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吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第9講:文楽を見る


1)原典としての文楽

文楽(人形浄瑠璃)が原作の「義太夫狂言」というジャンルが歌舞伎のもっとも重要なレパートリーであることはご存知の通りです。「仮名手本忠臣蔵」など三大歌舞伎を始めとして、もっとも芝居の醍醐味を味わえる歌舞伎は義太夫狂言(丸本歌舞伎)であると思います。この義太夫狂言をさらに深く楽しみたいなら、原作である文楽を見ることをお勧めします。

本サイト「歌舞伎素人講釈」は、タイトルに「歌舞伎」を銘打ってはおりますが、歌舞伎と共に文楽もその守備範囲にしております。初めて本サイトをご覧になる方は、このサイトは「歌舞伎と文楽をごっちゃにしているのではないか。どちらのことを論じているのかよく分からない」と思われるかも知れません。本サイトでは義太夫狂言を考えるのに常に原作である丸本(文楽のオリジナル・テキスト)に回帰して、そこから作品を考えるようにしています。これが本「歌舞伎素人講釈」の基本的な考え方になっています。

歌舞伎の舞台では文楽にはない「筋の改変」やら「付け加え」がしばしば見られます。こういうのを「入れ事」と言います。こうした入れ事は、義太夫という音楽の流れに舞台での役者の演技が合致しないことがあり得ますし、舞台の感覚は人形と役者とでは全然違いますから仕方ない面もありますし、また歌舞伎なりの視点から作品を読み直すという面もありますから、必ずしもこれを「改悪」と決め付けて否定的に見るべきではありません。実際、歌舞伎のセンスによる作品の洗い直しに感心することも稀ではありません。本サイトでも歌舞伎の入れ事をそれなりに楽しみその意図と必然性を評価するように努めています。

昔のことですが、ある対談で六代目歌右衛門が某文楽の太夫と一緒したことがあり、なにかの場面で太夫が「本行(ほんぎょう・文楽のこと)はそこが(歌舞伎と)違いまんねん。」と言ったら、歌右衛門がギョロリと目をむいて低い声で「おらァ人形じゃねぇんだよ」と言ったという。歌右衛門はああ見えて怒るとべらんめえ調になるのだそうで、これは想像するだに恐いことです。

そういう舞台の「違い」は、文楽と歌舞伎の芸の在り方の違いから来るものなので「いい・悪い」というべきものではないと思います。ただその「違い」を知るのと知らないのでは大違いで、その「違い」を知って「歌舞伎はここをこう変えたのだ・文楽ならこうだったな」と舞台を楽しんだ方がより深く舞台を楽しめるというのはもちろんです。


2)原典主義ということ

ふつうに舞台を楽しんでいる分にはどうでもいいことですが、作品を論じるとなると原作に帰って論じないとおかしなことになります。歌舞伎で見る「河庄」や「時雨の炬燵」は近松門左衛門の原作通りではなくて ・近松半ニによる改作本の舞台でして、歌舞伎で近松門左衛門の「心中天網島」を論じようというとやはり無理が生じてきます。もっとも巷で見る「近松論」にはそういうものがよく見られます。

評論でも、例えば岡本綺堂の「嫩軍記雑感」などの文を読みますと内容は「熊谷陣屋」の否定論なのですが、どうも綺堂は「一谷嫩軍記」を歌舞伎の舞台だけで論じていて文楽の舞台を見ていないらしいのが歴然としています。歌舞伎の舞台を論じるならともかく、作品そのものを論じるならこれはやはりまずいことだと思います。そのことが分かっていて読むならいいのですが、評論家の文章にも時々こういうのがあるので注意が必要です。

ところで本「歌舞伎素人講釈」の師である武智鉄二(面識もないのに勝手に師にしております)は原典主義の人でしたが、オリジナルに帰る・基本に帰る、というのは伝統芸能の場合には非常に重要な態度だと思います。原典主義というのは、判断に迷った時に振り返って基準となるべき出発点を見直すということでして、舞台の場合にはその出発点とは「脚本(テキスト)」なのです。

義太夫狂言は、作品のテーマ・あるいは役のあり方を考える時にいつでも原典たる丸本に帰ることができる、このことが非常に重要なことなのです。役を論じるのに原典を読み直して「本読み」からその役の性根・行動の背景を割り出すことが可能であるということです。しっかりした基準があるということです。

実際、今日上演される義太夫狂言の原典(丸本)は作品としてもしっかり書けていて、一字一句がおろそかにされていない・煮詰めて書かれている、という感じがします。だから原典としての信頼性も高いということです。いい加減に書かれているならいくら原作であっても原典としての信頼は置けないのは言うまでもありません。

歌舞伎オリジナルの作品の場合はもともと役者の味に当てはめて書かれていて上演のたびに頻繁に手直しすることを前堤とした脚本ですから、原典たる意味合いが若干異なります。並木五瓶・鶴屋南北や黙阿弥のようなしっかりした狂言作者の作品は別にして、一般的に作者の作意というのは低い感じです。歌舞伎オリジナル作品の批評はどうしても作品を論じるというよりは役者を論じる印象批評にならざるを得ないと感じがします。

義太夫狂言の批評は、原典に帰ることで単なる印象批評でない確固たる批評にできるということなのです。本サイト「歌舞伎素人講釈」においても、つねに原典に振り返ることを基本理念に置いています。ただし、 吉之助は専門の研究者ではないですから、手にできる原典・資料などは限られておりますが。


3)文楽を見る

そこで吉之助の文楽体験のことに話を戻しますと、吉之助が初めて文楽を見たのは歌舞伎に熱中してから数年たっていましたが、見るたびに歌舞伎で理解できなかった部分が解明されていくので面白くてたまりませんでした。歌舞伎の見取り上演では前場の筋が分かりませんから「どうしてこの人物がここにいるのか・こういう行動をするのか」分からないことがあったりしますが、そういう謎が文楽を見ると見事に解けていきます。丸本作者が芝居を・登場人物をいい加減に書いていないということが本当によく分かります。

例えば「寺子屋」を見るのに、「筆法伝授」の場を見ておけば源蔵がいかに相丞に縁深い人間か分かりましょうし、源蔵が菅秀才をかくまう理由も分かります。通常の歌舞伎では「寺子屋」前半の「寺入り」(千代が小太郎を連れて寺子屋へ入門させる場面)はカットされることが多いのですが、この場を見れば小太郎の健気さも深く印象が残りますし、千代と小太郎との別れも泣けるところです。

本当に文楽を好きな人は、文楽を「見に行く」とは言わないで「聴きに行く」と言います。私の場合はそこまでの域には達しておりません。どうしても歌舞伎との比較のために見ているという感じではあります。ただ文楽を見るようになってから、歌舞伎の義太夫狂言を見るのは一層楽しくなりました。

そういうわけですので、歌舞伎をさらに深く見るのに文楽観劇は欠かせません。機会があれば是非、文楽公演に足を運んでいただきたいと思います。きっと発見があると思います。

(H13・12・5)




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