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「歌舞伎素人講釈」を読むためのガイド

女形(おんながた)


1)女形とは「女性の形(なり)をした・女性ではないもの」

女形は「女方」とも書きますが、「女方」とは女性の役を勤める役者という意味で・それはその通りですが・その言葉に含むところがない。「女形」という場合それに加えて「女性の形(なり)をした・女性ではないもの」というニュアンスがあると思います。シェークスピアの時代の英国演劇では女性の役を少年俳優が演じました。これを侮蔑した呼び方として「男女(おとこおんな)」と言います。シェークスピアの「十二夜」では男装したヴァイオラが「ああ、哀れな男女(おとこおんな)の私・・」と自分を嘆く嘆く台詞は原文では「I, poor Monster」となっています。歌舞伎の女形はそれ以上の化け物なのです。だから「歌舞伎素人講釈」では「女形」の書き方で統一しています。

*シェークスピア演劇の少年俳優については「演劇におけるジェンダー」を参照 。少年俳優の演じる女性は歌舞伎の女形とはちょっと感じが違います。それは「軽やかさ」の本質を持っているのです。


2)女形とは政治の圧力で曲げられた不自然な産物である。

歌舞伎以前の芸能・能や狂言でも男性俳優が女性を演じたということはご存知の通り。(このことには宗教的な意味合いがあると思われるが・そのことは今は置きます。) だから歌舞伎でも男性が女性を演じるという芸能の伝統を引き継いで・その流れの上で当然のように男性が女性を演じるようになったと思ったら、これは全然違います。歌舞伎は慶長8年(1603)に出雲のお国と呼ばれる女性が踊った「かぶき踊り」から発したと言われています。創成期の歌舞伎は女優参加で始まりました。ホントの歌舞伎は女優参加の演劇になるはずでした。それが寛永6年(1629)幕府の弾圧によって女優の芝居への参加が禁じられ「若衆歌舞伎」へ・さらに「野郎歌舞伎」に変化せざるを得なかったというのが歌舞伎の歴史の教えるところです。つまり、歌舞伎の女形は「女優の代用」として・仕方なく生まれたものでした。幕府の政治的圧力により・人為的に曲げられて出来た・不自然な化け物が女形なのです。

*女形の発生については「女形の哀しみ〜歌舞伎の女形の宿命論」を参照 。女形はその本質のなかに「本質を奪われた」という哀しみを秘めているのです。


3)写実を目指した創成期の歌舞伎は女優を禁止されたことで頓挫した。

大事な認識はこの世には男がいて女がいる・それで世の中が出来ているのだから、演劇が世相を写実に映そうと思えば・男が男を演じる・女が女を演じるのが自然であるということです。(別の演劇史観もあり得ますが、女形を考える場合にはこの演劇史観が基本です。)創成期の歌舞伎は女優参加の演劇をめざし・写実を志していました。ところが、女優が禁止されたことで・歌舞伎は方向転換をせざるを得ませんでした。つまり、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止によって、創成期の歌舞伎の写実の理想は頓挫したのです。これを「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の1回目の死」と呼んでいます。

*「歌舞伎の1回目の死」については「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」を参照。「歌舞伎の2回目の死」 とは明治36年の九代目団十郎の死です。歌舞伎と江戸との精神的なつながりがここで絶たれたことになります。この「歌舞伎は二度死んだ」という史観が「歌舞伎素人講釈」の重要な認識です。

以上の歌舞伎の女形の成立過程を踏まえた時、次のふたつの認識が引き出せます。

・男性俳優が女性を演じることでは同じでも、能・狂言の女役と・歌舞伎の女形は似て非なるものである。
・「女性が男性を演じる宝塚の男役は女形と同じ性転換の方法論である」と言われることがありますが、これは間違いである。

歌舞伎とは既に出来始めた「女優」という概念が政治的に否定されたことで・仕方なく生まれたものですから、女形の存在の原点には「本質を奪われた」というネガティヴな意識があります。女形にはつねに「否定・喪失・剥奪」の意識がつきまといます。能狂言の女役に「本質を奪われた」という否定的な要素が全くないことはすぐ分かると思います。能狂言の女役と・歌舞伎の女形とは流れが切れているのです。逆に宝塚の男役は見る者に「力と歓び」を与えます。両方とも歌舞伎の女形とはまったく異なるものだと考えなければなりません。

*女性が男性を装うことの「力と歓び」については「演劇におけるジェンダー」を参照。 このことはフロイト心理学的に見ても興味深い材料となるでしょう。

*出雲のお国以前の女性の芸能参加と言えば・平安末期の白拍子が挙げられます。白拍子もまた成年男子の服装をした性別越境の一例です。「本当は怖い道成寺」を参照。


4)その後の歌舞伎は女形をどう生かすかという形で発展していく。歌舞伎の表現を女形が規定することになる。

仕方なく生まれたものでも・女役がいなければ芝居が出来ません。だから歌舞伎は芝居のなかで女形をどう生かすか、言い換えれば芝居全体のなかで如何に女形の芸を不自然に見せないように 位置つけるかという形で発展していくのです。女形の表現に合わせる形で・立役の芸自体が連動して変化していきます。つまり女形が歌舞伎の全体の表現を規定していくことになります。(この件については「歌舞伎素人講釈」で更に具体的に検証をしていく予定です。)

*女形が「女らしさ」を剽窃するために如何に努力をしたかについては「永遠に女性的なるもの〜バロック的なる歌舞伎」を参照。特に初代芳沢あやめと、その三男である・初代中村富十郎は女形の歴史を考える時に非常に重要な存在です。


5)女形の本質としての「実のなさ」

女形にはつねに「否定・喪失・剥奪」の負の意識がつきまといます。これを日本の伝統の流れのなかにどのように位置付け、また江戸と言う同時代にどう位置づけるかということが問題です。そのキーワードは「実のなさ」にあります。(この件については「歌舞伎素人講釈」で更に具体的に検証をしていく予定です。)

*女形の控えの戦略については「をむなもしてみんとて」を参照 。女形の在り方は、紀貫之以来の日本文化の控えの戦略の流れの上にあるのです。

*江戸の消費社会の「実のなさ」については「破滅のパラダイム」を参照 。急速に消費社会化していく江戸時代の「実のなさ」と女形の「実のなさ」は同時代的にシンクロしているのです。

女形の「実のなさ」が、女形の技法にどのような形で反映しているかと言うと・ざまざまな分析が出来ますが、ひとつは内輪歩き、姫・娘役の袂(振袖)の扱いなどです。「・・・じゃわいなあ」という装飾語尾も「実のなさ」の反映です。((この件については「歌舞伎素人講釈」で更に具体的に検証をしていく予定です。)

*内輪歩きの技法については「内輪歩きを考える」を参照。内輪歩きは初代富十郎が編み出した技法で、これを「美しい」を思った巷の女性たちがこぞって真似して拡がったのです。それまでの女性は外股で歩いたもので・歩き方に性別はなかったのです。

*振袖の扱いについては「振袖について考える」を参照。内輪歩きや振袖の技法については世相史・服装史などが複合的に絡みます。そのような要素の関連のなかで考えなければなりません。

美しいものは見た目も美しくなければならぬのか〜〜四代目中村雀右衛門小論」は、歌舞伎の女形について、最も大事な見た目の美しさは大事なことなのか」と云う問いについて考えたものです。

キャスリーン・フェリアの声〜女形の声を考えるヒント」は、歌舞伎の女形にとって「女らしさ」を表出する最も重要な武器である「声」について考えたものです。「女らしさ」を表現するために、歌舞伎の女形が志向する声とはどんな声なのか?


6)悪婆について

「否定・喪失・剥奪」の負の意識を持つ女形は鬱屈した気分を内面に持っているものです。時にはパーッと発散する役もしてみたくなります。そうした役どころが女武道であり・悪婆なのです。

*これについては「源之助の弁天小僧を想像する」を参照。弁天小僧が悪婆の延長線上にあることは、女形の歪(ひず)んだ本質が分からないと理解ができません。類型的であった歌舞伎の役柄が次第に多様化していく過程をここで知ることができます。


7)女形不要論について

明治になって・自然主義演劇の考え方が西洋から入って以来、歌舞伎の女形は不自然で・否定されるべき存在として・常に批判の波にさらされてきました。今日においては女形は歌舞伎の魅力を代表するものとして認知されています。(この件については「歌舞伎素人講釈」で更に具体的に検証をしていく予定です。) 昔はあれほど論議された女形不要論は昨今は不思議なほど消えてしまいました。これは歌右衛門・あるいは玉三郎の功績だと思います。しかし、歌舞伎の表現を考える時に女形の歪(ひず)んだ本質は理解しておかねばなりません。だから、「歌舞伎のなかで女形は本来あるべきものではなかった」という認識はとても重要なことなのです。

*これについては「歌右衛門の今日的意味」を参照。戦後日本を代表する名女形・六代目歌右衛門のなかの危機美のなかに現代の女形の本質を見る。歌右衛門が女形不要論とどのように戦い、女形を世間に認知させたかを考えます。

(R2・5・10更新)



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