放蕩息子の死〜権太の死の意味
〜「義経千本桜・鮓屋」
1)かたりの人生
「鮓屋」を考える時、この芝居は「義経千本桜」の三段目として仕組まれていますから、維盛の偽首の謎を解くのがこの芝居の目的で、「弥助として鮓屋にかくまわれていた維盛が頼朝の情けによって出家する」というのが本筋になります。これに絡む権太の悲劇というのは脇筋であって、本質的にはその悲劇は「平家物語」の世界とは関係がありません。もちろんシチュエーションとしては重盛・維盛親子に絡んでいます が、権太は一介の市井のごろつきであってその行為の根源は「平家物語」に何の関係もありません。「鮓屋」はよく上演される人気狂言ですが、このことが「鮓屋」を理解しにくいものにさせていると思います。
「権太の死は無駄であった」というのは歌舞伎のほとんどの解説本に出てくる解釈です。しかし、本筋から見れば権太の行為・権太一家の犠牲は決して無駄ではない・立派にお役に立っているということは別稿「なぜ「 鮓屋」に義経は登場しないのか」で考察しました。こういう誤解がどうして起こるかというと、当の権太が死ぬ間際の「及ばぬ智恵で梶原をたばかったと思ったが、あっちが何にも皆合点。思えばこれまでかたったも、後には命をかたらるる。種と知らざる浅ましと、悔やみに近き終わり際」という文章から来ていますが、これも本筋と脇筋の関連をごっちゃにして考えているからこういう誤解になるのです。
権太の行為を「平家物語」に絡めるために「千本桜」の作者は、父親弥左衛門の前職は船頭であって・重盛が大唐育王山に三千両を寄進しようとしたのを盗んだ盗賊であった ・本来は命がないところだがこれを重盛が許してくれた・その後弥左衛門は吉野へ行って鮓屋を開いた・ところが親の因果が子に報いたか息子の権太郎は「いがみの権太」と呼ばれるならず者になってしまった(注:以上は初演本の設定による)という伏線を引いています。これが弥左衛門が維盛(重盛の長男)をかくまう理由になっているわけですが、権太の行為を考える時にはこれは忘れてもいい事柄です。当の権太さえも知らない事情なのですから。
権太は維盛を救おうと思って一家を犠牲にする行為をした訳ではありません。このことは権太自身が手負いにあってから苦しい息の下でこう告白しています。「この度性根を改めずば、いつ親人のご機嫌に預かる時節もあるまいと、打って替えたる悪事の裏」、つまり権太は親に認めてもらいたかったということなのです。権太は何かの理由あって父親が維盛をかくまっていることを知り、「父親に褒めてもらいたい」という個人的理由のために権太は一家を犠牲にして維盛を助けようとしたのです。その行為に政治的背景は一切ありません。
「権太の死が無駄であった」という人は、梶原が去った後、もし弥左衛門が息子を刺し殺さなかったとしたら、権太が平安に生き永らえていられたのかを考えてみたらいいと思います。愛する女房小せんと息子善太を犠牲にしてしまった権太が、たとえ父親に褒められたとしても、それで満足してその後の人生を送れたとでも思っているのでしょうか。権太は死なねばならなかったのです。父親に殺されたかったのです。そして、権太は父親に殺されるように自分で仕向けたのです。父親に殺されて(罰せられて)死ぬ間際に父親に認めてもらえばそれでいい ・そう思って打った大博打があの行為だったということです。
こう考えた時、死ぬ間際の権太がなぜ「及ばぬ智恵で梶原をたばかったと思ったが、あっちが何にも皆合点。思えばこれまでかたったも、後には命をかたらるる。種と知らざる浅まし」と嘆いたのかが理解され ます。権太は父弥左衛門の胸のなかに抱かれて「出かした、権太郎、天下の梶原をたばかったお前こそは日本一の大かたりじゃぞい」と涙ながらに言ってもらって死にたかった、ということです。それがお前の人生だったと最後に認めてもらって死にたかったということです。だからこそ権太にとっては「ざまあみろ、梶原をたばかってやったぜ」という快感が必要だったということです。
しかしそれはならなかったのです。すべて梶原は見通していました。権太の命を賭けての一世一代の大博打は、すべて見抜かれて「平家物語」の世界に絡め取られてしまったのです。だから権太は「思えばこれまでかたったも、後には命をかたらるる。種と知らざる浅まし」と言って嘆いたのです。自分のかたりの人生の果てがこういうことだったのかという嘆きなのです。
ここで「千本桜」の作者は非情なほどに、権太の死を突き放しています。しかし弥左衛門が「息子よ、出かした」というような安易な形で幕にしなかったことで、権太の悲劇は深くなり、いっそう鮮やかに人々のこころに刻まれるのだと考えなければなりません。
2)家族の気持ち
「権太は父親に認められたかった」、ドラマはここから発しています。つまり権太は父弥左衛門に反発してならず者になったが、常に家庭への回帰願望は持っていたということです。逆に言えば、だからこそその焦燥感が権太をますます悪事に走らせることになったと考えられるわけです。この権太の気持ちを、女房小せんと息子善太がどう感じていたかというのが次の問題になります。
小せんの出身ははっきり書かれてはいませんが、「椎の木」での夫婦の会話から商売女であったことは明らかで最低の身分であったと推察されます。権太は「俺の盗みかたりは皆うぬ(小せん)からおこったこと」と言って、昔、父親の言いつけで御所の町へ使いに来て小せんを見かけて惚れこみ ・盗みをしてその金を入れ揚げたのが悪事の発端だと言っています。これは普段から権太の盗みかたりに心を悩ませている小せんにはこれはズキッときたと思います。これが小せんが彼女自身の手で権太を更正させねばならないと考えた伏線になっているようにも思われます。
さらに権太の家庭回帰願望と同様に、育ちが不幸であったと思われる小せんも同様に家庭への帰属願望を持っていたと思われます。「この村で口も利くお方」であった弥左衛門の 鮓屋は、彼女にとっては憧れの地でありました。しかし夫である権太が勘当同然であり更正のきっかけがつかめない状態では、彼女がその家の「嫁」と認められることは決してあり得ない。だからこそ権太が「父親に認められるために死ぬのを覚悟で打った大博打」に彼女は乗ったということ です。(息子善太の気持ちも同様だと考えてよろしいでしょう。)そこに権太一家の追い込まれた・悲しいほどに逼迫した精神的状況が見えなければ、この権太一家の犠牲の意味が見えて きません。
3)父親の気持ち
こうした息子一家の命を賭けた訴えに父弥左衛門はどう答えたかということが最後の問題になります。
権太の死に際をみた維盛は高野山への出家を決意、若葉の内侍と六代の君は文覚上人のもとへ出立します。弥左衛門も内侍のお供として出立しようとしますが、これに婆が「これつれない親父殿、権太郎が最後も近し、死に目に逢うてくだされ」と言って留めようとします。これに対して弥左衛門は泣きながら、次のように言います。
「現在血を分けたせがれを手にかけ、どう死に目に逢われようぞ。死んだを見ては、一歩も歩かるるものかいの。息あるうちは叶わぬまでも助かることもあろうかと、思うがせめての力草(ちからぐさ)。留めるそなたが胴欲。」
これによって権太一家はついに弥左衛門一家への帰属を認められます。弥左衛門の心のなかでは権太は死なないまま残るということになるのです。「最後の大博打」の快感はならなかったけれども、弥左衛門の言葉で権太一家は救われることになります。
この弥左衛門の科白は歌舞伎では省かれますがこれは非常にまずいことで、この弥左衛門の科白がなければ権太一家が救われないことになってしまいます。歌舞伎の「鮓屋」を見て観客が混乱 するのは、こうした改悪によって権太の悲劇の意味が曖昧になってしまっていることにも原因があります。この弥左衛門の最後の科白がいかに重要であるかは、「義経千本桜」が延享4年・竹本座において初演された時、弥左衛門の人形を名人吉田文三郎が遣ったという事実によっても証明されます。文三郎はこの時、知盛・弥左衛門・忠信の三役を遣っています。それほどに弥左衛門は重い役なのです。
しかし芝居は終らなければなりません。「千本桜」全体の流れからすれば所詮は弥左衛門・権太親子の嘆きも個人的なものにすぎないのです。すべては「平家物語」の世界のなかに絡めとられて、すべては清いものにされて終っていくということです。これが「鮓屋」の悲劇の構造です。
(H13・10・28)