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三島由紀夫と「桜姫東文章」〜輪廻転生のものがたり

〜「桜姫東文章」


「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で。」
(「豊饒の海・第1巻・春の雪」・松枝清顕の最後の言葉)


1)三島由紀夫と「桜姫東文章」

別稿「桜姫という業(ごう)」において、 三島由紀夫の文章を絡めて「桜姫東文章」を考えてみました。実は三島と「桜姫東文章」はご縁が深いのです。三島由紀夫の監修により六代目歌右衛門の桜姫・初代白鸚(八代目幸四郎)清玄/権助ふた役により「桜姫東文章」が上演されたのは、昭和34年11月歌舞伎座でのことでした。時間の制約もあって新清水桜谷草庵から権助住居までの四幕六場の上演でしたので「桜姫東文章」の全貌はまだ十分に見えなかったかも知れません。しかし、文化14年の初演以来の「桜姫東文章」上演は昭和2年と昭和5年の2度きりしかなくて、戦後の「桜姫東文章」上演はこの昭和34年の上演が最初のことであったのですから、今日の「桜姫東文章」の盛名は三島の功績と申してもいいものです。

「南北はコントラストの効果のためなら何でもやる。劇作家としての道徳は、ひたすら、人間と世相から極端な反極を見つけ出し、それをむりやりに結び付けて、恐ろしい笑いを惹起することでしかない。登場人物はそれぞれ壊れている。手足もバラバラの木偶人形のように壊れている。というのは、一定の論理的な統一的な人格などというものを、彼が信じていないことから起きる。(中略)こんなに悪と自由とが野放しにされている世界にわれわれに生きることができない。だからこそ、それは舞台の上に生きるのだ。」(三島由紀夫:「南北的世界」・昭和42年3月)

この三島の文章は昭和42年3月国立劇場で上演された郡司正勝監修による「桜姫東文章」のプログラムのために書かれたものでした。この時に「発端・江ノ島稚児ヶ淵」が初演以来初めて復活され・その後ほぼ定本になる上演が成ったわけです。さらに、ここで三島が白菊丸を演じた若き玉三郎の資質を発見する(これは吉之助の推測ですが)ということになります。

ところで、三島は「南北の登場人物はそれぞれ壊れている・それは一定の論理的な統一的な人格などというものを南北が信じていないことから起きる」と書いていますが、それでも「南北的世界観」というのは確かにあって、それが作品全体を貫いているわけです。

「桜姫東文章」はいろいろな見方が出来ますが、清玄を観察者に仕立てた輪廻転生の物語という見方も可能です。(別稿「桜姫という業」をご参照ください。)三島晩年のライフワーク「豊饒の海」もまた本多繁邦を観察者に仕立てた輪廻転生の物語です。その第1巻「春の雪」は昭和40年9月から雑誌「新潮」に連載が開始され、第4巻「天人五衰」の最後の原稿は昭和45年11月25日・まさに自決の日に仕上げられました。

吉之助は鶴屋南北の「桜姫東文章」が三島にインスピレーションを与えたなどと言うつもりはありません。直接的には「浜松中納言物語」を典拠にしたと三島自身が書いています。しかし、三島の「桜姫東文章」に対する強い関心を見ても、自作の小説と同じ輪廻転生の主題に三島が共感を覚えていたに違いないと思っています。


2)「豊饒の海」最終部の静けさ

三島の自決は当時まだ中学生であった吉之助にも大きな衝撃を与えました。その後、出版された「豊饒の海・第4巻・天人五衰」の最終部の静けさにもこれまた強い印象を受けました。

『「しかしもし、清顕君が初めからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のようにおもわれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」(中略)これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・
「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日』

この最終部を最初に読んだ吉之助の印象は、これから死にに行こうとしている人間がこういう静かで透明な文章を書けるのかという驚きでありました。後で聞くところでは、この最後の原稿はずいぶん前に出来ていて、三島は自決当日に「豊饒の海」完。昭和四十五年十一月二十五日」という文字を原稿用紙に書き入れただけだという説もあるようです。そうであっても、これもまた三島らしいという気がします。「死に臨んで・こんな静かな文章が書けた作家」というのは、三島の欲しかったイメージだったであろう。そういうポーズを三島は意識的にとったということはあると思います。

この「豊饒の海・天人五衰」最終部に登場する尼寺・月修寺のモデルは奈良市にある円照寺という実在のお寺ですが・これは臨済宗(禅宗)妙心寺派のお寺です。しかし、三島は小説での月修寺の宗派を法相宗(ほつそうしゅう) に変えています。

法相宗は南都六宗のひとつで・奈良の興福寺や薬師寺、京都の清水寺も法相宗のお寺です。法相宗は別名を唯識宗とも言い、の世の存在やできごとは自分自身の心の働きによって仮に現わされているに過ぎない、だからこの世は自分の心を離れては存在せず、心はこの世のすべての本体として唯一の実在するものだとするのが法相宗の信条です。法相宗ですべてを認識する根本的な識とするものが「阿頼耶識(あらやしき)」で、無限大の容れ物という意味を持ちます。唯識論のことは「豊饒の海・第3巻・暁の寺」のなかで三島が詳しく触れています。それはほとんど小説から離れた解説文みたいなもので、「豊饒の海」のなかでも特に退屈なところです。しかし、それも三島に言わせれば「あそこで読者に退屈と思わせるくらいに唯識論を叩き込んでおくからこそ・第4巻はサラサラと進められる」のだと言うわけです。この唯識論において「豊饒の海・天人五衰」最終部を読まなければなりません。


3)「豊饒の海」最終部の解釈

月修寺門跡(聡子)はかつてあれほど愛し合った松枝清顕のことをすっかり忘れてしまっており、

「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか?その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」

と言われて、本多は自分でも何がなんだか分らなくなってしまうのです。この結末は「豊饒の海」の四人の実在をことごとく否定し去り・その生死を見取るという観察者の役を与えられてきたはずの本多繁邦の存在さえも門跡の言葉によっておぼつかなくなる・このうえなくむごたらしい破滅の幕切れであるという解釈を巷間 実に多く見かけます。直感的に・根拠もなく申し上げますが、吉之助はこういう解釈にはまったく同意しかねます。こういう解釈では最終部の文章のあの透明な静けさの説明ができないと思います。「静けさ」とは虚無あるいは絶望のことなのでしょうか。そう解釈するならば・これほど寂しいことはありません。

この「豊饒の海」最終部は、吉之助には物語が最初に戻ってしまったということにしか思われません。そしてまた全く別の・新たな物語が始まると、そういう風にしか思われません。それ以上でも・それ以下のものでもないと思っています。最終部のあの透明な静けさはそれでなければ説明が付きません。

このことは唯識論の見地からも論証できると思います。唯識論によれば我々がこの世で見るものはすべてが幻想であるということですが、それはこの世が存在しないということではないのです。幻想のようであってもそれを認識するもの(意識)があるのだから、やはりこの世はあるのです。ただし、そこに映る世の有様はその認識によってその様相を変えるということです。

はたして月修寺門跡は松枝清顕の存在を否定したのでしょうか・四人の転生を否定したのでしょうか・そう解釈している評論は少なくないようですが、そんなことが小説のどこに書いてあるのでしょうか。門跡は、自分にとって・そんな人はいなかったように思われる・あなたはどう思うかと本多に言ったに過ぎません。それに本多が混乱して何が何だか分らなくなったということにしか過ぎません。松枝清顕の存在も・四人の転生もあったかも知れないし・なかったのかも知れないという中間点に置かれたに過ぎないのです。そこでは否定も肯定もされていません。そう考える必要があります。それが作者三島が主張する唯識論に則った最終部の解釈だと思います。

『こうした濃紺の夏富士をみるときに、本多は自分一人でたのしむ小さな戯れを発見した。それは夏のさなかに真冬の富士を見るという秘法である。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、目の残像は真白になって、一瞬、白無垢の富士が青空に浮かぶのである。いつとはなしにこの幻を現ずる法を会得してから、本多は富士は二つあるのだと信じるようになった。夏富士のかたわらには、いつも冬の富士が。現象のかたわらには、いつも純白の本質が。』(「豊饒の海」・第3巻・「暁の寺」)

「豊饒の海」という題名は月にある窪地の名前から付けたということは、三島自身がそう書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴しているのだと書いている評論が多いようです。しかしそう考える方は、石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が・視点を変えれば(つまり遠くから見れば)やはり豊かな生命の海であるという「真実」(それはある視点でみればそれは確かに真実なのです)を忘れているのです。そのどちらもが 幻想であるかも知れないが・またどちらもが真実であるかも知れないのです。それが唯識論の見方です。「般若心経」には次のような語句があります。

『舎利子、色(しき)は空(くう)に異ならず、空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色、受想行識(じゅそうぎょうしき)も亦復(またまた)是(かく)の如し、舎利子、是(こ)の諸法は空相(くうそう)にして、生ぜず滅せず、垢(あか)つかず浄(きよ)からず、増さず減らず、是の故に空中(くうちゅう)には色もなく、受相行識もなく、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)もなく、色声香味蝕法(しきようこうみそくほう)もなく、眼界(げんかい)もなく、乃至意識界(ないしいしきかい)もなく、無明(むみょう)もなく、亦(また)無明の尽くることもなく、乃至老死(ないしろうし)もなく、亦老死の尽くることもなく、苦集滅道(くじゅうめつどう)もなく智もなく亦徳もなし』

「色即是空、空即是色」は誰でも知っている有名な文句ですが、宇宙の真理を表す重要な言葉です。色とは目に見える世界、空とは目に見えない世界のことでしょうが、裏と表、陽と陰と言ってもよろしいのです。要するに正反対のもの・相反するものであります。色と空とはまったく正反対のものだけれど、実はひとつであって・分けられない、それぞれがひとつのものの異なった有様(ありさま)を示していて常に移り変わるのだということです。これは質量からエネルギー・エネルギーから質量に自在に行き来する現代物理学の世界観にもそのまま通じるものです。現代物理学では「無から宇宙が誕生した」と言いますが、この「無」というのは何もないということではなくて、プラスもマイナスもすべてを包含した「ゼロ」です。無とはエネルギーの平衡状態なのです。

その「無」の奥には何があるかと言うと、密教ではこれを大日如来であるとします。始めもなく・終わりもなく、時間も空間も超越した存在が大日如来です。その大日如来のエネルギーが宇宙にあまねく満ちているというのが密教の思想です。(注:急に話が密教に飛んだりするので混乱されるかも知れませんが、唯識論は密教の論理によって高められたというべきかも知れません。南都六宗の教えが密教に矛盾するものではないことは弘法大師自身がそう語っておられます。)

だから三島の言う「豊饒の海」とは、すべてを含む「無」であって・無限の豊かさを含む「無」なのです。そして、そこから新たな有を生む「無」であります。それが唯識論の教えです。終わりは始まりであり・死はいずれどこかで別の形での新たな生が始まるであろう、そのきっかけに過ぎないのです。「豊饒の海」最終部は物語がその出発点に再び還ったということなのです。


4)輪廻転生のものがたり

門跡に否定されたことで・輪廻転生の糸が切れたと書いてある評論も見かけます。輪廻転生の証(あかし)が「脇の下の三つの黒子(ほくろ)」・あるいは「名前を書いた香箱」でいつも示されるものならば結構なことです。そんなものは小説や舞台で輪廻転生を証拠つける材料に使われている小道具に過ぎません。人が死んだ途端に・すぐに別の生命に転生して輪廻の糸がまっすぐに繋がるものだと考えるのも滑稽なことです。何百年の間を置いて転生することだってあり得ると思いますがね。それが確かにつながっているという証拠さえもないのですが、しかし、それを輪廻の糸が切れた・つながったなどと騒ぐのもおかしなことです。それは絶対つながっているという確信があるのです。三島が間違いなくそう考えていただろう発言を挙げておきます。

『秘伝というのは、じつは伝という言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば、日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるようなものだ。横にずっと流れていくものは、何にもないのだ。そうして個体というというのは、伝承される、至上の観念に到達するための過渡的なものであるという風に考えていいのだろうと思う。(中略)そうするとだね、僕という人間が生きているのは何のためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいのかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達した時になにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次に現れてくる奴はまだ何にも知らないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。何にもメトーデがないところで模索して、最後に死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は歴史全体に見ると、結晶体の上の一点からずっとつながっているかも知れないが、しかし、絶対流れていない。』(三島由紀夫:の安部公房との対談:昭和41年2月・「二十世紀の文学」)

上記の三島の発言は日本の伝統についてのものです。ここで三島が言っていることは、伝統というものは結晶体が並んでいるようなもので・ひとつひとつが連続しているのではなくバラバラである、しかし全体から見るとそれは確かにつながっているのだということです。三島のこの言葉が唯識論から直接的に発したものなのかは分りません。しかし、昭和41年の時点で既に「豊饒の海」の執筆は開始されていますから、その発言は表裏一体と考えても間違いないものです。

「豊饒の海」は松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャン、そして安永透と四つの輪廻転生を描いていたはずなのですが、それぞれ別個のもので・連関のないものであったと見ることも可能なのかも知れません。しかし、それはバラバラであるけれども確かにつながっていると感じられる者には感じられるのです。そして連続したひとつのものに感じられるけれどもよく見ればバラバラなのです。

その輪廻転生の糸の存在を確信してきたのは観察者たる本多繁邦だけです。しかし、本多がその直感を証明できるものは何もありません。本多は「脇の下の三つの黒子」がその証拠だと言い張ることしかできないのですが、その確信を否定し去る根拠もまたないのです。もちろん門跡の言葉くらいで否定できるものではありません。そして、いつか別のところで・誰も知らないところで別の輪廻転生が始まるとしても・誰もその可能性を否定できません。ただ小説がそこで終っているだけのことです。三島はその結末に大いなる余白を読者のために書き残したことになるのです。


5)そして「桜姫」

「桜姫東文章」もそのように読む必要があります。桜姫本人にとっては白菊丸のことなど全然関係なくて、清玄にそんなことでつきまとわれることなど迷惑千万なことです。それは全然違う人生であって・連関なんでまるで あるはずがないのです。しかし、観察者たる清玄にとってはそれが関係大ありなのであって、ふたつの人生がしっかりと繋がっていることが清玄にはありありと見えるのです。そのどちらもが真実なのに違いありません。

いったい何がつながっているのだろうか・何がそのようなつながりを想起させるのであろうかと・その連関の存在を考えてみること以外に、この不思議を解明する方法はありません。

「大詰・浅草雷門の場」において桜姫が元のお姫様の格好で登場すると・今の観客はそれまでのドラマがみんな否定されて帳消しになったように感じて・何だか取ってつけたような結末だと感じてしまうかも知れませんが、そうではないのです。すべてが清められて元の「あるべき姿」に戻っただけなのです。そして、新たなドラマがまた始まるのです。

(後記)

別稿「桜姫・断章」もご覧下さい。

(H16・9・26)



 

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