歌舞伎の雑談4(平成15年7月ー12月)
来年(2004)1月で本サイト「歌舞伎素人講釈」は丸3年となります。3年もなりますと記事も増えてきまして、ざっと眺めますとこのサイトもだいぶ体裁を成してきたようでありますね。このサイトを初めてご覧になられた方は、どうお感じでしょうか。このサイトは確かに歌舞伎を題材にはしているけれど・これは歌舞伎のサイトなのであろうかと思われたかも知れません。それはその通りでして、このサイトでは現実の歌舞伎の舞台は考える材料にしか過ぎないのです。
先日ある文章(あえて名前を伏す)を読んでいましたら、こういうことが書いてありました。折口信夫が座談会で「助六」の鉢巻が若衆の鉢巻に由来することを指摘しています。筆者はこのことを引いて、折口信夫を論じています。鉢巻の由来を知ることに満足すれば舞台の上の演劇としての「助六」が置き去りにされる・今の舞台の「助六」が生きているかが大事である・歌舞伎は今日に生きるもので民俗芸能の標本ではないと書いていました。
そういうお立場があるのも吉之助は認めます。そういう見方も歌舞伎の楽しみ方としてあるのは当然のことです。また、そういう見方の方が圧倒的に多いでしょう。しかし、 吉之助の場合はちょっと違います。
吉之助は現実の助六役者が鉢巻がたとえ何のつもりでいたとしても、折口信夫の指摘するように・あれは本当は若衆の鉢巻であったの かも知れないとつねに想像をします。そして舞台を見ながらその姿に若衆の助六の姿を重ねます。歌舞伎はつねに過去に向けてその憧れを照射しなければなりません。その思いが(役者にも・観客にも)なければ歌舞伎と伝統の縁(よすが)は断たれる と吉之助は思います。 若衆のしるしとしての助六の鉢巻(由来)と歌舞伎の舞台の役者(現実)とのつながりを常に意識すること、そこにしか伝統を維持する手段はないのです。たとえ「つながり」が見えないとしても・ そこにある「つながり」を見出さなければなりません。これが「歌舞伎素人講釈」の立場です。
さて現在準備しているメルマガですが、「仇討ち論」を考えています。日本人が熱狂的に支持してきた仇討ち芝居、それを如何なる理由で・如何なる思いで昔の人たちは見てきたのであろうか、ということを考えたいと思います。これまでみなさんが歌舞伎のガイドブックや雑誌などで読んだことのない視点からの「仇討ち論」をお届けできればと思っています。お楽しみに。
(H15・12・7)
安政3年11月市村座の新作「松竹梅雪曙」の櫓の場・義太夫「伊達娘恋緋鹿子」において名優・四代目小団次が八百屋お七を人形振りで演じて大評判を取りました。小団次はいかつい風貌の立役で、それが娘お七をやって観客を驚かせたのです。十四代目長谷川勘兵衛はこの思い出を次のように語っています。
『あの鬼瓦のような御面相の小団次が、十六七のお七を演るというので世間はどんなものかと馬鹿にしていましたが、どうしてどうして実にたいしたお七です。よくもあんなに綺麗に化けられたものだと江戸中の大評判になって、客は暗いうちから我も我もと押し寄せる。全く驚きましたね。(中略)ちょっと考えただけでも可笑しそうに思えますが、そこが芸の力でさ。流石は名人小団次だと褒めぬ者はありませんでした。(中略)大雪の降るなかで人形振りの大芝居をしたあの小団次の姿は、どう見ても錦絵そのままでした。』(演芸画報・昭和3年3月号・長谷川勘兵衛実話)
この魔術を可能にしたのが人形振りという技巧でありました。普通の女形の振りならばさすがの名人小団次もこうはいかなかったのではないかと思います。だからこその人形振りなのです。櫓のお七の人形振りの発想は立役小団次が娘を演じるという趣向にあったわけで、ドラマの「必然」から来たものではなかったと思います。現代でも「櫓のお七」を演る時にこれを人形振りでやるのはそれがお約束になっているわけです。
そこで本項では、櫓のお七の人形振りについて考えて見ます。
所作事を人形振りで演るということは今では趣向のひとつとして定着していますが、それを江戸歌舞伎で初めて行なったのは、この四代目小団次の「櫓のお七」が最初のことでした。人形浄瑠璃の盛んな上方では人形振りは早くから行なわれていたことのようです。自然で写実な動きを目指しているはずの役者が、生命のない木偶人形の真似をして機械的な動きを見せるというのは皮肉なことです。人形振りというのは一種のケレン芸なのです。したがって、上方においても人形振りは邪道であると 蔑まれる傾向があったようです。上方での修行時代の長かった小団次が「櫓のお七」にこの演出を取り入れたのです。
小団次が人形振りを取り入れたのは、彼の鬼瓦のような御面相・いかつい風貌の不利をカバーしようという意図がその本来のものであったでしょう。「あの小団次に十六七のお七が演れるわけはない」という世間の思い込みがあ ったからこそ、その人形振りは衝撃があったのです。
それならば、美しい若女形が櫓のお七を演る場合には「人形振りで演る必要はない」という理屈も当然あり得る話です。女形の場合ならば、小団次のように娘を無理にこしらえる必要はないからです。不自然な人形振りでなくても、美しい娘お七を見せることができるのですから。逆に言えば、こういうことも言えるかも知れません。女形が櫓のお七を人形振りで演じるならば、そこにそれなりの「必然」を見出すべきであろうということも考えるべき かも知れません。
人形振りとはいったい何でありましょうか。役者が人形の真似をすることにどういう意味を見出すべきでありましょうか。人形は「動かされている」のです。人形は自分では動 きません・人形遣いに他動的に動かされているのです。人形浄瑠璃の人形は人間の自然な動きを志向しているわけですが、役者の人形振りの場合は違います。 役者の人形振りは不自然な動きを志向します。それによって「動かされている」ことを表現するのです。
黒衣姿の人形遣いに動かされている真似をしながら、人形振りの役者は 「自分にもどうにもコントロールできない情念に衝き動かされている自分」を表現することになるのです。髪を振り乱し・櫓の太鼓を一心に打つお七は、何らかの熱く暗い情念に支配されているのです。その時のお七は十六七のあどけない娘ではなくて、それ以上の何ものかに変わっているのです。お七はお七自身なのではなくて「情念に動かされている人形」 そのものなのです。そう考えますと、「櫓のお七」の人形振りにも、たんなる趣向以上のもの・ドラマの「必然」を見出すことができるでしょう。
もしかしたら四代目小団次もその必然を考えたかも知れません。小団次のお七に熱狂した江戸の観客たちもその必然を見たかも知れません。それを考えるには幕末という時代の心情をもっと検証してみる必要があると思います。それは別の機会にやってみたいと思います。
(H15・11・30)
新之助が来年5・6月歌舞伎座において11代目海老蔵を襲名することが発表されました。記者会見では父・団十郎が挨拶して「このたび、11代目市川団十郎を襲名する」と言ってしまって大慌て。 「・・では、なくてですね、海老蔵です。 団十郎だったら大変ですね。そうしたら私はいったいどうなるんだ?」と笑わせたのはご愛嬌でありました。親父さんも相当緊張しておったようですね。襲名披露狂言ですが、5月歌舞伎座は、「暫」の鎌倉権五郎景政と「勧進帳」の富樫左衛門(弁慶は 団十郎)、6月歌舞伎座は「春興鏡獅子」小姓弥生後に獅子の精と「助六由縁江戸桜」の花川戸助六だそうです。
吉之助は最近の舞台を見ておりませんが、新之助の初舞台はよく覚えております。昭和60年5月歌舞伎座の「外郎売」で父団十郎と一緒に出た貴甘坊という役でありました。かつてうら若き乙女の時代に「海老さま」と呼ばれた11代目団十郎に熱狂したオバ様方に「新之助が団十郎になるまでは死ねない」と叫ばせるまでに成長したのは大変メデタイことです。なるほどお祖父さんに感じがよく似ております。(私も11代目団十郎 の舞台は見ておりませんが。)オバ様方が熱くなるのもよく分かります。ストレートに・荒ぶる魂を舞台に見せてもらいたいものです。
このところの襲名ラッシュでいよいよ平成歌舞伎の陣容が固まってきたようです。昭和は遠くなりにけりです。
(H15・11・16)
○今月の歌舞伎:「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」
歌舞伎座11月夜の部:「盛綱陣屋」
吉右衛門(盛綱)・左団次(和田兵衛)・雀右衛門(篝火)・芝翫(微妙)ほか本「歌舞伎素人講釈」ではまだ取り上げていませんが、「盛綱陣屋」は時代物の大作であります。これについて三島由紀夫は武智鉄二との対談でこんなことを言ってます。
『僕は前から思っていますが、武智さん演出で見たい歌舞伎がひとつあるんです。それは「盛綱陣屋」なんですよ。というのは「盛綱陣屋」くらい僕はつまらない芝居はないんですよ。あれは団子(だんご)です。団子という五つのエピソードがつながって、みんな同じ大きさで、串で刺してあるんですよ、今やっている(歌舞伎の)「盛綱陣屋」は。篝火の件、微妙の件、盛綱の件・・・みんな同じ重さで、クライマックスもなければ何もないんですよ。よくあんな退屈なものをものを見てると思う。だけど原作を読んでみると、決してそんなことはない。(歌舞伎では首実検の場面を)二十七分やった人がいるんですってね、なんてばかでしょう。』(三島由紀夫・武智鉄二:「現代歌舞伎への絶縁状」・昭和45年2月)
これは自決のちょっと前の三島の発言で、タイトル通りホントに「絶縁状」になってしまいました。三島の言っていることは非常に面白いです。歌舞伎の「盛綱陣屋」を見ているとなんだかダラダラした芝居(特に真ん中あたりの微妙の件がだれる)に見えますが、文楽で観ると決してそんなことはない。ビックリするのは、文楽では首実検の場面はあっと言う間に終ってしまうのです。歌舞伎では首実検の場面がホントに大事にされていて最大に引き延ばされているわけです。 ここだけで団子ひとつ分になっているのです。そこに文楽と歌舞伎の発想の違いが現れています。この点については、いずれ「歌舞伎素人講釈」でも考えてみたいと思っています。
佐々木盛綱は初代吉右衛門の当り役でありました。もちろん吉之助は映画で遺された映像でしか知りませんが、盛綱のその台詞回しのテンポの良さ・息の良さはじつに素晴らしいものです。当代(二代目)吉右衛門が盛綱にどう対するか・興味が尽きません。配役も充実していますから、いい舞台が期待できましょう。
(H15・11・1)
『(渋)(九代目団十郎の)助六なんかはどうですか。/(遠)これは昔は団十郎以外はやらなかったから。/(渋)ダメですか。/(遠)だれも足元に及びませんよ。/(渋)写真で見ると団十郎って人はそう大きい人じゃないでしょう。だから(十五代目)羽左衛門の方が見栄えがあるというような気がす るんだけれど。/(遠)しませんね。それはもう大変な違いです。/(渋)例えば弁慶なんかなら、先代(七代目)幸四郎の方が立派に見えるように思いますけど。/(遠)だけどもダメですね。/(渋)動かなくても出てきただけでもダメですか。/(遠)ダメですね。/(渋)それは遠藤さんの信仰みたいなものじゃないですか。/(遠)いや信仰と言われるかも知れません。信仰と言われても、そうじゃないという証拠がないからな。/(渋)同時に信仰だという証拠は挙げられませんわね。たくさん芝居をご覧になってる遠藤さんがそう言われるんだから、そうに違いないと思うんだけれど、そうですかね。/(遠)これが六代目菊五郎のすることと勘三郎のすることと、どっちがうまいかと言われりゃ、両方見てる方ならすぐ答えられるでしょう。それと同じだと、あたしは思うな。』(対談「歌舞伎よもやま話」・渋沢秀雄・遠藤為春・季刊雑誌「歌舞伎」第6号・昭和44年)
団菊爺の遠藤為春氏の対談です。ほとんど対談になってないような 感じですね。 ここで遠藤氏はほとんど九代目とそれ以後の役者は違うんだ・比較にならない、と繰り返すばかりで、ほとんど具体的な・参考になるようなことを言っておりません。これは聞き手(渋沢氏)が 「あっそうですか」という受けの姿勢で、「どこが・・・どうして・・」と突っ込んでいかないせいもあります。せっかくの機会なのにねえ。
ある評論家氏が講演でこういう遠藤氏の「証言」を笑い話のタネにしておりましたけど、しかしちょっと待ってもらいたいが、こういう「証言」が無駄である・意味がないということは絶対ないのです。少なくとも伝統芸能を考える時にはこのことを肝に銘じておかねばなりません。「昔の方が絶対にいい」のです。このことを信仰の如くに思っていなければなりません。九代目団十郎はなんか凄かったらしい・・・ということが分かればそれで十分なのです。遠藤氏はそれだけで十分役目を果たしていると言えます。
ご注意いただきたいが、これは「今が悪い」というのとは違います。「昔の方が今より良かった(らしい)」ということだけを言っております。九代目団十郎はどこが違う・・・?どこが凄い・・・?それは後世の者が考えなければならない・想像しなければならないことなのです。
歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談
(注:上記に記載の対談「歌舞伎よもやま話」は本書には収録されていません。)(H15・10・27)
黒森歌舞伎で「鮓屋」を見ました感想を別稿「民俗芸能としての鮓屋」にて書きました。黒森の観客は芝居の内容にじつに素直な反応を示します。いがみの権太が間違って首の入った鮓桶を持って駆け出す時の喝采・笑い声がとても印象深かったのです。「アハハ、ほら間違えたよ、いよいよモドリが始まるぞ」というようなその笑い声です。その時にこの芝居が「奉納神事」であること・神様は権太の善き行為を見て喜んでいるのだ、ということにハッと気が付いたわけです。これはちょっとした発見でした。
考えてみれば「寺子屋」でも「熊谷陣屋」でも、結局は「我が身を犠牲にして他人のために事を成す」ことが本当のテーマなのではないでしょうか。あとの細かいことはどうでもよろしい、ただその「善きこと」が大事なのです。すくなくとも民俗芸能としてこれらの芝居を見る時にはこの 視点が肝要であって、だからこそ芝居が神事になるということです。
神事とは「善きことを神が然りと受け取る」儀式です。 神はことをそのように成らしめるのであって、成るように成ることが善きことなのです。お芝居によくあるパターンの「勧善懲悪・天下泰平」の図式もそこから来ます。しかし、そのパターンに落ち着くまでの根源を突き詰めていくと、ある高揚した感情に行き当たります。そうした感情がドラマを根源から動かしていくのです。例えば、それは「鮓屋」の場合には権太の自己犠牲です。それが「鮓屋」のドラマを成るように成らしめていくのです。
この公式ですべての民俗芸能が計れるとも思いませんが、しかし、そこに民俗芸能の重要な側面が見えてくると思います。
(H15・10・10)
メルマガ第109号「歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」はご参考になりましたでしょうか。歌舞伎とは多少離れますが、補説として多少付け加えたいと思います。
和辻哲郎はその著書「風土」のなかで「人格神は同傾向の神を摂取する」ということを書いています。それを読むと、多神教の神々が同格化されたり・取り込まれたりして、数がだんだんまとめられて唯一神ができるみたいに考えてしまいそうです。確かにインド伝来の神である大黒天が日本土着の神である大国主命と同一視されるケースがありますし、ヨーロッパでもローマ宗教のジュピター神がギリシア宗教の主神ゼウスと同一視されるケースがあります。
しかし、キリスト教の母胎であるユダヤ教の場合はそうではないのです。旧約聖書の「出エジプト記」以降はほとんどヤーヴェ神と異教の神々の闘争の歴史と言っていいものです。ヤーヴェは異教のバール神と和解することはなく殲滅するまで戦い、これを摂取することを完全に拒否しています。ユダヤ教は集団の団結維持のために構成員に極度 の規制を強いる宗教なのです。このことを考えるには、フロイトの最晩年の著作「モーセと一神教」 をお読みになればよいと思います。唯一神教と多神教の違いというのは単に神の数が単数あるいは複数であるかという問題ではありません。もっと根本的な問題があ るのです。唯一神教の生成は自然発生的なものではなく、集団という社会要因を抜きでは考えることはできません。
次に絵画における「視点の移動」について考えてみます。「視点の移動」と言うと、ひとつの視点(意識)が右や左に移動して・様々な角度から対象を観察していくように思われるかも知れませんが、それはちょっと違います。むしろ、複数の視点(意識)が存在して対象を観察する・その映像がモザイクのようになってひとつの絵を成すというふうに考えた方がいいと思います。メルマガでは「視点の相対化」と書きましたが、それはある意味で は「視点(意識)の分裂化」 なのです。そう考えると、ヨーロッパの画家たちがどうして浮世絵に衝撃を受けたのか・それが印象主義やキュービズムへ発展していくその方向性も理解できるだろうと思います。
演劇研究家・諏訪春雄先生が「日本人と遠近法」(ちくま新書168)において、浮世絵に遠近法がないことの 原因を宗教の違いに求めて、日本のアミ二ズム系の多神教(神道・仏教)と・西欧の唯一神のキリスト教の違いで説明しておられます。しかし、上記でお分かりの通り、 吉之助は御説とはちょっと 違うことを考えておるのです。個人の自己実現と社会との関連は、本「歌舞伎素人講釈」においては歌舞伎を考えるキーワードです。浮世絵の遠近法も、歌舞伎の舞台の平面性もこのキーワードで解けると考えております。
(H15・9・29)
○新コーナー「義太夫狂言を読む」の設置のお知らせ
「原典主義」という言葉 をご存知かと思います。たとえば、音楽で言えば原典は楽譜です。演奏という行為は「作曲者のイメージを如何に忠実に再現するか」というのが基本的な態度であるべきですが、それだけでは主観的なものに陥りがちです。それではどうやって客観性を保つのかと言うと、そこに頼るべき・信頼すべき何らかの基準が必要である、ということになります。それが楽譜なのです。楽譜のなかに楽曲解釈の手掛かりのすべてがある・ただ楽譜だけを虚心に追求していけば必ず核心を掴むことができる、それが原典主義の基本態度です。
演劇で言えば、頼るべき基準は脚本ということになります。しかし、演劇の脚本というのはいわば生もので、役者の顔ぶれで書き換えられたり・仕勝手で変えられたりすることが珍しくありません。一方、吉之助の歌舞伎の見方講座 :「文楽を見る」にも書きましたが、歌舞伎の義太夫狂言は丸本(つまり人形浄瑠璃のテキストです)という原典を持 っています。これに立ち返ることで その解釈の正しさを修正確認することができるわけです。この点が非常に大事なことなのです。義太夫狂言というのは「解釈の楽しみ」が味わえるお芝居なのです。
そこで本「歌舞伎素人講釈」ではこれから断続的になりますが、原典主義の態度に則って義太夫狂言を読んでみよう、という試みをしていきたいと思っております。もとより私も素人のことでありますから、この機会に読み直してお 遊びしてみようというほどのものですが。
近日に新コーナー「義太夫狂言を読む」をアップする予定ですので、お楽しみにしてください。まず第1回は「熊谷陣屋」を予定しております。
(H15・9・25)
初代吉右衛門が亡くなったのが昭和29年(1954)9月5日のことでした。今月の歌舞伎座では「五十回忌追善」ということで、その数多い当り芸のなかから「河内山」・「俊寛」が上演されています。
吉右衛門は「毎日が初日、一生が修行です」という真面目な人柄でした。楽屋の雰囲気も六代目菊五郎の部屋は訪問者が絶えず・いつも賑やかであったそうですが、「役になり切る」ことを旨としていた吉右衛門の部屋は静かであったそうです。ある人が「播磨屋さん・・」と声を掛けたら、すでに扮装を済ませていた吉右衛門が「私は加藤清正です」と答えたという話があるくらいです。
吉右衛門のエピソードもいろいろありますが、私の好きなのをひとつ。中村又五郎は幼い時に父(先代又五郎)を亡くして・吉右衛門に引き取られて実の我が子同然に育てられました。子供の頃の又五郎は無口であったそうですが、吉右衛門もまた寡黙なことで有名な人であります。二人並んで散歩しても、お互いひと言もしゃべらず・ただぶらぶらと並んで歩くだけであったそうな。
ある巡業で旅館の同じ部屋に泊まり二人が夕食を取っていた。いつものように向かい合って黙ったまま箸を動かしている、と、沈黙に耐え切れなくなった吉右衛門が「おい、幸雄や・・」と声を掛けてきた。「お前、笑いねえ。芝居のように笑ってみねえ。」こう言ってから、吉右衛門の方からおもむろに「ム、ハハ、ハハハ・・・」と笑ってみせました。それに合わせて又五郎も笑いました。そして二人で大笑いしたそうです。
吉右衛門の人柄が彷彿としてくるエピソードであります。池波正太郎の「又五郎の春秋」(中公文庫)のなかの挿話です。 この本は読みやすくて歌舞伎入門書としてもお勧めです。
(H15・9・21)
歌舞伎の話ではありませんが、名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが若き日のお話です。1940年、カラヤンがベルリン国立歌劇場でリヒャルト・シュトラウスの歌劇「エレクトラ」を初めて指揮することになって、その初日に作曲者が聴きに来ました。翌日、シュトラウスはカラヤンを昼食に招待し、その後、ピアノを弾きながらいくつかのアドバイスを与えてからこう言ったそうです。
「君はこの二ヶ月もの間、この作品の楽譜を勉強し・リハーサルし・指揮して、この作品とずっと暮らしてきたわけだ。もう何年もこの作品から離れている私よりも、この作品に通じているわけだ。多分君が正しいのだろう。さあ、昨夜と同じようにしっかりと振りたまえ。」そう言った後、老シュトラウスはちょっと間を置いてウインクしてこう言いました。「いずれにせよ五年もしたら君も振り方が変わってくるさ。」
「素晴らしい老人の知恵です。」後にカラヤンはそのことを回想して、感謝を込めてこう語っています。これはとても素敵な話ですね。前途ある若者に対して、これほどに慈愛のこもったアドバイスが他にあるでしょうか。
世阿弥に「時分の花」という言葉がありますが、若い時には若い時にふさわしい「花」があり、壮年には壮年の・老年には老年の、それにふさわしい「花」があるものでしょう。いずれにせよ、その時分にふさわしい花というのは一生懸命に勤めることからしか得られるものではないような気がします。
(H15・9・11)
○メルマガ「歌舞伎素人講釈」のことなど
このところの東京は暑かったり寒かったりして体調維持が大変で、メルマガ執筆も進まず、本「歌舞伎の雑談」のコーナーの更新もしばらくごぶさたとなっておりました。 吉之助の場合は、メルマガ原稿のストックが十分ないと不安で落ち着かないので、今書いているのは2ヶ月ほど先のメルマガです。書き終えた直後は、勢いで書いているところもあるので文章として不備な場合も多々あるので、メルマガ発行まで何度か読み直して推敲してから、皆様にお届けしているわけです。
メルマガ発行していて興味深いのは、登録読者数の推移です。おかげさまで読者数は順調に伸びていますけれど、時によって減ったり(といっても2〜3名くらいですが)もしています。これを見て傾向として言えるのは、観念論的なもの(例えば「型とは何か」・「時代の心情とは何か」・「写実とは」という内容)、あるいは過去の名優の話(例えば「初代吉右衛門の・・」とか「九代目団十郎の・・・」という内容)でメルマガを発行した後は、読者数は落ちるか・あまり伸びない傾向があります。読者数が大きく伸びるのは、作品解説的な内容の時でこれを何本か続けると読者数が伸びていきます。
吉之助も昔は読者が1名でも減ると「内容が良くなかったかな」と気になったものでしたが、メルマガ発行して3年も経ちますし、読者数の増減で一喜一憂することはもはやありません。誰にお金を戴いているわけでもないし、自分が書かねばならないと思うものを書くだけです。
おそらく3年の間にメルマガ読者はかなり入れ替わっているのだろうと思っていますが、いまの歌舞伎ファンの大方の傾向がここから見て取れると思っております。悪く言いますと、お手軽に芝居の内容を教えて欲しい・知りたいと期待している方が少なくないようです。おそらくそういう方は 吉之助のメルマガは数本取ればやめてしまうでしょうし、吉之助にはその期待に応えられる余裕はありません。「ちょっと通になれる・芝居をますます好きになる豆知識」なんてのをご提供する余裕もありません。そういうのを期待している読者の方にはこのメルマガはもしかしたら「まったく読めば読むほど分からない・歌舞伎が逆にイヤになる」ものであるかも知れません。しかし、本当に歌舞伎を通じて「伝統を・日本を」考えようと思っている方には、 吉之助の書いていることも何かしらのヒントになるものであろうかなと思っております。
このところの吉之助のメルマガは観念論的な方向に行く傾向があるようです。自分でもそれは分かるので、できるだけ軽いタッチで処理しようと心掛けてはおりますが、これはどうにもなりません。しかし、メルマガをずっと並べて見ますと、テーマは雑多に飛んでおるようですが、このメルマガは自分なりにあるひとつの主題に向かって進んでいることを感じています。それはどんな主題かって?それは今後のお楽しみですね。それを見つけるのがこれからの 吉之助の仕事ですから。
さて、今後のメルマガですが、まずは「歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」というテーマ・続いて「新歌舞伎のなかに共通して流れている心情とは何か」というテーマをお届けする予定です。やっぱり観念的なテーマだな。でも、まあ、お楽しみにお待ちください。
(H15・9・6)
このところメルマガでは鶴屋南北を考えております。メルマガ107号のテーマは「道化としての鶴屋南北」を予定しています。これに関連して、ドナルド・キーン氏の発言を紹介します。
『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)
ドナルド・キーン/安部公房:反劇的人間 (中公文庫 M 89)
江戸時代はじつに平和な時代で刺激があまりありませんでした。なにか事件があると何年もそれが話題になっています。たとえば赤穂義士の討ち入りを手を変え品を変え、何度も何度も味わいつくすのです。そういう民衆が芝居に求めるものは刺激です。古い芝居に飽き足らなくなった観客が、満足できなくなってだんだん不健全で残酷なものを求めるようになります。そして、さらに刺激の強いものを求めていきます。文化文政期はそうした江戸文化の行き着いた・爛熟した時代であったのです。
『本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(同上)
このことは非常に重要な指摘です。吉之助が南北を見て感じるのは、南北の精神の健全さ・常識のバランスの良さなのです。南北は対象をちょっと離れたところから第三者的に見ることができる人です。だからこそあのような逆転の発想が可能になるのです。メルマガ107号ではそのことを考えてみたいと思っています。
(H15・8・22)
東京ではとても夏とは言えないような涼しい日が続いております。ちょっと時期遅れですが、いずれ「盆狂言(夏狂言)」について考えるというテーマで記事を書く時の材料として取ってあった記事を紹介します。
『盆の祭り(仮に祭りと言うておく)は、世間では、死んだ精霊を迎えて祭るものであると言うているが、古代において、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、いわば魂を切り替える時期であった。すなわち、生魂・死霊の区別なく取り扱うて、魂の入れ替えをしたのであった。(中略)盆は普通、霊魂の遊離する時期だと考えられているが、これは諾はれない事である。日本人の考えでは、魂を招き寄せる時期と言うのが本当で、人間の体のなかへその魂を入れて、不要なものには、帰ってもらうのである。(中略) 七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言えば、すぐさま陰惨な空気を考えるようであるが、われわれの国の古風では、これは陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であった。』(折口信夫:盆踊りの話・折口信夫全集・第2巻)
盆狂言と言いますと「怪談狂言」です。代表的なのはもちろん「四谷怪談」ですが、これも決して陰惨なものではなくて、もしかしたら非常に明るい・カラッとした「祭り」のようなものかも知れないということを考えます。 説経浄瑠璃の救われない物語を聞いて涙しながら癒されるように、盆狂言にもそんな作用があるのかも知れません。
(H15・8・18)
先月(7月)は大阪・松竹座で仁左衛門の権太を見て参りました。仁左衛門は「鮓屋」は昨年の金毘羅歌舞伎が初役だったそうですが、今回は「木の実」が初役だそうです。仁左衛門はスッキリした風姿ですから江戸前の音羽屋型の権太も 似合いそうですが、上方の型を採ったのは上方歌舞伎復活に掛けるご本人の使命感によるものでありましょう。
上方の権太ですが音羽屋型と細かいところで多くの相違があります。 音羽屋型では渡世人風ですが、上方は大和のごろつきとしてのリアリティがあるのです。「木の実」では騙りの凄みと打って変わって、後半は女房子供への情愛をじっくリ見せます。善太の手を頬に当てて「冷てえなあ」とつぶやく場面などは音羽屋型と比べればさりげないけれどいい場面であるし、善太の巾着に入った笛を自分がもらってしまう経過もしっかり描かれていて、この伏線が「鮓屋」で効いて来ます。
「鮓屋」でも音羽屋型だと権太の鮓桶の取り違えも偶然のことのように見えますが、これも上方の方は権太が間違えても仕方ないように段取りが描かれています。権太が縛られた小せん・善太を見送る場面もじっくり描けています。目で妻子の姿を追いながら耐え切れなくなって下を向いて突っ伏してしまうのはその気持ちがよく分かります。また、この後、父親に真相を話そうと立ち上がったところを刺される段取りも自然です。
これを見ても上方の型というのは、「理屈本位」であって段取りが納得できるところが多いのです。「大阪」と言いますと東京の人は「こってりとしつこい」芸を想像するでしょうが、あれは上方漫才あたりを連想するからで(お里が枕をふたつ持ち出して「 おお眠む、おお眠む」などと言うのはちょっとそんな感じですなあ)、上方の芸の本質は意外と「すっきり・あっさり」なのです。いつもの音羽屋型ももちろんいいですが、東京でも上方の権太を見せてくれることを期待したいと思います。
(H15・8・7)
歌舞伎の舞台は平面的で立体感がないということは別稿「かぶき者たちの心象風景」のなかでも触れました。影を出さないように努める・古典歌舞伎での独特の照明方法も、舞台の立体感を消し去ろうとする ものであるように思われます。(あの歌舞伎の照明は何もしてないように見えるかも知れませんが、実はあのように影が出ないようにするのは大変な工夫なのです。)
歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのでしょうか。この問題を考えるのには浮世絵を考えてみるのがいいと思います。日本の浮世絵は中国の鳥瞰図法とか西欧の透視図法などの影響を受けたものもありますが、日本独自の遠近法をついに持ちませんでした。 「平面的」というのは日本画の特徴と言ってもいいものです。それはなぜなのでしょうか。これは歌舞伎の舞台の問題にも通じるものがあるに違いありません。
演劇研究家・諏訪春雄先生が「日本人と遠近法」(ちくま新書168)において、この問題に取り組んでいます。ここで諏訪先生は浮世絵に遠近法がないことの 原因を宗教の違いに求めて、日本のアミ二ズム系の多神教(神道・仏教)と・西欧の唯一神のキリスト教の違いで説明しようとしています。その考察は浮世絵にとどまらず、演劇への考察にも及んでいます。(詳しくは本書をご覧下さい。) 大変刺激のある本で参考にさせていただきました。
いずれ「歌舞伎の舞台はなぜ平面的なのか」を考えねばならないと思っていましたが、この機会に浮世絵の遠近法の問題についても吉之助なりの見解を述べてみたいと考えております。メルマガができるのを楽しみにお待ちいただきたいと思います。
(H15・7・31)
メルマガ103号「隅田川の精神」のなかで世阿弥の「物狂い」論を紹介しております。「花伝書」において世阿弥はこう書いています。武将や鬼神の霊が女性に取り憑いて怒り狂った演技をするならば、それは女性の演技として不似合いである・逆に女性の「優美さ」を表現して狂うなら、それは憑いている霊の正確を表現できないことになる・結局、そのような作品は演じるに値しないのである、と。
この事は作劇術において非常に重要なことです。実際の霊というものはどんな人にも区別なく憑くものかも知れませんが(よく知りませんけど)、芝居や小説の場合はそう安易に考えてはならないのです。怨霊・悪霊が取り憑く対象は慎重に選ばれねばなりません。まずその霊の意志(無念でならないとか・復讐を遂げたいなど)に感応できる資格のある人物が選ばれねばなりません。例えば、境遇あるいは性格が似たような人物で・その霊の意志を代わって体現できる可能性のある人物です。「この霊はこの人物に憑くのが必然である」と感じられる人物に憑かねばなりません。
キツネが人間に化ける場合でもそうです。「四の切」の源九郎狐は初音の鼓を取り戻す為に義経の身辺にいる人物の誰にでも化けて良かったわけではありません。源九郎狐が化けるのは佐藤忠信でなければならない必然があるのです。このことが作品の構造において示されなければなりません。義経は幼い時に両親と別れ・また兄に疎まれています。佐藤忠信は、戦いで兄を亡くしたことを常に思い・また奥州にいる母親への気遣いを忘れません。このように二人は源九郎狐の気持ちに感応する資格 がある人物なのです。だからこそ源九郎狐は忠信に化けて義経に近づこうとするのです。
もし初音の鼓を持つのが義経ではなく・横暴無神経な人物ならば、源九郎狐は腕力で以ってこれに立ち向かったでありましょう。また、源九郎狐が化けたのが忠信ではなく・例えば弁慶であったならば、「四の切」幕切れの捕り手の化かしの大騒ぎは、荒事の天水桶の芋洗いになっていたでしょう。当然のことながら、そうなれば作品中の源九郎狐の性格もその対象によって変化せざるを得なくなります。つまり、作品のテーマ自体が根本で変化してしまうことになってしまいます。
つまり、作品の人物設定というものは「作品の世界構造(あるいは作品のテーマと言ってもいいでしょう)」と密接に結びついているのです。作品の発端においては、観客・読者が自分の頭のなかに「作品の世界構造」を作り上げることのヒントを提供していかねばなりません。「作品の人物関係が複雑でよく分からない」などと観客に言われる作品は、この設定がうまくできていないのです。作品の人物関係というのは善玉/悪玉あるいは赤組/白組という単純な色分けだけで出来ている ものではありません。ドラマの必然・この人物はこう行動することが自然であると観客に納得させられるかどうか(結局、それは作品のテーマが伝わっているかということです)が、作劇術の基本なのです。
(H15・7・19)
○「綯い交ぜ」の手法・その2
三島由紀夫が南北の作劇術についてこのように書いています。
「南北はコントラストの効果のためなら何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結び付けて、恐ろしい笑いを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれ壊れている。手足もバラバラの木偶人形のように壊れている。というのは、一定の論理的な統一的な人格などというものを、彼が信じていないことから起きる。」(三島由紀夫:「南北的世界」・昭和42年3月)
南北の登場人物は手足も木偶人形のようにバラバラであるという指摘はその通りでしょう。お姫様の頭が女郎の胴体に付いていたり、お公家さまの頭が下郎の胴体に付いていたりします。南北はそのコントラスト・その着想の奇抜さで観客の度肝を抜きます。しかし、じつはそれでもルールはあるのです。
確かに南北の登場人物たちは首が取り替わったり、手足が取り変わったりしています。しかし、首に腕が付いたり、肩に足が付いたりしているわけではないです。出来上がった人形はちゃんと人間の形はしているのです。 それだけではなくて、人物の性根も作品の骨格もちゃんと筋が通っているのです。荒唐無稽に見えても、押さえるべきところは南北はしっかり押さえているわけです。
今月(7月)歌舞伎座の「四谷怪談忠臣蔵」(石川耕士脚本)ですが、昭和55年に明治座で上演された「双絵草子忠臣蔵」(奈河彰輔脚本 ・これは四谷怪談と忠臣蔵を手際よくまとめてなかなか良かった)の焼き直しかと思っていましたら、そうではなくてほとんど新作の書き換え物であるようです。この「四谷怪談忠臣蔵」ですが、石川氏(演出の猿之助も同様だと思いますが)は材料をバラバラにしてランダムにつぎはぎすればそれで新たなストーリーが出来上がるだろうというようなお考えでいらしゃるようですね。この脚本には「世界」がないと思います。綯い交ぜされたなかから、新たな「世界」が生み出されなければなりません。ここにはそれがない。お定まりのお家騒動の枠組みがあるだけ。 これでは南北ではないと吉之助は思います。
一例を挙げましょう。新田義貞の霊が高師直に取り憑くという発端は、「南北朝の世界」のルール違反です。南朝の武将である新田義貞の霊が、足利幕府の崩壊を企むというのはまあいいといたしましょう。この場合ならば、足利家の執事である高師直に取り憑くというのはあり得ません。師直は宿怨を晴らすべき対象であるからです。また、由良助ら塩 冶浪士は、主君・判官の無念をはらすべく師直を討つわけですから、義貞の霊が塩冶浪士を助力することはあっても、これと対立することはあり得ません。それに判官の奥方・顔世は昔は義貞の愛妾なのであって、つまり塩 冶家というのは今は北朝であるが実は心情的に南朝に近い家なのです。「太平記読み」の素養のある江戸市民にはこんなことは常識です。石川氏の脚本ではこの「世界」の骨格がぐちゃぐちゃになっています。 だから定九郎が忠義の士であるという逆転も、伊右衛門とお岩の件も、この設定ではまったく生きてこない。芝居に骨格がないから、筋の混乱に拍車を駆けるだけです。当然、観客は人物関係がすんなり理解できないことになります。石川氏によれば、新田義貞の霊によるお家転覆の発想は「忠臣蔵」の師直の判官苛めに対するパロデ ィーだとのことですが、どこがどうパロディーなのか、吉之助にはよく分かりませんね。パロディーというならば「茶化し」ではなくて、そこにある種の視点を提供するものでなくてはいけません。
「どうせお芝居・たかがエンタテイメントよ」というならこんなことに熱くなるのも野暮ですが、しかし、これが南北の「綯い交ぜ」の手法であると思われるのは、吉之助にはちょっとたまりません。しかるべき演劇評論家の方から苦言が呈されるべきであると思いますが、少なくとも「歌舞伎素人講釈」の読者の皆様には、本物とそうでないものとの区別を知っておいていただきたいと思います。メルマガでは、ここしばらく南北の「綯い交ぜの手法」・作劇術の秘密を考えていきたいと思っております。
(H15・7・26)
昨日(7月20日)、歌舞伎学会の歌舞伎フォーラムに行って参りました。テーマは「団菊とその時代」です。五代目団十郎・九代目団十郎が相次いで亡くなったのが明治36年(1903)、つまりちょうど今から百年前のことです。まさにこの百年というのは、歌舞伎にとって団菊の遺産を引き継ぎ、またその影響下にあった時代でありました。良くも悪くもそのことの意味が問われなければなりません。このことは本「歌舞伎素人講釈」では、これからも大きな課題にしていくつもりです。
ところで今回のフォーラムで吉之助が興味があったのは「団菊の声」というコーナーで、団菊の声色の録音をいくつか比較して聴かせてくれるということでありました。九代目も五代目もその声は残念ながら残っておりません。かろうじて「紅葉狩」の映像が残っていますがこれは無声ですし、映像は雨混じりの悲惨な状態です。結局、団菊の芸は先人の証言などから追い求めるしかないのです。
当日聴いた声色のなかでは、五代目雷門助六(後の三代目古今亭志ん生)の「九代目団十郎演じる加藤清正」というのがなかなか面白く聴けました。(録音は東芝EMI:「全集日本吹込み事始」という全11枚CDで聴けるそうです。)
この「九代目の清正」なるものですが、台詞の緩急の幅が実に大きいのです。それと台詞がふっと途絶えて長い間(ぶつっと切れたような感じがする)があって、次の台詞になる。九代目の台詞回しをかなり誇張したものなのでしょうが、非常に興味深く聴きました。(他の声色はそれほどでもなかったです。)
「それほどまでに清正を・・・。この爺もよく、(間)お顔がとっくと見たい。かほどお慕い遊ばすものを、残して(間)本国へ立ち帰る清正が胸中。おのおの方、ご推量くだされ。」
以下は記憶で書いておりますので違うところがあると思いますが、大筋としての感じは掴んでいるでしょう。太字はぐっとテンポを落として感情を込めて・ある意味で時代に発声するところ、それ以外は早口でサラサラと語る。この緩急の差が実に大きいのです。テンポの差は倍以上という感じです。さらにそこに間が大きく入って台詞が切れるような感じがするのですが、ここに九代目の得意の肚芸の思い入れがあっただろうと想像します。
この台詞の緩急のリズムですが、サイト別稿「黙阿弥の七五調の科白術」をご参照ください。ここで七五調の基本リズムは「七は7分の7 (早く)・五は5分の5(遅く)の変拍子」であると書きました。手法は違えど、九代目の声色は科白の緩急の変化のツボを押さえたものであったと思います。
面白いのは、「それほどまでに」を早く・「清正を」を遅く言っているのではなくて、その逆だということです。つまり、科白の末尾の部分が速い・基本が写実にあるということです。この清正の科白を七五に処理して言うことは可能ですが、そうすると時代になってしまいます。それを九代目はわざと避けているのです。「活歴風」に・写実に言おうとしていると感じました。いや五代目助六は九代目の芸風を見事に写していると思いました。聴いていてとても嬉しくなりました。
(H15・7・21)
先月(6月)の歌舞伎座昼の舞台からもうひとつ。玉三郎の「藤娘」がいつもの六代目の舞台装置ではなくて、白と紫の藤の花を描いた銀色の屏風の前で踊るということは事前に聞いておりました。それで勝手に舞台を想像しておったのです。
もともと「藤娘」というのは、大津絵から抜け出した娘が踊りだすという設定です。私は、舞台を座敷に見立てて、そこに屏風がひとつだけというシンプルな舞台、その前で玉三郎が踊って衣装替えの時には屏風の後ろに廻る、歌舞伎座は広いから屏風は通常よりも大きめでも良かろうかななどと想像しておりました。
ところが実際の舞台は銀色の屏風が左右に連なって、無粋な表現だが「工事現場の銀色の壁」のようにも見えなくありませんでした。歌舞伎座は広過ぎるからこういうことになるのかも知れませんが、間口の狭い劇場ならそれなりなのでありましょうか。次回はこの舞台装置はひと工夫欲しいところです。
しかし、この無機的な背景に玉三郎の藤娘はなかなか良く似合います。それにしても意図的のように見えましたが、振りのひとつひとつがふんわりとしてソフトで、ポーズの決めが弱いように思われました。恐らくは、絵から抜け出してきた娘で実体のない幻であるというようなこころなのでしょうが、 これは若干印象として損な気がいたしました。
それにしても玉三郎の何と言う自信でありましょうか。「私、綺麗でしょ。ねっ、どう?魅力的でしょ」とでも言っているかのように全身からオーラを発するその踊りは、まったく玉三郎の世界というべき美しさでありました。
(H15・7・11)
先月(6月)は久しぶりに歌舞伎座昼の部へ行って参りました。そこで感じたことをちょっとだけ書いてみたいと思います。
「一谷嫩軍記・組討」での熊谷の幸四郎は容貌もよろしく、声も通ってなかなかの出来。実によく泣く熊谷で、これでは底を割るという批判があるかも知れませんが、熊谷が殺すのが敦盛ではなくて・実は我が子小次郎であると知って見ていればそれなりに納得できる演技です。幸四郎の「役者としての真実」はそこにあるわけですから、これはこれでいいのです。
しかし、「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり、勝ち鬨ィ」の台詞は、泣き過ぎのあまり・涙がこみ上げて声を絞り出すのが精一杯みたいでした。「カ・・・チ・・・・ド・・・・キ」と切れ切れに言って、首を持ってその場にへたりこんでしまいそうな熊谷でした。
この台詞だけは朗々と叫んでもらいたいと思います。そしてその声のなかに万感の思いを込めてもらいたいと思います。ここで平山武者所や味方たち(そして観客までも)をだまし通さなければ、息子・小次郎の死は無駄になるのです。熊谷は泣きたい気持ちを押さえつけて、この台詞だけは言い遂げなければ「仕事」になりません。息子が見事に死んで見せたのに、親父がここで仕事を仕遂げなくて何としましょうか。
「泣きの熊谷」ならば、ここで次のような熊谷の演技を見てみたいと思っています。「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり、勝ち鬨ィ」は朗々と叫ぶ。そして平山と 味方たちがこれに応えて勝ち鬨を叫ぶまでグウッと息を詰めている。そして、味方の勝ち鬨を聞き終えてからガクッと息を抜く。そして、その場で男泣きに泣けばよいのです。ここで泣くことは決して悪いことではないと思います。近いうちに「組討」を題材にしてメルマガをお届けすることにしたいと思っております。
(H15・7・7)
昭和25年5月・御園座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」
初代中村吉右衛門(松王)・六代目中村歌右衛門(千代)
初代松本白鸚(源蔵) 他初代吉右衛門の映像は、「熊谷陣屋」・「寺子屋」・「盛綱陣屋」の晩年の舞台が 公式に映画として遺されています。時代物を得意とした吉右衛門の首実検の3つが遺されているわけで、後世の者にとってはその芸を知る上でまことに有難いことです。 ただ「熊谷陣屋」の映像と比べると、 この「寺子屋」での吉右衛門は若干身体の衰えが目立つ感じです。
本稿では吉右衛門の松王を取り上げますが、ここで取り上げる「寺子屋」の映画は、吉之助は残念ながら全編を見る機会がなくて断片しか見て いません。 しかし、取り上げないのはちょっと惜しいので、断片だけの印象ですがここで触れておきたいと思います。
松王が源蔵に本心を明かした後、松王が「イヤ何、源蔵殿、申し付けてはおこしたれども、定めて最後の節、(小太郎が)未練な死を致したでござろう」と聞き、これに対して源蔵が「イヤ若君菅秀才の御身代わりと言い聞かせたれば・潔う首さしのべ・・」と答えた後の吉右衛門の松王の演技がとても印象に残りました。
こ の部分は普通は松王役者の当てる場面です。「桜丸が不憫でござる・・桜丸・・桜丸・・桜・・」となって「源蔵殿、お許しくだされエ」と叫んで、ウワアアと大声を出して男泣きする、そういう場面であります。顔に当てた懐紙を大きく動かして肩を動かして男泣きします。いわゆる「大落とし」という芝居掛かった場面で、観客が大きく湧く場面でもあります。
ところが、吉右衛門はこの見せ場でウワアアと大声を上げて泣かないのです。「源蔵殿、お許しくだされ・・」と小さく低く言って懐紙を目に当てて、 ウウウ・・と小さく泣くのです。大落としどころか小落としにもならないような・すすり泣く感じです。まったく当てようとしない写実の演技なのです。
愛息を失った松王の哀しみが自然にジワジワと滲み出てくる感じで、これはなかなかジーンと来るいい演技だと思いました。観客に対して「ここで拍手を下さい」という感じがまったくないのです。吉右衛門の松王なら ば、この場面で観客は拍手ができなくて、ただハンカチを握り締めるだけでありましょう。 しかし、その哀しみの感情は観客に切々と伝わってくる気がいたしました。
(H15・7・1)