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新歌舞伎のなかの「かぶき的心情」


1)「これでいいのか・・」

森鴎外が小説「堺事件」を発表したのは大正3年(1914)2月のことです。この作品は明治元年(1867)2月に実際に起こった事件を題材にしています。

明治元年2月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は大坂を退去し、大坂一帯は無政府状態に陥ります。このため朝廷の命により堺の町を土佐藩士が警護することになりました。ところが当時、港に外国軍艦16隻が停泊しており、16日にフランス水兵が上陸して住民をからかったりしたため騒動 が起こったのです。土佐藩士が出動しますが、お互い言葉が通じないためについに発砲に至りフランス水兵13名が死ぬという事件になってしまいました。これに対しフランス行使ロッシュは厳正な謝罪要求を突きつけます。その結果、朝廷はすべての要求を飲んで土佐藩士20名を公使の面前で切腹させるということになりました。切腹する20名は隊長以外はくじ引きで選ばれました。

同月 23日、フランス公使の面前で短刀を片手にした隊長箕浦猪之吉は公使を睨み付け、「フランス人ども聞け、俺は汝らのためには死なぬ。皇国のために死する。日本男子の切腹をよく見ておけ」と 大声で叫んで刀を腹に突きたてました。介錯人は刀を振り下ろしましたが、この気迫にたじろいだのか二度失敗、箕浦は「まだ死なんぞ、もっと斬れ」と叫んでいたそうです。この有様を見て公使は驚愕と畏怖に 襲われます。こうして次々に切腹が行なわれて11名まで進んだ時に、それまで立ったり座ったり落ち着かなかった公使とその護衛兵たちは日本側への挨拶も忘れて逃げるように幕の外へ出てしまったそうです。切腹は中止され、9人が残されました。

この作品の読後感は非常に重苦しいものです。形容しがたい怒りが腹の底に重く澱んでくるような気がします。 小国民の哀れさが身に沁みます。切腹する人間がくじ引きで選ばれたというのも許せない気がします。「どうしてこんなことになるのか・ こんな理不尽なことはない・神も仏もないのか」というような怒りが湧いてこないでしょうか。当時の日本から見れば圧倒的な外国の戦力。その力になす術もなく、要求されたことは理不尽なことも受け入れなければならない屈辱。日本男子の誇りはどこにあるのだ?彼らは我々 日本人を何だと思っているのだ?虫けら とでも?個人の尊厳はどこに?それでもこんな 仕打ちを耐えなければならぬのか?

鴎外がこの小説を書いたのが大正3年であったことに注目いただきたいと思います。鴎外の真意は、こういう人たちの犠牲のおかげで今の日本があるのだということにあるのです。「それなのに今の日本はこれでいいのか」とは鴎外は書いていないけれども、この重苦しい読後感はそのような問いを読む人に突き付けてきます。

森鴎外: 大塩平八郎・堺事件 岩波文庫

ところで 真山青果 作「会津落城秘聞・血笑記」が初演されたのは昭和4年(1929)7月歌舞伎座でのことです。初演の鎌柄源内は六代目菊五郎が演じました。 この作品はあまり上演されませんが、十七代目勘三郎・当代勘九郎も演じています。

戊辰戦争で官軍は会津城を落としますが、休戦命令が出たその夜に、会津の青年武士9名が長州の陣屋を襲い多数の死傷者を出します。彼らは休戦命令が出ていたことを知らなかったのです。官軍は裁判で9人を斬 罪に処することにしますが、見ると9名のなかに鎌柄源内という変わった男がいます。彼は貧乏百姓の里子として育ったのですが、戦争だというので武士に逆戻りさせられた男で、 仲間たちからも冷遇されていました。もともと彼には官軍も朝敵もなく・武士道も忠義もありません。ただ据え物斬りだけは得意です。官軍は源内を官軍に取り立ててやるから仲間を斬れと 源内に言います。源内はこれをあっさりと承諾します。彼は自分の腕に自信を持っていて調子に乗って笑ったりして全く気にしていません。 それどころか「平和な世の中に生きられるならそれでいい」などと言うのです。しかし、仲間たちは怒らず、誰もが源内に対する気遣いさえ見せて従容として死んで行きます。三人目 を斬ったあたりから源内は懊悩と煩悶で心乱れ始めます。五人目を斬った時には表情は引きつり、六人目の時には血刀が手から離れなくなります。そして源内はついに気が おかしくなってしまいます。見物の群集からは石が飛んできます。

多くの人の斬首のシーンを舞台で見せるわけには行きませんから、源内は幕の後ろに回って一人斬ると表へ出てきて、その状況と自分の気持ちをしゃべります。そんな展開で源内が次第に心乱れ狂って行く過程を表現していくわけです。技巧的な作品ですが、陰惨な気分が全体を覆った重苦しい作品です。六代目上演の時は薄気味悪くなったのか観客の笑い声が多かったそうで、つまり 舞台を正視するのがちょっとつらい作品なのです。

この芝居での勝者である薩長軍の傲慢さはどれほどのものでありましょうか。彼らは圧倒的な戦力で会津の人々の尊厳を踏みにじり、玩んでいます。底知れぬ悪意が感じられます。戦争がなければ源内は農民として静かに平和に暮らして・愛すべき青年であった に違いありません。それが無理矢理武士に戻されて戦いに引きずりだされて、今また「この変わった男に仲間を斬らせてみるのも一興だろう」と刑場に引き出されたのです。源内には自分の する事が分かっていません。源内自身はそれを平和のためとか何とか理屈つけていますが、薩長の連中に自分が愚弄されていることさえ気付いていません。源内はどうにもならない流れに翻弄されているだけで自分の意思では動いていないのです。それが分かっているから仲間たちは源内を恨みもしせず・罵りもせずに潔く死んでいきます。仲間を斬りながら源内はそのことに次第に気が付いてきます。それが源内を 内面から狂わせて行くのです。

この青果の「血笑記」の舞台を見た時に思い出したのは鴎外の小説「堺事件」のことでありました。これらは「時代」に対する共通感情のもとに書かれていると思いました。劇の展開自体もよく似ていますから青果は 鴎外の小説からヒントを得たのではないかという気もしますが、これは吉之助の憶測に過ぎませんし・こだわる気はありません。しかし、間違いなくこの二つの作品から受ける印象は同じものです。

それは「時代」という圧倒的な力が個人の状況を押さえ付けているという意識です。そこでは個人の意志・情念・尊厳は無視され・踏みにじられ・玩ばれるのです。しかし、 作者はそれに反発し批判しているわけではありません。反抗を呼びかけるわけでもない。彼はただ込み上げてくる言い様のない「怒り」・どうにもならぬ「いらだち」を腹のなかに抱えて、「これでいいのか」と自らに問いながらただ黙って耐えるのです。これが明治末期から大正・昭和初期にかけての「時代的気質」なのです。


2)不安の時代・煩悶の時代

ご承知の通り、 「明治」という時代のキーワードは「富国強兵・殖産興業」ということで ありました。西洋の列強に追い付かなければ日本は列強の植民地にされるという危機感が明治政府には相当に強かったと思います。だから欧化が急務とされて在来の「日本的なもの・伝統的なもの」は何でも旧弊として否定されました。 歌舞伎のような演劇でさえも古臭いものとして否定され、演劇改良が叫ばれました。もちろんこうした風潮に付いていけない人たちの方が大部分でした。 しかし、何も考えずにただ前に進むことだけが国民に求められました。それが民衆の心情に強烈なストレスを生むことになります。それは言うなれば、いわく言いがたい切迫感・ 緊張感になって現れます。

ところが、明治末期から大正になると そうした風潮の「揺り返し・反動」みたいなものが出て来ます。自分たちはこれでいいのか・自分たちは何をやってきたのだろうかという疑問が生まれて来るのです。日清・日露戦争には勝ったものの、日本の民衆に圧し掛かってくる状況の重みは変わらないばかりか、ますます重くなっていきます。その一方で個人の意識は高まって、「自由民権・デモクラシー」などと言うことが叫ばれます。しかし、事態はまったく変わ らないどころか、ますます状況は個人に重くのしかかっていきます。社会の重みのなかに個人の心情・アイデンティティーが引き裂かれていきます。こうした理不尽さへの怒り・あるいはどうにもならぬ「いらだち」のような気分 ・これから先は一体どうなるのかという不安感が生まれてくるのです。 これが明治末期から大正・昭和初期(つまりほぼ20世紀前半と言って良ろしい)を覆う「時代的気質」というべきものです。新歌舞伎はこうした時代的気質を背景に生まれているのです。

こうした時代の空気というのは後世の人には見えても、その時代に生きる人たちにどれだけ明確に意識されたものでしょうか。しかし、坪内逍遥は明治45年(1912)に次のように書いています。

『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。しかし今はもうそういう時勢ではない。移り変り時代たるの機運はなお続いているが、いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、 昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である。それゆえ同じく煩悶を表すにしても、今日の人物を表そうとするには団十郎のそれとは全く様式を別にしなければならぬ。深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。時代精神が変わったと共に、作意も作風も変わりまた変わりしつつあるのである。したがって芸風も根底から一新されねばならぬのである。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

ここで逍遥は、その時代を『ひと言を以って言えば無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代』とはっきりと言い切っています。さすがに時代の先端を行く芸術家の 感覚は鋭敏です。逍遥はその時代にあってその時代の特質を見事に言い当てています。なるほどそれでなければその時代を表現する芸術作品など生み出すことはできないのです。『ひとりの上にしてその実は人間全体、世界全部のうえに関係するというような』という言葉は、この時代の作家の姿勢を示すものに思えます。

さきほどの鴎外の「堺事件」・青果の「血笑記」にしましても、維新外伝のような体裁を採りながら実は「時代への怒り・不安・煩悶」を内に秘めているのです。 新歌舞伎の作家たちも、時代の心情を芝居に盛り込み、歌舞伎を時代に生きるものにしようとさまざまな試みを続けたのです。


3)大正のかぶき者たち

たとえば岡本綺堂の「番町皿屋敷」を見てみましょう。本作は大正5年(1916)2月・本郷座での初演です。二代目左団次の青山播磨・二代目松蔦の腰元お菊。一生に一度の恋と誓ったはずの播磨の恋を疑って家宝の皿を割ったお菊を播磨は決して許そうとしません。お菊を殺そうとする播磨に奴・権次が止めに入ります。「なんぼ大切の御道具じゃというても、ひとりの命を一枚の皿と取り替えるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりもあまり無造作の話ではござりませぬか」

これはまったく権次の言う通りです。人の命が一枚の皿に代えられるはずがありません。播磨がそう思ってお菊を殺すならばまったく酷い話です 。が、もちろんそんなことで播磨がお菊を殺すわけではありません。播磨は「もし偽りの恋であったら、播磨もそちを殺しはせぬ。いつわりならぬ恋を疑われ、重代の家宝を打ち割ってまで試されては、どうにでも赦すことは相ならぬ」と言っています。それでは一本気で潔癖症で思い込みの激しい性格の男が 女に自分の恋を疑われて怒り狂っているのでありましょうか。 幕切れに旗本奴と町奴の喧嘩を聞きつけて槍を持って現場へ行こうとする播磨を家来が「殿様、またしても喧嘩沙汰は・・・」と止めようとします。『やめいと申すか。一生の恋を失のうて・・・。あたら男一匹がこれからは何をして生くる身ぞ。』こう叫んで播磨は駆け出します。

この芝居を見ていると、播磨は「一生に一度の恋」と決めたものを恋人に疑われて・自分の体面を汚されたような気がして怒っているだけのことと思うかも知れませんが、そうではありません。播磨の 怒りの根源はもっと深いものです。それはこの世で自分が生きていることの最後の縁(よすが)を奪われてしまったことの嘆きです。

青山播磨は旗本奴です。旗本奴というのは「かぶき者」の一派で、派手な衣装をして町を練り歩き乱暴狼藉を働く者たちです。彼らは自意識の強い連中で 「男道(おとこみち)」を磨きながらも、日々の生活のなかで持てるエネルギーを発散できずに屈折しながら生きています。 時代はすでにそのような旺盛なエネルギーを受けとめるだけのダイナミズムを失っていたのです。その失望が彼らを自暴自棄の異様な行動に走らせるのです。(別稿「かぶき的心情とは何か」「かぶき者たちの心象風景」をご参照ください。)彼らは「自分たちは時代に適合できない人間だ・自分たちの生きる場所はここにはない」と感じているのです。そして、その憂さを晴らすのは喧嘩ばかりなのです。

そうした播磨がどうやら生きていられるのは、ただお菊との恋のおかげであったのです。しかも、旗本と下女という身分違いの恋でもあります。親戚からの結婚の催促への当てつけもあったかも知れませんが、播磨 の恋は真剣です。この恋がなければ自分は死んでしまいたいくらいに人生に深く失望しているのが播磨という男です。 おそらく幕切れの喧嘩の現場に駆けつけた播磨は暴れまくって・もはや生きて家に帰ることはないでしょう。

この心情は「鳥辺山心中」の菊池半九郎も同様です。 本作は大正4年(1915)9月・本郷座での初演。二代目左団次の半九郎、二代目松蔦のお染。「鳥辺山心中」の事件そのものは古くから伝わっているもので、近松門左衛門の作と言われる上方唄「鳥辺山」 でもよく知られています。旗本と遊女の心中というのは、 江戸前期の当時でも異常に「傾(かぶ)いた」行為であったでしょう。

「濁りに沈んで濁りに染まぬ、清いおとめと恋をして・・・」という半九郎の台詞はちょっと気障(きざ)ったらしいですが、若い学生を中心とする大正時代の知識層にはそれがとても新鮮に・ロマンチックに響いたのです。「清純な恋愛」ということが現実にはまだまだ成し難かった時代でした。自分の心情に素直に生きることは、時代の要請・社会の要請から外れることを意味した時代でした。のしかかってくる時代の重みを感じながら、大正の学生 さんたちは自分たちの置かれた状況を思い、やるせなくも・煩悶したりもしたでありましょう。あるいは、満たされぬ・ひとときの甘い思いを夢見たのかも知れません。

綺堂は、江戸時代の「かぶき的心情」を大正時代の視点から捉え直したのです。播磨も半九郎も江戸の設定を借りた大正のかぶき者なのです。もちろんその心情は江戸前期の時代的心情である「かぶき的心情」と同じところから発するものです 。しかし、若干趣が異なります。個の意識は江戸時代よりもずっと明確に「社会的権利」として意識されています。アイデンティテーの係わりが江戸前期と大正では全然違うのです。また個人を縛る社会からのしがらみ・束縛もより複雑さを増しています。それだけにその煩悶・不安・いらだちの様相は 竹を割ったように単純ではなくなります。いっそう深刻かつ微妙な色彩を帯びてくるのです。江戸前期のかぶき的心情は純粋に個人的なところから発したものですが、大正のかぶき的心情は社会性を帯びていると言えます。

播磨や半九郎は単に個人の心情を訴えているのではありません。逍遥の指摘しているように・『ひとりの上にしてその実は人間全体、世界全部のうえに関係するというような』なにものかを訴えているのです。だから大正時代の青年たちは新歌舞伎に熱く共鳴したのです。これが二代目左団次に代表される新歌舞伎の心情の本質です。


3)せき込む科白

そのような心情を訴えようとする時には、個人の心情というのは自然と高揚するものです。常に後ろから背中を押されているような緊張した感じになります。その台詞は自然とテンションが高くなり、 悲愴さを帯び、気ぜわしくなり、棒にたたみ掛ける調子に自然になってくるのです。

明治44年・帝国劇場において坪内逍遥をリーダーとする文芸協会は第1回公演としてシェークスピアの「ハムレット」を上演しました。 それ以前にも翻訳劇は上演されていますが、演劇史において「新劇の創始 」とされているのはこの帝劇公演です。この公演の評判はあまり結構なものではありませんでした。初日の芝居に先立って逍遥はシェークスピア劇論を一席ぶちました。最前列には夏目漱石が 座っていて逍遥の講演は神妙に聴いていたようですが、「ハムレット」の芝居が始まって最初の役者が「皇帝万歳」と言った途端に、漱石はすっと席を立ちそのまま後も見ずに帰ってしまったそうです。この時の芝居では「主役の台詞がせきこみ過ぎである」という評が出たそうですが、逍遥はこう反論しています。

『 僕の耳に触れた評のたいていは、我々の劇を評するに在来の劇を評するとまったく同じ標準を用いていたようである。たとえば土肥氏の台詞回しをせきこみ過ぎると評した人があったが、その実あの調子が我々の工夫の一である。人物の性格に応じ、その情調に応じて在来の台詞回しにはかってないような調子を用いさせたような例がいくつもある。 』(坪内逍遥・「ハムレット」公演後の所感・明治44年6月)

逍遥は「そのせきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそが我々の工夫である」と言っているのです。逍遥は文中ではその工夫の背景を述べてはおりません。しかし、逍遥の周辺の論文を追って行けば察しはつきます。

『深刻な、もっと細緻な、もっと痛切な、一家、一城、一国限りの浮沈栄衰に関するにとどまらぬーひとりの上にして、その実は人間全体、世界全部の上に関係するのであるというようなー苦痛や憂愁が具体的にされねば慊(あきた)らぬという注文が、作者にもあれば見物人の心にもある。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)

この時代的心情(新時代のかぶき的心情と言ってもいい)を表そうとする時、自然とその台詞回しは気ぜわしく・せき込み過ぎになるのです。二代目左団次の新歌舞伎の科白回し も、まさにそういうものでありました。(別稿「高揚した時代の出会い〜青果と左団次」をご参照ください。)大正の観客は左団次の新歌舞伎に熱狂しました。久米正雄は 左団次の魅力を次のように書いています。

『人は彼(左団次)の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と言う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている(中略)息の刻みだけで吾々を捉えずにはおかない。」(久米正雄:「左団次の信長」・演芸画報大正4年3月)

ある評論家(あえて名前を伏す)が「左団次の一本調子の演技は彼の演劇的無理解に発する・当時の観客が二代目左団次に魅せられたのは、その解釈や演技ではなく、そのテンポとリズムであった」というようなことを書いていますが、とんでもないことです。時代の心情を踏まえない 作品解釈・科白回しや演技など決してあり得ないのです。時代の心情の裏打ちのないテンポとリズムに観客が熱狂することなど決してあり得ないのです。 左団次の解釈は、その時代を同じくした者だけが共有する心情に発するものです。共有された心情が作品(=作者)と演技(=役者)と観客とを結びつけます。だからこそ、その解釈が ・それに裏付けられた台詞回しが時代を同じくする観客の心を打つのです。こうしたプロセスが理解できないならば、左団次を中心とする大正の新歌舞伎運動の意義など決して理解することはできないでしょう。

江戸のかぶき的心情はこのような形で新しい時代に蘇ったのです。だから、左団次の演じた作品群は「新演劇」とは言わなくて「新歌舞伎」と言うのです。歌舞伎役者が演じるから新歌舞伎と言うのでは なく、それはかぶき的心情を現代に蘇らせた新しい時代の歌舞伎であったのです。

(H15・10・26)





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