリズムから意識的に離れようとする・太夫の語りはそういう要素を本質的に負っているということなのだろうと思います。逆に三味線の側から見ると、時に太夫を引っ張り・時には離れようとする太夫に擦り寄っていく必要がある 。武太夫はこのことを言っています。

以上のことから吉之助の試論の結論から言ってしまうと、「間」というのは次のようなものではないかとイメージします。日本古来の音楽も西洋音楽的な「間拍子(リズム)」を基調として持っているのですが、この「間拍子」ですべてを仕切ろうとするとどうしてもはまらないものが生じる 。その時に日本本来の音楽が自己主張のように生来の「間」を主張しようとすることで「裂け目」のように突如として生じるのが「魔」とも言われる「間」なのであろうということです。これは言い換えますと、修飾に傾きがちな音曲の基調のリズムを破綻させることで写実に引き戻そうとする芸術意欲の現れであるとも理解できると思います。

「間」というものの機能を言うならこれで十分だろうと思います。しかし、これだけだと三味線の作る音程をはずす・三味線の作るリズムをはずすことが表現として「是」であるように聞こえてしまいます。実は芸能はそんなに生易しいものではありません。同時に逆のベクトルの表現意欲が存在するのです。ある一定のフォルム(形式・様式)にはまらなければ、それは芸能にはならないからです。

日本音楽のなかには、「間拍子」を基調とし・その枠のなかに表現を納めようとする表現意欲と、「間拍子」を拒否して・そこから逸脱しようとする表現意欲と、相反する二つの力が互いに引き合うような形で存在するのだろうということです。普通は微妙な揺れを持ちながらも二つの力はバランスを保っています。しかし、そのバランスが突如として大きく崩れることがあります。しかもそれが結果としては見事に枠のなかに納まってしまうようなことがあります。これを我々は「凄い間だ」と言うのだろうと思うのです。いわば体操選手が我々の予想を越えて大きく身体を振り出す時、見ている観客は「オオッ」と叫び・選手の身体がマットに叩きつけられそうな戦慄を感じるのですが、選手はバランスを立て直してマットに見事に着地しているというようなものが「凄い間」なのでしょう。

「間は魔に通ず」とは意味深な言葉です。「凄い間」と「みっともない間」というのは実は紙一重なのでして、それが結果論として枠のなかにピッタリと納めてみせれば、それは「凄い間だ」となるのです。しかし、それを現出せしめるのには技術だけではどうにもならず、やはり天性持って生まれたセンスが必要なのでありましょうか。


3)「きまる」ということ

日本舞踊では三味線のチントンシャンで「きまる」場面がよく出てきます。「きまる」と安心すると言いますか・一段落着くと言いますか、日本舞踊はきまることを目的に踊られているようにも見えます。歌舞伎の見得もそうです。きまることで場面は引き締まり、劇的効果は高まります。歌舞伎でもきまることがその本質のひとつと考えることができるでしょう。

しかし、「きまる」という間は先行芸能である能や狂言には存在しないものだそうです。お稽古で何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、「何ですか、それは。いやでございますね」と師匠から叱られるのだそうです。「きまる」というのは、日本古来の伝統芸能では「いやなこと」なのです。「きまる」のは「いやなこと」だという認識は結構大事なこと だと思います。これは音楽的に言えば、本来の日本音楽には存在しない間・三味線の作る西洋音楽的な間(定間)にはまるということなのです。能・狂言のような先行芸能から見れば、それが「はしたない・いやな」ことに見えたというのは理解できる気がします。

在来の芸能が「いやなこと」と非難する「きまる」という行為を逆に売り物にしようという芸能(歌舞伎)が江戸期において生まれたということは非常に面白いことだと思います。江戸初期においては、それは一種の異なる異風芸としてもてはやされ、歌舞伎役者は意識的に「いやなこと」を行って観客を挑発したのであるのかも知れません。当時の「識者」たちはそれを見て顔をしかめたのではないでしょうか。

逆に言えば、そうした定間にはまることを「いやなこと」と感じる感性が日本人の生来の感性として身体のなかに深く刻みつけられており、それが反音楽的理念としての「間」の概念を生んでいくという課程であろうかと推察します。こう考えれば、世阿弥の時代に「間」の概念が存在しなかった理由もあきらかであろうと思います。

余談ですが、最近の歌舞伎の舞台では「きまることがいやなことだ」という意識が役者に余りないのではないかと思います。そういう意識があれば、「きまる」ことを大事にして、「きまる」箇所は全体のなかでホントに効果的な所だけに最小限に限られるはずなのです。昔の芝居の話を聞くと、昔は今ほどにツケや見得を多用していなかったように思われます。

歌舞伎でも、六代目菊五郎などは見得をする時にたっぷりとやらず、しばしば間合いをはずすようにサッサと済ませたものでした。「きまる」というのは分かりやすい定間にはまるということなので、観客の受けを狙うということにある意味では等しいからです。菊五郎の場合は「俺の間が分かるかい」というところがあったのは確かでしょうけれど、菊五郎はきまることの「いやらしさ」を知っていた役者であっただろうと思います。舞台のこうした変化は、名人を輩出することがなくなった土壌と、実はパラレルな現象である、と感じられてなりません。そしてこれは後述するように、観客にも責任があることなのです。


4)「間」の感覚と身体

それでは「間」は日本芸能だけのものなのだろうかということも考えてみなければなりません。結論から申せば、西洋音楽にも「間」は存在すると思います。ただし「間」という概念を芸能の理念として高めた形で掲げているのは日本芸能だけのことかも知れません。「間」のことを考えるには、基調になるテンポ(日本音楽でいえば、間拍子)のことを考えなければなりません。六代目菊五郎の著書「芸」に九代目団十郎の言葉として、次のようなことが記されています。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』

団十郎の言葉のなかにも基調となる定間(間拍子)への意識があることが分かります。これがあるから変化の面白さが出るのです。間拍子を考える場合は西洋音楽を例にとる方が分かりやすいので、ここではしばらく歌舞伎から離れてクラシック音楽を題材に考えてみたいと思います。

ドイツにフルトヴェングラー(1886-1954)という名指揮者がいました。フルトヴェングラーはテンポを一定に保つ(イン・テンポで振る)ことをせず、しばしば即興的にテンポを速めたり遅めたりすることを行ないました。ある意味ではフルトヴェングラーは「間」を駆使した指揮者と言うべきでしょうか。フルトヴェングラーは今でも日本ではとりわけ人気の高い指揮者ですが、それは間の概念を持つ日本の音楽ファンがフルトヴェングラーの音楽に「芸道」の世界を見るせいなのかも知れません。

対極の名指揮者もいます。イタリアの指揮者トスカニーニ(1867-1957)は、万感の想いをひとつの規律のなかに封じ込めることを旨とし、イン・テンポを基調とした整然とした音楽を作り出しました。どちらの指揮者も目指すところは同じ(作曲者の意図を体現すること)なのでしたが、湧き出した音楽の様相は異なっています。トスカニーニはベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第二楽章の葬送行進曲を「私にとっては単なるアレグロ・コン・ブリオである」と言いました。トスカニーニのこの発言はしばしば誤解されますが、彼はそれくらい自分の先入観を排除して作品の本質に客観的に迫りたいと願ったのです。これに対してフルトヴェングラーは「自分は楽譜の裏から作曲家の意図を読むのだ」と言いました。それが微妙なテンポの揺れにつながるのでしょう。

しかし、音楽のなかでテンポを速める・遅くする・あるいは休止や全奏を引き伸ばすといった技巧が「間」の効果を上げることができるのは、基調のテンポが存在するからに他なりません。基調のテンポが存在するからこそ、それが破綻することの驚き・あるいは美が生じるわけです。逆に言えば、基調のテンポが異なれば、効果を上げる「間」の取りかたも・感じ方もおのずと異なってくるということだと思います。音楽の基調となるテンポというのは心臓の鼓動と密接な関連をしています。オーストリアの名指揮者カラヤン(1908-1989)は、インタビューで次のように語っています。

「指揮者が違うと脈搏も違うし、テンポもその脈搏と非常に正確な比率になるんです。私は自分の心拍数を知っています。体のあらゆる部分でそれを感じるのです。もし曲の一部でも、始めに脈搏が合うと、肉体的な快感を覚えます。そんな風にして、私は体全体で音楽を創造していくのです。1977年にべートーヴェンの交響曲全集を(ベルリンで)作った時、録音が終って(別荘がある)サン・モリッツにテープを何本か持っていき、よくよく聴きこんでがっかりしました。ああ、なんということだ、全然なってないじゃないか、とね。そしてはっと実感したのです。サン・モリッツは高地です、鼓動も早くなるんです。そのためになってない、と感じたのですね。」(リチャード・オズボーンのインタビュー)

リチャード・オズボーン著:カラヤンの遺言 (On music)

ここでカラヤンは、「低地(ベルリン)で録音した演奏が高地(サン・モリッツ)で聴くとテンポが違って聞こえた、それは気圧の関係で心臓の鼓動が違っていたからだ」と語っています。もちろん、素人の耳には感知できないような微妙な感覚の差異でありましょう。カラヤンは指揮者のなかでも特にテンポ感覚の鋭い人でした。このことから、その人が固有に持っている心拍数がテンポ感覚に影響することは理解できると思います。

一方で曲を演奏していると、音楽が呼吸や心臓に影響を与えることも知られています。同じくカラヤンが、実際に指揮をしながら心電図をとった経験をこう語っています。

「私の心拍数はゆっくりしている方で、67から68くらいですが、曲の最高潮部前にある静かなパッセージになると170まで上昇することが分かりました。断続的な休止のあるスローな曲は、心と体、両方の組織に強烈なストレスを与えます。そしてこのストレスは、時には生命に関わるダメージさえ引き起こしかねないのです。」(同上のインタビュー)

音が大きくて早いパッセージの時は指揮の身振りも自然と大きくなるものですが、実際には静かで遅いパッセージの時の方が指揮者へのストレスは大きいのです。実際にワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」第三幕の全く同じ箇所で、ウィーンでのフェリックス・モットル/ミュンヘンでのヨゼフ・カイルベルトと、二人の名指揮者が指揮中に心臓発作を起こして死んでいます。カラヤンはこうした部分を乗り切るには「呼吸をうんと自由にするのです」と語っています。

実は演奏者ほどではないにしても、これは聴く者にとっても同じなのです。音楽を意識を集中して聴き入り、音楽に没入していく時、聴く者は演奏者に知らず知らずのうちに、呼吸や心拍数を合わせていきます。音楽が聴き手に影響を与えているのです。吉之助鉛筆指揮の経験でも、マーラーの交響曲第9番の第4楽章終わり部分(消え入るような弦のピアニシモが非常に長く続く)でひっくり返りそうになったことがあります。こういう部分ではカラヤンの言うように、息を詰めて音楽に聞き入るのではなく、呼吸を楽にもたないといけません。逆に、指揮者がとるテンポが自分にはどうしても合わない(早すぎる・あるいは遅すぎる)と感じる時もあります。こういう時は根本的に呼吸が合わないとか、気分的に集中ができないとか、いろいろな生理的要因が関連するのでしょう。

以上のことからだけでも、テンポ感覚は天性持って生まれたものだということはある程度理解されると思います。と同時に、優れた演者の場合はその場に言わせた聴衆(観客)も知らず知らずのうちに呼吸を演者と同じに合わせているということも理解されるでしょう。

このような場が存在する時に、突如として予想外にテンポの破綻が生じた時に、基調となるテンポにゆったりと身を任せて呼吸していた聴き手の感覚は混乱します。この基調の破綻が刺激や興奮を生みます。(もちろん反対に不快感を引き起こすこともあります。)「間」の劇的効果はこのようにして生じるのです。つまり「間」の魔術というものは演者と観客の共有の場において起こるものです。


5)「間」を決める・「間」を感じる

本サイト名の由来にもなりました杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」からのエピソードです。「菅原伝授手習鑑」の「佐太村」で、白太夫が桜丸の腹切刀を三宝に載せて奥から登場する場面、「夫婦は門へ、白太夫は唾を呑み込んで(チーン)奥へ行く」の箇所を鶴沢仲助の三味線で稽古していた時のことです。「唾を呑みこんで」でチーンと弾いた仲助の三味線のなんとも言えない間の良さと・情のある音の色合いに、其日庵は思わず白太夫になってスンナリと「奥へ行く」が言えたといいます。この感激を仲助に伝えると、仲助は涙を流して、

『私はそんなに褒められる今のチーンをもう忘れてしまいました。ただアンタが「白太夫が唾を呑み込んで」と言やはる時、白太夫が今度出て来る時には、桜丸が腹を切る刀を三宝に載せて出て来なければならぬのじゃから、アンナ腹で、アンナ足で、アンナ心持で語らはるのじゃナアと、こう思いましただけで・・』

と言いました。

其日庵はこのエピソードを挙げて、『芸術は人に聞かすもの、人に見せるものと思うのは間違いである。自分が人も我を忘れて、その境涯になって演じるので、それを無心の第三者が外から見て面白いとか、面白くないとか感じるのである。』と言っています。「凄い間」というものは、それをモノにしてやろうとして現出できるものではなく、まったく無心の境地において意図しない時にフッと出現するものらしいのです。「間」というものは、テンポを加速する・減速するという技術も広義には含まれますが、一般的に「間」と言ってイメージされるものは、上記のエピソードのように、フッと動きを止めて「チーン」というものでしょう。

このエピソードで思うことは、「凄い間」が現出するのには「間」だけでは十分ではなくて、さらに「着地」を見事に決めねばならぬということです。このエピソードの場合ならば「チーン」の音の色合い・音の震えが白太夫のうるんだ涙を表現できていなければ、本当の意味での「間」は完成しません。しかし、もちろん「チーン」の前に定間を破った虚空の闇がカンバスとして存在しなければ、「間」は成立しないことは言うまでもありません。そこに「間」の本質があるのです。ドイツの名指揮者クレンペラー(1885-1973)は、

「指揮棒は下ろす時より、上げる時の方が大事です」

と語っています。(ピーター・ヘイワ-スのインタビューより) この指摘には非常に重要なヒントがあると思います。指揮棒を上げる時には、指揮者は息を吸っています。息を吐きながら指揮棒を上げることは絶対にありません。そして指揮棒を振り上げた頂点において指揮者は必ず息を詰めています。この状態で指揮棒を止めますと、「間」というのは大抵の場合は「定間」より長いものですから、集中して指揮棒に見入っていると「定間」で取っていた呼吸のリズムはそこで行き所を失います。一瞬ですがリズムを失った状態(息を詰めた状態)が続きます。生理学的に見れば、この息を詰めた・横隔膜が下がった一瞬の状態が「間の魔法」を引き起こすのです。

すなわち、「間」は踏み出した瞬間が勝負なのです。体操の大技で言えば、まさに踏み切りが勝負ということです。そして大きく振り出した身体をひねって(もちろんこの時は息を詰めた状態が続きます)、見事に着地を決めます(この時初めて息は吐き出されます)。着地が見事に決まった時、息はスッキリと吐き出され、身体は快感を感じます。これが「凄い間」の快感です。しかし、もし身体のバランスがちょっとでも崩れて着地が決まらなかったとすれば、息の吐き出しは中途半端になって身体に不満が残ります。この時は「間をはずした」不快な感覚が残ります。

これは観客にとっても同じです。演技に集中している観客は知らず知らずのうちに選手に合わせて呼吸をしており、大技の瞬間にはアッと息を詰めます。そして見事に着地の決まった瞬間には「ヤッター」と息を吐くのです。それが「凄い間」を感じ取った快感です。逆に出だしの「間」を定間より詰める場合もあるかも知れません。この場合ですと、定間で取っていた呼吸は完全に吐き出されないままに「詰まる」状態に置かれますから、背中を後ろから急に叩かれたような感覚に陥ります。これにより、観客をせきたてるような・切迫した感覚に陥れる効果が出ます。

このことから分かるように、「間」というものは演者と観客との共通の場において起こる魔術なのです。当然ながら、同じ場に居合わせてもその間を「素晴らしい」と感じる人も・「不快だ」と感じる人も存在します。「凄い間」を感じることは誰にでもできることではありません。

綱太夫が武智氏に思い出話に語ったところによれば、戦時中の話ですが、文楽の舞台稽古の時に若い人形遣いが名人豊沢仙糸(名人豊沢団平の最後の弟子であった)の三味線に対して「そんな間で人形が遣えるかい」とカスをかませたことがあったそうです。「文楽ももう終わりですわ」と綱太夫は嘆息したそうです。本物の「間」を感じ取ることは選ばれた観客だけに許されることなのです。名人の「間」が分かるということは、「名人と一緒に呼吸できる」ということなのですから。

現代は「名人の不在の時代」であると言われることがあります。そんなことは決してないでしょうが、しかし、素晴らしい「凄い間」を感じることは確かに少なくなっているようです。「名人の不在」が問われている現在、同時に問われているのは「違いの分かる観客の不在」ということなのではないでしょうか。

(H14・1・6)

(参考文献)

武智鉄二:「間」(昭和54年・定本「武智歌舞伎」第5巻)




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