高揚した時代の出会い〜青果と二代目左団次
〜「元禄忠臣蔵」
1)明治という時代
昭和40年ごろのことですが、「近代日本を創った百人」というテーマで明治以降にあらゆる分野で活躍した日本人から近代日本の発展をリードした百人を選ぶという会議が行われました。この時に三島由紀夫の強い推薦によって演劇界からただひとり真山青果が選ばれたのです。同席のドナルド・キーン先生はこれにご不満であったようで、別の機会にこう書いています。
『(青果の歌舞伎を見て)退屈しなかったことは一度もない。幕末の武士がちょん髷の頭を下げ、激しい感情で声を震わせ、「先生、お願いします。どうか私を静岡へ使者へ出してください。」というようなセリフを聞くと、「またか」と思う他はない。現代人の嗜好に媚びるように、時代錯誤を冒すことも嫌いなので、「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」というような西郷吉之助の発言などが気に入らない。最も気に喰わないところは、不自然な武士の笑いである。「壮快じゃらうなア、ハハハ」というようなことを聞くと何か下らない時代劇映画を思い出さざるを得ない。真山青果が近代日本の演劇を作ったとすれば相当な責任があるように思われた。』(ドナルド・キーン:「日本文学を読む」 ・「波」1974年6月号)
キーン先生の言わんとすることは分かる気もしますが、じつは吉之助はキーン先生がいやがっている部分が青果劇の魅力のかなりを占めるように思っています。青果劇の登場人物というのは理屈っぽくて・ちょっと青臭くて、どことなく書生っぽい感じがします。登場人物が自分の気持ちを切々と ・綿々と熱く訴える。人物が二人揃えばすぐ議論を始めそうな感じでもあります。じつは吉之助の場合は青果劇のそこのところが好きです。お芝居としてよりもレーゼ・ドラマ(読むための芝居脚本)として好きなのかも知れませんが。
青果の芝居には、明治生まれの日本人が一生懸命に西欧に追いつこうと必死に努力していた時期の・今は苦しいけれども努力して・いつかきっとこの国を豊かにしようという気概・志の高さ、そんなものがあるように思います。なんというか、背筋がシャキッとするようなものを感じるではありませんか。
『維新によって日本人ははじめて『国家』というものをもった。〜だれもが国民になった。〜いまから思えばじつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。(中略)その町工場のように小さい国家のなかで、部分部分の義務と権能をもたされたスタッフたちは、世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただ一つの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことす ら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのだろう。(中略)やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。〜楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。』(司馬遼太郎:「坂の上の雲」・ 第1部・あとがき)
青果の時代(青果は明治11年・1876年の生まれ)の日本というのは、こういう気概のある時代であったのだろうと思います。もちろんそれで切り捨てたもの・取りこぼしたものも数知れなかったのでありましょうが、しかし、この時代はこうしなければ、「国家」は守れなかったのです。そして、演劇にもおなじ役割が要請されていたのです。青果を「楽天家」というとちょっと違うのじゃないのという声も出てきそうですが、青果劇の「自分はどう生きるべきか・在るべきか」を追い求めようとする理想癖・潔癖さを見ていると、青果というのは「楽天家」そのものなのではないかという気がしてくるのです。
2)感情の不意打ち
ところで、キーン氏は「下らない時代劇映画みたいな」と仰ってますが、青果劇の台詞というのは、吉之助の想像するところでは、どうも二代目左団次の芸風と裏表のような気がしています。あるいは左団次という表現者を得たことで、青果は多くの作品を書くことが出来たのかも知れないとそう思います。
加賀山直三氏は、「将軍江戸を去る」(昭和9年・1934)での左団次の将軍慶喜の演技について次のように書いています。
『慶喜役で、私が特にハッと胸打たれる思いをしたのは、何か愚痴めいた繰言を言ううち、心中迫るものがあり、いきなり泣き出す件であった。突然、ウウウッと噴き上げるように泣くのである。(略)あの感情の迸りから突然噴出する泣き方は(略)芝居の波の異常というか、着想外というか(略)彼以後の誰の慶喜もああいう泣き方をした人はいない。』(加賀山直三:「真山青果作品と市川左団次」)
「頼朝の死」(昭和7年・1932)での将軍頼家の泣き方もこれとまったく同じなのです。どちらも左団次の芸風を想定しているとしか思えません。ところで、この左団次の噴出するような直情的な泣き方ですが、吉之助は、これはよく言われるような・左団次の芸の「不器用さ」から来るものではないと思っています。
左団次の演技については、その男性的な・骨太い演技を賞賛する声と同時に、繊細で小回りの効く演技ができない「不器用さ」とか、台詞を間違えるともう一回最初から戻って台詞を言い直すといった「愚直さ」が言われたりします。「偉大なる無技巧」などと言われると、何だか「あまりうまくない役者がその人間性だけで観客を魅了した」というような感じに聞こえますが、本当にそうなのでしょうか。
感情を積み上げて・その高まりの表現として泣くという行為に至るという滑らかな論理的な感情プロセスだけが演技であると思い込んでいると、左団次のような泣き方がどこか不自然で突然噴出すように思えるのでありましょう。事実、慶喜にしても頼家にしても、ぐううっと息を詰めて・噴出す感情を抑えようとして・しかし耐え切れずにウルウルとしてきて、ついにウワッと泣き出す、こういうプロセスを踏まないと、どうも泣けないと感じる役者さんは多いようです。だから左団次のような「感情の不意打ち」は、そうした「常道の演技のプロセス」を踏めない左団次の不器用さから来る ・そのような演技が観客に新鮮な衝撃を与えた、そのように書いてある歌舞伎の研究論文もあるようです。
こうした見方は左団次の芸が当時の観客に熱烈に支持されたという事実を忘れているのです。突然変異的な「不器用な芸」が、その新鮮さ・新奇さだけでその時代の観客にたまたま支持されたなどと考えるのはお笑い種です。これは逆でしょう。左団次の芸はまさに時代が生み出したものであり、彼の直情的な・噴出するような泣き方が、観客のなかに潜んでいる感情のどこかを刺激したのに違いないのです。左団次の芸が表現しようとしたものは、時代の空気・時代の真実を突いていた。だからこそ左団次は時代に支持された、そう考えなければならないのです。
そのためには、日清・日露戦争からさらに次第に一等国意識を強め、列強に肩を並べていこうとする・そして泥沼にはまっていく、当時の日本民衆の「気負い」・「気持ちの昂ぶり」 を考えなくてはなりません。そして昭和初期においては、それに「不安」そして「いらだち」の影が差してきます。当時の民衆の気持ちは何だか分からないけれども十分に昂ぶっているのです。それは時代がそうさせているのです。そして、それはちょっとの刺激で爆発してワッと激情に走りかねないような危うさ・不安定さを孕んでいるのです。そのことは当時(昭和初期)に起こった一連の事件とその結果を見ればお分かりかと思います。
将軍頼家は母・北条政子に「事も愚かや、家は末代、人は一世じゃ」と叱責されて、それだけで口惜しくてワッと泣き出すわけではありません。それまでのなかで、頼家の泣くに泣けない状況・やり場のない憤懣は十分に描かれてい るのです。頼朝の気持ちはもう張り裂けんばかりで、それはホンのちょっとした些細なことで爆発しそうな緊張状態になっているのです。政子の台詞は頼家の感情の爆発のきっかけに過ぎません。だから、その場面においては泣くプロセスなど必要ではないのです。ということは左団次の頼家は最初から最後までずっとハイ・テンションで演技を一貫させたのであろうと思います。当然、そうでなければならなくなります。左団次は青果の脚本を正しく読んでいると思います。
政子の「家は末代、人は一世じゃ」という台詞は、当時の観客には「お国のために死ぬるのじゃ」とメッセージに響いたに違いありません。しかし、誤解しないで欲しいですが、この「頼朝の死」の主人公は政子ではなくて頼家なのです。ワッと泣き出す頼家の姿を見て、観客は何を感じたのでしょうか。「お国のためにここは耐え難くても耐え忍ばねばならぬ」と思ったかもしれませんし、あるいはいやでも戦争に行かねばならない自分・あるいは家族の泣きたい気持ちを思ったかもしれません。当時の観客の場合にはやはり前者であらねばならなかったでしょう。しかし青果がこのがんじがらめの状況のなかで苦しみもがく頼家のことを想っていたのは明らかであると思います。
3)棒に言う台詞
「最初から最後までテンションの高い演技を持続させること」、これが左団次の演技の根本であったと思います。そして、青果の作品の登場人物たちもまたそうであると思います。キーン先生が嫌がっている台詞、「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」・「壮快じゃらうなア、ハハハ」などという台詞は、ハイ・テンションでなくては白々しくて恥ずかしくて言えない台詞です。しかも、その台詞は熱にのぼせきったところで発せられているのではなくて、反面、じつに冷静に理性によって抑制されたものなのです。ここが大事なところです。
左団次は台詞を無技巧に棒に言う傾向があったそうですが、独特のテンポと力感があって決して退屈には聞こえなかったと思います。久米正雄は左団次の台詞まわしについて次のように書いています。
『人は彼(左団次)の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と言う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている(中略)息の刻みだけで吾々を捉えずにはおかない。」(久米正雄:「左団次の信長」・演芸画報大正4年3月)
青果劇の登場人物の台詞は、とにかく言葉が難解で理屈っぽくて、しかも長ったらしい。ちょっと見ただけでは歌舞伎的に音楽的に発声がしにくいと感じます。というよりも「歌になることを初めから拒否している」感じでもあります。しかし、左団次の棒に言う台詞回しは青果劇の台詞の処理のヒントになるようにも思われます。「御浜御殿綱豊卿」(昭和15年・1940)での綱豊の台詞を見てみます。
『助右衛門、男子義(ぎ)によって立つとは、その思い立ちの止むに止まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない。吉良の生首を、泉岳寺の墓前に捧げさえすれば、内匠頭の無念、内匠頭の鬱憤はそれで晴れると思うのか。そちたちにして義理を踏み、正義を尽くす誠あらば、たとえ不幸にして上野介を洩らしても、そちたちの義心鉄腸(ぎしんてつちょう)は、決してそれに傷けられるものではない。そちたちの今はただ、全心の誠を尽くして、思慮と判断と知恵との全力を尽くすべき時なのだ。思慮を欠き、判断に欠くるところあらば、たとえ上野介の首打っても、それは天下擬人の復讐とはいわれぬのだ。何故何故何故、おのれ、たとえ吉良上野介を討ちそこなった場合でも、みずから顧みて、疚(やま)しとも口惜しとも思わぬほどの仇討ちをしようとは企てないのか?』
ここまでで綱豊の長台詞の三分の一くらいですから、役者もたいへんです。ここの台詞は一種の「タテ言葉」で、つまり立て板に水を流すように言わねばならないところです。それにしても「歌舞伎らしく」音楽的に処理しようと思うと、なかなか難しい感じです。まさか「ダアンシイ/ギニヨッテタツ/トーワ○○」と七五調に処理しようとまでは 誰も考えないでしょうが、しかし、いずれにせよ言葉の抑揚で調子を合わせようというという感じは多少あるかも知れません。
この綱豊の長台詞「男子義によって立つとは、その思い立ちの止むに止まれぬところにあるのだぞ。義の義とすべきはその起こるところにあり、決してその仕遂げるところにあるのではない」までは、機関銃 のようなリズムで言わねばならないところだと思います。ここは棒で発声した方がいいところなのです。しかも畳み掛けるようなテンポが要求されます。そうしないとテンションが高く・焦く感じが伝わってこないのです。そのように青果は書いていると思います。しかし、だからと言って言葉の意味が観客に伝わらないならすべては無駄になってしまいます。言葉のひとつひとつが粒立つように説得力を以って発声されなければなりません。
恐らく左団次はそのように発声したに違いありません。そして機関銃のような言葉のリズムが「何故何故何故、おのれ」でそのテンポが大きく破綻して、さらに最後の部分では声を高潮させていったでありましょうか。「クワダテナイノカア」、歌う部分はそこだけで良ろしいでしょう。左団次ならそれだけで「この芝居は歌舞伎だ」と感じさせたに違いありません。
「あの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻みに於いて、吾々のそれとピタリと合致する(中略)その調子の緩急を以って、すわなち台辞のテムポーを以って、知らず知らず吾々の血を沸かすむるものは、彼を措いて外にはない。(中略)彼の口跡のみが、現代のリズムを捉えている」(久米正雄:「左団次の信長」)
以上は二代目左団次の綱豊はこうだったに違いないという吉之助の推測です。しかし、青果劇の台詞というのは、「下らない時代劇映画みたい」では決してないと吉之助は思います。そう見えるなら、それはその舞台が青果の脚本・台詞の求めているものを体現できていないからなのです。
青果の脚本が求めているものは、その「気持ちの昂ぶり」・「テンションの高さ」です。これがないと青果劇になりません。それは左団次の芸風と共通するものであると感じます。作家・青果 は表現者たる左団次という個性と偶然に出合ったのではなく、ふたつの偉大な個性は共にその時代の要請によって出合った。そう考えなければならないわけです。
(参考文献)
田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)
(追記)
写真館:「二代目左団次の仕事」・「二代目左団次の綱豊卿」もご参考にしてください。
(H15・1・19)