二代目左団次の仕事
二代目左団次が歌舞伎に遺したものは、ある意味で六代目菊五郎に匹敵するか・それ以上であるかもしれません。菊池寛は、「二代目左団次は明治大正にかけて、俳優として最も意義ある道を歩んだ人であった。その点では(九代目)団十郎・(五代目)菊五郎以上かも知れない」とまで言っています。
何しろ明治30年代に20代の若さで洋行して、西洋演劇をこの眼で学んできたというのですから、志が違うというか・本当の意味で役者ではなく「俳優」であった人なのです。
左団次の業績の第一は、何と言っても、歌舞伎外の作家と積極的に提携して、数々の新歌舞伎の名品を世に送り出したことです。岡本綺堂・岡鬼太郎・小山内薫・池田大伍・木村錦花などとの提携もそうですし、晩年の真山青果の「元禄忠臣蔵」・「将軍江戸を去る」 ・「江戸城総攻め」などの一連の史劇も左団次の初演です。
左の写真は、左団次の「今様薩摩歌」(岡鬼太郎作・昭和2年6月歌舞伎座)での薩摩源五兵衛です。よく言われる・男性的で・骨の太い左団次の芸の片鱗がこの写真でもうかがえましょう。
上左の写真は「修禅寺物語」での夜叉王。上右の写真は「番町皿屋敷」での青山播磨。 岡本綺堂とは、ほかに「鳥辺山心中」・「佐々木高綱」・「室町御所」・「箕輪の心中」などの作品があります。
もうひとつの左団次の業績は、歌舞伎の埋もれていた作品を復活させたことです。左団次には「七草会」という当時の教養人たちのブレーンがあって、彼らの知識やアドバイスも得ながら、 左団次は歌舞伎十八番 である「鳴神」や「毛抜」などの復活を行いました。また、南北ものでも、「謎帯一寸徳兵衛」・「立場の太平次」・「勝相撲浮名花触」・「杜若艶佐野八橋」などを復活しています。
上の写真は、昭和8年歌舞伎座での「鳴神」の舞台。二代目松蔦(絶間姫)・左団次(鳴神上人)・二代目猿之助(白雲坊)。松蔦は、左団次の芝居にはなくてはならない女房役でありました。
重要なことですが、左団次の仕事は「大正ロマン」とか「大正デモクラシー」というような・この時代の雰囲気と切っても切り離せないものなのです。
(追記)
別稿「高揚した時代の出会い〜青果と左団次」をご参照ください。
(H15・1・20)