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「桜姫」断章

〜「桜姫東文章」における作品構造


1)清玄の物語

別稿「桜姫という業(ごう)」で「桜姫東文章」において桜姫は清玄・権助というふたりの男性の間で翻弄され・右に行ったり左に行ったりして、いわば他動的に分裂した性格の変幻を見せる役だと一般的に思われていますが、実はそうではなかったということを考えました。

桜姫という存在が宇宙の連関性を消し去り・この世の本来あるべき姿をねじれさせ・周囲の人々を翻弄しているのです。このことを桜姫本人が自覚していようがいまいが、これが桜姫という存在が背負った業(ごう)なのです。つまり、「桜姫という業(ごう)」がデンとして作品の中心に一貫してあるのです。とすれば「桜姫東文章」のドラマは桜姫を中心に置いた曼荼羅絵の様相を呈してきます。この「桜姫という業(ごう)」の存在を唯一認知しているのが清玄です。このことは密教の根本である理趣教の思想と密接な関連があります。だから清玄は真言宗の阿闍梨に設定されているわけです。

以上のことから「桜姫東文章」は清玄の物語であると読むこともできます。もちろんもうひとり権助という・清玄と対立的に置かれている非常に重要なキャラクターがいます。しかし、それでも「東文章」を権助の物語であると言う事はできません。作品全体から見ると清玄の存在は決定的に重いもので、権助が清玄の位置に取って代わることは不可能なのです。

このことは「義経千本桜」において各段で知盛・権太・忠信が主人公として活躍しても・作品全体として見れば真の主人公は義経であるというのにも似ています。「千本桜」においても義経という存在がなければ、知盛も権太も忠信もありません。清玄は「桜姫東文章」の作品に一貫して「桜姫という業(ごう)」の存在を認知する者として在るのです。清玄がいなければ桜姫もいないとさえ言えます。そのようなことは作品全体を見渡して見えてくることです。

(H17・11・4)


2)切り離されたふたり

「桜姫東文章」のドラマは阿闍梨清玄と釣鐘権助は対比的に位置付けされて展開して行きます。清玄と権助との関係は男性の精神と肉体のふたつの要素に比喩されるでしょう。あるいは聖と俗に比喩されるとも考えられます。いずれにせよ桜姫は清玄によって引き上げられ・権助によって引きずり落とされるかに見えます。実は彼らは「桜姫という業(ごう)」によってそういう役割を演じさせられているだけなのですが、まあ、芝居においては彼らが桜姫を翻弄していると表面的にはそう見えます。だから清玄と権助は切り離された男性のふたつの部分です。このふた役をひとりの俳優が兼ねることで演劇的暗喩が機能するということは別稿「似てはいても別々の二人」でも考えました。

清玄と権助は切り離された男性のふたつの部分であるということは、どちらの存在も男性として完全ではないということを意味します。清玄は「肉体を喪失した精神だけの存在」、一方の権助は「精神を欠いた肉体だけの存在」です。どちらにしても桜姫を幸福にすることはできません。桜姫は清玄が自分を精神的に高めてくれる存在であることは分かっているのですが、それに応えることはできません。桜姫は権助に肉体的に惹かれていますが、それが幸福を与えてくれる存在でないことも分かっているのです。

それでは清玄と権助とがふたつに切り離される以前の完全な男性の形があったのでしょうか。それはあります。それは「江ノ島児ヶ淵の場」に登場する長谷寺の所化自休、すなわちその後に阿闍梨清玄となる男でした。自休は相思相愛の稚児白菊丸と児ヶ淵において投身心中を図りますが、岸壁の波に恐れをなして身を投げることが出来ず・死に損ないます。この時点で所化自休は「完全な男性」ではなくなってしまったのです。

江の島稚児ヶ淵から海に飛び込んだ時、白菊丸は自休との来世での再会を願ったでしょう。「お前と一緒に未来まで、どうぞ女子に生まれ来て・・・」その願い通りに白菊丸は桜姫に転生するのですが、自休の方が後を追って死ぬことが出来ずに白菊丸を裏切ったのです。本来ならば・ 白菊丸は桜姫として生まれ変わって、同じく生まれ変わった自休と再会して結ばれるはずでした。しかし、裏切られた白菊丸は生き残った自休の不実を責める存在として転生することになるのです。その時から世界はねじれてしまったのです。

惨めにも生きながらえた自休・すなわち後の清玄はもはや「男性」として機能することはあり得ません。演劇的に見れば、自休はこれ以後ふたつに切り離されたのです。それが肉体を喪失した精神だけの存在である清玄と・精神を欠いた肉体だけの権助のふたりなのです。

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3)清玄が本体である

清玄と権助というふたつの部分(パーツ)が、もともと所化自休というひとりの男であったということは大事なことです。まあ、言ってみれば死に損なった自休から肉体 (権助)を取り去った抜け殻が清玄と思えば良いのです。しかし、清玄と権助のどちらが本体であるかと言えば・それは清玄であることは間違いありません。抜け殻であるとは言っても・自休の本質は清玄が引き継いでいるからです。権助には「桜姫という業(ごう)」を認知する能力はありません。権助が清玄の位置に取って代わることが決してできないのはここから来ます。しょせん権助は清玄から切り取った部分(パーツ)に過ぎません。

このことは「岩淵庵室」で明らかになります。清玄はトカゲの毒を飲まされますがなかなか死なず、しかし、顔に痣ができて面相が変わってしまいます。スッタモンダの騒動のあげくに・清玄は最後には死んでしまいますが、すると不思議なことに権助の顔に清玄と同じ痣が浮かび上がります。権助の面差しに清玄の面影を見て桜姫はギョッとします。ひとつにはここで清玄と権助は生き別れした双子の兄弟であったという背景が暗示されます。双子であるということはふたりが切り離された自休であるということの暗喩です。

権助の顔に清玄と同じ痣が浮き上がることの重要な意味がもうひとつあります。それは観念的に言えば「権助はもう死んでいる」ということです。本体が死んでしまえば、片割れが部分(パーツ)としての役割を機能することはもうないのです。確かに芝居では権助はもうしばらくは生かされます。しかし、演劇的暗喩としてはすでに死んでいるのです。だから済みなった権助を・桜姫は簡単に殺してしまいます。

(H17・11・8)


4)権助はもう死んでいる

「山の宿」では桜姫の傍に清玄の幽霊が登場します。桜姫は「前世は稚児白菊かは知らねども、こっちの知ったことじゃなし。いわばそなたにこっちから、恨みこそあれ恨まるる、コレ話はねえよ。世に亡き亡者の身を以って緩怠至極、エエ消えてしまいねえよ。」と幽霊に悪態をつきますが、幽霊が権助の正体を告げることで・ドラマは急展開します。結局、この後、桜姫は権助と・ふたりの間に出来た赤子を殺してしまいます。

ここで大事なことは、執拗につきまとう清玄からあれほど逃げ回っていた桜姫が・ここでは幽霊の言うことを素直に聞くことです。もちろん権助を殺す前に・桜姫は注意深く権助にそのことを確かめますが、桜姫が幽霊の告げたことを真実だと感じたことは疑いありません。もちろん幽霊の告げたことは正しかったのです。桜姫はもはや逃れようのない宿業のなかに自分があることを悟るのです。

なぜ桜姫は幽霊の言うことを聞くのでしょうか。清玄が生きていた時はねじれきった宿業が桜姫を遠ざけていました。しかし、死んだ清玄はもはや宿業の束縛から解き放たれています。だから桜姫の耳には幽霊の言葉が素直に響いてくるのです。桜姫が女郎屋にいる時は客が傍にいますから・幽霊は桜姫に語り掛けることができませんでした。そこで幽霊は客の枕元に頻繁に出てきて・桜姫が女郎屋勤めができないようにしてしまいます・そして山の宿で初めて幽霊は桜姫に語り始めるのです。

幽霊の告げるところによって権助が部分(パーツ)に過ぎなかったことが明らかになります。本体の清玄がこの世に在った時には・宿業の働きにより権助はその片割れとして対比的な位置を確保し・勝手な振る舞いが出来たわけです。しかし、清玄が死んだ今・権助の役割は終わっているのです。権助は精神を欠いた肉体だけの不完全な・魅力のない男性であることが桜姫の前に明らかになります。権助はすでに死んだも同然の存在です。だから桜姫は権助を簡単に殺すことができるのです。

権助との間に出来た赤子についても触れておきます。「不完全な男性」との間に生まれた赤子もまた「完全な赤子」とは言えません。この不幸な赤子は権助との愛の証などと言うものではなく、ただその腐れ縁を象徴するもの ・ただの付随物でしかないのです。だからこの赤子には名前さえありません。桜姫が自らの宿業に立ち向かい・権助を殺す時、我が子も殺してしまうのは非情だと思えるかも知れませんが、しかし、演劇的暗喩から見れば・ このふたりはセットなのです。桜姫が過去を清算する気なら・権助を殺しておいて赤子を殺さないでは済まないことです。

(H17・11・10)


5)母性喪失の「隅田川」

桜姫に母親としての情があるだろうかということも問うてみる必要があります。はっきり言えば「ない」と言うべきでしょう。子供のことを思うようなことも桜姫は 劇中で確かに言っています。しかし、何だか取って付けたような白々しい感じがします。どこまで心底母親としての心情の台詞なのかがはっきりしません。「三囲の場」の割り台詞を見てみます。

(桜姫)いずくの誰が手塩にて、育つ我が子を一目なと、
(清玄)逢うて重なるこの恨み、
(桜)恋しゆかしの、みどり子の、
(清)顔が目先へ桜姫。
(桜)逢いたい、
(清)見たい、
(桜)仏神様、
(清)姫に、
(桜)我が子に、
(清)何とぞ、
(両人)逢わせて下さりませ。

二人の科白はすれ違いで、清玄は桜姫に逢いたがっていますが、桜姫が逢いたいと言っているのは我が子(清玄の抱いている赤子)です。お互い勝手に言われている・すれ違いの割り科白です。しかし、一方でそれが微妙に呼応し合っています。そこに清玄と桜姫の前世の因縁を感じさせます。「恨みー恋し」・「逢いたいー見たい」・「姫にー我が子に」・「何卒ー逢わせてくださりませ」。オペラの二重唱のように二人の心情が溶け合ってひとつの科白を作り出します。

しかし、やはりここで桜姫が我が子に逢いたいと言い出すのはにわかに信じ難いのです。権助に逢いたいと言う方がまだしも本当らしく聞こえます。清玄と権助との間で揺れる桜姫が、突然ここで母親の情などと言い出すのは不似合いに思われます。そんな桜姫が我が子に逢いたいと言い出すのは何故でしょうか。それはきっとこの隅田川の畔・三囲神社に近い梅若塚の地母神が為させるものです。桜姫のなかに本来ほとんど存在しない要素がここで触発されて・呼び覚まされているのです。桜姫の姿が謡曲「隅田川」で我が子梅若丸の姿を求めてさまよう狂女の姿とだぶります。

観世十郎元雅の作と伝えられる謡曲「隅田川」は、子供を人買いにさらわれた都の女(班女の前)が、子供の姿を求めてあちこちを尋ねまわり、ついにはるばる東国の隅田川のほとりにまでたどり着きます。そこでちょうど一年前に隅田川のほとりで非業の死を遂げた少年があったことを知ります。その少年こそが我が子梅若であったことを知った狂女は塚に向って念仏を唱えます。すると我が子の幻が狂女の前に立ち現れるという悲しい物語です。

「三囲の場」は、清玄と桜姫の悲しい宿業を象徴しています。暗がりのために両人は互いにそれとも知らずにすれ違います。桜姫は我が子に逢うことは出来ず、桜姫のなかに一瞬でも蘇った聖性(母性)は成就されません。つまり桜姫はついに「隅田川の世界」のシンボルたり得ません。「三囲の場」で二人はすれ違い、観客に謡曲「隅田川」の世界をすれすれに垣間見させて素通りさせてしまいます。「三囲の場」は母性喪失の・完成されないままに残された「隅田川」なのです。

(H17・11・12)


6)「三囲」の重要性

「三囲の場」は母性喪失の・完成されないままに残された「隅田川」です。桜姫が一瞬垣間見せた聖性(母性)はひとつには隅田川河畔・梅若塚の傍という土地のイメージに桜姫が触発(インスパイア)されたものです。しかし、もうひとつ・それは清玄が桜姫のなかから引き出したものだと言うこともできるかも知れません。その聖性(母性・母親が持つ本来の人間性)は権助との生活のなかでは決して引き出 すことのできないものです。温かい人間性がこの場でその片鱗でも桜姫のなかに見い出されたということは、それは清玄が引き出したものです。それは清玄だからこそ可能なことです。

もしここで二人が出会うことが出来たなら、二人は赤子を伴ってどこかで暮らすことになったかも知れません。「隅田川」の班女の前と梅若のイメージが観客のなかにダブります。「・・互いの存在に気が付いてくれ」と観客に思わせます。観客にそう思わせておいて・宿業は無情にもその寸前でふたりを引き離してしまいます。

この場では桜姫よりも・清玄の方がずっと惨めです。清玄は桜姫の子供を抱くという形でしか桜姫との絆を確認できません。桜姫の産んだ赤子は、清玄にとって白菊丸(=桜姫)の分身のように思われます。だから清玄はこの赤子を見捨ててしまうことができません。ここでは清玄は桜姫が喪失した母性を代替えすることを求められています。母親の役割を引き受けることによってしか、清玄は桜姫(=白菊丸)との絆を確かめられないのです。そこに清玄(=自休)の言い知れぬ哀しみが見えてきます。「三囲の場」で観客は前世のふたり・自休と白菊丸の不思議な因縁を思い起こさせます。清玄と桜姫は不思議な運命によって手繰り寄せられ・引き寄せられ、そしてまた引き離されるのです。

このような清玄と桜姫の宿業にからまった不思議な関係を象徴的に描いているのが「三囲の場」なのです。だから「桜姫東文章」において「三囲の場」は決しておろそかに扱われてはならぬ場です。それは芝居のほぼ中央に置かれ・桜姫あるいは清玄の転落のドラマの転換点に当たります。それは同じく鶴屋南北作である「東海道四谷怪談」で言えば「隠亡堀」に相当します。「四谷怪談」は初演時には「忠臣蔵」とテレコで2日掛けて上演されて・「隠亡堀」は第1日の終わりと第2日の始めに重複して上演されたことが知られています。つまり「隠亡堀」はお岩と伊右衛門とのドラマの転換点に置かれた重要な幕であるわけですが、「桜姫」での「三囲の場」も同じような重要性を持つ幕であることを付け加えておきます。

(H17・11・14)


7)輪廻転生が主題ではない

「桜姫東文章」に関しては昭和42年3月国立劇場で上演された郡司正勝監修によるテキストがほぼ定本と考えて良いものです。この時に「発端・江ノ島稚児ヶ淵」が文化14年の初演以来初めて復活されました。もっともこれ以前の「桜姫」上演は初演を除けば・昭和2年・昭和5年・昭和34年の三回だけのことです。「桜姫」は戦後になって当代玉三郎によって見出されたと言える芝居です。この「桜姫」は「発端」があるとの・無いのでは芝居の様相が全然違います。「発端」があると、この作品を貫く「桜姫という業(ごう)」が観客に明確に見えてくるのです。

「発端」では・桜姫の前世である白菊丸が登場しますが、この「発端」は輪廻転生という・現代においてはちょっと古臭い(?)仏教思想の説明のための場ではないのです。もしそうなら次の17年後の「新清水の場」において・台詞で経過 を説明して済ませてもそれで足りそうなものですが、そう言うものではありません。「業(ごう)」という宇宙の律を観客に印象付けるために「発端」は省かれてはならない場なのです。「桜姫」の主題は輪廻ではありません。輪廻転生は宇宙の律のひとつの現象に過ぎないのです。「桜姫」の主題は、その後の互いに引かれては離され・離されてはまた引き寄せられる清玄と桜姫のその不思議な関係のなかにあるのです。

このことが理解されれば、大団円で桜姫が元の姿に変わってしまうことが奇異に感じられなくなります。あそこまで堕落して・情夫も赤子まで殺して・それで平然として清らかなお姫様に戻れるのかというのは現代人の倫理感覚です。キャラクターと行動を連続したものと考えるからそういう見方になるのです。この大団円は出発地点に戻ったと言うことではありません(表面だけを見ればそのように見えますが)。正確に言えば精神と肉体・あるいは善と悪 の葛藤状態から解脱し・感覚的な平衡状態(プラスマイナスゼロ)になったということです。そこから新たな物語が展開していくのです。

(H17・11・16)


8)決断がなければ転機はない

映画「ストロンボリ」はロッセリーニ監督が女優バーグマンを起用した最初の作品でした。火山島で生活するバーグマンが家長制の厳格な因習的な村の生活に耐え切れず逃げ出そうとして、彼女は島の反対側にある港 をめざして火山を登ります。しかし、噴火口に近づいた彼女は噴煙に巻き込まれて・息ができなくなって気絶してしまいます。眼が覚めると・もうすでに朝で周囲は晴れ渡っています。画面は煙渦巻く噴火口を映し出し、バーグマンが「神様、ああ、慈悲深い神様・・」とつぶやくところで終わります。何だか未解決のようなエンディングです。結局のところ彼女は村を去るのか・それとも引き返すのか。そう質問されたロッセリーニは次のように答えています。

『私には分からない。そこから次の作品が始まることになるだろう。人生におけるあらゆる経験には転機というものがある。それは経験あるいはその人生の終わりではなく、あくまで転機だ。私の作品の結末はどれも転機だ。そしてそこからまた始まる。しかし、何が始まるかは私にも分からない。』

この映画でのバーグマン演じる主人公は、エンディングの時点でまだ行動は起こしていません。しかし、決断は明確にされているのです。決断というのはここで自然の圧倒的な力を見せ付けられて彼女は象徴的自殺を遂げ(噴火口で気絶したこと)・そしてすべてを投げ捨てたということです。そこから「神様、ああ、慈悲深い神様・・」というつぶやきが発せられています。この決断がなければ主人公の転機はないのです。(映画「ストロンボリ」の別バージョンではバーグマンが村の方向へ山を下りて行くものもあるそうです。)

いずれにせよ決断がなければ転機はありません。桜姫の場合なら清玄の幽霊の言葉によって桜姫が自分の業(ごう)の深さに気付き・それがもたらした事態に真正面から対峙した時に決断はされねばならないのです。桜姫の取る選択肢は、幽霊の言うことを拒否し・これからも権助と暮らすことを選ぶか、それとも権助と赤子を殺すかのどちらかです。選択はそのどちらであってもいいですが・とにかく桜姫はどちらかを選ばねばなりません。

桜姫が赤子を殺すことができず懊悩し狂乱する方が現代的ではないかと考える人もいるかも知れません。しかし、桜姫が赤子を殺せないということは桜姫が自分の置かれた状況に真剣に対峙しようとせず・決断することから逃げたということです。オイディプスが自分の目を潰さないまま狂乱するのではドラマにはなりません。メデイアが子供たちを殺さないで狂乱しては ドラマにはなりません。それが現代的だと言うならば、まあ・現代というのはそんなものかも知れませんね。しかし、それでは状況は決して変らないのです。主人公が状況に真正面に向き合おうとせず・決断しようとしないならドラマは転機を迎えることは決してありません。

「四谷怪談」の幕切れで伊右衛門が与茂七ら討っ手に取り囲まれた後、全員が刀を納めて舞台で平伏し「まず本日はこれ切り」とやりますね。あれは結論を出すのを保留しているのではないのです。もうあの時点では伊右衛門が討たれる運命は定まった(つまり演劇上の決断はされている)からその後を省くことができるのです。四十七士はこの後高家討ち入りで本懐を遂げることになります・そのなかに与茂七がいるのは観客の常識なのですから、この後で伊右衛門が逃げ延びる・あるいは与茂七が返り討ちになるなんて事態が起こることは絶対にありません。伊右衛門は間違いなく討たれる・そのような結論が定まってからでないと芝居が「まず本日はこれ切り」となることは決してありません。ここでも行動はまだ取られていない状態になっていますが、決断は明確にされています。決断がされているならば芝居は安心して幕を下ろすことが出来ます。

近松門左衛門は「お芝居は慰みでなくてはならない」と言いました。「こんなに悲惨な人生がある」と叫ぶだけでは芝居は慰みにはなりません。しかし、「それでも人は生きていかねばならない」とするならば芝居を慰みにすることができます。そのことを近松も南北も知っているのです。

(H17・11・18)


9)「桜姫」大団円の意味

決断がなされた後・すなわち桜姫が情夫権助と赤子を殺した後、桜姫の行動はいくつか考えられます。ひとつは桜姫もふたりの後を追って自害することです。出家して尼さんになるということも考えられます。しかし、桜姫は自害せずに・元のお姫様の姿に戻って吉田家を再興する方を選びます。お姫様に戻った桜姫はその後どうなるのでしょうか。それは分かりません。また新たな転落劇が始まるのかも知れませんし、あるいは生まれ変わった清玄といつか再会することになるかも知れません。いずれにせよ何かが始まるのです。

別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」において、三島の絶筆「豊穣の海」のエンディングについて考えました。月修寺門跡(聡子)はかつてあれほど愛し合った松枝清顕のことをすっかり忘れてしまっており、「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか? その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」と言われて、本多繁邦は自分でも何がなんだか分らなくなってしまうのです。

『「しかしもし、清顕君が初めからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のようにおもわれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」』「豊饒の海・第4巻・天人五衰」

「桜姫東文章」の大団円もこれと同じように見る必要があります。清玄は本多繁邦と同じく「桜姫という業(ごう)」の観察者ですが、清玄も権助も死んだ今、お姫様に戻った桜姫がこう言うのです。

「こうすれば白菊丸も自休もいなかったことになる。清玄も権助もいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・それも心々ですさかい」

これが「桜姫東文章」の大団円の意味です。何ともシュールで・歌舞伎的な結末ではないでしょうか。しかし、このような結末は実は「桜姫東文章」だけのことではありません。歌舞伎の結末はたいてい「悪は滅び善は栄えこの世は太平」となって・それで発端と同じ状況に戻って終わるのです。さまざまな事件があり多数の人が死に・そこに葛藤がありドラマがあり・ そしてこの場はいったん幕を下ろすのですが、しかし、人々はその先も恐らく以前と同じ愚かしい過ちをやはり同じように繰り返すのでしょう。それが人間というものなのかも知れません。そしてそこからまた新たなドラマが始まるのです。いずれにせよ芝居は円弧を描くように閉じるのです。

(H17・11・21)


10)桜姫のかぶき的心情

桜姫が情夫権助と赤子を殺すことの意味についてもう少し考えます。このことは桜姫にとって「過去を断ち切る」・「宿業の連鎖を断ち切る」ことを意味します。つまり、桜姫はここでひとつの「決断」をしたのであり・このことが桜姫に転機を与えるのです。前述した通り、この後にふたりの後を追って桜姫が自害するという選択肢もあり得ますが、桜姫が自害するとしても・行為としては事後追認に過ぎないもので・それはどちらでもいいことなのです。実は権助と赤子を殺した時点で桜姫は象徴的自殺をして「ゼロ地点」に入っているのです。これ以前と以後とでは「桜姫はもはや同じ人物ではあり得ない」ことが、情夫権助と赤子を殺すことによって演劇的暗喩として明確に示されています。

このことは「かぶき的心情」として理解することもできます。例えば「熊谷陣屋」において、直実が我が子の首を義経に差し出した時・確かに直実は象徴的自殺を遂げたのであって、だからこそ直実は出家が出来ます。この転機こそが「直実の殺したのは敦盛ではなく・我が子であった」という一大虚構を「平家物語」の世界のなかに収斂させるのです。あるいは「寺子屋」において松王が我が子を身替わりに差し出す。それにより松王夫婦は確かに象徴的自殺をしたのです。だから松王夫婦がいろは送りで白装束に着替えるのは・演劇的形象として正しいわけです。その転機が「菅原伝授手習鑑」の虚構を歴史的事実に収斂させます。それでなければ虚構は芝居のなかで虚構のまま尻切れトンボで終わるでありましょう。

「熊谷陣屋」においても・「寺子屋」においてもその決断の原動力は「かぶき的心情」です。このことは桜姫においても同様です。情夫権助と赤子を殺す時には桜姫に「心情の強さ」・すなわちかぶき的心情が必要です。そのことが演劇的暗喩として形象されることで「桜姫東文章」は大団円を迎えます。

(H17・11・23)


11)輪廻の確信

清玄と桜姫が互いに引かれては離され・離されてはまた引き寄せられる、その不思議な関係は宇宙の律の不思議さを現しており・それが「桜姫」の主題です。「桜姫東文章」では輪廻は重要なモティーフですが、輪廻は宇宙の律のひとつの現象に過ぎません。

「桜姫」においては「発端」から・白菊丸の輪廻を契機(きっかけ)にして一本の糸を手繰るように物語がつむぎ出されています。しかし、輪廻はあくまで「桜姫」の物語の契機であって・主題ではないのです。これは三島の「豊穣の海」四部作においても同じことが言えます。輪廻転生の証拠、桜姫の開いた左手から出てきた香箱であるとか・松枝清顕「脇の下の三つの黒子」で輪廻が科学的に証明されるはずもありません。そんなものは芝居や小説の小道具に過ぎないのです。また作者南北も三島もそんなものに重きを置いてはいません。しかし、輪廻は観察者である清玄あるいは本多繁邦にとって間違いない確信なのです。その確信(実にあやふやで頼りないのであるが確かにそれは確信である)がドラマを展開させるのです。それは「何かがつながっている・流れている」という確信です。

「東西。さて分けて申し上げまするは、只今仕りましたるは、江ノ島稚児ヶ淵の場、清玄白菊の因縁物語、当狂言の発端にござりまして、この間十七年相立ちましたる狂言にござります。このところ序幕新清水の場、十七年立ちますると申す口上、さよう。」(「桜姫東文章」発端・幕切れ口上)

「何かがつながっている・流れている」ことを示すために「これより十七年相立ちましてござりまする」という口上が演劇的暗喩として大きな意味を持つのです。「発端」はその後の芝居の筋を分かりやすくするためではなく、「何かがつながっている」という時空的座標を示す・その演劇的暗喩のためにあるのです。「豊穣の海」での松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャン、そして安永透と四つの人生もそのように設定されています。一見バラバラに見えるそれらが 観察者には「つながっている」と感じるならば・それは確かにつながっているのです。この確信を他の誰も否定することはできません。

例えば・ある役者が先代と口跡・雰囲気がそっくりであると感動することがあります。それは親子で血がつながっているわけですから・遺伝(DNA)で受け継がれたものとして科学的に伝統の説明ができないものでもないでしょう。そう単純なものでもないけれど、まあそれで一応納得はできます。しかし、現代のある役者が荒事を演じて・ あるいは和事を演じてはるか昔の二百数十年前の元禄のかぶき者の心をまざまざと想い起させるとなれば、これは科学的な説明は不可能です。何かが確かに流れている・何かが確かにつながっている・これが伝統というものなのかということしか言えません。しかし、その感動は自分のなかで間違いないものであるということは言えます。おそらく清玄の確信も・本多繁邦の確信もそのようなものなのです。

「豊饒の海」という題名は月にある窪地の名前から付けたということは、三島自身がそう書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴しているのだと・そう書いてある文芸評論が少ないないようですが、そう言う方は石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が・視点を変えれば(つまり遠くから見れば)やはり豊かな生命の海であるという「事実」をお忘れなのです。

「桜姫」の大団円も同じです。情夫と赤子を殺した桜姫が平然とお姫様に戻るところに無限の味わい・歌舞伎の本当の面白さがあるのです。鶴屋南北のこの結末に豊かさを感じることのできる人は、月の窪地から無限の生命が湧き出るのを感じることができると思います。

(H17・11・26)

(参考文献)

スラヴォイ・ジジェク:汝の症候を楽しめ―ハリウッドvsラカン(鈴木晶訳・筑摩書房)



 

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