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個人的なる「仇討ち」

〜「元禄忠臣蔵」のもうひとつの意味


1)刃傷も討ち入りもない「忠臣蔵」

九代目団十郎は一時期、「活歴」と呼ばれる実録風の芝居に熱を上げていたことがありますが、その団十郎の発案で福地桜痴が「芳しや義士の誉」という芝居を書いています。これは吉良邸討ち入りの後、細川家に預けられた大石内蔵助ほか義士たちの心境を描いたものですが、その評判は甚だしく悪いものでありました。劇評家の三木竹二などは、「忠臣蔵は討ち入りまでが面白いのだ。敵討ちがすんだ後のことを芝居にするなんて団十郎は馬鹿だ」と言うようなことまで書いています。

世間の「忠臣蔵」への関心というのはやはり「討ち入りまで」のことなのでありましょうか。しかし、「人間ドラマ」に着目しようというのなら、討ち入り後の赤穂義士たちの心境というのはなかなか興味深いものではないでしょうか。討ち入りが終わって幕府の御沙汰を待つだけの日々に、義士たちの心は時には名誉ある死を望む気持ちに・あるいは生への期待に揺れたかもしれません。もっとも、こういう心理的な題材ではドラマチックな場面は期待しにくいですから、芝居にはしにくいかも知れませんが。

討ち入り後の大石内蔵助を描いた作品はあまり思い浮かびませんが、小説では芥川龍之介の「或る日の大石内蔵助」、芝居ならば真山青果の「元禄忠臣蔵」シリーズのなかの「仙石屋敷」・「大石最後の一日」の2編が挙げられましょう。これらはそうした至難な題材に挑戦した数少ない成功例です。

そう言えば真山青果の「元禄忠臣蔵」シリーズでは、他の「忠臣蔵」もので絶対に欠かせないはずの「刃傷」と「討ち入り」の場面が見事に欠けています。青果はそれを描くのをわざと避けているのです。

「江戸城の刃傷」は内匠頭が上野介を斬りつけた直後の江戸場内の大騒ぎから始まります。しかし、その取調べの場面でも内匠頭は刃傷の動機について黙して語りません。「この場においてはもはや何事も・・・申し上げられませぬ。ただ残念なは・・、上野介を討ち損じたること、(ハラハラと落涙)浅疵にござりますれば・・・」というのみです。芝居のなかでは刃傷の原因は結局分からずじまいです。

「吉良屋敷裏門」では、討ち入りの最中、吉良邸前まで設定を持っていきながら、赤穂義士たちが吉良方と刀を合わせる観客期待の場面は塀の向こうで、登場人物の会話でその状況が知れるのみです。「(原郷右衛門、キッとして)おお、あの呼子の笛は・・」「(堀部九十郎、思わず叫ぶ)おお、討ちました!上、上野どのを討ちました!討ちました!」で終わりです。

他の凡庸な作者ならば(あえて「凡庸」と申し上げましょう)、「刃傷」に至る経緯のなかで上野介の憎々しさをたっぷりと描き、松の廊下で刃傷せざるを得なかった内匠頭の苦しさを切々と描くでありましょう。観客は吉良を憎い奴だと怒り、吉良のいたぶりがイヤらしければそれだけ浅野贔屓の気持ちが強まる、という ものです。「刃傷」が発端ならば、「討ち入り」は歓喜のフィナーレです。艱難辛苦を乗り越えた内蔵助以下の赤穂浪士たちが宿願の敵討ち、ここをたっぷり描いてもらわなければ観客は満足できません。強敵(小林平八郎・清水一学)も待ち構えています。さあ、果たして浪士たちは念願の吉良の首を取ることができるか、 討ち入りはハラハラするほど面白い、というわけでしょう。

青果はそういうものに目もくれようとしません。「発端」(内匠頭の刃傷の原因)が何であってもどうでもよかったのでしょう。青果にとって大事なのは、内蔵助が(吉良を討ち漏らした)主人の無念を思いやり・その無念を晴らそうという・その初一念を貫き通したというただそれだけなのです。そういう青果にとっては討ち入りでさえもその行為のただの「結果」にしか過ぎないのです。


2)理屈ではない

昭和9年(1934)3月東京劇場で二代目左団次・初代吉右衛門・三代目寿海らによって初演されたのが「大石最後の一日」です。これが好評であったので、周囲に勧められて青果は連作 として「元禄忠臣蔵」を書き始めたと言われています。ここで、青果が「元禄忠臣蔵」を内蔵助の最後から書き始めたというのは大変に面白いことだと思います。

「大石最後の一日」では、内蔵助の「初一念(しょいちねん)」が描かれています。お預けになっている細川家の嫡男・内記が部屋に入ってきて、内蔵助に生涯の宝ともなるべき言葉の「はなむけ」が欲しいと言います。

(内蔵助)「当座のこと、用意もなく申し上げます。人はただ初一念を忘れるなと・・申し上げとうございます。とっさに浮かぶ初一念には、決して善悪の誤りはなきものと考えまする。損得の欲に迷うは、多く思い多く考え、初発の一念を忘るるためかと存じまする」

この内蔵助の台詞こそが、「元禄忠臣蔵」全編を締めるものであると同時に、実は青果の「元禄忠臣蔵」執筆の出発点をなすものです。内蔵助は、主君・内匠頭の刃傷の報を聞いた時に、内匠頭が上野介を討ち漏らしたことの無念を想いやり・その無念を晴らしたい、と感じたのでしょう。その時の「初一念」だけを胸に内蔵助はここまでやってきたように見えますが、実はそうではないのです。自分の迷いやら・周囲の雑音やらで、内蔵助は常に迷ってい ます。なぜ自分は仇討ちをしなければならないのか、時には仇討ちの大儀名分を思い・時には自分の意地を思い、仇討ちすることの意味を自分に問いかけながらつねに迷っているのが「元禄忠臣蔵」の内蔵助なのです。そして、仕事を成し遂げた内蔵助がその晴れ渡った心で言うのが「初一念」なのですが、この心境に 行き着くまでの内蔵助の悩み・迷いを思ってみなければならないでしょう。

「仙石屋敷」では、取調べの仙石伯耆守と内蔵助との対論が芝居の中心になっています。その取調べの争点は、この度の討ち入りは「御公儀御政道への批判」ではないのか、ということです。内匠頭は殿中であることもわきまえず刃傷に及んだ罪によって切腹になったのであり、将軍家による処分である、上野介が内匠頭に腹を切らせたのではない、さすれば上野介は仇(かたき)ではない、と伯耆守は言います。

内蔵助「(静かに、むしろ冷然として)恐れながら、その御批判は、天下御役人さまの思し召し違いかと存じます。(中略)我々は在所そだちの田舎者ながら、ちとその辺の御判断には従いかねまする。お役人さまがたには、ただ御大法の表を立てられるのみにて、主従相たのむ武士の刃傷は御存知なきことと思われます。主持つ者のこころは、さように理屈攻めのものではござりませぬ。」

伯耆守は理詰めで攻めてきます。それに対して内蔵助は「理屈ではない」と言い張ります。それでは内蔵助は伯耆守に「情で対し」ているのでしょうか。これは必ずしもそうとは言えません。この点が問題です。

内蔵助は、主人の切腹も有難く受け入れ・所領もおとなしく引き下がったのは、あくまで御公儀の作法に従い・御大法に従ったものだと言います。「それ ならば(御公儀に異議がないなら)吉良家へ討ち入る道理がないではないか」と 伯耆守はさらに詰め寄ります。これに対して内蔵助は、「その御不審が主を持つ身の我々には少しくお恨みに存じまする」と突き返して、さらにこう続けます。

内蔵助「然るに・・・途中でさえぎる者あり、遂にその存念を達しかねたる段、内蔵助本人はもとよりの事、われら家来たる者の、耐え得ぬところにござりまする。(中略)我々四十七人が、こたび御城下を騒がしましたは、ただ内匠頭最後の一念、最後の鬱憤を晴らさんがためにござります。三寸足らざりし小刀の切っ先を、われら四十七人の力にて、怨敵吉良どのの身に迫っただけにござります。あともござりませんぬ。先もござりませぬ。われらはただ、故主最後の一念を、継ぎ届けたるのみにござります。その他の御批判、一同迷惑に存じます。」

伯耆守はこれを聞いて、「条々、明白なる申し開き、我らも一同、感にたえた。その通りを書きしたため、御前体にも計らうことに致すぞ。」と言って取調べを打ち切ってしまいます。これは、もちろん伯耆守が言い負かされたというのではありません。伯耆守は感動してしまったわけです。それでは何に伯耆守は感動したのでしょうか。

表向きから見れば、主人の無念・鬱憤を思いやる家来の心情の強さ・忠義の気持ちに伯耆守は感動したということなのでしょう。武士の世界ならば、赤穂義士の忠義のこころを賞賛こそすれ、否定することなど誰にもできません。それは、そのようにも取れるように青果も芝居を書いています。しかし、青果がそう書いているのは昭和初期という時代ゆえの表向き(建前)のことで、青果の作意は実はそこにはないのだ、と 吉之助は思うようになりました。


3)純粋に個人的な・・

青果の「元禄忠臣蔵」の執筆は昭和9年(1934)の「大石最後の一日」に始まり、昭和17年(1942)の「泉岳寺の一日」を以って終わります。全10編の大作ですが、青果はこれで全編を完結させたわけではなくて、さらに 「円山会議」・「萱野三平切腹」・「山科閑居」・「大石東下り」など数編の構想があったようです。執筆が中断になったのは、青果自身の体力の衰え(青果は昭和21年に没)とか、昭和16年に「元禄忠臣蔵」上演に尽力してきた二代目左団次が亡くなったことも意欲を削いだのかも知れません。

「元禄忠臣蔵」は昭和初期という時代・戦前の皇国思想と切り離せないという先入観が吉之助には結構強くありました。この作品で頻繁に出てくる「殿のご無念を晴らす」という言葉に代表される「忠義」の観念の時代性を 色濃く感じさせます。あるいは「第二の使者」・「御浜御殿」に見られる朝廷(皇室)への配慮、これも気になるところです。実際、この作品がもてはやされ、映画(昭和16年・溝口健二監督作品 ・前進座の役者たちによる)にもなりましたのは、そうした時代背景があったことは確実であると思います。ある意味では青果は「時流に乗った」ということが言えましょう。

しかし作家・真山青果について知り、その他の作品に触れてみますと、「元禄忠臣蔵」の違う一面が見えてくるようです。青果の作品というのは、どの作品も「 この世にあって自分はいかにあるべきか・どうすれば自分らしく生きられるのか」という問題を真剣に自分に問いかける作品ばかりであるからなのです。

どういうつもりであったかはよく分かりませんが、青果はマルキストを自称していたそうです。ある時、酒に酔った青果が娘の美保さんを前に座らせて、「もし貴様の先生がお前のお父さんは誰を尊敬していると聞いたらな、はっきりと言えよ、マルクスだとな、分かったか、マルクスだぜ。」と言ったそうです。また、「 いまはかなわないが、この戦争が終ったら、その時は自分は書きたいことを書くんだ。」とも つねづね言っていたそうです。

「元禄忠臣蔵」において、青果は時勢をはばかって本当に言いたいことをストレートには書いてないのかも知れない、そういうことを思うようになりました。「元禄忠臣蔵」は、 昭和初期という時代にふさわしく、「忠義・忠国」の響きにも解されるように書かれてはいます。しかし、よく読んでみると別の一面が見えて くるようです。

「仙石屋敷」において、内蔵助は「主持つ者のこころは、さように理屈攻めのものではござりませぬ。」と言っています。伯耆守は理詰めの議論に対して、それは違う、武士として生まれ・主君に仕える者の気持ちはそんな理屈では計れない、と内蔵助は 毅然として主張します。表向きは主人・内匠頭の無念をを思いやっているように見えますが、実は内蔵助は、いきなり録を離れ・放り出されてしまった自分たちの割り切れない気持ち・やりようのない怒りを 主張しているのはないでしょうか。

だとすれば、自分たちにも自分たちなりの理屈はあるが、それを人前でどうのこうの言うつもりはないし、また、人にとやかく言われるつもりもない、「その他の批判は迷惑」だ、ということになるのです。 これはもう理屈ではありません。しかし、情だけでもない。他人にはどう見えたとしても、本人たちは考えに考え抜いて冷静に行動しているのですから。

いわば内蔵助ら赤穂義士たちは誰のために仇討ちをやったのではなく、自分たちのために仇討ちをしたのです。極端に言えば、主君さえも問題ではないのです。その内蔵助ら義士たちの個人的な ・純粋に個人的な「仇討ち」の意味を問うたのが、青果の「元禄忠臣蔵」なのではないでしょうか。

「玄朴と長英」(大正13年・1924)において、伊東玄朴は友人の高野長英に、つい先日自刃した渡辺崋山について熱に浮かされたように語り始めます。

玄朴「渡辺という人の真の生命は、彼の芸術、絵画ではない。詩文でもない、蘭学でもない、また宰臣としての田原藩の民政でもなければ・・・親孝行でもない。それらのもの総てを合わせた、そうさ、何というか・・・こう、総体の調和とか、釣り合い、あるいは平均とでもいうか、そういう全体のものを自分のうちに統一して、静かに、悠然として生きていく人のように思う。世間はあの人の切腹を見て、その原因をいろい いろ揣魔(しま)憶測しているが、僕はどの説にもうなずくことができない。(中略)なあ、高野、楽器のうちのある針金一本を限って、その針金の音のみ高張するということは、楽器全体を破ることになりはしないか。彼の蘭学癖は恥ずべきものではない、モリソン号事件に関する義憤は正しいものだ。やむにやまれぬ正義の観念から慎機論や鶃舌(げきぜつ)小記を草するにいたった動機も、みな彼の至誠の発露にほかならない。けれども・・やはり冷静に考えれば、それは彼の一部分に過ぎなかった。」

長英は、玄朴の熱い言葉にとまどってこう叫びます。「そりゃ何処の崋山だ。何処の国の渡辺を論じているのだ。」いや、まったく玄朴の台詞は青果自身を語っているに違いありません。そして、おそらく「元禄忠臣蔵」の大石内蔵助もまた青果そのものなのです。

主君に仕え・録を食む我が身がその録を失って・路頭に迷ってしまった時、つまり武士が武士ではなくなってしまった時に、武士である自分はどう生きるべきか・自分が自分である続けるために、どうすれば自分を貫き通すことができるのか、という問題を、仇討ちという題材を借りて追及したのが、青果が「元禄忠臣蔵」で描きたかった・本当の内蔵助の真意である と吉之助は思っています。

戦後も「元禄忠臣蔵」がさらに書き続けられたのなら、きっとそうした 青果の内蔵助像がはっきりと見えてきただろうと吉之助は思います。

(参考文献)

田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)

(H15・1・5)



 

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