機械的なリズム
平成9年9月・歌舞伎座:「二人椀久」
五代目中村富十郎(椀屋久兵衛)、四代目中村雀右衛門(松山太夫)
*本稿は吉之助の音楽ノート・プロコフィエフ:バレエ音楽「ロメオとジュリエット」としてもお読みいただけます。
1)機械的なリズム
平成19年初春にNHK教育テレビで放送された「スーパー・バレエ・レッスン」のビデオをとても興味深く見ました。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールであるマニュエル・ルグリが熱心に若手ダンサーを指導していて、そのバレエに賭ける情熱が伝わってきます。平成19年2月放送のレッスンはプロコフィエフ作曲のバレエ「ロメオとジュリエット」第1幕フィナーレの有名なバルコニー・シーンでした。振り付けはパリ・オペラ座で使用されているルドルフ・ヌレエフによるものです。
興味深く感じたのは、レッスンは当然ピアノによる伴奏ですが・これによりプロコフィエフの音楽(1936年作曲)の骨格が明確に分かったことです。バルコニー・シーンはガラ・パフォーマンスで もよく取り上げられる有名な場面ですが、プロコフィエフの音楽がこういう引き裂かれた音階とリズムで出来ていることに改めて感じ入りました。オリジナルの管弦楽曲版であると・バルコニー・シーンはその色彩的な響きによってその前衛的な要素が隠されてしまうようで・もっとロマンチックで幻想的に聴こえるようです。若い恋人たちの逢瀬の場面だから当然ロマンチックだと聴く方が思って聴くせいもあるかも知れません。
シェークスピアの原作では第2幕第2場に当たる・このバレエ第1幕のバルコニー・シーンはジュリエットはロメオが自分の家(キャプレット家)と敵対するモンタギュー家の一員だと知った後の場で あり、芝居ではジュリエットが有名な台詞「ああ、ロメオ、どうしてあなたはロメオなの」を言う場面に当たります。ふたりは自分たちの恋が親たちからは祝福されないことを最初から薄々感づいており、逆に言えばそのことが返って彼らを燃え上がらせることになります。つまり、このバルコニー・シーンは最初から引き裂かれているのです。そうしたふたりの宿命が半音階と不協和音を通奏低音のように配したプロフィエフの音楽から明確に浮かび上がってきます。こういうことがピアノで演奏されると、骨格として明確に見えて来るのです。これは白黒写真の方がカラー写真よりもコントラストが強烈に来ることによく似ています。まず「バルコニー・シーン」のレッスンで面白かったのは、冒頭で庭に散歩に出てくるジュリエットの登場の箇所で・ルグリがジュリエット役の生徒に「君の歩き方は何だか機械的だ、もっと自然に歩いて」とアドバイスしていたことです。半音階と不協和音のゆっくりしたリズムで始まるプロコフィエフの音楽冒頭には確かに機械的に歪んだ雰囲気が聴こえます。それを感じ取って・生徒は身体で表現したのだと思います。この音楽の感じ方は正しいのです。しかし、それを舞台のダンサーがそのままストレートに視覚的に表現してしまっては、ルグリの指摘するように・何と言いますか・野暮なのでしょうね。ロメオのことを想いながらロマンチックな気分に浸るジュリエットをダンサーが自然に演じる方がその背後で鳴る機械的なリズムとの視覚的ギャップが出て・引き裂かれた印象がもっと強く出るというわけです。
それにしてもプロコフィエフの音楽は半音階の揺れるリズムが通奏低音に使われていて、それがとても興味深く感じられます。恋して踊るふたりの周囲の空間が明滅して歪みながら・不気味に・ゆっくりと回転しているように感じられます。この機械的な基本リズムがとても重要です。その歪んだ揺れるリズムがロメオとジュリエットのふたりの祝福されない関係を暗示しているわけです。
(H19・5・14)
2)すれ違いの関係
ヌレエフ版の「ロメオとジュリエット」はヌレエフ自身が優れたダンサーですから、他の振り付けより男性パート・ロメオの動きに重点を置いた振り付けになっているのが特徴です。ヌレエフ版で特に印象に残るのは、バルコニー・シーンの最初の方で(ジュリエットがロメオの存在に気付くまで)・ロメオがジュリエットを追い駆ける場面です。ロメオはジュリエットが右に行くと右に行ってピルエット(回転)し、ジュリエットが左に行くとまたそれを追って左に走ってピルエットします。
ロメオがジュリエットを追い駆ける場面についてルグリはロメオ役の生徒に「ジュリエットに見えないように・その背後にすばやく回り込むように」とアドバイスしていました。これは演じる側へのアドバイスですから当然そのようになりますが、ロメオはジュリエットを驚かせるために・後ろに隠れようとしているわけではないので・実はむしろその逆なのです。ロメオは自分がここにいることをジュリエットに懸命に知らせようとしているのに、ジュリエットの方は無邪気に自分の気持ちに忠実に振舞っていて・ロメオの存在にまったく気が付かないのです。そこにロメオとジュリエットの関係がさりげなく示されています。
これは「すれ違い」と言って良いと思いますが、ロメオの方がジュリエットをひたすら追っており、しかも、何となく「自分が自分が・・」と急いているような感じがあります。一方のジュリエットはその後も余裕があると言うか・若干冷静な感じがします。そこにふたりが引き裂かれている感じがよく出ています。ヌレエフはプロコフィエフの音楽をよく聴きこんでいるなあと感心するばかりです。今回バルコニー・シーン のいくつかの振り付けをビデオで比べて見ましたが、この冒頭部分はヌレエフの振り付けが抜きん出て素晴らしいと思います。ヌレエフ版と比べると・他の版はジュリエットがロミオと出合って・一緒に踊り出すまでの過程が平凡に感じられます。
ヌレエフ版で視覚的に感じられることは別稿「かぶき的心情と「・・und(と)」」でも触れた「・・und(と)」の関係です。男性の方は「私が・・私が・・」とばかり言って・自分のことばかりで・ひたすら死の方向へ突っ走ろうとするのですが、女性の方は「その愛はあなたと私と言う関係ではないのですか」と冷静に指摘します。女性にとっては愛は「私」でも「あなた」でもなく・ふたりは「・・と(und)」で結び付けられねば意味がないのです。そこに男性と女性の意識の微妙なすれ違いが見えてきます。 このすれ違い関係は「ロメオとジュリエット」の結末に決定的に作用してきます。
(H19・5・16)
3)「二人椀久」の歪んだリズム
ここで急に思い付いて・舞踊「二人椀久」のビデオ(平成9年9月歌舞伎座)を見てみました。狂乱舞踊の椀久物のなかでも古いものですが、現在これが人気作品になっているのは 当代富十郎・雀右衛門のコンビに由るところが大きいことは言うまでもありません。その大筋は松山太夫との仲を裂かれて狂乱した椀屋久兵衛が松山太夫との華やかかりし頃の幻影をみて一緒に踊りますが・やがてその幻が消えて・ひとり舞台上に取り残されて泣き伏すというものです。この久兵衛と松山の関係も相手が実現されることのない幻ですから、これもやはり「すれ違い」です。それは久兵衛の「私が・・私が・・」の意識が生み出す幻です。
「二人椀久」で特に人気があるのは、松山太夫の幻が現れて・しばらくしっとりとしたやり取りがあった後、「按摩けんぴき按摩けんぴき・さりとはひきひきひねろ」の部分辺りから軽快なリズムで浮き立つような廓の賑わいが描写される部分です。リズミカルな踊りに人気があるのもさもありなんと思いますが、日本舞踊でこれほど早い定間のリズムが前面に出るのは珍しいようです。実はこの部分がこのような斬新な急テンポになったのは昭和31年9月明治座で富十郎と雀右衛門がコンビを組んで初めて踊った時以来のことだそうで、それ以前はそれほどの早間ではなかったのです。恐らくはアズマカブキ(昭和29年の吾妻徳穂によって行われた海外公演・富十郎の「二人椀久」はこの時が初演で・その時の松山太夫は母・吾妻徳穂でした)の影響があるのでしょう。まあ、悪く言えば観客に媚びた下世話な感じがしなくもないですが、この部分からは「戦後」の匂いがぷんぷんして来るようです。
いずれにせよ・定間のリズムが前面に出ていることが重要です。軽快なリズムに惑わされてしまいますが、この部分は歪んでいるのです。恐らく本来のもう少し遅いリズムならばそこのところが明瞭に出るような気もしますが。やはりこのテンポはちょっと早過ぎるようです。この舞踊が人気があるのもそれ故なのですけどね。この軽快なリズムは決して久兵衛が内側から湧き出す喜びのなかで踊るものではないのです。このリズムは久兵衛が何ものかに弄ばれていることを示しているのです。機械的な揺れるリズムが久兵衛を操って・踊らせていると言うことです。
長唄の三味線のリズムは、プロコフィエフの音楽を聴いた後ですと・その音階が意外に近いと感じられます。まあ、聞き比べて見てください。速度の違いはありますが、その半音階とリズム性が邦楽と現代西洋洋楽でこんなに近く感じられるものかと思います。「二人椀久」が戦後の新しさを感じさせるのは、やはりその早い定間のリズムなのですね。
「按摩冥利に叶うて嬉し」辺りから久兵衛が右に行くと・松山が左へ行くという風に久兵衛と松山の動きが次第にズレ始めます。松山は幻でありますから「実」がないのは当然のこと。やがて松山の姿は消えうせ、「私が・・私が・・」という久兵衛の一方的な想いはすれ違って、遂に受け取られることはないのです。
(H19・5・19)