吉之助の雑談9(平成18年1月ー6月)
先月(5月)末から始まった・海老蔵・亀治郎を中心とする訪欧歌舞伎公演(無形文化遺産指定後初の海外公演)も好評のうちに終了して、先日・一行は無事帰国されたようであります。まずはお疲れ様と申し上げます。しかし、舞台の成果はともかくとしまして・今後歌舞伎の海外公演を企画されるならば・演目の選定はもうちょっと考えた方がよろしいと思いますね。もちろん役者の顔ぶれとか・前提になるコスト条件であるとかいろいろ制約はあるでしょう。しかし、「藤娘」と「かさね」という組み合わせは海外公演のプログラムとして安直と言わざる を得ないと思います。(繰り返しますが・これは舞台の出来とは関係ない話です。)海老蔵・亀治郎の顔合わせならば・例えば4月に金丸座で演じた「五・六段目」でも持って行った方が外国人の歌舞伎理解の為にはるかに良ろしかったでしょう。
今回の海外公演もマスコミ報道では概ね「好評」と伝えられているようですが、一部では「とまどったようなおざなりの拍手」という話もチラホラ聞こえてきます。「藤娘」なら「あの踊りは何が言いたかったの」というのが外国人の正直な反応でしょう。「藤娘」よりは 変化がある「かさね」の方が反応が良かったらしいというのも当然ですが、それでも「かさね」一幕だけでその背後のドラマが理解されたとは到底思えません。(これは今時の若い日本人が初めて歌舞伎を見た反応と何ら変りません。)海外公演で一番受けないのは「娘道成寺」だということも昔から言われていますが、これも同じ理由です。「理屈抜きの・見た目の面白さ」なんてのは共通の暗喩を持たないなかでは意味がないのです。ならば堂々とドラマ性と理屈で勝負した方がよろしいのです。
外国人はどうせ日本語が分らないから・舞台の絵面でキレイなもの見せておけばそれで浮世絵みたいでワンダフル!で十分だろうというなら、まったく外国人を小馬鹿にした話です。 吉之助が何回か外国人を歌舞伎座に連れて行った経験でも彼らは英語イヤホンガイドなしで雰囲気をちゃんと察知しますし、吉之助が欧米現地で筋をまったく知らない現地語の芝居を見た経験でもやはりそうです。むしろロンドンやアムステルダムで歌舞伎を見てみようとなどと思う方は演劇に詳しく・目の肥えた方が多いものです。例え言葉が分からなくても・ドラマ性のある演目を持って行って勝負を掛けるのが本筋だと思います。二年前のロンドン公演で藤十郎(当時は鴈治郎)が「曽根崎心中」を持って行って大好評でしたし、ニューヨークでの勘三郎(当時は勘九郎)の「夏祭」でもそうでした。そういう先例があるのに今時何を以って「藤娘」と「かさね」なのかと訝(いぶか)ります。
ユネスコの無形文化遺産として歌舞伎がその意義を世界に主張しようと言うのならば・もうちょっとそこのところを考えた方がよろしいのです。ブルーノ・タウトが次のように書いています。この言葉をかみ締めてみたいですね。
『日本のごとく高い文化民族の精神状態にあって、自己の歴史に対する平衡を獲得するために最も重要なことは、その平衡のなかに他の文化民族とその運命をともにするということを真に自覚することにあると私は思うのである。(中略)東方と西方が一体 となるという感情が強くなればなるほど、異国の事象を本質的に見極めようとするエネルギーもまた強くなるはずである。』(ブルーノ・タウト:「日本文化私観」)
(H18・6・23)
「傾城反魂香・土佐将監閑居の段」(通称「吃又」・宝永5年 (1708)初演)において、浮世又平は師土佐将監(しょうげん)光信にその実力をなかなか認められず・絶望のなかで手水鉢に描いた自画像が裏に抜けた奇跡を認められて ・ついに土佐の苗字を許されます。
「異国の王羲之(おうぎし)趙子ごう(ちょうすごう)が石に入り木に入るも和画において例なし。師に優ったる画工ぞや。浮世又平を引きかへ、土佐の又平光起(みつおき)と名乗るべし。」
ところで浮世又平なる絵師は実はまったく架空の人物で・モデルはないのですが、美術史を紐解きますと土佐光起という同名の実在の絵師(元和3年(1617)生まれ〜元禄4年(1691)に75歳で没)の名前が出て来ます。光起は土佐派中興の祖とも言われる 絵師で・京都で活躍しました。代表作には「北野天神縁起絵巻」「三十六歌仙図屏風」などがあります。しかし、実在の土佐光起は「吃又」とは全然関係がなく、ご本人に発声障害があったという話もなさそうです。一方、土佐将監光信は生没年不詳で ・やはり実在の人物ですが・室町中期から戦国時代にかけての絵師ですから、光信と光起の間に師弟関係もないのです。
歌舞伎では歴史上の人物が登場しても・その挿話がまったくのデタラメということは頻繁にあることです。だから「吃又」 をそのまま実説とはもちろん思いませんが、土佐光起はちょっと前まで京都で生きていた有名な絵師であることから・土佐光起の立身出世譚の体裁を採ったのかと吉之助も その昔は漠然とそう思い込んでいたことがありましたが、そういうことではなかったわけです。しかし、近松が土佐光起の名前を借りたのは明らかに確信犯であったでしょう。
ところで、江戸時代の民衆に「吃又」と結び付けられて考えられていたのは・江戸時代初期の岩佐又兵衛なる絵師(天正六年(1578)〜慶安3年(1650))でした。又兵衛は戦国の武将荒木村重の末子です。荒木村重の一族は織田信長によって処刑されますが、又兵衛は幼児であったので処刑を免れ・後に成人して絵師となりました。又兵衛は土佐派や狩野派など諸流を学んで独自の大和絵新派を創始しました。 越前北之庄(今の福井市)に住んでいた頃には、お抱えの絵師にならず自由に絵を描いていたそうです。絵巻や風俗画を多く描きましたが、画には落款を残しませんでした。次第に絵師としての名声が高まり、晩年には将軍家光の要請で川越の東照宮のために絵を描くことになって・江戸に移り・そこで生涯を閉じました。現在では又兵衛の名はほとんど忘れられていますが、江戸時代には又兵衛は浮世絵の始祖とされた伝説的な絵師でした。太田蜀山人が著した「浮世絵類考」には又兵衛について「按するに是世にいはゆる浮世絵のはしめなるべし」と書かれています。(注:江戸時代には浮世絵の始祖とされた又兵衛の名が忘れ去られた経緯は砂川幸雄著 :「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」(草思社・1995年)に詳しく記されています。)
岩佐又兵衛が「浮世又兵衛」とも呼ばれたのは、これは民衆が又兵衛を「吃又」との関連で考えたからです。大津絵を描いていた絵師「吃又」の素朴な人物像に、民衆の生んだ「浮世絵」の始祖としての又兵衛の盛名が重ねられていったのです。さらにこのことからもともと大津周辺の土俗絵である大津絵を浮世絵と同一視するような見方とか、あるいは大津絵 も浮世絵の一分野だとするような俗説も出て来きます。あるいは大津絵の側でも「吃又」を自らの権威付けに利用していきます。さすがに「吃又」は人気狂言だけに・美術史への影響力も大きかったようです 。
(後記:別稿「岩佐又兵衛と吃又」もご覧下さい。)
(H18・6・13)
人形振りについては以前「雑談」での記事「櫓のお七の人形振り」で触れたことがあります。人形振りとは情念に突き動かされている(自分であって自分ではない)状態を表現するもので、非常にバロック的な手法なのです。
ところで「本朝廿四孝・狐火」の八重垣姫には上方では昔から人形振りの型が伝わっています。昨年(平成17年)12月京都南座での藤十郎襲名はその人形振りの舞台でありました。その八重垣姫ですが奥庭へ登場する時は人形振りなのですが、諏訪明神の白狐が憑いてからの後半は人間に戻るのです。このビデオを見ておりますと ちょっと「変だなあ」と疑問に思うところがあるのです。白狐が憑く後半こそ・八重垣姫が人間でなくなるわけですから・人形振りにする意味がある場面だと思います。特に幕切れの花道引っ込みは是非人形振りにしてもらいたいという気がします。それでこそ八重垣姫の情念が観客に印象付けられるのになあと思 うのです。
葵大夫HPによれば歌舞伎の「約束事」としては、人形振りは幕切れまで続くことはなく、中途で「人間になる」とか「人形を解く」 と言って・通常の演出に戻るものだそうです。(「今月のお役・2006年5月」より)なるほど途中で人間身に返るというのは・一種の「やつし」の申し訳みたいなものと考えれば理解できます。別稿「和事芸の起源」をご参照ください。和事芸ではシリアスな面と滑稽な面が背中合わせに出てくるのですが、「人形を解く」というのも・これと同じ発想であると考えられます。
しかし、幕切れの印象はやはり大事なことですから・中途で人間に返ったとしても・また幕切れに人形振りになるというのでもよろしいのではないかと思います。平成12年12月歌舞伎座での「妹背山道行」は玉三郎がお三輪を人形振りで 最初から幕切れまで一貫して通した珍しい例でしたが、花道での演技の印象は実に強烈なものでした。玉三郎は人形振りによってお三輪の引き裂かれた状態を見事に表現しました。
この玉三郎のお三輪の舞台を思い起こすと、逆に「狐火」後半を人間に返してしまって幕にしてしまう上方演出は突き詰めが足りないと言うか・疑問を感じざるを得ないのです。 どうもこの上方演出の「狐火」の舞台を見ると、役者が文楽人形の真似をする趣向の面白さ程度しか人形振りを 生かせていないようです。人形振りは上方においても昔から邪道なケレン手法として蔑まれていたそうですが、これは人形振りを理念的に十分に昇華できていないところから来ているように思われます。人形振りの暗喩としての意味をもう少し考えてみたいものです。他の作品においても人形振りの演出はまだまだ改良の余地があるかも知れません。
(H18・6・9)
ミシュレの「フランス革命史」を翻訳した桑原武夫氏が司馬遼太郎との対談において「ミシュレは歴史におけるエピソードの拾い上げがうまい・挿話がただの挿話で終わらない」として、次のようなことを語っています。
『ドイツの詩人ハイネがパリへ亡命してきて、ミシュレの講義を聞いているのですよ。僕みたいに若い時ハイネに憧れた者にとって、ハイネがミシュレの講義を熱心に聞いていたということは、率直に言って大変に嬉しいですね。そんなことは重要でないという人とは、極端に言えば、話はしたくないという感じがします。あの情熱的で・敏感・繊細な感覚を持った詩人は、ミシュレの講義を聞き、「ミシュレ先生は学生の間で象徴先生と言われている」と伝えている。これが僕には大変面白かった。ミシュレは歴史の間からピュッピュッと象徴を選ぶのですね。例えばマラーを殺した少女シャルロット・コルデ。この娘がほとんど白ずくめの着物を着ていたということ。その白のトーンにこの可憐な娘の純真な・清潔な愛国心の感じが出ているのです。純真とか可憐ということはひとことも書いてないですよ。しかし、こちらが多少文学的に読み取れば、白ずくめが効いてくるんです。』(桑原武夫:司馬遼太郎との対談・「革命史の最高傑作」・「司馬遼太郎・歴史歓談」に収録)
桑原氏はさらにロベスピエールが最後に裏切られ・見捨てられて・ピストルで撃たれて・テーブルの上に寝かされている場面でのミシュレの描写を例として挙げています。ロベスピエールは樅(もみ)の木の箱を枕にしていると書かれています。樅の木の箱は激戦地の北部戦線の兵士に食べさせるパンを入れる箱です。その箱を枕にして横たわるロベスピエールの姿に、戦争や革命の悲惨・没落や死などいろいろな象徴が重なって読み手に迫ってきます。あるいは意識を取り戻したロベスピエールが起き上がって椅子に座って・そして靴下を掻き揚げようとする場面。そこで手を貸してくれる人にロベスピエールは「ありがとう・・・ムッシュ」と言 います。ムッシュという言葉を使ってはならないと人民議会で決めた本人がそれを使うのです。本当は「ありがとう、シトワイアン」と言わねばならない。そこにロベスピエールの時代は終わり・反動の時代が来たということをミシュレは象徴的に描いている わけです。それと同時にこの挿話は冷徹なイメージのロベスピエールの人間性をも描いており、なんだかロベスピエールに同情さえ感じさせてしまいます。
これは言い換えますと暗喩ということです。ミシュレが仕掛けた謎ということではありません。歴史がそのような暗喩を用意してくれるということですね。歴史からミニュレが暗喩を拾い上げているのです。暗喩の解読・解釈を行うところに、歴史を読む楽しみがあります。演劇を見る楽しみもまたそういうものかと思っています。
(H18・5・28)
先日テレビを何気なく見ていたら・モーツアルト生誕250年の企画のひとつなのでしょう・モーツアルトのピアノ協奏曲をジャズ・ピアニスト(名前は忘れた)が弾くというのをやっていました。カデンツ ァを自作のジャズ風でやるなんてのは・ご趣向ですから自由におやりになれば良いことです。第3楽章などは随分早いテンポで弾き飛ばしていましたが、閉口したのはそのピアノの響きが汚いことでした。こういうのはちょっと気になります。
モーツアルトは何よりもその響きが綺麗でなくてはなりません。ピアノのタッチの一音一音の粒が揃っていて・その響きが澄んでいなければなりません。そのためには音符の指定する長さ分だけ一定の音量でしっかりと音を保つテクニックが必要なのです。つまり、しっかりとリズムを打ち込む感覚が必要です。そうして珠をコロコロと転がすように響きの色彩を煌めかせるのがモーツアルトのフォルム なのです。いくら元気が良くても・汚い響きではモーツアルトの音楽の「癒しの波形」は現われません。
これはこのピアニストがジャズ出身だから貶めているのではありません。クラシックのピアニストでもベートーヴェンは良いけれど・モーツアルトはいまいちという人は少なくないです。モーツアルトはなかなか難しいのですよ。 巧くかっこよく弾いてやろうなんて下心はすぐにバレてしまうのがモーツアルトです。ジャズ・ピアニストでもチック・コリアは素敵なモーツアルトの録音を残しています。
響きが汚くなるのは、鍵盤のキーの中央を指先の腹の部分でしっかりと叩いていないからです。つまり、これは早いテンポで弾きまくることだけに気が行っていて指遣いが粗いということに他なりません。こういう響きの汚いモーツアルトを聴くと明治の音楽学者の兼常清佐の「ピアノなんぞにタッチなんてものはない・ルビンシュタインが弾こうが・猫が鍵盤の上を歩こうが・同じ音がする」という極説を思い出しますねえ。 実はタッチの違いで響きの違いは全然変るものなのです。こういう事態に陥らないようにするには・しっかりとした指遣いの出来る(もっと遅い・自分の技巧に似合った適切な)テンポを自分なりに探して弾くことです。
興味深いのは、こういう粗い快速テンポを何だか勢いのあるような・ライヴ性のある生き生きした感覚だと錯覚する向きが少なくないということです。急きたてられたテンポでなんだか興奮したような気分になる人も最近は少なくないようです。こういうのは現代人の呼吸が浅くなっているということを示す現象で して・あまり良い傾向とは言えません。クラシックの演奏家でもひと昔前と比べれば・音楽の呼吸がちょっと早く浅くなっている傾向が見えます。これは演劇(新劇でも歌舞伎 でも同じですが)の台詞回しの場合でも同じような傾向が見えます。
演奏(あるいは演技)のなかでリズムの打ち込みの深さ・呼吸の深さをもっと意識する必要があると思っています。呼吸の深さを取り戻す方法はいつくか考えられますが、 ひとつの簡単な解決法としてはテンポを遅くすることです。テンポを遅くすればそれだけで呼吸が深くなるというわけではないのですが、遅い方が呼吸をコントロールし易くなるのです。したがって呼吸を深くするために・これからのパフォーミングアートはテンポを遅い方に意識を引っ張る行き方が望ましいかなと思っています。
(H18・5・22)
本年(2006年)はモーツアルト生誕250年ということで、モーツアルト関連のイヴェントやコンサートが多数催されます。そのなかのひとつですが、2月にシュトゥットガルト歌劇場が歌劇「魔笛」を日本公演したのは大きな話題で した。シュトゥットガルト歌劇場は意欲的な舞台演出で、あちらでは非常に評価の高いオペラハウスです。しかも、今回の歌劇「魔笛」は現代で最も重要な演出家のひとりと言われているペーター・コンヴィチュニーの演出による舞台です。
コンヴィチュニー演出の「魔笛」では、娘をさらわれた夜の女王はサングラスをかけて酒に入り浸って酔いつぶれているし、パパゲーノは派手な衣装を着たテレビ芸人姿でドタバタ動き回り、三人の侍女は旅客機のフライトアテンダント姿で登場しタミーノを誘惑、ザラストロは韓国人で・地の台詞を韓国語でしゃべり通訳が入りますが・ そこがどうやら北の将軍様を想像させます。昨今の欧米のオペラ演出はこんなのが多いので・ちょっとやそっとじゃ驚きませんが、コンビチュニーご本人が「音楽にこれまで考えられてきたのとは違う意味が見えてくる演出をやる。それを伝えることに成功した時、歌手も聴衆も自ら考え始めるのだ。」と言ってるように、これは観客に対して問題を投げつける確信犯的舞台なのです。あとは皆さん、その意味を自由にお考え下さいということかと思います。
こうした・悪く言えば聴き手に対して挑戦的で・良く言えば考えさせる演出は、オーソドックスな演出が常識として片方にあるところのアンチテーゼとして成り立つものです。だから、曲に対する知識がある程度ないとその面白さが十分に理解できないでしょう。吉之助が個人的にこういう演出が好きなのかと聞かれれば、音楽を愉しむためならば煩い感じがしてあまり好きではないというのが正直なところです。しかし、吉之助も評論を書く身なので・考える材料としてこれを見るなら・これはとても刺激的で・舞台を見ながらこの演出家は何を考えたんだろうと読み解くのは知的なお楽しみというところです。
例えばコンヴィチュニー演出の「ドン・ジョヴァン二」では音楽が始まる前に寸劇が付いているそうです。子供時代のモーツアルトがピアノの練習をしていて・傍らで父親レオポルドがそれを見ています。モーツアルトが自由に弾こうとすると父親が駄目だとしつこく注意します。そのうちモーツアルトが突然立ち上がり・怒った顔をしてピアノの蓋をバンッと閉めます。その蓋を閉める音と同時に序曲の最初の和音が響くのです。モーツアルトの父レオポルドの存在と反抗がその演出の根底にあるのは明らかです。
「コジ・ファン・トゥッテ」はすべてが明らかになった後、登場人物が怒りも騒ぎもせず・あっさり幕になってしまうのがちょっと肩透かしのところがあるのですが、コンヴィチュニー演出ではフィナーレ近くで音楽が突然中断してしまうそうです。舞台上の出演者たちが当惑していると、そこで楽譜を持ったアシスタントが登場して「誰と誰が結婚するかスコアには書いてありません」と言います。一同がどうしようかと相談しはじめますが、結局仕方がないので無理やり音楽を始めて幕とするというわけです。
曲の説明をする余裕がありませんが、オペラを良く知っている人なら・こういう話を聞けば・もうその舞台を見たくて堪らなくなるに違いありません。 もっともコンヴィチュニーも聴衆からブーイングを浴びることは少なくないようです。と言うか・こういう斬新な切り口には反発が付き物であるし、ブーイングも勲章みたいなものかも知れません。しかし、コンヴィチュニーという演出家はなかなか気になる存在ではありますね。
(H18・5・18)
2005年のクラシック界最大の話題のひとつであった・ザルツブルク音楽祭での歌劇「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」の映像がテレビで放送されたのを見ました。(別稿「吉之助の音楽ノート・「ラ・トラヴィアータ」をご参照ください。)今回の話題は美人ソプラノとして売り出しのアンナ・ネトレプコ(ロシア出身)と・これも売り出しのテノール・ローランド・ビリャソン(メキシコ出身)でありましたが、 ご両人とも姿と声はなかなか良ろしいですが・歌唱は厳しく聴くとイタリア語の子音が甘い感じで・感情の表出に若干の不満が残ります。
例えば第1幕フィナーレのヴィオレッタのカヴァレッタはネトレプコの歌唱のスピントの斬れがちょっと不足です。(別のアリア集でもベルリー二のベルカント系のアリアは出来がいまいちで・彼女はドラマティコではなくリリコだと思いますが、何となく選んでいる曲とズレがあるような気がしましたが。)冒頭の「Follie! Follie!・・(馬鹿々々しい!)」のフォリーェはもっと鋭く発声した方が良いですね。「Sempre Libera・・(いつだって自由)」のセンプレも強く発声して観客への印象をもっと強くする必要があります。同様にアルフレートが挿入する「Croce e delizia al cor (心のなかに苦しみと喜びがある)」もクローチェをもっと情感を込めて歌う必要があります。クローチェ(苦しみ)というのは十字架 (つまりキリスト)と掛った語句でして、この場面でのヴィオレッタの引き裂かれた心象風景と重く重なっている大事な言葉なのです。彼らの歌唱ではこれらの言葉が音楽の流れのなかで引っ掛かってこない感じです。まあ、この辺はイタリア語を母国語としないハンデと言うべきかも知れませんが、イタリア語の歌は滑らかなものと決め付けるのは禁物です。
こういう点をあまり気にし過ぎるとヴェリスモ(現実主義)に傾いてしまうという向きもありましょう。事実、吉之助が最高のヴィオレッタと考えるマリア・カラスの歌唱に関しては一部にそういう批判がないわけではないようです。しかし、これはヴェルディの作品自体がそういうヴェリスモの方向性を意識しているものと 吉之助には思えてなりません。
ウィリー・デッカーの演出は評判通り素晴らしいものでした。今回のデッカー演出の映像で面白いと思ったのは、歌唱を音だけで聴くのと違って・映像があるとその辺の不満が隠されてあまり見えてこなかったことでした。(つまり歌の不足を演技でカヴァーということ。)オペラの場合はやはりこれからはヴィデオ鑑賞ですね。
最近のオペラの欧米での演出は音楽より演出家が出過ぎているようなものが多くて、むしろオペラが描いている世界のアナクロニズムのギャップを抉り出そうとするような確信犯的なものが 多いようです。まあ、刺激的な知的お楽しみではあるのですがね。音楽と舞台がかけ離れていて・もっと音楽を聴かせてくれよと言いたくなる演出も少なくありません。しかし、今回のデッカー演出は音楽とぴったりと合っていま した。
「ヴィオレッタの生と死の物語」という視点を前面に押し出したデッカー演出は、音楽の流れを阻まないところで・しっかりと自己を主張をしているところに感心しました。音楽の意図したところを視覚的に表現してとても分りやすい演出になっていたと思います。例えばふたつの宴会シーンにおいて群衆をさっと引かせて置いて・病気で疲れ果てたヴィオレッタを見せる・そこにヴィオレッタの生と死を冷静に見詰める医師グランヴィルを絡ませる辺り の処理は秀逸でありました。リッツィ指揮のウィーン・フィルの演奏も活気があって、久しぶりに納得できる舞台という気がしました。DVDも出たようですから、ご興味のおありの方は是非ご覧になってください。
(H18・5・15)
○「金がなければコレなんのいの」・その11:お金のドラマ性喪失
黙阿弥の「三人吉三廓初買」は安政7年(=万延元年・1860)正月市村座での初演。「三人吉三」は名刀庚申丸という「お宝」をめぐる芝居です。しかし、「三人吉三」の場合に 興味深いのは、名刀に百両の値段がついてしまって・その代金の百両が行ったり来たりすることです。「お宝」にはそれ自体に固有に備わった権威があるわけで本来は他のものに代替えができない はずですが、ここでは代金の経済的価値の方が重くなっていて・それがドラマの狂言廻しになっています。
ということは・もし別の百両包みがどこからか登場してくれば問題は解決してしまってドラマは終わるはずですが、芝居の方はそうはなりません。登場人物はそれぞれ百両を求めて動き回りますが、観客から見れば同じ金包み が行ったり来たりするだけの虚しい空騒ぎなのです。吉祥院の場で三人の吉三郎は義兄弟の契りを結びながら・実は互いに仇ある身と知ります。ここで三人は再び争うことになるのかと観客は不安に駆られ ますが、和尚吉三は「そでねえ金は受けねえと、突き戻したは親父が誤り。さすればお嬢に科はねえ。お坊吉三も己が親父を、高麗寺前で殺したは、すなわち親の敵討ち」と言 い、「二人に恨みは少しもねえ」とお坊吉三・お嬢吉三の二人を許してしまいます。和尚吉三は因果の連環を自分の意志で断ち切ってしまうのです。すると途端にお宝が現われます。
(和尚)「そんなら(おとせ・十三郎の)首を役に立て、逃げてくれるか、かたじけない」(お坊)「忘れていたがこの百両、落とせし金の償いに、死んだ二人へ己が香典」(お嬢)「向後(きょうこう・以後の意味)悪事は思い切る、証拠は要らぬこの脇差し。これは兄貴へ置き土産。」
見れば・それは求めていた百両とお宝の庚申丸です。あれほど行ったり来たりしてたものが、この場にひょっこり出てきて・落ち着いてしまうのです。かくて「落とせし金に/失う短刀/二品揃う上からは・・」となるわけです。 「因果の連環のなかであがいている間はお宝は見つからないよ」と黙阿弥は言いたいのでありましょうか。
黙阿弥の芝居ではお金はドラマの口実ですが、お金自体にドラマを廻す推進力がないのです。登場人物は必死で動き回っているようです が、傍から見ていれば・実は同じものを巡ってドタバタしていているだけで・動いている範囲が実に狭いのです。すべてが袋小路に追い込まれている印象です。そこに幕末の行き詰った 雰囲気が表われています。
このように近松から黙阿弥まで・芝居における「お金」の扱い方からその時代の様相を読むことができるわけです。(この稿終わり)
(H18・5・14)
○「金がなければコレなんのいの」・その10:お金の価値の下落
しかし、時代が下ってきますと・芝居でのお金の扱いもぞんざいになってくるようです。「金は金に過ぎない」というドライな感覚になってきます。
例えば天明元年(1781)に大坂角の芝居で初演された「敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがちゃやむら)」は酒乱の安敵安達元右衛門が活躍するので有名な芝居です。これを見てみると、追っ手側の伊織の妻が色紙を手に入れる金を調達するために苦界に身を沈めるという場面がありますが、武家の奥様がちょっとお金が欲しいから夜のアルバイト・・という感じで・これが何とも安直なのであります。素人の人妻が身を売るというのは・いわば死ぬようなものでしょう。近松ならば・これだけで愁嘆場をひと幕書いてしまうところでしょうが、凡庸な作者の手腕ではそうはならないのです。
同じ芝居でさらに酷いと思うのは「人形屋の場」です。人形屋幸右衛門が主人筋の色紙を買う資金調達のために奔走していますが、どうにも思案の当てがありません。そこに子供が顔に傷をつけて泣いて帰ってきます。聞けば京屋の息子と喧嘩して傷付けられたと言うのです。そこでハッと思った幸右衛門はその場で 自分の子供を道具で打ち殺してしまうのです。そして子供の死をネタに京屋に強請に乗り込む・・というのですが、この筋はもうまったくドラマ性を喪失しています。あまり使いたくない ですが・「愚劇」という言葉はこういう芝居のためにあるのでしょう。しかも、驚く母親の愁嘆もどこへやら・すぐに舞台を廻して京屋の場に転換してしまうのですから、 ここでは子供の命はドラマの筋展開のために金を振り出す材料に過ぎないのです。
この芝居では女房が身を売ることも・我が子を殺すことも、それ自体でドラマを生み出すことができないのです。お金は芝居の次の筋を展開させる口実にしか過ぎません。こうした現象は 、この時代には「お金」というものが背負っている社会的・相対的な意味が下落してくるから起きるのです。つまり、 天明年間頃には・大坂であっても、お金殺しが時代殺しという意味を帯びなくなっているのです。これは貨幣が社会の機能のなかに 当たり前のように定着したということなのでしょう。(この稿つづく)
(H18・5・12)
○「金がなければコレなんのいの」・その9:封印切の衝撃
近松の「冥途の飛脚」は正徳元年(1711)の作品です。改作「恋飛脚大和往来」での「封印切」が有名ですが、ここで注意せねばならない大事な点は (改作ではそういうことになっていますが)金包みの封印を切るということ自体に本来は「事件性」はないということです。飛脚でも道中で封が事故で破れてしまうということはあり得ることで すし、梅川も忠兵衛に言っていますが・「金を束(つか)えてその主(ぬし)へ早う届けて」しまえば・つまり返してしまえば事件にも使い込みにもならないのです。
しかし、大勢の人のいる前で金をばら撒いて啖呵を切っておいて・いまさら「あの金撒いたのは座興でございました」で済むわけはありません。何よりそれでは忠兵衛の「男」が立ちません。「返せばそれでいいだろう」と行かないのは「曽根崎心中」の徳兵衛の場合と同じです。
改作「恋飛脚大和往来」においては忠兵衛は八右衛門に突き飛ばされたはずみで金包みの封が切れてしまう・つまり事故であったように描かれています。封が切れたのに気がついた忠兵衛は「もはやこれまで・・」と覚悟を決めて他の金包みも全部封を切ってしまって小判をばら撒くわけです。これはどこかに忠兵衛 に同情して・彼を被害者に仕立てたい気持ちが観客にも作者にもあると言うことでしょう。しかし、これだと忠兵衛の行為の衝撃度が弱くなるのです。
原作の「冥途の飛脚」の忠兵衛は行きがかり上熱くなっているとは言え・はっきり自分の意志で金包みの封を切っています。忠兵衛は梅川に「随分堪えてみつれども、友女郎の真ん中で、かはいい男(忠兵衛)が恥辱を取り・そなた(梅川)の心の無念さを晴らしたいと思ふより、ふつと銀(かね)に手をかけて、もう引かれぬは男の役、かうなる因果と思うてたも・・」と言っています。
当時の大坂においては金の小判を封印して包むという習慣が珍しかったようです。だから、金包みの封を切って金をばら撒く仕草が観客に強い印象を与えたと思います。その視覚的効果を近松は計算していたのでしょう。「封印を切る」という行為に・何かを吹っ切る・あるいは否定するという強烈な意志を観客は見たのです。「封印切」のイメージがひとり歩きしていきます。観客は忠兵衛は何を吹っ切り・何を否定しようとしたと見たのでしょうか。それはやはり「曽根崎心中」と同じく・「金殺し」であり「時代殺し」であるのです。
それにしても徳兵衛にしても・忠兵衛にしても、彼らの出身が大坂ではなく・地方に設定されているのは興味深いことです。やはり地方出身のふたりの場合は 大坂生まれの人間とはお金への思い入れが微妙に違うということなのでしょう。それが引け目にもなっているので・彼らは「俺は大坂商人」という意識も人一倍強いわけですが、 結局は個人の心情の強さによって共同体から「お金の掟」において誅されてしまうわけです。(この稿つづく)
(H18・5・10)
○「金がなければコレなんのいの」・その8:逆転の手法
「曽根崎心中」は排除される側から描いた大坂町人の「金殺し」であり・「時代殺し」でもあるという認識は重要です。「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情の観点から・お初徳兵衛の心情の拠り所は徳兵衛が大坂商人だということにあると考えてきました。(別稿「かぶき的心情と「・・と(und)」」をご参照ください。)しかし、徳兵衛の平野屋主人に対する態度は大坂で商売する資格なしと見られて仕方ないものです。ということは 「曽根崎心中」でのお初徳兵衛の行動には矛盾した部分があるのです。つまり、彼らは大坂商人道を踏みにじりながら・大坂商人として死すのです。これはどういうことでしょうか。
実は徳兵衛は自分が大坂商人の道徳を踏みにじり・共同体から排除される運命にあるということは自分で良く分っているのです。つまり、ふたりが心中に赴くことは・ 演劇的に見れば「自裁行為」みたいな一面があるのです。共同体の掟の掟を破った者は仲間から排除されてこうなるのだ・・ということを満天下に見せるということです。それによって共同体の掟の正しさを示してみせるのです。そういう側面が心中行為にはあります。しかし、それだけではまだ十分ではありません。
近松門左衛門が天才だとつくづく思うのは、表面はこのような大坂商人の共同体の「自裁行為」のスタイルをとりながら、徳兵衛の心情に「・・と(und)」の論理で方向性を与え、大坂商人のアイデンティティーを逆転して徳兵衛の側に与えてしまう・その恐るべき手腕です。これにより徳兵衛は大坂商人として死ぬことになるのです。それがつまり・お初の「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」の台詞です。これこそ近松の恐るべき作劇術です。
「心中天網島」では恐らく近松が身辺にひたひたと迫っている幕府の心中物規制の雰囲気(幕府の規制はその3年後の享保8年・1723)を感じていたからだと思いますが・その手法がさらに巧妙になっています。別稿「たがふみも見ぬ恋の道」では「心中天網島」において「紙=神」のイメージを観客の脳裏に繰り返し刻み付けていく手法について触れました。これは冶兵衛が遊女小春にいれあげて家業の紙商売をおろそかにすることは・「商売の神 (=紙)」をおろそかにしているということだということを暗示しています。商売をおそろかにして・大坂商人の道徳を踏みにじった冶兵衛は誰の目から見ても死ぬしかありません。
「名残の橋づくし」には『悪所狂いの。身の果ては。かくなり行くと。定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。』という文章が出てきます。小春冶兵衛は因果の結果として「自裁」(心中)するということですから近松がこの芝居を因果話仕立てにしているように表面上は見えます。事実 、この「心中天網島」が古典的な趣を持つのはそ のようなドラマ構造に拠ります。しかし、「・・と(und)」の論理を知っていれば・大坂商人のアイデンティティーはやはり冶兵衛の側にあることが分かるでしょう。
つまり、近松の心中物は大坂商人のアイデンティティーに発し・表面上は共同体の掟を肯定もしているのですが、同時にその個人の心情に同情を寄せて・このような社会(共同体)と時代に個人が生きていくことの難しさを思っているということです。そのことが「お金」によって象徴されているというわけです。(この稿つづく)
(H18・5・8)
○「金がなければコレなんのいの」・その7:共同体の掟
さらに「曽根崎心中」を考えます。徳兵衛に姪の縁談を断られた平野屋主人は怒って「もうよい、この上はもう娘はやらぬ。やらぬからは銀(かね)を立て・四月七日までにきつと立て、商いの勘定せよ、まくり出して大坂の地は踏ませぬ」と言います。「オオ、ソレ、かしこまった」と徳兵衛は田舎へ飛んで帰って義母からお金を取り返します。この平野屋主人との会話ですが・徳兵衛も売り言葉に買い言葉で意地になっているせよ・徳兵衛が「金を返せばそれでいいだろう・それで話は白紙だ」というような感じの発言をしている のは注目されます。。
ひとつは徳兵衛は平野屋主人に対して・手代である自分もひとりの対等な人間であると明確に主張しているということです。つまり、この発言には個人の意識の目覚めが見え ます。しかし、当時の大坂町人の通念では商家の主人と奉公人との関係は封建的な厳格なものでしたから、主人に対する徳兵衛の発言はそれだけで大坂で住めなくなるような危険なものです。
ふたつめは・ひとつめの件と密接に絡んでいるのですが・徳兵衛が知らない間に義母に金が渡されていたという事情があるにせよ・徳兵衛の発言には「返せばそれでいいだろう・金は金だ」という感覚があって・金銭に対するイメージがドライに感じられることです。貸し借りについて言えば徳兵衛の言う通りかも知れませんが、徳兵衛は金銭を即物的な価値で割り切り・金銭の周辺にまつわる共同体の価値感を認めていないということです。ましてや当時は親同士の相談だけで結婚が決められるということはごく当たり前のことでした。共同体の論理からすれば金を返せばそれで済むという甘いものではな かったのです。主人に対して「金を返す」と言った時点で・徳兵衛は大坂で商売する資格なしと自分で宣言したようなものです。
地方の民話の「六部殺し」は裕福な家を「あいつは人殺しをして金を儲けた」と噂して共同体から排除しようと言うものでした。それはお金殺しであると同時に時代殺しでもあったわけです。一方、徳兵衛の悲劇はこのメカニズムとまったく裏返しのパターンです。徳兵衛は「返せばそれでチャラだ・金は金だ」と言うドライな感覚の為に・大坂町人の共同体から排除されるのです。つまり、「曽根崎心中」は民話の「六部殺し」と裏返しの意味で・排除される側から描いた大坂町人の「金殺し」であり・「時代殺し」でもあるということです。(この稿つづく)
(H18・5・5)
○「金がなければコレなんのいの」・その6:共同体の掟
近松門左衛門の「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)を見てみます。ここで大事なことは、商人の町である大坂は貨幣経済で成り立つ町ですから・地方の庶民とは貨幣に対する意識が全然 異なるということです。社会の変化は全国一様に進むわけではなく・その度合いは地域により様々です。地方の場合は「近世への変革」はまだこれからですから「六部殺し」のような反応が起きるわけです。儲けて羽振りの良い仲間が「六部殺し」の噂話で共同体から排除されることになります。一方、大坂においては貨幣が共同体(コミュ二ティー)の根本にあります。大坂という町はお金を儲けた連中によって成立したような町です。
商人の共同体を成り立たせるものは、貨幣が裏打ちする信用です。貨幣は商人のアイデンティティー同然です。共同体のなかでの不文律(あるいは掟)はいろいろあるでしょうが、例えば「借りた金は期日までに必ず返済する」というようなものです。どんな事情があったとしても・これを守らなければ大坂にはいられないほど厳しいものです。貨幣が共同体維持のための厳しい不文律になっているのです。
ところで、当時の商家で奉公する番頭・手代にとって主人の娘(徳兵衛の場合は姪ですが)と結婚してその店を引き継ぐというのが最高の願望でした。商家にとっても生まれる子供は女の子の方が喜ばれました。出来のいい息子を育てるより奉公人の中から出来のいいのを選んで娘と結婚させて後継ぎにする方が店を存続させる確実性は高くなるからです。
徳兵衛は醤油を商なう平野屋の手代ですが、店の主人とは叔父・甥の関係です。主人は徳兵衛に目をかけて妻の姪と結婚させて商売を継がせようと言って来ます。しかし、徳兵衛はすでに天満屋のお初という遊女と馴れ合っており、この話を断ってしまいます。主人は怒って・結婚を前堤にして徳兵衛の義母に用立てた銀二貫目を期限までに返すように要求し、「それが出来なければ大坂の地は踏ませぬ」と言います。ここでの平野屋主人との会話が問題です。徳兵衛の台詞を引きます。
『在所の母は継母なるが・我に隠して親方と談合極め、二貫目の銀(かね)を握って帰られしを、このうつそり(まぬけ者)が夢にも知らず、後のつきからもやくり出し、押して祝言させうとある。そこでおれもむっとして、やあら聞えぬ旦那殿、私合点いたさぬを老母をたらし、たたき付け・あんまりななされやう。お内儀様も聞こえませぬ。今まで様(さま)に様を付け、祟(あが)まへた娘御に・銀を付けて申し受け、一生女房の機嫌取り、この徳兵衛が立つものか、いやと言ふからは、死んだ親仁が生き返り申すとあっても嫌でござる・・・』
徳兵衛は醤油屋の後継ぎとして見込まれていたわけですから、大坂で商売をする者にとってこれは願ってもない話なのです。しかも、当時の商家の主人と手代の主従関係はたいへん厳しい時代でした。ところが徳兵衛はこれまでお嬢様お嬢様とあがめてきた娘さん(姪)を嫁にもらって・今度はその女房の機嫌を一生取るなんてのはまっぴらご免だと店の主人に対して言います。「この徳兵衛が立たない」とまで言 っています。これは当時の大坂町人の感覚から見るとトンデモないことです。だから大坂で商売をする人間の夢を・たかが遊女風情のために捨てた「馬鹿な男・愚かな男」というのが大坂町人の常識から見た徳兵衛のイメージなのです。このことを前提として考えなければ「曽根崎心中」の ドラマはその背景を十分に理解できません。
徳兵衛から銀二貫目を騙り取る九平次はそうした大坂人の目を代表していると考えられます。将来の商売仲間だと思って付き合っていたはずの徳兵衛が遊女との純愛を貫くなどという「馬鹿なこと」を始めた時から九平次の友情は軽蔑に変わったのかも知れません。「お前らの仲間にはならないよ」と言われたのと同然であるからです。いくら徳兵衛がお初を真剣に愛していたとしても ・九平次から見れば所詮は「売り物・買い物」の遊女です。遊女に道を誤った徳兵衛は九平次には自分たち「大坂商人」を否定し踏みにじった存在に見えたと思います。
司馬遼太郎氏は「平野屋の主人と九平次の間ではおそらく話がついていたのでしょう。こういう形で徳兵衛の金は巻き上げられて・返してもらえなくなる」と語っています。(1986年10月8日・兵庫での講演「近松門左衛門の世界」より)このことは丸本には出てこないので・あくまで推論です。しかし、これは恐らくその通りだろうと思います。そう考えた方が「曽根崎心中」のドラマに筋がはっきりと通るのです。怒った平野屋の主人が不良の九平次をそそのかして徳兵衛を陥れ・大坂の地からの追放を計ったのだろうと思います。徳兵衛はちょうど「ヤクザが義理と人情の世界から足を洗おうとして仲間から誅される」のと同じような罰を受けたのです。「大坂商人の世界」はそんなに甘いものではなかったのです。(この稿つづく)
(H18・5・1)
○「金がなければコレなんのいの」・その5:圧し掛かる近世
「仮名手本忠臣蔵・六段目」(寛延元年・1786・竹本座)の丸本には「金」という字が四十七回読み込まれているそうです。丸本には勘平が腹に刀を突きたて・わが身の不運を嘆く台詞に「金は女房を売つた金」という文句があります。昔の浄瑠璃ではこの部分を繰り返して「金は女房を売つた金、金は女房を売つた金 ・・」と語ったものでした。こうすると芝居に「金」の字が四十九回出てくることになるので・これはいけないということで豊竹山城少掾が直したとされています。「六段目」に「金」の字が四十七回出てくるのは・もちろん四十七士に当てたものですが、これは数字遊びではなく・暗号みたいなものなのでしょう。そのなかに「隠された意味」があるのです。それでは「六段目」でのお金の意味とは何でしょうか。
歌舞伎の音羽屋型で見ると「六段目」の勘平切腹のドラマは舅与市兵衛を殺して五十両の金を奪ったのは誰かということです。勘平は討ち入りの仲間に入れてもらうために資金を必要としていました。そのことを察した与市兵衛一家はお軽を祇園に売ってその資金を調達しようとしたのです。もちろん百姓一家にはそれしか大金を用立てる手段はなかったのです。金の問題がドラマの背景につきまとってます。ところが「五段目」において斧定九郎が与市兵衛を殺して五十両を奪ってしま います。 「六段目」では勘平は自分が舅を殺してしまったと思い込んでいます。そこからドラマが展開していくのですが、「五段目」で斧定九郎が与市兵衛を殺す時の台詞は印象的です。
「オヽいとしや痛かろけれど、俺に恨みはないぞや。金がありやこそ殺せ、金がなけりやコレなんのいの。金が敵だいとしぼや。アヽ南無阿弥陀仏、南無阿弥。南無妙法蓮華経。」
「金がなけりやコレなんのいの」とは「金がなければこんなことにはならなかったんだ」との意味です。それは確かにその通りなのですが、しかし、「五・六段目」をお金を呪ったドラマだ ・お金の悲劇だというのでは・理解があまりに単純過ぎます。「五・六段目」の正しい理解のためには「お金」の背後にある「近世」というものの正体を見極めなければなりません。
思えば兄妹の親である百姓与市兵衛の一家は上昇志向の強い家でありました。山崎の農家でありながら娘お軽を塩冶家に女中奉公に出し・そのお軽は見事に早野勘平を恋人に射止め、息子平右衛門も塩 冶家へ足軽ながらもご奉公。武士になりたいという一家の夢はまさに現実のものになろうとしていたのでした。それが塩冶判官の刃傷によってもろくも崩れたわけです。「五段目」において与市兵衛が自分の娘を売ってでも資金を作って婿の勘平になんとか仇討ちの仲間に入ってもらいたいと考えたのもそこに理由があったのです。(別稿「侍を子に持てばおれも侍」をご参考にしてください。)婿の勘平が武士 (正確には元武士)であることは与市兵衛一家の誇りです。息子の勘平が武士ならば・親の自分も塩冶家の家来同然であると与市兵衛は考えたのです。勘平が討ち入りに参加して見事に主君の仇を討たせるために (武士の親として)自分たちの出来るだけのことをしようとするのは自然なことだと思います。そういう風に与市兵衛が考えた時に一家に「近世」が迫ってくるのです。
「六段目」における「近世」の正体は何なのでしょうか。これはいろんな見方ができると思います。社会的な側面としては庶民が憧れるところの「ステータス」としての武士の問題があります。これは身分が流動的であった戦国の世から・身分が固定化してしまった江戸という時代への変化を考える時の重要な問題です。倫理的な側面としては「家・あるいは組織を維持する封建思想」ということ が言えます。忠義の理念もまた江戸期において儒教のバックボーンを得て急速に先鋭化したもので した。さらに経済的側面としては「貨幣経済」の問題があります。つまり忠義をするにも・討ち入りの仕度をするにも・時節を待って潜伏するにも・奇麗事ではなく金が要るということです。これらの要素は複合的に絡んでいて・それぞれを バラバラに切り離すことはできません。これらの要素をすべて取り込んでシステマティック的に迫ってくる状況が「近世」なのです。「六段目」の場合、とりあえず忠義はお金という形に還元されて・与市兵衛一家に迫って来ます。与市兵衛は農家ですからそういう形でしか忠義を表明することができません。「忠義とは金である」と言う と論理的にはおかしいのですが、ここではまさに「忠義とは金である」と同然の状況が現出します。
不忠を犯して・仲間から疎外されている勘平にとっても「忠義とは金である」という状況は同じです。これは想像ですが・もし勘平が罪を犯していない真っ白な状態ならば・与市兵衛一家の差し出す金を勘平は当然という感じで受け取ったかも知れません。時代物の芝居ではそうした筋書きは多いにあり得ることです。しかし、不忠を働いて仲間から疎外された勘平の場合はそういうわけにはいきません。なにしろ勘平は浪々の身であり(つまり目下のところでは武士ではない)・不忠の身であり・誤解ではあるが舅と殺したと思われており・しかも金がないという状態です。プライドがズタズタになっている状況です。だから「忠義とは金である」という近世の論理が勘平にとって余計に辛く重いのです。「圧し掛かる近世」、それが「四十七の金の文字」の暗号の意味です。(この稿つづく)
(H18・4・22)
○「金がなければコレなんのいの」・その4:お金の役目
『近世文学の特徴はどこにあるかというと、お金の役目です。室町時代の能を見ると、もう少しお金があったら悲劇は避けられたという例がひとつもないんです。ところが冶兵衛とか徳兵衛とか忠兵衛の場合は、お金だけで自分の生活が成り立つ。お金さえ十分あったら、最終的に心中する必要がありません。近松と世阿弥との比較は非常に簡単です。お金が違うんです。 』(ドナルド・キーン:司馬遼太郎との対談・「近世の発見」・「司馬遼太郎・歴史歓談」に収録」
キーン先生が興味深い指摘をしています。確かに近松門左衛門の「曽根崎心中」のお初徳兵衛の心中の直接の原因は、商売仲間の九平次に証文を騙られたためでした。忠兵衛にしても冶兵衛にしても ・近松のドラマはどれも金がらみです。
確かに歌舞伎のドラマは金がらみが多いようです。文学では井原西鶴の「日本永代蔵」などもそうです。しかし、キーン先生に反論するわけではありませんが、「近世文学の特徴はお金の役目です」と言い切っちゃうとちょっと誤解が生じるように思いますね。お初徳兵衛の心中をお金の悲劇だと言うととやはりそれは違うように思います。九平次のことがなくても・徳兵衛は大坂商人のコミュ二ティーのなかでいずれ排除される憂き目になって・お初との心中に追い込まれたに違いありません。「お金」は もちろん大事な要素ですが・悲劇の小道具に過ぎません。そこのところ を分って言うなら(もちろんキーン先生は分っているのですが)、お金がドラマ展開の材料になるのは近世文学から始まったと言うことは確かに言えます。
これまでの考察で分るように「六部殺し」とはお金殺しということです。それは共同体の安穏な生活を破壊したものに対する怒りです。安定した生活を壊され・いつも落ち着かない気分で生活するようになったことへの怒りの矛先が「お金」の方に向いたに過ぎません。本当に怒るならば貨幣経済システム ・あるいは社会制度そのものに怒りを向けねばならないはずですが、そういう獏然として巨大で抽象的なものに怒りをぶつけられないから・身近なお金に怒りをぶつけるわけです。
近世化ということは・いろんな面から測ることができますが、経済的側面から見れば共同体が貨幣経済のなかに組み込まれていくということです。共同体が近世化していくなかで・庶民が否応な く直面せざるを得なかったものがお金(貨幣)でした。江戸の世になって労働の価値・物の価値・人の価値までが貨幣で計られるようになってきます。時代が変化していくなかで・このままでは共同体が破壊されてしまうという危機感を感じて・従来の価値観を守ろうとして無意識的に出てきたものが「お金殺し」です。しかし、結局は守りきらなくて共同体は近世化していきます。若者が大人になることを拒否して・「大人は汚い・不潔だ」と言って反発して・自身が直面している問題に真正面に向き合わないようなものです。それでもずるずると大人になってしまうのです。
つまり、「六部殺し」とは共同体が近世化してくことの拒否(アレルギー)反応のひとつと見ることが出来ます。「お金」殺しとは「時代」殺しであるのです。そう考えた時にキーン先生の「近世文学の特徴はどこにあるかというとお金の役目です」ということの本当の意味が分かってきます。(この稿つづく)
(H18・4・20)
○「金がなければコレなんのいの」・その3:異人(まれビト)殺し
「六部殺し」のような民話が近世になぜ頻出するかと言うことをさらに考えます。もちろんそれまでにも貨幣はありましたが・局地的な使用に留まっていて、室町期前まではまだ地域経済は自給自足的で ・売買は物々交換的な感覚が強いものでした。しかし、室町中期(戦国時代)頃になると地方の交通が次第に整備されてきて・交易が盛んになって「商人」の存在がクローズアップされてきます。慶長から寛永の間(1596〜1644)に金貨・銀貨・銅貨が鋳造されて初めて全国的に統一された貨幣経済が整ったのです。
商売というものは傍目から見ると仕掛けが分らないところがあるものです。商売とは他人からある価格で買った(つまり仕入れた)品物をもっと高い価格で誰かに売る(つまり転売する)ことでその差額を儲けるわけです。その差額を普通は適正マージンとするもので・その幅には常識的な線があるものでしょうが、その「常識」なるものが問題になります。どの程度のマージン率が適正かというのは状況によっていろいろな見方があるもの かと思います。ある人が自分が苦労して作った品物を一文で商人に売った・そして都に行ってみたらそれが十文で売っていたとしたら、それも道理だと言って納得するか・仕方ないと諦めるか・「俺から一文で買ったものを十文で売っているのはずるい」と言って憤るか・「俺を騙して安く買い叩いた」と言って 文句を言うか・ どちらでしょうか。商売というものを「他人が苦労して作ったものを・自分は額に汗せず・高い価格で人を騙して売る行為」であると考えれば、それは確かに問題かも知れません。結局、それは「労働価値」というものをどう判定するか・商行為の労働価値をどう見るかという問題に帰 します。
残念ながらどうもそこには客観的な基準が存在しないようです。(あってもその基準が他人にはよく分からない。)そのために常に商売には「疑い」がつきまといます。「同じ品物が向こうの店ではもっと安い値段で売っている」という評判だけで・その店にお客がパッタリ来なくなったりすることも実際あります。買うなら安い方で買った方がいいという理由だけでなく、何となく高く売りつけられているという嫌な気分になることが客の心理として実際あるもので す。だからそのような背景のなかで歴史的に商売というのはつねに卑しい職業であるということにされてきました。江戸期においても「士農工商」と いう風に・商人は一番下の身分に置かれました。これは西洋でも同様で、商売が社会的に正当な職業として社会的に認知されるにはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のような思想的根拠の登場を待たなくてはなりませんでした。
貨幣が庶民の生活に浸透して揺るがしたものは、結局、労働価値に裏打ちされた生活の基盤です。その裏付けがしっかりしている社会は安定しています。ひとりの人間が生活のために苦労する度合いは誰でも同じくらいのものだとしたら・本来は稼ぎもその個人の努力に相応したものでありたいと思うものです。それが公平な感覚かも知れませんが、実際は世の中そう言うものではないらしいと気が付く。それが身分格差から来るものなら仕方もないと諦め るが、同じ共同体の仲間からしこたま儲けて羽振りの良い生活を始めた奴が出てきたとなれば、これは内心穏やかでなくなってくるわけです。「なんであいつだけがいい目見るんだ」ということにな るのです。貨幣が従来の労働価値を破壊し・そのような軋轢を共同体のなかに持ち込んだのです。「我々の生活を変えた金とは何者なのか」という強い憤りが共同体のなかに生まれてきます。
このような共同体を破壊するものへの憤りが「六部殺し」の民話の奥底にあるものです。室町の世から安土桃山そして江戸と時代を経るなかで庶民の生活・価値観は大きく変化しました。その要因はいろいろ考えられ るでしょうが、たくさんの変化要因のなかで最も生活に密着したものが「お金」です。お金とは「近世」の顔をした異人(まれビト)なのです。六部(実はお金)を殺して・その家の主人が大金持ちになるという話は・近世に入って登場した「異人殺し」の新しい形式なのです。(この稿つづく)
(H18・4・16)
○「金がなければコレなんのいの」・その2:異人(まれビト)殺し
大事なことは「六部殺し」のような民話がどうして近世に頻出するのかと言うことです。これは結局、近世になって・貨幣経済が民衆の生活のなかに次第に浸透してきて・共同体のなかの経済(それはもともと物々交換的な経済システムでした)を破壊し始めたことから来ているのです。つまり、お金が共同体にとっての異人(まれビト)なのです。
このような構造は現代においても見られます。ある時突然羽振りが良くなった人を見て・「あいつの金はどうせ禄でもないことして(例えば人を騙したりして)稼いだものに違いない」と噂するなんてことはよくある話です。現代においては恐らく「株式」神話が異人(まれビト)です。我々はかつてバブルの時期と・それが破綻した時期において 似たようなことを経験しました。持っていた株券の価格がまたたくまに高騰していって・それで喜んでさらに株式を買い増すうちに・今度は株価があれよという間に暴落していく、そのようなことを経験しました。持っている 株券は「物(ぶつ)」としてはまったく同じものです。ところが、それが「儲かった」だの「損をした」だのという話になってしまって・それでいろんな悲喜劇が起きました。「物」の価値とは ・値段とは・・・ということがまったく分らなくなってしまうのです。我々庶民の平凡でも慎ましい安穏な生活を「株式」神話が内側から破壊し始めます。そのような時に現代においても「六部殺し」は起きるのです。
蛇足ながら・横道に逸れますが、冒頭に引きました夏目漱石の「夢十夜・第三夜」のことについてちょっと触れておきます。ここで男が殺した盲目の男(按摩でありましょうか)について・その動機を男は語っておりません。殺人動機は金品であったかも知れませんが、多分 ここでは金が原因ではないのです。漱石は男が裕福であったとは書いてないからです。ただ男はその前世に人を殺したことがあるらしい・それしか書いていません。男が殺したものは何であったのでしょうか。漱石にとっての異人(まれビト)とは何であったのでしょうか・・・そう考えれば察しがつくと思います。(この稿つづく)
(H18・4・13)
○「金がなければコレなんのいの」・その1:六部殺しの民話
夏目漱石の「夢十夜」(明治41年)の「第3夜」 をご存知でしょうか。それは次のような話です。ある男に子供が生まれましたが、不幸なことに・その子供は盲目でありました。ある日、その子供を背負って・散歩に出ると、眼の見えないはずの子供がまるで眼が見えるかのように「あっち・そっち」と方向の指示を出すのです。そして、いつしかふたりは森のなかへ入っていきます。「ここだ、ちょうどその杉の根のところだ」と背中の子供が言います。「お父っあん、その杉のところだったね。・・・お前が俺を殺したのは今からちょうど百年前だね。」男の脳裏に前世の・百年前文化5年のこんな闇の晩にこの杉の根にひとりの盲目を殺したことがあるという記憶が忽然として蘇るのでした。
この不気味な怪談話のような「第3夜」は「夢十夜」のなかでも特に重いものでして「人間存在の原罪的な不安がとらえられている」(伊藤整)とも評価されています。 漱石がこの後に書いた小説「こころ」のなかの「もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました」という文章にも同じような原罪のモティーフがあるようです。
ところで実はこのような話は民話として各地に多く残っているひとつのパターンでして、それは「こんな夜」という話として分類される ものです。大体次のような話です。(以後の本稿は冒頭に引いた夏目漱石の「夢十夜」とは直接関連ないものとご理解ください。)その昔、ある月夜の晩のこと、A村のB家に旅の六部がやってきて一夜の宿を乞いました。この六部が大金を持っていることを知った主人はその金が欲しくなって、六部に道を教えてやるふりをして・人が滅多に通らない道を教えて・そこで待ち伏せして・六部を殺してその所持金を奪いました。その後、B家はその金を元手にして大金持ちになります。何十年も経ってB家の子孫に不具の子供が生まれます。その子が、ある夜のこと、父親に向かって「こんな晩だったね、お前が俺を殺したのは・・・」とつぶやくのです。何ともうす気味悪い話であります。
六部というのは六十六部の略で、霊場を巡ってお経を納める行者や物乞いをして諸国を巡る巡礼のことを言いました。上記はA村・B家で一般化して書きましたが、大体A村やB家は具体的な名前が付いているものでして・しかも実在のものが多いようです。時期も具体的に「何年何月のこと」とするのが普通です。つまり、民話ではその村の特定の裕福の家の実際の話として伝わっていることが多いものです。 この民話は六部殺しの祟りによって・その家に不具の子供が生まれると言う陰惨な因果物語のように見えますが、実は話の本質はそこにあるのではありません。「あの家が裕福になったのは・六部を殺して・その金で裕福になったのだ・あの家はそういう悪事を働いた家だ」と言って・村人がその家を除け者扱いにしたということです。
さらにこの民話を分析していくと、六部殺しの話はもうひとつのパターンにも当てはめることができます。それは「異人殺し」という民話のパターンです。共同体のなかに入り込んできた異人(まれビト)を殺すという話で、こういう話は神話など古い時代の伝説に多いものです。殺された異人はその後は神として祀られました。共同体のなかに入り込んできた異人(まれビト)はしばしば不思議な能力を有してい るものですが、その異人を殺して・その能力を奪い取るという形です。この殺人はこのままでは異人によって破壊されるかも知れない共同体を守るためにどうしても必要なことであったのです。つまりそれは共同体の構成員の合意のもとに行われた殺人でありま した。
これに対して新しい「異人殺し」である六部殺しは、ある村のなかの個人が私利私欲で行う殺人です。そして本来はその村のなかで・当事者以外は誰も知らないはずの (つまり事実かどうかも真相は誰にも分からない)秘密の殺人です。その六部殺しの動機とされるのが金品強奪です。
六部殺し民話というのは「その家がどうして裕福になったのか」を説明しようとするものでした。あの家が裕福になったのは・あの家は昔六部を殺してその金を奪ったからだ・そういう卑劣な行為をしたのだと決め付けるのです。その真相は当事者以外誰も知っているはずがないですから、たいていの場合はでっち上げです。そういうでっち上げをすることで・裕福になったその家を共同体から意識的に排除しようとしているのです。もう少し分析しますと、ここで殺される「異人」は六部のように見えますが・実はそうではないのです。 キーポイントは六部が持っていた金品です。村人が 「六部殺し」の話のなかで裕福になった家に殺させたかったものは本当は「お金」であったわけです。(この稿つづく)
*上記は小松和彦:「異人殺し伝説の歴史と意味」(悪霊論―異界からのメッセージ (ちくま学芸文庫)に所収)を参考にしています。
(H18・4・11)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その6:「嫩軍記」における「・・と(und)」
歌舞伎においては身替わり狂言と呼ばれるジャンルがあります。主君のために我が子を身替わりの犠牲にするという筋書きで、その代表的な演目が「一谷嫩軍記」です。愛する我が子を殺すのですから・肉親としての葛藤はあるのが当たり前です。息子を主人の身替わりにする行為が 正しいことなのか・封建制に対する疑問がムラムラと沸きあがってくるということもあるでしょう。しかし、歌舞伎のドラマになるためには・親の感情だけで割り切ることはできないのです。そこに「・・と(und)」の視点がなければなりません。「組討」はまさにそのような「・・と(und)」のドラマの典型です。
須磨の浦は戦場です。誰がその場にやってきてもおかしくない状況です。敦盛を斬るのを躊躇する熊谷に「ヤアヤア熊谷。平家方の大将を組敷きながら助くるは二心に紛れなし。きゃつめ共に遁すな」と平山武者所の罵声が飛びます。熊谷はこのような衆人環視のもとで敦盛の身替りとして我が子を斬るのです。無官の太夫敦盛卿の身替わりとして我が子を斬る熊谷の行為は平山だけではなく・観客までも騙そうという大博打・時代物の一大虚構(トリック)です。しかも大事なことは、この大博打は 直実だけで成すことはできないということです。この大博打は直実と小次郎親子の共同作業です。これは親子が「・・と(und)」を確認しようとする行為です。
「主人義経の命令であるとか・藤の方に義理があるとか言うのは親父の都合だろう・俺には俺の人生があるんだ」と小次郎が言ったら・この「一谷嫩軍記」のドラマは 成立しないのです。だからこの身替わりの大博打を貫徹させた父直実も息子小次郎も同じ目的遂行のため共同でその行為に当たっていることが分ります。このふたりをつなげるものは親子の情以上のものです。それは家(あるいは家族)というもののアイデンティティーに裏打ちされたかぶき的心情の「・・と(und)」 です。この「・・と(und)」によって直実親子のかぶき的心情は方向性を持つのです。だから直実にとって我が子小次郎は同志なのです。(このことは「かぶき的心情」の問題としてサイト「歌舞伎素人講釈」で繰り返し論議をしてきましたので、ここでは論じません。)
「陣屋」においては・残された父熊谷は・息子から突きつけられた「・・と(und)」の問いを証明してみせることを厳然たる課題として持ち続けなければなりません。そうでなければ親子の共同作業は完成しないからです。熊谷は「物語り」で我が子を殺した事実を隠して嘘を語り、さらに首実検では我が子の首を義経に差し出して・それを敦盛の首だと主張します。そこに親としての葛藤があるのはもちろんですが、これは死んだ小次郎に対する・残された者の責務であるのです。直実の葛藤の枷(かせ)が外部から強制されたものだと考えるのではドラマの理解はまったく不十分です。直実のなかの「・・と(und)」の意識が内側から自らを鼓舞し規制する・そういう内面からの枷だと考えなければなりません。
幕切れで義経が花道に立つ僧形の直実に小次郎の首を抱えて見せます。それは義経が『この小次郎がそなたの「・・と(und)」であったのだな』と言ってくれているということです。義経がこう言って涙して・直実の行為を認めてくれるからこそ直実親子は救われるのです。
(H18・4・8)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その5:「先代萩」における「・・と(und)」
『同志的結合とは自分の同志が目の前で死んでも・その死骸に縋って泣くことではなく、彼は自分の知らない他人であると法廷でさえ証言できることでなければならない。黙秘権は戦術的に利用されるが、黙秘権という法律上の逃げ道には、人間の行為の複雑な矛盾が秘められているはずである。黙秘権にこそ、人間の生命を賭けたものがあるはず かってくるのではないかと思う。なぜならそれは拷問による死を意味するのであり、たとえ多少の暴力的行動があっても、現代の法秩序は拷問を否認することによって黙秘権の実質を薄めているのである。』(三島由紀夫:「同志の心情と非情〜同志感と団結 心の最後的表象の考察」・昭和45年1月)
ここで三島の指摘する「同志的結合とは自分の同志が目の前で死んでも・その死骸に縋って泣くことではなく、彼は自分の知らない他人であると法廷でさえ証言できることでなければならない」は、まさにお互いの「・・と(und)」 の意味を確認する行為に他なりません。かぶき的心情の「・・と(und)」の確認の代表的なものが「先代萩」における政岡と千松です。
若君毒殺のために差し出されたお菓子を横から飛び出して食べた千松を八汐がなぶり殺しにします。そして、政岡の反応を確かめるように「政岡どの、こなたは悲しいと思わぬかいのう。・・・・スリャ、これでも悲しくはないか。これでもか、これでもか、これでも悲しくはないかいのう。」と問います。これに対し政岡は「何のマア、お上に対し慮外といい、親の顔まで汚せし千松、お手にかけられたはお家のお為」と言い放ちます。この場面の政岡の心情を竹本は「なぶり殺しに千松が苦しむ声の肝先へこたゆるつらさ、無念さをじっと堪ゆる辛抱も、ただ若君が大事ぞと泪一滴目に持たぬ男勝りの政岡が忠義は先代末代まで、またあるまじき烈女の鏡、今にその名は芳しき」と表現しています。
この場面はまさに政岡が千松に対する親子の「・・と(und)」を証明しようとする瞬間に他なりません。なぜならばこの瞬間に・政岡が母親の情を出して泣いたりしようものなら・千松の犠牲の行為がすべて無駄に帰するからです。この瞬間こそがまさに同志としての政岡の為所です。千松の行為を価値あるものにするも しないも・ここでの政岡の反応に掛かっています。だとすればなおさら母親としての情を出すわけにはいきません。母親の情を出さないことが母と子の確かな絆(きずな)を確認することになる という・この皮肉な状況こそがまさにバロックの引き裂かれた感覚です。(別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)政岡が平然として「(千松を八汐が)お手にかけられたはお家のお為」と言い放つ時が「・・と(und)」のドラマの頂点となるのです。 すなわち政岡にとって千松は我が子である以上に・「同志」なのです。(この稿つづく)
(H18・4・5)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その4:「忠臣蔵」における「・・と(und)」
「仮名手本忠臣蔵」における由良助のドラマは相手の心底を見極め、相手が「・・と(und)」の思いを託すに足る人物であるかを試すというところにあります。その点において由良助は慎重の上にも慎重で、 時に冷酷とさえ言えるほどです。しかし、このくらい冷酷でなければ決して大事は成せないのです。
由良助は勘平から届けられた五十両を受け取ろうとしません。「六段目」では・由良助の代理・郷右衛門は「まづもつてその方、貯へなき浪人の身として、多くの金子御石碑料に調進せられし段、由良助殿甚だ感じ入られしが、石碑を営むは亡君の御菩提、殿に不忠不義をせしその方の金子を以て、御石碑料に用ひられんは、御尊霊の御心にも叶ふまじとあつて、ナソレ金子は封の儘相戻さるる」と言って五十両を勘平に返してしまいます。勘平は絶望の淵に突き落とされますが、これこそが由良助の勘平に対する「・・と(und)」の問いなのです。
勘平は切腹に追い込まれますが・結果としてこれにより勘平は四十七士の連判状に名前を連ねることが許されるのです。もちろん討ち入りには勘平は加わることは出来ませんが、芝居の勘平は四十七士のひとりに確かに数えられています。(注:史実のモデル萱野三平は四十七士 には含まれません。)このことは非常に重要なことです。不忠を犯した勘平はこういう形でなければ・仲間に加えることが許されないのです。これが由良助の判断です。そこに由良助の「・・と(und)」の問いの厳しさがあります。由良助は勘平をそこまで追い込んで解答を迫ったのですが、このことは逆に言えば・由良助はそこまでしても勘平を仲間に加えたかったと読むべきなのです。由良助は「十一段目・討ち入り」の場において由良助は勘平の縞の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。これが由良助の「・・と(und)」 の本心でありました。
「九段目」における本蔵に対する由良助の態度も同じです。相手は息子力弥の許婚の父親であり・つまり由良助にとっては身内同然です。しかも本蔵が松の廊下で「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」と判断して (つまり親切心で)塩冶判官を抱きとめたことも由良助はよく分かっているのです。それでも由良助は本蔵を許すわけにはいきません。それは主人判官「恨むらくは館にて、加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と言い残して死んだからです。このことで由良助が苦しんでいることを本蔵は察しています。だから「九段目」で本蔵は悪役を装って登場し・わざと力弥の槍に刺されます。そして「・・と(und)」の答えを自ら提出してみせるのです。由良助は本蔵に討ち入りの心底を明かし、息子力弥と本蔵娘小浪との最後の逢瀬を許します。
どちらの場合においても由良助の慟哭が聞こえるようです。それほどにかぶき的心情における「・・と(und)」の問いの意味は重いものなのです。これを問うならば・問うた者も問われた者も命を賭けねばならぬ・そのような問いなのです。 (この稿つづく)
(H18・4・3)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その3:赤穂浪士における「・・と(und)」
「・・と(und)」の問いは男と女の間にだけあるものではありません。「忠臣蔵」のモデルである赤穂浪士の場合を見てみます。赤穂浪士の討ち入りは、基本的にはかぶき的心情に発したもので・「武士である自分・浅野家の武士である自分」というアイデンティティーから発するものでした。浅野家の断絶により奉公人である彼らのアイデンティティーの拠り所は失われました。このことに対する強い憤り・やり場のない怒り、それが「我ら浅野家中をこのような離散の憂き目にあわせたものに一矢報いずには置くものか」という初一念になって固まるのです。彼らをそのような境遇に追い込んだすべてのもの(その運命・政治的状況、その他彼らを取り巻くすべてのもの)に対して彼らは怒っています。その怒りの矛先が吉良に向けられたに過ぎなかったのです。それが赤穂浪士の吉良邸討ち入り 事件でした。(別稿「個人的なる仇討ち」をご覧ください。)
ところが大石内蔵助は幕府の取調べに際し・公儀への不満を一切漏らさず・ただ「亡君の無念を晴らさん為」の一点のみを主張しました。そこに赤穂浪士の処分をめぐっての喧々諤々の議論の焦点がありま した。すなわちこれを認めれば・心情に発する無謀な行動を正しいことを認めることになり、これを否定すれば封建社会の最高徳目である主君への忠を否定することになるということです。最終的に幕府は赤穂浪士に名誉の切腹という処分を与えることで・この窮地(ジレンマ)を脱します。こういう混乱した議論にな ってしまったのは、それがたとえ上下転倒したものであったとしても・かぶき者なりの「忠」が間違いなくあって・その「忠」と幕府が最高徳目とするところの「忠」との間の境目があるようでいて・実はなかったからです。赤穂浪士の討ち入りが純粋に武士の 倫理の行為であるならば、そのことで江戸の庶民があれほど熱狂し・「忠臣蔵」のドラマがこれほど日本人の心を捉えることは決してなかったでしょう。江戸の庶民はそれがかぶき的心情から発する行為であることをすぐに理解したのです。ここで重要な問題になってくるのが「・・と(und)」なのです。
内蔵助にとって「・・と(und)」の意味がどれほど重かったのかは、討ち入りに至るまでの彼の慎重すぎるほどの行動を見れば分かります。結果的に討ち入りに参加をしませんでしたが・強硬な討入主張派であった高田郡兵衛は・恐らく討ち入りに参加していれば実に頼もしい仲間であったでしょう。しかし、内蔵助にしてみれば郡兵衛は「私が・・私が・・」が少々強過ぎたのです。仲間をまとめていく内蔵助にとって「・・と(und)」が必須用件でした。それだけが彼ら仲間の心情に共通のメッセージ 性を授けるものでした。そのことを内蔵助は知っていたと思います。(この稿つづく)
(H18・3・31)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その2:「・・と(und)」という意味
このようにかぶき的心情に「・・と(und)」が加わることにどういう意味があるでしょうか。ひとつにはその心情が「私が・・私が・・」と言う・たんなる個人の我儘・自分勝手な思い入れというレベルから少し高い位置に引き上げられるということです。
『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』
お初がこう叫ぶことで、お初徳兵衛の心中は明確なメッセージを与えられるのです。それは『大坂商人の男徳兵衛 ・と・この男を愛した私お初』というメッセージです。これはまた「誰それの為に死す」という犠牲の意味合いを帯びてくることでもあります。「誰それの為に死す」という大義に自分のアイデンティティーを重ね合わせようとするのです。そのことによって町人にとっての「忠」 が崇高な意味合いを帯びることになるのです。
大事なことは「・・と(und)」が問いかけるところの「絆(きずな)」あるいは「一体感」というものは、そこに当然のものとしてあるものではなく・行動によって確認されなければならぬものとしてあるということです。それがかぶき的心情のドラマの核心になるのです。
「・・と(und)」についてさらに考えます。「・・と(und)」の問いかけは徳兵衛にだけでなく、もちろんお初に対しても突き付けられている問いでもあります。お初は遊女 という社会的弱者です。そのお初がかぶき的心情を発する時・彼女はひとりの人間・ひとりの女性であることを主張 します。これは考えようによっては非常に危険でラジカルなメッセージです。お初本人はそういう社会性まで意識していないでしょうが・これを発展させればそこまで到る危険性を孕むメッセージなのです。とりあえずそのようなお初の心情(あるいは意地と言っても良い)の根拠は何でしょうか。それは 彼女の恋した相手が徳兵衛という商人・大坂町人の誇りである商人であるということです。 徳兵衛の「大坂商人」というアイデンティティーこそ彼女の最後の砦なのです。
「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ」と言う時、もしかしたらお初は・本人よりもずっと憤っています。大坂商人の意地にかけても・この恥はすすがねばならぬ・私の愛する人はまことの大坂商人なのだから・ここでi一緒に死んで見せてやるということになるわけです。お初のアイデンティティーが徳兵衛の アイデンティティーに重ねられているのです。
つまり、お初にも「「私が・・私が・・」が確かにあるのです。しかし、お初の心情は「・・と(und)」によって・その心情に方向性が与えられています。メッセージ性が確かにあって・ たんなる個人の思い入れではなくなっています。これは間違いなく近松門左衛門が創作によって付け加えたものです。これこそが「曽根崎心中」の爆発的ヒットの秘密なのです。(この稿つづく)
(H18・3・28)
○かぶき的心情と「・・と(und)」・その1:「・・と(und)」という問いかけ
別稿「近松心中論」において、心中における「・・と(und)」という問いかけということを考えました。「・・と(und)については近松の心中物と対比されるべきワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」第2幕でイゾルデの言葉として出てきます。
「だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?」(第2幕第2場:イゾルデ)
「歌舞伎素人講釈」ではかぶき的心情を自我(アイデンティティー)の発露であるということを考えてきました。(別稿「かぶき的心情とは何か」を参照ください。)自我の発露ということは・その根本は「私が・・私が・・」であるということです。自我を主張しようとすれば するほど・その心情が強ければ強いほど、彼にとっての周囲(他人・世間あるいは社会)の意味が消し飛ぶのです。確立されていく封建社会のなかで個人と社会(あるいは個人と組織)の関係を固定しようとする江戸幕府 がかぶき的心情を非常に迷惑なものであると考えたのは当然のことです。かぶき者は内部から身分社会の体制を破壊する危険な存在でした。このようにかぶき的心情の根本は「私が・・私が・・」に発するものですが、そこに「・・と(und)」の意味が加わることで・その心情に何かしら方向性が与えられることになるのです。
「心中」という言葉は、その字形から分かる通り・武士が武士たる最高徳目である「忠」の字を分解して上下転倒させたものだと言われています。八代将軍・徳川吉宗は「忠」を連想させる心中を「もってのほか不届きの言葉なり」と激怒し、心中した者は「人にあらざる所行」・「畜生同断の者なれば」・「死切候者は野外に捨べし、しかも下帯を解かせ丸裸にて捨てる。これ畜生の仕置なりと御定被遊ける」(『名君享保録』)と言ったとも伝えられています。 この吉宗の怒りようはちょっと尋常でないように思えますが、これは単なるこじつけ・言い掛かりではないのです。為政者にとって許しがたいものがそこにあるからに違いありません。武士(つまり体制側)にとっての「忠」に対して・町人(あるいは個人)にとっての「忠」が「心中」であると解されたからです。
「心中」は何に対する忠であるのかということが問題になります。これはかぶき的心情に発するものですから基本的には「私の心情に対しての忠」であることは疑いないことです。しかし、それだけでは完全に割り切れないものがあります。それを鋭く問うのが先ほどのイゾルデの問いかけなのです。「曽根崎心中」の徳兵衛の場合でいえば、つまり・ お初の問いかけの意味はこういうことです。
「あなた(徳兵衛)が自分の心情だけで死んだとして、もしあなたのなかで「・・と(und)」の意味が断ち切られているのなら、徳兵衛は死んでも・私(お初)は死んでいないということなのじゃありません?」
この問いかけに答えを出そうとするならば、徳兵衛の取るべき方法はひとつしかないのです。まずお初を先に死なせ (殺し)・次に自分が死んでみせるということです。こうすることで徳兵衛は自分の「・・と(und)」を証明できて・誠の「男」となれるのです。 徳兵衛は死に・お初も死ぬということになるのです。(この稿つづく)
(H18・3・23)
○「をむなもしてみんとて」・その4:女形の文化戦略
これはあくまで吉之助の仮説ですが・平安期においてピークを迎えた女性文学はその後衰退していきます。これ以後、優れた女性作家は明治になるまで輩出してきません。これは恐らくその後の女性の社会的地位の変化ということに関連があるのですが、その後の日本文学というものが「実」・すなわちシリアスな方向に大きく傾いていくこと が原因しているとも考えられます。これは「平家物語」のようなものを想像してみれば分かります。このことは別稿「和事芸の起源」でも触れましたが、物語りのなかの「誣(し)い」的な要素が少なくなって・文学が全体的に真面目な 実の方向に次第に傾いていくのです。つまりは男のものになってきたと考えられます。
その一方で、芸能においては女性が活躍する場面がまず平安末期の白拍子においてあり・ちょっと時代は飛びますが出雲のお国というのも出てきます。とすれば女歌の実のなさという要素は、むしろ芸能の方に受け継がれているという気がします。以上の仮説は女性文学の内容とはまったく関係がないもので、「実のなさ」というレトリックに対する連想から来るものです。
ひとつには冒頭で記したような賓客(まれびと)を饗応する歌の掛け合いというのは演劇における掛け合い(例えば悪態における「そしり」と「もどき」)と似たようなものですから、その「実のなさ」ということ自体に演劇性があるのです。歌舞伎の創始は出雲のお国であり・女歌舞伎から出発したことはご承知の通りです。「実のなさ」というのは芸能を面白くする要素でもありますから、当然・彼女たちの技芸の大きな要素となったことでしょう。
しかし、歌舞伎において「実のなさ」が真にクローズアップされるのは実は幕府によって女優が禁止され・野郎歌舞伎になってからのことです。「実のなさ」こそが野郎の女役者(実のないところの女役者)すなわち歌舞伎の女形の必須の条件になった・そのように思われます。この時に紀貫之の「をんなもしてみんとて」という文化戦略が再び大きな意味を持ってくるのです。「をんなをしてみんとてするなり」が女形の戦略となるのです。
歌舞伎の女形もまた技巧・すなわち「実のなさ」を前面に押し出すことで自分を表に出すことを控えます。それが男という実体を観客に曝すことをせず・虚構の女を作り出す・野郎の女形のひとつの作戦でもありました。所作事(舞踊)が初期の女形の専売とされたこともこ のことが強く関連しています。所作事とは写実の芸ではない・つまり実がないものですから、これは女形の行うべきものである・立役が行うものではないと初期にはされたものでしょう。さらに歌舞伎のなかで女形の位置が確立した後にあっては・女形の芸は「実のなさ」を逆手に取る形で発展していきます。 女形の発生以後のことは「バロック的なる歌舞伎・その4・永遠に女性的なるもの」の女形論で考察をしましたので、そちらをご参照ください。
このように考えると日本古来の女芸の「実のなさ」というレトリックのなかに歌舞伎の女形の芸を位置付けることができ ると思います。突然変異的な存在である歌舞伎の女形のなかに も伝統的な古典的な要素があるということを考える手掛かりがここにあるということです。
(H18・3・18)
○「をむなもしてみんとて」・その3:控えの戦略
ところで女手=ひらがなは平安期に成立したものですが、その名前通り女性が作り出したものなのでしょうか。実はそうではないようです。「女手」とは「男手」と対をなす言葉です。万葉仮名を楷書や行書でしるしたのが男手、草書に崩せば草仮名、それが流れるように・もはや漢字の崩しと思えないほどに字形を変えてしまったのが女手・すなわちひらがなです。女手の女とは曲線的でたおやかな字形や書きぶり の比喩なのです。一方、公の文字である漢字は男・中国の比喩ともなります。漢字・特に楷書の漢字を真名(まな)・あるいは真字(しんじ)とも呼びますが、日本でできた文字の方 を仮名・つまり仮りの文字と呼んで卑下しています。これは大陸(中国)を真なるもの男なるおのとして立て・自ら(日本)を仮りのもの女なるものとして控える ・それでいて日本は中国とは違うんだよというところは内心にしっかり持つということが、日本の文化戦略であったのです。
紀貫之が「土佐日記」をひらがなで書いたのはご存知の通りです。その冒頭は「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」。これは筆者が女性であるという虚構をして・貫之が名前を隠してひらがなで書いたものとされています。しかし、この文の「をんなもし」は女文字 (=ひらがな)という意味であるとの解釈もあるようです。つまり「をむなもしてみんとて」とは「女文字してみんとて」で、この場合「し」の字は重ねられていると読めるわけです。貫之はもちろん漢文を自由に書けたわけですが、自分の気持ちを漢文で表現しようとするとうまく書けないという焦燥感がつねにあったのかも知れません。それで貫之は日記をひらがなで書こうとしたということのようです。つまり、これは貫之なりのしたたかな文化戦略でもあったのです。(以上は・芸術新潮・平成18年2月・特集「ひらがなの謎を解く」での石川九楊/小松英雄両先生の考察を参考にさせていただいています。)
しかし女手(ひらがな)が女性によって作られたものでないとしても、平安期に紫式部や清少納言らによる女性文学のピーク期があり・ほぼ同じ時期に女手(ひらがな)が成立するということは、やはり無関係でないように思われます。これは折口信夫が「女歌」論で指摘するところの・女歌の「実のなさ」にも関連します。「じらし」・「茶化し」・「気をもたせる」・「からかう」という技巧によって男の心情(実)を込めた歌を決してまともに受け取らないのが女歌でありました。つまり、技巧すなわち・「実のなさ」を前面に押し出すことで自分を表に出すことを控えるわけです。そうすることで本心を赤裸々に吐露することを避けるのです。それが「たをやめぶり」のひとつのあり方でもありました。 (この稿つづく)
(H18・3・14)
○「をむなもしてみんとて」・その2:女歌の実のなさ
折口信夫の「女歌」論をもう少し続けます。つまり、女歌の本義というのは・男たちが歌で言い寄ってくる・これを歌で以ってびしびしと払いのけるというところにあったのです。言い換えると女の歌には本当のところ「実」がない・男の歌には「実」がある、折口はそう言っています。これは女歌が嘘事であるとか・価値がないと言っているのではありませんので・怒らないでさらに折口の言うことを聞きましょう。
このことを折口は幾つかの歌を挙げて説明しています。例えば藤原広嗣が娘子(おとめ)に与えた歌「この花の一よのうちに、百くさのことぞこもれる、おほろかにすな」。貴人というのは歌の短冊をじかに渡すことは しないものだそうで、この場合は広嗣は桜の枝に短冊をつけて娘に手渡したものでしょう。その時に、この花のようにという心持もこめて・「いい加減にみてくれるな」と言っているので すから・これは真面目な歌なのです。ところがこの花をもらった娘は「この花の一よのうちは、百くさの言(こと)もちかねて、折らえけらずや」と返しています。「この花の一よ」はひとつひとつの花房です。この枝の花房にひとつひとつにいろんな女の思い出が籠っているから、それで支えられなくて・そのために折られたんでしょう」というのです。今ではクラシックな雰囲気に見えて分かりにくいのですが、「同じようなこと他の女にも言ってるんでしょ」みたいに茶化して突っ返している歌なわけです。男の歌をこういう風に突っ返す女が偉い・美人だということになるわけです。
あるいは文屋康秀が三河の国司の第三等官に赴任する時に・一緒に見物に行かれませんかと小野小町を誘った歌。当時の地方は都に比べれば寂しいところですが、地方の官吏というは結構その土地で儲けて・いい暮らしができた ようです。それで都の女官連中は誘われると(つまりは女房になれと言うことですが)ホイホイ付いていったものらしいです。ところがこれに対する小町の歌は「わびぬれば、身をうき草の根をたえて、誘う水あらば、行なむとぞ思う」とあります。「私はつらい境遇にあるから・行きたいとは思いますけど・ ・・おあいにくさま・私は行きませんよ」という歌なのです。後世の人が読むと・真面目な返答に思うかも知れませんが、そうではなくて・気を持たせておいて最後は突っぱねているわけです。
『ともかくそういう風の世の中だから、女は男にまともに答えておってはいけない。とうぜんその結果、女というものは非常にプライドが高い。平安朝の女の一番の資格はプライド が第一である。「心おごり」という言葉がありますが、それなのです。これのない女は上流の婦人としての資格がない。女というものは、男の言う通りすぐ従うというのは女の値打ちではない。昔のおんなは、そういう風に男をはね返す練習ばかりしておった。』(折口信夫・座談会「女歌について」・昭和8年1月)
折口信夫は今の感覚で見ると非常にまじめだと思われている歌が案外不真面目だということを言っています。このような「じらし」・「茶化し」・「気をもたせる」・「からかう」という ところがあって、男の心情(実)を込めた歌を決してまともに受け取らないのです。それが昔の女歌であったのです。(この稿つづく)
(H18・3・11)
○「をむなもしてみんとて」・その1:女歌について
本稿は女形芸に関する雑談ですが・最初は芸ごととは関係がありません。すんなり女形の芸ということに展開していくものかどうか、まあ、お読みください。
先日、テレビを見ていたら自然ドキュメンタリーの番組をやっていました。野生動物(虎だったか何か覚えていないが・それは大したことでない)のオスがメスに対して求愛行為をしているのです。オスは一生懸命に声を上げて自分をアピールします。ところがメスの方は知らぬ振り(?)です。さらにオスが近づいてメスに叫びます。するとメスの方は逆に威嚇するように突っかかっていくのですな。さらに健気にオスが近づいて尚もメスに求愛するのですが、メスはそれに応じず・ついにオスに噛み付いてしまって・オスは一目散に逃げてしまいました。ちょっと可哀想でありました。この場合はオスがメスの「お眼鏡にかなわなかった」のかも知れませんが、動物学的に言うと・このようにメスがオスの求愛行為に素直に応 じず・逆に威嚇して撥ね付けたりするのは、種族保存のためにより強い個体(オス)を求める自然の本能であるそうです。しかし、見ようによっては「ワタシはそんな簡単になびくような安いオンナじゃないんだからね・馬鹿にすんじゃないワヨ」という感じにも見えますねえ。フロイト的に見れば・そこに処女性を喪失することの恐怖みたいなものがあるようにも思えます。まあ、野生動物にフロイト分析もあったものではありませんが。(笑)
そんなことを思いましたのは、折口信夫が昔の和歌の・男歌と女歌はとても違ったものだったということを言っているのを思い出したからです。この折口の発言は昭和8年1月の座談会「女歌について」に出てくるものです。これを私なりの理解で書きますと次のようになります。大昔の祭りにおいては賓客(まれびと)を饗応(もてなす)する場合に、その役を村の処女が勤めるのです。まず男からそのなかでの一番の女を選びます。何によって選ぶ かというと、歌で以って掛け合う。それに女が歌で答える。その掛け合いに負ければ女はその男の言うことを聞かねばなりません。(この辺りは別稿「悪態の演劇性」で触れた「そしり」と「もどき」の関係にも当てはまるように思います。)
好きな男が仕掛けてくるならば・なびいてしまえばいいじゃないかと思いますが、そう簡単にはいかないのです。それでは「女がすたる」のです。昔の貞操観念は神様に対するもので・人間に対するものではなかったと折口は言っています。「みさを」という語は古くは神様に「見てくれ」と言うという意味なのです。だから祭りのような公の場において神に対して自分の気持ちを見せるということにな れば、簡単にそれを失ってしまうと不真面目・不信仰ということになってしまうから、とにかく儀式では負けないように努める。どうしても勝とうとする。それで昔の女は歌の練習を一生懸命したのだそうです。そうやって女の歌の技巧は発達してきたわけです。(この稿つづく)
(H18・3・8)
吉之助にとって歌舞伎とともに重要なのがクラシック音楽なのはご承知の通りですが、吉之助は音楽聴き始めの頃からヨーロッパ楽壇の帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンがずっと音楽鑑賞の中心でして、79年にヨーロッパに旅行した時はベルリンまで行きましたし(聴いたのはカラヤンではなかったですが・フィルハーモニーホールには行きました)、83年にはザルツブルクでカラヤンの指揮する「薔薇の騎士」も聴きましたし、まあ、そのくらいカラヤン中心だったことは間違いありません。カラヤンが亡くなったのは1989年7月16日のことでした。カラヤンは7月末に初日を迎えるはずだったヴェルディ:歌劇「仮面舞踏会」上演に向けて精力的なリハーサルの最中で・ホントに晴天の霹靂(へきれき)の死でした。もちろんニュースを聞いて吉之助も飛び上がるくらい驚きました。
吉之助がその後戸惑ったことは、カラヤンの生演奏が聴けなくなったことではなく・人がいつか亡くなるのは仕方ないことなので・そういうことではなく、自分のなかに「カラヤン以前」と「カラヤン以後」が出来ちゃったことでありました。これ以後の吉之助にとってクラシック音楽が現在進行形の趣味ではなく・過去形の趣味になったことです。もちろんそれ以後も素晴らしい指揮者はいますし・吉之助も演奏会も沢山行きましたが、それでも「過去形」の意識は今だに消えていません。それくらいカラヤンとの約20年が自分の歴史と重なっているということでしょう。
吉之助の歌舞伎では同じことが歌右衛門に関して言えます。歌右衛門は平成に入ってめっきり舞台に立つことが少なくなりましたが、それまでの昭和の終わりの十数年の歌舞伎を・吉之助は歌右衛門と重ねて見ていたという気がしています。平成 8年4月歌舞伎座で歌右衛門が「沓手鳥孤城落月」の淀の方を勤めた時に「いつ休演するか分からないのでその場合はご容赦を」というコメントが初日前に出たので・いても立っても居られず会社休んで初日を観たのが吉之助にとっての歌右衛門の舞台の最後でありました。(その後の舞台も映像では知っておりますが。)晩年の歌右衛門は舞台に立たなくなってしまったので・平成13年3月31日の訃報も不思議と「亡くなった」という衝撃が少なく、何だか静かにどこかに消えてしまったような気がしたものでした。この点はカラヤンの場合とは違いますが、五年たった今日考えて見ますと・やっぱり自分のなかにじわじわ「歌右衛門以後」が来ているなあという気がしています。
今月(平成18年3月)31日が歌右衛門没後5年ということになります。サイト「歌舞伎素人講釈」は平成13年1月に開始したのですが、考えてみると吉之助の「歌舞伎素人講釈」の歴史は「歌右衛門以後」にほとんど重なっているわけです。吉之助のなかでの歌右衛門の重さがそのまま「歌舞伎素人講釈」につながっていくような気がしています。付け加えますが、「過去形の趣味」であることが悪いことであるとは吉之助は全然思っていません。今こそ自分のなかの歌舞伎の形をじっくりと吟味し尽くせるということだろうと思っています。もちろん「生(なま)の時代の懐かしさ」を思いつつということではありますが。
(H18・3・5)
○歌舞伎の生(なま)感覚・その2:一番最後のものが正しい
九代目団十郎の「勧進帳」も「熊谷陣屋」の型も・九代目は演るたびにどこか変えて演じました。九代目は「俺が古典になるんだ」とか・「俺が後世の規範になるものを残す」などと考えたことは決してなかったと思います。現代の我々古典の規範として有り難がって見ている九代目団十郎の型は、九代目が何度も演じたうちの一番最後の舞台のものです。一番最後のものが残ったのは何故でしょうか。
ピエール・ブーレーズは指揮者であると同時に・現代の代表的な作曲家であります。彼の代表作「ル・マルトー・サン・メートル(打ち手のない槌)」は初演以来もう何度も書き換えられています。この頻繁な書き換えには固定を拒否する作曲者の前衛的な姿勢が反映しています。この曲 の録音も何種類かありますが、 当時の最新ヴァージョンを使用していますから・どれも内容が違っています。「一体どの版が正しいのですか」とインタビューで聞かれて・ブーレーズは即座に「もちろん一番最後のものが正しい」と答えています。このことは大事なことでして・決して軽く考えるべきではありません。ブーレーズは以前の版が間違っていたと答えたわけではないのです。彼は「判断するなら一番最後の版でお願いしたい」と答えたのだと思います。これは彼にとって疑いようがないことだと思います。一番最後のものだけが「古典」になる資格を与えられるのです。
九代目団十郎はその生涯に20回(興行)弁慶を演じ、演る度にどこかを変えて演じました。その結果、父・七代目の演じた舞台とはかなり違ったものになってしまいました。現行の「勧進帳」は恐らくは九代目が最後に演じた明治32年(1899)4月歌舞伎座の舞台を原型にしています。ここで疑って掛れば、もしかしたら最後の型より・もっと良いものが過去の九代目の型のなかにあったかも知れないと考えることもできます。文献に残ってなくて・我々が知らないだけかも知れません。あるいはもう何年か九代目が長生きして・もう一回弁慶を演じていれば・その舞台の型が残って・明治32年の型は消えていたと考えることも出来ますね。実はそういうことを考えることは「古典」を考える場合には意味がないのです。型の懐疑論としてなら意味はありますがね。「古典」として残るものは一番最後のものでなければなりません。このことは舞台であれ・音楽であれ・文筆であれ・表現を追及している者にとっては自明のことです。もちろん 吉之助にとってもそうです。サイトの文章をちょこちょこ読み直しては細かい言い回し直したりしてますよ。趣旨を変えたことはありませんが、しかし、もっといい表現があると思ったら修正はせねばならないと思います。生きているうちに完成などないと思っています。
風聞では勘三郎は「研辰」再演に当たり「あえて同じ配役と同じ脚本で押し通す」と言ったとも聞きます。ある方(名前はあえて伏す)がこれを「古典になろうとする寸前」と書いていたのには驚きました。 吉之助にはそれは「ミイラ取りがミイラになる」ことに思われます。勘三郎には・自分が生きているうちに「研辰」を古典にしようなどと思わないで欲しいものです。そんなことは歴史が決めるに任せればよろしいことです。生きているうちはせいぜい生(なま)することだと思います。
(H18・3・1)
○歌舞伎の生(なま)感覚・その1:「古典」を揺るがすもの
「野田版・研辰の討たれ」のようなお芝居は好きですか?とのご質問を戴きました。吉之助は理屈っぽいサイトで「伝統」を論じていますので・吉之助はこういう芝居は嫌いだろうと思っている方もいらっしゃるかも知れませんが、「研辰」嫌いではありません。まあ好きというほどでもないですがね。「これも歌舞伎だ」と思うくらいの許容性はある。(笑)しかし、昨年(平成17年)6月歌舞伎座での勘三郎襲名での「研辰」再演のビデオを・平成13年8月の初演時のビデオを比べてみると、細かい捨て台詞は別にして・台詞も演技もまったく同じ・配役もまったく同じということで、コピーを取ったみたいで・ 新しい発見がない舞台でありました。少しは演技(終盤の辰次の演技)に深みが加わったところがあるかも知れませんが、初演時の興奮を追体験したいお客の前では大した意味はないようです。 吉之助はこういうライヴ性を売りにした芝居の再演が初演 のコピーのような舞台になるのは残念だなあと思います。こうした芝居は公演を経るたびに絶えずどこかを変えていく事こそ本来だと思います。
たしか勘三郎は「江戸の・生き生きしていた時代の歌舞伎を蘇らすんだ」ということを言っていたと思います。その意気は結構なことです。しかし、その歌舞伎の生き生きした本質という ものは・どこから来るものでしょうか。江戸の時代には「伝統芸能」という概念も・「古典」という概念もありませんでした。当時は歌舞伎の台本は上演のたびに役者にあわせて細部を書き直すのが通例でした。そうやって趣向や工夫を凝らしたものでした。何をやらかしても歌舞伎は歌舞伎であったのです。しかし、今は「伝統芸能」や「古典」という概念が厳然としてあります。だとすれば現代において歌舞伎を活性化する対立概念(アンチテーゼ)を何に求めるのか見極めることは大事なことなのです。それは恐らくライヴ性・即興性ということになると思います。
例えば「熊谷陣屋」において九代目団十郎の型とまったく違う型を創造したとすれば・それが歌舞伎らしい型であるかとか・あるいは新しい熊谷の人物像を提示し得たかとかの議論はもちろんできます。しかし、そうした実験では「古典」という概念の根本を揺るがすことはもはや出来ないのです。まあせいぜいが古典としての型の並列でしかない。そして、いつの間にやら古典に取り込まれてしまうでありましょう。
現代における歌舞伎の「伝統芸能」や「古典」の概念を根本から揺るがすものがあるとすれば、それはライヴ性・即興性しかありません。歌舞伎を古典の束縛から解き放つというアナーキーな実験はただ新作においてのみ可能なのです。しかも、この実験は作品を慎重に選ぶ必要があります。最初から古典を目指したような作品ではそうした実験は無理です。これはドラマの主題内容とは関係なく、その作品のフォルムが大事なのです。つまり、同時代性と演技の生(なま)感覚が必要になります。その意味で・現代における稀有な劇作家である野田秀樹氏は適任でありましたね。
「研辰」初演はそれなりの意義があったと吉之助も思います。それは野田氏の作品の持つ同時代性と生(なま)感覚のおかげです。しかし、この実験の肝心なことは初演ではなく・むしろそれ以後の再演をどうするかだと思います。再演のたびに勘三郎は野田氏と協力して・場面や台詞の細部を絶えず書き変える・ もちろん主演は勘三郎で固定してよろしいが(このキャラクターは他に代えようがないでしょう)、他の配役はどんどん替えていかねばなりません。役者にはめて本筋に関係ない部分を少しづつ書き変えていく。そういうことでその作品はライヴ性・即興性を保つことができます。これは言うほど簡単なことではないと思いますが、しかし、野田氏にならできるだろうと思います。こうした試みを 繰り返し続けることで初めて「研辰」は「運動」となり・古典の歌舞伎へのアンチテーゼの意義を帯びるのです。野田氏と勘三郎にはそこまで考えてもらいたかったなあと思います。実にもったいないことです。(この稿つづく)
(H18・2・27)
○「近松心中論」補足:決して実現されないものへの・・
別稿「現代的な歌舞伎の見方」において、比較文化においては類似点を論じるのが肝要なのであって、相違点は論じてはならないということを申し上げました。相違点とはその事象の個性・あるいは独自性というべきなのです。別稿「近松心中論」は近松門左衛門の心中物とワーグナーの楽劇との比較論ですが、そこに注目すべき相違点が見られました。しかし全体の流れからはずれるので・本文では除外しましたので、ここに捕捉として掲載します 。それは楽劇「トリスタンとイゾルデ」(そしてその影響下にあると思われる三島由紀夫の短編「憂国」)において・男が先に死に・女がその後を追って男の死に殉じる形になっている ということです。
ワーグナーの「トリスタン」創作動機についてはいろいろ考えられますが、その背景として重要なのは作曲者とマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫関係であったことは疑いありません。オットー・ヴェーゼンドンクはスイスの豪商で・ワーグナーの有力な支援者でありましたが、ワーグナーはその妻マティルデと恋愛関係に陥ってしまうのです。この関係は堪忍袋 の緒を切ったオットーの強い拒絶によって破綻しますが、「トリスタン」の人物関係を見る時にこの不倫が強く影響しているのは明らかです。トリスタンの死に際し・マルケ王が許しを与える・イゾルデがトリスタンの後を追って愛の悦びのうちに死ぬという結末は、そう考えればワーグナーの人並みはずれた自己撞着・独善的で自己中心的な性格の現われと見ることもできます。
作品分析の場合に作者の実生活・性格の分析が得ることが多いのは事実です。芸術生成の過程というのは摩訶不思議なもので・生活から芸術が生まれるのか・芸術から生活が生まれるのかは判然としないところがあります。 しかし、場合によっては作者の人格と作品をはっきり切り離した方が良いこともあって、ワーグナーの場合は特にそうです。作曲家ウェーベルンは・友人がワーグナーはいかに独善的で不道徳であるか ・その人間的欠陥をずらずらと並べたてるのをずっと黙って聞いていましたが・友人がしゃべり終えるとボソッとひと言こう言ったそうです。「・・あなたはいいですよ。音楽家じゃないんだから。」
1983年バイロイト音楽祭の「トリスタン」演出でジャン・ピエール・ポネルがイゾルデの死を死に際のトリスタンの幻影であると解釈したことは別稿「近松心中論」でも触れました。ポネルは最終場面をトリスタンが微笑みながら死んでいく舞台端の方でイゾルデがマルケ王の傍に黙って立っているという形にしてしまいました。この幕切れはイゾルデがトリスタンを裏切ったということなのでしょうか。夫の強い拒絶によってマティルデがワーグナーの許を去ったという事実をポネルはアイロニカルに暗示しているのでしょうか。しかし、 ポネルの演出ではイゾルデのことを忘れて・トリスタンの心情だけを考えた方が良いのです。
重要なことはトリスタンの心情のなかで「私が・・私が・・」という思いが一方的に強く、そこにイゾルデが問いかけているところの「・・と(und)」の要素が若干欠けている ということです。そのくせトリスタンは「彼女 (イゾルデ)が自分のために死んでくれる」という願望だけはこれまた一方的に強いのです。逆に解すれば、これもトリスタンに「私が・・私が・・」が非常に強いことの裏返しなのです。このことをポネルは看破しているのです。
本当は男の側からすればその願望を完璧に遂行しようとするなら、トリスタンはまずイゾルデを殺し・その後に自害するという過程を取らなければなりません。近松門左衛門の心中物はまさにその過程を踏んでいるのですが、「トリスタン」はそうではないのです。そこにワーグナーの ある種の強い女性コンプレックスを見ることができると思います。「彼女が自分のために死んでくれる・それによって自分は救われる」という願望が非常に強いのです。思えば「オランダ人」のゼンタ、「タンホイザー」のエリザベート、「ローエングリン」のエルザ、「リング」のブリュンヒルデなどワーグナーの女性主人公たちはみな同じなのです。
三島由紀夫の短編「憂国」のパターンも「トリスタン」と同様な観点から分析できると思いますが、若干ワーグナーとニュアンスが異なるかも知れません。三島の場合には「もしかしたら実現しないかも知れないところの理想」という趣が強いのです。「 決して実現しない理想が実現する瞬間のために俺は先に死ぬ」という感じが三島にはあります。このことは三島美学に深く関わることだと思っています。
(H18・2・23)
別稿「漱石先生の憂鬱」において、坊ちゃんが「これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(まんじゅう)の後裔だ。」と言っていることに触れました。これについて ちょっと注釈を付けておきます。 坊ちゃんの言葉を本気にしてはいけません。
源満仲(みなもとのみつなか)すなわち多田満仲(ただのまんじゅう)は清和源氏の元祖と祀られている人物ですが、江戸期においてはお菓子のお饅頭が庶民の間に広まったことで「只の饅頭」と洒落て語られるようになった人物 です。江戸期にベストセラーになった柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』は歌舞伎の題材にもなり、風俗衣装に源氏模様・源氏絵・源氏名などの流行をもたらしました。そうしたことから「百姓も元は清和の流れなり」という川柳も作られています。まあ、先祖が清和源氏というと・そう言っておけば偉そうに聞こえるし、真偽を確かめようと思っても確かめようがないということです。だから坊ちゃんが「オレは清和源氏だ・先祖は多田満仲だ」と言っているのはそうした江戸っ子の薄っぺらなところを 自嘲的に示しているわけです。
「坊ちゃん」の3ヶ月前に書かれた「我輩は猫である・7」にも銭湯で客が「和唐内はやはり清和源氏さ。」と言っているのを聞いて「何を云うのかさっぱり分らない」と 猫が呆れる場面があります。これも同じようなものです。
しかし、明治維新間もない頃の話ですから、坊ちゃんが旗本出身であったということは・これはその通りに受け取る必要があると思います。現に樋口一葉なども旗本の娘であるというプライドだけで・どんな苦労も耐えるのです。 それは坊ちゃんの行動・無鉄砲な正義感にも出ています。このような痩せ我慢は当時の江戸の士族にはあったことです。 福沢諭吉も「痩せ我慢の記」と言う文章を書いています。こうした江戸っ子気質・特に士族の痩せ我慢の心情は、結構、漱石の精神背景を考える時に重要なことだと思います。
その意味で小谷野氏が「坊ちゃん」を「嫗山姥」に結びつけていくのも・ちょっと見は強引な持って行き方に見えるかも知れませんが、 これは結構いい所を突いているように思います。むしろ、この場合には小谷野氏の発想の強引さを楽しむ余裕が欲しいものですね。さらにこの論理の強引さを引き継げば・これは別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」で触れたように、胸に込み上げてくる言い様のない「怒り」・どうにもならぬ「いらだち」を腹のなかに抱えつつ・「これでいいのか」と自らに問いながらただ黙って耐える庶民の心情につながっていく わけです。これが明治末期から大正・昭和初期にかけての「時代的気質」なのです。そういうわけで明治の時代的心情を考える時に漱石は欠かせませんし、漱石から新歌舞伎を考えて見ること も十二分に面白いことかと思います。
(H18・2・19)
○近松心中論・その11:「心中天網島」における移行の技法
「心中天網島・道行名残の橋尽くし」の場合の重要なモティーフ(動機)は因果・あるいは報いです。 本作には「紙=髪=神」のイメージが随所に散りばめられていることは別稿「たがふみも見ぬ恋の道」でも触れました。この「道行」でも同じです。冶兵衛は小春に入れあげて・本業の紙屋商売をないがしろにした・その大坂商人としてあるまじき行為の報いを受けるということです。
「悪所狂いの。身の果ては。かくなり行くと。定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。明日は世上の言種(ことぐさ)に。紙屋治兵衛が心中と。徒名(あだな)散り行く桜木に。根堀り葉堀りを絵草紙の。版摺る紙のその中に有りとも知らぬ死に神に。疎き報いと観念も。とすれば心引かされて歩み。悩むぞ道理なる。』
注意しなければならないのは因果はあくまで自我(アイデンティティー)の主張の結果としてあるもので・決して原因ではないということです。だから小春冶兵衛が因果のことを口にする時・それは今までやってきたことの悔恨を意味するのではありません。恋人を愛し・精一杯生きたことの結果としての死(心中)をそうなる運命(成り行き)であるとして「然り」と受け入れようという気持ちが「因果」の意味するところです。だとすれば、冶兵衛の心中は「因果」という論理において大坂商人・冶兵衛のアイデンティティーを逆 の方向から証明しようとするものに他なりません。
もうひとつのモティーフ(動機)が彼岸(死)への思いです。ここでも生への思いが淡いのと比例するように・死への思いも淡い印象があります。その思いは「橋」・すなわち此岸と彼岸をつなぐものによって象徴されています。
「そなたも殺し我も死ぬ。元はと。問えば分別のあのいたいけな貝殻に。一杯もなき蜆橋(しじみばし)。」・「此の世を捨てて。行く身には。聞くも恐ろし。天満橋。」
小春冶兵衛の心中に「・・と(und)」の意味を与えたのはおさんであることは「その7」でも触れました。注意せねばならないのは、それは彼らが おさんのメッセージを自らの意志で引き受けたもので・彼らが否応なしにその状況に追い込まれたのではないということです。あくまでその行為はかれらのかぶき的心情の結果としてあるのです。しかし、その身にのしかかって来るものの重さが因果として強く意識されています。それが「諦観の情」に似た色合いを呈するのです。
「曽根崎心中」(元禄16年・1703・世話物第1曲)と「心中天網島」(享保5年・1729・世話物22曲目)とはその心情の表出に違いがあるのも事実です。小春治兵衛はそのかぶき的心情を内に熱く秘めて・ その心情の熱さを表面に出してはいないからです。一気に書きあげられて筆致に熱さがあった「曽根崎心中」と違って・「心中天網島」の場合は既に練り上げられた古典的な序破急のフォルムがあって・そのなかにドラマがぴったりと納まっていますから、「道行」も必然的に魂の救済への段取りの位置付けを占めるということが言えます。逆に言えば・そこに近松の執筆時期の違いが感じられます。次第にのしかかってくる時代状況の重さが感じられるのです。江戸幕府が心中者の刑罰を定め、心中物の出版・上演を禁止したのは享保8年2月のこと・それは「心中天網島」初演(享保5年12月)から2年ちょっと後のことでした。
『このオペラが上演禁止になるのではないかと心配です。完璧に上演すると聴衆は気が変になってしまうに違いありません・・・そうとしか思えません。」(1859年 4月15日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
ワーグナーの楽劇は幸い彼が心配したような上演中止の事態には至りませんでした。その代わり彼の楽劇が後世に及ぼした影響は計り知れないほどで、西欧芸術におけるワーグナーの影響を論じていたらキリがありません。一方、近松の心中物は江戸幕府により上演中止に追い込まれてしまいました。この後は近松作品の多くが改作によって上演されることになりました。そこに近松の心中物の観客を狂わせる危険な熱さがあったのです。 (この稿終わり)
(H18・2・10)
○近松心中論・その10:「曽根崎心中」における移行の技法
『「トリスタン」第2幕冒頭部は激越な熱情に溢れ返らんばかりの生を示し、終局部はこの上なく厳粛で切実な死への欲求を示しています。両者は2本の柱なのです。ご覧下さい、あなた。どのようにして私がこれらの柱を結びつけたのか、いかにしてそれらが一方から他方へと導かれているのかを!』(1859年1 0月19日、ワーグナーの手紙)
「曽根崎心中・天満屋」においてお初の「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」という台詞はかぶき的心情 の頂点で、死ぬことによって・最高に永遠に生きようとふたりの意志を示します。この相反した・ふたつの柱を結びつけるのが「道行」です。
『(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)
キーン氏は「二人は歩きながら背が高くなる」と指摘しています。彼らは歩きながら・(まだ死んではいないけれど)次第に常の世の人ではない存在に変化していくのです。これが「移行の技法」の効果です。それがどういう要素から生み出されるのかを考えて見ます。
「曽根崎心中・道行」に見られるのは、まず現世に対する未練・後ろ髪惹かれる思いです。これが第1のモティーフ(動機)です。それは死に行くふたりの激烈な生への欲求の名残りなのです。彼らは既に死ぬことを決意しており・そのことを後悔しているのではないのですが、生への欲求の熱さが彼らの歩みを意後ろから引っぱろうとするのです。
「この世のなごり。世もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足づつに消えていく。夢の夢こそあはれなり。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残るひとつが今生の。鐘のひびきの聞きをさめ。寂滅為楽と響くなり。」
第2のモティーフ(動機)が彼岸(死)の安らぎです。これが彼らを前へひっぱる力となるものです。このことは「その5」で述べたように・生への激烈な興奮が醒めた時「どうして不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ」という心理過程から来るものです。そうやって生への希求がそのまま死への衝動に切れ目なく移行していきます。
「雲心なき水のおと北斗はさえて影うつる星の妹背の天の河。梅田の橋をかささぎの橋と契りていつまでも。我とそなたは女夫星(めおとぼし)必ず添うとすがり寄り」
「道行」ではこの相反するふたつのモティーフ(動機)が交錯しながら・心中場への橋渡しをしています。ワーグナーと違うのは ・淡白な日本人の近松の場合は移行にかける時間が短いということだけです。「曽根崎心中」は近松にとっては初の世話物浄瑠璃の試みでした。ふたりが一気に心中に突っ走ってしまいそうなところに近松はぐっとブレーキをかけて・ふたりのために(そして観客のために)彼岸への過程をじっくりと用意 するのです。(注:「曽根崎心中」の場合は冒頭の「観音廻り」も移行の技法 だと言えます。これについては別稿「観音廻りの意味」をご参照ください。)(この稿つづく)
(H18・2・9)
ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」の副題に「3幕のハンドリングHandling」と記しています。ハンドリングとは劇の進行・展開のことを意味する言葉です。ワーグナーはさらに私的な意味を付け加えており・直接的な和訳が難しい概念ですが、まあ、あえて言えば「劇における内的な移行手法」のことを 指していると思います。ワーグナー自身は「トリスタン」第2幕をその移行の実例として挙げています。
『「トリスタンとイゾルデ」第2幕冒頭部は激越な熱情に溢れ返らんばかりの生を示し、終局部はこの上なく厳粛で切実な死への欲求を示しています。両者は2本の柱なのです。ご覧下さい、あなた。どのようにして私がこれらの柱を結びつけたのか、いかにしてそれらが一方から他方へと導かれているのかを!それは実際、私の音楽形式の秘密でもあるのです。大胆な言い方をすると、この音楽形式がこれほど首尾一貫した・個々の細部を包括するまで完全に広げられた形で適用されるとは、いまだかつて予感すらし得なかったのです。(中略)どれほど特殊な芸術部門においても、それがこのように偉大な中心的モティーフから成されない限り、真なるものは何ひとつ発明されないということを。それが芸術なのです!しかし、この芸術は、私の場合、生と密接に関係しています。極端な気分どうしが互いに激しく葛藤するということは、いつまでも私の性格に固有なものであり続けるに違いありません。とは言えこれらの気分が他人に与える効果を測定しなくてはならないのは、私にとって心の重いことではあります。理解されるということは、それほどまでにしても欠かすことのできない重要なことなのです。さて、本来の一般的な生においては知られることのないような極端な大いなる気分を、芸術のなかで人に理解させたいと考える場合、この理解は、移行は、移行を最も明瞭かつ説得力のある形でモティーフ化することによってのみ達成できるのです。そして私の芸術作品はおしなべて、まさに必要とされている自発的気分をこのモティーフ化を通じて引き起こすということによって成立しているのです。』(1859年1 0月19日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
台本の段階において・ワーグナーが論理論理の執拗な積み重ねにより心情を段階的に高めていく手法はお察しいただけると思いますが、音楽においても・ワーグナーはモティーフ(動機)を繰り返す・あるいは重ね合わせることで・音楽の内的必然を論理的・かつ段階的に高めていくのです。その効果はワーグナーの音楽を聴けばもちろん実感できますが・なかなか聞き通すのは難儀なオペラですから・別の有名曲を挙げれば・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」の第4楽章での前半部が移行の技法の好例です。ちなみにワーグナーはベートーヴェンのこの曲を聴いて作曲家を志したそうですから、何かのインスピレーションがあったのかも知れません。
ベートーヴェンの第9交響曲は・もともと純器楽形式である交響曲に人声を挿入するという「革命」を行おうとするものでした。しかし、その革命がトンデモないことだと聴衆に感じられれば実験は無駄になってしまいます。 最初の実験においては・それが斬新かつ「これこそが我々の待っていたものだ」と聴衆が感じるような内的必然が曲に必要になるのです。そのためにベートーヴェンは第1楽章冒頭から人声を登場させるようなことをせず・慎重すぎるほど慎重に事を進めるのです。第9番は第3楽章までは普通の交響曲です。舞台ではオーケストラの後ろに合唱団が控えているのですから・初演の時の聴衆だって・いつか曲に人声が入るんだろうとは感じていたと思いますが、ベートーヴェンはその「期待」を裏切ります。第4楽章でもいきなり人声を出すことをしません。第4楽章冒頭でまず第1楽章主題を回想・その否定「いやそれは求める主題ではない」、第2楽章主題の回想・その否定「いやまだまだその主題ではない」、第3楽章主題の回想・その否定「いや悪くはないがまだ何かが足りない」、そのような 器楽による執拗な論理的なやり取りの後に・第4楽章の歓喜の主題の断片が奏でられて・「それだそれだそれこそが我々の求めているものだ」となります。そして静かに歓喜の主題が管弦楽によって歌われます。しかし、それだけでもまだ完全ではありません。「おお、友よ、このような調べではない」、ここで突然バリトンの独唱が入ります。まさに聴衆をじらしにじらしたあげくに人声が入ります。ベートーヴェンは第9番において人声が入るまでに・このような面倒な論理的・段階的な手続きを踏んでいるのです。これこそがまさにワーグナーが言うところの「移行の技法」です。
「移行の技法Handling」は音楽的な定義が難しいもので、ここがそうだと明確に言えません。それは作曲家のなかにある必然のイメージだからです。しかし、ワーグナーの作品を聴けば・彼が何を考えていたのかはおぼろげに理解できます。ひとつの現象としては、外的展開としての歌唱(舞台上の歌手による言葉によるドラマ展開)は抑えられ、内的展開としてのオーケストラ言語が雄弁になるということです。つまり、オーケストラによる心象風景の描写によりドラマを内的に展開させるということです。この時にアインシュタインが一般相対性理論で説くところの時空のひずみ(光速に近い速度で移動する物体の時間進行は遅くなる)に似た現象がおきます。つまり、オーケストラによる内的展開が高まるとドラマの時間がゆっくりとなる現象が起きるのです。 (別稿「吉之助の音楽ノート・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」をご参照ください。)
これと同じ現象が近松門左衛門の心中物の道行にも見られます。義太夫においては太夫が地語り(登場人物の台詞部分)も務めますから、太夫は歌手とオーケストラを兼ねているわけですし、その内的展開(主として色の部分がそれに当たります)も言葉によるわけですから・その境目が分かりにくいかも知れません。しかし、「道行」における詞章はすべて登場人物の内心における声ですから・すべてオーケストラ言語であると考えて良いと思います。このことは歌舞伎の義太夫狂言ならばより明確に舞台上に見えています。「道行」においては役者は黙して語らず・振り(動作)のみで演技 し、すべての心象風景(人物の言葉)は竹本(オーケストラ)によって語られるのです。(この稿つづく)
(H18・2・5)
近松門左衛門の心中物(「曽根崎心中」・「心中天網島」)と・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」(及びそれにインスピレーションを受けたと思われる三島由紀夫の短編「憂国」)には、注目すべき違いがあります。それは近松のふたつの心中物では女(お初・小春)が男(徳兵衛・冶兵衛)に刀で刺されて先に死ぬことで・男がその後を追って自害することです。一方、ワーグナーの楽劇ではトリスタン(男)が先に死に・イゾルデ(女)がその後を追って死ぬことになります。「憂国」も同じパターンです。
「トリスタンとイゾルデ」最終場面(愛の死)については1983年バイロイト音楽祭でのジャン・ピエール・ポネルの伝説的とも言える名演出があって・これは非常に 教えられるところが大きいものです。(この舞台はビデオで見られます。 バレンボイム指揮・ユニテル製作)普通の演出では原作通りにトリスタンが先に死に・イゾルデがその後で法悦状態で死ぬのですが、ポネル演出ではトリスタンは幕切れまで死なず・イゾルデの死は死に行くトリスタンの幻想であったということになっています。トリスタンが絶命する幕切れではイゾルデは死なずに・マルケ王の傍に黙って立っています。 トリスタンはイゾルデが自分のことを思いながら死んでいくことを想像しながら・喜びのなかで絶命するのです。
このポネルの演出の根拠ですが、第2幕第2場でのイゾルデの歌詞 『だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?』から来ています。トリスタンの心情のなかにある自己撞着をポネルはアイロニカルに見せているのです。それは・ひたすらに死を希求するトリスタンのなかでは・自分のために死んでくれるイゾルデの姿が潜在的に求められているからです。トリスタンのかぶき的心情はイゾルデが自分のために死んでくれて初めて完成するのです。ここに私が・・私が・・と・ ただひたすらに自分だけの心情に没入し・死の衝動へ向かおうとするトリスタンの心情的な亀裂があるのです。トリスタンの心情にはイゾルデの指摘するところの「・・と(und)」の意識が少し欠けているところがあるのです。そこにポネルの強烈な問いかけがあります。三島の「憂国」の場合でも、後から愛する妻が自分のために死んでくれるという確信が・先に切腹する中尉の強い自己陶酔につながっています。もしそれが崩れてしまえば (夫人が死んでくれなければ)三島の美学は成立しません。
近松の心中物にも「・・と(und)」の問いかけが強烈なものがあります。それは宝永4年(1707)に竹本座で初演された「卯月の潤色(うづきのいろあげ)」です。これは夫婦心中ですが・冒頭にお亀と与兵衛が心中を図り・お亀は死に・与兵衛だけが生き残ります。結局は与兵衛は後追い心中するということになるのですが、これは決して心中のパロディーではなく・かぶき的心情での心情的な亀裂・「・・と(und)」が意識されているわけです。
「曽根崎心中」・「心中天網島」では先に男(徳兵衛・冶兵衛)が女(お初・小春)を殺し・その後を追って自害するわけですから・女の側からみて愛する男が自分のために後から死んでくれるという陶酔があるということになるかも知れません。これはこう考えることもできます。先に死んだ女が男を導いてくれるということです。そうなれば男が女の後を追って死ぬ行為はまさに女に対する彼の誠・すなわち「・・と(und)」を証明しようとする行為に他ならないのです。(この稿つづく)
(H18・2・3)
楽劇「トリスタンとイゾルデ」には興味深い点があります。イゾルデが「暗いところにはあなた!明るいところにはわたし!」(第2幕第2場)と歌うことです。つまり、トリスタンとイゾルデは一体のようですが、ふたりの立場には微妙な相違があって・歌うことが若干ずれているのです。歌詞を読んでいるとトリスタンの方が自分だけの心情にのめりこみ・死への衝動に遮二無二突っ込んで行こうとする感じがします。それをイゾルデはやさしく微笑みながらトリスタンをいなして・客観的な方向へ導びこうとする感じがあります。
例えばトリスタンが「いま死んでいっても・どうして愛までが私と一緒に死ぬでしょう。永遠に生きる愛がどうして私と一緒に死ぬでしょう。」と歌うと、イゾルデは「ですけれど、その愛はトリスタンとイゾルデって言うのじゃなくって?」と言うのです。トリスタンはさらに「トリスタンがつねにイゾルデを愛し、永遠にイゾルデのためばかりに生きることを妨げようとするものだけが死ぬのです」と歌います。この後のイゾルデの歌詞は 重要です。
「だけどあの「・・と(und)」という結びの言葉、それがもし断ち切られたら、イゾルデがひとり生きていて・トリスタンは死んだということに他ならないのじゃありません?」(第2幕第2場:イゾルデ)
トリスタンは私が・・私が・・とばかり言って・自分のことばかりで・ひたすら死の方向へ向かおうとするのですが、イゾルデは「その愛はトリスタンとイゾルデと言うのではないの」と冷静に指摘します。イゾルデにとっては愛は「私」でも「私たち」でもなく・ ふたりは「・・と(und)」で結び付けられねば意味がないのです。トリスタンの死に対して・明確な意味を与えるのがイゾルデの役割です。「曽根崎心中」においても・お初の役割は徳兵衛に対して・その死に明確な意味を授けることでした。
『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』
お初がこう叫ぶことで徳兵衛の行動は明確なメッセージを与えられるのです。たとえお初徳兵衛がふたりして死んでもこのメッセージがなければ・その死が大坂の観客の心情に火をつけることはなかったに違いありません。ここには 『大坂商人の男徳兵衛 ・と・この男を愛した私お初』という明確な「・・と(und)」があるのです。だから、お初は「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」となるのです。
「心中天網島」の場合にはもうちょっと構造が複雑です。小春はお初のような明確なメッセージを吐くことはありませんし、どちらかというと受身です。一見すると小春治兵衛のふたりは女房おさんへの申し訳で死ぬように見えるかも知れません。しかし、よく文章を読んでみ るとそうではないことが分かります。実は小春治兵衛のふたりに「・・と(und)」のメッセージを授けているのはおさんなのです。演劇的に見れば中の巻「紙治内」で五左衛門に連れ去られた時点で・おさんは死んでいます。おさんが小春治兵衛に先立って 演劇的に死んで・ふたりに「・・と(und)」を与えて・ふたりを導いていると考えれば良いと思います。
このことは網島の心中場において小春が冶兵衛と違う場所で死ぬことを主張する場面に明確に現われます。(別稿「惨たらしい人生」をご参照ください。)ここで小春冶兵衛はおさんへの義理を想起し・おさんに感謝しながら・改めておさんに授けられた「・・と(und)」の意味を確認しているのです。違う場所で死ぬからこそ・ふたりのなかで「・・と(und)」がより強く意識されるのです。 (この稿つづく)
(H18・2・1)
別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」において明治10年代の民衆のなかに湧き上がっていた変革の気分・そして明治30年代にはそうした熱い気分が急激に冷えていって・ 逆に閉塞感が民衆に広がっていくということを考察しました。このような時代の気分を考慮に入れないと、明治期の散切り狂言や松羽目舞踊の背景は十分に理解されません。また黙阿弥晩年の世話物作品群や・団十郎晩年の古典再検討の背景も理解できません。
このような時代的心情を考えるには・歌舞伎から考えるよりむしろ当時の最先端の知識人のことから考察した方がもちろん早道です。例えば日本人に一番人気のある文豪・夏目漱石 のことです。明治の文明開化において・日本人は江戸の否定を迫られ、無理に無理を重ねて西欧を真似しようとしたわけですが、特に無理をしたのがヨーロッパに留学して西洋を学んだ最初期の人々で した。そのひとりが漱石です。ロンドン時代の漱石は、向こうから背の小さい・貧相な男がやってきたと思ったら・それが鏡に写った自分の姿であったとか、あらゆることが劣等感の種になって・ついに神経衰弱になって下宿に閉じこもってしまいま した。
漱石の「文学論」を見ると、留学前に漱石が思っていた文学とは漢文や漢詩による文学だったのが・ロンドンに着てみると欧米文学とは随分違ったものだったと言うことを書いています。ロンドン留学でなくて・北京留学ならどんなに良かったろうというような述懐もしている ようです。要するに漱石は江戸の文化人としての素養を身につけた人であったわけです。そういう人が無理矢理西洋振るのは辛かったのでしょう。つまり、無理に自己否定しようとしても・ルーツとしての・アイデンティティーとしての江戸が厳然としてあり・そのことが漱石を憂鬱にもさせ・また文学者漱石の創作の原動力にもなっているわけです。このことが「九代目団十郎以後の歌舞伎」での 歌舞伎変容の過程とほぼ二重写しとなるわけです。しかし、漱石にあまり踏み込むと「小説素人講釈」になっちゃいますし、今の吉之助は漱石の小説を読み直す余裕がありませんので・いずれ漱石のことは機会があれば取り上げることにします。
漱石は歌舞伎のことを直接にほとんど取り上げていません。「硝子戸のなか」では幼い頃に母や姉が芝居見物にいそいそ出かける光景が回想されているのが数少ない文章のひとつです。これは当時の庶民の生活のなかで芝居見物がどういうものであったかを知る上でも貴重な文章ですが、しかし、少年漱石がそれで芝居に興味持ったわけではないようです。と言うより漱石は芝居があまり好きでなかったようです。漱石は歌舞伎について『極めて低級に属する頭脳をもった人類で、同時に比較的芸術心に富んだ人類が、同程度の人類の要求に応じるために作ったもの』と書いております。(明治42年5月・「明治座の所感を虚子君に問われて」)(これについては「吉之助の雑談・漱石の歌舞伎観」をご参照ください。)
しかし、漱石の作品のなかにも江戸人としての素養が反映しています。小谷野敦著「夏目漱石を江戸から読む」(中公新書)は、そういう漱石の一面をちょっと変った角度から考察していて興味深い本です。 ちなみに小谷野氏はなかなかユニークなキャラクターの先生で・あちこちで論争を仕掛けて物議を醸しておられるようですが、歌舞伎にも造詣が深い方です。この本のなかで「坊ちゃん」での主人公の赴任地での騒動と金平(公平)浄瑠璃(つまり初期の荒事)との対比・そこに江戸っ子の反骨精神を見るなどはなかなか興味深いところです。これだけなら「ああ、似てるみたいね」で終わるわけですが、金平(坂田金時)というのは源頼光の四天王のひとりでありまして・頼光は清和源氏 の祖・多田満仲の長子であります。実は「坊ちゃん」のなかに次のような文章があるのです。
「江戸っ子は意気地がないといわれるのは残念だ。宿直をして洟垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。」
まあ、無理に関連付ければ「嫗山姥」(こもちやまんば)の山姥に「清」の原型を見るということもできるわけです。もっとも漱石が歌舞伎ファンとはとても言えないわけですから、歌舞伎・浄瑠璃から小説「坊ちゃん」が発するということではなく・江戸の教養人としてのアイデンティティーから発するということです ね。しかし、そうした江戸の素養が歌舞伎から来ているものが多いことも確かなことです。(その他の作品については小谷野氏のご本をご参照ください。)いずれにせよ明治という時代の精神状況を考える時、漱石を抜きにしては語れないと思います。
(H18・1・30)
○近松心中論・その6:昼と夜
楽劇「トリスタンとイゾルデ」第2幕には「たくらみ深い昼」・「ねたみ深い昼」というような表現が頻出します。
「日が沈んだ時、昼は去ったが、嫉妬の意味をなおも絶やさず、威嚇のしるしを松明(たいまつ)にして、私が近づけないように、恋人の戸口にかざすとは。昼!たくらみ深い昼!不倶戴天のこの敵を私は憎んで嘆きます!」(第2幕第2場:トリスタン)
「おお、むなしい昼のいやしさ!あなたをだましたその昼に私もだまされて、愛しつつも私はあなたのためどんなに苦しんだことでしょう。昼の色のいつわりの美しさや人をあざむく輝かしさに迷わされた私は、熱い愛の思いがあなたをめぐっている間にも、心の奥底からあらわにあなたを憎みました。しかし胸の奥ではその傷は何と深く痛んだことでしょう!」(第2幕第2場:イゾルデ)ここでの昼は「現実」と考えられます。彼らを縛り・彼らの自我の実現を阻むものです。社会的な柵(しがらみ)・義理・名誉とも考えられます。これらの台詞はそのままお初徳兵衛・小春冶兵衛の台詞であると考えてもよいものです。その一方でトリスタンとイゾルデのふたりは夜への憧れを歌うのですが、その響きは死への衝動に次第に傾いていきます。
「おお、永遠の夜!気高く尊い愛の夜!おまえに抱かれ微笑まれては、誰が目覚める時、不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ。やさしい死よ、あこがれ求める愛の死よ。おまえに抱かれおまえに捧げられ、太古からの清い熱に包まれて、おお、目覚める苦しさから、解き放たれたい」(第2幕第2場:二重唱)
上記の歌詞はもちろん昼を対立的に捉えてはいます。また、「たくらみ深い昼」・「ねたみ深い昼」というように昼に対する敵対心をあわらにもしています。しかし、ここでの「夜」 を愛の陶酔とだけ考えると一面的になります。この「トリスタンとイゾルデ」のドラマの場合にはたまたまそれが強いだけなのです。「夜」とは自我が何の束縛もなく・あるがままに振舞える自由な状態を指します。
大事なことは彼らの意識からは「世間・社会は消え去って」いるということです。彼らは純粋に自分のことだけしか考えていません。だから、夜の陶酔が醒める時、「どうして不安を覚えずにいられよう?さあ、その不安を追い払っておくれ」ということになるのです。昼への意識を追い払ってくれるものは死しかないということにな るのです。彼らはその状態にとどまっていたいと感じます。だから、その感情があまりに強過ぎると・夜への憧れがそのまま死への衝動に重なっていくのです。
これらの台詞はそのままお初徳兵衛・小春冶兵衛の台詞であると考えてもよいと思います。ここに「かぶき的心情」のメカニズムを読み解くヒントがあります。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照いただきたいですが、江戸初期に熱病のように流行した「殉死・仇討ち・心中」はすべて同じ心情から発 していました。それは「それなら死んでみしょう」というかぶき的心情です。何か激すると自分の心情を立てるためにすぐ直情的に「それなら死んでみしょう」となるのです。かぶき的心情と死とが隣り合わせにあるのです。
かぶき的心情と死とが隣り合わせになるのは何故でしょうか。一般的には「それなら死んでみしょう」という行動に彼らを駆り立てるのは「恥の概念」であると理解されています。世間の眼が彼をそういう事態に追い込むとするのです。しかし、その論理では江戸中期までの歌舞伎浄瑠璃のドラマは決して正しく理解できません。「歌舞伎素人講釈」はかぶき的心情を自我の主張であると位置づけています。(かぶき的心情の時代的変遷については別稿「特別講座・かぶき的心情」をご参照ください。)
そう考えれば、お初の「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」の台詞の根底に潜む生への熱望と死への衝動の本体が理解できると思います。
まったく楽劇「トリスタンとイゾルデ」の歌詞を読んでいると「ドイツ人は論理にエクスタシーを感じるのかね」と言いたくなりますね。実際、音楽を聴いていてもワーグナーの音楽は寄せては返る波の如くで・その心情を近くで描き ・しつこく反復していきます。そのねちっこさは淡白な日本人にはちょっと辟易するところがあるのは事実です。近松の「曽根崎心中」であると・お初徳兵衛は一気に心中に突っ走っていきますから・その辺の心理過程は十分に描かれているとは言えません。というより・近松には筆の勢いが必要であったのです。しかし、ワーグナーが心中にひた走る男女の心情をかくも論理的に・段階的に描写してくれたことで、かぶき的心情の詳細な分析が可能になるのです。(この稿つづく)
(H18・1・28)
ワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」作曲中に次のような手紙を書いています。
『この「トリスタン」は途方もないものになりそうです!この終幕!このオペラが上演禁止になるのではないかと心配です。下手な上演で全体がパロディになってしまわない限り・・・まずい上演だけが私には救いです。完璧に上演すると聴衆は気が変になってしまうに違いありません・・・そうとしか思えません。ここまでやらなければならなかったとは!」(1859年 4月15日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
心中をするふたりの意識から「世間・社会は消え去って」います。彼らは純粋に自分のことだけしか考えていません。世間や社会は彼らの意識の範疇にはなくて全然関係がないはずなのに ・どうしてワーグナーは「トリスタン」が上演禁止になるのではないかと心配したのでしょうか。
それは死を志向する本人たちがどう思っていようがいまいが・無視された社会(世間)の側から見れば・心中した彼らは社会を言外に否定したと見えるからなのです。このような自分のこと だけしか考えない連中が続出したら、社会の枠組みが内側から壊されてしまいます。「社会は関係ない・俺たちは俺たちでいい」という意識を持つということは・社会から見れば非常に気に障ることです。だから社会は心中を反社会的行為であると決め付けます。心中はそのような反社会的な要素を持っているのです。
享保期には心中する者が続出したため、享保8年(1724)幕府はたまらず心中物の上演や・読み本の出版を禁止してしまいました。「完璧に上演すると観客は気が変になってしまうに違いない」というような伝染性の魔力を近松門左衛門の心中物 も持っていたのです。
近松の心中物に関して言えば、その行為は半ば意図的に読み替えられてきたと言えます。なぜならば心中をストレートに賛美することはお上に対して常にはばかられることでしたから、近松の心中物は設定を若干変えて・本来の意図を隠蔽しながら上演されてきました。例えば「曽根崎」での九平次、「天網島」での太兵衛の存在です。主人公を悪意を以って陥れ・破滅に導く悪役に彼らを仕立て上げること で・彼らが主人公を死ななければならない状況に追い込むように改作がなられました。そうすれば心中が本来持っている先鋭的な要素(反社会的意味)は隠され、主人公は哀れな相対死 (あいたいじに)に向かう同情すべき被害者ということになるのです。
そのような読み方は最初は意図的に行われ・ついにはその本来の意図さえ忘れられたものでしょう。お初徳兵衛・小春治兵衛は世間の義理の狭間で死すというのが現代での近松の心中物での一般的な解釈かも知れません。しかし、それでは近松の本来の意図は見えてこないのです。(この稿つづく)
(H18・1・26)
○近松心中論・その4:心中のメッセージ
「トリスタンとイゾルデ」第3幕の「愛の死」における・トリスタンの死を前にしたイゾルデの語りかけは印象的です。
「おだやかに静かに、彼が微笑んで目をやさしく開けているのが、みなさんには見えないの?次第に明るく輝きを増して星の光に包まれてながら空高く昇っていくのが、みなさんには見えないの?彼の心は雄雄しく盛り上がって豊かに気高く胸のうちに湧き出ているのに、そして唇からは楽しく穏やかに快い息が静かに通っているのに、みなさん、そうでしょう?それが感じられないの?見えないの?」
これは歌詞をその通り読めばイゾルデが愛する人の死を前にして気がおかしくなり・幻覚に襲われ・他人には見えない光景を見て・その幻覚に酔っているようにも読めますが、そうではないのです。否定疑問はしばしば婉曲な勧誘であることを考慮せねばなりません。これを書き換えれば次のようになります。
「おだやかに静かに、彼が微笑んで目をやさしく開けている姿を見て。次第に明るく輝きを増して星の光に包まれてながら空高く昇っていく姿を見て。彼の心は雄雄しく盛り上がり・豊かに気高く胸のうちに湧き出て、唇から楽しく穏やかに快い息が静かに通っているのを感じて。」
つまり、イゾルデは訴えているのです。明確なメッセージを周囲に放射しているのです。この作品の強烈な毒気はそこから来ると考えなければなりません。近松の心中物の場合は主人公は声高な自己主張はしません(そこが日本人の奥ゆかしさだなあ)が、もちろんその行為のなかに強烈なメッセージが込められているのです。お初が言いたいことは「彼(徳兵衛)は大坂商人であることの意地に殉じるのです。そして私(お初)は彼への愛に殉じるのです。それが見えないの?(そのことを見てください。)」ということです。お初は言葉には出しては言わないけれど、そ う訴えているのです。
「死にきつて嬉しさふなる顔二ッ」
この川柳は「俳風柳多留」初編にあるもので・明和2年(1765)の刊行ですので、「曽根崎心中」(元禄16年=1703)からは60年以上経っていますが、これをイゾルデのメッセージと合わせてみれば、心中に赴くふたりの気持ちは理解されましょう。(この稿つづく)
(H18・1・23)
○近松心中論・その3:永遠に生きるということ
ワーグナーの楽劇作曲前に書かれた散文叙事詩「トリスタンとイゾルデ」のなかでトリスタンは次のように自らに問います。(この部分は若干改訂されて第2幕第2場に出てきます。)
『どうして私たちに死ぬことが出来よう?私たちの何が、愛以外の何が殺されうると言うのか?私たちはすべからく愛から成ってはいまいか?私たちの愛に終わりなどあるだろうか?私が死にたいと思うなら、そのとき愛は、私たちがすべからく愛から成っているその愛は死ぬとでも言うのだろうか?』
愛について語っているのにワーグナーの文章は全然情緒的でないのです。正直申して・文学的修辞としては上等とは言い難く・文章に酔うわけにはいかないと思います。非常にドイツ人らしいと言うべきですが・ワーグナーは論理的に自分の感情を掘り下げ・論理を積み上げながら自分の感情の必然を次第に高めていくのです。ここでトリスタンが主張することは「私たちの愛は不滅である・その愛が死なない以上私たちが死ぬことはない」ということです。
これは徳兵衛の台詞でも・治兵衛の台詞であってもおかしくないものです。「歌舞伎素人講釈」では心中を決行する彼らの心情を「かぶき的心情」という概念で考えてきました。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)個人の心情の発露・アイデンディティーの主張というものがその鍵となります。それが周囲の状況により実現されない場合に、当然本人は満たされない思いになり・憤り・その解消と・願望実現に動こうとする のですが、もちろん周囲の状況はそれを容易に許さないのです。心中物の場合には、その葛藤が「それならば死んでみしょう」という形で現われるのです。
「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」・「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」というお初の台詞は、世間からの逃避を意味するのでは ありません。ましてや自虐的な自己破壊行為でもありません。まさに彼らは死ぬことによって最高に・永遠に生きようとしているのです。そのことが心中物の本当の意味です。(この稿つづく)
(H18・1・21)
○近松心中論・その2:世間の消失
ちなみに三島由紀夫について言えば楽劇「トリスタンとイゾルデ」は三島美学に非常に近い存在であると言えます。三島が監督・主演を務めた映画「憂国」(これは夫婦心中物であると言えます)では、背景音楽にこの曲( ストコフスキー指揮の録音)が使用されています。「憂国」は 2・26事件にまつわる若き陸軍中尉夫妻の心中事件がテーマです。まず夫の中尉が切腹し・その後に夫人が夫の後を追って自害します。(この順番が重要であるのでご注意いただきたいと思いますが、このことは後で考えます。)映画ではこの場面で「トリスタン」の最終場面「イゾルデの愛の死」の音楽が流れるのです。まず「トリスタン」について・作曲者ワーグナー自身が書いた文章を少し長いですが引用しておきます。
『死に絶えることなく、つねに新たに生まれ変わり、中世ヨーロッパのあらゆる国の言葉で詩作された、あの太古の愛の詩が、私たちにトリスタンとイゾルデのことを語っています。忠実な臣下は、自分が仕える王の代理で、ある女に求愛の意を告げますが、自分自身その女を慕っているなどという大それたことを認めようとはしません。この女イゾルデは、彼の主君の花嫁として彼について来ますが、それはこの求愛の使者の言うがままについて行くほかなかったからなのです。自分の権限が侵害されたことに嫉妬した愛の女神は、報復行為に出ます。つまり、当時の風習にならって、花嫁の心配症な母親が政略結婚の相手に飲ませるために持たせてよこした媚薬を、この女神は、ある過失、それはじつに機略に富む過失なのですが、それを通してこの若いカップルに飲ませてしまいます。それを飲んで燃え上がる情熱にとらわれたふたりは、たちまち自分たちこそ互いを愛しているのだと打ち明けざるを得ません。もはや愛の憧れ、愛の欲望、愛の倫悦と不幸はおしとどめがたく、世界、権力、名声、栄誉、騎士道精神、忠誠、友情、これらすべてが実体のない夢のように雲散霧消してしまい、後に残るのは憧れ、憧れ、次から次へと膨れあがる抑えがたい欲望、渇望、そして満たされぬ苦しい思いだけなのです。救いとなるのは、死、絶命、滅亡、そして永久の眠りだけなのです!』(1859年12月19日、リヒャルト・ワーグナーからマティルデ・ヴェーゼンドンクへの手紙)
ワーグナーはここで「世界、権力、名声、栄誉、騎士道精神、忠誠、友情、これらすべてが実体のない夢のように雲散霧消してしまい、後に残るのは憧れ、憧れ、次から次へと膨れあがる抑えがたい欲望、渇望、そして満たされぬ苦しい思い」だけであると述べています。これこそ「歌舞伎素人講釈」において提唱している「かぶき的心情」と同質のものです。
「曽根崎心中・天満屋」で九平次は徳兵衛の悪口を言いまくりますが、お初は涙にくれながら、独り言になぞらえて・縁の下にいる徳兵衛に「さのみ利根(りこん)に言はぬもの。徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」と徳兵衛に決心を即します。そして徳兵衛の覚悟を知ると、「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫びます。
お初が「死んで恥をすすがいでは」と叫んでいるから世間が意識されていると考えては、かぶき的心情は決して理解できません。ふたりのなかで世間は「雲散霧消している」のです。お初は自分のなかにある潔白を主張しています。そこにこの男・徳兵衛を愛した私の真実(アイデンティティー)があるからです。そして、そうした視点から見れば社会的な義理とか名誉・世間的な見栄などというようなものは彼らを決して縛るものではなく・それらは彼らを束縛する力さえも持たないのです。彼らにとって世間なんてものはもはや意味はないのです。はっきり言えば彼らは自分のことしか考えてないわけです。(むしろ世間は彼らにとっての劇場であると言えます。)そしてこの点が重要なところですが・そのようなかぶき的心情のピークにおいては「救いとなるのは死・絶命・滅亡・そして永久の眠りだけ」なのです。このことがお初・徳兵衛を心中に追いやるわけです。 (この稿つづく)
(H18・1・19)
近松門左衛門の「心中天網島」を考察した時(別稿「惨たらしい人生」)に、日本文学研究の権威サイデンステッカー氏の三島由紀夫の思い出話を引用しました。この点について少し注釈を付けておきたいと思います。
『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンとイゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー:「鮮明な人物像」・決定版・三島由紀夫全集・月報35)
中世の北欧伝説にもとづく騎士と王女の道ならぬ恋物語と、実説に基づく等身大の男女の恋物語では観客の感じるリアリティー・主人公に対する思い入れが異なるかも知れません。なぜ三島が「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と言ったのか。まずそのことを考えてみます。
ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」では、トリスタンは半ば自殺に近い形でメロートの剣に身をさらし・傷ついて・やがて死ぬのですが、その後・幕切れ近くで、マルケ王がその場に到着して彼を許し・イゾルデがトリスタンの後を追って果てる(「愛の死:Liebestod」)という筋書きです。トリスタンとイゾルデの死は心中と言ってもいいものですが・苦悩の果ての至福の死という感じで ・ふたりが許されて死ぬことで決着というか・筋書きとしてオチが着いているという点が観客が涙するに至らない要因であるように思われます。ワーグナーの最後の場面の音楽はそれはもう狂おしいほどに美しいものですが。(この結末の意味については後ほど改めて考えます。)
近松の心中物(ここでは特に「曽根崎心中」と「心中天網島」をイメージしています)においては、死は決して美化されていません。死は直視しなければならないものとして意識されています。もちろんその向こう(彼岸・死)にある甘美なものは強い憧れとしてあるのですが、そこに到るための行為(つまり死ぬこと・生から死への移行)への怖れ・慄きが非常に強い障壁として意識されています。これをくぐり抜けなければ甘美なものは決して得られないということを近松は知っているのです。それがドラマで は「「惨たらしさ」という形で現われます。近松の視点は現世的で・かつ冷徹なほどのリアリズムなのです。近松の心中物の主人公は、大坂の町人にとって身近で等身大で( つまり主人公への思い入れがしやすく)題材が生々しいことが観客を涙させる要因になっています。
しかし、この「トリスタンでは泣かない観客がお初徳兵衛では泣く」ということはワーグナーの楽劇の欠陥で・ふたりの死のドラマが近松の心中物とは全然異なるということでしょうか。そうではありません。その違いは男女ふたりの愛の死のドラマの本質的なところではないのです。三島もこのことは当然分かっているのです。むしろ心情レベルにおいてこのふたつは非常に近いところにあります。だから、サイデンステッカー氏が日本の近松の心中物に対して・西洋には「トリスタンとイゾルデ」があると主張したことはある意味において正しいのです。そこで本稿では「トリスタンとイゾルデ」と近松の心中物を重ねながら、両者の共通項であるところの心情とドラマツルギーについて考えてみたいと思います。 (この稿つづく)
(H18・1・17)
○現代的な歌舞伎の見方・その6:文化遺産としての歌舞伎
ユネスコの「世界自然遺産」というのがありますが、日本でも屋久島・白神山地・知床半島が登録されているのはご存知の通りです。実は世界自然遺産規約では山地を切り開くとか・道路やホテルを作るとか再開発は厳しく制限されています。日本では「世界遺産」をキャッチフレーズに観光客を呼び込んで一儲けしようと考えていた方が多いようで、世界遺産に登録されてから「当てが外れた」と言ってブーブー言う方も少なくないようです。しかし、考えれば分かることですが・「世界遺産」というのは「保全(今の状態を未来の人類のためにそのまま取っておくこと)」を目的としているのです。
昨年(平成17年)11月26日に歌舞伎が「無形文化遺産」に登録されました。このことがどういう意味を持つかはそう考えればよく分かると思います。松竹さんが「さあこれで外国人観光客が呼び込めるぞ」と算盤はじいているならお間違えです。責任は重いのですぞ。先行して指定を受けた能狂言・文楽の場合と ・歌舞伎の無形文化遺産登録とは若干意味合いが異なると考えなければなりません。歌舞伎はまだまだ興行として十分に成り立ち・伝統芸能としては固まり切っていないところがあるからです。つまり、まだ生きているというか・「死んではいない」・生(なま)な芸能であるということが言えます。しかし、歌舞伎は自らを「伝統芸能」であると世界に向かって宣言した わけです。このことの意味は将来じわじわと出てくるでしょう。
ご注意願いたいですが・歌舞伎が無形文化遺産であると規定されたからと言って、スーパー歌舞伎が駄目・コクーン歌舞伎が駄目になると言うことではないのです。そういうことを言っているのではないのですよ。しかし、歌舞伎役者が自らが「伝統的である」ということをどう 受け止めるかです。単に「面白いか・面白くないか」ではない芸の尺度がこれからは求められることになるのです。だから、いつぞや三津五郎がインタビューで「今の時代には難しいかも知れないがスタンダードでありたい」(雑誌「演劇界」・平成17年2月号)と発言していた方向性が伝統芸能家として正しいこと になります。
これからの歌舞伎役者にはそうした姿勢が求められます。当然ながら見る側(評論家・観客)も同じです。そうなれば今の歌舞伎のあり方も変らざるを得ないかと思うのです。そういうわけで伝統を考える「歌舞伎素人講釈」の役割は今後もそれなりにあるかなということを考えているわけです。 (この稿終わり)
(H18・1・15)
○現代的な歌舞伎の見方・その5:シアター・ドロップアウト
タイトルは刺激的ですが・冗談半分であります。しかし、冗談半分ということは本音も混じっているということではあります。カナダの名ピアニスト・グレン・グールド(1932−1982)はそのキャリアの途上で・64年に突然「コンサートは死んだ」と宣言して一切の演奏会活動から退き・以後レコーディングだけに専念することになります。この「コンサート・ドロップアウト」は演奏会における聴衆との関係や演奏の一回性に疑問を提起したもので、特に芸術とメディアとの関連を論じるうえで多くの哲学者や社会学者の興味をそそって来ました。グールドの関連本は多いですから・興味ある方はそれをご覧戴きたいですが、「コンサート・ドロップアウト」というのは平たく言えば、録音技術が進歩した現代では少なくとも音楽・音そのものを純粋に鑑賞する(グールド的に言うなら思索する)ことにおいては演奏会という「場」は必ずしも必要でない・どころか邪魔な場合もあるということになるのかと思います。
吉之助は別に「劇場不要論」を考えているわけではありません。これからも芝居は「生」が基本となるのは間違いありませんが、ビデオの発達した現代では鑑賞(というより吉之助的に言うところの解析・思索)においては特に「生」にこだわらなくても良いと思っています。映像資料が増えてきた昨今は、もう少し映像に対して積極的な対し方があって良いと思っています。歌舞伎チャンネルは特に地方にお住まいの歌舞伎ファンに新たな可能性を拓くと思います。サイトの「歌舞伎舞台の記憶」を ご覧になれば・もちろん吉之助が生で見た芝居の感想もありますが・舞台録画の感想もあり・吉之助の生まれる以前の映像の感想も載せています。どれも等しく材料として・ 批評空間の時系列を壊すことを意図しています。
吉之助がこうであるのは・ひとつにはこの十数年は仕事やその他の関係で芝居を年に2〜3回しか生で見ていないということがあります。(その昔はそれこそ片っ端から見ておったのですけどね。)もうひとつは吉之助はクラシック音楽の方では・ほとんどこれがレコード(CD)鑑賞主体ということがあります。吉之助はフルトヴェングラーやトスカニーニはもちろん生では聴いていない(生まれる前に死んでたのです)し、生で聴いたカラヤンやバーンスタインも・聴いた回数は圧倒的にレコードであるからです。 音楽においてはビデオ(DVD)批評はすでに当然のものになりつつあります。「生(なま)信仰」というのが吉之助の場合には根本的にないのかも知れません。
観劇ファンの方には「生信仰」は根強いと思います。これは無理もないことです。だから「見てない舞台のことは話せない・ビデオで見ても所詮は代用品・まあ論じるにしてもせいぜい参考程度」という意識になるだろうと思います。劇評も舞台を見たら(つまり上演されたら)すぐ書かれないと駄目だし、もちろんビデオは劇評の材料にならないということになる。しかし、吉之助の場合は十年前の舞台で引っ掛かっていたことが今頃なるほどと思う場合があるので、十年後に思い出して批評を書くことも良しと思います。そういう批評の方が重いこともあると思います。だから生で見てない舞台の映像のことも話題にします。まっ、NHKや歌舞伎チャンネルで録り貯めたビデオも多くあることなので・そういう風にこれからもやっていきたいと思っています。それじゃ客観的批評にならない?いや客観性は書き手のなかにあるものかと思いますね。 (この稿つづく)
(H18・1・13)
○現代的な歌舞伎の見方・その4:比較文化の手法
吉之助が歌舞伎とともに音楽・特にオペラを大事にしているのは、「歌舞伎素人講釈」をお読みの方はご承知のことと思いますが、別稿「八つ橋の悲劇」はビゼーの歌劇「カルメン」と三代目新七の「籠釣瓶花街酔醒」を重ね合わせたものでした。もちろんカルメンと八つ橋は全然互いに関連のない事象です。しかし、明らかに似た症候を呈しているのです。それはなぜかと言えば同じような 歪んだ心情が根底にあるからです。別稿「空想の劇場」でアンドレ・マルローの「空想の美術館」の概念を紹介しました。小品の「走る牡鹿」の写真を拡大して・ロマネスク大聖堂の大壁彫の写真を縮小して・同じサイズで並べて鑑賞するのです。その比較から見出されるものは何でしょうか。
比較文化論において大事なことは類似点だけを論じることです。相違点はそれはそれとして受け止めて流すということが必要です。このことはしばしば間違えられています。相違点 を主に論じれば論旨はしばしばとんでもないところへ展開していきます。巷の比較文化の論文には相違点をあげつらって日本の独自性を論じて・いつの間にやら排他論あるいは独善論みたいになっているものを 多く見かけます。発生地点が異なるものが違った特徴を示すのは当然のことで、それは特性・あるいは個性と認識すべきことです。しかし、類似点には何かのとっかかり(何と言いますか・汎人類的理解へのとっかかりとでも言うべきもの)がある場合が多いのです。 類似点だけが一見したところ全然関係ないようにみえる事象を結びつけるのです。もちろん似てればそれで良しというものでもないですが、類似点に事の本質が潜んでいる場合が多い。これを見つければ比較することの意味が出てくるのです。
例えばリンゴの木はバラ科です。リンゴはバラのような棘はないし蔓もない・おいしい果実のなる樹木で、見た目はバラと全然違います。しかし、リンゴがバラの仲間であることは花弁を調べれば分かるのです。クジラが哺乳類であることも、そのヒレがあり・四足を持たない魚のような形態からは想像ができません。そのためにはクジラの生態を観察せねばなりません。カルメンと八つ橋も同様です。彼女たちが仲間であると分類することは彼女らの独自性を損なうものではなく、むしろその個性に新たな 普遍的な意味を与えるものです。その分析のためにあえて事象を分解し・解体し・解析し・分類する作業が必要になります。「歌舞伎素人講釈」はそのような空想の劇場の解析場なのです。そこから歌舞伎のまったく新しい姿が見えてくるでしょう。そういう解析作業がこれからの歌舞伎には必要になってくると思います。
「歌舞伎素人講釈」の最初期の論考「義経と初音の鼓」は初音の鼓について狐忠信にとっては懐かしい親であり暖かい愛の象徴・人間の世にあっては醜い権力闘争が象徴されているとするものですが、これはワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」 四部作でのラインの黄金からの連想で読み解けます。ラインの黄金はラインの乙女たちの手元にあるときには豊かな自然の恵みの象徴 でありますが、ラインの乙女たちの手を離れて・神々と人間の世界にあっては醜い権力と欲望の象徴に変化するのです。「ニーベルングの指輪」には・これを階級闘争として読み込もうとするバーナード・ショーの有名な論考がありますが、権力闘争に溺れ・やがて終焉を迎える大神ヴォータンに後白河法皇 の朝廷政治の終焉を重ねることも可能でありましょう。知的遊技(一種のパズルを解く楽しみと言えましょう)としてもこれは面白いことですが、ワーグナーの楽劇に先駆けること百年前に日本で「義経千本桜」が成立していることは意味があるかも知れませんよ。(まあ、このことはそのうちにメルマガに書くことになると思います。)そういう風に思考展開していくのが「歌舞伎素人講釈」なのです。 (この稿つづく)
(H18・1・11)
○現代的な歌舞伎の見方・その3:構造主義的な見方
芸術にはいろんなジャンルがあります。演劇は一応「総合芸術」ではありますが、おそらく芸術としては俗に近いものです。つまり、演劇は芸術としてはちょっと低く(ロウ・ブロウに)見られていると思います。(映画も同様に考えられます。)これは演劇というジャンルの持つ宿命みたいものです。その要因はいくつか考えられますが、演劇は対話で展開するのが基本ということがあるように思います。すなわち、誰かさんと誰かさん(あるいは複数の誰かさん)との関係で計られていて・つねにA対Bで進行するのです。独白のようなものでも聞かせる対象は意識されています。基本的な構造が単純で2元論的である(つまり具象的である)と言えます。2元論というのは人間の肉体感覚に発した最も原初的・基本的な意識構造なのです。逆に言えば単純に一面的に割り切るものであり・形而上学的とは言えないところがあります。演劇は個人 だけで作り上げるものではないから観念が形而上学的に(抽象的に)高められる度合いが少ないのかも知れません。そのぶん 大衆にアピールするところがあるとも言えます。その辺が演劇がやや低めに見られるところの原因であるかと思います。逆に言えば吉之助が思うには・演劇は音楽よりもずっと作品解析がし易いと思います。主題が具象的であるし・登場人物の構図がほとんど2元論的であるからです。
最近の「歌舞伎素人講釈」での記事「桜姫断章」はそうした構造論の試みのひとつです。例えば「桜姫断章」においては清玄を「肉体を喪失した精神だけの存在」、一方の権助を「精神を欠いた肉体だけの存在」と見ます。「桜姫という業」においては桜姫を宇宙の律の権化と見て・清玄をその観察者と見ます。観念的な・深読み的 な解釈のように見えると思います。しかし、「桜姫東文章」や「東海道四谷怪談」のような作品はそのような観念的・構造主義的解析に見事に耐えるのです。それは南北が作品的に優れているということがあるのはもちろんですが、それは実は演劇が本来持つところの2元論的なシンプルな構造によることから来るもので ・その分析手法は完全に伝統に立脚したものなのです。
ただし、伝統に立脚したものであっても・その分析手法はこれまでの歌舞伎批評であまり用いられなかったものであるかも知れません。吉之助の構造主義的歌舞伎観はラカン派の心理分析に影響されるところが大きいものです。フランスの学者ジョルジュ・ラカンはフロイト精神分析理論の権威です。フロイト理論はわが師としている武智鉄二が歌舞伎の解釈に取り入れたこともありますが 、何と言うかその用い方はまだ部分的・表層的であって・歌舞伎全体の構造分析にまでは至っていなかったと思います。歌舞伎評論でこうした分析手法を本格的に駆使するのは不肖「歌舞伎素人講釈」がおそらく最初のことかと思います。
構造主義的解析が現代的な方法論であるのは、現代が連関性を喪失しており・ひとつひとつの事象がバラバラに見える・そのために本人自身が直面している事態を明確に認識できないことから来ます。このような時代においては、まずひとつひとつの事象を解析し・その意味を読み込んでいく・世界を再構築する作業がどうしても必要にな ります。演劇あるいは映画というものは、その最も解析し易いところの・ この時代を計るための・じつに好都合な材料なのです。特に歌舞伎においては・非常に人為的な・歪んだバロック的な要素をその内面に持っている(別稿「バロック的なる歌舞伎・歪んだ真珠」をご参照ください)わけですから、 歌舞伎は現代を先取りしているとさえ言えます。すなわち構造主義的解析は歌舞伎において・もっとも伝統的かつ現代的な手法となるのです。武智理論の後継者を自認する吉之助はサイト「歌舞伎素人講釈」において・この方向を追求していきたいと思っています。 (この稿つづく)
(H18・1・8)
○現代的な歌舞伎の見方・その2:抜け落ちているもの
もうひとつ感じるのは、今の巷にあるところの歌舞伎の見方が時代に対する係わりが切れたところにあると感じられることです。歌舞伎の知識というものが教養の一部(つまり知っているに越したことはないが・別に知らなくてもいいような程度の知識)としてだけあって・それが史観あるいは人生観に裏打ちされたものとして感じられないということです。これについては最近、テレビの英語教育番組で体感による英語トレーニングで人気の言語学者・大西泰斗氏(著書「ネイティヴスピーカーの英文法」など)が語っていることが歌舞伎にもそのまま通じると思います。
『大学受験もくぐり抜けて・高校の英文法などはほとんどわかっている、だけどサッパリ英語はできない。いったい何が足りないんだろう。結論から言えば、「全部」抜け落ちているんですよ。言葉が使われる状況も、感触も、何もかも抜け落ちた、骨格標本のような文法規則しか頭に入っていない。単語をある程度知っていても、それが実際どんな感触で使われるのか、一番肝心なことが抜け落ちているんです 。相手の表情、相手との人間関係、発音のされかた、その文の使われ方と前後の文脈、そうしたものが無数に折り重なって、確固とした語感が築かれる。使うべき場所がわかってくる。「形式主語」といった貧弱な規則や日本語訳を頭に入れただけでは、まともに英語を使えるわけがありません。私は「理論」を作っているつもりはなくて、今までこぎれいに整理・整頓されてきた―そしてその結果まるで使い物にならなかった―知識を、語感の混沌の中に一度戻してあげているのです。 』(大西泰斗:サイト「英語タウン」インタビュー:詳細はhttp://www.eigotown.com/culture/people/onishi.shtmlを参照 )
つまり、同様に歌舞伎の見方というものが「今に生きていない」・抜け落ちているということです。再現芸術である演劇では舞台の時間の経過のなかで個人の心情が高まり・考え方が変容し・熟していく・その過程は、本で字面(じづら)だけ読んで線引きしているのでは決して理解できないものがあります。やはり、登場人物の経時的な心理変化を追体験する(つまり芝居を実際に見て没入する)ことでしか得られないものがあると思っています。音楽も同様です。逆に言えばそうした観点から歌舞伎を見れば歴史・社会学・あるいは哲学のレベルにおいても思いもよらぬ発見があるはずです。そうすれば歌舞伎も今の時代にも通じるものになり・時代との係わり合いも生まれてくるのです。
「歌舞伎素人講釈」がスペインの美術史家エウヘーリー・ドールスのバロックの概念を取り入れ・新たに「バロック的なる歌舞伎」の展開を開始したのはこうした背景があるからです。(別稿「かぶき的心情とバロック」をご参照ください。)歌舞伎だけ を論じているならば「かぶき的心情」だけで十分事足ります。しかし、歌舞伎の様式を解体し、もう一度、汎人類的な観点から融合させるためにはバロックという概念がどうしても必要です。そのために音楽・特にオペラへの検討をせねばならないというのも吉之助なりの必然です。まあ、だんだん地が出てきたというところで もありますが、6年目以後の「歌舞伎素人講釈」は新たな段階へ入ったということかと思います。(この稿つづく)
(H18・1・3)
○現代的な歌舞伎の見方・その1:歪んだ時代
現代(平成15〜8年の今)の雰囲気は明治30年代に非常によく似ているという指摘があります。ちなみに明治34年が1901年に当たります。「歌舞伎素人講釈」では九代目団十郎・五代目菊五郎が相次いで亡くなった明治36年(1903)を江戸歌舞伎の終焉と位置づけています。明治維新と文明開化の熱狂が終わってみると ・解き放たれたはずの身分は再び固定され、何のことはない・封建社会の江戸時代よりもっと複合的な閉塞状態が待っていたということです。そ うしたフラストレーションが「新歌舞伎」という新しい時代の歌舞伎を生み出していくのです。(別稿「新歌舞伎のなかのかぶき的心情」をご参照ください。)
昭和末期(1980年代)においては国民誰もが中流意識で「一億総中流」と言われたものでした。ところが、現代においては再び階層が分かれ始めている気配があります。とんでもなく富裕な人々がいる一方で、そうではない経済的に恵まれない人々が・特に若年層に急速に増えています。言い換えれば、そういう貧困層を踏み台にしたところで何かが起き始めているのです。平成17年(2005)に「下流社会」という用語が登場したのはご承知の通りです。
作家桐野夏生氏が平成17年1月・朝日新聞に談話を載せています。(「中流家庭の階層分断」・私たちがいる所)桐野氏はひとつの現象を指摘しています。それは人材派遣会社などによる派遣労働の増加による女性たち・あるいは若者たちの転落です。彼らはフルタイム労働の機会を極端に制限され、安価なパートタイム労働力として使い捨てられている社会的弱者であるのです。これはある種の隷属状態なのです。努力してもどうにもならない・一生下働きで使い捨てにされかねないような状態です。いつの時代にもそういう状態は程度はあってもある場面にはあるものですが、努力さえすればその状況から抜け出ることもできるという実感が世の中から急速に消え始めていると感じられます。 その代わりに「もうどうなったっていいや」みたいな気分が蔓延し始めています。だから、この時代は維新の興奮が醒めた明治30年代の雰囲気に似ているのです。あるいは鎖国して・身分が固定して・安土桃山のダイナミズムが失われていく寛永年間の雰囲気に似ているのです。
『精神面で言えばバブルは「マル金(金持ち)・マルビ(貧乏人)」という分類がはやったように持てる者が持たざる者を臆面もなく揶揄する・下品な社会を創ったと思います。バブル崩壊後もその下品さは残った。そして今、バブルを楽しいと感じた人々、欲望を全開にしてしまった人々が閉塞感のなかで行きはぐれ、右往左往しています。(中略)「所有」に代わる新しい豊かさの原理を見出すことが日本の課題なのでしょう。(中略)所有によって豊かになるという神話を信じられなくなった以上、人と人との関係を見直していく作業しか私には糸口が思い浮かばない。(中略)豊かさが失われたと多くの人が感じている時代には、貧しさとは何か、人間はどこまで貧しくなるのかという問題に、内省を通じて近づいていく作業が求められているはずです。』(桐野夏生氏談話 ・上述)
以上は日本でのことですが、似たようなことは世界的現象としても起きています。9・11テロ以後の世界情勢を見れば分かるように、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが指摘した「文明の衝突」は国家間・民族間の経済格差 もひとつの大きな要因だと言えます。それがきっかけで様々な軋轢や亀裂が生じています。もちろん経済的要因だけが現代の抱えた問題の切り口ではありません。その問題は複合的なものであり・容易に解析はできません。しかし、世の中良くない方向に向かっているらしいということは確かに感じられます。
こういう歪んだ時代に吉之助は・歌舞伎だけのことではないですが・芸術芸能を楽しめればそれでいいという感じでは見ることも・聴くことも・読むことも・もはやできないのです。現代に生きるために必要なものは、日常において歪んでしまったものを正常な方向に矯正してくれる古典的な感性です。調和した・バランスがとれた感性とでも言いましょうか。そうした古典的な感性を構築するために現代における歪んだバロック性の正体を無意識的にではなく・明確に認識する必要があります。それでなくては時代に生きる方策を立てることは叶わないのです。歌舞伎を考えることもそのことのひとつの材料にはなると思います。
吉之助の場合には、バロック的なものを解析するために最も都合の良い・日本史的レベルの材料として歌舞伎が必要です。同様にオペラ・およびクラシック音楽が世界史的レベルの材料(正確に言えば西欧史的レベルと言うべき)として吉之助には必要です。このサイト「歌舞伎素人講釈」が・吉之助の観劇歴からするとほぼ二十数年の準備期間を以って・2001年1月すなわち21世紀の誕生と共に始まり、この5年間にかぶき的心情・バロック的感性という風に論理展開をしてきたのは完全に時代とシンクロしていると思っています。(この稿つづく)
(H18・1・1)