(TOP)             (戻る)

「鮓屋」における他者〜時代と世話を考える・その2

〜「義経千本桜・鮓屋」


○今回は「鮓屋」を考えてみたいと思います。「権太は自分の命と家族を犠牲にしたけれども・すべて梶原に見抜かれていて・権太の行為は徒労であった」と書いてある 解説が多いようですが。

まず「鮓屋」の場を考える前に、「義経千本桜」全体の構造を考える必要があります。大序において壇ノ浦で討ったはずの知盛・維盛・教経の三人の首が偽首であったという謎が義経に対して突きつけられるのです。「義経千本桜」はこの三つの謎を 各段でひとつひとつ解いていくという歴史ミステリーの物語です。知盛の件は二段目「渡海屋・大物浦」で、教経の件は四段目・「吉野・花矢蔵」で解き明かされますね。「鮓屋」では維盛の偽首の件が明らかにされる わけです。維盛は鮓屋の弥助となって生きていた。そして、その後、頼朝の情けによって高野山へ密かに落ち延びるというのが「鮓屋」の本筋ということになります。となると、いがみの権太の行為はその過程の脇筋ということになります 。

○いがみの権太の犠牲的行為は維盛を高野山に落ち延びさせるための捨て石であったということですか。

非情に言えば・そういうことになりますね。権太の犠牲は時代物の枠組みに絡め取られてしまうのです。全体を見ればそういうことになります。しかし、「権太の行為は徒労 」であったかどうかというのはまったく別の問題です。分けて考えなければいけない問題です。「鮓屋」というドラマのなかには、ふたつの流れがあるのです。

○ふたつの流れとは何でしょうか。

ひとつは、ドラマを時代物の構造に集約させるもので・維盛の偽首の謎を解くものです。これはもちろん「義経千本桜」全体から来るものですね。もうひとつは、ならず者のいがみの権太が最後に良いことをして死んで行ったという筋です。これは世話の領分ですね。 権太の件は「義経千本桜」全体から見れば脇筋ですが、「鮓屋」だけをみればこれがもちろん主筋です。しかし、最後になって・時代が主役の位置を奪い返すのです。これが「絡め取る」という古典劇の構図です。

○「絡め取る」という古典劇の構図はどういう意味を持つのですか。

世話場において描かれる様々な人間ドラマ・多くの場合は悲劇であるわけですが、この犠牲を他者が「然り」として受け取るということです。その犠牲とは捧げ物であり、他者はこれを当然なものとして受け取るのです。

○世話の悲劇を無意味化するということでしょうか。

そうではありません。他者(神あるいは為政者)が・これを受け取るにふさわしい価値があるものと認めたということです。それが「然り」という感覚です。道徳的に見て正しい・倫理的に見て美しいという行為が「然り」とされるのです。つまり、他者から見 た時に、いがみの権太の犠牲的行為は美しかったということです。権太が認められたということです。だから、権太の行為は徒労であったという見方はまったく間違いですね。「 鮓屋」のドラマのなかにあるふたつの流れをごっちゃにして見ているから、そういう見方になるのです。

○時代と世話のふたつの流れが並行してして、最後は時代の流れが主筋となって幕を閉じるという図式ですね。

その通りです。こうして見ると「鮓屋」にはふたつの「許し」が見られます。ひとつは、ならず者になって・家を飛び出した権太が良いことをして・父親弥左衛門についにお前は この家の息子だと認められるという許しです。この場合の父親は世話場の他者なのです。ただし、その許しを得るために権太は死ななければならなかったということです けれどね。もうひとつの許しは、鮓屋に弥助となって身を隠していた維盛が・高野山でひっそりと余生を送ることを頼朝に許されるということです。これが時代のドラマの流れです。しかし、このふたつの流れが幕切れで融合していく場合に大事なことを忘れてはなりません。

○大事なこととは何でしょうか。

「平家物語」に拠れば、維盛は屋島の陣屋を抜け出して各地を転々としますが、寿永3年3月28日に熊野沖でひとり寂しく入水をとげます。若葉の内侍と六代君は捕われて ・六代君は斬られる。これが歴史的事実なのですから、史実にドラマのつじつまを合わせなくてはならないのです。そうでないと「鮓屋」のドラマは決着がつきません。つまり、維盛一家の代わりに死ぬ者が必要 になると言うことです。

○そこで権太一家が登場してくるわけですね。

維盛の偽首は小金吾の首が鮓桶のなかにあるからこれを使えば良い。若葉の内侍と六代君の代わりは、権太女房小せんと息子善太が勤めるということです。この代償があって、初めて他者は ドラマのなかで維盛一家を許すことが出来るのです。

○この場合の他者とは梶原の背後にいる源頼朝なのでしょうか。

直接的にはそう見てよろしいでしょう。しかし、「鮓屋」だけでなく・「義経千本桜」全体を見れば、もっと大きい他者的存在を想定せねばなりませんね。何と言えば良いでしょうかね、それは「平家物語」全体を貫いているところの無常の歴史観なのです。神という言葉を使っても良いかも知れませんが、漠として大きく・この世の中全体を貫くものです。

○そうなると権太の死というのは「鮓屋」のなかでどういう意味があるのですか。

権太の死は「鮓屋」のなかの時代のドラマの流れには無関係なのです。権太はあくまで「鮓屋」の世話のドラマのなかでの主役であって、時代の流れの中で幕が閉まる時には脇となりますね。つまり、最後に世話の流れが時代の流れに圧倒されていくところに、時代物としての「鮓屋」の非情があると見てもよろしいでしょう。

○つまり、権太一家は時代の犠牲になったということですか。

犠牲になったということは「徒労であった・役に立たなかった」という意味ではないのです。権太一家の犠牲はしっかりお役に立ったのです。だから、維盛一家を救うことができたわけですよね。このように「鮓屋」のふたつのドラマは最後にひとつになるのですが、権太の死は世話のなかで読まねばその意味が見えてこない。

○父親弥左衛門についに認められるという世話の流れですね。

父親に認められた時には、権太は死なねばならないということですけどね。歌舞伎の「鮓屋」の場合ではカットされていますが、丸本には弥左衛門が権太を許す重要な言及があるのです。弥左衛門は内侍のお供として出立しようとしますが、これに婆が「これつれない親父殿、権太郎が最後も近し、死に目に逢うてくだされ」と言って留めようとします。これに対して弥左衛門は泣きながら、次のように言います。「現在血を分けたせがれを手にかけ、どう死に目に逢われようぞ。死んだを見ては、一歩も歩かるるものかいの。息あるうちは叶わぬまでも助かることもあろうかと、思うがせめての力草(ちからぐさ)。留めるそなたが胴欲。」

○息子の死に目を見ないことで・弥左衛門のなかで権太は生きつづけるということになるわけですね。

出立せねばならない父弥左衛門もまた時代のなかに絡め取られていくということでもありますね。弥左衛門は「広い世界に嫁一人(ひとり)、孫といふのもあいつ一人ぢやはい。」とも言っていますね。父親のこうした言葉があるからこそ、権太一家は救われるのです。それでは「鮓屋」全体を踏まえたうえで、細部を見て行きましょう。

○「鮓屋」のなかで最初に時代が顔を出す場面はどこでしょうか。

弥左衛門が外出から戻り、「アヽイヤ、只今奥へ呼びましよ」と行く弥助を引き止め、内外見廻し表を閉め・上座へ直し手をつかへるという場面です。ここで歌舞伎では「たちまち変わる御装(おんよそお)い」という竹本が入って、弥助が維盛に変ってシャキッとするわけです。「鮓屋」のこの場面までは時代の要素はまったく見えませんね。

○「たちまち変わる御装い」という文句は丸本にはないのですね。

この文句は歌舞伎の入れ事ですね。まあ、こういう文句がないと気分が変わるきっかけが掴めないということでしょうかね。弥助が維盛に変ると言っても衣装が変るわけでないので、ここで雰囲気を時代にガラリと変えるのが役者の腕ですね。しかし、維盛に変ってあまり凛としてしまってもマズイのですね。維盛は潜伏して兵を挙げる機会を狙っているわけではないのです。世を捨てているのですから、半分死んでいると言ってもよろしいです。ただお育ちの良さはある。

○この場面から梶原の登場まで時代は再び顔を出さないように思いますが。

時代はあまり出てきませんね。これでお分かりの通り、権太の件はまったく世話で処理してよろしいのです。梶原が登場してからも、権太は時代を拒否して・どこまでもふてぶてしく世話で行っていいのです。梶原が「小気味のよい奴」と言うくらいにね。対する梶原は古怪に時代で行きたいですね。これで時代と世話というふたつの流れの対決という構図が明確になるのです。ここが大事な点ですね。

○権太の演技が時代に傾く場面があるでしょうか。

歌舞伎の音羽屋型にはじつに良い場面がありますね。権太が縛られた女房倅に向かって「面見せろ・・」と言ってふたりの顔を上げさせて・梶原に見せる形がそうです。これは見得とは呼ばないと思いますが、権太の引き裂かれた思いが見事に形象化されている決定的な場面です。これは世話の見得と呼んでも良いものです。この瞬間に権太の演技がグッと大きく時代に傾きますね。

○ここでの権太の引き裂かれた思いというのは、どんなものですか。

この瞬間の権太の思いは、自分の女房倅を犠牲に供するという血を吐くような哀しみと・ここをし遂げなければ自分はないと言う引き裂かれた思いです。つまり、自分に対して重圧を強いるものがあって・権太の感情は押しつぶされている。それが時代の様式になって現われるのです。

○権太に重圧を強いるのは非人間的な論理ということですか。

いや、ここで言う重圧(プレッシャー)は梶原から掛けられているものではないのです。権太が自ら望んで・自分に掛けている重圧ですよね。だから「鮓屋」の時代の流れから来るものではなく、世話の流れから来る重圧なのです。しかし、表面に現われてくる 形象としては、ここでの権太の形のように・時代の見得と同じような様相を呈すのですね。ここが面白いところです。権太は父親に自分を認めてもらうために、父親が匿っている維盛をどこか安全なところに逃がしてやろうと考えた・それであの大博打を考えたということです。権太は維盛のために・つまり封建論理のために犠牲的行為を行ったように表面上は見えますが、 本当はあくまで自分のためですよね。だから、自分の女房倅を犠牲に供するということはもちろん非人間的行為なのですが、それは世話の流れ・権太自身が持っている倫理感から来るものです。だから、非人間的行為=封建論理で押し付けられるものとだけ考えると「鮓屋」を見誤ってしまいますね。もうひとつ大事なことがあります。

○大事なこととは?

女房小せんと倅善太の思いは権太と同じであるということです。一家は一身同体なのです。権太が父親弥左衛門に許されて・息子であると認められるということは、小せんが 鮓屋の嫁であると認められて・善太は孫であると認められることです。だから、 その夢に向かって一家は協同して・権太の大博打に参加するわけです。自分の女房倅を犠牲にすることは、自分を犠牲にすることと同じです。とすれば、この大博打が成功するにしろ・失敗するにせよ、権太は結局死ぬしかないのではないでしょうか。権太は父親に認めてもらうことだけで十分報われるのです。

○権太は最初から死ぬつもりだったのでしょうか。そう言えば権太はどこで改心するのかというのも問題ですね。

いろいろ疑問が沸いてきますが、この「鮓屋」という芝居は近代劇を見るように心理を積み上げながら構築していくようには出来ていないのですよ。例えば最初に権太が「鮓屋」に現われるのは母親から金を巻き上げるためと見えますが、手負いの権太の述懐を聞くと実はそうではなかったようですね。そうすると細部でよく分からない矛盾したところがボロボロ出はじめます。だから、これはあんまり深く考えない方が良いようです。「鮓屋」は極端なことを言えば・梶原相手に大博打を仕掛け・これに怒った父親に斬られるという局面がまずあって・これが誤解であったというサプライズと愁嘆場があり、この前に長い段取りが付いているという構造なのです。その場その場の局面がバラバラで・整合性を持っていないのです。もちろん 芝居であるから出来る限りの整合性は取らねばなりませんが、それより局面の面白さが優先するのです。こういう作者の無責任はもちろん権太の件が主筋ではないから出来ることですね。

○筋が前後しますが、銭の入った桶と間違えて・小金吾の首の入った桶を持って・権太が 鮓屋を飛び出す時の場面はいかがでしょう。

この場面は観客は権太が桶を偶然取り違えたと思うでしょう。もちろん芝居ではそういうことになっていますが、しかし、ここでもし権太が桶を間違えなければ、この後の筋の展開は全然違ってしまうわけですね。 その後の権太の大博打はあり得ないということになります。ということは結果論として見ると、権太は間違えるべくして・桶を間違え たことになるのです。後から思えば、そういう風に芝居が作られていることが分るのです。だから、この場面は「鮓屋」においてならず者の権太が善人に転ずるきっかけであったと考える必要がありますね。

○桶を間違えた偶然から権太の改心が引き出されるということですか。

奇妙なことですが、そういうことになりますね。何かのお導きみたいに・権太は桶を必然的に間違えて・改心してしまうのです。こういうドラマはウェルメイド・プレイ的ですね。まあ、深層心理的に見れば、そこに放蕩息子・権太の破滅衝動があった・だから権太は桶を間違え るべくして間違えたと見ることも出来るかも知れません。そう考えると、花道での桶を小脇に抱えた権太の見得もその間違いの必然性を表現しているように見えてきますね。

○権太が桶を小脇に抱えての見得に特別な意味があるのでしょうか。

権太が母親から騙り取った銭を桶に入れて・持ち帰って逃げたとすれば、この時点では権太は桶のなかには銭が入っていると思っていますから、そうすると花道七三での・あの権太の大見得は何だか滑稽な感じがしませんか。事実、ここで観客は 少し笑うでしょ。ならず者がまんまと銭を騙り取った場面とすれば・この小者にこんな芝居掛かった大見得は本来ふさわしくないものなのです。そこに感覚的なギャップがあるのです。そのギャップを感じるから、観客は笑うのですよ。そして、この観客の感じ方が正しかったことが後で証明されます。観客はあそこで権太が大見得をしなければならなかったのはこの為であったのかと後で分るのです。

○それはどういうことでしょうか。

後で思い返せば、権太はここで桶を間違え・小金吾の首を持って大見得しているわけです。つまり、この時点で権太の「モドリ」は既に始まっている・ここから権太は善人に転じ始めているということです。「鮓屋」のドラマ がもう急旋回を始めているのです。そのことに権太本人さえ気が付いているかどうか分りませんが、この運命の転機が権太に大見得をさせたのだということです。音羽屋型は実によく出来ていますね。

(後記)

別稿「放蕩息子の死」「モドリの構造」もご参考にしてください。

(H18・11・19)



 

   (TOP)           (戻る)