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二代目左団次の「綱豊卿」


真山青果の連作歌舞伎「元禄忠臣蔵」は昭和9年(1934)3月に二代目左団次によって初演された「大石最後の一日」から始まりました。青果はこの大作をなんと大石内蔵助の最後から書き始めたのです。その後、昭和17年の「泉岳寺の一日」まで10編の作品が書き上げられました。

青果の作品の多くが左団次によって初演されていますが、「元禄忠臣蔵」シリーズの白眉とも言える「御浜御殿綱豊卿」もまた昭和15年1月に東京劇場において左団次によって初演されています。この時の配役は、二代目左団次の綱豊卿・二代目猿之助( 初代猿翁)の助右衛門・六代目寿美蔵(三代目寿海)の新井白石などです。ここで紹介する写真はその初演の時の舞台です。

この翌月・昭和15年2月22日に左団次は59歳で死去するのですが、この時の左団次の体調はすでにかなり悪くて、左団次は医者の制止を振り切って初日の綱豊卿の舞台を勤めました。しかし、三日目からはやっぱり無理で、寿海が代役を勤めました。

青果劇の台詞というのは理屈っぽくて言葉が難解でしかも長ったらしくて、なかなか歌舞伎らしく発声するのが難しいように思いますが、これを独特の抑揚で力感のある台詞に作り上げていく・そこに左団次の独自の芸の工夫が隠されているように思われます。

上の写真は、「御浜御殿綱豊卿・中の巻」・御座の場での左団次の綱豊卿と寿海の白石です。 三代目寿海は左団次の芸風をよく継ぎ、その後継者として、左団次が初演した多くの役を持ち役にしてきました。

下の写真は「御浜御殿・下の巻」のクライマックス・御能舞台背面の場での左団次の綱豊卿と猿翁の助右衛門。

ところで、この場面で綱豊卿が演じるお能は原作では「船弁慶」の知盛になっています。しかし、左団次はこの部分を「望月」に変更しています。それは知盛の小面を舞台に落として傷付けるのを恐れたからであったようです。(左団次は脚本第一主義の人で、台本をいじったり場面をカットするようなことはほとんどしなかったそうですから、よほど困ったのでしょう。)それ以来、この場面は「望月」でやるのが型になってしまっています。しかし、綱豊が暗がりでお面をつけているから助右衛門は吉良と思い込んで槍を突きかかるわけですから、この場面はぜひ原作通りの「船弁慶」でやってもらいたい気がしています。

(H14・12・5)




 
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