「たがふみも見ぬ恋の道」
〜「心中天網島」
『私たち異国の学者が見る日本は綺麗過ぎる、歌舞伎の汚さ、日本文化の惨(むご)たらしさを凝視すべきだと三島はよく言っていた。最も日本的なのは心中だと言うので、私は反論した。西洋には「トリスタンとイゾルデ」があるではないかと。すると「人がトリスタンのことで泣くのを見たことがないだろう」と彼に正された。その通りであった。』(E・G・サイデンステッカー:「鮮明な人物像」・決定版・三島由紀夫全集・月報35)
1)近松の因果論
「心中天網島」の有名な「名残の橋づくし」に『悪所狂いの。身の果ては。かくなり行くと。定まりし。釈迦の教へもあることか、見たし憂き身の因果経。』という文章が出てきます。悪所通いをした結果・このように心中しなければならない破目になってしまった・これも何かの因果であろうか・因果経でお釈迦様の教えを確かめてみたいものだというような意味であります。
「因果経」というのは「仏説善悪因果経」のことで、これは一種の偽経です。経典自体はそれほど長いものではないようですが、当時は分厚い注釈書が出版されていて、これがひろく世間で読まれて強い影響力を持っていたそうです。前世でこういうことをしたら後世で何になるとか、こういう病気になったのは前世がこうだったからとかが具体的に書いてあるのです。だから冶兵衛は 自分が悪所通いで心中するという破目になったのは前世で自分は何か悪いことでもしたのであろう・この本で調べてみたいと言っているわけです。
「善悪因果経」注釈書の「善悪因果」の注には「天網恢恢疎にして漏らさず」という諺が載っています。「心中天網島」という題名はこの「天網恢恢疎にして漏らさず」から来ているということは昔から言われていますが、これも「因果」という観点から見ると、なるほどと納得させるものがあります。
「心中天網島」は享保5年(1720)12月竹本座での初演です。近松門左衛門は冶兵衛と小春が心中しなければならない「必然」を劇中で綿密に段取りしています。冶兵衛と小春は死ななければならない定めがあるかのように追い込まれて行って・そして心中をするのです。そのように因果の網が張り巡らされているのです。本稿では「心中天網島」を因果の観点からドラマを読んでいきたいと思います。
2)「紙=神」のイメージ
まず紀伊国屋小春について見ると、上の巻(曽根崎新地「河庄」)での小春の登場は次のように描写されています。
『橋の名さへも梅桜、花を揃へしその中に。南の風呂の浴衣より今この新地に恋衣。紀の伊国屋の小春とは。この十月にあだし名を。世に残せとのしるしかや。』
「小春」というのは陰暦10月の異称です。小春という名前は10月に心中して死ぬという運命を暗示している名前なのであろうかというのです。ご存知の通り、近松の「心中天網島」は際物でして、実説の紙屋冶兵衛と遊女きいの国小春が網島大長寺で情死(享保5年10月14日と伝えられる)してまだ二ヶ月も経っていないのでした。したがって、観客の事件の記憶は生々しいわけです。事件のヒロインが舞台上で蘇って・心中への経緯をなぞっていくのです。
心中の結末を観客が承知していることを、近松は最大限に利用しています。浄瑠璃の文句・人物の言動のすべてが心中の結末に向かっていく・すべてが心中という結果に繋がるように、ドラマを仕組むことができるのです。結果として観客の心には「因果の糸」が印象付けられることになります。
『天満に年経る。千早(ちはや)降る。神にはあらぬ紙様と、世の鰐口(わにぐち)にのるばかり。小春に深く大幣(あふぬさ)の、くさり合ふたる御注連縄(みしめなは)。今は結ぶの神無月。堰かれて逢はれぬ身となり果て。あはれ逢瀬の首尾あらば。それを二人が。最後日と。名残の文の言ひかわし。毎夜毎夜の死覚悟。玉しゐ(魂)抜けてとぼとぼうかうか身を焦す。』
これは 冶兵衛登場の直前の詩章です。「天満に年経る・千早降る神」というのはもちろん天神さんのことですが、遊里においては客の名前・商売などを一字取って「○さま・・」などと呼んだりするものです。冶兵衛は紙屋ですから「紙さま」と呼ばれているわけです。しかし、心中の結末 を知っていれば、この「紙さま」も不吉な呼び名ということになるかも知れません。冶兵衛の生業(なりわい)は紙商売です。商売道具の紙は、商人にとっては何よりも大事な・神様と同じくらいに大事なものです。冶兵衛にとって「神=紙」であるはずなのです。ところが、冶兵衛は商売をないがしろにして・悪所狂いをしています。遊里で「紙様」と呼ばれる冶兵衛は神(=紙)をないがしろにする・いずれは罰せられる運命にある男なのではありますまいか。
そういえば「心中天網島」には紙に関連する言葉・同音語が頻出します。もちろん近松が意図的に使用しているのです。「小春に深く大幣(あふぬさ)の」は、「逢う」と御幣の大幣を掛けていて、紙(=神)のイメージが背後にあります。「今は結ぶの神無月」もそうです。神無月は10月のことですが、小春との結びの神(=紙)もないというのです。つまり、冶兵衛は神(=紙)に見放された男なのです。
「名残の文の言ひかわし」もそうです。文(=手紙)というのは紙に書くものだからです。(この芝居のなかで手紙は実に重要な役割を果たすのですが、このことは 別の機会に検討することにします。)「紙」と言えば、起請文も紙です。起請文は熊野の牛王紙に書いた誓いの文です。冶兵衛は小春と交わした起請の紙29枚を小春に突きつけます。
『「小春といふ家尻切にたらされ後悔千万。ふつつり心残らねばもつとも足も踏みこむまじ。ヤイ狸め。狐め。家尻切め。思ひ切つた証拠これ見よ」と。肌に懸けたる守袋。「月がしらに一枚づつ取りかはしたる起請。合わせて二十九枚戻せば恋も情けもない。こりや請け取れ」とはたと打ち付け。』
死ぬ約束をしていた二人は起請文を「打ち付け・投げ捨て」て縁を切ります。大事の起請文を打ち付け・投げ捨て扱いすることにも引っ掛かるところがあります。一度破られた誓いは結局は実行されるわけですが、下の巻「大長寺での心中」の場で冶兵衛は起請文のことを次のように振り返っています。
『なふ、あれを聞きや、二人を冥途へ迎ひの鳥。牛王の裏に誓紙一枚書くたびに。熊野の鳥がお山にて三羽づつ死ぬると。昔より言ひ伝へしが。我とそなたが新玉の年のはじめに起請の書初(かきぞめ)。月のはじめ月頭(つきがしら)書きし誓紙の数々。そのたびごとに三羽づつ殺せし鳥はいくばくぞや。常にかはいかはいと聞く。今宵の耳へは。その殺生の恨みの罪。報ひ報ひと聞ゆるぞや。報ひとは誰ゆえぞ、我ゆへつらき死を遂ぐる。許してくれ。』(下の巻)
日頃は「かはいかはい」と聞く鳥の声が「報ひ報ひ」と聞こえると冶兵衛は、迫り来る最後の時への慄きを語っています。これも「紙=起請文=神」をないがしろにしたことの付けなのではないかと観客には思われてくるのです。さらに「心中天網島・上の巻」には「踏む」という言葉が何度も出ていることも注目されます。
(冶兵衛)『さてはみな嘘か。エエ腹の立つ。二年といふもの化かされた。根腐りの狐め。踏ん込んで一打か。面恥かかせて腹癒よか。』
(冶兵衛)『エエ食らわせたい踏みたい』
(孫右衛門)『小春を踏む足で、うろたえたおのれが根性をなぜ踏まぬ』このように「踏みたい」・「踏みこむ」などという言葉が頻出します。これは「文=ふみ=踏み」から来る一種の掛詞です。上の巻「曽根崎新地・河庄」の場での結びの詩章を見てみます。
『嘆く小春もむごらしき。不心中か心中か。誠の心は女房のその一筆の奥深くたがふみも見ぬ恋の道別れて。こそは帰りけれ。』
「たがふみも見ぬ恋の道」は百人一首の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」を下敷きにしています。「ふみ」は「文」と「踏み」を掛けているのです。誰の文かは分からぬが・まだ誰も足を踏み入れたことのない恋の道、ということでありましょうか。観客には内容が分からない女房おさんの手紙(その内容は小春だけが知っている)と、誰もが経験した(踏んだ)ことのない恋の道に苦しむ小春の姿を重ね合わせているわけです。
このように近松は「紙=神」のイメージを、さまざまな手法を駆使して何度も何度も観客の脳裏に刻み付けて生きます。これによって、商売をおそろかにして・大坂商人の道徳を踏みにじった冶兵衛の状況を描き出しているのです。こうなると 誰の目から見ても冶兵衛は死ぬしかないのです。観客は冶兵衛が心中することは承知しているわけですから、その通りに(ある意味では観客の期待通りに)冶兵衛は心中へ追い込まれていきます。
3)芸能とは慰みである
それでは、近松は「生業(紙屋商売)をおろそかにして悪所狂いをした因果の果てはこんなものだ・天網恢恢疎にして漏らさず・商人道に反したことをすればこうなるのだ」と・大坂商人の論理に従って冶兵衛を断罪しようとしたのでしょうか。確かに大長寺での心中場面などは死にゆく者たちを美化するようなところがまったくありません。ふたりの心中が冷徹なリアリズムで描かれています。しかし、その突き放したような・冷徹な表現のなかに近松の「慟哭」を見るべきではないでしょうか。
さきほど「心中天網島」の題名が「天網恢恢疎にして漏らさず」から来ているとの説を紹介しましたが、もうひとつの説があります。「心中天網島」という題名の由来には結末の文句『すぐに成仏徳脱の誓ひの網島心中と日毎に。涙をかけにける』から、仏の誓願で網ですくって下さるであろうという意味 から来るとの説です。私はこっちの方を取りたいと思っています。十夜の期間に死ぬ者は必ず仏になると言います。十夜というのは陰暦の10月6日から15日までの間に念仏を修行する浄土宗の法要ですが、「心中天網島」はその10月6日の曽根崎新地「河庄」の場面に始まり、16日未明の網島大長寺での心中に至るように設定されています。だから、現世の因果の苦しみの果てに冶兵衛と小春は仏の網で救われると考えるべきだろうと思います。
因果とか業などという考えは人間を足元から縛り付ける縄のようなものです。自由を求める人間からすれば忌まわしい・呪うべきものなのかも知れません。近松も因果の律のなかで人は生きていかねばならないことを承知していながらも、これを決して是としていたわけではないでしょう。それでも人は生きなければならないのです。因果に縛られて・もがき苦しむ人の姿を見詰めながら、近松は涙は流していないけれども・その心は泣いているに違いありません。どうして近松が因果にふりまわされた心中のドラマを書いたのか、そのことが最後の2行によって明らかになります。
結末の『すぐに成仏徳脱の誓ひの網島心中と目ごとに。涙をかけにける。』という文句を、最後に取って付けたおざなりのものとは吉之助は決して思いません。近松は冶兵衛と小春 を因果の糸にからめ取り、心中に追い込みます。心中の場面を見て・観客は因果の果ての人生の惨たらしさを散々に見せつけられて・もしかしたら息を飲んだかも知れません。しかし、最後の二行・たった二行の文句によって・もつれからんだ因果の糸から「救われる」のです。冶兵衛・小春だけではなくて、観客も救われなければなりません。近松が日頃言っているように、芸能とは「慰み」であるのですから。
(参考文献)
廣末保:心中天の網島 (広末保著作集)
信多純一:「心中天網島」作品解釈の問題点:(岩波セミナーブックス31「近松への招待 (岩波セミナーブックス)」に所収)
(H16・5・23)