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近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ


1)庶民の悲劇

「ヴェリズモ(Verismo)」とは自然主義・現実主義という意味のイタリア語です。19世紀末にフランスの作家エミール・ゾラを中心として展開した自然主義文学運動のことを、イタリアにおいてはヴェリズモと呼びました。イタリアでの自然主義作家ではジョヴァン二・ヴェルガが指導者的な位置にありました。その代表作が「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)です。その10年後・1890年、この小説がピエトロ・マスカー二によってオペラ化されて大変な評判を取りました。(正確に言えば小説ではなくヴェルガ本人が4年後に書いた戯曲版がオペラ台本の基礎になっています。)その後・本作にあやかる形で一幕物のヴェリズモ・オペラが相次いで登場しました。しかし、現在ではそのほとんどが忘れられて、今日ではヴェリズモ・オペラのなかでマスカーニの「カヴァレリア・ルステカーナ」とルッジェロ・レオンカヴァルロの「道化師」(1892年)の2作品だけが一般に知られています。なお広義においては多幕物の「トスカ」(プッチーニ)、「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)、「アドリアーナ・ルクヴルール」(チレア)などもヴェリズモ・オペラに包括されることがありますが、厳密に定義するならばヴェリズモ・オペラは一幕物が基本的な形態であり、なおかつ同時代的な下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いたオペラのことを指すわけです。

ただしオペラの「カヴァレリア」は文学でのヴェリズモ運動がきっかけで生まれたことは事実ですが、オペラのヴェリズモ運動は文学上のそれとまったく異なる展開を示しました。オペラのヴェリズモは、ほとんど一発花火で終わってしまったのです。プッチーニはヴェルガの別の小説「雌狼」のオペラ化を出版社のリコルディに勧められてシチリアに取材旅行に行ったりしましたが、「旋律になる素材を得られなかった」として作曲を断念しました。マスカー二もレオンカヴァルロも後が続きませんでした。結局 、「カヴァレリア」と「道化師」以外のヴェリズモ・オペラは成功しなかったのです。その後のヴェリズモの理念は、歴史的な題材あるいは遠くかけ離れた世界を舞台にしたもので展開していきます。例えば「アンドレア・シェニエ」はフランス革命が舞台です。「トスカ」・「アドリアーナ・ルクヴルール」も歴史的な題材を扱っています。「蝶々夫人」(プッチーニ)は日本が舞台、「西部の娘」(プッチーニ)は開拓時代のアメリカ西部が舞台です。オペラにおいては同時代の自然主義文学の題材は続かなかったのです

ともあれ無名の若手作曲家マスカー二の歌劇「カヴァレリア・ルステカーナ」はすさまじい評判で迎えられました。1891年ドイツ語によるウィーン初演を聞いて、当時もっとも重要かつ非常に恐れられていた批評家であったハンスリックは、次のように書いています。

『ヴェルガによる原作の劇的な力と大衆性が、このオペラへの強力な予備工作となっているのである。事実・このオペラは台本的に非常にユニークである。一幕形態の田園的ジングシュピールと聞けば、誰しも明るい・牧歌的なドラマを期待するだろう。ところが「カヴァレリア・ルステカーナ」は小悲劇 、荒々しい情熱と血生臭い結末を持った田園悲劇に他ならないのだ。』(エドゥアルト・ハンスリック:1891年)

ハンスリックの指摘はとても重要です。「カヴァレリア」以前の一幕物オペラというのは、もっぱら明るい題材・つまり喜劇と相場が決まっていました。一幕物専門の劇場はコミック・オペラかジングシュピールを上演したものでした。悲劇のようなシリアスな題材はつねに多幕の形で提示されたのです。ギリシア悲劇以来、悲劇的な題材というものは、首尾一貫した筋の展開により因果関係を描かねばならず、ある一定の形式的な手続きを経なければならぬものとされており、だから悲劇はつねに多幕物とするのがお約束でした。一方、一幕物という形式は悲劇に対応するだけの十分な空間を提供し得ないと考えられていたのです。もうひとつ大事な点は、悲劇は神話・歴史上の人物が背負うものとされていたことです。庶民が主人公となるものは、明るい喜劇でなければなりませんでした。庶民は悲劇の主人公に似合わないとされていたのです。ところが「カヴァレリア」では西欧での外れの地域・シチリア島の庶民の悲劇が描かれています。つまりマスカーニの「カヴァレリア」の成功はオペラの常識をひっくり返したのです。(この稿つづく)

*本稿の考察はエゴン・フォスの論考『オペラ・ジャンルとしての悲劇的田園物語〜「カヴァレリア・ルステカーナ」におけるヴェリズモについて』を参考にしています。(名作オペラ ブックス・27に収録)

(H23・6・15)


2)拘束された人間のドラマ

本稿においては、ヴェリズモ・オペラは同時代的な下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いた一幕物オペラであると規定します。したがって、ヴェリズモ・オペラは「カヴァレリア・ルステカーナ」(マスカー二)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の2作品のみという捉え方になります。

19世紀当時の演劇やオペラの常識は、悲劇はつねに多幕の形で提示されるべきものであるということでした。通常のパターンでは、悲劇は主人公の置かれた状況を 順を追って観客に十分説明し、何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか、これを因果関係的に追っていくことで、悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取ります。こうすることで主人公が悲劇的状況に陥ることを「然り・やむなし」と観客は納得することができるということです。そのためにはいろいろ場面を変えて・視点を変えながら、主人公の状況を多角的に描き出していかねばなりません。ですから多幕形式でなければ・その悲劇的展開を十分に表現できないということになり、一幕物は悲劇にふさわしい形式ではないとされたわけです。

一方、一幕形式の「カヴァレリア」においては、悲劇の発端(トゥリッドゥの不貞)は既定の事実で最初からあり、それは具体的には婚約者サントゥッツァの嘆きとトゥリッドゥとの喧嘩という形で示されるだけです。またドラマの結末もあっけないものです。トゥリッドゥが不倫相手の夫と決闘して刺し殺された事実を知らされて、サントゥッツァが気を失ってその場に倒れるだけです。トゥリッドゥの決闘の場面は描かれません。つまり 通常の悲劇の段取りがここでは取られていません。悲劇は舞台上で起こるのではなく・悲劇的状況が最初からそこに「在る」のです。このことは次のように考えられます。「カヴァレリア」においては、通常の多幕形式に見られるところの・主人公が状況に対して決断し・行動し・そして悲劇的結末に追い込まれていくという・主体的な意思決定の場が奪われているということです。主人公は状況のなかに放り込まれて・すでに身動きできないところにあるのです。

あるいは・こういう見方もあり得ます。多幕形式における主人公さえも、実は因果関係に縛られ・「動かされている」だけの操り人形に過ぎないのであるということです。そのように考えれば「カヴァレリア」は悲劇がそこに「在る」という事実だけを直裁的に観客に突きつける点において、より衝撃度が高いと言えます。まどろっこしい状況説明の場面がないだけドラマ展開が簡潔で早いからです。しかも、それは本来悲劇にふさわしくないとされた・田舎の民衆の悲劇なのです。

ドイツの演劇評論家ペーター・ツォンディは「現代演劇論」において、一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定しました。ツォンディは「カヴァレリア」など一幕物のヴェリズモ・オペラが盛んに書かれたのとほぼ同じ時期(19世紀末)に、アウグスト・ストリンドべリが一幕物の芝居を書いたことに着目しています。ストリンドべリ自身はそのエッセイのなかで一幕物芝居のことを「今日の人間の戯曲のための形態」と呼んだそうです。これは上記の「カヴァレリア」のことを考えればわかります。一幕物の主人公においては演劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているのです。それは19世紀末の西欧の閉塞した精神的状況から来ているわけです。(この稿つづく)

(H23・6・19)


3)悲劇は「在る」

「歌舞伎素人講釈」では19世紀末の西欧のジャポニズムは・単なる異国趣味なのではなく、江戸は西欧の芸術家の進むべき方向を示したということを申し上げています。江戸は19世紀西欧の状況を先取りしたということです。この検証のため「歌舞伎素人講釈」ではオペラと歌舞伎の考察を意識的に行っています。これを見れば、19世紀に見られるオペラの状況は、およそ100年から 200年先駆けて歌舞伎・浄瑠璃に既に起こっていたことだと分かると思います。本稿においては、ヴェリズモ・オペラと・近松門左衛門の世話物浄瑠璃、特に「曽根崎心中」を対比しながら話を進めることにします。

近松門左衛門(承応2年・1653〜享保9年・1725)は、現代ではもっぱら世話物の作家として評価されています。近松の120編とも150編とも言われる作品のなかで世話物は24編にすぎません。当時の劇作家にとっての本領は時代物であり、時代物で声名をとってこそ劇作家でした。ですから時代物作家としての近松の方を再評価すべしという意見もあります。その考え方に一理はあります。しかし、最近の吉之助は、近松は時代物という形式に飽き足らなかったのではないか・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったのではないかと思うようになりました。近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であった。やはり近松は世話物作家であったと考えたいと吉之助は思うのです。

時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本となります。一方、近松の世話物は上・中・下の巻で構成される三部形式でした。この世話物の三部形式は「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)で近松が創始したものでした。近松の世話物24作品のなかでの場割りは微妙に変わりますけれど、すべて三部形式が基本です。この世話三部の基本形式を近松がどのようにして発想したかについては確固たる定説がないようです。広末保先生は「近松序説」のなかで近松の世話物の形式は時代物浄瑠璃の三段目を独立させたものであるということを書いています。時代物の三段目というのは、基本的に世話場とされています。例えば「菅原」の佐太村(賀の祝)、「千本桜」の「鮓屋」を考えれば良いでしょう。世話物が三部から成る構成は、謡曲 などでのドラマの基本構成である「序・破・急」の骨格を採用しているわけです。

形式の外面的なところはそれで間違いないと思いますが、近松が世話物を創始することの 内的必然の説明にはなっていません。どういう意図があって近松は世話悲劇を書いたのか、時代物の三段目を世話物の形式として独立させねばならなかったか、既成の五段形式でどうして世話物が書けなかったのか、そのような疑問がまだ残ります。世話物悲劇を創始するに当たり近松が形式を変えたということは、そこに近松の創作の最も重要な意図が隠されているということです。そこで本稿では、どうして近松の世話物は三部形式でなくてはならなかったかを考えてみたいわけです。もうひとつ大事な問題は、世話物の三部形式が近松以後に定着せず・近松だけで終ってしまったということです。この点についても併せて考えたいと思います。

広末保:近松序説―近世悲劇の研究

結論から言えば、吉之助は、近松は純粋な現代劇(元禄・享保当時の人々のための同時代劇)を志向し、そのために時代物悲劇の五段形式を破壊しなければならなかったと考えているのです。そのために一幕形式のヴェリズモ・オペラの考察が非常に役に立つと考えます。

近松の世話物は三幕じゃないのかと言う人がいると思いますが・それは間違いで、これは時代物浄瑠璃の五段のうちの一段を取っているわけですから、概念的に一幕物であると考えるべきなのです。一幕三場構成ということです。「カヴァレリア」は一幕ですが、途中に間奏曲をはさんで2場構成になっています。「道化師」は二幕のオペラとも見なされますが、幕間の間奏曲をはさんで休息なしで 全曲が上演されるもので、事実上は一幕 なのです。(作曲者レオンカヴァルロ自身は本作でリコルディ社の一幕物オペラ・コンクールに応募したくらいですから、「道化師」を一幕物オペラと考えていたことは疑いありません。ただし、本作がコンクールで落選したのは、選考でこれは二幕のオペラであると判断されたからでした。)ですから「カヴァレリア」も「道化師」も、間奏曲を構成に含んだ形での「序・破・急」の三部形式の一幕オペラであると考えられます。

まずツォンディが一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定したことを 考えて見なければなりません。近松の世話物とは、事実上一幕の悲劇であり、本来ならば悲劇の主人公であるべきではない庶民が主人公であるということです。一幕物の主人公においては演劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているわけですが、「曽根崎心中」も またそうです。冒頭の観音巡りはプロローグに当たりますが、ここでお初と徳兵衛は心中する運命であることを予告し・芝居のなかでのお初の位置付けを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」であると明確に提示します。素材としてのお初と徳兵衛の心中はその一ヶ月ほど前に起きた事件であり、その結末を大坂の観客は誰でも知っていました。大坂の観客は、お初と徳兵衛が最後に心中することを承知の上で芝居を見たわけです。生玉社前でのお初と徳兵衛の会話の中で出てくる・九平次に銀二貫目を貸す件も、既定の事実です。「曽根崎心中」では、悲劇は起こるのではなく・最初から「在る」のです。(この稿つづく)

(H23・6・23)


4)「道化師」のプロローグ

「道化師」は「カヴァレリア」より2年後の作品ですが、レオンカヴァルロが「カヴァレリア」の成功を聞いて興奮して・はやる胸を抑えきれず一気に書き上げたのが「道化師」です。台本もレオンカヴァルロの筆になるものです。「道化師」の冒頭(プロローグ)では登場人物のひとりトニオが登場して・口上を勤めます。

『このドラマは「流す涙は空涙・彼らが演じる苦痛も苦悩もご心配には及びません!」というものではないのです。それどころか、作者は人生のひとコマを取り出して描いてみせようと試みたのです。作者はその信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているのです。それに 、これは本当の話からヒントを得ているのです。記憶の底にあったひとつの事件が、ある日作者の胸を震わせたのです。彼は本当に涙を流しながら・しゃくりあげながらこれを書いたのです。というわけですから、この舞台では本物の人間が、愛し合う姿と憎しみの後の悲しい結末をご覧になるでしょう。そして苦しみに悶える声や怒りわめく声、あざけ笑う声を聞くことでしょう。ですから皆様方はこの私どものだぶだぶの道化マントに心を奪われず、私どもの魂というやつをお考えいただきたいのです。なぜと言って・私どもも骨と肉で出来ておりますし、この神から見放された地球のうえに皆様と同様に呼吸しているのですから。これでこの劇のポイントは申し上げました。ではいかになりますことやら・ご覧いただきましょう。』(レオンカヴァルロ:「道化師」のトニオによるプロローグの歌詞)

*Youtubeの映像で、レオンカヴァルロ:歌劇「道化師」のトニオによるプロローグをお聴き下さい。ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウのトニオ。フェレンツ・フリチャイ指揮。名唱です。対訳付きです。

「カヴァレリア」も同様ですが、「道化師」初演も圧倒的な賛辞を受けると同時に「悪趣味で・おぞましい」という非難の声が続出しました。三面記事的な血なまぐさい事件を素材にして・「軽薄な抒情と粗雑な効果を詰め込んだ素人作品」という非難まで出ました。こうした批判はオペラハウスの常連が王侯貴族・ブルジョアなど上流階級であったということに関係があります。彼らにとって田舎というのはのんびりとして・悲劇などないところ、牧歌的で素朴なコメディがふさわしい場所であったのです。上流階級の方々は田舎の庶民の血なまぐさい刃傷沙汰などに興味はなかったのです。

主人公カニオもトニオも田舎廻りの旅芸人という社会から疎外されたところの存在です。トニオの口上にある「私どものだぶだぶの道化マントに心を奪われず、私どもの魂というやつをお考えいただきたいのです。なぜと言って・私どもも骨と肉で出来ておりますし、この神から見放された地球のうえに皆様と同様に呼吸しているのですから」という歌詞は重要です。これは旅芸人だって道化だって生きているんだ・人間なんだという宣言に他なりません。これはもちろん現代から見れば当たり前の主張ですが、しかし、こういうことは当時はあまり正面切って言えることではなかったのです。ですから作者レオンカヴァルロは冒頭に口上の形を取って・観客に対して注釈を加えたのです。 トニオの口上のおかげで、「道化師」の悲劇は「実はあるところでこんなことがあったのです」というお話しの感じになって、ドラマは客観性を帯び、その衝撃度はちょっと緩和されて・観客に受け入れ易いものになります。

このことは「曽根崎心中」での観音巡りの役割とも一致します。人形浄瑠璃を見る大坂の観客は主として町人階級ですが、お初は遊女であり・徳兵衛はいわば大坂商人の落ちこぼれでした。つまり観客にとっては正道をはずした人間であり・ 社会から疎外された人間であり、素直に感情移入することがはばかられる人間なのです。巷の事件の劇化・いわゆる際物を見る時、観客の方はある種の期待と先入観 ・あるいは偏見を以って芝居を見ようとしがちです。そのために近松が考えた仕掛けこそが、観音廻りであったと思います。お初があの世から呼び出されて、そこで「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」であると宣言されます。観音廻りによって浄化されたのはお初の魂だけではありません。当時の大坂の観客たちの心もまた浄化されたのです。(この稿つづく)

(H23・6・25)


5)ヴェリズモ宣言

人形浄瑠璃の絵番付で現存する最も古いものは、元禄16年(1703)5月竹本座で初演された「曽根崎心中」のものとされています。この番付上で人形遣い辰松八郎兵衛が次のように書いています。

『この度上演する曽根崎の心中の儀は京都におりました近松門左衛門が先月、ふっと大坂へ立ち寄りました時にこの事件に出会い、お慰みにもあろうかとこれを即浄瑠璃に仕立てたのでございます。もう既に歌舞伎でも上演されていてさほど変わるものでもありませんが、浄瑠璃では初めてでございます。』(現代語訳)

この辰松の口上では、作者近松は「ふっと大坂に立ち寄って」お初徳兵衛の心中事件に出会ったとあります。そして近松はわずか一ヶ月で「曽根崎心中」を書き上げたのみならず、それまでの活動拠点であった京都を捨てて・そのまま大坂に居ついてしまったというのです。それ以後の近松は竹本義太夫と提携して続々と傑作を送り出していったことは、ご存知の通りです。(この件については別稿「近松門左衛門・浄瑠璃への移籍」をご参照ください。)それにしてもお初徳兵衛の心中事件に出会ったことが、近松にとっては大きな転機であったのだろうということは容易に想像できます。ここで吉之助は「道化師」のプロローグを思い出すのです。

『作者はここで人生のひとコマを取り出して描いてみせようと試みたのです。作者はその信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているのです。それに 、これは本当の話からヒントを得ているのです。記憶の底にあったひとつの事件が、ある日作者の胸を震わせたのです。彼は本当に涙を流しながら・しゃくりあげながらこれを書いたのです。』(レオンカヴァルロ:「道化師」のトニオによるプロローグ)

作曲者レオンカヴァルロ自身の筆による「道化師」の口上は、そっくりそのまま「曽根崎心中」の口上にしても良いものです。レオンカヴァルロがオペラの題材にしたと語っている事件は作曲者が幼少期に身近で見たものとされてきましたが、その後の研究ではそっくりそのまま事実ということではなかったようです。近松の「曽根崎」が実説の心中事件後一ヶ月で一気に書かれたことは事実ですが、近松の「曽根崎」も実説そのままというわけではありません。それに近松の歌舞伎から浄瑠璃への移籍自体も、「ふっと大坂に立ち寄って」そのまま大坂に居ついてしまったというような単純なものではなくて、もしかしたら事前に近松からの移籍打診とか・あるいは竹本義太夫からの引き抜き工作があったのではないかというのが吉之助の想像なのですが、まあそのこと自体はどうでも良いことです。近松のなかにじっくりと長い時間を掛けて・蓄積されてきたエネルギーやアイデアが、曽根崎での心中事件をきっかけとして一気に噴出したものと考えた方が、むしろ自然ではないかと吉之助は思うわけです。それにしても「道化師」のトニオの口上は心を打ちます。これは高らかな「ヴェリズモ宣言」、つまり世話物宣言に他なりません。近松も本当に涙を流しながら・しゃくりあげながら、「曽根崎心中」を書き上げたのに違いありません。なぜならば、近松もまた、その信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているからなのです。(この稿つづく)

(H23・6・30)


6)不完全な悲劇

時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本で・能狂言の五番立ての形式を踏襲したものだと言われています。「出世景清」は貞享2年(1685)竹本座での初演で、近松門左衛門・33歳の時の作品です。「出世景清」は「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされ、本作を境としてそれ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するということになったほどの画期的作品でした。時代物の悲劇 の形式を完成したのは他ならぬ近松だったのです。

時代物悲劇では、主人公の置かれた状況をまず観客に十分説明して・何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか・これを 因果関係的に追うことで悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取ります。浄瑠璃がそこに因果応報的な色合いを強く見せるのは当時の人々の倫理道徳観が そこに反映しているということはもちろんですが、悲劇のドラマツルギーが十分に機能するために筋はどうしても因果関係的にならざるを得ないのです。こうした手続きをしっかり踏むことで、主人公が悲劇的状況に陥ることを「然り・やむなし」と観客は納得することができるのです。

 「出世景清」の阿古屋も状況のなかで自らの意思で決断し・行動し、結果として自ら破滅を選択することになる人物として描かれています。この点が中世的な語り物の系譜を引きずっていた古浄瑠璃から・新しい世界を切り開いた新浄瑠璃「出世景清」の歴史的意義です。(これについては別稿「その心情の強さ〜出世景清」をご参考にしてください。)悲劇においては、主人公はその 悲劇的状況にふさわしい重厚さが必要になります。神話や歴史に登場する王侯・武士などの人物であれば、確かにその悲劇も厳粛で荘重なものに感じられます。また芝居のスケールも壮大なものにできます。神話や歴史の人物を悲劇の主人公に取る一番の利点は、観客の方に予備知識があって因果関係が明確に意識されているということです。だから観客が悲劇を客観視できるのです。観客が神の視点に立って「これは然り」と悲劇を受け入れる立場になれるということです。

しかし、時代浄瑠璃にも庶民が悲劇に巻き込まれるという作品があります。例えば近松よりも時代は下りますが、「鮓屋」のいがみの権太の場合がそうです。時代浄瑠璃の三段目は世話場とされることが多いことはご存知の通りです。「鮓屋」は「義経千本桜」の三段目です。「鮓屋」では平家物語の世界構図が他者的存在としてあり、権太の死は本来悲劇にふさわしくない庶民の死ですが、他者が時代の構図のなかに権太の死を絡め取るという形を取るのです。つまり権太の死は他者に捧げられた犠牲であって、他者がその死を受け入れ・その罪を許すという構図になっています。つまり、厳密に言えば時代物のドラマツルギーから見れば権太の死に「鮓屋」のドラマ の本質はないことになります。(別稿「鮓屋における他者」をご覧ください。)これは確かに現代人の「鮓屋」の感じ方ではありませんが、時代物においては庶民の死はそのような扱いをされてきたということを知らなければ時代物の本質は決して分かりません。

世話物悲劇の誕生は、まさにこの認識から出発するのです。近松は庶民のための悲劇を創出するために、時代物悲劇の他者的構図を破壊する必要があったのです。このことを時代浄瑠璃を完成した近松本人ほどに痛感した人物はいなかったはずです。世話物悲劇では庶民が主人公です。しかし、近松のように作劇を知り尽くした人間から見れば 、名もない庶民に悲劇に相応するだけの重さが不足していることは歴然としています。だとすれば庶民を主人公とする悲劇を書こうとするならば、本来それは悲劇の要件を満たさないのです。世話物悲劇は、時代物 悲劇の感覚からすると「不完全な悲劇」であるということになります。

世話物悲劇の不完全さはまず五段形式の破綻となって現れます。単純な一幕形式のドラマ、それが世話物悲劇の基礎となるのです。なぜならば庶民の状況がそれにふさわしいドラマ的な重さを持たないからです。多幕形式(五段形式)からすれば庶民の悲劇は素材として軽すぎるからです。結果として庶民の悲劇は一段くらいがちょうど良い重さだということになります。世話物悲劇が一幕物となるのはそのためです。

次に世話物悲劇の不完全さは、状況を因果関係的に段取りを追って説明しないという形で現れます。主人公が悲劇的状況にあるところからいきなりドラマが始まります。ドラマは序破急のリズムで一気に展開していきます。時代物悲劇の主人公は状況のなかで自らの意思で決断し・結果として自ら破滅を選択することになる人物です。これは「出世景清」で他ならぬ近松自身が創始したパターンでした。一方、庶民の悲劇においては 幕が開いた時に既に主人公を追い込む過酷な状況があって、主人公が破滅を避けようとしてジタバタしてもその状況に大した変化はないのです。この点でも世話物悲劇は、やはり「不完全な悲劇」であるということになります。

ここでツォンディが一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定したことを想起せねばなりません。この視点で「曽根崎心中」を見ると、お初徳兵衛には主体的な意思決定の場が奪われていると見ることもできます。彼らは状況のなかに放り込まれ・そのなかでおぼれ・あがきしますが、破滅することはあらかじめ決められています。主人公が破滅すること自体にドラマ(悲劇)はないということです。破滅の過程でおぼれ・あがき・泣き・わめくところに世話のドラマ (悲劇)があるのです。そこに「これがわれわれのドラマ(悲劇)だ」と言える瞬間が近松にはあります。「曽根崎心中」の場合には、それは天満屋の場において、お初が「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」と叫ぶ場面にあることは言うまでもありません。お初はこのように叫ぶことで、本来主体的な意思決定の場が奪われたところから・逆にその権利を自分たちの方へ奪い返したということです。これが近松の世話物悲劇なのです。(この稿つづく)

(H23・7・4)


7)滑稽とは力の湧出である

『「道化師」では実に興味をそそるテーマが取り扱われている。つまり、一見すると浮薄に映る芝居の背後にも人生の真摯さがあるということ、しかも喜劇という芸術形態のみが不快で陰惨な題材に明るさを付与するものであるということである。プロローグの意味は実はそこにあり、主人公カニオのアリア「衣装をつけろ」もまた悲嘆なのではなく、むしろ力の湧出なのである。すなわち自分の人生の崩れ去った今、彼にはわずかに道化師という天職のみが残され、人間カニオは消えて・ただ道化師だけが現れる。その晩カニオは未だ生涯演じたことのない芝居を見せるだろう!喜劇話が現実の出来事と悪夢のように連鎖するに至っていよいよカニオは劇中での役柄を忘れ、村の観衆は自分たちを興奮の坩堝に巻き込む前代見聞の芝居を見る。文字通り現実主義的な芝居を体験するのだ。そして彼らは遅ればせながら、自分たちの心をむんずと掴んでいたものがもはや芝居ではなく、血まみれの現実に他ならなかったことに気づくのである。』(ヨアヒム・ヘルツ:「現実性の発見」・1958年)

「道化師」の筋を知らないとピンと来ないかも知れませんが、このヘルツの文章は非常に大事なことを指摘しています。「道化師」の有名なアリア・ 恐らくテノールのアリアとして10指に入る名アリアである「衣装をつけろ」のことです。これは主人公である道化師カニオが妻の不貞を知って悲しみにくれながら・しかし芝居の出番が迫っており・道化の化粧をしながら歌うアリアです。この後、カニオは劇中劇のなかで錯乱して妻を刺殺します。ヘルツはこの場面を「悲嘆ではなく・むしろ力の湧出である」と言います。さらに「喜劇という芸術形態のみが不快で陰惨な題材に明るさを付与する」とヘルツは言います。これをさらに言い換えれば「滑稽のみが陰惨さに明るさを付加する」ということになります。

*Youtubeの映像で名テノール・マリオ・デル・モナコの歌うアリア「衣装をつけろ」をご覧下さい。デル・モナコは20世紀後半最高のカニオ歌手と言って過言ではありません。特にアリア歌い終わった後・手鏡に映った自分の姿を見る時のカニオの表情をご覧ください。ここに歌舞伎の見得とまったく同じ瞬間を見るはずです。1961年NHKイタリア・オペラ公演。

別稿「和事芸の起源」において・「誣(し)い物語」であることの言い訳はシリアスな要素と滑稽な要素が裏表で出てくることが多いということを考えました。実はこれは洋の東西を問わず・共通して言えることです。アリア「衣装をつけろ」ではカニオは道化の化粧・衣装でこんな絶望的な気分の時に道化の芝居をしなければならないとは・・とその心情を歌います。道化の化粧とカニオの悲痛な心情との間に視覚上の非常な乖離(ギャップ)があります。その乖離に人生のグロテスクな・残酷な側面を見ることももちろんできます。現代的な感性から 見ればそう見えるわけですが、演劇的に見れば「衣装をつけろ」の場面はこれを滑稽な場面であると受け取ることもできるのです。それは主人公が道化・つまり最初から笑うべき存在だからです。乖離(ギャップ)は主人公が全身の力を振り絞って引き裂いたものの如きです。チャラチャラして・コミカルな演技だけが滑稽なのではありません。

それでは「曽根崎心中」の徳兵衛の滑稽な要素はどこにあるのでしょうか。例えば徳兵衛が序幕で九平次とその仲間にさんざんにやり込められて・惨めなさまを晒す場面です。いじめの場面は「笑えない」と思う人もいるかも知れませんが、大坂商人の落ちこぼれである徳兵衛は笑われて当然 の存在なのです。もちろんそのように近松は描いています。もうひとつは天満屋の軒下に隠れてお初が合図で差し出す足首に自分の喉を当ててみせる場面です。この場の徳兵衛は男らしくなく・どうしようもなく惨めです。この乖離(ギャップ)が、実は滑稽なのです。この乖離(ギャップ)が起爆剤になって、お初の「オオ・そのはずそのはず・いつまでも生きても同じこと・死んで恥をすすがいでは」という叫びが引き出されています。この瞬間に庶民の滑稽は悲劇に転化するのです。滑稽とは力の湧出なのです。

もうひとつ付け加えれば・カニオや徳兵衛に滑稽な要素が必要になるのは、正統的な(時代物の)悲劇の感覚から見れば・彼らにはやはり悲劇の主人公たる資格が不足しているからに他なりません。だからその申し訳に滑稽な要素が必要になるのです。これも世話物悲劇が「不完全な悲劇」であることの所以です。

「曽根崎心中」に続く近松の後年の世話物での「河庄」の冶兵衛や「封印切」の与兵衛では、滑稽の要素はもうちょっと練れた形になって出てきます。それはつまりどこかナヨナヨとした優男のイメージで、現在ではいわゆる上方和事の技法で処理される役どころなのです。しかし、最初の世話物である「曽根崎心中」の場合は近松にとってもある意味で実験でもあり・ 冒険でもあり、作者近松にもこれが当たるかどうか確信はまだないわけですから、徳兵衛を世話悲劇にふさわしい人物に仕立てるために・特に手探りで慎重に人物作りをしたと思います。徳兵衛にシリアスな要素が強く感じられるのはそのせいです。(これについては別稿「和事芸の多面性」をご参照ください。)しかし、徳兵衛の惨めさのなかに滑稽の要素を見るならば 、そこに冶兵衛や与兵衛の上方和事との共通項を見出すことが出来ると思います。逆に言うと、冶兵衛と与兵衛の和事の演技の滑稽さのなかにももっとシリアスな要素を見ることも可能になってくるでしょう。上方和事に新しい表現の可能性が見えてくるはずです。(この稿つづく)

*ヨアヒム・ヘルツの論文「現実性の発見」は名作オペラ ブックス・27に収録されています。
名作オペラブックス(27)カヴァレリアルスティカーナ/道化師(音楽之友社)

(H23・7・8)


8)再び因果応報の世界へ

『西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)

時代浄瑠璃の形式を完成させたのは他ならぬ近松門左衛門でしたが、「曽根崎心中」以前の悲劇というものは、主人公が次第に悲劇的状況に陥り・やがて破滅にいたるまでの因果応報を、段階的かつ論理的に描き出すものとされていました。悲劇はその状況を背負うにふさわしい人物・すなわち歴史上の人物が主人公になるものとされており、だから悲劇というのは常に時代物と決まっていました。ところが、名もない庶民にも悲劇的状況はあると感じていた近松はそこに安住しなかったのです。真の人間ドラマを描きたかった近松は、敢て時代物悲劇の枠組みをぶっ壊す挙に出ました。それが「曽根崎心中」という世話物悲劇の実験であったのです。本来は悲劇にふさわしくないとされた庶民が悲劇の主人公となった瞬間です。

しかし、近松の死(享保9年)後、時代が経つと心中ブームの熱狂も去って世の中が急速に保守化していきます。近松の実験の衝撃も薄れて行きます。近松の盛名は依然として高かったけれども、一気に心中へ流れ込んでいく人物の熱い心情が次第に理解されなくなっていきます。ドラマがあまりにストレート・単純に過ぎて、筋が説明不足のように感じられるのです。主人公が悲劇的状況に追い込まれていくための必然がもっと欲しいということになってきます。「その6」で世話物悲劇というのは不完全な悲劇だと云うことを指摘しましたが、ドラマの衝撃性が薄らいでくると・今度はまさにその不完全さが気になって来るのです。際物(当世の事件を題材にした・いわば三面記事的芝居)の場合は時代が経つと観客の記憶も薄れてきますから、背景説明を十分にしなかればならないということもあります。

この為、近松の作品は初演以降は人形浄瑠璃でも歌舞伎でも原作通りに上演されることがほとんどなく、もっぱら改作によって上演がされて来ました。例えば正徳5年(1715)・近松存命中のことですが、お初・徳兵衛十三回忌に豊竹座で上演された「曽根崎心中十三回忌」は紀海音の改訂によるものでした。徳兵衛は友人九平次に銀二貫目という大金を貸したが・これを騙し取られ、そのために窮地に陥り、ついには心中に至るということに改変がされました。現在、宇野信夫脚色により上演されている歌舞伎の「曽根崎心中」はこの再演本をテキストにしています。つまり 、お初徳兵衛の無実の罪に陥れられたわけです。ふたりはホントは死ななくてもいいのに・心中に追い込まれてしまったということになります。観客はお初徳兵衛は可哀想だと言って同情して・たっぷり泣けるように作りかえられたということです。初演本にあるお初徳兵衛が心中に向けて突っ走る熱さは失われてしまいます。しかし、こうすることで世話物悲劇はそのドラマの不完全さを補うことができると、当時の芝居の関係者は 多分そのように考えたのでしょう。その後の世話物悲劇は再び多幕物への道を歩むことになります。主人公が破滅に追い込まれるための十分な手続きが施されるようになります。しかし、それは世話物悲劇の主人公を再び因果応報の世界へ引き戻すことになってしまったわけです。

(H23・8・22)


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