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かぶき者たちの心象風景


1)「ごろつき」について

「ごろつき」というのは、社会の共同体のなかに定着せずに各地を流浪しているような人々のことを言いました。「ごろつき」という存在は鎌倉中期頃から目立ってくるのですが、具体的には、流浪芸能民・修験者・時宗の遊行聖や念仏聖・野武士・熊野比丘尼のような遊女・遍歴する職人など多種多様な人々が含まれます。

どうして彼らを「ごろつき」と呼んだのでしょうか。路傍にゴロゴロしている人々という意味のようですが、ゴロゴロと言えば・それは雷鳴の音です。そこから連想されるのは御霊信仰です。御霊として名高い菅原道真は、大宰府で亡くなった後に雷神となって 旱魃などの異常気象を引き起こし京都清涼殿や藤原時平の邸宅に落雷を落とすなどの数々の祟りを起こして畏れられ、北野天満宮に祭られたと「大鏡」にあります。「ごろつき」とは御霊憑きなのだという説があるそうです。御霊とは為政者に対して恨みを抱いて死んだ者が 異常気象や疫病などの形で祟るものです。この世の乱れ・天変地異は、為政者の不徳によって起こると、当時の人々は考えたのです。いわば「ごろつき」というのはそのような為政者への恨み・つまりは社会への憤懣を抱いて共同体を離脱した者たちであると見られたのでありましょう。

「ごろつき」たちは、各地を転々としながらどんなことを考えていたのでしょうか。共同体の掟や「しがらみ」に縛られない自由・開放感でありましょうか。それとも、定着に憧れながらも組織に受け入れられない哀しみ・疎外感でありましょうか。ところで、折口信夫は次のようなことを書いています。

『室町時代を経て、戦国時代が彼ら(ごろつき)の最も跳梁した時代で、次に織田・豊臣の時代になるのだが、そのなかには随分破格の出世をした者もあった。今日の大名華族のなかには、その身元を洗うてみると、その頃の「ごろつき」から出世しているものが少なくない。彼らにはそうした機会がいくらでもあったのだ。この機会を取り逃がし、それより遅れた者はついに徳川三百年を失意に送らねばならなかったのであった。』(折口信夫:「ごろつきの話」 )

折口信夫は、戦国・そして安土桃山の時代に起こった激しい身分の変動・価値観の変転のことを言っています。しかし、徳川時代に至って身分の固定化が一気にされてしまいました。「ごろつき」のある者は大名へ出世し、その機会を取り逃したか・乗り遅れた者たちは「無宿者」としてさらに徳川三百年を失意のうちに送らねばならなかったというのです。この「ごろつき」たちの末裔が後に「かぶき者」と呼ばれた者たちなのです。


2)囲い込みの構造

中世は「かぶき者(ごろつき・悪党)」が横行した時代でありました。彼らは各地を流浪して共同体から共同体へ渡り歩いて、時代のダイナミズムを作り出していったのです。戦国大名たちにとってかぶき者たちは情報収集 ・武器調達においても交易においても非常に役に立つ者たちでした。彼らをうまく使うことが戦国を生き抜く知恵だったのです。たとえば、前田利家は「若き者どもは、かぶきたるほどの気立ての者を御意(ぎょい)に入れ申し候」(「利家記」)とあるように、かぶき者を好んで召抱えたというし、前田利家自身も、若い時には周囲に煙たがられたほどのかぶき者でした。常軌を逸したかぶき者の気風は戦国の世においては珍重されたものであったのです。

しかし、時代が次第に落ち着いてくると為政者は彼らの存在を次第に迷惑に思うようになっていきます。なぜならば、彼らは本質的に「自分の気持ちに忠実な」人たちで自己主張が強く、一旦こうと思い込んだことには命を捨ててもとことん尽くすが、気に入らないとプイッと寝返ったりする。平和な時になると 継続した主従関係にそぐわない行動が目立つようになってくるのです。彼らは「個」の考え方が強く、「忠義」という観念が本質的に欠けていたのです。これを放置すると封建体制が内部から崩れていく危険を幕府は感じたのです。(これについては別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

各地を自由に行き来していたかぶき者たちの移動を、為政者たちは次第に制限するようになっていきます。織田信長の行なった楽市・楽座は、交易で事実上独占的に利益を得ていたかぶき者たちに経済的に大きな打撃を与えました。秀吉の行なった刀狩りもかぶき者たちの武装解除を目的とした政策であったという側面があります。こうして徳川の世が始まると、身分の固定化が急速に進んでいきます。

慶長8年(1603)に徳川幕府が成立した時には、まだ江戸はほとんど荒れ野原の状態でした。この無に近い状態を、幕府は約百年の歳月を掛けて大規模な運河建設をはじめとする土木工事で都市建設をしたのです。これらの工事は各地の諸大名に割り振られて、彼らの財政力を削ぐ目的もありました。最初から何もなかったのですから、大名屋敷も寺院も・そして遊郭や芝居小屋の配置も幕府の思うままに設計ができたのです。

政権の安泰に向けて江戸の基盤整備に取り掛かった時に、徳川幕府が最初に考えなかればならなかったことは、江戸に流れ込んできたこうした漂浪芸能民・諸藩のとりつぶしによって大量に発生した浪人たちなどの・かぶき者たちの群れをどうするかということでした。江戸幕府は、大火事や人口増大による町の拡大に合わせて、段階的かつ突発的にかぶき者たちを「囲い込む」政策を展開していきます。悪名高い「生類憐れみの令」なども、当時のかぶき者たちが町の犬をかたっぱしから取って喰っていたのでそれを取り締まるという側面もあったそうですから、ある意味では「かぶき者」対策であったのです。

明暦3年(1657)の大火をきっかけに、幕府は江戸城に隣接した町人地と日本橋付近にあった遊郭を浅草寺近くの新吉原に強制的に移転させました。遊郭の移転は前年に幕府から移転を命じられていたのですが、あまりに辺鄙な地なので楼主たちが移転を渋っていたものでした。結果的には火事で焼け出されるような形で移転が実行されたものです。また芝居小屋(歌舞伎芝居だけでなく物真似小芝居や糸操り人形芝居の小屋を含む)も堺町・木挽町などに限定してしまいました。井原敏郎の「歌舞伎年表」を見ますと、この時に閉業に追い込まれた芝居小屋は11座ほどあるとのことです。

江戸の町を俯瞰しますと、江戸城の鬼門と浅草寺を結ぶ線の延長上には、吉原(遊郭)・小塚原刑場・千住宿が連なっています。千住は奥州街道(日光街道)の基点であって、聖なる江戸と他界である東北(=蝦夷)との境界でありました。江戸の町は風水や陰陽道の思想を取り入れて都市設計がされていて、そこには内と外・此岸と彼岸・生と死・始まりと終わりの観念が係わっているのです。かぶき者たちはそのような「他界」の地域に押し込められたのです。(写真館「監獄都市・江戸の都市構造」をご参照ください。)

江戸においては芝居小屋と遊郭が「悪所」と呼ばれたことは、ご承知の通りです。芝居小屋と遊郭、それは最も人の行きかう場所であり、金と情報の最も行きかう場所でもあり、そして、かぶき者たちが巣食う場所でありました。つまり、幕府にとってみれば最も油断のならない場所でありました。この二つの場所を取り締まれば、幕府はかぶき者全体を押さえたのも同然であったのです。遊女は中世期の熊野比丘尼などは各地を遊行する宗教的な芸能民であって「巫女」として畏敬された存在でもありました。しかし、江戸時代になると、彼女らは「廓」という囲われた地域に押し込められて世間からは隔離されてしまいます。吉原遊郭のなかでは「太夫」と呼ばれて尊敬されて栄華を極めてはいても、所詮は堀に囲まれた閉ざされたなかでの「囲われ者」に過ぎなかったのです。

また、歌舞伎役者も華やかないイメージを振りまきながらも・町人との交際を厳しく制限される身分に転落させられたのです。『錦着てたたみの上の乞食かな』、千両役者と言われた四代目団十郎の詠んだ 自虐の句です。そこに 歌舞伎役者のどうしようもない口惜しさ・歯ぎしりが聞こえてくるようではありませんか。後に天保12年(1841)に江戸三座は浅草聖天町(後に猿若町に改名)にまとめて押し込まれることになりますが、これが幕府の芝居小屋政策の最終的な形を示すものであるかも知れません。

このように、江戸という都市は身分的な秩序を都市設計のなかに取り入れた「囲い込み」の構造になっているわけです。このことは遊女・歌舞伎役者に限ったことではありませんでした。町人の場合 も昼間の往来は自由にできましたが、夜になると町は木戸によって封鎖されて通行はなりませんでした。「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われる裏長屋の生活も、逆に言えば親方・子方という隷属関係によって常に監視される権力構造があったわけです。例えば「髪結新三」において、親分・弥太五郎源七にも屈しない新三がどうして年寄りの家主・長兵衛にかなわないのでしょうか。それは長兵衛の科白を聞けば分かります。

『・・・入れ墨というものを手前は何と心得てる。人交じりのできねえ証だ。たとい手前に墨があろうが知らねえつもりで店(たな)を貸すのだ。表向き聞いた日には一日でも店は貸せねえ。・・・・おれが太えのを今知ったか。こういう時にたんまりと金を取ろうばっかりに、入れ墨者を合点で、店を貸しておく家主(いえぬし)だ。』

このような「身分の囲い込み」構造は江戸幕府の基本的な政策であったと考えられますが、どこの地域でもこうした構造が江戸のように明確に見えるわけではありません。特に歴史的に古い西日本においてはその構造は複雑に入り組んでいてその解析は容易ではありません。

ここで大事なことは、風水思想とか陰陽道とか・そういう思想のことではありません。「他界」とか「異界」といった概念が持っているイメージがいわば「暗喩」的に、民衆の無意識のなかに入り込んでいく・それが民衆の意識を内側から変えていったということです。そうやって差別の構造が知らぬ間に作り上げられていくということなのです。幕府が行なった「囲い込み」の政策によってかぶき者たちは民衆から隔たてられ・自然のうちに差別を受けていくわけです。


3)歪んでいく感性

ここまで長々しく徳川幕府の「かぶき者対策」を書いてきましたが、大事なことは、安土桃山期において最高潮に達したかぶき者のエネルギー・バイタリティーが江戸期に入って危険視されて、その身分が固定されてしまったこと、そして幕府の「囲い込み」政策によって・かぶき物たちは限定された地域に押し込められ・監視される状況に変化したということです。もちろん幕府はかぶき者を完全に抹殺しようとしたわけではありません。限定された枠であったとしても自由は容認されていたのです。しかし、それはかぶき者たちにとってはあくまで「与えられた自由」なのであって、中世期に彼らが得ていた自由意志による「完全な自由」ではなかったのです。そのような抑圧された状態のなかでかぶき者の感性は歪んでいかざるを得なかったのです。

別稿「立体性のない演劇」のなかで、英国の寄宿舎での学校生活で子供たちが厳しい先生と年長の生徒にいじめられながらの悲惨な生活のなかで想像力の翼をはばははかせる、そうした教育環境が英国でファンタジーが盛んな土壌を育んでいるという話を紹介しました。ファンタジーの発想の自由さは人間の想像力の無限の自由さを示すものです。夢のなかでは主人公は時空を越えてどこにでも飛んで行けるし、妖精・怪物にも出会えます。しかし、それは想像力のなかだけで作り上げられて発展したものなので、逆に言えば現実性・実体性を喪失しているのです。「時空の座標の喪失」あるいは「立体性の喪失」というのはファンタジーの特徴でありますが、それは隔離され自由を奪われた環境のなかで歪んだ感性と無意識が「魂の再生」を求めて羽ばたくことで生まれたものだと 吉之助は考えています。

同じことが歌舞伎にも言えます。かぶき者たちの置かれた状況は、英国での寄宿舎での子供たちの生活によく似ています。言い換えれば、それは程度はマイルドではあるけれど「精神の監獄状態」なのです。「異界」へ押し込められ・抑圧された状態のなかで、かぶき者たちはかつての「自由」を思い浮かべます。あの時代に外へ向けて発散されたエネルギー・バイタリティーは、身分が固定されてしまった世にあっては、もはや「内」に向かうしかありません。あの異様な衣装で自己を主張し・常軌を逸したかぶき者たちの行動は、ある種の絶望と憤懣を伴ったものであったに違いありません。こうしてかぶき者たちの感性は次第に歪んでいくのです。(こうしたかぶき者たちの心性が次第に一般の武士・町人にまで影響していって徳川時代前期の「時代的心性」になっていきます。別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

「立体性のない演劇」のなかで、歌舞伎という演劇が持つ美意識とそれまでの芸能との美意識との間には大きな隔たりがあると書きました。能・狂言や・あるいはその他の先行芸能とはまったく異なるバロック的な要素・エギゾチックな感性、それはまるで「断層」とも言えるようなものを感じさせます。歌舞伎の場合はそうした先行芸能を引き継いではいるのだけれど、連続した美意識の流れを感じとりにくいのです。ドギツイ色彩と隈取り、大げさな身振りと大仰な台詞回し、それらは決して「純日本風」とは言えないものを含んでいます。それは、絢爛豪華な南蛮文化の流入で人生を謳歌するような安土桃山の世と、鎖国政策のなかで内にこもって行く江戸の世との精神の段差を考えれば、その理由が想像できるのではないかと思います。

実は中世末期というのは日本の歴史のなかでいろいろな意味で「転換期」でありました。江戸期においては普通に用いられて・今では日本伝統のものと信じられているようなもの、例えば能装束の素材である絹、茶の湯で用いられる抹茶や茶器、生け花で持ちられる花器などの陶磁器、そうしたものは元々は中国からの輸入物でした。こうした輸入物は室町後期から中国からどっと日本に入ってくるのです。安土桃山期における芸能の革命的な出来事といえば、それは三味線の導入です。これも南蛮渡来のギターから来たものとかとも言われています。

江戸時代にいたって そうした「輸入物」は日本で現地生産されていくようになって、やがていつの間にか「日本伝統のもの」であるかのように認知し受け入れられていくのです。同じように歌舞伎を見ていると、その派手な原色でエギゾチックな衣装・文様のなかに、鎖国の世になってから消し去られてしまった ・あの時代の「外界への憧れ・ドキドキ気分」の記憶が無意識的に現れているような気が吉之助にはするのです。それは、かつて自分たちが生き生きとしていた時代の自由への憧れ・開放への憧れを哀しく歌うのです。それはかぶき者たちの歪んでいく感性・哀しい自己主張と重なっているのではないでしょうか。

余談になりますが、あのたっぱの低い・平面的で立体感・奥行きのない歌舞伎の舞台も、何となくそうしたかぶき者たちの閉塞した心象風景を示しているように吉之助には思われます。

(後記)本稿は「徳川・暗黒時代」説の復活を意図しているものではありませんので、ご注意ください。このような制限された自由のなかでも、かぶき者たちは精一杯自由に生きたのです。そのことは歌舞伎・浄瑠璃の舞台を見れば納得いただけるでしょう。しかし、「かぶき者の哀しみ」の正体にはちょっぴり目を向けていただきたいと思うのです。それが分かれば、歌舞伎の持つ「歪んだ美意識・立体性の喪失」の意味が見えてくると思います。

(H15・5・11)

(参考文献)

桜井進:「江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

折口信夫:「ごろつきの話」(折口信夫全集第3巻「古代研究」民俗学篇)

(付記)

別稿「監獄都市・江戸の都市構造」をご参照ください。

歌舞伎の雑談「かぶき者たちの心象風景」もご覧下さい。


 

 

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